物理思考を人の世に生かす方法

今週の書物/
『物理学者のすごい思考法』
橋本幸士著、インターナショナル新書(集英社インターナショナル社)、2021年刊

牛が1頭?

科学を取材してきて、もっとも縁が深かった分野は物理学だ。新聞記者の持ち場は人繰りをどうするかという部内事情で決まることが多いが、それだけではない。記者本人の希望も幾分かは反映される。私が物理学を好んだのは間違いない。それはなぜか。

理由は、いろいろ考えられる。たぶん、学生時代に物理系の学科に所属していたことも影響している。ただ私には、物理になじんでいるから物理を取材するという直線的な動機はなかった。むしろ、その逆だ。物理につまずいたから物理について書きたかったのである。

屈折した心理だ。だが、それなりの理屈はある。私が世界に存在することの根底には物理学がある、という見方は学生時代から変わらない。ただ、その物理学を究めることはだれにでもできることではなさそうだ。だからと言って私たちが物理学に無関心でいたら、宝の持ち腐れではないか。物理知の恩恵に浴する権利は万人にあるはずだ。それに道筋をつけるのが科学記者の仕事だろう――ザクッと言えば、そんな理屈だった。

そう思って物理学の報道に携わってきたわけだが、そのうちに気づいたことがある。「トップクォークが見つかった」「ヒッグス粒子が確認された」「重力波が検知された」……確かに、これらは超一級の発見である。素粒子物理の標準理論が考える通りに粒子の顔ぶれが出揃ったこと、一般相対性理論の予見通りに時空が波打つこと。こうした科学ニュースは、専門外の私たちも知っておいたほうがよい。だが、物理知の恩恵はそんな発見だけなのか。

私が思うに、物理知は物理学の成果だけではない。物理学者の思考様式そのものが知的価値を帯びている。このなかには、社会で共有したいものがある。共有によって、世間の風景は変わるだろう。私たちが科学的になる、とはそういうことではないのか。

当欄はコロナ禍が始まってすぐ、『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)という本をとりあげた()。著者は、素粒子物理の研究経験がある理系作家。この本では「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」と、地上の人間を撞球台の球に見立てて感染禍を考察していた。そこで見えてきたのは、人と人が接触しないことが感染拡大を抑える決め手になるという数理だった。

人を球と見なすことには、個人の個性を無視するという点で抵抗もあるだろう。だが、感染という集団現象を考えるときは、とりあえず個人の事情を無視したほうが事の本質に迫れる。この思考法はいかにも物理学者らしい、と私は思った。実際、新型コロナウイルス感染症に対してはワクチン接種が広まるまで人と人の接触削減がほとんど唯一の対抗策だった。私たちは、自分自身にもビリヤードの球のような一面があることを思い知ったのだ。

で、今週は『物理学者のすごい思考法』(橋本幸士著、インターナショナル新書〈集英社インターナショナル社〉、2021年刊)。著者は1973年生まれ。理論物理学者で素粒子論などを研究している。「大阪育ち」で京都大学出身。バリバリの関西人である。本書はエッセイ47編を収める。これらは、『小説すばる』誌の連載「異次元の視点」(2016~2021年)と筆名D-braneでのブログ「Dブレーンとのたわむれ」(2014年)をもとにしている。

バリバリ関西人の本らしく、本書は関西風の風味にあふれている。たとえば、「ギョーザ」「焼肉屋」「たこ焼き」の話題が次々に出てくること。「ギョーザの定理」という1編は、妻子ともどもギョーザを手づくりする話。著者は、具の量に比べて皮の枚数が足りそうもないとき、3個分の具を2枚の皮で包むUFO型の変種を何個交ぜればよいかを考える。その結果、皮がn枚ほど不足ならUFO型を約n個つくればよい、という定理に至るのだ。

ひとこと言い添えると、この場面で著者は「つるかめ算や!」と喜んでいる。確かに、普通のギョーザとUFO型ギョーザをどういう配分でつくるかは算数の問題集に出てきそうだ。本書には、物理学者が使う数学は算数であると論じた1編もある(「数学は数学ではなかった」)。私の印象でも、物理学者の数学は数学者の数学と違って抽象的ではない。この例でいえば、ギョーザという現実世界を映す数理と言えるだろう。算数に近い。

本書には夫婦漫才の楽しさもある。「ギョーザの定理」「たこ焼き半径の上限と、カブトムシについて」の2編は最後の1行に絶妙のオチがあるのだが、それは著者の妻が発するひとことだ。その機知が、著者の思考が数学に近づくのを算数につなぎとめている。

