女王去って連邦は悩む

今週の書物/
読売新聞、東京新聞、朝日新聞各紙の2022年9月20日付朝刊

王室

英国はすごい、と目を見張ったのは1994年、ネルソン・マンデラ大統領の新体制となった南アフリカ共和国が直ちに英連邦(the Commonwealth)に再加盟したこと、そして翌年、エリザベス英女王の訪問を手厚く迎えたことだ。人種隔離政策アパルトヘイトによる「白人支配」を終わらせた政権がなぜ、かつて植民地支配していた旧宗主国になじみ、微笑みかけようとするのか。この展開に驚いた人や首を捻った人もいたに違いない。

南アは1931年に独立すると英連邦に加わるが、1961年には離脱している。人種隔離政策に国際社会の批判が集まっていたことが背景にある。その政策を捨てたのだから、元に戻れるということなのだろう。だが、わざわざ戻る必要もないではないか。

そのころ、私はロンドン駐在だった。新政権の樹立を挟む1993年と1995年には任地から南アへ出張もした。目的は南アの核兵器放棄について取材することだったが、その合間に現地で人種間の緊張も垣間見た。たとえば、タクシーで「黒人」の運転手と世間話をしていると、辛辣な「白人」観を聞かされたものだ。ただ、このとき「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系住人は散々な言われ方だったが、英国系はさほど嫌われていなかった。

運転手との世間話という小さな私的体験を根拠に英国の植民地主義をどうこう言うことは控えるべきだろう――そう自戒していたときに英女王の南ア訪問があったのだ。私が現地で受けた印象はあながち的外れではなかった。これは、大英帝国の植民地統治が巧妙だったのか。それとも、南アには欧州の入植者が複数の民族だったという特殊事情があって、英国系が相対的に善玉扱いされたということなのか。私には即断できない。

で今週は、書籍ではなく、エリザベス女王の国葬報道で英連邦を考えてみる。

私は女王国葬の当日、葬儀と葬列を米CNNでずっと見ていた。もっとも印象に残ったのは、英連邦に対する配慮が半端ではない、ということだった。葬儀の冒頭、要人たちが聖書を読む場面で、英国のリズ・トラス首相よりも先に朗読に立ったのがパトリシア・スコットランドという女性だ。肩書は「英連邦事務総長」。帽子の陰から褐色の顔がのぞく。この葬儀が、英国というよりも英連邦のものであることを感じさせる式次第だった。

スコットランド事務総長の横顔に触れておこう。英連邦の公式サイトによると、彼女はドミニカ国生まれ、カリブ海諸国出身では二人目、女性としては初の事務総長だという。いや、それだけを紹介したのでは不十分だ。英文ウィキペディアには、彼女が英国の外交官、弁護士であり、労働党の政治家だという記述がある。「英国とドミニカ国の二重国籍である」とも書かれている。この二重性こそが英連邦のありようを体現しているように思われる。

そもそも、英連邦とは何か。公式サイトにある一文を訳せば、こうなる。「英連邦は、対等な関係にある56の独立国の自発的意思にもとづく連合体である」――ただ、原文に「英連邦」はなく、“The Commonwealth”とあるだけ。「英連邦」は訳語に過ぎない。サイトには「加盟国政府は、開発や民主主義、平和のような目標を共有することで合意している」とも書かれている。この連合体は、ただの仲良しクラブということか。

ところが話は、そう簡単ではない。連邦は二重構造なのだ。そのことは英連邦の公式サイトに明記されていないが、英王室の公式サイトに入るとわかる。“Commonwealth realms”という用語が出てくるのだ。「エリザベス女王を君主とする国」(当欄の公開時点では、この記述が女王存命時のままとなっている)を指すという。邦訳は「英連邦王国」。英国以外の英連邦加盟国のうち14カ国は、英国と同一の人物を君主としているのである。

独立、対等を旨とする国々の連合体でありながら、加盟国の約4分の1はうち一つの国の君主を自国の君主に定めている。英連邦王国のつながりはふつう〈同君連合〉とみなされないが、形式的にはそう呼んでもおかしくない状態にある。矛盾を含む構造である。

その英連邦が、国葬で格別の扱いを受けたのは聖書朗読だけではなかった。読売新聞のロンドン電は「参列者の席順/英連邦を重視」と伝えている。会場では、女王の棺に近いところから英連邦王国、そのほかの英連邦諸国の順に参列者の席が並んだという。記事は、米国大統領に用意された座席が14列目だったという地元の報道に触れ、英国は英米関係を特別視しているが「国葬では英連邦の関係性を優先させた」と分析している。

東京新聞は、英連邦に焦点を当てたロンドン電でこんな見方もしている。「欧州連合(EU)からの離脱で国際的な評価が傷ついた英国は、以前よりも英連邦を重視している」。これも腑に落ちる指摘だ。私の実感では、英国人の欧州大陸に対する距離感は私たちが想像するよりも大きく、アジア・アフリカに対するそれは想像以上に小さい。このことは、英国メディアがどんな国際ニュースを頻繁にとりあげているかを見るとよくわかる。

