時間の流れを感じる物理学

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

シャッフル

先週は、物理学に時間は要らないという話をした。読んだ本は、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。理論物理学者が書いているのだから、トンデモの類と切り捨てるわけにはいかない。一応は納得した。(1

そのココロは、こういうことだった――。私たちは物事の様子が変わっていくとき、その変化を時間変数tの関数で記述する。“t”は時計の針のようなものだ。言葉を換えて言えば、私たちは日常の暮らしで物事の変化を時計の変化に関係づけている。

だが著者は、関係づける相手は時計でなくともよいと主張する。地球の自転や月の公転、地球の公転のように1日や1カ月や1年の目安となるものである必要もない。一つの変化を別の変化に関係づければ、それで物理学の方程式ができあがるという。

なるほど。そうならば「時間は存在しない」と言ってよいのかもしれない。だが、ここにはトリックがある。それは「変化」の一語に潜む。私たちは物事が変わると言うとき、時間を思い浮かべている。“t”を追い払っても、時間を排除したことにはならない。

先日の当欄でとりあげた哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を思い起こしてみよう(*2 *3)。こちらも「時間の非実在性」を言っていた。ただ、それを論証する過程で、時間に“t”で表しきれない一面があることも教えてくれていた。

マクタガートによれば、時間はA、B、Cの3系列に分けて考えることができる。重要なのはA、B両系列で、A系列は「過去・現在・未来の区別」、B系列は「より前・より後の区別」に注目する。この二つの着眼点は、いずれも“t”の枠に収まり切れない。

A系列について言えば、この世界では未来の出来事が現在の出来事に変わり、やがて過去の出来事になるという変化が起こっている。この変化は、“t”を表す時間軸だけでは説明できない。一方、B系列のほうは微妙だ。「より前・より後」は、時間軸のイメージになじみやすい。ただ、マイナス方向を「より前」ととらえ、プラス方向を「より後」とみるのはどうしてか。時間には“t”の多寡では測りきれないなにかがある。

以上のことから言えるのは、世界は時間変数“t”なしで成り立つが、それなのに私たちは世界に時間があると認識していることだ。それは本書『時間は存在しない』のもう一つのテーマとして、後段に詳述されている。今週は、そちらに焦点を絞ろう。

ここでのキーワードは「ぼやけ」だ。「時間の存在は、ぼやけと深く結びついている」「ぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ」と、著者は断じる。時間は人間が無知であることの表れにほかならない、というのだ。

この話を聞くと、私のように学生時代に物理学を齧った者は、ああ、エントロピーのことを言っているのだな、とわかったような気分になる。エントロピーは熱力学、統計力学に出てくる数値。講義では、「失われた情報の総量」と説明されたように記憶している。

コップの水を例にとろう。私たちが見ているのは、水という液体が透明な容器に入っているという「マクロな状態」だ。水中には数えきれないほどの水分子があり、その一つひとつがさまざまな位置にあるが、それは見分けられない。このぼやけが、エントロピーである。著者は、オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの理論をもとにエントロピーの値は「わたしたちには区別できない配置の数で決まる」と解説している。

さて物理学には、エントロピーはふえる一方、という「エントロピー増大の法則」(熱力学の第二法則)がある。机の上に整然と積まれた書類がいつのまにか乱雑な紙の山に化けるようなことをいう。そこでは「秩序ある配置」が「無秩序な配置」へ変わっていく。これは、机上の書類だけの話ではない。著者は、宇宙のありようも「シャッフルによって一組のトランプの秩序が崩れていくような、緩やかな無秩序化の過程」とみる。

興味深いのは、本書がエントロピーで過去と未来の違いを説明しようとしていることだ。著者によれば、過去は「現在のなかに痕跡を残す」。月面のクレーターも、古生物の化石も、脳内の記憶も、そういう「痕跡」にほかならない。では、過去をとどめる痕跡があっても未来の痕跡がないのはなぜか? 著者によれば、それは「過去のエントロピーが低かった」ことに起因する。「過去と未来の差を生み出すもの」はほかに見当たらないという。

ほんとかな、という話ではある。これには、エネルギーの保存則がかかわっているらしい。「痕跡」は、隕石が月にぶつかってクレーターをつくるように、なにかが動きを止めて運動エネルギーが熱エネルギーに変わるときに生じる、という。熱への変化は無秩序化だから時間に沿って進行する。こうして痕跡は、事後に見ることになる。未来の出来事も痕跡を残すだろうが、それを現在という事前の時点で確認することはできない。

