“もっている”記者という悲劇

今週の書物/
「災厄」
R
・シアーズ著、福島正実訳
『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)所収

記者の産物

クジというもので、特等賞に当たったことが私にはない。ツキがないのだ、とつくづく思う。ただ、自分の新聞記者生活を振り返ると、あながちそうとばかりは言えない。1987年2月、銀河系直近の大マゼラン雲に超新星が現れたのが、ツキに恵まれた例だ。

超新星は、恒星が一生の最期に大爆発する姿。このときは爆発で飛び散った素粒子ニュートリノを、東京大学教授小柴昌俊さんのグループが捕まえた。岐阜・富山県境の神岡鉱山に置いた水タンク「カミオカンデ」が検出したのだ。ではなぜ、私にツキがあったのか。実は1月に新聞社の科学部で持ち場替えがあり、私は天文担当になったばかりだった。もし持ち場替えがなければ、この科学的大事件を取材する機会を逃していただろう。

超新星ニュートリノをめぐっては、小柴さん自身の幸運がよく語られる。「カミオカンデ」をニュートリノの観測に合わせて改造した後、東大を定年退職するまで約3カ月間。この短い期間に、さほど遠くない超新星からニュートリノが届くというめったにない出来事が起こったのだ。それに比べれば、科学記者のツキなど取るに足らない。だが、個人的には大きな意味があった。物理学者の幸運に同期して、私にも大仕事が舞い込んだのである。

私自身がツキを得て大仕事に出あったのは、この一件くらいだ。ただ業界を見渡すと、この人は大仕事を引き寄せているのではないか、と言いたくなる記者もいる。俗な言い方をすれば“もっている”。何を「持つ」のかが不明の「持つ」である。スポーツのニュースで、偶然まで味方につけてしまうような選手によく使われる。ただこれは、記者に対しては誉め言葉になりにくい。少なくとも、当人が堂々と自慢できる話ではない。

というのも、新聞記者の大仕事は不幸な事件や事故であることが多いからだ。ところが、駆けだしの記者が警察回りを始めてすぐ大事件に遭遇すると、先輩たちから「事件を引っ張ってきたな」「もっているヤツだ」と冷やかされたりする。刑事事件には被害者がいるので、この軽口は不謹慎のそしりを免れない。だが、記者は事件の取材競争が始まると気持ちが高ぶっていく。それで仲間うちでは、こんな歪んだ心理が生まれてしまうのだ。

で、今週は、そんな記者心理を見透かしたような米国のSF短編を読む。「災厄」(R・シアーズ著、福島正実訳)。当欄が先週とりあげた作品と同様、『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)に収められた一編である(*)。

冒頭に描かれるのは1950年代半ば、独立戦争のさなかにあるアルジェリアの街だ。主人公の「ぼく」は米国人の新聞記者。なぜ、自分はこの戦地に特派されたのか。理由の一つは、どういうわけか「流血の惨事」に「縁」があって「いくつかの大きな事故や戦乱のスクープ」で名を馳せていたことにある。業界では「厄病神(カラミティ)」とも呼ばれている。たぶん、本社も彼を“もっている”記者とみて白羽の矢を立てたのだろう。

「ぼく」自身は、戦場取材を希望していたわけではなかった。このときもカフェの一角に陣取って、一群の売笑婦が通りを行き過ぎるのを眺めていた。と、突然、若い女性が近づいてきて同じテーブルに相席する。「アメリカ人じゃありません?」と声をかけてくる。「故郷のひとだと思ったら、たまらなくお話がしたくなっただけなの」。ニューヨーク出身の踊り子で、名前はカーラ。この街でもキャバレーでショウに出ているという。

カーラは謎めいていた。いきなり「ぼく」の職業を新聞記者と言い当てる。「あなたはおぼえていないでしょうけど、わたしはあなたをおぼえているのよ」。そう言って、7歳のときに火事があって……と昔話を始めると、「ぼく」にもその記憶がよみがえってくる。10年あまり前のこと、テキサス・シティでアパートの火事があり、そのとき「ぼく」が助けだした女の子がカーラだった。これで二人は意気投合、ついには一夜をともにする。

カーラはハニートラップではないか、と思われる導入部だ。話がスパイ小説めいたものに発展するのかなという気もしてくるが、それからの展開はこの予想を裏切る。

翌日早朝、二人は地中海沿岸へドライブに出る。あたりにはローマ時代の遺跡があったので、廃墟のそばでサンドイッチをぱくついた。朝の陽射しが注ぐなかでのピクニック。「すばらしい恋」だ。ただこのとき、「ぼく」の内心には「奇妙な不安定感」が湧きあがっていた。「胸さわぎ」のようなものだ。「悪いこと」の予感といってもよい。そして、それは現実になる。大理石の柱がぐらつき、倒壊した。大地震が起こったのである。

二人は、どうにか逃げ抜けた。「ぼく」はその日、地震の原稿を本社に送りつづける。仕事をしていても、避難時にカーラが「もういや! もう、またこんなことになるなんて!」と絶叫していたことが気になる。送稿を終えて「きみは、今までに、何度もこういう災害を見てるんじゃないの?」と尋ねると、彼女はそれを認めた。テキサス・シティの火災、列車事故2回、1年前のリオ・デ・ジャネイロ大火……。それらすべてに居合わせたという。

