全電源喪失とはこういうことか

今週の書物/
『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』
共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊

電源

今年は、3・11が金曜日になった。11年前と同じだ。しかも当欄にとっては、拙稿公開日に当たる。あの日を想い起こしながら、東日本大震災の一断面を切りだしてみよう。

あの日、私は東京・築地のビル中層階にいた。勤め先の新聞社だ。地震に襲われたのは、長閑な昼下がり。言論サイトWEBRONZA(現「論座」)の編集会議に出ていたが、あまりの揺れに会議は中断した。窓際の自席に戻ると、書棚の本が落下して床一面に散らばっている。窓の外には青空が一面に広がっていたが、お台場あたりの海岸部で黒煙が不気味に立ち昇っている。これが、ふつうの地震でないことは明らかだった。

テレビの画面には、空撮の生映像が流れていた。仙台近郊で津波が家々をのみ込み、避難しようとするクルマを執拗に追いかけている。私は、それを同僚と見ていて言葉を失った。海水が容赦なく大地を覆っていく。あたかも、魔の手が指先を広げるように。

3・11を生涯でもっとも忘れがたい悪夢の日と呼ぶには、もうこれだけで十分だった。だが、この日はそれで終わらない。日差しが斜めに傾いた午後4時ごろ、福島県の東京電力福島第一原発が「全交流電源喪失」に陥ったという知らせが私にも届く。東京・霞が関の経済産業省にある原子力安全・保安院で、職員が報道陣に速報したというのだ。超弩級の自然災害に今日的な技術災害が追い討ちをかけた。そんな展開だった。

正直に告白しよう。私はそれを耳にしたとき、すぐには事の重大さに気づかなかった。原子炉の水位が下がり、冷却能力が失われたと聞いたなら、それだけで背筋が凍ったはずだ。だが、失われたのは交流電源だという。これは、送電線の電力が届かないということではないのか? そういうときは非常用の自家発電機が働くはずだ。だから、冷却水の循環が止まることはない……そう考えたのだ。だが、これは大きな誤りだった。

原発技術者が全交流電源というとき、非常用電源も勘定に入れているのだ。福島第一原発では、それも含めてダウンした。実際、保安院の速報には、非常用発電機が動いているのは6号機だけという情報も添えられていたらしい。津波が原発を襲うというのは、そういうことだった。だからそのとき、原発に詳しい同僚記者は私にこう言ったのだ。「尾関さん、これは大変なことだよ、チェルノブイリ級のことが起こってもおかしくない」

あの2011年3月11日以来、福島県一帯で続いている事態は、その予言が的中したことを物語っている。で、今週は『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』(共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊)。共同通信社が2014~2016年、断続して配信した連載(全213回)をもとにしている。2015年、前半の掲載分が祥伝社によって書籍化されたが、それに加筆したものが本書だ。

巻頭の一文「はじめに」によれば、本書が目を向けたのは福島第一原発事故の「発生直後」。そこに居合わせた人々が実名で登場して「何を見て」「何を思ったのか」を語ってくれたという。東京電力の所員がいる。協力会社の作業員がいる。東電本社の幹部や政治家もいる。その人たちが「何を思ったのか」に踏み込んだところが、政府や国会の事故調査委員会「報告書」と比べて異彩を放つ点だ。事故が生々しく再現されているのである。

編著者(高橋秀樹さん)は1964年生まれの共同通信記者。「はじめに」に同僚7人の名が記されている。本書は取材班が一体となって仕上げた労作と言えよう。

本書の描写で終始緊迫感が漂うのが、中央制御室の光景だ。ちょっと補足すると、福島第一原発の敷地では海沿いに原子炉6基が並んでいる。それらはぽつんぽつんと建っているのではなく、原子炉建屋と海岸線の間にタービン建屋などの建物が連なっている。このうち、原子炉建屋に隣接するのがコントロール建屋。中央制御室は、その2階にある。福島第一では、制御室一つが原子炉2基を受けもつつくりになっている。

地震発生直後の1・2号機はどうだったか。原子炉は緊急停止した。電力は外部送電網からの供給が停まったが、非常用ディーゼル発電機(DG)が動きだした――ここまでは想定の範囲内だったらしい。ところが、しばらくしてとんでもないことが起こる。「DGトリップ!」。運転員の一人が叫んだ。DGが発電不能に陥ったというのだ。こうして「制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消え」「天井の蛍光灯も消えた」。

これが、全交流電源喪失が察知された瞬間だ。運転員が受けてきた訓練は「ありとあらゆるケース」に対応している「はずだった」。ところが、「DGトリップ」は想定外だった。制御室に窓はない。テレビのニュースを見られるわけでもない。運転員たちには、何が起こったか見当がつかなかった。外から入ってきた同僚が「海水が流れ込んでいます!」と報告するまでは……。津波がタービン建屋地下のDGを水浸しにしたのだ。

電源が途絶えれば、制御室の計器類を見ることもできない。原発制御の手も足も出なくなる。これを「ステーション・ブラック・アウト(SBO)」と呼ぶ。この事態は、原発敷地内の免震重要棟に詰めていた所長たちに報告される。「1、2号、SBO!」「3、4号もSBO!」――そうとわかった瞬間、3・11東電福島第一原発事故は、原子力災害対策特別措置法10条の適用対象となり、法律的にも「原子力災害」となったのである。