著者によると、私たちが過去は「定まっている」と感じるのは痕跡がたくさんあるからだ。その結果、脳内には「過去の出来事の広範な地図」ができあがり、その過去に縛られる。これに対して未来は痕跡が見えないから、いくつもの選択肢があるのだという。

さて、ここまで来たところで先週の話をもう一度、復習しよう。本書によれば、世界は出来事のネットワークでできている、ということだった。だから、いくつもの変数同士の関係によって記述できる。実は今週の話も、この世界像と無縁ではない。

本書によれば、私たちは世界の「部分」に「属している」。どのように部分なのかといえば、私たちと影響を及ぼしあう変数が変数のすべてではないということだ。人間が関係するのは世界全体ではなく、その一部に限られると考える立場である。

これは、エントロピーに影響する。エントロピーは「ぼやけ」の度合いを反映しているが、そのぼやけ方は「自分たちがどの変数と相互作用するか」に左右されるという。「どの変数と相互作用するか」は部分ごとに異なるので、「ぼやけ」の度合いも自分が属する部分次第だ。では、私たち人間はどこにいるのか。「この世界が始まった頃のエントロピー」が「きわめて低かったように見える」部分に置かれている、と著者は説明する。

宇宙初期のエントロピーが小さい状態を著者はこう理解する。「宇宙は特別な配置になってはいない」「わたしたちが特殊な物理系に属していて、その物理系に関する宇宙の状態が特殊なのだろう」――ここで「物理系」とあるのが部分のことだ。

この見解は、宇宙論の人間原理に一脈通じているように私は思う。人間原理では、宇宙がこうなっているのは、こうでなければ人間が存在できないからだ、という見方をする。著者の時間観はこれに似て、宇宙にこのような時間が流れているのは、そうでなければ人間は時間を感じとれないからだ、と言っているように思える。私たちはたまたま、宇宙のなかでこのような時間が流れる部分にいることができた、と言うこともできるだろう。

「部分」の話ではもう一つ、付言したいことがある。著者が、「宇宙の無数の変数のごく一部と相互に作用している」ことを「視点」の意義と結びつけていることだ。私たちは宇宙を「内側から」見ているので「視点」なしに世界を記述できない。そこで無視できないのが、「今」「ここ」「わたし」のようにその場に応じて指示するものが換わる言葉だ……こんな論旨に触れて、マクタガートの時間論を思いだした。(*2 *3

『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫)の訳者「付論」にある「端的な現在」「端的な私」が連想されたのだ。哲学者であれ、物理学者であれ、時間を語るには内側からの視点が欠かせないのか。

本書『時間は存在しない』を読んで、理系文系の時間像が近年、かなり近づいていることがわかった。ただ両者の間には、なお乗り越えるべき壁がある。たとえば、マクタガート時間論の「過去・現在・未来の区別」に「痕跡」はどうかかわるのか。あるいは、未来が現在となり、やがて過去へ行き着くという「変化」はエントロピーの増大とどう関係するのか。問うてみたいことは山ほどある。今後もゆっくり、時間について考えていきたい。
*1 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*2 当欄2023年4月21日付「『時間がない』と哲学者は言った
*3 当欄2023年4月28日付「時間を『我が身』に引き寄せる
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月12日公開、通算678回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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9 Replies to “時間の流れを感じる物理学”

  1. 尾関さん、

    懲りずに、先週に続き、変なことを書き続けます。

    Carlo Rovelli は、なんといっても Loop quantum gravity を提唱したことで知られているのですから、空間も時間も不連続だというのが前提でしょう。空間や時間がはじめからそこにあるわけでないという一般相対論のような考えが根底にあって、空間にも時間にもプランク・スケール程度の最小単位があり、discrete な値をとる。そのミクロのノードとリンクがとんでもない数だけ集まって作られる大規模なスピン・ネットワークをマクロで見ると、連続した空間に見える。スピン・ネットワークで表される空間の変化が力の媒介や素粒子の存在を示し、そこに時間を加えたものが discrete に変化するスピン・フォーム。前と後の時間の差が、積もり積もって人が感じる時間になる。そういう理解だと、時間は存在しないというよりも、時間は人が感じているだけというほうが、しっくりきますよね。いまの人の時間の捉え方だけが、すべてではない。もっと違う捉え方が(それもひとつではない捉え方が)あってもいいのではないか。そんな感じでしょう。