ここで交わされる「ぼく」とカーラの問答が、この小説の主題だ。「きみは、災害が起こるまえに、何か、感ずるんじゃないか?」「そうなの。わたし、何か恐ろしいことが起こるとき、かならず、何か感ずるの」。不安に駆られて、一人だけでいられなくなるという。「ぼく」は、前夜の情事にもそんな事情があったのかと思い、「奇妙な安堵と失望」の入り交じった気分になるが、カーラは「でも、それだけじゃないわ」と抱きついてくる――。

主題についてあれこれ書くのは、このくらいでやめる。その代わり、作品の後段で出てくる災厄のことで、私がとんでもないことに気づいてしまったことを書き添えておこう。

その災厄とは「一九五五年のマン島レース」で起こった大事故だ。「あの惨事については、皆さんのほうがよく知っているだろう」と作者がことわっているから、実際にあった事象を指しているらしい。レースに出場したクルマが「超満員の観客席の中へ、頭から突っこんで」「マン島レース始まって以来の悲惨な大事故を惹き起こした」とある。死者82人、重軽傷者100人余という数字まで示されているので、これは史実だろうと思った。

このとき頭に浮かんだのが、自動車レースの聖地ル・マンだ。いつのことかはわからないが、ここで大事故があったという話を聞いた気がする。ネットで検索すると、ウィキペディアに「1955年のル・マン24時間レース」という項目があり、接触による炎上事故でドライバーと観客「83名」が亡くなったと記されている(2022年4月15日確認)。この事故を作品に取り込んだのだな、と早合点しそうになった。が、どうもおかしい???

違和感の理由はすぐにわかった。作中で描かれているのは「マン島レース」であって、「ル・マン24時間レース」ではない。マン島は英国の自治保護領で、イングランド西岸のアイリッシュ海にある。一方、ル・マンは字面でわかるようにフランスの小都市で、ロワール地方にある。ここで話がややこしいのは、マン島も有名な「レース」開催地であることだ。オートバイの「マン島TTレース」が、毎年の恒例行事になっている。

これは、作者がわざとすりかえたのか、それとも単なる勘違いか。作者の創意を雑念なしにくみとるのが正攻法だが、作者はレース系の話題が苦手で混同したのだろう、とニヤッとするのも読書の楽しみ方としてはありだろう。もう一つ、翻訳の段階で取り違えられた可能性はどうか。原文で確かめるべきだが、今すぐ手に入らない。推測で言えば、原語で「マン島」は“Isle of Man”、「ル・マン」は“Le Mans”なので、間違えたとは考えにくい。

私の関心は本題から離れ、作中の「マン島レース」事故が実話かどうかという一点で立ち往生してしまった。事実の認定にこだわるのは元新聞記者だからだろう。たまたま読んだSFでこんな難所に出あうとは。私は別の意味で、“もっている”のかもしれない。
*当欄2022年4月8日付「忘れたらどうするかがわかる小説
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月15日公開、通算622回
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全電源喪失とはこういうことか

今週の書物/
『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』
共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊

電源

今年は、3・11が金曜日になった。11年前と同じだ。しかも当欄にとっては、拙稿公開日に当たる。あの日を想い起こしながら、東日本大震災の一断面を切りだしてみよう。

あの日、私は東京・築地のビル中層階にいた。勤め先の新聞社だ。地震に襲われたのは、長閑な昼下がり。言論サイトWEBRONZA(現「論座」)の編集会議に出ていたが、あまりの揺れに会議は中断した。窓際の自席に戻ると、書棚の本が落下して床一面に散らばっている。窓の外には青空が一面に広がっていたが、お台場あたりの海岸部で黒煙が不気味に立ち昇っている。これが、ふつうの地震でないことは明らかだった。

テレビの画面には、空撮の生映像が流れていた。仙台近郊で津波が家々をのみ込み、避難しようとするクルマを執拗に追いかけている。私は、それを同僚と見ていて言葉を失った。海水が容赦なく大地を覆っていく。あたかも、魔の手が指先を広げるように。

3・11を生涯でもっとも忘れがたい悪夢の日と呼ぶには、もうこれだけで十分だった。だが、この日はそれで終わらない。日差しが斜めに傾いた午後4時ごろ、福島県の東京電力福島第一原発が「全交流電源喪失」に陥ったという知らせが私にも届く。東京・霞が関の経済産業省にある原子力安全・保安院で、職員が報道陣に速報したというのだ。超弩級の自然災害に今日的な技術災害が追い討ちをかけた。そんな展開だった。

正直に告白しよう。私はそれを耳にしたとき、すぐには事の重大さに気づかなかった。原子炉の水位が下がり、冷却能力が失われたと聞いたなら、それだけで背筋が凍ったはずだ。だが、失われたのは交流電源だという。これは、送電線の電力が届かないということではないのか? そういうときは非常用の自家発電機が働くはずだ。だから、冷却水の循環が止まることはない……そう考えたのだ。だが、これは大きな誤りだった。

