エルノーの事件、男よ法よ倫理よ

今週の書物/
「事件」(アニー・エルノー著、菊地よしみ訳)
=『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫、2022年10月刊所収

中間選挙(*1)

米国上下両院の中間選挙では、与党民主党が事前の予想に反して善戦した。前共和党政権の人事で保守色を強めていた米連邦最高裁が今年6月、人工妊娠中絶を認めない判決を下したことに反発が広がり、中絶容認の立場をとる民主党候補に票が集まったらしい。

米国政治では、プロライフ対プロチョイスが対立軸になっている。前者は、生命の原点を受精卵とみて中絶を許さない。後者は、産むか産まないかの選択権はあくまで当事者にあると主張する。前者の背後には宗教右派が控え、後者はリベラル派が支えるという構図だ。

この構図には、類似版もある。忘れがたいのは、2004年の米大統領選挙だ。受精卵由来の胚性幹細胞(ES細胞)を使って人体の組織を再建する再生医療が争点になった。その研究は、共和党候補のジョージ・W・ブッシュ大統領が抑制していたが、民主党のジョン・ケリー候補は推進論を主張した。この論戦では、片方に受精卵を守ろうというプロライフ思想があり、もう一方に病苦を背負う人々を科学で支援しようとするリベラル思想があった。

当欄はここで、プロライフ対プロチョイスもしくはプロライフ対リベラルの論争で、どちらに分があるかということを書くつもりはない。ただ、こうした問題で議論が沸騰する米国社会には敬意を払いたい。私たちの日本社会には、その気配がない。

そんなことを思っていたとき、「事件」(アニー・エルノー著、菊地よしみ訳)を読んだ。当欄が先週とりあげた「嫉妬」とともに『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫所収)に収められている(*2)。この作品もまた、著者が主人公を自伝的に引き受ける「オートフィクション」の形式をとる。発表は2000年だが、作中で語られる「わたし」は1960年代の学生。うたかたの恋の末に妊娠する。

ただ、「わたし」を語る「わたし」の視点は2000年ごろにある。作品冒頭で今の「わたし」がパリの病院でエイズ検査を受けた――幸い結果は陰性だった――とき、同様の恐怖感のなかで「医師の診断を待っていた」過去の「わたし」が想起される。

その回顧の記述では、1963年10月にノルマンディー地方ルーアンの女子学生寮で「生理がやってくるのを一週間以上待っていた」日々が綴られる。下着の「染み」を待ち望む、手帳に毎夜「なし」と記す、深夜、目が覚めてそのことを再確認する……。11月に入り、街の診療所で受診した。妊娠だった。医師は「父親のいない子供のほうが、かわいいものですよ」などと言う。「わたし」は手帳に「身の毛がよだつ」と書いている。

妊娠の原因は、政治学を専攻する学生Pとの交際にあった。夏に知りあい、秋にPのいるボルドーを訪ねたのだ。「セックスの快楽のさなかに、男の肉体以外のものがわたしのなかに存在すると感じたことはなかった」。そのあとPとは「何となく別れて」いた。

妊娠証明書が医師から届く。そこには「分娩予定日」が1964年7月8日と記載されていた。「わたし」は「夏を、太陽を目に想い浮かべた」。そして、証明書を破って捨てたのだ。Pには手紙で妊娠を告げ、「このままの状態でいたくない」旨を書き添えた。「このまま」でいないとは、中絶することだ。妊娠の報せはPの心を動揺させるだろう。逆に「わたし」が「中絶する決心」をほのめかしたことはPに「深い安堵感」をもたらすだろう――。

1週間ほどして、米国でジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される。だが、「わたし」はそれに無関心だった。「わたし」は数カ月間、「ぼんやりした光」に浸っていた。あのころを思い返せば、「しょっちゅう街を歩いていた自分の姿」が浮かびあがってくる。

いや、数カ月にとどまらない。「何年ものあいだ、わたしは人生のその出来事のまわりをめぐっている」。たとえば、小説を読んでいて妊娠中絶の話題が出てくると、言葉が荒々しさを帯びるように感じられた。そんな「わたし」が今、中絶をめぐる自身の体験を語ろうとしているのだ。「何も書かずに死ぬこともできる」。だが「そうしてしまうのは、おそらくあやまちだろう」――オートフィクション作家の心の揺れが見てとれる。

