アンドロイドは倫理の夢を見るか

今週の書物/
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1977年刊

脳?

「アンドロイド」という言葉を聞くと、スマートフォンのオペレーティングシステム(OS)を思い浮かべる人が多いだろう。もともとは人造人間のことだった。ロボット技術が進んで、それはヒト型ロボット(ヒューマノイドロボット)の別名になっている。

ヒト型ロボットで私たち高齢世代になじみ深いのは「鉄腕アトム」である。人間の体だけでなく心まで具えているところが最大の魅力。ただ、体のしくみについては動力源が原子力であるというようなもっともらしい説明があるのに、心のしくみはベールに包まれていた。それはそうだろう。アトムの登場は1950年代初めだった。人工の心とまでは言わないが、人工知能(AI)の研究が本格化するのは1950年代半ばのことである。

作者手塚治虫がすごいのは、パソコンやスマホに象徴される情報技術(IT)が影もかたちもなかった時代、人間の心をブラックボックスにしたままロボットの体内に埋め込んだことである。それはあのころ、ファンタジーだった。今は一転、リアルになっている。

だれが名づけ親かは知らないが、スマホOSに「アンドロイド」の名を与えた発想は見事だ。ヒト型ロボットを人間らしくしているのは、手や足や目鼻口そのものではない。手足が舞うように動くとき、目鼻口がほほ笑んだような位置関係になるとき、人間らしいな、と感じるのだ。求められるのは動きや表情を生みだす心であり、その実体は脳にほかならない。スマホにヒトの手足はないが、ヒトの脳には近づいているように思う。

ここで一つ、勝手な空想をしてみる。もし手塚が2022年の今、「鉄腕アトム」を再生させるとしたら、真っ先に手をつけるのは頭部にスマホを組み込むことだろう。もちろん、その機種はAI機能を高めた次世代型だ。これによってアトムの心は実体を伴うことになり、もっともらしさの度合いが強まるだろう。蛇足をいえば、動力源は再生可能エネルギーによる充電型電池に取って代わり、「鉄腕リニューアブル」と改名されるかもしれない……。

こうしてみると、ヒト型ロボット・アンドロイドのヒトらしさの本質は脳にある。それはAIのかたまりといってよいだろう。人間がAIに期待する役割は知的作業だ。だが、その知的作業が心の領域にまで拡張されたら、人間と区別がつかなくなるのではないか――。

で、今週は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1977年刊)。著者(1928~1982)は米国シカゴ生まれのSF作家。『偶然世界』という作品は、当欄の前身ブログでもとりあげた()。『アンドロイド…』の原著は1968年刊。翌年には邦訳が早川書房から出ている。学生時代、私はその単行本を買い込んだ気もするが、もはや定かではない。最後まで読まなかったのは確かだ。

なぜか。理由は、本を開いてページをぱらぱらめくったとき――買っていなかったとすれば書店の店先でのことだが――読む気が萎えたからだ。同様の感覚は今回、最初の1行に接したときにも再体験した。「ベッドわきの情調(ムード)オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました」。情調オルガン? サージ電流? 私は機械に弱い。この手の理系用語が大の苦手なのだ。

だが、半世紀を経て私も寛容になった。我慢をして読みつづけると、小説導入部の状況がおぼろげ見えてくる。主人公のリックは妻イーランとともに朝を迎えた。妻は、うとうとしていてなかなか起きようとしない。情調オルガンの調整でサージ電流を弱めに設定しすぎたためらしい。サージ電流とは、いわば電流の大波のことで、電気回路をパルス状に通過していく。リックやイーランの情調は電流のパルスで制御されているのである。

情調オルガンの話をもう少し続けよう。この装置の正式名称は「ペンフィールド情調オルガン」。ペンフィールドの名は、脳のどの部位がどんな働きをしているかを〈地図〉として示したカナダの脳外科医ワイルダー・ペンフィールド(1891~1976)に由来するらしい。

この作品世界では、人は情調オルガンのダイヤル操作で自分の心の状態を変えることができる。〇〇状態を××時間だけ保ち、その後は△△状態に自動的に切り替える、というように事前のプログラムもできる。心の状態のメニューは番号登録されている。たとえば、481番は「あたしの未来に開かれている多様な可能性の認識。そして新しい希望――」、888番は「どんな番組であっても、テレビを見たくなる欲求」という具合だ。

このあたりまで読み進むと、時代設定もわかってくる。リックとイーランがいるのは「最終世界大戦」後の1992年。著者は、執筆時点から四半世紀後を見通しているわけだ。最終大戦は核戦争だった。その放射性降下物は今も地球に降り注いでいる。それは大気を「灰色」にして、陽光を遮るほど。グロテスクなのは、男性用「鉛製股袋(コドピース)」のCMがテレビに流れていること。生殖器官の放射線防護が、日常のことになっている。

地球では被曝を免れないという事態は「宇宙植民」を加速させた。惑星に移り住むことだ。政府は人々に「移住か退化か! 選択はきみの手にある!」と呼びかけた。地球残留組は毎月、被曝の影響を検査される。「法律の定める範囲内で生殖を許可された人間」をふるい分けるのだ。これは、核戦争後に現れかねない新手の優生政策といえよう。そして、移住者にはアンドロイド1体を無料で貸し出すという優遇策が「国連法」で定められた。