ここで、福島第一原発では交流電源のみならず、全電源の喪失も起こっていたことを言い添えておこう。東京電力のウェブサイトによると、稼働中の1~3号機のうち1~2号機では直流のバッテリー電源も浸水被害で失われていた。このため計器類を復活させようと構内循環バスのバッテリーが持ち込まれたが、暗闇での配線作業は困難を極めた。午後9時すぎに1号機の水位計が読めるようになったものの、数値は正確でなかったという。

翌12日未明、免震重要棟の緊急時対策本部から、冷却不全で蒸気がたまった1号機格納容器のベント(ガス放出)が指示される。ベント用の弁も電源喪失で遠隔操作できないから、だれかが原子炉建屋内に足を踏み入れ、手作業で開けなくてはならない。

当直長は運転員を集め、こう告げる。「申し訳ないが……誰か行ってくれないか」。ただし、「若い者は行かせられない」。制御室には、出番ではない幹部級のベテランたちも応援に駆けつけていた。当直長が「まず俺が行く」と言うと、彼らは「残って仕切ってくれなきゃ駄目だ」と諫め、自分たちが次々に手を挙げた。ただ、手が途中でとまった人もいる。「怖かったです」「家族のことも頭をよぎりました」と、内心を率直に打ち明けている。

「突入」は午前9時すぎに始まった。第1班は原子炉建屋2階の弁を開いた。第2班は地下の弁を開くのが任務だ。ところが、こちらは近づくと、携帯の線量測定器の針が振りきれた。5年間の線量限度を6分で浴びてしまう状態。結局、撤退するしかなかった。

1・2号機制御室の様子を引きつづき見ていこう。ベント第3班を出すことは、とりあえず見合わせていた。制御室内の線量も上昇している。1号機寄りが高めなので、運転員の大半は2号機寄りにいた。事故発生から缶詰状態だから、疲れ切っているのだろう。40人ほどは床に腰を下ろしている。このとき、室内に声がとどろいた。声の主は、中堅運転員の一人だ。「何もできないなら、ここに何十人もいる意味があるんでしょうか」

当直長は、このときも運転員を集めて言う。「ここを放棄する」ことは「制御を諦(あきら)める」ことであり、「避難している地元の人たち」を「見捨てる」ことになる――こう説得して「残ってくれ」と頼んだ。これで一同は静まり返ったという。

事故2日後、13日の1・2号機制御室の光景には心が痛む。12日には1号機原子炉建屋の水素爆発があり、制御室の線量も急上昇したため、運転員は全面マスク、ゴム手袋姿だった。食べ物は乾パンだけだったが、すでに食べ尽くして、残るはスナック菓子くらい。あとはペットボトルの水だ。ただ、飲み食いするにはマスクや手袋をとらなくてはならない。「空腹に耐えるか、汚染覚悟で飲食するか」。そんな極限状況に置かれていたというのだ。

1・2号機と3・4号機の制御室で「数人1組の交代制」の勤務態勢がとられたのは13日夕からだという。私たちは原子炉建屋の水素爆発を遠景の映像で見て慄くだけだったが、あの瞬間も直近では、運転員がほとんど不眠のまま炉の制御を取り戻そうとしていたのだ。その様子は、コロナ禍の関連職場で働く人々の献身と重なりあう。原発に対する賛否は別にして、あの事故に第一線で立ち向かった人々に対する敬意と謝意だけは忘れずにいたい。

(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月11日公開、通算617回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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外岡秀俊、その自転車の視点

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

自転車

3・11がまた、めぐって来る。東日本大震災から11年、被災地にいればあの日は現在と地続きだろう。だが、数百キロ離れた首都圏にいる私には昔の出来事のように思えてしまう。手垢のついた言い方だが、風化はすでに始まっているのかもしれない。

で、今回は『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)を先月に続いてもう一度読む。著者は巻頭や巻末で、震災10年後の中高生たちが「3・11とは何だったのか」という問いに直面したとき、この本を手にとってもらえたらいい、という希望を打ち明けている。私も、そう思う。前回「外岡秀俊の物静かなメディア批判」(当欄2022年2月4日付)では原発事故の被災地に焦点を絞ったので、今回は津波被害に目を転じてみよう。

前回とのダブリになるが、著者の横顔を改めて素描しておこう。著者は、朝日新聞記者だった人で編集局長を務めたこともある。去年暮れ、突然の病で死去した。2011年3月、介護を理由に新聞社を退職したが、その直前に東日本大震災に遭遇する。凄いのは、退職間際に被災地を取材して現地報告の記事を書いたことだ。もっと凄いのは、退職後ただちに被災地に戻って取材を続けたことだ。この本には、その一連の取材成果が凝縮されている。

