小池真理子が抉る家庭幻想のひび

今週の書物/
「妻の女友達」
=『妻の女友達』(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収

コロナ禍の3年間にもっとも存在感を示したのは、「家」かもしれない。家といっても、社会のあちこちに残滓が残っている家制度のことではない。入れものとしての家だ。戸建てであれ、集合住宅であれ、外部世界を物理的に遮断した空間のことである。

新型コロナウイルス感染症が広まりだすと、「ステイホーム」が叫ばれた。高齢者だけではなく働き盛りの世代まで、なるべく家にとどまるように促された。在宅勤務が推奨され、「テレワーク」「リモートワーク」も広まった。家が生活の主舞台となったのだ。

買いものも外食も極力控えた。それでふえたのが宅配サービスだ。通販で買ったもの、デリバリーを頼んだものが家に届けられる。その結果、「置き配」が日常化した。配達人は玄関先に物品を置いて帰る。支払いも今はデジタル決済で済ますことができるから、直接の受け渡しがなくとも用は足りた。コロナ禍の脅威が高まり、人と人の接触を減らすことが叫ばれていた一時期、私たちは貝が殻に身を潜めるように家に籠ったのだった。

ただ、家が閉鎖空間の性格を強めたときでも、その内側には多彩な社会が存在した。そこにあるのは、社会の最小単位としての家庭だ。夫婦二人ということがある。夫婦に子が一人もしくは複数という構成がある。親一人に子がいるというパターンがある。老老介護のような高齢者世帯がある。そして、独り住まいの家庭も少なくない。私たちはコロナ禍によって内向きに暮らしたことで、いつになく家庭を意識したのではないか。

それでふと思うのは、今は家庭がとらえどころないということだ。家庭が多様なのは昔も変わらない。私が幼かったころは戦争が終わって間もなかったから、寡婦や父のない子もあちこちにいた。だが、それでも当時の人々には、家庭らしい家庭というものに固定観念があった。父がいて母がいて子どもがいる、ときには子の祖父母もいる――そんな絵に描いたような家庭像を描くホームドラマが、ラジオやテレビにあふれ返っていた。

で、今週の一編は、そんな家庭像がまだ辛うじて有効だった時代に書かれた短編ミステリー。小池真理子の「妻の女友達」だ。同名の短編集(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収のものを読む。この作品は1989年、日本推理作家協会賞(短編部門)を受けている。1989年といえばバブル経済期。日本社会には、まだ高度経済成長の遺産があった。ここで提示された家庭のイメージは、その遺産の一部といえないこともない。

主人公の広中肇は、38歳の地方公務員。市役所の出張所に勤めている。担当は戸籍係で、「やるべきことを機械的にやっていればいい」という仕事をこなしていた。出張所は、田園地帯の面影が残る私鉄沿線の住宅街にある。肇は毎朝、妻の志津子から手製の弁当を受けとり、自転車を漕いで出勤、毎夕きっかり午後5時に職場を離れた。帰路、寄り道することはなかった。安定しているが、退屈といえば退屈。でも、不満な様子はない。

結婚は5年前。見合いだった。志津子は「優しくて気配りのきく家庭的な女」であり、「少ない給料をやりくりする能力」も持ちあわせていた。「清楚で控え目な感じ」が魅力だったし、「平穏な家庭生活を育もう」という姿勢も好ましかった。肇は「満点をやってもまだ足りないいい女房」と思っていたのだ。「家庭的」「やりくり」「控え目」……配偶者は専業主婦であって当然、とみる当時の男性目線を反映した言葉が並んでいる。

肇と志津子には、ちえみという3歳の娘がいる。一家はリビングと二間から成る貸家住まいだが、あちこちに縫いぐるみやモビール、人形の家などが飾られていた。娘を思う母親が手づくりしたものばかりだ。志津子は、良妻賢母の見本のような女性だった。

