チャペックの疫病禍を冷静に読む

今週の書物/
『白い病』
カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊

白いマスク

去年、コロナ禍の前途が見通せなかったころ、私の本漁りは混乱した。世を覆う暗雲は無視できない。その一方で、生々しい話からは目をそらしたい気分もあった。たとえば、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房、2020年4月刊)は、その緊迫感ゆえに当欄で直ちにとりあげたが(2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)、買い込んだままページを開くのをためらっていた本もある。

戯曲『白い病』(カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊)は、その一つだ。著者(1890~1938)はチェコ生まれの作家。代表作「R・U・R」はロボットという新語を生みだした戯曲で、AI(人工知能)時代の到来も予感させる。

チャペックと言えば、私はその著書『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(飯島周編訳、平凡社ライブラリー)を話題にしたことがある(「本読み by chance」2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。それは、排他的な移民政策をとる権力者が米国に現れる未来を予測していた。そして実際、この拙稿公開から1年後、国境を壁で閉ざす政策を掲げたドナルド・トランプ氏が米国大統領に就任したのである。

大した予言力だ。それは、チャペックがもともと新聞記者だったことに由来するのかもしれない。作品の主題は、個人の心の襞や愛憎ではない。ジャーナリストの鑑識眼で社会を読み解き、それにいくつかの仮定を施して次の時代を見通す。さながら、コンピューターを用いた数値実験のようなものだ。その作家が、この戯曲では疫病禍をとりあげている。私たちが直面するコロナ禍の先行きが暴かれているようで、ちょっと怖いではないか。

さて、そんなふうに怖気づいてから半年ほどが過ぎた。今も、コロナ禍は深刻なままだ。特効薬がない、病床確保が十分ではない、という状況は変わらない。ワクチン接種が始まったことだけが明るい材料だが、半面、ウイルスの変異株が次々に現れて心配な雲行きだ。一つだけ明言できるのは、あとしばらくは――たぶん、それは年単位の話だろう――ウイルスとワクチンの攻防が続くということ。そんな全体像だけは認識できるようになった。

ならばきっと、半年前よりもこの作品を冷静に吟味できるだろう。そもそも、ここに描かれる「白い病」は架空の疫病だ。しかも、作品が発表されたのは1世紀前の1937年。DNAの立体構造発見(1953年)よりもずっと前のことだから、感染の有無を遺伝子レベルで調べるPCR検査はなく、蔓延の様子を正しく把握することも至難の業だった。病原体の正体はわからず、伝播経路も追跡できない。とりあえず、今のコロナ禍とは別の話だ。

さっそく、戯曲の中身に入ろう。この作品で、著者は疫病流行時の世相を模式化して描いている。それは、いわば社会の縮図だ。登場人物には、最高権力者と思しき元帥がいる。爵位を有する軍需産業の経営者もいる。二人一組で産軍複合体の象徴か。医学界には、大物の大学病院教授。この人は、国の「枢密顧問官」でもある。新聞記者も出てくる。中流家庭の家族も顔を出す。そして陰の主役が、変わり者扱いされる医師ガレーン博士だ。

まずは、この病の素描から。教授は記者の取材に答える。「皮膚に小さな白い斑点ができるが、大理石のように冷たく、患部の感覚は麻痺している」。罹患の徴候は「大理石のような白斑(マクラ・マルモレア)」だが、皮膚病ではない。「純粋に体内の病」であり、数カ月後に敗血症で亡くなる人が多いという。治療は「適量の鎮静剤を処方すること」。対症療法しかないということだ。教授は、この現実を記者にはわからない用語を使って言う。

教授によれば、この疫病は「白い病」と呼ばれているが、正式名称は症例報告者の名に因んで「チェン氏病」。初症例が見つかったのは「ペイピン」の病院だという。ペイピンが「北平」なら北京の旧称だ。教授は、中国では「興味深い新しい病気」が「毎年のように」出現していると言い添える。黄禍論の影響も感じとれる。だが一方で「貧困がその一因」との認識も示しているから、作者の帝国主義批判の表出と読めないこともない。

チェン氏病は、すでに世界的な大流行、即ち「パンデミック」の様相を呈している。500万人超が亡くなり、患者数は1200万人にのぼる。世界人口が今の3分の1のころだから単純には比較できないが、死者数が数百万人規模である点は今回のコロナ禍と共通する。

さらに注目したいのは、教授が「白い病」のパンデミックが見かけより大きいとみていることだ。報告された患者数の3倍以上の人々が「斑点ができているのを知らずに世界中を駆けずり回っている」――と教授は指摘する。斑点は無感覚だから感染に気づかない、多くの人は知らないうちに感染拡大に手を貸している、ということだ。これは、コロナ禍で無症状の感染者がウイルスの伝播に一役買っている現状を連想させる。