著者が被災地の現実を最初に肉眼でとらえたのは、震災1週間後2011年3月18日のことだ。社有機の小型ジェットで現地上空を飛んだ。まずは「被災の全体像」を「鳥の目で俯瞰」したい。そんな思いからだった。眼下では仙台空港が津波に洗われ、飛行機やコンテナが散らばっていた。多賀城、東松島、石巻と北上すると、船が陸地に横たわっていた。川は橋を失い、橋脚だけが残っていた。家々は流され、ひしゃげ、重なりあっていた。

陸前高田上空まで来て、「血の気がひいた」と著者は書く。「景色が一変した。何もない。孤立したコンクリート造りの建物以外、ただ泥土と水」。その先の大船渡や釜石も同様だ。津波は防波堤をなんなく越え、「何もない」世界をそこここに生みだしていた。

この光景は、1995年の阪神大震災と比較されている。著者があのときに見たものは、強い揺れの被害が幅約1キロ、長さ約20キロの一帯に集中する「震災の帯」だった。ところが今回は、大津波が総延長500キロに及ぶ沿岸平野部を総なめにしている!

被災地を俯瞰した翌日、著者はその「何もない」世界の土を踏んだ。立ち寄ったのは、岩手県南部の藤沢町(現・一関市)にある町民病院だ。そこには、被災地支援のために全国から集まった医師たちの前線基地があった。離島の診療所から応援に来た医師は開口一番、こう言う。「情報がない、足がない」。地元医師に連絡をとろうとしても携帯電話が通じない。動き回ろうにもガソリン切れで使えない車ばかり。そんな現実があった。

著者は、その医師から衝撃的な話を聞く。津波被災地では救急優先度(トリアージ)の判定が「救急不能」と「救急不要」に二分され、途中がほとんどないというのだ。阪神大震災は家屋の倒壊が多発したので「負傷者が多かった」。ところが今回は、津波中心の災害となったので「中間の救急医療の必要もないほど、『生と死』の領域がはっきりと切断されている」――。救急の出番を許さないほどの自然現象が「何もない」世界を出現させたのだ。

では、支援の医師たちは何をしようとしたか。力を注いだのは、地元の医師たちの負担を軽減することだった。被災地では医師もまた被災者だった。だが、休診している場合ではない。住民の避難所に張りついて診療に当たることを求められた。そこで支援組が始めたのが、同業者にひとときの休息を与えるために代診を買って出ることだ。連絡をとりあうため、電話会社から利用可能な携帯電話の提供を受け、地元の医師たちに届けた。

著者は、この代診に同行している。出向いた先は気仙沼。支援の医師の仕事は「生と死」の二分をそのまま反映していた。夜は避難所で当直医を務め、生きている人々を診たが、昼は検視のために遺体安置所に赴いて、死んだ人々と向きあったのである。

安置所の遺体の約半数は、ポケットに財布を入れていた。犠牲者は津波から逃げるとき、家から持ちだしたいものがたくさんあったに違いない。だが、それらをあきらめて財布だけをポケットに突っ込んだのだ。著者はそこに「身一つ」の切迫感を見てとっている。

このことは、避難所で出会った地元漁協幹部(53)の体験談でも裏打ちされる。大津波の警報があったとき、本人は漁協にいて人々の避難を誘導していたが、そのころ、自宅も娘の家も父の家もみな流された。父は行方不明となり、残る家族も「身一つ」で助かって「財布以外はすべて失った」のである。著者はここでも、阪神大震災との違いを指摘している。阪神では、たとえ家屋が全壊してもそこから「家財道具を取り出せた」という。

著書は、大津波の猛威が街の風景をどれほど歪めたかも活写している。場所は、気仙沼の高台。標高は平地から20m余も高い。それなのに津波は、斜面を一気に乗りあげてきた。「電線や木の梢に、浮きのガラス玉や海草がぶら下がっていた」「大型スーパーの屋根には、海の怪物が運んだかのように、黄色い乗用車が載っていた」――地上の秩序がすっかり失われたのだ。あたかも超現実主義の絵画を見ているようではないか。

その街角で、著者は杖をついた女性(77)に出会う。彼女は震災の日、ここから数キロ離れた高地にいて、津波の襲来を間近に見た。まずは「黄色い水」が迫ってきた。次いで「青い水」が追いかけてきた。そして「大きな家や施設があったのを、静々と持っていった」という。「静々と」――その様子が不気味ではないか。彼女は「大東亜戦争の時よりひどい」「地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」と語っている。

こうみてくると、著者の目は津波災害の本質を鋭く見抜いていたことがわかる。それは私たちの日常を突然「何もない」世界に変える。そこでは、「生」と「死」がくっきりと分かれる。幸運なことに「生」の側に居残っても「無一物」にされてしまう。

著者は、このとき3月19日から約1週間、被災地に滞在した。私が驚くのは、東京本社に戻ったのが3月25日ごろということだ。3月末の退社日は目前だ。ふつうなら荷物の整理などで慌ただしいだろうが、彼は新聞記者としての仕事を最後まで続けたのだ。

いや、これで驚いてはいけない。著者は退社後、故郷の札幌に住むが、4月下旬に再び被災地を訪れているのだ。記者時代のようにニュースは書けない、その代わり「時間だけは、たっぷりある」。だから、「人々の遅々として進まない日々の思い」を感じとって「一緒に泣き、一緒に笑うこと」なら可能かもしれない。そう考えたという。実際にこの本でも、退社後の現地報告はそれまでとは趣が異なり、柔和な筆致になっている。