手厚いアジア・アフリカ報道からは旧宗主国の〈上から目線〉も感じられる。だが、それだけではない。英国には、旧植民地からやって来た人々やその子孫が大勢いる。そのなかには、前述のスコットランド氏や先日の保守党党首選を最後まで争ったリシ・スナク氏のように社会の中枢を占める人たちもいる。英国は多民族社会であり、英連邦はそれを支える〈ふるさと連合〉なのだ。ただ、それはあくまで英国側の視点に立った話と言えよう。

現実に、英連邦の内部には反発もある。朝日新聞国際面の記事は「アフリカ大陸からは、女王への追悼の声が上がる一方で、英国の過去の植民支配や弾圧への憤りも聞かれた」としている。「憤り」の例に挙がるのは、ケニア人女性のツイッター発信だ。1950~60年代の独立闘争では祖父母世代が英国に「弾圧された」、だから自分は女王を「追悼することができない」――。これを読むと、私が南アで受けた印象はやはり例外的なのかとも思う。

英連邦王国では、その変則的な君主制に対して違和感が生じているようだ。同じ朝日新聞国際面の記事によると、英連邦王国の一つ、カナダのトルドー政権は国葬当日を休日扱いにしたが、国内にはこれに同調しない州も複数あったという。かつてフランス人の入植も盛んで、フランス語で暮らす人々が多いケベック州はその一つ。州首相は「子どもの登校日を減らすのは避けたい。パンデミックで既に、十分だ」と語ったという。

同様に英連邦王国であるオーストラリアには、君主制をやめようという動きがある。「与党労働党は共和制移行を党方針に掲げている」(東京新聞)、「アルバニージー首相は共和制移行に向けた議論をするため、担当副大臣を任命した」(朝日新聞)という状況なのだ。女王への追悼機運で移行にブレーキがかかっているようだが、英連邦王国の人々には、なぜ王様を海の向こうから借りてこなくてはならないのか、という思いもあるだろう。

東京新聞のロンドン電には思わず苦笑した言葉がある。女王弔問の列に並んでいた人から聞きとったひとことだ。その人の妹は英連邦王国の一つ、ニュージーランドに在住だが、「共和制になったら『変な大統領』が誕生しかねない」と心配している、という。この懸念は、ここ10年ほどで急に現実味を帯びるようになった。君主制をやめるときには「変な大統領」が出てこないしくみを考えなくてはならない。これは心にとめておくべきだろう。

それにしても、である。私たちは――少なくとも私は――英女王の国葬にうっとり見とれてしまった。そこには、生涯の職務を全うした人に対する敬意があった。伝統に裏打ちされた厳かさがあった。そしてなによりも、美しかった。と同時に、凋落した旧帝国の思惑が見え隠れしていた。過去の植民地支配の苦い記憶も聞こえてきた。さらに、君主制懐疑の風も吹きつけている。女王は死してなお、歴史を映す鏡になっているとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月30日公開、通算646回
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へんな夏の終わりに清張

今週の書物/
『絢爛たる流離』
松本清張著、文春文庫、2022年刊

針金

へんな夏が終わった。

一つには、「3年ぶりの行動制限のない夏」とメディアが連呼したことだ。コロナ禍第7波で全国の新規感染者数が1日当たり数十万人に及んだというのに、政権はこの言葉の軽やかさに乗っかってほとんど動かなかった。感染症蔓延の盛りに行動制限をなくすというのなら、それによってどんな事態が生じるかを考えて、ああなったらこうする、こうなったらああする、と手筈を整えるのが為政者の務めだろう。その準備があったとは思えない。

もう一つ、元首相の不慮の死もあった。それで私の脳裏には、1960年代に相次いだ暗殺事件が蘇った。小学生のころだ。社会党委員長の刺殺では、夕刻のニュースで17歳の少年が委員長に体当たりする映像が繰り返し流された。米大統領銃撃のときは早朝、テレビ界初の日米宇宙中継が予期せぬ凶事を報じていた――。たぶん、今の子どもたちは今回の事件を現場に居合わせた人々のスマホ映像などで記憶しつづけることになるのだろう。

今回の事件は「暗殺」という用語がなじまない。当初は、動機が世間に対する漠然とした恨みのように思えた。やがて、それは社会問題に根ざしており、政治にも深くかかわっていることがわかったが、「暗殺」と呼ぶにはあまりに日常的な風景がそこにはあった。

それは、事件現場が近鉄大和西大寺駅前だったからかもしれない。私は学生時代、関西旅行の折にこの駅で降りたことがある。東大寺ならぬ西大寺なのだから、辺りには古代の雰囲気が漂っているのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、歩いてみるとふつうの住宅街だった。元首相が襲われたのは、日比谷公会堂ではなく、ダラスの大通りでもなく、私鉄沿線のどこにでもある町。「暗殺」の舞台の要件ともいえる劇場性をぼやかしていた。