    映画館でのフィルムは24コマ/秒で上映されている(1コマは2回連続して投影されているからスクリーンは1秒間に48回明滅している)のだそうです。私たちの世界も、10の43乗コマ/秒で上映されているとすれば、それは連続とはいえないけれど、私たちには連続したものとして見えているということになります。

    話を「そもそも」というところに戻します。量子力学を理解する人がいなければ、私たちが半導体をはじめとするコンピュータ技術を手にすることはなかった。そしてコンピュータ技術の未来は、量子力学にかかっている。そんなことがよく言われていますが、量子力学ははたしてその程度のものなのでしょうか? 量子力学はもっともっと素晴らしいものなのではないでしょうか? 量子力学が、私たちの環境の理解に大きな変化をもたらし、私たちの現実の捉え方をゆさぶるのではないか。まだそれがどういうものか、はっきりしていない。ただそれは、空間や時間の役割を変えるものなのではないか。。。ということが、ぼんやり見えてきている。いまは、そんな状況なのではないでしょうか?

    10年以上前に話題になった「loop quantum gravity」や、いまやメインストリームになった「superstring theory」を超えた、もっとキラキラした「なにか」が出てくるのを、一部の人たちが固唾をのんで待っている。そんなワクワクする状況なのではないか。その「なにか」が出てきたらみんなが飛びつくに違いない、そんな「なにか」。出てくると、いいですね。

    で、忘れてはいけないのが、私たちはまだ何も知らないということです。単純化できるものよりも単純化できないもののほうが多いのに、なんでも単純化してしまう人が多すぎる。そういう人たちは、定説に囚われたものの見方をしている。現実は近似値よりもはるかに複雑だということを忘れてはいけないと思います。説明できるものよりも説明できないもののほうが多いのに、わからないことでももっともらしく説明する人がいます。数式化できるものよりも数式化できないもののほうが多いのに、現象を近似式で表すことに命を削っている人がいます。物理学で扱えるものよりも物理学で扱えないもののほうが多いのに、見ることのできないものまでも物理学の範疇に入れてしまう人がいます。奢りを捨てて、何も知らないという原点に立ち戻った人たちのなかから、きっと「なにか」が出てくると思います。

    変なことばかり書いている自覚はあります。なので、この辺で。いつもいい加減なことばかり書いて、すみません。m(__)m

  2. 38さん
    《空間にも時間にもプランク・スケール程度の最小単位があり、discrete な値をとる。そのミクロのノードとリンクがとんでもない数だけ集まって作られる大規模なスピン・ネットワークをマクロで見ると、連続した空間に見える》
    まさに、おっしゃる通り。
    本書は、世界の本質はパラパラ動画だよ、と言っているような気がします。
    《そしてコンピュータ技術の未来は、量子力学にかかっている。そんなことがよく言われていますが、量子力学ははたしてその程度のものなのでしょうか?》
    この問題提起に、私は深く共感します。
    昨今の「量子ブーム」を見ていてあきれてしまうのは、そのことです。
    世界観が揺らいでいるというのに、成長戦略の一つとしか「量子」を見ていません。
    《物理学で扱えるものよりも物理学で扱えないもののほうが多いのに、見ることのできないものまでも物理学の範疇に入れてしまう人がいます》
    ここのところが、大事ですね。
    物理学が論文や教科書や学術書だけでなく、一般書でも語られる意味はそこにあるのだと思います。

  3. 尾関さん

    時間は存在しない、という私の考えは今のところ変わっておりません。あるのは事物の変化であり、ある事物の変化量 (t) を基準として他の事物の変化量を計測し、これを「時間が経った」と呼び習わしてきたのでは、と考えます。
    この「道具としての時間」は私達の創り出したものですが、使い勝手の良さゆえに私達の精神の中に独立したものとして存在するようになり、そこから「時間が流れる」、「過去・現在・未来」といった発想が生まれてきたのではと思います。

    例えば月のクレーターが出来た「今」があり私達の「今」もありますが、事物としての過去はなく、今見えるクレーターも誕生した「今」の痕跡であり、少しずつ崩れてきているはずです。あるのは様々な「今」たけでは?