たとえば、盛岡駅からバスで宮古へ向かうときの車窓風景。遠くの早池峰山は残雪に包まれている。川の土手にはフキノトウの群落が広がっている。「こぼれ落ちるような連翹(れんぎょう)の黄色、紅白の梅の花。閉伊川沿いの眺めは、これまでモノトーンだった被災地に、ようやく明るい彩りが混じってきたかのような錯覚を与えた」――季節感が匂い立つような描写だが、その明るさが「錯覚」に過ぎないと言い添えることを忘れていない。

私が微笑ましいと思ったのは、バスを宮古駅前で降りて、取材の足を探す場面だ。新聞記者時代なら貸し切りのタクシーを使うという手もあろうが、個人の立場では難しい。著者は観光案内所で、レンタサイクルはどこで借りられるか、と聞く。窓口の女性が電話で探してくれて「駅前派出所なら」と答えた。派出所は、連絡先を書きおいただけで自転車を貸してくれたという。「黄色い」とあるから警邏用ではなかったらしい。念のため。

著者は宮古では、自治体が未曽有の災害とどう闘ったかについて取材した。この本では、役所の人々が実名を出して自身の3・11体験を語っている。市の広報担当者(50)は震災当日、高校生でヨット部員の娘の安否がわからず気を揉んだ。市教委事務局の職員(47)は、沿岸部の勤め先にいた妻と2日間連絡がとれなかった。そんな事情を抱えながら、公務員として市民の救援に当たったのだ。ここで著者は人間の顔が見える取材に徹している。

著者外岡秀俊は震災被災地の取材を小型ジェットで始め、それを自転車につないだ。これは、視線のギアチェンジでもあった。人間は「何もない」世界にいったん押しやられても、態勢を整えて生き延びる。自転車を漕ぎながら、そのことをしかと見てとったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月4日公開、同日更新、通算616回
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「渡し」で出会う人生の偶然

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

リースリング

今週も渡し船に乗り続ける。19世紀ドイツのロマン派詩人ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」という詩と、それを旋律に乗せたカール・レーヴェの歌曲をめぐる話だ。詩は、ライン川水系ネッカー川が舞台。主人公は、かつて同じ渡しに乗った亡き友に思いを寄せて……。その情景が日本人の心も動かし、詩想を語りあう人々の交流が新聞の投書欄を経由して広がったことを先週は書いた。それを「昭和版ネットワーク」と呼んだのである(*)。

私が読んだのは、『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)という本。昭和版ネットワークに連なる人々が、めいめいの視点で交流秘話を綴っている。

当欄が今回とりあげようと思うのは、人間社会にネットワークが生まれるとき、そこに偶然が関与してくることだ。この本には、この人とあの人がつながったのは偶然の妙があったからだ、とわかるエピソードが随所に出てくる。そのいくつかを拾いあげよう。

偶然がいっぱい詰まっているのは、松田昌幸さんの回顧だ。松田さんは電機会社の社員だった1970年代半ば、NHKのラジオ番組「趣味の手帳」で「渡し場」のことを知った。番組は、1956年の朝日新聞「声」欄がきっかけとなり、この詩を愛でる人々がつながったことを伝えていた。一度聴いて心に残ったが、幸運にも再放送があった。松田さんはそれをとっさに録音し、話の要点をカードにメモして、ファイルに綴じ込んでおいた。

松田さんが60歳代半ばになった1990年代末のことだ。妻が掃除中、ファイルからはみ出たカードを見つけた。偶然にも、この録音のメモだった。もう一度聴きたいと思ったが、テープが見つからない。ここで、たまたまテープのコピーを友人に贈っていたことが幸いする。その音源で番組を再聴した。「渡し場」について、もっと知りたくなる。思い立つとまず、「声」欄投書の反響を記事にした『週刊朝日』1956年10月7日号を探した。

ここでも、偶然のいたずらがある。松田さんが国会図書館に行くと、この雑誌は1956年10月分だけが欠落していたという。探しものに限ってなかなか出てこない――これは、私たちがよく体験することだ。結局、この号は東京・立川の公立図書館で見つけた。

松田さんの話で最大の偶然は、小出健さんとの出会いだ。小出さんは1956年、渡しが主題のあの詩は誰の作品か、と問うた猪間驥一さんの「声」欄投書に返信を寄せた人の一人である。『週刊朝日』にはウーラント「渡し場」の邦訳も載り、猪間さんとの共訳者として小出さんの名があった。この人に会ってみたい――幸い、誌面には住所が載っていた。番地こそないが、町域は記されている。個人情報保護に敏感な今ならばなかったことだろう。

このときの興奮を、松田さんはこう書く。「私の脳裏にボンヤリと“小出健”なる表札のイメージが浮かんでくるではないか。それもその筈、私の家から7軒目にあることに気が付くのに時間はかからなかった」。こうして二人はめぐりあい、意気投合するのである。