この体験記を読み込む前に予備知識として知っておきたいのは、当時のフランスで妊娠中絶が禁じられていたことだ。巻末の「『事件』解説」(井上たか子執筆)によると、それは1970年代半ばに「女性の自由意思による妊娠中絶」が条件付きで合法化されるまで続いた。したがって、1960年代の「わたし」は非合法を選択したわけだ。今の「わたし」は、たとえ現行法が「公正」になっていても「過去の話」を埋もれさせてはいけない、と思う。

妊娠証明書を破り、中絶の決意を固めてから「わたし」の内面はどう変化したのか。本作は、その様子も克明に書き込んでいる。講義に出席しても、学生食堂にいても、「わたし」は「お腹に何も宿していない女子学生たち」とは別世界にいた。ただ、自分が置かれた状況を思いめぐらすとき、「妊娠」「身籠もる(グロセス)」「子供が生まれるのを待っている」という言葉は避けた。とくに「グロセス」は「グロテスク」を連想させるので封印した。

「妊娠」「身籠もる」は「未来を受け入れる」を含意していているが、「わたし」にはその意志がない。「消滅させる決心をしたものにわざわざ名前をつける必要もない」のだ。当時の手帳を見ると、「それ」とか「例のもの」といった表現に置き換えられていた。

では、「わたし」は非合法の妊娠中絶をどのように決行したのか? 学友の女子が私立病院で准看護師をしている年配女性の存在を教えてくれた。パリ在住のマダムP・Rだ。彼女は「子宮頸部にゾンデを挿入」して「流産するのを待つ」という方法で中絶の闇営業をしていた。1月にパリへ行き、マダムP・Rのアパルトマンの一室で処置を受ける。本作には、その前後の一部始終が記されているが、あまりに生々しいのでここでは触れない。

当欄では、本作を読んで私が考えさせられた三つのことを書いておこう。

一つには、男性はどこにいるのか、ということだ。Pとは手紙を出した後に再会したが、「彼は何の解決策も見つけていなかった」。妊娠の負担をすべて女性に押しつけてしまったのか。ほかの男たちも身勝手だ。「わたし」が妊娠の悩みを告白した男子学生の一人は、妻帯者でありながら言い寄ってきた。「わたし」は妊娠の事実によって「寝るのに応じるかどうかわからない娘」から「間違いなく寝たことのある娘」に変わったのだった。

二つめは、合法非合法をどうみるか、ということだ。私たちは今、なにかと言うとコンプライアンスという用語をもちだす。英語の“compliance”は「遵守(順守)」という意味だが、日本社会では守るべきものを法律と決めつけて「法令遵守」と訳すことが多い。だが、世の中には、法以外にも尊重すべきものがある。たとえば良心、そして人権。1960年代のフランスでは、自らの良心に従って法よりも自己決定権を尊ぶ人々がいた。

そして最後は、プロライフ対プロチョイスの問題だ。本作を読みとおすと、当時のフランスで女性たちが負わされてきた不条理の大きさを思い知らされる。だから私は、プロチョイス思想に共感する。ただ、「わたし」が胎内の存在を「消滅させる決心をしたもの」と位置づけ、「それ」「例のもの」と呼んでいたというくだりでは違和感も覚えた。プロチョイスの視点でみても、受精卵や胎児はただのモノとは言えないのではないか。

そんな感想を抱くのも、私が新聞記者時代、生命倫理を取材してきたからだ。1980年代以降、生殖補助医療などの分野で生殖細胞や受精卵に手を加える技術が次々に現われた。一つ言えるのは、積極論者も慎重論者もこれらを生命の人為操作と見て議論していたことだ。考えてみれば、妊娠中絶も同様にとらえられる。プロライフであれ、プロチョイスであれ、中絶は生命倫理の論題なのである。この認識が1960年代には乏しかったのではないか。