これが、作中にアンドロイドが登場する文脈だ。主人公夫婦が口論になり、イーランがリックを「警察に雇われた人殺し」となじる場面がある。「おれはひとりの人間も殺したおぼえはないぞ」「かわいそうなアンドロイドを殺しただけよね」。どういうことか。

その事情を書きすぎてしまってはネタばらしになるので、文庫版のカバーに10行ほどでまとめられた作品紹介の範囲を超えずに要約しよう。放射性降下物で汚染された地球では「生きている動物を所有することが地位の象徴となっていた」。だが、リックが飼っているのは「人工の電気羊」だ。「本物の動物」がほしい。そこで懸賞金目当てに、火星から逃げてきた「〈奴隷〉アンドロイド」8体を処理しようと「決死の狩りをはじめた!」――。

リックの任務に欠かせないのは、目の前にいる人物がアンドロイドなのか人間なのかを見極めることだ。ロボット技術の進歩で、見た目では区別できなくなっている。作中には「フォークト=カンプフ検査」という検査法が出てくる。手順はこんなふうだ。

リックは被検者に「きみは誕生日の贈り物に子牛革の札入れをもらった」と語りかける。被検者からは「ぜったいに受けとらないわ」といった答えが返ってくるが、回答そのものは判定に直結しない。被検者の心身がどう反応するか、が問題なのだ。検査では目に光をあてたり、頬に探知器を取りつけたりする。眼筋や毛細血管の変化を測定しているらしい。反応の様子を示すのは計器の針だ。ウソ発見器のような仕掛けと思えばよい。

被検者への質問に盛り込まれたエピソードをいくつか書きだそう。自分の子どもが「蝶のコレクションと殺虫瓶を見せた」、テレビを見ていたら「とつぜん、手首をスズメバチが這っているのに気がついた」、雑誌に載ったヌード写真の女性が「熊皮の敷物に寝そべっている」、小説を読んでいたら作中のコックが「大釜の熱湯の中にエビをほうりこんだ」……。動物が災難に遭ったり、遭いそうになったりする状況ばかりが被検者に示される。

どうやらこの検査では、哺乳類であれ、甲殻類であれ、昆虫であれ、ありとあらゆる生きものに対する心的反応がアンドロイドと人間を見分ける決め手になるらしい。見落とせないのは、この作品が1960年代後半に書かれたことだ。それはエコロジー思想の台頭期に当たり、動物の権利保護運動が強まる前夜だった。アンドロイドは無機的だ。脳をどれほど人間に似せても、生態系の共感に根ざした倫理まではまねられない、と著者は見たのか。

著者は、人間らしさの本質を生態系の一員であることに見いだそうとしている。題名の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に込められた思いがようやくわかった気がした。

この作品で衝撃的なのは、リックが被検者に黒革のカバンを見せて「正真正銘の人間の赤ん坊の生皮」とささやきかける場面だ。計器の針が「くるったように振れた」が、それは「一瞬の間」を置いてからだった。この遅れで被検者はアンドロイドと見抜かれる。

AIが人間の感情を再現しようとしても、真の人間ほどには素早く反応できない。情報処理の速さが情動に追いつかなかったということか。だが21世紀のAIとなると話は別だ。フォークト=カンプフ検査をくぐり抜け、人間の座を占めてしまうかもしれない。
*「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月2日公開、通算642回
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「満洲」、軍国は外交下手だった

今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊

9月2日まで

ロシアのウクライナ侵攻を見ていて、つくづく思うのは外交の難しさだ。独裁的な権力者がいったん軍事行動に出てしまうと、それを押しとどめるのは容易ではない。対話の場を設けても暖簾に腕押し。制裁で圧力をかければ、かえって逆襲に遭う。

とはいえ、相手が手を出す前なら、できることがいくつもある。目を凝らし、耳をそばだて、相手の動きを見定める。先方の面子にも気を配りながら、先回りして包囲網を張り、不穏な動きを封じる。これがうまくいけば、無用な戦争に引きずり込まれることはない。

ところが、戦前戦中の日本政府にはその能力がなかった。たとえば、ソ連軍が終戦直前に参戦するという事態は外交で防げたのではないか。今週も『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)を読んで、そのことを考える。(*1、*2)

本題に入る前に、日本とソ連が戦争末期にどんな関係にあったかを押さえておこう。両国は日米開戦に先立つ1941年4月、ソ連の提案によって「日ソ中立条約」を結んだ。締約国の片方が第三国と戦争状態に陥ったとき、もう一方は中立の立場をとる、という内容だ。前年には日独伊三国同盟も締結されている。これによって、日本の立ち位置は定まった。独伊と組み、米英中などと向きあう、このときソ連には黙っていてもらう、という構図だ。