この作品は、その家庭の安定にひびが入っていく様子を淡々と描きだしている。志津子は初夏の或る晩、夕食を終えた後、肇に新聞の折り込み広告を見せながら「おずおずと」切りだす。「通ってもいいかしら」。駅前でカルチャーセンターが開校した、フランス料理の講座もある、週一度だから受講してもよいか――そんな話だった。「でも、あなたがその必要がない、とおっしゃるのなら、やめます」と、どこまでも控え目だ。

夫「きみが通いたいなら、かまわないよ」。妻「ほんと? いいの?」。夫「いいとも」。このやりとりには、妻は夫の管理下にあるという大前提があるように感じられる。

同じ夜のことだった。広中家にはもう一つ、異変が起こる。午後9時近く、突然電話が鳴り響いたのだ。肇が受話器を取ると、「もしもし? 広中志津子さんのお宅でしょうか」。女性の声だ。多田美雪と名乗った。肇は志津子に向かって「きみの友達じゃない?」と聞く。「美雪さん? まさか、あの美雪さんじゃ……」。志津子には心当たりがあるようだった。高校時代の級友。渡米して帰国後「女流評論家」となり、今はメディアの寵児だ。

志津子は電話口に出ると、短い会話を交わしてすぐ受話器を下ろした。多田美雪は今から立ち寄りたい、と言ったという。もう、そばまで来ているというのだから強引な話だ。だが、志津子に迷惑がる気配はない。「いいでしょう?」と肇に同意を求める。

志津子は、多田美雪がどれほどの著名人かを語って聞かせる。筆名が「ジャネット・多田」であることや「アメリカ人の男の人と結婚して、別れた話を書いた本」が話題を呼んだことだ。その本は「あなたに見せたでしょう?」と言う。肇も、そのことは覚えている。『ブロンドの胸毛と暮らした日々』というエッセイ集だった。題名に嫌悪を感じて読む気にはならなかったが――。このあたりから、家庭の安定を脅かす異物の影が見えてくる。

筋を逐一たどるのはネタばらしになる恐れもあるので、このくらいでやめよう。ただ、ミステリーにかかわらない範囲で、もう少しだけ話を進めておく――。多田美雪は、たしかに来宅する。「講演会の帰り」ということで、そのいでたちは「映画やテレビでしか見ることのできない女優のようだった」。ハイヤーで帰途についたら「志津ちゃんのこと」が思い浮かんで電話をかけたという。それは、旧友に対する友情の表れとばかりは言えなかった。

美雪の本音は、志津子に「身の回りの世話」をしてもらえないか、ということにあった。家政婦のような見ず知らずの人は家に入れたくない、週に一度でいいから留守中に合鍵で入って掃除や片づけをしておいてくれないか――。志津子は困惑しつつ、うれしそうな表情も見せて、肇の顔をうかがう。肇は「きみの好きにしたらいいよ」と言うしかない。こうして話はまとまる。これが家庭の安定を揺るがす一連のゴタゴタの始まりだった。

作者が巧妙なのは、1980年代末の価値観の移ろいをあぶり出すのに、二つの極端を遭遇させたことだ。片方には専業主婦、良妻賢母という旧来の女性像がある。もう一方には、自身の体験を赤裸々に語って飛躍する女性の生き方がある。両者は互いに異物であり、相互作用がないように見えながら、実はどこかで通じている。どちらの側の女性も同時代人だからだ。或る夜、片方がもう一方と接触したことで、そこに化学反応が起こる。

家が殻になった今、美雪が志津子の家にふらりと現れることもあるまい。私たちは異物に触れる機会がめっきり減った。それがよいかどうかは別の話だが。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月23日公開、通算683回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
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タクシーの推理、超ロング客の謎

今週の書物/
『一方通行――夜明日出夫の事件簿』
笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊

乗り場表示板

このところ、硬い本が続いた。ここらで、ちょっと息を抜こう。私の息抜きは、テレビの前に寝転がって、ひと昔前、ふた昔前の2時間ドラマをほろ酔い気分で観ることだ。今回は当欄も、同じような脱力状態で前世紀ミステリーの世界をさまよってみよう。