原発技術者が全交流電源というとき、非常用電源も勘定に入れているのだ。福島第一原発では、それも含めてダウンした。実際、保安院の速報には、非常用発電機が動いているのは6号機だけという情報も添えられていたらしい。津波が原発を襲うというのは、そういうことだった。だからそのとき、原発に詳しい同僚記者は私にこう言ったのだ。「尾関さん、これは大変なことだよ、チェルノブイリ級のことが起こってもおかしくない」

あの2011年3月11日以来、福島県一帯で続いている事態は、その予言が的中したことを物語っている。で、今週は『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』(共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊)。共同通信社が2014~2016年、断続して配信した連載(全213回)をもとにしている。2015年、前半の掲載分が祥伝社によって書籍化されたが、それに加筆したものが本書だ。

巻頭の一文「はじめに」によれば、本書が目を向けたのは福島第一原発事故の「発生直後」。そこに居合わせた人々が実名で登場して「何を見て」「何を思ったのか」を語ってくれたという。東京電力の所員がいる。協力会社の作業員がいる。東電本社の幹部や政治家もいる。その人たちが「何を思ったのか」に踏み込んだところが、政府や国会の事故調査委員会「報告書」と比べて異彩を放つ点だ。事故が生々しく再現されているのである。

編著者(高橋秀樹さん)は1964年生まれの共同通信記者。「はじめに」に同僚7人の名が記されている。本書は取材班が一体となって仕上げた労作と言えよう。

本書の描写で終始緊迫感が漂うのが、中央制御室の光景だ。ちょっと補足すると、福島第一原発の敷地では海沿いに原子炉6基が並んでいる。それらはぽつんぽつんと建っているのではなく、原子炉建屋と海岸線の間にタービン建屋などの建物が連なっている。このうち、原子炉建屋に隣接するのがコントロール建屋。中央制御室は、その2階にある。福島第一では、制御室一つが原子炉2基を受けもつつくりになっている。

地震発生直後の1・2号機はどうだったか。原子炉は緊急停止した。電力は外部送電網からの供給が停まったが、非常用ディーゼル発電機(DG)が動きだした――ここまでは想定の範囲内だったらしい。ところが、しばらくしてとんでもないことが起こる。「DGトリップ!」。運転員の一人が叫んだ。DGが発電不能に陥ったというのだ。こうして「制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消え」「天井の蛍光灯も消えた」。

これが、全交流電源喪失が察知された瞬間だ。運転員が受けてきた訓練は「ありとあらゆるケース」に対応している「はずだった」。ところが、「DGトリップ」は想定外だった。制御室に窓はない。テレビのニュースを見られるわけでもない。運転員たちには、何が起こったか見当がつかなかった。外から入ってきた同僚が「海水が流れ込んでいます!」と報告するまでは……。津波がタービン建屋地下のDGを水浸しにしたのだ。

電源が途絶えれば、制御室の計器類を見ることもできない。原発制御の手も足も出なくなる。これを「ステーション・ブラック・アウト(SBO)」と呼ぶ。この事態は、原発敷地内の免震重要棟に詰めていた所長たちに報告される。「1、2号、SBO!」「3、4号もSBO!」――そうとわかった瞬間、3・11東電福島第一原発事故は、原子力災害対策特別措置法10条の適用対象となり、法律的にも「原子力災害」となったのである。

ここで、福島第一原発では交流電源のみならず、全電源の喪失も起こっていたことを言い添えておこう。東京電力のウェブサイトによると、稼働中の1~3号機のうち1~2号機では直流のバッテリー電源も浸水被害で失われていた。このため計器類を復活させようと構内循環バスのバッテリーが持ち込まれたが、暗闇での配線作業は困難を極めた。午後9時すぎに1号機の水位計が読めるようになったものの、数値は正確でなかったという。

翌12日未明、免震重要棟の緊急時対策本部から、冷却不全で蒸気がたまった1号機格納容器のベント(ガス放出)が指示される。ベント用の弁も電源喪失で遠隔操作できないから、だれかが原子炉建屋内に足を踏み入れ、手作業で開けなくてはならない。

当直長は運転員を集め、こう告げる。「申し訳ないが……誰か行ってくれないか」。ただし、「若い者は行かせられない」。制御室には、出番ではない幹部級のベテランたちも応援に駆けつけていた。当直長が「まず俺が行く」と言うと、彼らは「残って仕切ってくれなきゃ駄目だ」と諫め、自分たちが次々に手を挙げた。ただ、手が途中でとまった人もいる。「怖かったです」「家族のことも頭をよぎりました」と、内心を率直に打ち明けている。

「突入」は午前9時すぎに始まった。第1班は原子炉建屋2階の弁を開いた。第2班は地下の弁を開くのが任務だ。ところが、こちらは近づくと、携帯の線量測定器の針が振りきれた。5年間の線量限度を6分で浴びてしまう状態。結局、撤退するしかなかった。

1・2号機制御室の様子を引きつづき見ていこう。ベント第3班を出すことは、とりあえず見合わせていた。制御室内の線量も上昇している。1号機寄りが高めなので、運転員の大半は2号機寄りにいた。事故発生から缶詰状態だから、疲れ切っているのだろう。40人ほどは床に腰を下ろしている。このとき、室内に声がとどろいた。声の主は、中堅運転員の一人だ。「何もできないなら、ここに何十人もいる意味があるんでしょうか」