前代未聞の疫病禍でも政権は動じない。政界の有力者が凶弾に倒れても「暗殺」の感じがしない。それをどうみるかは別にして世間はすっかり凪なのだ。冒頭に「へんな夏」と私が書いたのは、以上のようなことによる。この夏は将来、歴史に記録されるのだろうか。

で、今週は清張の昭和史。といってもノンフィクションではない。連作短編小説『絢爛たる流離』(松本清張著、文春文庫、2022年刊)。1963年に「婦人公論」誌に連載された12編から成る。それぞれが独立した話だが、全編に登場する同じ一つのモノがある。3カラット純白の丸ダイヤだ。これをバトンにして昭和の風景断片をリレーする。1971年に『松本清張全集2』(文藝春秋社)に収められ、2009年に文庫化、今回読むのはその新装版だ。

私がこの本をとりあげようと思ったのは、松本清張記念館名誉館長の藤井康栄さんが執筆した巻末解題に「話の筋は、著者の創作」だが「中身には、著者自身の体験が色濃く反映されている」とあるからだ。この記述で、私は納得した。この本に、日本の近現代史を動かした立役者は出てこない。戦時中の外地、占領時代の地方都市、高度成長初期の東京……。それぞれの時代、それぞれの場所にあったかもしれない市井の物語を紡いでいる。

当欄は各編の筋を追わず、印象に残る光景だけを切りだしてみる。ちょっと驚いたのは、第八話「切符」だ。敗戦の数年後、山口県宇部市の古物商が乗りだした新商売は古い針金を売ることだった。きっかけは、同業者から「あんたンとこに針金はないかのう?」と聞かれたことだ。岡山周辺の箒(ほうき)製造業者が「針金がのうて困っちょる」という。戦後の物不足がそんな生活用品にも及んでいたことを、私は初めて知った。

古物商は、人を介して大手針金メーカーの幹部に話をもち込み、針金のつくり損ない(ヤレ)を格安価格で仕入れて売る算段をつけた。当時の経済は統制下にあったので針金メーカーも臨時物資需給調整法に縛られ、製品を「切符」のある業者にしか売れなかった。ただ、ヤレは「廃品同様」だから「横流し」ではない、という理屈が立った。難題は一つ。ヤレは巻き取り装置の不調で出てくるので「メチャクチャに縺れて」いたことだ。

古物商は女性の作業員を10人ほど雇い、人力で縺れをほどいた。そこに30代半ばの男がふらりとやって来る。作業場の様子を見学して「あれじゃ工賃ばかり嵩んで仕事にはならんだろうな」と感想を漏らし、「ひとつ機械化してみては?」ともちかける。男は「W大学の機械科」卒を名乗り、自分が図面を引く、木造だから組み立ては大工に任せる、というのだ。怪しげではある。古物商も初めは半信半疑だったが、やがてその話に乗せられて……

戦後の混乱期、人々がどれほどしたたかだったかが、これだけの話からも見えてくる。藤井解題によると、この一編の背後には「復員後、生活のためにアルバイトで箒の仲買を商売としていた著者自身の体験」があるという。著者は針金不足を間近に見ていたのだ。

「復員」の一語でわかるように、著者は軍隊生活を送ったことがある。1944年に召集を受け、朝鮮半島南部(韓国全羅北道)に駐屯する部隊に配属となる。衛生兵だった。解題によれば、第三話「百済の草」と第四話「走路」にこのときの体験が生かされている。

第三話の主人公は、全羅北道の小都市に内地から赴任した日本企業の鉱山技師。妻と社宅で暮らしていたが、戦争末期に兵隊にとられる。その技師が衛生兵となり、ひょんなことから社宅に近い軍司令部へ転任となる。社宅には妻が今も住んでいる。だが、兵隊は司令部のある農学校の建物で起居して、兵営の外には出られなかった。通信が禁じられているので、すぐ近所にいることを妻に知らせることもできない。会いたい、だが会えない……。

技師には営内に頼りになる上官が一人いた。階級は下士官の軍曹だが、会社勤め時代には部下だったので、なにかと力になってくれる。軍曹は、公用外出のときに技師宅を訪ね、夫が兵営にいることを妻に伝えてくれた。それからまもなく、技師に一つの情報がもたらされる。若い高級参謀が高級将校に許された「営外居住」の特権を行使して、技師宅の一部屋を賄いつきで借りている――技師の心に波風が立ったことは想像に難くない。

兵隊も例外的には営外に出ることができた。現に高級参謀付きの上等兵は「公用腕章」を着けて衛兵所がある門を自由に出入りしている。技師は覚悟を決めて、腕章を貸してほしいと、その上等兵に頼む。幸いに「奥さんに逢いに行くのか?」という笑顔が返ってきた。発覚すれば「重営倉もの」だが、上等兵は好人物だった……。それにしても、高級将校なら営外居住、下士官は公用で町を歩ける、兵隊は兵営に缶詰め、という縦社会は見苦しい。