この交渉では見落とせない点がある。日本側は不可侵条約を望んだが、ソ連側が中立条約にとどめたということだ。ソ連は「日露戦争で失った地域の返還をともなわない不可侵条約」は国内世論が許さないとして、不可侵を取り決めるなら、そのまえに「南樺太と千島列島は、ロシアに返してもらいたい」と言い張ったという。気になるのは、このやりとりを日本政府がどれほど深く胸に刻んだか、ということだ。ソ連は本気だった。

というのも、この主張が1945年2月、クリミア半島のヤルタであった米英ソ首脳会談でも展開されるからだ。ソ連は対日参戦の条件として、戦勝時に南樺太と千島列島を手にすることを求めた。ヨシフ・スターリン首相は「私は日本がロシアから奪いとったものを、返してもらうことだけを願っている」と積年の思いを披瀝したという。この要求を、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は「なんら問題はない」と受け入れた。

ヤルタ会談では、これが米英ソの「秘密協定」になった。ところが、この事実は日本政府のアンテナにまったくかからなかった。駐ソ日本大使がソ連外相に会談の内容を聞くと、「日本問題」は議論の対象にもならなかったという答えが返ってきた。

実はそのころ、日本政府はソ連に和平仲介の役回りを期待していた。駐日ソ連大使の日記によれば、大使は2月、日本の外務官僚の訪問を受け、「調停役」は「権威」と「威信」と「説得力」をもちあわせた「スターリン元帥以外にはない」と言われたという。

同じ2月に大本営トップの参謀総長が天皇に対して反米親ソの報告をした、という話も本書には出てくる。米国は対日戦で国体の破壊や国土の焦土化を遂げなければ満足しない。これに対し、「ソヴィエトは日本に好意を有している」。そんな言葉もあったという。

内大臣木戸幸一が3月に入って知人の一人に漏らしたという言葉も衝撃的だ。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ」「結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることとなるのではないか」。木戸は、ソ連が仲介の見返りに共産主義者の入閣を求めれば応じてもよい、とすら言ったらしい。歴代政権はそれまで、治安維持法を振りかざして共産主義者を弾圧してきた。それを忘れたかのような身勝手な路線変更ではないか。

そんななかで4月、寝耳に水の情報がモスクワから届く。ソ連が日ソ中立条約の廃棄を通告してきたのだ。この条約は条文に照らせば片方から廃棄通告があっても1946年春まで有効なはずだったが、日ソ関係が不安定になったのは間違いなかった。

不思議なのは、日本政府がこれで反ソに転じるかと思いきや、逆の方向に針が振れたことだ。著者によれば、軍部にはソ連を「“敵”にしたくない」という思いが強かった。その結果、ソ連に水面下で終戦の仲介役を頼もうという流れはかえって強まったという。

1945年4~5月には、政府内で軍部対外相の論争があった。軍部は「ソ連の参戦防止のため対ソ工作を放胆かつ果敢に決行する」という方針を主張したが、東郷茂徳外相は「対ソ工作はもはや手遅れ」と抵抗した。一見、外交の責任者が外交努力を放棄したかのようにも見えるが、著者は「外相の判断は、今日の時点でみても非常に正確なもの」と評価する。軍部の愚はその後、どんな対ソ工作が構想されたかを見るとわかってくる。

政府は5月中旬、軍部の意向通り「ソ連に仲介を頼む」という決定をする。驚くのはこのとき、ソ連の労に対する「代償」をどうするかまで決めていたことだ。「南樺太の返還」「北満における諸鉄道の譲渡」「場合によりては千島北半を譲渡するもやむを得ざるべし」……といった具合だ。こちらが代償を先に用意すれば、ソ連は戦わずに得るものを得られる。結果として「戦争を回避するにちがいない」。これが「放胆かつ果敢」な工作だった。

6月、政府は元首相広田弘毅を引っ張りだして駐日ソ連大使と交渉させるが、ソ連側の反応は鈍い。7月には元首相近衛文麿を特使として訪ソさせることを決め、ソ連側に伝えた。ところが、スターリンは米英ソ首脳が敗戦国ドイツに集まるポツダム会談のことで頭がいっぱいだった。会談でも日本の申し出に触れ、こんなふうに語ったという。「特使の性格がはっきりしないと指摘して、一般的な、とりとめのない返事をしておきましょうか」

7月17日~8月2日のポツダム会談は、米英ソの駆け引きの場だった。米英は26日、日本に降伏を迫るポツダム宣言を中国蒋介石政権の同意を得て発表した。ソ連は、日本の対戦国ではないという理由で事前に知らされなかった。スターリンには焦りがあった。日本の降伏よりも早く参戦しなければ、ヤルタの「秘密協定」は水泡に帰す、戦後アジアの覇権も夢と消える――。こうして8月8日に宣戦を布告、9日、満洲に侵攻したのだ。

一連の流れをたどって痛感するのは、日本政府が国際情勢を自己中心の視点で解釈する一方、外交の力学に目をふさいでいたことだ。ソ連は1941年、たしかに日本と中立条約を結んだが、それは対独戦に集中したいなどの思惑があったからだろう。「日本に好意を有している」からとは思えない。そのことは、日本が不可侵条約を提案したときにソ連がこれを断固拒否したことからも明白だ。だが、日本政府はこの一点を見過ごしてしまった。

