世界が違うとはどういうことか

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

枝分かれ

今週も引き続き、『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)を読む(当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える」)。

先週も書いたことだが、量子力学について専門家を質問攻めにしていると、途中で疎外感に襲われることがある。ここで「専門家」というのは、物理を数式で考えられる人のことだ。当方にはそれができないから、必死でイメージを頭に思い浮かべようとする。最初は、なんとなくわかった感じになるが、あるところから先へ進めなくなる。挙句、「量子力学は日常世界のイメージでは理解できないんですよ」――そんな通告を受けてしまうのだ。

その壁を突破したいというのが、量子力学に関心を寄せる素人の切なる願いである。同じ思いの人は少なくない。友人知人のなかには、果敢にも高年齢になってから量子力学の方程式を学ぶ人がいる。私も、数式を眺めて雰囲気を感じとるくらいの水準には達したい。ただ、今さら数理の技を身につけようとは思わない。それよりはやはり、量子力学をイメージしたいのだ。絵画にだって具象画だけでなく抽象画というものがあるではないか!

これは、決して高望みではないらしい。この本の著者は、量子力学を「説明できないもの、理解できないもの」とする通念を取っ払いたいという立場を本文中で鮮明にしている。幸いなことに、そしてありがたいことに、専門家にも強い味方が現れたのである。

この本は、ひとことで言えば量子力学の解釈にかかわる書物である。邦題の副題にある通り、教科書的なコペンハーゲン解釈を批判的にとらえ、これまで異端とされてきた多世界解釈の強みを浮かびあがらせている。ここではまず、先週のおさらいをしておこう。

多世界理論では、波動関数のみを世界の現実とみる。それは、方程式に従って刻々変化していく。これを波動関数の時間発展という。そこにあるのは決定論だ。コペンハーゲン解釈のように確率論で物事が決まったりはしない。波動関数は観測によって、観測する側とされる側が一体となったものの重ね合わせになる。このとき、観測者は――あなたや私も――どんな状態を観測したかによって分岐している。世界も観測者も、枝分かれしたのである。

さて、いよいよ本題に入る。先週よりももう一歩深く、多世界解釈に踏み込むことにしよう。今週は、観測とは何か、観測によって世界が分かれるとはどういうことか――この2点について、イメージを思い描くことにこだわりながら考えていこうと思う。

まずは、観測について。ここで出てくる用語が「デコヒーレンス」だ。これは、状態の重ね合わせ(これを、コヒーレントな状態という)が壊されることを意味する。著者によれば、この概念が1970年、ドイツの物理学者ハインツ・ディーター・ツェーから提案されると、多世界解釈にとって「必須の要素」になった。デコヒーレンスは、観測で「波動関数が収縮して見える理由」を教えてくれる。そこに「『観測』とは何か」の答えもある。

一般論で言えば、デコヒーレンスの主犯は周辺環境だ。聴き入っている音楽が窓の外を走るオートバイの爆音でぶち壊しになるように、量子世界の状態の重ね合わせは周りの騒々しさによって台無しになる。だから、重ね合わせを情報処理の仕掛けに用いる量子コンピューターでは、その部分を周辺環境から遠ざけることが求められている。著者はこの本で、周辺環境の存在が観測という行為と密接不可分であることを述べている。

前回も書いたように、量子世界の観測では観測する側とされる側が量子もつれになる。今回、新たに考慮に入れるのは、観測する側が世界から孤立していないということだ。この本では、電子に具わるスピンという性質を見てとる観測装置が登場する。これは、スピンが上向きなら目盛り盤の針が左に振れ、下向きなら針は右を指す――というように作動する。この装置にも空気の分子や光の粒(光子)がぶつかっていて、相互作用が生じている。

ここで、空気や光などは「環境」と呼んでよい。量子力学の言葉で言えば、観測装置は空気や光などと相互作用することで「環境と量子もつれの状態」にある。このときに見落としてならないのは、「環境」が漠然としていることだ。「光子などの粒子をすべて追跡するなど、誰にだってできない」。そこで「厳密に何がどうなるか」はつかめない。観測装置と環境との量子もつれは把握不能――これこそがデコヒーレンスの本質であるらしい。

これは観測装置にとって、もつれる環境が一つに定まらないことを意味する。量子もつれごとに相手となる環境が異なるのだ。その結果、装置はそれぞれの環境に引きずられてしまう。ここに世界の分岐がある。著者の見方を私なりに理解したのは、そういうことだ。

では、スピンの観測で何が起こるかを時系列でたどってみよう。観測前、電子は〈スピン上〉と〈スピン下〉が重ね合わさるコヒーレントな状態にあり、それに観測装置の針がどちらにも振れない〈針中〉の状態と〈環境0〉がもつれ合っていた。ところが、観測された途端、〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉が量子もつれで一体になった状態と、〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉が同様にもつれて一体化している状態とが重ね合わさることになる。

著者は、この過程を数式風の略図で説明している。これは観測の核心をついていてわかりやすい。当欄は図の部分を言葉に置き換え、同じことを文字と記号だけで表現してみよう。ここでは、「+」は重ね合わせを、「・」はもつれをそれぞれ表している。
(〈スピン上〉+〈スピン下〉)・〈針中〉・〈環境0〉
➡〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉+〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉

この式からは、多くのことがわかる。スピンだけの重ね合わせ状態が観測によって消え、その代わり、スピンと針と環境がそっくり異なる世界が重ね合わさることになる。世界の数は観測前に一つだったのが、観測後には二つになる。これこそが、世界の枝分かれだ。