藤井解題によると、著者自身も朝鮮半島で衛生兵だったころ、公用腕章の恩恵に浴して「町を歩き回り、古本屋で本を買ったり」していた。人々は苛酷な軍国主義下でもときにワル賢く頭を働かせて、人間らしい欲求を満たそうとしていたことがわかる。

さて、話は60年安保に飛ぶ。第十話「安全率」では、1960年6月に新しい日米安保条約が自然承認される直前、東京・成城にある大手鉄鋼会社会長邸に学生運動家二人が訪ねてくる。一人は「総学連の財政副部長」。学生服には「T大」の襟章がある。「われわれの目的はあくまでも革命」「内閣に絶えず脅威を与え、ゆさぶりつづけます」と持論をぶち、会長から「指導者階級をギロチンにかけるのかね?」と問われても否定しない。

興味深いのは、総学連幹部のねらいがカンパにあったことだ。二人は会長からの支援金3万円を手にして帰っていく。1960年の3万円は、ザクっといえば今の50万~60万円ほどか。当時の学生運動に、こんな資金の流れがあったかどうかはわからない。ただ、鉄鋼会社トップと学生運動指導者の間にどこか通じあうものがあったようには思われる。著者は、その危うさを架空の団体「総学連」の話として具象化したのではないか。

鉄鋼会社会長には、その3万円で「革命の虐殺から助かるかもしれない」という思惑もあった。自分は防衛産業の柱である鉄鋼業界の経営者だが、「革命家の理解者になること」で自身や家族、そして愛人も助命されるのではないか、と思ったりするのだ。

会長はその夜、銀座に出かける。目当ては、愛人がマダムをしている高級バーだ。店内では紫煙が漂うなか、「文化人と称する連中が女の子を引きつけ、大きな声でしゃべり合っては酒を飲んでいた」。会長は、カウンター席の一隅に腰を下ろす。それは、マダムのパトロンに用意された言わば指定席だった。店から2kmほどしか離れていない国会議事堂周辺では学生たちのデモが渦巻いているというのに、その緊迫感がここにはない。

この一編がおもしろいのは、60年安保を描くとき、視座を成城という高級邸宅街や銀座という高級歓楽街に置いたことだ。その構図の妙で、そこにあった空虚さが浮かびあがってくる。デモの映像を小学生の目で眺めていた私は、あのころから時代が急に明るくなったように記憶しているのだが、それは的外れではなかった。あの出来事は所得倍増政策を呼び込み、高度経済成長の跳躍台となった。その事情も、この作品を読むと腑に落ちる。

さて2022年の夏は、へんだった。災厄が進行中なのに人々は日常の一角にいて、世の変転に無関心のように生きている――そんな感じか。だが、そういうことは昔からあったのかもしれない。清張がこの本の各編で描きだした人々を見ていると、そう思えてくる。
☆引用部分にあるルビは原則、省きます。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月9日公開、通算643回
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ゴジラ、反核の直感が生んだもの

今週の書物/
●「ゴジラ映画」(谷川建司執筆)
『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊)所収
●「G作品検討用台本」
『ゴジラ』(香山滋著、ちくま文庫、2004年刊)所収

卵生?

反核を思う8月。今夏は例年よりもいっそう、その思いが切実なものになっている。世界の一角で、この瞬間にも核兵器が使われるかもしれない軍事行動が進行中だからだ。

折から、核不拡散条約(NPT)再検討会議が1日からニューヨークの国連本部で開かれている。核兵器保有国に核軍縮交渉を義務づけ、非保有国に核兵器の製造や取得を禁じた条約だ。1970年に発効した。再検討会議は、その実態を点検するのがねらいだ。

会議の報道でもっとも印象深かったのは、ウクライナ副外相の演説だ。ロシアがウクライナの核関連施設を攻撃したことに触れ、「我々はみな、核保有国が後押しする『核テロリズム』が、どのように現実になったのかを目の当たりにした」と述べた(朝日新聞2022年8月3日付朝刊)。たしかに今回は、原発が軍隊によって占領され、それがあたかも人質のように扱われている。「平和利用」の核が「軍事利用」されたのである。

この指摘はNPTの弱みを見せつけたように私は思う。NPTは「核軍縮」「核不拡散」だけでなく、「原子力の平和利用」も3本柱の一つにしている。ところがウクライナの状況は、「平和利用」が「軍事利用」に転化されるリスクを浮かびあがらせた。原発は、今回のように占領の恐れがあるだけではない。ミサイル攻撃を受ければ放射性物質が飛散して、それ自体が兵器の役目を果たしてしまうのだ。「軍事」と「平和」の線引きは難しい。

それにしても「核軍縮」と「核不拡散」になぜ、「原子力の平和利用」がくっつくのか。これは、戦後世界史と深く結びついている。源流は1953年、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力」(“Atoms for Peace”)にあるようだ。核兵器保有国はふやしたくない、先回りして核物質を平和利用するための国際管理体制を整えよう――そんな思惑が感じられる。こうして国際原子力機関(IAEA)が設立された。