国際社会の先行きに対する読みも浅すぎる。米ソはドイツという共通の敵と戦ったからといって、仲良し二人組ではない。やがて競合関係になるのは必至だった。そんななか両国間では、ソ連の対日参戦と戦後の取り分が取引材料になっていた。日本政府は、これを嗅ぎとれなかった。諜報能力が乏しかっただけではない。自国の立ち位置を客体化してとらえ、それに対して世界の国々がどう動くかを理詰めで予測できなかったのである。

終戦の局面で、日本政府はいくつかの「誤断」を重ねている。一つは、降伏をめぐる「大誤断」だ。政府は、8月16日に全部隊へ停戦命令を出したことをもって「降伏は完成した」と思い込んだ、と著者はみる。だが、「降伏」の成立は9月2日の文書調印を待たなければならなかった。この間、戦地は無統制の状態に置かれた。ソ連軍が満洲を猛攻した背景には、そんな事情もあった。事前に、これを避ける手を打てなかったのか。

これに絡んでは、もう一つ「誤断」があった。8月17日ごろ、日本の外務省は在マニラのダクラス・マッカーサー連合国最高司令官に助けを求めている。満洲でソ連軍が攻撃をやめようとしないので「貴司令官においてソ側にたいし即時攻勢停止を要請せられんことを」――この要求も、的外れだった。米ソはポツダムでソ連軍の占領地域を取り決めており、その域内のことについては連合国最高司令官も口を出せないことになっていたからだ。

それにしても、である。日米開戦以来、日本政府は米国をとことん嫌い、ソ連に片思いしていた。ところが終戦前後、そのソ連から手ひどい仕打ちを受け、今度は米国にすがる。外交が下手なだけではない。節操もなさすぎる。半藤さんは、その史実も見逃していない。
*1 当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日
*2 当欄2022年7月29日付「満洲』、人々は梯子を外された
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月5日公開、通算638回
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「満洲」、人々は梯子を外された

今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊

8月

ウクライナから届くニュース映像には背筋が凍る。集合住宅の中層階にぽっこり穴が開いている。穴の暗闇には、今テレビを見ている私と同じような人々がいたに違いない。

戦争とはそういうものなのだろう。一家団欒の〈日常生活〉が、それを営む者にとっては不条理極まりない一撃で一瞬のうちに〈無に帰する〉。あの穴の闇のような無に――。

そのことは、戦場がどこにあっても同じはずだ。中東であれ、アフリカであれ、南米であれ、〈日常生活〉が〈無に帰する〉という戦争の本質は変わらない。ただ、映像で見る限り、ウクライナの〈日常生活〉は日本のそれと類似している。列島のどこにでもあるような集合住宅が砲弾に刳り抜かれ、居住空間が〈無に帰する〉ことが身につまされるのだ。あの光景を見て戦争は縁遠いものでないと感じた人々が、私たちの間には少なくないだろう。

ただ、言うまでもないことだが、77年前、日本人自身も戦争の渦中にいた。列島の主要都市は空襲の標的となった。沖縄は陸上戦に巻き込まれ、広島、長崎は原子爆弾の直撃を受けた。〈日常生活〉が〈無に帰する〉ことになった人々は日本列島に数えきれない。

そんななかで見落とされがちなのが、外地邦人の苦難である。1945年の終戦時、中国東北部には内地出身者が大勢いた。生命を奪われた人、生命を絶った人、尊厳を傷つけられた人も少なくない。だが、そのことが後続世代に十分伝わっているとは言い難い。関係者の口が重い理由には、邦人の居留そのものが日本の侵略政策と無縁でないこともあるだろう。だが、だからこそ、外地邦人が当時置かれていた状況を記憶にとどめる意味は大きい。

で、今週は『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)。著者(1930~2021)は入念な取材と史料の渉猟によって、昭和史など近現代史に迫った作家・ジャーナリスト。文藝春秋社で要職を務めた。当欄は著者が逝去した去年、代表作『日本のいちばん長い日』をとりあげている(*)。本書『ソ連が…』は1998~1999年に「別冊文藝春秋」に発表されたノンフィクション作品。単行本は1999年に同社から刊行された。

最初に「満洲」についてことわっておこう。「満洲」は、中国の遼寧省、吉林省、黒竜江省とその周辺を指す地域名だったが、今の中国では用いられない。日本のメディアも、一般記事では「中国東北部」という呼び方をしている。ただ、本書のように近現代史を跡づける書物では、史料を尊重して「満洲」「満州」を使うことが多い。今回の当欄もそれにならう。なお、私たちには「満州」の表記がなじみ深いが、もともとは「満洲」だったらしい。

当欄ではまず、在満洲の邦人たちが1945年の戦争最末期、内地の政府にどう扱われたかをたどっておこう。本書が問題視するのが、ソ連の対日参戦翌日8月10日早朝に出た大陸命1378号だ。「大陸命」は「大本営陸軍部命令」の略。東京の大本営陸軍部が、満洲国の首都新京(現・長春)に拠点を置く関東軍に向けて発したものだ。命令文の字面からは「対ソ全面作戦の発動」と読めるが、真意がそこにはないことを著者は強調する。