当直長は、このときも運転員を集めて言う。「ここを放棄する」ことは「制御を諦(あきら)める」ことであり、「避難している地元の人たち」を「見捨てる」ことになる――こう説得して「残ってくれ」と頼んだ。これで一同は静まり返ったという。

事故2日後、13日の1・2号機制御室の光景には心が痛む。12日には1号機原子炉建屋の水素爆発があり、制御室の線量も急上昇したため、運転員は全面マスク、ゴム手袋姿だった。食べ物は乾パンだけだったが、すでに食べ尽くして、残るはスナック菓子くらい。あとはペットボトルの水だ。ただ、飲み食いするにはマスクや手袋をとらなくてはならない。「空腹に耐えるか、汚染覚悟で飲食するか」。そんな極限状況に置かれていたというのだ。

1・2号機と3・4号機の制御室で「数人1組の交代制」の勤務態勢がとられたのは13日夕からだという。私たちは原子炉建屋の水素爆発を遠景の映像で見て慄くだけだったが、あの瞬間も直近では、運転員がほとんど不眠のまま炉の制御を取り戻そうとしていたのだ。その様子は、コロナ禍の関連職場で働く人々の献身と重なりあう。原発に対する賛否は別にして、あの事故に第一線で立ち向かった人々に対する敬意と謝意だけは忘れずにいたい。

(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月11日公開、通算617回
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外岡秀俊、その自転車の視点

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

自転車

3・11がまた、めぐって来る。東日本大震災から11年、被災地にいればあの日は現在と地続きだろう。だが、数百キロ離れた首都圏にいる私には昔の出来事のように思えてしまう。手垢のついた言い方だが、風化はすでに始まっているのかもしれない。

で、今回は『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)を先月に続いてもう一度読む。著者は巻頭や巻末で、震災10年後の中高生たちが「3・11とは何だったのか」という問いに直面したとき、この本を手にとってもらえたらいい、という希望を打ち明けている。私も、そう思う。前回「外岡秀俊の物静かなメディア批判」(当欄2022年2月4日付)では原発事故の被災地に焦点を絞ったので、今回は津波被害に目を転じてみよう。

前回とのダブリになるが、著者の横顔を改めて素描しておこう。著者は、朝日新聞記者だった人で編集局長を務めたこともある。去年暮れ、突然の病で死去した。2011年3月、介護を理由に新聞社を退職したが、その直前に東日本大震災に遭遇する。凄いのは、退職間際に被災地を取材して現地報告の記事を書いたことだ。もっと凄いのは、退職後ただちに被災地に戻って取材を続けたことだ。この本には、その一連の取材成果が凝縮されている。

著者が被災地の現実を最初に肉眼でとらえたのは、震災1週間後2011年3月18日のことだ。社有機の小型ジェットで現地上空を飛んだ。まずは「被災の全体像」を「鳥の目で俯瞰」したい。そんな思いからだった。眼下では仙台空港が津波に洗われ、飛行機やコンテナが散らばっていた。多賀城、東松島、石巻と北上すると、船が陸地に横たわっていた。川は橋を失い、橋脚だけが残っていた。家々は流され、ひしゃげ、重なりあっていた。

陸前高田上空まで来て、「血の気がひいた」と著者は書く。「景色が一変した。何もない。孤立したコンクリート造りの建物以外、ただ泥土と水」。その先の大船渡や釜石も同様だ。津波は防波堤をなんなく越え、「何もない」世界をそこここに生みだしていた。

この光景は、1995年の阪神大震災と比較されている。著者があのときに見たものは、強い揺れの被害が幅約1キロ、長さ約20キロの一帯に集中する「震災の帯」だった。ところが今回は、大津波が総延長500キロに及ぶ沿岸平野部を総なめにしている!

被災地を俯瞰した翌日、著者はその「何もない」世界の土を踏んだ。立ち寄ったのは、岩手県南部の藤沢町(現・一関市)にある町民病院だ。そこには、被災地支援のために全国から集まった医師たちの前線基地があった。離島の診療所から応援に来た医師は開口一番、こう言う。「情報がない、足がない」。地元医師に連絡をとろうとしても携帯電話が通じない。動き回ろうにもガソリン切れで使えない車ばかり。そんな現実があった。

著者は、その医師から衝撃的な話を聞く。津波被災地では救急優先度(トリアージ)の判定が「救急不能」と「救急不要」に二分され、途中がほとんどないというのだ。阪神大震災は家屋の倒壊が多発したので「負傷者が多かった」。ところが今回は、津波中心の災害となったので「中間の救急医療の必要もないほど、『生と死』の領域がはっきりと切断されている」――。救急の出番を許さないほどの自然現象が「何もない」世界を出現させたのだ。