ここには、「軍事利用」は×、「平和利用」は〇という核の二分法がある。だが私たちはそろそろ、この思考の枠組みから脱け出るべきだろう。なぜなら、戦争には「平和利用」の核を「軍事利用」しようという誘惑がつきまとうからだ。さらに核は、「平和利用」であれ「軍事利用」であれ偶発事故を起こす可能性があり、その被害の大きさは計り知れないからだ。私たちは、核そのものの危うさにもっと敏感になるべきではないか。

で今週は、一つの論考と一つの台本を。論考は「ゴジラ映画」(谷川建司執筆、『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』=筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊=所収)。台本は「G作品検討用台本」(『ゴジラ』=香山滋著、ちくま文庫、2004年刊=所収)。前者は、ゴジラ映画史を1962年生まれの映画ジャーナリストが振り返った。後者は、映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督、東宝、1954年=一連のゴジラ映画の第1作)の「原作」とされている。

後者の著者香山(1904~1975)は、大蔵省の役人も経験した異色の作家。「秘境・魔境」や「幻想怪奇」など「現実の埒外にある題材」を好み、「読者に一時のロマンを与えてくれるのが特長であった」と、『ゴジラ』(ちくま文庫)の巻末解説(竹内博執筆)にはある。

今回の当欄では、戦争が終わってまもなくの日本社会が被爆や被曝をどうとらえていたかを谷川論考から探り、その具体例を香山台本から拾いあげていきたい、と思う。

谷川論考はまず、映画「ゴジラ」が日本人の被爆被曝体験と不可分であることを強調する。1954年3月、遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員が太平洋で米国の水爆実験の放射性降下物を浴び、放射線障害に苦しんでいるという事実が明らかになった。日本人は、広島、長崎に続いて、またもヒバクしたのだ。核兵器反対の市民運動に火がついた。街には「原子マグロ」を恐れる空気も広まった。その年の11月に「ゴジラ」は封切られたのだ。

香山台本には、日本近海にゴジラが出現したという話題でもちきりの酒場が出てくる。「女」が言う。「原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえこんどは、怪物ゴジラときたわ」。東京湾に現れたらどうなるか、と彼女が「客」に問うと「疎開先でも探すとするか」という答えが返ってくる。「疎開」が10年ほど前の記憶として残っていたこのころ、ゴジラの不気味さは広島、長崎の被爆や第五福竜丸の被曝を人々に想起させるものだったことがわかる。

谷川論考によれば、「ゴジラ」は東宝にとって社運をかけた一大プロジェクトだった。東宝は1950年代に入ると、戦後燃え盛った労働争議の傷痕が癒え、戦時中の戦争映画で追放されていた幹部も返り咲いて、起死回生を期していた。そこに降ってわいた第五福竜丸事件。幹部たちは太古の恐竜が水爆によって目覚めるという娯楽大作を秘密裏に企画、香山に筋書きを頼んだ。「G作品」はコードネーム。「G」はgiant(巨大)を意味したという。

それにしても、映画人は機を見るに敏だ。戦時に戦意高揚の作品をつくっていた人々が戦後、核への忌避感に乗じた作品を構想する。その撮影には、戦争映画で特撮を受けもった人材が投入されたという。この点で、映画「ゴジラ」は太平洋戦争と地続きにある。

谷川論考は、ゴジラを「“被爆者”」と位置づける。その体表に「ケロイド状の皮膚」との類似を見てとるのは「当時の観客にとっては言わずもがなのことだった」。ここで言及されるのが「アサヒグラフ」1952年8月6日号だ。占領が終わって、原爆被害の真相を包み隠さず伝える写真がようやく公開された。そこに、第五福竜丸の報道映像がさらなる追い討ちをかけた。日本人の多くは1954年ごろ、核の怖さを真に実感したのかもしれない。

香山台本には、古生物学者の山根恭平が娘の恵美子にゴジラの正体を語って聞かせる場面がある。ゴジラはジュラ紀の海棲爬虫類だが、現代まで海底の洞窟などでひっそり生き延びていたという自説を明かして、こう続ける。「水爆実験で、その環境を完全に破壊された」「追い出されたんだ」。それで日本近海にやって来たのだろう。こうしてゴジラは、人類が始めた核兵器開発競争のとばっちりを受けた者として描かれるのである。

恵美子は父の説に「信じられないわ」と半信半疑だが、父は「物的証拠が、ちゃんと揃っている」と譲らない。ゴジラの体からこぼれ落ちた三葉虫――絶滅したとされている古生物――を調べると、放射性核種のストロンチウム90が検出されたという。

山根恭平の説明は、記者発表の場でも繰り返される。そこでは、ゴジラ本来の推定生息年代が「侏羅紀(じゅらき)から、次の時代白亜紀にかけて」に広げられ、分類も「海棲爬虫類から、陸生獣類に進化しようとする過程にあった中間型の生物」とされている。