2時間ドラマの人気シリーズといえば、十津川警部、浅見光彦、霞夕子……と年齢性別さまざまな主人公がいる。夜明日出夫もその一人。「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系列)に、元警視庁捜査一課刑事のタクシー運転手として登場する。

「タクシードライバー…」は、定型化が際立つ2時間ドラマだ。たとえば、冒頭場面。渡瀬恒彦演じる夜明がハンドルを握っている。すると、後部座席で大島蓉子演じる中年女性客が、わがままを言ってひと騒動引き起こす――。いつの間にか定着した前振りの賑やかしだ。ただ、ドラマの本筋とは関係ない。ドタバタが一段落して、次に乗ってくる〈2番目の客〉が問題人物。どこか謎めいている。こうして視聴者は事件を予感する。

シリーズは回を重ねるごとに、こんな〈お約束〉が生まれ、視聴者が筋の流れを読めるようになった。夜明は〈2番目の客〉の信頼を勝ち得て、ご指名で迎車を頼まれるほどになる。無線で駆けつけた〈2番目の客〉の仕事場は、偶然にも夜明の娘あゆみが働くアルバイト先だった。親子は、そこでばったり対面する……。細部にまで定型ギャグが張りめぐらされている。規格化された部材で組み立てられたプレファブ建築のようだ。

実は、この定型化こそ2時間ドラマの魅力だ。「タクシードライバー…」は、始まって10分ほどで犯人の目星がつく。30分もすれば事件の構図が見通せる。あとはウトウトしていてもいい――。これは、2時間ドラマの商品価値の一つと言ってもよい。

「タクシードライバー…」シリーズについては実は6年前、当欄の前身ブログでもとりあげている()。あのときは「定型化」を別の視点から説明した。その一節はこうだ。

《このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある》

この推察は、さほど見当違いではなかろう。テレビドラマには、小説にない制約がある。登場人物の顔がすべて公開されていることだ。美しいが翳のある女優が画面に現れたら、フーダニットの答えは見えているも同然ではないか。だから、制作陣はフーダニットを最初からあきらめ、別の選択をした。事は予想通りに運ぶ。その結果、安心して観ていられる。この価値を極大化したのが「タクシードライバー…」シリーズだと言ってよい。

では、シリーズの原作はどうか。

今週は、『一方通行――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊)を読む。1992年、「小説現代」臨時増刊に発表された長編推理小説。同年、「講談社ノベルス」の1冊としても刊行されている。著者が1990年から手がけた夜明日出夫ものの第6作に当たる。調べてみると、この1編も1994年、シリーズ第4作としてドラマ化されている。〈2番目の客〉となるのがめずらしく男性で、その役を寺尾聰が演じたらしい。

原作の冒頭部はどうか。冬の午後、夜明は東京・江古田界隈を走っている。乗客は女子高校生らしい二人。「そこで、停めて!」といきなり叫ぶ。メーター料金をきっかり2で割り、それぞれ千円札と小銭を出しあう。マイペースだが、大島蓉子ほどの毒気はない。

この小説には、前振りがもう一つある。女子二人が降りた後、「ドロボー」という絶叫が聞こえてくる。バイク男が女性の通行人からハンドバッグを奪ったのだ。夜明はタクシーの向きを変えてバイクの行く手を阻み、ひったくり犯がバイクを乗り捨てて逃げようとするところを取り押さえた。パトカーが駆けつけたとき、最年長の警官が驚いたように言う。「ああ、夜明警部補じゃありませんか」。この一幕はテレビでも見た記憶がある。

〈2番目の客〉は、原作も男性だった。40代後半か。黒のスーツを三つ揃いで着こなしている。サングラスで目もとを隠しているが、「知的で繊細で、いわゆるインテリの顔」だ。とりあえずの行き先は、神奈川県の川崎港。18時発のフェリーに乗るのだという。

男は江古田に自宅があるが、訳あって5年間も東京を離れていた。最近帰京したが、ホテル住まい。家には妻がいるのに帰宅しない。今も門の前までは行ったが、呼び鈴ひとつ鳴らさず、引き返してきたという。謎だらけだ。〈2番目の客〉の必須要件を満たしている。

