原子力”善悪”二分法の罠

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

法律

3・11からの復興を見ていて痛感するのは、日本社会の理想像が変わったということだ。復興後の着地点として思い描かれるイメージは、列島各地がかつて追いかけていた夢とはだいぶ異なる。高度成長期なら、大工場の誘致合戦が起こったかもしれない。バブル期なら、豪華リゾートの開発競争に火をつけたかもしれない。だが今、大資本も余力がなくなった。頼みの綱は草の根だ。そのゴールに見えるのは地産地消の町だったりする。

ところが、理想像が変わらない一角も今の日本社会にはある。原子力ムラだ。2011年の東京電力福島第一原発事故後、ムラの景色は一変した。福島第一では、汚染水の処分先が決まらず、廃炉の先行きも不透明だ。ほかの原発も稼働の条件は厳しくなり、廃炉が決まったものも少なくない。原子力に対する世間の目は冷ややかで、「原発ゼロ」派もふえた。だが、ムラビトは昔のまま、一つの信仰にしがみついているように見える。

で今週は、先々週の『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)をもう一度とりあげる(2021年3月5日付「原発事故は想定外だったのか」)。この本では「原子力のすべて」と題する終章に、ムラの信仰の根深さを知る手がかりがある。

著者は終章冒頭で核爆弾や原子力潜水艦を例に挙げ、原子力利用は「『軍事利用』つまりは『悪用』に端を発した」と切りだす。そして、米国や英国、フランスなどの当時の原子力事情を概観して、そこに「軍事利用の優先」を見てとる。こうしたなかで、日本のみが「軍事を完全に切りはなし、『平和利用』一本槍で進んで行く」路線をとっている、というのだ。これは、戦争か平和かを問う軸だけでみれば、称賛に値することだろう。

だが著者は、その見方に落とし穴があることに気づいていた。ここでもちだされるのが、「原子力は両刃の剣」という常套句だ。それを「戦争にも平和にも使える」と読みとって終わりにしてはいけないと戒め、「平和だけの目的で使う時にも原子力はやはり『両刃の剣』だ」と断じている。「平和利用」にも二面性があるとの指摘だ。理由は、この技術がエネルギーとともに「放射能という人類にとって最もこわいものを生ずるから」にほかならない。

日本の科学技術論議は戦後しばらく、戦時中の軍事研究への反省もあって、軍事は悪、民生は善という二分法にとらわれていた。当時の原子力ムラに欲得がらみ、利権がらみの思惑が渦巻いていたのは間違いないが、それだけではなかったのだろう。自分たちは「『平和利用』一本槍」という自負があったのだと思う。だが、科学技術の善悪は何のために使うかだけでは決まらない。”善用”イコール善と早とちりしてはいけないのだ。

このことにいち早く気づいた点でも、著者は新聞記者として一歩先を行っていた。技術は民生用でも害悪をもたらすことがある――その事実は1960年代、私たちがいやというほど見せつけられた。公害である。著者は60年代初頭、公害という言葉が広まるのに先だって、原子力に公害的なリスクを感じとった。裏を返せば、世間は原子力「軍事利用」の怖さに気をとられ、「平和利用」でも避けられない害悪を見逃していたとも言えよう。

この終章を読むと、「軍事利用」と「平和利用」――すなわち「悪用」と”善用”――の二分法が、日本の原子力政策の初期条件に組み込まれていたことがわかる。たとえば、著者がこの章で引用した原子力基本法第2条を見てみよう。1955年成立時の条文だ。これは原子力の研究、開発と利用に対して「民主」「自主」「公開」の3原則を求めたものとして有名だが、大前提として「平和の目的に限り」という条件が課されている。

この条文を見て、私は一瞬、あれっ、と思った。原子力の安全に触れていないが、それでよかったのか? 本を離れてネットを調べた結果、興味深い事実を発見する。総務省のe-Gov法令検索を試みると、現行の第2条では「平和の目的に限り」の後に「安全の確保を旨として」という第二の条件が付け加えられている。衆議院のウェブサイトから、その文言が1978年の法改定時に追加されたこともわかった。「安全」は後づけの条件だったわけだ。

1978年と言えば、反公害のうねりが列島の各地で起こり、反原発運動も高まったころだ。私自身も記者としての初任地福井県で、その動きを現認した。あのころからようやく、私たちは原子力について、平和か軍事かだけではなく、安全か危険かの座標軸でも考えるようになった。安全かどうかの座標は、エコロジー志向か否かの座標とも重なってくる。こうして原子力利用の是非は、環境問題の論点の一つになったのである。

ここで私たちは、不幸な符合に気づく。1970年代は、原発建設が全国津々浦々で進んだころに相当する。原子力をめぐって安全論争が始まるよりも前に、そしてエコロジーの文脈で議論が交わされるよりもずっと早く、原発列島は既成事実になっていた。

これも後日談だが、原子力基本法は3・11原発事故後の2012年にも改定された。第2条には第2項が新設され、くだんの「安全の確保」が何に「資する」ものかが明文化されたのだ。そこには「国民の生命、健康及び財産の保護」「環境の保全」と並んで「我が国の安全保障」という文言も添えられた。「安全保障」は、当時野党だった自民党の主導で盛り込まれた。原子力はどこまでいってもキナ臭さにつきまとわれている……。

ともあれ今や、原子力は「安全の確保」を二つの条件の一つとするようになった。これは、平和利用であっても「生命」「健康」「財産」「環境」を守れないとわかったなら断念すべきことを暗に言っている。“善用”イコール善の信仰にとらわれているときではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月19日公開、通算566回
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