記者発表で見落とせないのは、ゴジラの体が水爆によって「後天的に放射性因子を帯びた」としていることだ。物質が放射線を受け、自身も放射線を出すようになることを放射化という。山根は、ゴジラが全身から放つ「奇怪な白熱光」をこれで説明しようとしている。

ゴジラは水爆実験で「安息の地と平穏な暮らしを奪われた」(谷川論考)のだから、核兵器の被害者だ。と同時に「人間の築いた文明を破壊しよう」(同)としている点で加害者でもある。そこでは、被曝するという被害と被曝させるという加害が同居している。香山台本で特筆すべきは、架空の生きものにこの二面性を付与したことだろう。ト書きには、ゴジラを水爆のシンボルにしようという作者の意図が書き込まれた箇所もある。

谷川論考によると、映画「ゴジラ」には「怪獣王ゴジラ」という改定版がある。米国の映画会社が東宝からフィルムを買い入れて再編集したものだ。2作品を比べると、後者では「ゴジラ自体が“被爆者”に他ならないという見立て」は消え去っているという。

ゴジラの二面性で思うのは、ウクライナの原発も同様ということだ。攻撃の標的になりかねないという意味では被害者の立場だ。だが、いったん攻撃されたならば、核汚染を引き起こしかねないのだから加害者の側面もある。これが核のリスクというものだ。

広島、長崎、第五福竜丸。三つのヒバクが直近の出来事だった1950年代半ばの日本社会は、核の本質を直感していた。ゴジラの出現は、そのことを物語っているように思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月12日公開、通算639回
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「満洲」、軍国は外交下手だった

今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊

9月2日まで

ロシアのウクライナ侵攻を見ていて、つくづく思うのは外交の難しさだ。独裁的な権力者がいったん軍事行動に出てしまうと、それを押しとどめるのは容易ではない。対話の場を設けても暖簾に腕押し。制裁で圧力をかければ、かえって逆襲に遭う。

とはいえ、相手が手を出す前なら、できることがいくつもある。目を凝らし、耳をそばだて、相手の動きを見定める。先方の面子にも気を配りながら、先回りして包囲網を張り、不穏な動きを封じる。これがうまくいけば、無用な戦争に引きずり込まれることはない。

ところが、戦前戦中の日本政府にはその能力がなかった。たとえば、ソ連軍が終戦直前に参戦するという事態は外交で防げたのではないか。今週も『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)を読んで、そのことを考える。(*1、*2)

本題に入る前に、日本とソ連が戦争末期にどんな関係にあったかを押さえておこう。両国は日米開戦に先立つ1941年4月、ソ連の提案によって「日ソ中立条約」を結んだ。締約国の片方が第三国と戦争状態に陥ったとき、もう一方は中立の立場をとる、という内容だ。前年には日独伊三国同盟も締結されている。これによって、日本の立ち位置は定まった。独伊と組み、米英中などと向きあう、このときソ連には黙っていてもらう、という構図だ。

この交渉では見落とせない点がある。日本側は不可侵条約を望んだが、ソ連側が中立条約にとどめたということだ。ソ連は「日露戦争で失った地域の返還をともなわない不可侵条約」は国内世論が許さないとして、不可侵を取り決めるなら、そのまえに「南樺太と千島列島は、ロシアに返してもらいたい」と言い張ったという。気になるのは、このやりとりを日本政府がどれほど深く胸に刻んだか、ということだ。ソ連は本気だった。

というのも、この主張が1945年2月、クリミア半島のヤルタであった米英ソ首脳会談でも展開されるからだ。ソ連は対日参戦の条件として、戦勝時に南樺太と千島列島を手にすることを求めた。ヨシフ・スターリン首相は「私は日本がロシアから奪いとったものを、返してもらうことだけを願っている」と積年の思いを披瀝したという。この要求を、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は「なんら問題はない」と受け入れた。

ヤルタ会談では、これが米英ソの「秘密協定」になった。ところが、この事実は日本政府のアンテナにまったくかからなかった。駐ソ日本大使がソ連外相に会談の内容を聞くと、「日本問題」は議論の対象にもならなかったという答えが返ってきた。

実はそのころ、日本政府はソ連に和平仲介の役回りを期待していた。駐日ソ連大使の日記によれば、大使は2月、日本の外務官僚の訪問を受け、「調停役」は「権威」と「威信」と「説得力」をもちあわせた「スターリン元帥以外にはない」と言われたという。

同じ2月に大本営トップの参謀総長が天皇に対して反米親ソの報告をした、という話も本書には出てくる。米国は対日戦で国体の破壊や国土の焦土化を遂げなければ満足しない。これに対し、「ソヴィエトは日本に好意を有している」。そんな言葉もあったという。