米国の状況などをみると、妊娠中絶は2020年代もなお「事件」であり続ける。ただしその議論では、今日的な生命操作が提起した倫理問題も参照すべきなのだろう。

*1 新聞の見出しは、朝日新聞2022年11月10日朝刊(東京本社最終版)より
*2 当欄2022年11月25日付「ノーベル賞作家、事実と虚構の間で
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月2日公開、同日更新、通算655回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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2 Replies to “エルノーの事件、男よ法よ倫理よ”

  1. 尾関さん、

    翻訳をした堀茂樹さんが『L’Occupation』に『嫉妬』という題名をつけ、菊地よしみさんが『L’Événement』に『事件』 という題名をつけ、『嫉妬/事件』という本ができあがる。『嫉妬』も『事件』も適切な題名だとは思うけれど。でもそれは、Annie Ernaux の『L’Occupation』『L’Événement』とは少しだけ違う気がします。

    堀さんが『嫉妬』ではなく『あたまのなかを占めていること』とか『あたまのなかを占めている女のこと』というような題名をつけ、菊地さんが『事件』ではなく『できごと』というような題名をつけて、『あたまのなかを占めていること/できごと』というような本ができていたら、それはほんの少しだけ『L’Occupation』 『L’Événement』に近かったんじゃないか? 

    そんなことを思っていたら、『L’Événement』が映画化されて日本にもやってきて、12月2日から上映されています。題名は誰がつけたのか『あのこと』。『あのできごと』、『あのこと』。。。『L’Événement』に近い。『事件』よりずっと近い。

    尾関さんが<米国の状況などをみると、妊娠中絶は2020年代もなお「事件」であり続ける>というのはよくわかります。菊地さんが『事件』という題名を選んだのもよくわかる。でも私には『できごと』や『あのこと』のほうがしっくりくるのです。

    たかが題名というかもしれませんが、映画の題名が『事件』でなくて、とてもよかったと思います。『あのこと』でとてもよかった。

    それにしても映画の上映が始まる日に合わせてこの記事をアップするなんて、尾関さんも憎いことをしますね。

    映画の上映に合わせて。。。といえば、アニー・エルノーが書いた手紙が話題になっています。手紙のなかの「1964年のあの3ヶ月間に私に起きた残酷な現実」というような文章から、80代半ばの女性のなかに今でもあり続ける「癒えていない痛みと悲しみ」が感じられ、なんともいえない気持ちになります。

    「中絶という選択をした女性が持ち続ける痛みと悲しみ」に打ちのめされる気分です。男にはわからないことなのでしょうが、それでも想像を働かせてみて、「忘れられる出来事」が「忘れられない事件」になってしまったときに女性が感じること。周りからの圧力。したことへの後悔。愛だと思ったことへの疑念。

    尾関さんが書かれている生命倫理のことや、アニー・エルノーが繰り返し強調する政治的なことを、もっと考えなければと思っても、女性の感情とか周囲の圧力とかにばかり目が行ってしまいます。男性にとっての徴兵の問題も、女性にとっての中絶の問題も、決して個人的な問題ではないのだと思いながら、社会的なこととして考えるにはあまりにも辛すぎる。どうもこういう問題には弱いです。

    1. 38さん
      ●映画の件、書いてくださってありがとう。
      文庫本カバーにも映画化の話が載っていて、私も認識してはいたのですが、公開日がたまたま当欄のアップとぴったり重なることは直前になって気づきました。
      それをあえて書き込むのはあざといかと思い、触れずにいた次第。
      ●「事件」より「あのこと」のほうがよい――確かにそうですね。
      38さんの感性はすばらしい。
      これならば、作中の「わたし」が「それ」だとか「例のもの」だとかいう言葉を使っていた、という話とも符合しますね。
      ●《決して個人的な問題ではないのだと思いながら、社会的なこととして考えるにはあまりにも辛すぎる》
      このご感想にも共感します。
      今の世の中、個人的な問題であり社会的な問題でもある、という論題があふれている。
      両方の次元で考えることが必要だと思うのですが、これがなかなか難しい。
      その理由の一つが「辛すぎる」にあるのでしょう。
      ただ、どちらかの次元に偏ると危うい面がある。
      最近はSNSの効果によって、一面的な見方が増幅されるように思うからです。

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