    物理学的な意味での時間は存在しないし、過去・現在・未来のうち「今」という瞬間しか存在しないと思いますが、でも、長い間「道具としての時間」に慣れ親しんできた私達の「心や精神」の中で時間は実在するようになってはいないでしょか?いわば「心の道具としての時間」。

    そうであれば、ざっと三つの問題があるのでは、と思います。

    ・(t)という単位を分母とした場合、分子を最大化することが評価されており、分子に大きな変化をもたらせない人間が非生産的とされ、人権さえ否定されかねない問題です。例えば、妻に一喝された私。

    ・もう一つは「未来」を操作できるかのような錯覚、思い込みです。最近よく聞く言葉では「将来の子供達の夢のために」。
    少なくとも40年以上前から指摘されている少子高齢化の流れを放っておいて、今になって「喫緊の課題」と騒いでいる我々の立案する将来計画がうまくいくとはとても思えない。
    しかも国力信仰が背景にあるから子供達と言ってもその実、労働力の確保。
    国の崩壊を招くかもしれませんが、人口減少による一人当たりの資源増大を生かすことも視野に入れた脱成長の考えも良いと思いますよ。

    ・最後は物理的な「道具としての時間」と「心の道具としての時間」の関係の解明。
    多分、両者が一致することもあれば、しないこともあるでしょう。卑近な例では他者の「心の道具としての時間」に無頓着でいつも遅刻してトラブルを起こす人。
    物理的な「道具としての時間」と「心の道具としての時間」はどう関係しているのか?ある出来事を「今」として経験した人が、それを「過去化」しようとしても心の時間はそれをゆるさず、今なお「今」として感じてしまい、二つの「今」を抱え込んでしまったら?
    どうも、心や精神を抜きにして時間を語ることは不可能なのでは?またぞろ認識論か?

    1. 虫さん
      「今」だけがある、という見方に同感です。
      私が考えていることは、イメージで言うとこうなります――。
      宇宙空間には、たくさんの「今」が散らばっている。
      それらの「今」たちが連なって、いわゆる「時間」の系をつくっていくのですが、そこには約束事がある。
      「私」の世界は、今現在の「今」にある「痕跡」を介して、その「痕跡」を残すような別の「今」とつながっている(その「痕跡」を残さないようなものとは決してつながらない)。
      つながった別の「今」だけが過去となるわけです。
      こうして、今現在の「今」にある「痕跡」と辻褄の合う過去だけが「私」の過去をかたちづくるのではないか。
      そんなふうに思えるのですが、どうでしょうか?

  4. 尾関さん

    量子力学の世界では「量子もつれ」は実証されていますね。
    尾関さんの示されたイメージは、この「もつれ」が観測の対象である量子だけではなく、観測者やその観測者の存在する世界も含めて起きていると感じさせてくれます。量子の世界とマクロの世界が統一された、いわばコペンハーゲン解釈を否定するものと感じます。

    ただ、原理主義的な「多世界解釈」とも違う印象があります。デ・コヒーレンスを考慮すれば、分岐した世界は互いに干渉し得ない(没交渉)。しかし、「時間」という「痕跡」が語られている。なにか、アインシュタインが量子力学を認めていたら、こんな形で量子力学と相対性理論をまとめていたのでは?という読後感が残りました。

  5. 虫さん
    「痕跡」と整合性のある出来事の断片をつなげていけば「時間」の実感が生まれる――本書を読んで私が感じとったのは、そういうことでした。
    その「時間」が、アインシュタインが相対論で想定する時間と同等のものなのかどうか、そこのところがまだわかりません。
    本書の著者カルロ・ロヴェッリが主張する「ループ量子重力理論」のさわりでも理解すれば、ヒントが得られるのか?
    本を探してみよう、と思いました。

  6. 尾関さん
    以前大学で尾関さんの授業を受け、大学院時代にはティーチングアシスタントもした物です。
    (都内のレトロな雰囲気の居酒屋に連れて行ったこともありました。)
    ふと尾関さんのことを思い出して調べたところ、お元気そうで安心いたしました。

    時間という概念はまだまだ人類が理解していないものだと感じています。
    宇宙を理解しようと思うとき、時間についての理解が必要と考えますが、人類は滅びるまでに時間というものを理解できるのでしょうかね

    1. Hさん
      《人類は滅びるまでに時間というものを理解できるのでしょうかね》
      「滅びるまでに」という表現のなかに、もうすでに「時間」の概念が入り込んでいる。
      理解できなくても、私たちは「時間」に縛られ、「時間」に追われているのですね。
      貴方が懐かしい記憶を呼びおこしてくださったので、私の「時間」がまた豊かになったように感じます。
      ありがとうございました。

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