では、支援の医師たちは何をしようとしたか。力を注いだのは、地元の医師たちの負担を軽減することだった。被災地では医師もまた被災者だった。だが、休診している場合ではない。住民の避難所に張りついて診療に当たることを求められた。そこで支援組が始めたのが、同業者にひとときの休息を与えるために代診を買って出ることだ。連絡をとりあうため、電話会社から利用可能な携帯電話の提供を受け、地元の医師たちに届けた。

著者は、この代診に同行している。出向いた先は気仙沼。支援の医師の仕事は「生と死」の二分をそのまま反映していた。夜は避難所で当直医を務め、生きている人々を診たが、昼は検視のために遺体安置所に赴いて、死んだ人々と向きあったのである。

安置所の遺体の約半数は、ポケットに財布を入れていた。犠牲者は津波から逃げるとき、家から持ちだしたいものがたくさんあったに違いない。だが、それらをあきらめて財布だけをポケットに突っ込んだのだ。著者はそこに「身一つ」の切迫感を見てとっている。

このことは、避難所で出会った地元漁協幹部(53)の体験談でも裏打ちされる。大津波の警報があったとき、本人は漁協にいて人々の避難を誘導していたが、そのころ、自宅も娘の家も父の家もみな流された。父は行方不明となり、残る家族も「身一つ」で助かって「財布以外はすべて失った」のである。著者はここでも、阪神大震災との違いを指摘している。阪神では、たとえ家屋が全壊してもそこから「家財道具を取り出せた」という。

著書は、大津波の猛威が街の風景をどれほど歪めたかも活写している。場所は、気仙沼の高台。標高は平地から20m余も高い。それなのに津波は、斜面を一気に乗りあげてきた。「電線や木の梢に、浮きのガラス玉や海草がぶら下がっていた」「大型スーパーの屋根には、海の怪物が運んだかのように、黄色い乗用車が載っていた」――地上の秩序がすっかり失われたのだ。あたかも超現実主義の絵画を見ているようではないか。

その街角で、著者は杖をついた女性(77)に出会う。彼女は震災の日、ここから数キロ離れた高地にいて、津波の襲来を間近に見た。まずは「黄色い水」が迫ってきた。次いで「青い水」が追いかけてきた。そして「大きな家や施設があったのを、静々と持っていった」という。「静々と」――その様子が不気味ではないか。彼女は「大東亜戦争の時よりひどい」「地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」と語っている。

こうみてくると、著者の目は津波災害の本質を鋭く見抜いていたことがわかる。それは私たちの日常を突然「何もない」世界に変える。そこでは、「生」と「死」がくっきりと分かれる。幸運なことに「生」の側に居残っても「無一物」にされてしまう。

著者は、このとき3月19日から約1週間、被災地に滞在した。私が驚くのは、東京本社に戻ったのが3月25日ごろということだ。3月末の退社日は目前だ。ふつうなら荷物の整理などで慌ただしいだろうが、彼は新聞記者としての仕事を最後まで続けたのだ。

いや、これで驚いてはいけない。著者は退社後、故郷の札幌に住むが、4月下旬に再び被災地を訪れているのだ。記者時代のようにニュースは書けない、その代わり「時間だけは、たっぷりある」。だから、「人々の遅々として進まない日々の思い」を感じとって「一緒に泣き、一緒に笑うこと」なら可能かもしれない。そう考えたという。実際にこの本でも、退社後の現地報告はそれまでとは趣が異なり、柔和な筆致になっている。

たとえば、盛岡駅からバスで宮古へ向かうときの車窓風景。遠くの早池峰山は残雪に包まれている。川の土手にはフキノトウの群落が広がっている。「こぼれ落ちるような連翹(れんぎょう)の黄色、紅白の梅の花。閉伊川沿いの眺めは、これまでモノトーンだった被災地に、ようやく明るい彩りが混じってきたかのような錯覚を与えた」――季節感が匂い立つような描写だが、その明るさが「錯覚」に過ぎないと言い添えることを忘れていない。

私が微笑ましいと思ったのは、バスを宮古駅前で降りて、取材の足を探す場面だ。新聞記者時代なら貸し切りのタクシーを使うという手もあろうが、個人の立場では難しい。著者は観光案内所で、レンタサイクルはどこで借りられるか、と聞く。窓口の女性が電話で探してくれて「駅前派出所なら」と答えた。派出所は、連絡先を書きおいただけで自転車を貸してくれたという。「黄色い」とあるから警邏用ではなかったらしい。念のため。

著者は宮古では、自治体が未曽有の災害とどう闘ったかについて取材した。この本では、役所の人々が実名を出して自身の3・11体験を語っている。市の広報担当者(50)は震災当日、高校生でヨット部員の娘の安否がわからず気を揉んだ。市教委事務局の職員(47)は、沿岸部の勤め先にいた妻と2日間連絡がとれなかった。そんな事情を抱えながら、公務員として市民の救援に当たったのだ。ここで著者は人間の顔が見える取材に徹している。

著者外岡秀俊は震災被災地の取材を小型ジェットで始め、それを自転車につないだ。これは、視線のギアチェンジでもあった。人間は「何もない」世界にいったん押しやられても、態勢を整えて生き延びる。自転車を漕ぎながら、そのことをしかと見てとったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月4日公開、同日更新、通算616回
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「渡し」で出会う人生の偶然