小出さんは2006年、松田さんに誘われてレーヴェの音楽会に出かける。そこで歌曲「渡し」を聴き終えたとき、立ちあがって一礼した。その光景が朝日新聞のコラム『窓』で紹介され、「ウーラント同“窓”会」という21世紀版のネットワークが芽生えたのだ。

「同“窓”会」は、昭和版ネットワークを引き継ぎながら新しい様相も帯びている。IT(情報技術)を取り込んで、さらなる広がりを見せているからだ。松田さんは、自身のウェブサイトでウーラント「渡し場」の話題を広めた。それを見て同“窓”会の存在を知り、仲間に入ったのが当欄に前回登場した中村喜一さんだ。先週書いたことだが、中村さんも今、自分のサイト内に「友を想う詩! 渡し場」のサブサイトを開設している。

中村さんが松田さんに初対面するまでの経緯も微笑ましい。松田さんのウェブ発信で、松田邸が小出邸の近所にあるとの情報を得た。小出邸の所在地は『週刊朝日』の記事で大まかにはわかっている。それをもとに「住宅地図とGoogle Street View」を駆使して松田邸の住所を突きとめ、「書状」で打診してから訪問したという。ストリートビュー、住宅地図、手紙、面談。デジタルとアナログが見事に組み合わされているではないか。

この本は、「渡し場」の詩だけではなく、その歌曲「渡し」にこだわる人々の軌跡もたどっている(邦題で「場」の有無は、原題に前置詞“auf”があるかないかに拠っている)。猪間さんも、詩がウーラント作だとわかると今度は曲探しに乗りだした。1961年の欧州滞在時には、ドイツの新聞に働きかけて記事にしてもらった。この時点では歌曲があるかどうかも不確かだったので、曲がないなら曲をつくってほしい、とも呼びかけたという。

詩「渡し場」にレーヴェが曲をつけているという情報は1973年、朝日新聞名古屋本社版「声」欄の投書でもたらされた。ウーラントの故郷テュービンゲンに留学経験のある大学教授からのものだった。曲の探索でも新聞が情報の交差点になっていたことがわかる。

1973~1975年には、譜面を手に入れたい、という投書が「声」欄に相次いだ。このうち1975年の1通に対しては、ドイツからも反響があった。国際放送局ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長からの報告だ。レーヴェの曲について作品番号まで調べてくれていたが、「これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが」と書かれていた。本国でも、そんなに有名な歌ではなかったらしい。

ところが、ここから急進展がある。丸山明好さんという人が、アルテンドルフさんに書面でさらなる探索を頼んだのだ。丸山さんは中央大学で猪間さんの教え子だった。手紙には恩師とウーラント「渡し場」との縁なども記した。ドイチェ・ヴェレはこれで奮起したのだろう。大学の研究者の力も借りて「渡し」の楽譜を発掘、それだけではなく東ドイツ(当時)の歌手が歌ったという音源が西ベルリンの放送局に残っていることも突きとめてくれた。

1975~1976年、楽譜と録音が丸山さんの手もとに届く。その結果、レーヴェの歌曲「渡し」もウーラントの詩「渡し場」と同様、日本の愛好家に共有されたのである。

余談だが、丸山さんには、この録音をめぐって忘れがたい思い出がある。1988年、ドイツを旅行中のことだ。特急列車に乗ったとき、アタッシェケースに「渡し」のカセットテープを入れていた。あの歌をハイデルベルクのネッカー川河畔で聴きたい、そんな思いがあったからだ。ところが、駅で下車したとき、手荷物がないことに気づく。置き引きに隙を突かれたのだろう。テープは、アタッシェケースもろとも失われてしまった。

ところが2日後、アタッシェケースが警察からホテルに届けられる。中身の金品は奪われ、テープレコーダーもなかったが、なぜかテープは残されていた。「ドイツの泥棒さん」は「几帳面で親切(?)だ」と感じ入り、いっぺんにドイツ好きになったという――。この本には、こんな小さなドラマがいっぱい詰め込まれている。書名のもととなった元朝日新聞論説委員高成田享さんのコラム表題のように「『渡し』にはドラマがある」のである。

考えてみれば、私たちの日常は偶然の積み重なりで進行している。偶然が人と人との間に思いがけない出会いをもたらし、そのつながりが人生をドラマチックに彩ってくれるのだ。この本は、そのことをさりげなく教えてくれる先輩たちからの贈りものと言ってよい。
*当欄2022年2月18日付「渡し』が繋ぐ昭和版ネットワーク
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月25日公開、同月27日最終更新、通算615回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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「渡し」が繋ぐ昭和版ネットワーク

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

ドイツワイン

「ネット社会」という用語は、いつごろから広まったのか。今、朝日新聞データベースの検索にかけると、この言葉の初出は1995年だった。インターネット元年といわれる年だ。ネット社会のネットがインターネットを含意していることが、このことからもわかる。

では、インターネット以前の世の中にネットがなかったかと言えば、そうではない。ここで言うネットとはネットワークのことであり、人と人との網目状のつながりを指している。考えてみれば、人間社会は太古の昔からネットワークをかたちづくってきた。