著者が注目するのは、対ソ作戦に乗りだす理由に「皇土ヲ保衛スル」ことを挙げている点だ。そのうえで「朝鮮を保衛スヘシ」と命じている。さらっと言われてしまうと気づかないが、「皇土」に満洲は含まれない。それは、あくまでも「満洲国」の国土だからだ。このとき、大本営上層部は「主敵アメリカの上陸作戦」とそれに対する「本土防衛」しか頭になかった。命令は、関東軍の主務であるはずの「満洲国防衛」に言及していない。

著者によれば、大陸命1378号の真意は「満洲放棄」と「朝鮮へ後退持久」だった。ところが命令文は、その作戦にあたって「一般民間人」をどう保護するかに触れていない。著者は、そこに一分の理は認める。戦争では、戦闘員が非戦闘員に「接触しない」のが「原則」であり、非戦闘員を「紳士的に保護」するのが「道義」だからだ。だが、現実は違った。日本の軍部は「ソ連軍に信頼をかけすぎていた」。ここに「判断の誤り」があるという。

もう一つ、この大陸命1378号には問題がある。軍部の機能不全だ。著者によれば、この命令は示達前日の9日午後6時前後に確定していた。その後まもなく10日未明、御前会議で一つの聖断が下る。連合国のポツダム宣言に応じて、天皇制に変更を加えないならば降伏しようというものだった。ところが大本営陸軍部中枢は、この聖断を受けて「動きらしい動きをほとんどみせていない」。1378号を「再考し、変更する」こともなかったのだ。

10日未明の聖断は、そのままポツダム宣言受諾とはならなかった。連合国側は無条件降伏を求めていたので、日本が一つでも条件をつけたことに納得しなかったのだ。ただ、これが転換点となり、戦争終結の流れは定まった。こうして14日、受諾の聖断に至る。

考えてみれば、この状況は混沌の極みだ。政府は、国としては終戦に舵を切った。それなのに関東軍に対しては表向き、新たな敵となったソ連と戦うよう号令をかけている。筋が通っていない。しかも、現地に居留する邦人たちは蚊帳の外に追いだされているのだ。

実をいえば、蚊帳の外はこのときに始まったことではない。1944年、太平洋方面での対米戦で敗色が濃くなると、陸軍中枢は「関東軍の精鋭師団の南方転用」に踏み切った。ただ、師団の移動は攻撃の的になりやすい。だから、この動きは厳秘だった。民間人も軍が離れたと知れば、大挙して退去するだろう。これは、敵に気づかれるきっかけになる。「敵を欺くにはまず味方から」。在留邦人は軍事行動のカムフラージュに利用されたのである。

こうして関東軍は「空洞化」された。関東軍自身も1944年夏、「今後は防衛を第一とする」という方針に切り換えている。このとき、満洲国で進行中の振興計画は中断された。それなのに「民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げる」などの指示は出ていない。

著者はここで、関東軍が邦人の満洲移民を牽引した歴史を振り返る。開拓団が「現地住民を追いはらってまで」入植に心血を注いだのは関東軍に対する信頼があったからだという。ところが、陸軍中枢が南方と本土の防衛を優先して関東軍を見限ったとき、「関東軍はそれならばと居留民と開拓団を見捨てた」。日本の軍国主義は民間人を侵略政策の最前線に送り込んだ挙句、最後の最後にその梯子を外したのである。罪深いというしかない。

本書には「歴史的汚点」とされる史実も記されている。ソ連参戦翌日の8月10日、さすがに関東軍も新京一帯に住む邦人婦女子の後方避難を決める。当初は民間人家族→官僚家族→軍人家族の順で列車に乗せる方針だったようだが、11日昼までに用意された計18便に乗れたのは軍や大使館、満鉄(南満洲鉄道)関係の家族が大半だった。軍人家族は機敏に動けるので避難行動の「誘い水」にした、という軍部の言い訳は空々しい。

こうして満洲は、慌ただしく8月15日を迎えた。だが現実には、この地には諸般の事情から終戦がなかったのだ。本書によると、関東軍が戦闘をやめたのは最後まで山中で戦っていた師団が武装を解いた8月29日。居留邦人の多くはこのときまで、いや、このときを過ぎても取り残され、危険にさらされ、苦難を強いられた。本書は、現地で何があったかを丹念に掘り起こしている。ただ、当欄はそれをなぞらない。あまりにも悲惨だからだ。

一つだけ、印象深い話を拾いあげておく。8月22日、関東軍が総司令部庁舎をソ連軍に明け渡したときのことだ。退去後も居残ることになった日本人が一人だけいた。地下室でボイラーを焚く老人だ。とどまってほしいというソ連軍将校の意向を受けて関東軍将校が老人に打診すると、「身寄りのないものゆえ、どこで死んでもいいから残ります」と言ったという。この言葉に、祖国から突き放された者の諦念を感じるのは私だけか。