このことは疑心暗鬼も呼び起こす。それは、教授が自室でひとりになったとき、ふと漏らす独り言からもうかがわれる。ト書きに「立ち上がって、鏡の前に立ち、注意深く顔を眺める」とあり、「いや、ないな。まだ、出てはいないな」とつぶやく。教授は新聞記者に対しては、医学の権威としてチェン氏病の蔓延を客観的に論じていた。だが内心を覗けば、自分自身も感染しているかもしれない、という疑念を拭い去れないでいたのだ。

もう一つギクッとするのは、「白い病」が年齢限定であることだ。教授は、感染が45歳、あるいは50歳以上に限られるとして、人体の経年変化「いわゆる老化」がこの疫病に有利な条件もたらすという見解を披瀝する。今回の新型コロナウイルス感染症には、罹患年齢にはっきりした区切りはない。だが、高齢者が重症になりやすいという傾向は早くから言われてきた。著者は、疫病禍が老若の断絶を明るみに出すことも見通していたのである。

この戯曲では、一家団欒の会話にもこの軋轢がもちだされる。父が「五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない」と不満を漏らすと、娘は辛辣に応じる。「若い世代に場所を譲るためでしょ」。息子も、この世代交代論に乗ってくる。国家試験のために受験勉強中の身だが、先がつかえていれば合格しても職がないというのだ。「でも、もうすこし長生きしてほしいけど」と言い添えているから、半ば軽口ではあるのだが……。

病気そのものの話は、このあたりで打ち切る。さて、ガレーン博士とは何者か? 大学病院で教授と面談する場面では、自分は地域医療の医師で、「とくに、貧しい方の診療をしています」と自己紹介している。その実践のなかで「白い病」の治療法を見いだしたという。数百人に施したところ、回復率は「六割ほど」。そこで、臨床試験を大学病院で試みたいと願い出る。教授は上から目線で聞き流していたが、興味がないわけでもなさそうだ。

ガレーンには強みがあった。彼はかつて、教授の義父の助手だったのだ。義父は医学界に君臨した人物。その有能な弟子だったらしい。そうと知って教授も嘆願を受け入れる。とりあえず、治療費が払えない患者が集まる13号室での治験を許すのだ。

実際、その治療効果は目を見張るものだった。元帥は「奇跡と言ってよい」とほめる。教授は当初、ガレーンが治療の詳細を明かさないことに怒り、「君は、自分の治療法を個人的な収入源と捉えている」となじっていたが、元帥の称賛には「身に余る光栄」と悦に入る。

この戯曲で最大の読みどころは、そのガレーンのたった一人の闘いだ。ネタばらしになるので、筋は追わない。ただ一つ言いたいのは、彼が「白い病」の治療法――その正体は「マスタードみたいな黄色い液体」の注射薬らしい――の独占を企む動機が、物欲でも栄誉欲でもないことだ。最終目的は悪事ではない。それどころか、善意に満ちている。ただ、善のために医療行為を駆け引きのカードにしてよいか、と問われれば議論は分かれるだろう。

これを読んで私は、コロナ禍の行方が今、ワクチンに左右されている現実を思う。ワクチンが巨大な知的財産であること、外交の切り札になること、今や安全保障の必須要件でもあること……そんな力学が際立つ時代の到来を、チャペックの『白い病』は暗示していた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月9日公開、同日更新、通算582回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

4 Replies to “チャペックの疫病禍を冷静に読む”

  1. 尾関さん、

    なんとタイムリーな本の紹介でしょう。いろいろ考えさせられます。

    医師という職業の社会における役割はなにか? 医者の使命はなんだろうか? 新型コロナの流行は、そんな基本的なことを、人々に改めて考えさせたのではないでしょうか。

    誰かを救う。人間の生命のために戦う。それが医者なんだと人々が改めて認識したのではないか。切迫した医療現場で命を削りながら、一人でも多くの人を救おうとしている医療従事者がたくさんいることに気づかされた。そう思っている人は多いのではないか。

    一方、医者と称する政治家たちがたくさんいることにもわかってしまった。自分たちの利益のために、そして製薬会社や医療機器メーカーも含めた運命共同体の利益のために意見を言ったり提言をしたりする人たちの存在に気付かされてしまいました。

    でももっと重要なことは、誰の命が優先されるのかとか、誰の利益が優先されるのかという、普段は考えないことが表面に出てきてしまったことではないでしょうか。

    80年以上前のガレーンも、今の私たちも、なにが優先されるべきかという問いを持ち、答えを探り、自分なりの答えを持とうとする。からだの弱い老人を優先するのか、将来のある若者を優先するのか。富むものを優先するのか、貧しいものを優先するのか。そういう問いから誰もが逃げようとしているように見えます。