ただ、インターネットの人間関係は血縁や地縁、あるいは職域の縁とは様相を異にする。そこには、いくつかの落とし穴がある。たとえば、匿名性。自身の身元を隠した書き込みは誹謗中傷を誘発しやすい。しかも、困ったことに増幅効果もある。ネット論調は同調意見を雪だるま式に膨らませるので、ただでさえひと色に染まりがちだが、それが誹謗中傷をはらんだものならば、狙われた人物は集中砲火を浴びることになる……。

だが、インターネットには、こうした負の効果を差し引いても大きな魅力がある。長所をいくつか挙げよう。一つは公共性。ネットに載った情報は、だれでもいつでも触れることができる。仮想空間に広場があり、私たちはそこに出入り自由というわけだ。もう一つは関係の緩さ。これは匿名性と裏腹の関係にあるが、ネットを通じた情報のやりとりでは相手と顔を突きあわせる必要がない。私たちは適度の距離感を保った関係に身を置ける。

ふと思うのは、昔はこうしたインターネットの良さを先取りした人間関係が皆無だったのか、ということだ。もしかしたら、〈公共性〉と〈関係の緩さ〉を具えたネットワークがユートピアのように存在したのかもしれない――いや、たしかに存在したのだ!

で、今週の1冊は『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)。ここには、昭和版のネットワークが見てとれる。しかも私の心をとらえたのは、その〈公共性〉や〈関係の緩さ〉を担保するものが、新聞や週刊誌、ラジオ番組だったことだ。マスメディアにはこんな働きもあったのか――これは、元新聞記者にとってうれしい驚きだった。

本の表題と編者名には説明が要る。「渡し」は、渡し船の渡し。ライン川支流ネッカー川の両岸を行き来する船である。ルートヴィヒ・ウーラントは、19世紀ドイツのロマン派詩人。弁護士でもあり、政治家でもあった。カール・レーヴェは、同じ時代のドイツの声楽家兼作曲家。この本の中心には、ウーラントの詩とそれに節をつけたレーヴェの歌がある。そして、編者名に出てくる“窓”は、かつて朝日新聞夕刊にあったコラム名に由来する。

ウーラント同“窓”会は、「窓」欄2006年7月6日付の「『渡し』にはドラマがある」という記事で結ばれた15人(うち2人は物故者)がメンバー。記事の筆者で、当時は朝日新聞論説委員だった高成田享さんが今回、この本を編集するにあたってまとめ役を務めた。

「窓」欄記事の書き出しはこんなだった――。ドイツ歌曲の音楽会で「不思議な光景」を目撃した。「渡し」という題名の曲が終わったとき、聴衆の一人が起立して頭を深く下げたのだ。その曲は、渡し船で川を渡るとき、かつて同乗した友に思いをめぐらせたことを歌にしていた。友の一人は静かに逝った。もう一人は戦争で落命した。船頭さん、今回の船賃は3人分払おうではないか。そんな歌詞だ。では、その人はなぜ一礼したのか。

発端は、その50年前にさかのぼる。朝日新聞1956年9月13日朝刊の投書欄「声」に「次のような内容の詩をご存じの方はあるまいか」と尋ねる一文が載った。詩は渡し場が舞台。主人公は船上で、今は亡き友とこの渡しに乗ったことを思いだし、下船時に亡友の船賃も支払おうとする――そんな筋書きだったという。「どこの国のだれの詩か」。そう問うた投稿者は猪間驥一(いのま・きいち、1896~1969)さん。経済統計学者である。

今回の本『「渡し」には…』では、1956年の「声」欄を起点として2006年の「窓」欄を一応の収束点とするネットワークの軌跡が、関係者14人の寄稿をもとに再現されている。当然だがダブリの記述が多いので、寄稿群を併読してその要点をすくい取ろう。

まずは「声」の後日談。猪間さんの問い合わせには直ちに反響が多数寄せられ、その詩はウーラント作「渡し場」であるとの情報が届く。猪間さんは、そのことを8日後の21日付「声」欄で報告、27日には学芸欄にも寄稿した。その時点で反響の手紙は約40通に達していた。この話題には『週刊朝日』も飛びつき、10月7日号で手紙の幾通かを紹介している。うち1通が小出健さんのもの。当時28歳。50年後の音楽会で一礼した人だ。

『週刊朝日』によれば、猪間さんが探していたのは、小出さんが戦後、旧制大学予科の卒業直前、ドイツ語教師から贈られた詩と同一だった。君たちはこれからそれぞれの学部に進む、だが友のことは忘れるな――「ザラ紙にタイプした原詩と英訳」には、そんな思いが込められていたという。この情報提供がきっかけとなり、猪間さんと小出さんの交流が始まったようだ。誌面には両人の「共訳」による「渡し場」の邦訳も載っている。

最後の一節には、こんな言葉がある。
受けよ舟人(ふなびと) 舟代(ふなしろ)を
受けよ三人(みたり)の 舟代を

この訳詩に惹かれて「ノートに転記」した人がいる。1956年当時、高校3年生だった中村喜一さんだ。以来、この詩「渡し場」は心の片隅にすみついたようだ。長年勤めた化学会社を退職後にネッカー川を旅したりもしている。この本には、中村さんが「声」欄や『週刊朝日』の記事などをもとに作成した「日本における『渡し場』伝播径路図」が載っている。それによると、「渡し場」は日本では少なくとも二つの径路に分かれて広まったらしい。