さて私は先ほど、満洲で戦闘の終結が遅れた理由を〈諸般の事情から〉と書いた。その事情の過半は、日本外交の拙さに原因する。弱点は、終戦前後に次から次へ露呈した。著者の筆はそれらを鋭く突いている。次回は、そのあたりのところを浮かびあがらせる。
*当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月29日公開、同日更新、通算637回
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経済学もヒトの学問である

今週の書物/
『〔エッセンシャル版〕行動経済学』
ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊

財布

コロナ時代、高齢者最大の楽しみは散歩である。足を延ばしても、せいぜい隣駅くらい。半径1kmほどの圏内を歩きまわる。それで毎日、出かけるまえに悩むのは「きょうは、どっち方面をめざすか」。気まぐれな散歩にも、とりあえず目標は必要なのだ。

そんなとき、家人に「なにか、買ってこようか?」と申し出る。野菜であったり、豆腐であったり、焙煎コーヒーの粉であったり、夏の冷菓であったり、シャンプー類であったり……候補はたくさんある。何を買ってくるかが決まると、目当ての店を経路に組み込む。

おつかいを言いつけられた子どものようにも思えるが、ちょっと違う。私は、買いものを命じられているのではない。散歩しようという気持ち――いわゆる、モチベーション――を高めるため、自分で自分に任務を課しているだけ。それでわざわざ、家人に買いものの発注を促しているのだ。結果として、ある日はスーパー、別の日は豆腐店、あるいはコーヒー焙煎店……と散歩の目標が定まり、日々異なる方角をめざすことができるようになる。

もう一つ、子どものおつかいと異なるのは、買いものの代金がいつも自分の財布から出ていることだ。子どものように100円硬貨何枚かを握らされ、「おつりがあったらお駄賃ね」ということはない。で、ある日、家人が「生活費なんだから、別途支給しましょうか」と言ってきた。このとき、私の口をついて出た言葉が「とんでもない」だった。買いものによって散歩のモチベーションを得ているのだから「払って当然」と思えたのだ。

私の財布も家計の一部とみれば、どちらでもよい話かもしれない。ただ、ここでは私の財布、即ち小遣いを家計から切り離して考えよう。豆腐を例にとると、本来は家計が支出すべき代金を私は小遣いから支払っている。1丁買った場合、自分が食べる半丁分だけでなく、1丁分をまるごと負担しているのである。でも、それを不満に思わない。それどころか、幸せを感じている。私は意外と気前のよい人間なのか――そう思いかけて、ふと気づいた。

これは、経済学の枠組みにかかわる問題なのではないか? 私個人と私の家庭、近所の豆腐店から成る小さな経済圏で、豆腐1丁の売り買いがあったとする。従来の経済学なら、そこに存在する価値は、豆腐という物品とその対価である通貨に尽きるだろう。ところが私個人の損得空間では、この取引に散歩のモチベーションというもう一つの価値が付随する。それをいくらとみるか評価は難しいが、少なくとも豆腐1丁よりは値打ちがあるみたいだ。

で、今週は『〔エッセンシャル版〕行動経済学』(ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊)。著者は、英国ケンブリッジ大学で学位を得た経済学者。本書の刊行時点ではオーストラリアの大学で教授職にある。原著は2017年刊。英国オックスフォード大学出版局の“Very Short Introductions”シリーズに収められている。「エッセンシャル版」は、この意訳と思われる。邦訳単行本は、早川書房が2018年に刊行した。

第1章には、行動経済学とは何かが従来型の経済学との対比で素描される。従来型の経済学は「人間は数的計算を完璧にこなす生き物」とみる。ところが、行動経済学は「人間をとことん合理的な生き物とは考えない」。人間の意思決定は、いくつもの制約を受ける。認知機能には限界があるから、なにもかもは覚えていられない。一定時間に処理できる計算も高が知れている。その結果、非合理な選択をすることもあるというわけだ。

これは、研究手法にも反映される。従来型の経済学は、マクロ経済の指標を相手にしていた。ところが行動経済学では「何が人々の選択を決定づけるのか」が問題になる。ここで役立つのが実験だ。経済活動の一場面を想定して、被験者がどんな選択肢をとりやすいかを調べたりする。脳神経科学の研究でおなじみの機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使って、意思決定が脳内の反応とどうかかわっているかを探ることもあるという。

第2章の章題は「モチベーションとインセンティブ」。本書は、この2語を厳密に使い分けていないが、前者は「動機づけ」、後者は「動機づけのための刺激」ということか。著者が強調するのは、行動経済学の見方では経済活動の意思決定が「金銭的インセンティブ」だけに左右されないこと、「さまざまな社会経済的・心理的要因」の影響も受けることだ。自身が学者でいるのも「非金銭的なモチベーション」による、と打ち明けている。

著者は、モチベーションを「外発的」「内発的」に2分類する。「外発的」の代表例は給料など金銭的な報酬だが、非金銭的な「社会的承認」や「社会的成功」も含まれる。一方、「内発的」は「個人の内なる目標や姿勢」に起因する。「誇り」「義務感」「忠誠心」、そして「難問を解く楽しさ」「体を動かす喜び」――私の場合、豆腐1丁の買いものはこの喜びに突き動かされていたのだ。だから、お金を払うことくらいどうということはない。