内大臣木戸幸一が3月に入って知人の一人に漏らしたという言葉も衝撃的だ。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ」「結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることとなるのではないか」。木戸は、ソ連が仲介の見返りに共産主義者の入閣を求めれば応じてもよい、とすら言ったらしい。歴代政権はそれまで、治安維持法を振りかざして共産主義者を弾圧してきた。それを忘れたかのような身勝手な路線変更ではないか。

そんななかで4月、寝耳に水の情報がモスクワから届く。ソ連が日ソ中立条約の廃棄を通告してきたのだ。この条約は条文に照らせば片方から廃棄通告があっても1946年春まで有効なはずだったが、日ソ関係が不安定になったのは間違いなかった。

不思議なのは、日本政府がこれで反ソに転じるかと思いきや、逆の方向に針が振れたことだ。著者によれば、軍部にはソ連を「“敵”にしたくない」という思いが強かった。その結果、ソ連に水面下で終戦の仲介役を頼もうという流れはかえって強まったという。

1945年4~5月には、政府内で軍部対外相の論争があった。軍部は「ソ連の参戦防止のため対ソ工作を放胆かつ果敢に決行する」という方針を主張したが、東郷茂徳外相は「対ソ工作はもはや手遅れ」と抵抗した。一見、外交の責任者が外交努力を放棄したかのようにも見えるが、著者は「外相の判断は、今日の時点でみても非常に正確なもの」と評価する。軍部の愚はその後、どんな対ソ工作が構想されたかを見るとわかってくる。

政府は5月中旬、軍部の意向通り「ソ連に仲介を頼む」という決定をする。驚くのはこのとき、ソ連の労に対する「代償」をどうするかまで決めていたことだ。「南樺太の返還」「北満における諸鉄道の譲渡」「場合によりては千島北半を譲渡するもやむを得ざるべし」……といった具合だ。こちらが代償を先に用意すれば、ソ連は戦わずに得るものを得られる。結果として「戦争を回避するにちがいない」。これが「放胆かつ果敢」な工作だった。

6月、政府は元首相広田弘毅を引っ張りだして駐日ソ連大使と交渉させるが、ソ連側の反応は鈍い。7月には元首相近衛文麿を特使として訪ソさせることを決め、ソ連側に伝えた。ところが、スターリンは米英ソ首脳が敗戦国ドイツに集まるポツダム会談のことで頭がいっぱいだった。会談でも日本の申し出に触れ、こんなふうに語ったという。「特使の性格がはっきりしないと指摘して、一般的な、とりとめのない返事をしておきましょうか」

7月17日~8月2日のポツダム会談は、米英ソの駆け引きの場だった。米英は26日、日本に降伏を迫るポツダム宣言を中国蒋介石政権の同意を得て発表した。ソ連は、日本の対戦国ではないという理由で事前に知らされなかった。スターリンには焦りがあった。日本の降伏よりも早く参戦しなければ、ヤルタの「秘密協定」は水泡に帰す、戦後アジアの覇権も夢と消える――。こうして8月8日に宣戦を布告、9日、満洲に侵攻したのだ。

一連の流れをたどって痛感するのは、日本政府が国際情勢を自己中心の視点で解釈する一方、外交の力学に目をふさいでいたことだ。ソ連は1941年、たしかに日本と中立条約を結んだが、それは対独戦に集中したいなどの思惑があったからだろう。「日本に好意を有している」からとは思えない。そのことは、日本が不可侵条約を提案したときにソ連がこれを断固拒否したことからも明白だ。だが、日本政府はこの一点を見過ごしてしまった。

国際社会の先行きに対する読みも浅すぎる。米ソはドイツという共通の敵と戦ったからといって、仲良し二人組ではない。やがて競合関係になるのは必至だった。そんななか両国間では、ソ連の対日参戦と戦後の取り分が取引材料になっていた。日本政府は、これを嗅ぎとれなかった。諜報能力が乏しかっただけではない。自国の立ち位置を客体化してとらえ、それに対して世界の国々がどう動くかを理詰めで予測できなかったのである。

終戦の局面で、日本政府はいくつかの「誤断」を重ねている。一つは、降伏をめぐる「大誤断」だ。政府は、8月16日に全部隊へ停戦命令を出したことをもって「降伏は完成した」と思い込んだ、と著者はみる。だが、「降伏」の成立は9月2日の文書調印を待たなければならなかった。この間、戦地は無統制の状態に置かれた。ソ連軍が満洲を猛攻した背景には、そんな事情もあった。事前に、これを避ける手を打てなかったのか。

これに絡んでは、もう一つ「誤断」があった。8月17日ごろ、日本の外務省は在マニラのダクラス・マッカーサー連合国最高司令官に助けを求めている。満洲でソ連軍が攻撃をやめようとしないので「貴司令官においてソ側にたいし即時攻勢停止を要請せられんことを」――この要求も、的外れだった。米ソはポツダムでソ連軍の占領地域を取り決めており、その域内のことについては連合国最高司令官も口を出せないことになっていたからだ。