「径路図」によると、「渡し場」を日本に最初に伝えたのは高名な教育者、新渡戸稲造。米国留学中に英訳を知ったらしい。1912年、著書に邦訳を載せた。翌年には、人気雑誌『少女の友』もこの詩を掲載している――これは、猪間さんの「声」を読んだ長谷川香子さんが寄せた情報だ。猪間さんは投書で、詩は「少年雑誌か何かで読んだ」としていたが、その雑誌は同世代異性の家族や知人が愛読していたものかもしれない。

では、小出さんのドイツ語教師は「渡し場」をどこで知ったのか。教師は旧制第一高等学校出身。一高では1913年、基督教青年会が開いた卒業生送別会で前校長の新渡戸がこの詩のことを語ったという。実はこの情報も「声」欄への反響の一つ。卒業生として送別会に居合わせた山岡望さんからもたらされた。くだんのドイツ語教師は山岡さんよりも学年が下だが、「渡し場」の話は下級生にも伝承されたのではないか、と中村さんは推理する。

「径路図」を見ていると、不思議な気分になる。詩歌「渡し場」への共感は、『少女の友』ルートと一高ルートに分かれて伝播した。それぞれには多くの人々が葡萄の房の実のように群がり、同じ一つの詩を愛してきた。興味深いのは、その系統違いの人々が数十年後、新聞の片隅に現れた1通の投書でつながったことだ。こうして昭和版ネットワークが生まれた。それを象徴するのが、猪間さんと小出さんの「共訳」という化学反応だった。

一つ、書き添えたいことがある。中村さんは1938年生まれだがデジタルに強く、自身のウェブサイトに「友を想う詩! 渡し場」というサブサイトを開設している。昭和版ネットが今はインターネットに受け継がれている――これも、ちょっといい話ではないか。
*この本の話題は尽きないので、来週もとりあげる予定。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月18日公開、同日更新、通算614回
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今ここの宇宙論という哲学

今週の書物/
『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』
伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊

無限?

今風の起業で財を成した富豪が自腹を切って地球を飛びだす。そんなニュースが去年相次いだ。一般人が宇宙を旅する時代はもうすぐ、というとりあげ方が目立つ。

だが、待てよ、である。あの人たちが体験したのは本当に宇宙なのか? 宇宙は広大だ。地球は太陽系の一部であり、太陽系は我が銀河、即ち銀河系の一角にあって、銀河系は無数に散らばる銀河の一つだ。富豪たちが出かけたのは地球の庭先にほかならない。

逆に言えば、あの人たちは――ということは私たち一般人も――この世に生まれ落ちた瞬間から宇宙に存在しているのではないか。銀河系は宇宙の一要素であり、太陽系は銀河系の一かけらであり、地球は太陽系の一員だからだ。こんなことを言うと、へそ曲がりの小理屈だな、と揶揄されそうではある。でも私は、科学記者に珍しく、本気でそう考えてきた。宇宙開発を「夢だ、ロマンだ」ともてはやすことには違和感がある。

私たち人間は、だれもがみな、自分は今、ここにいると感じている。その〈今、ここ〉はどれも、宇宙の時間と空間のなかにある。宇宙は私たちの存在の土台なのだ。それが何かは、人間にとって切実な問題といえる。夢やロマンのようにふわふわしていない。

言葉を換えれば、宇宙は哲学のテーマである。実際、ギリシャ以来いつの時代も、哲学はときどきの宇宙観を人々に提供してきた。近世以降は自然哲学者や科学者によって提示される宇宙観が数式で理論づけられ、観測で裏打ちされるようになった。ただ、そんなこともあってか、宇宙の探究が私たちの〈今、ここ〉と切り離されてしまった感がある。そうならば残念なことだ。現代の宇宙観もまた、〈今、ここ〉と無縁ではありえない。

で、今週は『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊)。著者は1949年生まれの哲学者で、京都大学名誉教授。京都の風土に根ざして研究を重ねたせいだろうか、著書では、文理の垣根を超えて宇宙論も扱ってきた。

本書は、三つの章で組み立てられている。時代区分で言えば「古代」「近代」「現代」。第1章はギリシャ(本書の表記では「ギリシア」)哲学の宇宙観を振り返り、とりわけプラトンの天文思想に光を当てている。第2章の主役は、ドイツの哲学者イマヌエル・カント。近世に一新された宇宙観を近代の哲学者がどう受けとめたかを解説している。第3章では、ビッグバン宇宙論などの20世紀科学が哲学に与えた影響を浮かびあがらせている。

プラトンについては、その著『ティマイオス』の宇宙論が素描されている。それによると、デミウルゴスという神が「設計者」となった宇宙は「調和の世界(コスモス)」をめざしていたという。だが、現実の宇宙は究極のコスモスを実現しているわけではない。