第3章は、「社会生活」と題している。従来型の経済学は、経済活動をする人間を「利己的な生き物」とみなし、意思決定にあたっても「他の人々のことなど気にしない」と想定する。だが、行動経済学の視点に立つと「周囲の人々」の影響は無視できない。

この章で私たちの感覚にピンとくるのは、「ハーディング現象」だ。「群れ」のherdに由来する。「他の人々と同じ行動をとろうとする」ことや「他者の行動から学習する」ことをいう。日本社会に特徴的な「同調圧力」も同類だろう。本書によれば、他者をまねる経済行動は「ミラーニューロン」に関係するという見方もある。ミラーニューロンは模倣にかかわる脳神経細胞だ。経済学が細胞レベルで探究される時代になった。

「社会生活」が経済行動に与える影響はハーディングだけではない。「不平等回避」もその一つだ。一定額の予算をA、B二人がどう分け合うか(Aの提案にBが同意しなければ両者とも獲得金額がゼロになる)という実験で確かめられるという。実社会では、ボランティア活動への参加や慈善団体への寄付などが、これに当たる。「利他的行為」ではあるが、「自分が善良で気前のよい人間だとシグナリングする」という思惑も介在する。

第4章「速い思考」のキーワードは「ヒューリスティクス」だ。ここで著者がもちだすのは「選択肢の過負荷」や「情報の過負荷」。候補が多過ぎ、情報もあり過ぎて、何を選ぶか困ってしまう状況だ。こうしたときにAI(人工知能)なら、情報を一つ残らず処理して意思決定に至るはず。だが人間は「複雑な計算に時間と労力をかける」ことをせず、「シンプルな経験則を活用して」素早く決める。この経験則をヒューリスティクスという。

一例は「利用可能性ヒューリスティック」。著者は旅行を手配するとき、いつも同じ旅行会社に頼むという。その結果、他社の「お得情報」の恩恵は受けられなくなる。それでも馴染みの会社には過去の利用履歴が残っていることもあり、なにかと便利というわけだ。

第5章「リスク下の選択」では「確実性効果ゲーム」の話がおもしろい。参加者にa)3週間欧州周遊の旅とb)1週間英国内の旅を提示して、a)を選べば50%当選、b)ならば100%当選ともちかけると、78%の人がb)を選択した。ところが、当選率の設定をa)5%、b)10%に改めると、a)を選ぶ人が67%を占めた。逆転したのは、100%保証の選択肢が消えたせいか。私たちは「確実な結果には不確実な結果より価値を見いだす」のである。

第6章「時間のバイアス」も実生活で実感する。ケーキを「今日食べるか、明日食べるか」と聞かれて「今日」と答える人は、1年後に食べるか、1年と1日後でもよいかと問われたら1年後と回答する――こうみるのが従来型の経済学だ。ところが行動経済学の視点でいえば、「今日」か「明日」かで「今日」を選ぶ人が1年ほど先の1日の違いにこだわるとは限らない。「時間選好」は、ちょっと先とだいぶ先とで違ってくるのだ。

本書は第9章まであり、行動経済学の新知見が満載なのだが、当欄はとりあえず、ここで打ちどめにする。これだけのことからでもわかるのは、旧来の経済学が不条理にも、人間を経済の合理性にのみ従う〈ホモ・エコノミクス〉の型に押し込んできたことだ。人間はなにより生きものとしてのヒトである、社会集団の一員でもある、能力は無限ではなく、有限の時空を生きている――そういう当然のことが、ようやく経済学を変えつつあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月22日公開、通算636回
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ソシュールで歴史の呪縛を脱する

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

共時的

今週も、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語観を追いかけながら、私の青春期に一世を風靡した構造主義に迫ることにしよう。

思いだされるのは、構造主義が語られるときに「共時的」と「通時的」という一対の用語が必ずと言ってよいほど出てきたことだ。「意味するもの」(シニフィアン、能記)と「意味されるもの」(シニフィエ、所記)と同様、日常生活には馴染みのない概念だった。

「共時的」も「通時的」も、字面をじっと見ていれば意味が伝わってくる。数学の授業を思い起こしてみよう。先生が黒板に線を1本引いて「これは時間軸です」と言う。t=0分後、t=1分後、t=2分後……軸上の各点は異なる時点を表しているから「通時的」だ。ここでt=1分後の点で別の軸が直交していて、その軸上にx=0m、x=1m、x=2m……という地点があるとすれば、これらはどれもt=1分後の位置だから「共時的」だ。

私たちの日常は共時的でもあり、通時的でもある。職場の人間関係に悩むという状況を考えてみよう。悩みごとは、自分が今どんな人々とどういう仕事をしているか……といった現在の事情によって起こるから共時的だ。その一方で、自分はこれまで仲間たちと仲良くやってきたか……など過去の事情も影響してくるだろうだから、通時的ともいえる。私たちはふつう共時と通時を切り分けて考えないが、構造主義は違うらしい。

構造主義は世界を共時的にとらえる、と私は理解してきた。ただ、それは青春期の読書のおぼろげな記憶にもとづく。そこで今週も『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)を読み、これを再確認したい。