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

リースリング

今週も渡し船に乗り続ける。19世紀ドイツのロマン派詩人ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」という詩と、それを旋律に乗せたカール・レーヴェの歌曲をめぐる話だ。詩は、ライン川水系ネッカー川が舞台。主人公は、かつて同じ渡しに乗った亡き友に思いを寄せて……。その情景が日本人の心も動かし、詩想を語りあう人々の交流が新聞の投書欄を経由して広がったことを先週は書いた。それを「昭和版ネットワーク」と呼んだのである(*)。

私が読んだのは、『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)という本。昭和版ネットワークに連なる人々が、めいめいの視点で交流秘話を綴っている。

当欄が今回とりあげようと思うのは、人間社会にネットワークが生まれるとき、そこに偶然が関与してくることだ。この本には、この人とあの人がつながったのは偶然の妙があったからだ、とわかるエピソードが随所に出てくる。そのいくつかを拾いあげよう。

偶然がいっぱい詰まっているのは、松田昌幸さんの回顧だ。松田さんは電機会社の社員だった1970年代半ば、NHKのラジオ番組「趣味の手帳」で「渡し場」のことを知った。番組は、1956年の朝日新聞「声」欄がきっかけとなり、この詩を愛でる人々がつながったことを伝えていた。一度聴いて心に残ったが、幸運にも再放送があった。松田さんはそれをとっさに録音し、話の要点をカードにメモして、ファイルに綴じ込んでおいた。

松田さんが60歳代半ばになった1990年代末のことだ。妻が掃除中、ファイルからはみ出たカードを見つけた。偶然にも、この録音のメモだった。もう一度聴きたいと思ったが、テープが見つからない。ここで、たまたまテープのコピーを友人に贈っていたことが幸いする。その音源で番組を再聴した。「渡し場」について、もっと知りたくなる。思い立つとまず、「声」欄投書の反響を記事にした『週刊朝日』1956年10月7日号を探した。

ここでも、偶然のいたずらがある。松田さんが国会図書館に行くと、この雑誌は1956年10月分だけが欠落していたという。探しものに限ってなかなか出てこない――これは、私たちがよく体験することだ。結局、この号は東京・立川の公立図書館で見つけた。

松田さんの話で最大の偶然は、小出健さんとの出会いだ。小出さんは1956年、渡しが主題のあの詩は誰の作品か、と問うた猪間驥一さんの「声」欄投書に返信を寄せた人の一人である。『週刊朝日』にはウーラント「渡し場」の邦訳も載り、猪間さんとの共訳者として小出さんの名があった。この人に会ってみたい――幸い、誌面には住所が載っていた。番地こそないが、町域は記されている。個人情報保護に敏感な今ならばなかったことだろう。

このときの興奮を、松田さんはこう書く。「私の脳裏にボンヤリと“小出健”なる表札のイメージが浮かんでくるではないか。それもその筈、私の家から7軒目にあることに気が付くのに時間はかからなかった」。こうして二人はめぐりあい、意気投合するのである。

小出さんは2006年、松田さんに誘われてレーヴェの音楽会に出かける。そこで歌曲「渡し」を聴き終えたとき、立ちあがって一礼した。その光景が朝日新聞のコラム『窓』で紹介され、「ウーラント同“窓”会」という21世紀版のネットワークが芽生えたのだ。

「同“窓”会」は、昭和版ネットワークを引き継ぎながら新しい様相も帯びている。IT(情報技術)を取り込んで、さらなる広がりを見せているからだ。松田さんは、自身のウェブサイトでウーラント「渡し場」の話題を広めた。それを見て同“窓”会の存在を知り、仲間に入ったのが当欄に前回登場した中村喜一さんだ。先週書いたことだが、中村さんも今、自分のサイト内に「友を想う詩! 渡し場」のサブサイトを開設している。

中村さんが松田さんに初対面するまでの経緯も微笑ましい。松田さんのウェブ発信で、松田邸が小出邸の近所にあるとの情報を得た。小出邸の所在地は『週刊朝日』の記事で大まかにはわかっている。それをもとに「住宅地図とGoogle Street View」を駆使して松田邸の住所を突きとめ、「書状」で打診してから訪問したという。ストリートビュー、住宅地図、手紙、面談。デジタルとアナログが見事に組み合わされているではないか。

この本は、「渡し場」の詩だけではなく、その歌曲「渡し」にこだわる人々の軌跡もたどっている(邦題で「場」の有無は、原題に前置詞“auf”があるかないかに拠っている)。猪間さんも、詩がウーラント作だとわかると今度は曲探しに乗りだした。1961年の欧州滞在時には、ドイツの新聞に働きかけて記事にしてもらった。この時点では歌曲があるかどうかも不確かだったので、曲がないなら曲をつくってほしい、とも呼びかけたという。

詩「渡し場」にレーヴェが曲をつけているという情報は1973年、朝日新聞名古屋本社版「声」欄の投書でもたらされた。ウーラントの故郷テュービンゲンに留学経験のある大学教授からのものだった。曲の探索でも新聞が情報の交差点になっていたことがわかる。