その男が、車内の運転手表示を見て「夜明日出夫さんか」と独りごとのように言い、爆弾提案をする。「夜明さんにも、旅行に付き合ってもらうわけにはいきませんかね」。自身の名が「井狩真矢(しんや)」であること、今回は船で宮崎県日向に渡り、そこから陸路で九州を横断、長崎県の雲仙温泉で泊まるつもりであることを打ち明けた。「ブラッと出かける」旅だ。飛行機でひとっ飛びしないのも「旅の途中」を大事にしたいからだという。

井狩の考えでは、九州では陸上区間のすべてをタクシー1台にまかせる。ということは、全行程で運転手を束縛することになる。井狩はフェリー代や高速道路料金、宿泊費を負担したうえで、往復の走行の対価として45万円を支払うという。運転手の立場でいえば、願ってもない長距離(ロング)の客だ。夜明は、テレビでもこの手の上客にしばしば恵まれて「ロングの夜明」の異名をとるが、これほどの「超ロング」はめったにない。

井狩がもちかけた話は不自然だ。「旅の途中」を楽しみたいなら九州上陸後にタクシーを借り切ればよい。なぜ、フェリーの船旅にまで東京のタクシー運転手を車付きで同行させるのか。井狩は、日向でタクシーをつかまえて雲仙までと頼むのが「何となく面倒で億劫」と言うのだが、説得力はない。ただ、不自然さが漂うからこそ、なにか底意を感じてしまう。井狩の胸中にどんな企みがあるのか、読者もあれこれ思いをめぐらすことになる。

作中には、運転手側の事情も書かれている。1)突然ロングの発注を受けると営業所への帰庫時間を守れない2)タクシーは二人の運転手が1台を交代で使っているので、一人が何日間も乗るには相方の了解がいる3)昼夜ぶっ通しの仕事は二人一組で引き受けるのが原則――。法令から当局の指導、営業所の規則まで、運転手には諸々の縛りがある。その一方で、ロングが一定距離以上に及ぶなら客の求めを断ることも認められているらしい。

ただ、今回は幸運にも上記三つの難関を切り抜けられそうだった。このころ、業界は運転手不足が深刻で1台に二人を割り当てることが難しくなり、夜明は1台を独占していたからだ。これで1)と2)は突破できる。3)は労働時間の制限にかかわるので微妙だが、フェリー乗船中は「事実上、乗務しないで休んでいる」から営業所も容認するはず、と夜明は勝手に決め込んだ。これが、現実社会に通用する理屈かどうかはわからない。

九州旅行まるごとのロング走行は、乗客からみて常識を逸しているだけではなく、運転手の側からみても想定外だった。にもかかわらず、この作品は無理を通して夜明に超ロングを押しつけている。それができるのも、エンタメ小説の特権だろう。ちなみに本作のテレビ版では、井狩が雲仙温泉に行ってくれとは言わない。目的地は栃木県・川治温泉。ロングではあるが超ロングではない。テレビのほうが現実的ということだろうか。

この小説もドラマ同様、タクシーにロングの客が現れた時点で犯人探しのハラハラ感は薄れている。フーダニット路線は、原作でも半ば放棄されていたのだ。読者は読み進むうち、犯人にどんな動機があり、どのようなトリックを使って犯行に及んだのかというハウダニット(howdunit)に引き寄せられていく。井狩の言葉を借りて言えば、タクシーものミステリーの読みどころは犯人特定という目的地ではなく、「旅の途中」にある。
* 「本読み by chance」2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ
☆ 引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月2日公開、通算680回
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「週刊朝日」デキゴトの見方

今週の書物/
『デキゴトロジーRETURNS
週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊

「週刊朝日」2023年2月24日号

「週刊朝日」が5月末に終わる。公式発表によれば「休刊」だが、これは出版業界では実質「廃刊」を意味する。朝日新聞社が1922(大正11)年に創刊して、最近はグループ企業の朝日新聞出版が引き継いでいたが、満100歳超えの年に退却することになった。