さて、いよいよ「観測者」の出番である。装置の目盛り盤の傍らに針を読む人間がいるとしよう。世界が枝分かれするなら「観測者も残りの宇宙にともなって」「コピーに分岐する」。ここで「残りの宇宙」とは環境の別表現だ。では、それぞれの分身は何を見るのか? 〈スピン上〉〈スピン下〉のどちらか一つしか見えない。「波動関数が収縮したように見える」(原文では太字部分に傍点)というのは、実はこういうことだったのである。

この略図を見ると、観測という行為が私たちにとってどんな意味をもつのかについて、別の角度からも考えたくなる。観測とは、電子のように重ね合わせの状態にあるものに取りついて、自分自身をも枝分かれさせる行為ではないか――そんなふうに思えてくる。

枝分かれのくだりで興味深いのは、そこに「世界」論があることだ。著者が「世界」の条件として挙げるのは「世界のさまざまな部分が、少なくとも原則として、お互いに影響を及ぼせていること」だ。逆をいえば、影響を及ぼせないなら別世界と言ってもよいのだろう。この本は「幽霊世界」をもちだす。幽霊たちがどこかにいる可能性を論じつつ「幽霊世界で起こることは私たちの世界で起こることとは絶対に関わりを持たない」と断じている。

もし、多世界理論が正しいとしても、別の世界にいる分身とは交信できない。向こうの世界に渡って分身と入れかわるわけにもいかない。今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない。世界がいっぱいあっても、この世界はかけがえがない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月19日公開、通算601回
*余談ですが、今回と似たタイトルで小文を書いたことがあります。「『あなたとは世界が違う』という話」(「本読み by chance」2015年5月8日付)。青春のほろ苦さとともにある「世界が違う」。これも、どこかで多世界のイメージと響きあうような気がします。
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

4 Replies to “世界が違うとはどういうことか”

  1. 尾関さん

    前回は「自己同一性」について質問しました。今回は「人間関係」についてです。

    私が若い頃の友人と会えば、昔話に花が咲きます、つまり、記憶の共有があります。それは海外の友人についても同様です。

    「お互いに影響を及ばせている」関係であるから、同じ世界に生きていると言えるのでしょう。しかしここで疑問が生じます。

    ある瞬間、分岐があってこの世界が生じたとき、私の量子もつれに友人も引きずられたのでしょうか?或いは、友人の量子もつれに引きずられて私も同じ世界にいるのでしょうか?

    さらに言えば、時間や歴史の観点を持ち込めば、親の世代やもっと前の世代も同じ世界にいたわけで—決定論が支配しているとのことなので—私がいまこのコメントを書いている世界は宇宙開びゃくの時に存在が決定づけられていたのではないか?

    そして、初めから世界は多世界であり、さらにその夫々の中で私は分岐し続けているのか?質問の意図はお分かりでしょうか?
    私は自分の書いていることが分からなくなりかかっています、笑。

  2. 虫さん
    《ある瞬間、分岐があってこの世界が生じたとき、私の量子もつれに友人も引きずられたのでしょうか?或いは、友人の量子もつれに引きずられて私も同じ世界にいるのでしょうか?》
    多世界理論は、究極のバラマキ財政です。
    「分身」はいくらでも増刷できる。
    私の分身は無数あり、友人の分身も無数ある、そのうちの一つと一つが結びついた世界にこの私がいる、ということなのではないでしょうか。
    ただ、虫さんのツッコミで、海外の友人ともつれるのはなかなか大変だな、と思った次第。
    いまどきだからオンラインの出番でしょうが、そこに夥しい数の電子や電波(光子)が介在して、どんなふうにもつれているのやら……。
    《私がいまこのコメントを書いている世界は宇宙開びゃくの時に存在が決定づけられていたのではないか?》
    決定論というのは、波動関数の時間発展について言えること。
    無数の可能性の一つとして、この私が用意されていた、と受けとめればよいのではないでしょうか。

  3. 尾関さん、

    <今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない>

    うーん、そうなんでしょうが、多世界理論は検証できるのか、できないのか、検証できることが予測されているのか、予測されていないのか。。。そんなことが、とても気になります。

    量子力学をどう考えどう理解するかは、人それぞれ違うようです。量子力学の森に入り込んで、その先に何人かに見えてきた世界があったとして、それが正しいとか正しくないとかは量子力学の理解の仕方によるということでしょうか。

    専門分化し細分化し続ける現代の物理学の人たちには、合意できなかったり説明できなかったりすることがたくさんあるようですね。19世紀までの「自然哲学(natural philosophy; systematic study of nature)」は完全に消えてしまいましたが、宗教的にということではなく、自然哲学的に考えて合意したりするのもありかと思います。

    多世界理論も、一旦現在の最先端の物理学から少し離れて考えれば、SFのような理論ではなくなり、まったく新しい理論に見えてくるように思えるのですが。。。

    なんだか量子力学の森が、青木ヶ原の樹海のように思えてきました。

    ところで尾関さんは、いったいいつになったら、量子力学の森から出てくるのですか?

    1. 38さん
      《ところで尾関さんは、いったいいつになったら量子力学の森から出てくるのですか?》
      出てこなければ、いけないのでしょうか?(苦笑)
      「量子力学をどう考えどう理解するか」は通常の科学の営みとは異質。
      それは、おっしゃるように「自然哲学的」なアプローチが求められているのかもしれません。
      逆に言えば、私のような科学周辺派でも楽しむことができる。
      樹海の散歩はやめられません。

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