1973~1975年には、譜面を手に入れたい、という投書が「声」欄に相次いだ。このうち1975年の1通に対しては、ドイツからも反響があった。国際放送局ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長からの報告だ。レーヴェの曲について作品番号まで調べてくれていたが、「これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが」と書かれていた。本国でも、そんなに有名な歌ではなかったらしい。

ところが、ここから急進展がある。丸山明好さんという人が、アルテンドルフさんに書面でさらなる探索を頼んだのだ。丸山さんは中央大学で猪間さんの教え子だった。手紙には恩師とウーラント「渡し場」との縁なども記した。ドイチェ・ヴェレはこれで奮起したのだろう。大学の研究者の力も借りて「渡し」の楽譜を発掘、それだけではなく東ドイツ(当時)の歌手が歌ったという音源が西ベルリンの放送局に残っていることも突きとめてくれた。

1975~1976年、楽譜と録音が丸山さんの手もとに届く。その結果、レーヴェの歌曲「渡し」もウーラントの詩「渡し場」と同様、日本の愛好家に共有されたのである。

余談だが、丸山さんには、この録音をめぐって忘れがたい思い出がある。1988年、ドイツを旅行中のことだ。特急列車に乗ったとき、アタッシェケースに「渡し」のカセットテープを入れていた。あの歌をハイデルベルクのネッカー川河畔で聴きたい、そんな思いがあったからだ。ところが、駅で下車したとき、手荷物がないことに気づく。置き引きに隙を突かれたのだろう。テープは、アタッシェケースもろとも失われてしまった。

ところが2日後、アタッシェケースが警察からホテルに届けられる。中身の金品は奪われ、テープレコーダーもなかったが、なぜかテープは残されていた。「ドイツの泥棒さん」は「几帳面で親切(?)だ」と感じ入り、いっぺんにドイツ好きになったという――。この本には、こんな小さなドラマがいっぱい詰め込まれている。書名のもととなった元朝日新聞論説委員高成田享さんのコラム表題のように「『渡し』にはドラマがある」のである。

考えてみれば、私たちの日常は偶然の積み重なりで進行している。偶然が人と人との間に思いがけない出会いをもたらし、そのつながりが人生をドラマチックに彩ってくれるのだ。この本は、そのことをさりげなく教えてくれる先輩たちからの贈りものと言ってよい。
*当欄2022年2月18日付「渡し』が繋ぐ昭和版ネットワーク
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月25日公開、同月27日最終更新、通算615回
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「渡し」が繋ぐ昭和版ネットワーク

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

ドイツワイン

「ネット社会」という用語は、いつごろから広まったのか。今、朝日新聞データベースの検索にかけると、この言葉の初出は1995年だった。インターネット元年といわれる年だ。ネット社会のネットがインターネットを含意していることが、このことからもわかる。

では、インターネット以前の世の中にネットがなかったかと言えば、そうではない。ここで言うネットとはネットワークのことであり、人と人との網目状のつながりを指している。考えてみれば、人間社会は太古の昔からネットワークをかたちづくってきた。

ただ、インターネットの人間関係は血縁や地縁、あるいは職域の縁とは様相を異にする。そこには、いくつかの落とし穴がある。たとえば、匿名性。自身の身元を隠した書き込みは誹謗中傷を誘発しやすい。しかも、困ったことに増幅効果もある。ネット論調は同調意見を雪だるま式に膨らませるので、ただでさえひと色に染まりがちだが、それが誹謗中傷をはらんだものならば、狙われた人物は集中砲火を浴びることになる……。

だが、インターネットには、こうした負の効果を差し引いても大きな魅力がある。長所をいくつか挙げよう。一つは公共性。ネットに載った情報は、だれでもいつでも触れることができる。仮想空間に広場があり、私たちはそこに出入り自由というわけだ。もう一つは関係の緩さ。これは匿名性と裏腹の関係にあるが、ネットを通じた情報のやりとりでは相手と顔を突きあわせる必要がない。私たちは適度の距離感を保った関係に身を置ける。

ふと思うのは、昔はこうしたインターネットの良さを先取りした人間関係が皆無だったのか、ということだ。もしかしたら、〈公共性〉と〈関係の緩さ〉を具えたネットワークがユートピアのように存在したのかもしれない――いや、たしかに存在したのだ!

で、今週の1冊は『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)。ここには、昭和版のネットワークが見てとれる。しかも私の心をとらえたのは、その〈公共性〉や〈関係の緩さ〉を担保するものが、新聞や週刊誌、ラジオ番組だったことだ。マスメディアにはこんな働きもあったのか――これは、元新聞記者にとってうれしい驚きだった。

本の表題と編者名には説明が要る。「渡し」は、渡し船の渡し。ライン川支流ネッカー川の両岸を行き来する船である。ルートヴィヒ・ウーラントは、19世紀ドイツのロマン派詩人。弁護士でもあり、政治家でもあった。カール・レーヴェは、同じ時代のドイツの声楽家兼作曲家。この本の中心には、ウーラントの詩とそれに節をつけたレーヴェの歌がある。そして、編者名に出てくる“窓”は、かつて朝日新聞夕刊にあったコラム名に由来する。