これは余談だが、関西弁も本書の魅力だ。「緑の散歩道と科学」という1編には、著者夫婦が散歩しながら交わす会話がある。「花がムッチャ綺麗なんは、葉っぱが綺麗ちゃうからやんなぁ」「はぁ? なにゆうてんの? 葉っぱも綺麗やんか」――このやりとりは私のような関東人には難しい。「綺麗ちゃう」は「綺麗と違う」→「綺麗でない」という否定表現なのだが、「綺麗じゃない?」と肯定的に聞きとって意味を取り違えてしまう。

本書で物理流の思考をもっとも鮮明に描きだしていると私が思うのは、「近似病」と題する1編だ。冒頭に、物理学者にとって「近似」は「至福の喜び」とある。では、「近似」とは何か。著者によれば、それはジョークのタネにもされる物理学者らしい物言いに凝縮される。「あそこに牛が見えますね。さあ、牛を球だと考えてみましょう」――牛という存在から、角や耳や尻尾や脚を取り去ってしまおうというのだ。こうして牛は球に近似される。

この思考法については『物理学者はマルがお好き』(ローレンス・クラウス著、青木薫訳、ハヤカワ文庫NF、2004年刊)という本がある。ここでマルは球と言い換えてよい。この本は私もかつてどこかで書評した記憶があるが、機会があれば当欄で再読したい。

『コロナの時代の僕ら』の「ビリヤードの球」も、このマルに通じている。物理流の思考は、物事を球やマルに見立てることで物理世界だけでなく人間社会にも適用できるのだ。

物理学者の近似志向には訳がある。本書によれば、それは物理学の研究に「物事の量を比べる」という工程があるからだ。なにごとであっても、どれほど大きいか、どちらが大きいか、その見当をつけることから始める。これは、物理学の理論が実験の裏づけを求めていることに関係しているらしい。実験を試みるには、調べようとする対象に見合った機材を用意しなければならない。「近似して推測する能力は物理学者に必須」なのだ。

ここで大事なのは推測は「近似」でよいということだ。世間には、物理学者は数値に厳密な人々という通念があるようだが、それは違う。私が取材を通じて得た印象を言えば、細かな数字にはこだわらない人が多い。物事を桁で考えることに長けた人々である。

「物理学者の思考法の奥義」という1編でも、「奥義」の核心に近似が位置づけられている。学会の会場に向かうバスが満員だったときの話らしい。友人が「何人乗っとんねん」と問い、著者が「有効数字1桁で60人」と答える。物理学者がこんな会話を交わす光景を私は見慣れているから、思わず苦笑した。友人と著者の頭にあるのは「バス一台に人間を詰め込んだ場合、何人入るか。有効数字1桁で答えよ」という設問である。

著者は、バスは3m×10m×2mの直方体、人は70kgの水から成る球と定義して、その直方体にこの球が何個収められるか、を計算する。答えは、ザクっと60個。55~64個の幅を見込んだ数字だから「有効数字」は1桁だ。ここでも人間が球に近似されている。

このくだりで私の頭をよぎったのが、最近ソウルで起こった雑踏圧死の惨事だ。ハローウィン直前の週末、繁華街の路地に想像を絶する人々が押し寄せた。気になるのは、その夜の混雑について当局がどんな試算をしていたのか、ということだ。試算によって得たい数字は、その狭隘な空間に「何人入るか」ではない。「何人入れてもよいか」だ。そうなると、近似の仕方にも工夫が要る。たぶん、人を水70kgの球に見立てるのではだめだろう。

もし人を球や円柱で近似するのなら、球や底面の円の半径をどれほどにするかを吟味しなくてはならない。それは、身体の周りに余裕をもたせるほどに大きくなければならない。感染症対策や防犯の観点からも、一定の半径が必要だ。多角的な視点が求められる。

この稿の前段で、物理学者の思考様式には社会で共有したいものがある、と私は書いた。物理知を孤立させるのはもったいないということだ。物理知は物理以外の知と結びついて私たちに恩恵をもたらす。それを促すのも科学ジャーナリズムの役目だろう。

*当欄2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考

(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月11日公開、通算652回
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2 Replies to “物理思考を人の世に生かす方法”

  1. 尾関さん、

    「物理知は物理学の成果だけではない。物理学者の思考様式そのものが知的価値を帯びている。このなかには、社会で共有したいものがある。共有によって、世間の風景は変わるだろう。私たちが科学的になる、とはそういうことではないのか」
    ー これは『尾関章名言集』の上のほうに載せなければならない「名言」ですね。