実際、本書を読み進むと「言語体系の観点からは、重要な事実は共時的事実である」という記述に出あう。ソシュールが「共時」を重視しているのは間違いないらしい。当欄は前回、ソシュール言語学が「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系を提出する」という本書の記述を引いたが、実は、その「要素」にも「共時的体系の」という限定がついていた。「共時的体系の要素」しか相手にしないということだ。

本書によると、この問題でソシュールはfoot(足)とその複数形feetの変遷を初期アングロ・サクソン語の時代からたどっている。その音を片仮名書きで表すと、単数形はずっと〈フォート〉が続くが、複数形は最初〈フォーティ〉だったのが〈フェーティ〉となり、さらに〈フェート〉に変わった。これが現在の単数形〈フット〉、複数形〈フィート〉に行き着いたということだろう(母音を伴わないt音は便宜的に「ト」と表記した)。

ソシュールは、〈フォーティ〉→〈フェーティ〉→〈フェート〉の変化を偶然の仕業とみる。それは「あらたに取り込んだ意義をしるすべく運命づけられたものではない」。たまたま出現した一対の言葉を「単数・複数の別を立てるために流用」しているだけだ。

この話は、ソシュール言語学ではおなじみの「ラング」と「パロール」にもかかわる。ラングには「言語体系」、パロールには「発話行為」の意味あいがある。ソシュールの視点に立てばラングは「本質的」だが、パロールは「偶然的」だ。ソシュール言語学は、ラングすなわち「言語体系」の「単位」と「結合法則」を見定めようとしている。footの複数形の推移は、パロールすなわち「発話行為」の領域に属するから重要視しない。

ソシュールは「共時的事実」を「通時的事実」から切り離した。あくまでも注目するのは「同時に存在する二つの形式のあいだの関係ないしは対立」だ。〈フォート〉対〈フォーティ〉、〈フォート〉対〈フェーティ〉、〈フォート〉対〈フェート〉がこれに当たる。

この「共時」の重視は、当時の言語学界を根底から揺るがすものだった。「恣意性」への着眼などでソシュールにも影響を与えた米国の言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーも、「言語学は歴史的科学でなければならない」との立場は捨てなかった。「通時」の研究にこだわったのだ。だが、ソシュールが目を向けたのは「歴史上の連続性」ではなく、「共時」の次元で「意味の差異」を生みだす機能、すなわち「示差的機能」だった。

ただソシュールも、発話行為で生じる「歴史的変化」が言語体系に「影響を及ぼす」ことまでは否定していない。ラングも、パロールの「偶然的」なゆらぎに無縁でないわけだ。このことをどう考えるべきか、私にはまだわからない。これからの読書の課題としよう。

ここで、近代思想が歴史的なものの見方と切っても切れないことを思い返したい。ヘーゲルの歴史哲学がそうだろう。マルクスの史的唯物論も同様だ。だが、歴史にとらわれることには落とし穴がある。私たちが参照できる歴史が一つしかないことだ。歴史はやり直すことができない。これに対しては反論もあろう。世界にいくつもの文化圏があり、それぞれ歴史が異なるからだ。だが現実には、これまで欧州史が偏重されてきたのではあるまいか。

そんな状況を知ってか知らずか、ソシュールは歴史をスパッと切り捨てた。「共時的体系」に焦点を当てた探究ならば、一つの文化圏に目を奪われることなく、それぞれの文化圏の言語を相対化できる。欧州という一地域の事情に惑わされることもなく、地球規模の言語学を築くこともできるだろう。こうしてみると、ソシュールが言語学で採用した構造主義の手法が文化人類学など別分野にも取り込まれていった展開が腑に落ちる。

本書によれば、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「言語学と人類学における構造分析」という論文で、ソシュールが「辞項間の関係」の研究で、話し手が意識していない「関係」の体系にも迫ろうとしたことに注意を喚起している。人類学者も「行為」や「事物」を「記号」として考察するとき、人々の意識にはない「関係」の体系にも目を向けるべきだという。「関係」重視の構造主義はこのようにして裾野を広げたのである。

構造主義は1960~1970年代、ポスト構造主義と呼ばれる新しい思潮の台頭で批判にさらされた。背景には、研究者風の客観的な姿勢に対する不満もあったらしい。これは私が若いころ、構造主義をマルクス主義や実存主義と同列に扱うことに違和感を覚えた経験に一脈通じている。俗な言い方をすれば、私たちの生き方にヒントを与えてくれないのだ。とはいえ、構造主義はポスト構造主義によって全否定されてはいない。

私が一つつけ加えれば、構造主義は科学の要素還元主義批判にも結びついている。今や物理世界を探るには、物質の最小単位クォークを見つければよいわけではない。生物世界を理解するにも、DNA塩基配列の遺伝情報を読みとるだけではダメだ。要素と要素の「関係」を調べるところから始めなくてはならない。一方、今日のネットワーク社会は文字通り、私たち自身を人と人との「関係」の海に誘い込んでいる。「構造」は今や旬なのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月15日公開、通算635回
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