私にとっては古巣の新聞社の刊行物なので、落胆はひとしおだ。メディアの紙ばなれが進み、新聞報道と結びついた出版文化の担い手が退場するのは、ジャーナリストの一人としても残念に思う。だが、それだけではない。この雑誌には私的にも思い出がある。

私が大学に入った1970年代初め、「週刊朝日」は表紙に毎号、同じ一人の女子を登場させていた。その女子の名は「幸恵」。10代で、私よりも少し年下だった。週がわりでポーズや表情を変えてくる。私は彼女の可憐さに惹かれ、この雑誌の愛読者になった。

そのことを物語る証拠物件が先日、見つかった。学生時代に友人たちと出したガリ版刷りの同人誌である。私も短編小説を載せたが、そこに彼女が登場していた。作中人物というわけではない。ただ、冒頭にいきなり顔を出す。「アスファルトの上に週刊朝日。表紙の幸恵が雨にぬれてびしょびしょだ」。自賛になるが、雨の路面に「週刊朝日」が貼りついているなんてイカシタ情景ではないか。読み手に作品世界を予感してもらう効果はあった。

当時の青年層には「朝日ジャーナル」が人気の雑誌だったが、高度成長が極まり、反抗の季節が過ぎるころには世相とズレが生じていた。これに対して「週刊朝日」は透明感があり、端然としていてかえって新鮮だった。その象徴が「表紙の幸恵」だったともいえる。

私は1977年、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」は職場のあちこちに置かれていたから、読む機会がふえた。お気に入りは、1978年に始まった「デキゴトロジー」という企画。小話のような体裁で、ラジオ番組で聴取者のはがきが読まれるのを聴いている感じたった。

で、今週の1冊は『デキゴトロジーRETURNS』(週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊)。誌面に1993~1995年に載った100話余りを収めている。本書カバーの惹句によれば、それらは「ウソみたいだけど、ホントのホントの話ばかり」。新聞社系の雑誌なのでホントを載せるのは当然だが、新聞とは違ってホントであればよいわけではない。そのホントが「ウソみたい」なところに当誌は価値を見いだしているのだ――そんな宣言である。

たとえば、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった朝の話。神戸市東灘区の女性66歳は激しい揺れと大きな音に驚き、「やっぱり高速道路が落ちよった。渋滞しすぎたんや」と思った。阪神高速のそばに住んでいるので、高架が車列の重みにいつまで耐えるか日ごろから気がかりだったのだ。「心配してたとおりやろ」。その見当外れのひとことに「地震でどこかに頭、打ったんか」と息子。母は「地震ってなんや」と答えた――。

「ウソみたい」な話ではある。だがあのころ、関西圏の直下で大地震が起こると考えていた人はそんなに多くなかった。強烈な揺れと音に襲われて地震以外のことを思いつく人がいても不思議はない。一家族のこぼれ話でありながら、一面の真理を突いている。

この親子のやりとりは漫才もどきだ。「地震ってなんや」のひとことはオチにもなっている。大震災を題材にすることは不謹慎と非難されかねないから難しいが、この一編に後味の悪さはない。話術に長けていても、無理に笑いをとろうとしていないからだろう。

もちろん、デキゴトロジーにはただの笑い話も多い。東大阪市の「女性カメラマン」38歳の体験談。大の犬好きで、散歩で白い雑種犬と出会ったとき、「犬に会釈した」。犬は、これを勘違いしたらしく「すれちがいざま、すばやく左フトモモに噛みついた」。飼い主がその場で詫びて別れたが、帰宅後に噛まれた箇所を見ると、歯形が残り、血が出ているではないか。彼女は動転してタウンページで獣医の番号を探しあて、電話をかけた――。

オチは獣医のひとこと。「人間のお医者さんに診てもらったらどうでしょうか」。要約すればそれだけの話だが、原文の筆致は軽やかだ。この話題からは特段の教訓が汲みとれるわけではない。ただ、私たちが日常しでかしそうな失敗の“あるある”である。