ウーラント同“窓”会は、「窓」欄2006年7月6日付の「『渡し』にはドラマがある」という記事で結ばれた15人(うち2人は物故者)がメンバー。記事の筆者で、当時は朝日新聞論説委員だった高成田享さんが今回、この本を編集するにあたってまとめ役を務めた。

「窓」欄記事の書き出しはこんなだった――。ドイツ歌曲の音楽会で「不思議な光景」を目撃した。「渡し」という題名の曲が終わったとき、聴衆の一人が起立して頭を深く下げたのだ。その曲は、渡し船で川を渡るとき、かつて同乗した友に思いをめぐらせたことを歌にしていた。友の一人は静かに逝った。もう一人は戦争で落命した。船頭さん、今回の船賃は3人分払おうではないか。そんな歌詞だ。では、その人はなぜ一礼したのか。

発端は、その50年前にさかのぼる。朝日新聞1956年9月13日朝刊の投書欄「声」に「次のような内容の詩をご存じの方はあるまいか」と尋ねる一文が載った。詩は渡し場が舞台。主人公は船上で、今は亡き友とこの渡しに乗ったことを思いだし、下船時に亡友の船賃も支払おうとする――そんな筋書きだったという。「どこの国のだれの詩か」。そう問うた投稿者は猪間驥一(いのま・きいち、1896~1969)さん。経済統計学者である。

今回の本『「渡し」には…』では、1956年の「声」欄を起点として2006年の「窓」欄を一応の収束点とするネットワークの軌跡が、関係者14人の寄稿をもとに再現されている。当然だがダブリの記述が多いので、寄稿群を併読してその要点をすくい取ろう。

まずは「声」の後日談。猪間さんの問い合わせには直ちに反響が多数寄せられ、その詩はウーラント作「渡し場」であるとの情報が届く。猪間さんは、そのことを8日後の21日付「声」欄で報告、27日には学芸欄にも寄稿した。その時点で反響の手紙は約40通に達していた。この話題には『週刊朝日』も飛びつき、10月7日号で手紙の幾通かを紹介している。うち1通が小出健さんのもの。当時28歳。50年後の音楽会で一礼した人だ。

『週刊朝日』によれば、猪間さんが探していたのは、小出さんが戦後、旧制大学予科の卒業直前、ドイツ語教師から贈られた詩と同一だった。君たちはこれからそれぞれの学部に進む、だが友のことは忘れるな――「ザラ紙にタイプした原詩と英訳」には、そんな思いが込められていたという。この情報提供がきっかけとなり、猪間さんと小出さんの交流が始まったようだ。誌面には両人の「共訳」による「渡し場」の邦訳も載っている。

最後の一節には、こんな言葉がある。
受けよ舟人(ふなびと) 舟代(ふなしろ)を
受けよ三人(みたり)の 舟代を

この訳詩に惹かれて「ノートに転記」した人がいる。1956年当時、高校3年生だった中村喜一さんだ。以来、この詩「渡し場」は心の片隅にすみついたようだ。長年勤めた化学会社を退職後にネッカー川を旅したりもしている。この本には、中村さんが「声」欄や『週刊朝日』の記事などをもとに作成した「日本における『渡し場』伝播径路図」が載っている。それによると、「渡し場」は日本では少なくとも二つの径路に分かれて広まったらしい。

「径路図」によると、「渡し場」を日本に最初に伝えたのは高名な教育者、新渡戸稲造。米国留学中に英訳を知ったらしい。1912年、著書に邦訳を載せた。翌年には、人気雑誌『少女の友』もこの詩を掲載している――これは、猪間さんの「声」を読んだ長谷川香子さんが寄せた情報だ。猪間さんは投書で、詩は「少年雑誌か何かで読んだ」としていたが、その雑誌は同世代異性の家族や知人が愛読していたものかもしれない。

では、小出さんのドイツ語教師は「渡し場」をどこで知ったのか。教師は旧制第一高等学校出身。一高では1913年、基督教青年会が開いた卒業生送別会で前校長の新渡戸がこの詩のことを語ったという。実はこの情報も「声」欄への反響の一つ。卒業生として送別会に居合わせた山岡望さんからもたらされた。くだんのドイツ語教師は山岡さんよりも学年が下だが、「渡し場」の話は下級生にも伝承されたのではないか、と中村さんは推理する。

「径路図」を見ていると、不思議な気分になる。詩歌「渡し場」への共感は、『少女の友』ルートと一高ルートに分かれて伝播した。それぞれには多くの人々が葡萄の房の実のように群がり、同じ一つの詩を愛してきた。興味深いのは、その系統違いの人々が数十年後、新聞の片隅に現れた1通の投書でつながったことだ。こうして昭和版ネットワークが生まれた。それを象徴するのが、猪間さんと小出さんの「共訳」という化学反応だった。

一つ、書き添えたいことがある。中村さんは1938年生まれだがデジタルに強く、自身のウェブサイトに「友を想う詩! 渡し場」というサブサイトを開設している。昭和版ネットが今はインターネットに受け継がれている――これも、ちょっといい話ではないか。
*この本の話題は尽きないので、来週もとりあげる予定。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月18日公開、同日更新、通算614回
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