ゴールディングの烽火は何か

今週の書物/
『蠅の王』
ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化

レンズ

孤島の少年たちの物語を今週も。長編小説『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化)。英国少年の一群が飛行機の遭難で取り残された場所は、太平洋の無人島だった。そこに一つの社会が生まれて……という話だ。

先週は、ほら貝の話をした。その殻は、主人公ラーフが礁湖の底から拾いあげたものだ。ラーフは相棒のピギーにそそのかされて、それに息を吹き込む。深い響きに誘われて、島のあちこちに散っていた少年たちが集まってくる。「集会」が召集されたのだ。社会の原風景と言ってよいだろう。彼らは指導者を決めることから始めるが、ほら貝によってみんなを呼び寄せたラーフが選ばれる。ほら貝は何か? 民主主義の象徴らしいと書いた。

今週は、烽火の話をしよう。ラーフは、さすが指導者らしく、少年たちの未来を構想していた。島の山頂に火をおこして烽火をあげるのだ。沖合を通る船がそれを見つければ、遭難信号のSOSと受けとめて救助に来てくれるだろう。自分たちが置かれた状況を冷静に考え抜いた末の現実的な方針だ。私は先週、話のまくらで英国人には〈火事場の馬鹿力〉があると書いたが、ここには緊急時の〈馬鹿力〉ならぬ理性力が見てとれる。

ただ、烽火をあげるのも簡単ではない。最大の問題は着火だ。マッチはない。少年たちが目をつけたのがピギーの眼鏡だ。それで集光して火をつける。ここで気になるのは、近視用の凹レンズでは光が集まらないことだ。ピギーは遠視かなにかで凸レンズを使っていたのか。だが、そのことに言及はない。著者はオックスフォード大学で理系学生だったこともあるというのに……そんなところにこだわらないのは、この小説の寓話性ゆえだろう。

ともかくも火はついた。次にラーフは、「烽火の番」を決めることを提案する。火を絶やしたら、そのときに船が通り過ぎて救助の機会を逸するおそれがあるからだ。この任務を引き受けようと手を挙げたのが、合唱隊のリーダー格で今は狩猟隊を率いるジャックだ。自分の仲間を班分けして、今週は「アルト組」、来週は「ソプラノ組」(少年たちの合唱隊だから声域が「アルト」「ソプラノ」なのだ)というように輪番で火を見守る、と申し出る。

この時点で、ラーフの指導体制は安定していた。彼が「ほら貝のある所」を集会場とみなすという規則を提案すると、ジャックをはじめ少年たちもそれに賛成した。こうして法治のしくみが整っていく。「ほら貝」は、ここでも民主主義を示す一つの記号だった。

だが、ほら貝民主主義にもほころびが見えてくる。ある日、ラーフが水平線に煙を見つけたときのことだ。それは、船舶が通過中であることのしるしだ。ところがこのとき、山上に烽火が見えないではないか。山に登ると、やはり火も煙もなかった。見張り役もいない。千載一遇の好機を逃したのだ。ラーフは沖へ目をやり、遠ざかる船に向かって「引っ返すんだ!」と叫んだ。はらわたが煮えくり返る思いで「畜生!」と悪言も吐いた。

やがて、狩猟隊の面々が下から登ってくる。「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。血ヲ絞レ」と歌っている。棒を担いで豚1頭を吊りさげている隊員たちの姿も見える。ジャックは山頂に登り切ると、ラーフに向かって「どうだい! 豚をしとめたんだぞ」と自慢する。ラーフから「きみたち、火を消してたじゃないか」となじられても、狩りの成功に酔いしれている。「血がどくどく流れちゃってさ」「あの血をきみに見せたかったよ!」と動じない。

「船が沖を通ったのだぞ」。ラーフは彼方の水平線を指差して言う。そのひとことは、ジャックをもひるませた。このとき山頂にはピギーも来ていて、ジャック批判に加勢する。「きみはなんだといえば、すぐ血のことばかりいうじゃないか」「ぼくたちは、イギリスに帰れたかもしれないんだぞ――」。救いの手につかまりそこなった現実は、狩猟隊の少年たちにも動揺を与える。ジャックは、最後には謝罪の言葉を口にすることになる。

この山上の一幕は、ほら貝民主主義の社会が二派に分裂したことを見せつける。一方は、「烽火」という唯一の通信手段に希望を託して一刻も早く母国の土を踏もうと考えるラーフ・ピギー派。他方は、「狩猟」という当座の悦楽に浸ろうとするジャック派。前者は、いわば理性派。自分たちは近代社会の一員であるという強い自覚が感じられる。後者は野性派か。「すぐ血のことばかりいう」性向は原始生活への回帰を思わせる。

そのあたりの寓意を、著者は巧妙に私たちに伝えてくれる。理性を象徴するものは、ピギーの眼鏡。山上のにらみ合いで、ジャックはピギーをひっぱたき、眼鏡が吹っ飛んで片方のレンズが割れてしまう。それによって、烽火の着火は「わずかに残った一枚のレンズ」が頼みの綱ということになった。一方、野性の象徴は、狩猟隊のいでたちだ。狩りを終えてから山上に現れた彼らは「ほとんどみな素っ裸」で、ジャックは顔一面に粘土を塗っていた。

この寓意から私たちが連想することは多い。たとえば「烽火」は、地球温暖化を抑えようという機運にたとえてもよいだろう。これに対しては、化石燃料の恩恵を手放したくないという人々がいて、その一群を「狩猟」の快楽に走る一派になぞらえることもできる。

「狩猟」の一派が戦果を見せびらかせて悦に入る様子は、世界から戦争がなくならない状況を暗示しているのかもしれない。「烽火」がレンズ1枚に頼ることになる筋書きは、賢明な問題解決策でさえ危うさがつきものであることを示唆しているようにも思える。

ゴールディンの島は、どこかの列島であっても決しておかしくない。私たちの社会にも理性と野性が併存する。私たちの心にもラーフやピギーやジャックが棲みついている。
*引用中のルビは原則として外しました。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月2日公開、通算568回
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