このように、デキゴトロジーは個人レベルの話を主体にしている。ここが、官庁を情報源とすることが多い新聞記事と大きく異なるところだ。官庁情報は公益に寄与する価値を帯びており、建前本位であり、統計的である。無駄な情報がまとわりついていても、それらは削ぎ落とされて発表される。これに対し、個人の体験談はたいてい無駄な情報が満載の世間話に過ぎない。だが、「ウソみたい」な「ホントの話」の多くはそこに宿る。

市井の個人情報を中心にしているので、危うい話はたくさんある。翻訳業に就いている大阪府在住の女性34歳の目撃談。初夏の午後、電車に乗って仕事がらみの資料を読んでいると、女子高生二人組の大声が聞こえてきた。目をあげると、二人は向かい側の座席でソックスを脱いでいる。いや、それだけでは終わらない。「平然とパンストをはき始めた」。まるで「女子更衣室」状態。近くに座る若い男性は「恥ずかしそうに下を向いていた」――。

考えてみれば、この一話が書かれたのは、電車で化粧することの是非が世間で議論の的になっていたころだ。女子高生二人もパンスト着用後、化粧に着手したという。そう考えると、電車の「更衣室」状態は公共空間の私物化が極まったものと言えなくもない。

危うさはときに警察のご厄介にもなる。今ならばコンプライアンス(遵法)尊重の立場から記事にしにくい領域にも、当時のデキゴトロジーは果敢に踏み込んだ。たとえば、「名門女子大」の学生が「駅前から撤去されて集積所に置かれた放置自転車」を「試乗」して見つかり、警察署で始末書を書く羽目になったという話。記事には「窃盗現行犯」とあるが、正しくは占有離脱物横領の疑いをかけられ、署で油をしぼられたということだろう。

デキゴトロジーによれば、この女子大生は「借用」に許容基準を設けていた。自転車が撤去から時を経て、所有者も愛着を失うほど「ぼろぼろ」なことだ。「他人の迷惑は最低限に、資本主義社会における罪を最小限に」という「良識」だった。この大学町では、その後も「借用」と思われる自転車が散見されたという。緩い時代だった。今は昔だが、私たちの社会にも法令違反をこのくらいの緩さで考える時代があったことは記憶にとどめたい。

とはいえ、日本社会の緩さはたかが知れている。世界基準はずっと大らかだ。米東海岸在住の日本人女性が西海岸からの帰途、カリフォルニア州オークランド空港でシカゴ行きの便に乗ったときのことだ。座席に着くなり機内放送があった。乗務するはずのパイロットが行方不明。「家に電話したけれど、だれも出ないし心配です」と言う。待たされた挙句、代役のパイロットが乗り込んで離陸したが、それからが大変だった。

代役パイロットが機内放送で、自分は「シカゴ空港に慣れていない」からとりあえずコロラド州デンバーまでお連れする、と説明したのだ。着陸直前には「デンバーは素晴らしいところです」「今度はぜひご滞在を」というアナウンスまで聞かされた。そこでパイロットが入れ代わり、シカゴに到着。東海岸には3時間遅れで戻った。航空会社に悪びれた様子は感じられない。ちなみにこの一話では、女性も航空会社も実名で登場している。

さて、こうした「ウソみたい」な「ホントの話」はだれがどう取材していたのか。本書巻末に収められた「週刊朝日」編集部員の一文によると、執筆陣の主力はフリーランスのライターたちであったようだ。登場人物の職業に「カメラマン」など出版関係が目立つのも、それで合点がいった。デキゴトロジー掲載記事のかなりの部分は、書き手が自分の交際範囲にアンテナを張りめぐらして手に入れた情報をもとにしているらしい。

そう考えると、デキゴトロジーはSNS以前のSNSとみることもできそうだ。ツイッターやインスタグラムなどが広まっていなかったころ、個人発の情報を分かちあうには既存メディアの助けを借りるしか手立てがなかった。そういう情報共有の場を用意したという点で「週刊朝日」は時代を先取りしていたのである。ところが今、個人発の情報は伝達手段を含めて個人が扱える。「週刊朝日」休刊はその現実も映している。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月17日公開、通算666回
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