    思考様式だけでない。物理学者がしたことや考えたことが、なかなか社会で共有されないという現実があります。ただ、物理学者の思考様式を社会で共有しなければ、あまりにももったいない。それをしてきたのが、そしてこれからもしていくのが、尾関さんなんですよね。

    「物事を桁で考えることに長けた人々」は、社会でとても役に立つ。そう思ったのは、もう20年ほど前のこと。職場の長の代わりに会議に出た時のことでした。普段、言葉を交わすこともない人たちに囲まれ、アフリカの人たち全員に携帯電話を配るにはいくら要るのかとか、1日1ドル以下で暮らす人たちをゼロにするにはいくら要るのかとか、そういう話題になったとき、ほぼ全員から「500億ドルくらい」とか「5億ドルぐらい」とかいうように、一瞬のうちに数字が出てくるのです。

    不思議に思ってコーヒーブレイクの時に、参加者のひとりに「どうしてあんなに簡単に数字が出て来るのか?」と聞いてみたのです。その人は優しい人で、「桁で考える」ということを教えてくれたのです。

    参加者のアタマのなかには、アフリカの人口が10億、世帯数は2億、携帯電話の値段が100ドル、PCの値段が1000ドル、というようなだいたいの数が、あらかじめ入っている。だから「500億ドルもあればだいたいの人に携帯電話が行き渡る」とか、「2000億ドルあれば PC が行き渡る」というような会話が、いちいち計算しなくてもスッと出てくる。。。というような説明でした。

    私がその会議で出会ったのは、「物事を桁で考えることに長けた人々」ではなく、「物事を桁で考えることに慣れた人々」だったのかもしれません。ただ「物事を桁で考えること」の重要性を、私はその時まで知らなかった。もっと早く気がついていればと思ったのですが、その時に気づいてよかったというのが正直なところです。

    思考様式に知的価値があるのは、物理学者だけのものではないのかもしれません。科学一般に携わる人たち、そしてものごとをラショナルに考えて仕事をしている人たちの思考様式には知的価値がある。そう言っていいのかもしれません。

    なにが科学的なのかということは、人によって違います。私は科学的ということを、宗教的でないこと、信じ込まないこと、そう理解してきました。どんな定説も 100% 信じることはしない。多少なりとも疑ってかかる。ドグマ的にならない。そう思ってそういう態度を貫いてきました。ただ昨今の科学は、科学教と言ったらいいのか、宗教になってしまっている。

    「地球温暖化や気候変動は科学が実証している」と多くの人たちが言っています。違ったデータや違ったモデルによる予測は、社会で受け入れられない。自称科学者の政治家たちが、自分たちの「科学」を盾に、反対意見を封じ込めています。1970年代に流行った Global Cooling のことを口にしようものなら、トランプのサポーターなどと言われてしまう。自分たちの言っていることだけが正しいといって、自分たちの言っていることにみんなが賛同するようにと道路を封鎖し、ゴッホの絵にペンキを吹きかけなどなど、科学的でない「科学」が横行しています。

    科学的に考えるというのは、正しいことなどなにもないというスタンスを取り続けることではないでしょうか? そんなことを言ったり書いたりしてはいけないとは思いながら、そんな風に考えています。尾関さんのような専門家からみれば、幼稚な意見なのでしょうが、笑われるのをおそれずに書いてみました。

    環境問題のことひとつとっても、ドイツの『Letzte Generation』や、フランスの『Dernière Rénovation』、イギリスの『Just Stop Oil』などの「Climate Emergency」を掲げる団体のやることに、気持ちの一部では大きく賛同し寄附をしてみたり、と同時に賛同できずにイライラし「絶対に協力なんかしないぞ」と思ったり、気持ちが落ち着きません。この頃は、いろいろなことについて、首を突っ込んでは離れるということを繰り返しています。自分の考えが揺れるというのは、科学的といえば科学的だと思うのですが、なんだかなあ。。。です。もっと大人になりたいです。

  2. 38さん
    《ただ昨今の科学は、科学教と言ったらいいのか、宗教になってしまっている》
    たしかに、そのきらいはありますね。
    私も今回、本稿で「私たちが科学的になる」というフレーズを書くときに、ちょっと躊躇しました。
    変なふうに「科学的になる」のは決してよいことではないからです。
    科学という以上、いつも疑いの視線を失わないことが大切。
    物理学は比較的、ものを疑うところから始めることに徹しているように思いますが、それでも「教」の部分はありそう。
    その意味では、物理学者の思考様式にも批判の目を向けていくべきでしょう。

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