恒星が散在する天空、即ち「恒星天」は「完全な球体」であり、星々も「最高度に完全な運動である円運動」をしているので、コスモスそのものだ。ところが、太陽や月、惑星の世界はこの球体に乗っていない。とはいえ、私たちが太陽や月を見て「季節」「日時」を認識していることでわかるように、これらにも「時間という秩序」のもとになる「数学的な比例構造」が組み込まれている。だから、宇宙は全体として調和している、とみる。

本書は、これをプラトン哲学のキーワード「イデア」に対応させる。イデアとは、現実の事物の「原型」であり「模範」でもある「完全な存在」だ。恒星天はイデアの「完全」を具現しているが、太陽や月、惑星はその「似像(にすがた)」や「影」の水準にあるという。

ギリシャの哲人は、宇宙にイデアを追い求めながらもその完全版は手に入れられず、一部は「似像」や「影」で満足しなければならなかった。これは、当時の宇宙観が天動説から脱け出せなかったからにほかならない。太陽系天体の扱いに手を焼いたということだ。

ところが近世になると地動説が強まり、天動説にとって代わった。本書によれば、カントがニュートン力学を哲学の側面から支える『純粋理性批判』(1781年)を執筆したころ、天文学は地球だけでなく、太陽系そのものも宇宙の中心から外して考えるようになっていたという。これは人間観も激変させた。人間は「宇宙の片隅のそのまた片隅の、非常に辺鄙(へんぴ)なところに生存する生物」とみなさざるを得なくなったのだ。

こうしたなかで、カントは「認識論的反省」を試みる。宇宙が「とてつもなく広い世界」であるならば「全体の大きさ」はどうなのか、宇宙が無限か有限かという難題に私たちは答えを見いだせるのか――こう問うた末にたどり着いた結論は「人間は、その理性の使用によっては、宇宙の無限・有限の問題に決着をつけることができない」というものだった。人間の「認識能力」に「制約」がつきまとうことを潔く認めたのである。

宇宙の時間について考えてみよう。著者の解説によれば、有限説の根拠はこうだ。もし宇宙に始まりの一瞬がなければ、それは物事の継起が無限に続くことを意味する。継起は「完結」しないということだ。そうなると、継起の完結時点である「現在」が成り立たない。

無限説はこうなる。もし宇宙に始まりの一瞬があるなら、宇宙は宇宙が存在しない「空虚な時間」に生まれたことになる。空虚が宇宙誕生の契機を宿すとは考えられない――。こうして、宇宙の時間をめぐる問いは二律背反(アンチノミー)に直面して頓挫する。

カントによれば、私たち人間にとっての「経験的世界」は「世界の事実の実相に迫った姿ではない」。それは「現象」であって「本物」ではないのだ。私たちにできるのは「世界の事物について時間的、空間的にその位置を特定し、その事物がどのように移動したり変化したりするかを因果法則という形式で表現する」ことである。人間は「時空の枠組み」と「因果性の概念」という「認識能力」をメガネにして世界を見ているに過ぎない。

興味深いのは、このカントの洞察が現代の宇宙論に思わぬかたちで示唆を与えていることだ。まずは、ビッグバン宇宙論に触れておこう。宇宙は大爆発(ビッグバン)で始まったという見方だ(*)。1960年代、その名残が宇宙背景放射として観測されたことで今や定説になった。宇宙には始まりがあったという宇宙観だ。カントの「認識論的反省」によれば答えを出せないはずの問題に、現代科学が正解らしきものを突きつけたのである。

ところが、話は一筋縄ではいかない。宇宙初期にはビッグバンに先だつ急膨張(インフレーション)があったとする理論が現れ、そこから、宇宙は一つではないという仮説が派生したのだ。本書は、インフレーション理論そのものには踏み込んでいない。ただ、宇宙が単一でなく、別の宇宙が「並行して存在」する可能性には触れていて、そのなかには私たちの宇宙より「時間的に先行」するものがあるかもしれない、と論じている。

これは、宇宙の始まりよりも前に宇宙があるという話だ。ビッグバン宇宙論によって、宇宙の時間の有限説が力を得たかと思いきや、次いで登場したインフレーション理論で無限説が巻き返した――。カントの洞察通り、人間はやはりこの問いに答えられないのか。

本書は終盤で、地球外生命探しの話題をとりあげている。そのくだりで著者は「人類の知性が生み出した科学や技術は、宇宙の中でどの程度まで普遍的で一般的なのでしょうか」と問いかけている。これは、人間観にかかわる哲学者の問題意識だろう。天文学では20世紀末以降、太陽系のほかにいくつもの惑星系が見つかり、地球外生命の現実感が高まっている。宇宙人探しは、もはや宇宙に夢とロマンを求める人たちだけのものではない。

この本を読むと、哲学者は物事を考えるとき、どこから先は知ることができないのかという視点も持ちあわせていることがわかる。ひたすら知ろうとする科学者との違いだ。私たちが科学本と併せて哲学本を読むことの意義は、そのあたりにあるのかもしれない。
*当欄2021年12月31日付「宇宙の最期か自分の最期か」参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月11日公開、通算613回
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