    医療は富む者のためという傾向が顕著になってきていたところに新型コロナの流行が来て、平等という概念が息を吹き返してしまった。

    老人の医療が肥大化しているところに新型コロナの流行が来て、ワクチン接種は老人からという順位付けをしてみたけれど、果たしてそれでよかったのか、疑問は残ります。

    病床が足りなくなった時、多くの国では躊躇なく若者を優先しましたが、日本でそれができるかどうか。

    政治家の思惑と医者の思惑、医療倫理と経済論理、情報を伝えるジャーナリストたちの競争と情報を受け取る人々の感情、情報過多と情報の欠乏、情報の錯綜と情報管理など、白い病の頃となにも違わない現実があります。

    問いばかりが増えてしまった。そして誰も答えを出したがらない。政治家にも医者にもハンドルできない状況はこれからも続くのではないでしょうか。

    ジャーナリストたちがもっと「どんな倫理が守られるべきか」とか「なにが優先するべきか」というようなことを書いてくれればと思うのですが、そうもいかないのでしょうか。

    1. 38さん
      《ジャーナリストたちがもっと「どんな倫理が守られるべきか」とか「なにが優先するべきか」というようなことを書いてくれればと思う》
      耳に痛いですね。
      優先順位の提示は昔以上に難しくなっている。
      記者が、ソーシャルメディアの反応を気にして、踏み込んだことが言えなくなっている、という事情もあるように思います。
      一つの可能性は、フィクションですね。
      下手な優先順位をつけると大変な事態になる、ということを思考実験で示す――。
      ジャーナリズムにフィクションを組み込むという方法論でも、チャペックは先駆的であったように思います。

  2. 尾関さん

    『白い病』の発表が1937年。ということは、チャペックはスペイン風邪世代。戯曲の背後にパンデミックを生き抜き、その実相を知る彼の体験を感じます。

    ワクチン(医療)が外交の切り札になったり、安全保障の必須要件にすらなる力学、そんな力学が際立った時代に私達が生きているとする尾関さんのまとめが心に残りました。

    その医学や医療に関して言えば、私の目下の関心事であり懸念はゲノム編集による生殖医療です。既に海外ではHIVに感染しない子供を誕生させたという主張があり、それを事実として倫理面からの規制強化の動きがあるようです。

    しかし、その規制はあくまでも約束事であり、しかも、科学技術や医療技術には絶えず高みをめざす力が内在しているとすれば、とても楽観的にはなれません。

    もし、多くの面でより優れた人間を生み出すゲノム編集技術が確立した場合、その編集者はこれを商業的価値に変換する誘惑に勝てるでしょうか。そして、その価値を知った夫婦は?

    まずは闇市場の誕生がひとつのシナリオとして心に浮かびます。これは、38さんのご指摘のように貧富の問題をより鮮明にするでしょう。そして闇市場は表の市場にとって代わられ、倫理が後退し欲望の拡大が容認される。あまりに悲観的なシナリオでしょうか。

    紛争が絶えず覇権主義が跋扈する中、「オリンピックは世界をひとつにする平和の祭典」と連呼し続ける神経が分かりません。ドーピングの問題を見るだけで、オリンピックの実態は国威発揚の場であることは明らかです。ならば、ゲノム編集で金メダルベイビーを量産しようという国がでてきても不思議ではありません。

    ファラデーやエジソンは世界に大きな恩恵をもたらしました。その恩恵の最大化を求めた世界は現在、地球規模の環境危機に瀕しています。エジソンはそんな現在を予見できなかったでしょう。

    ゲノム編集の技術が外交的優位に立つためのツールになるかは分かりません。難病を克服するための恩恵を生むでしょう。しかし、倫理が後退してしまったあと、将来、ヒトはヒトであり続けることができるでしょうか。ゲノム編集者達の想定もしなかったような悲劇的な状況にならぬことを願うばかりです。

    1. 虫さん
      片や、ゲノム編集。
      こなた、新型コロナウイルス感染症禍。
      私たちは今、大変な時代にいるのだと思います。
      コロナは、医療に「公的な視点」をもたらしました。
      たとえば、社会防衛のために自らの生活を規制する。
      あるいは、集団免疫に近づくために、ワクチン接種が可能な人に接種を奨励する。
      一方、ゲノム編集は、個人の罹患リスクに対応できる技術なので「個別化医療」の文脈で語られることが多かったように思います。
      ところが、この技術に「公的な視点」がへんなふうに入ってくると、とんでもない事態が起こりかねない。
      虫さんが言われる《ゲノム編集で金メダルベイビーを量産しようという国がでてきても不思議ではありません》という危惧もその一つです。
      いよいよ、生命倫理を組み立て直さなくてはならない時代に入ったのではないか――私は最近、そんなふうに考えています。

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