それにしても、である。日米開戦以来、日本政府は米国をとことん嫌い、ソ連に片思いしていた。ところが終戦前後、そのソ連から手ひどい仕打ちを受け、今度は米国にすがる。外交が下手なだけではない。節操もなさすぎる。半藤さんは、その史実も見逃していない。
*1 当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日
*2 当欄2022年7月29日付「満洲』、人々は梯子を外された
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月5日公開、通算638回
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「満洲」、人々は梯子を外された

今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊

8月

ウクライナから届くニュース映像には背筋が凍る。集合住宅の中層階にぽっこり穴が開いている。穴の暗闇には、今テレビを見ている私と同じような人々がいたに違いない。

戦争とはそういうものなのだろう。一家団欒の〈日常生活〉が、それを営む者にとっては不条理極まりない一撃で一瞬のうちに〈無に帰する〉。あの穴の闇のような無に――。

そのことは、戦場がどこにあっても同じはずだ。中東であれ、アフリカであれ、南米であれ、〈日常生活〉が〈無に帰する〉という戦争の本質は変わらない。ただ、映像で見る限り、ウクライナの〈日常生活〉は日本のそれと類似している。列島のどこにでもあるような集合住宅が砲弾に刳り抜かれ、居住空間が〈無に帰する〉ことが身につまされるのだ。あの光景を見て戦争は縁遠いものでないと感じた人々が、私たちの間には少なくないだろう。

ただ、言うまでもないことだが、77年前、日本人自身も戦争の渦中にいた。列島の主要都市は空襲の標的となった。沖縄は陸上戦に巻き込まれ、広島、長崎は原子爆弾の直撃を受けた。〈日常生活〉が〈無に帰する〉ことになった人々は日本列島に数えきれない。

そんななかで見落とされがちなのが、外地邦人の苦難である。1945年の終戦時、中国東北部には内地出身者が大勢いた。生命を奪われた人、生命を絶った人、尊厳を傷つけられた人も少なくない。だが、そのことが後続世代に十分伝わっているとは言い難い。関係者の口が重い理由には、邦人の居留そのものが日本の侵略政策と無縁でないこともあるだろう。だが、だからこそ、外地邦人が当時置かれていた状況を記憶にとどめる意味は大きい。

で、今週は『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)。著者(1930~2021)は入念な取材と史料の渉猟によって、昭和史など近現代史に迫った作家・ジャーナリスト。文藝春秋社で要職を務めた。当欄は著者が逝去した去年、代表作『日本のいちばん長い日』をとりあげている(*)。本書『ソ連が…』は1998~1999年に「別冊文藝春秋」に発表されたノンフィクション作品。単行本は1999年に同社から刊行された。

最初に「満洲」についてことわっておこう。「満洲」は、中国の遼寧省、吉林省、黒竜江省とその周辺を指す地域名だったが、今の中国では用いられない。日本のメディアも、一般記事では「中国東北部」という呼び方をしている。ただ、本書のように近現代史を跡づける書物では、史料を尊重して「満洲」「満州」を使うことが多い。今回の当欄もそれにならう。なお、私たちには「満州」の表記がなじみ深いが、もともとは「満洲」だったらしい。

当欄ではまず、在満洲の邦人たちが1945年の戦争最末期、内地の政府にどう扱われたかをたどっておこう。本書が問題視するのが、ソ連の対日参戦翌日8月10日早朝に出た大陸命1378号だ。「大陸命」は「大本営陸軍部命令」の略。東京の大本営陸軍部が、満洲国の首都新京(現・長春)に拠点を置く関東軍に向けて発したものだ。命令文の字面からは「対ソ全面作戦の発動」と読めるが、真意がそこにはないことを著者は強調する。

著者が注目するのは、対ソ作戦に乗りだす理由に「皇土ヲ保衛スル」ことを挙げている点だ。そのうえで「朝鮮を保衛スヘシ」と命じている。さらっと言われてしまうと気づかないが、「皇土」に満洲は含まれない。それは、あくまでも「満洲国」の国土だからだ。このとき、大本営上層部は「主敵アメリカの上陸作戦」とそれに対する「本土防衛」しか頭になかった。命令は、関東軍の主務であるはずの「満洲国防衛」に言及していない。

著者によれば、大陸命1378号の真意は「満洲放棄」と「朝鮮へ後退持久」だった。ところが命令文は、その作戦にあたって「一般民間人」をどう保護するかに触れていない。著者は、そこに一分の理は認める。戦争では、戦闘員が非戦闘員に「接触しない」のが「原則」であり、非戦闘員を「紳士的に保護」するのが「道義」だからだ。だが、現実は違った。日本の軍部は「ソ連軍に信頼をかけすぎていた」。ここに「判断の誤り」があるという。

もう一つ、この大陸命1378号には問題がある。軍部の機能不全だ。著者によれば、この命令は示達前日の9日午後6時前後に確定していた。その後まもなく10日未明、御前会議で一つの聖断が下る。連合国のポツダム宣言に応じて、天皇制に変更を加えないならば降伏しようというものだった。ところが大本営陸軍部中枢は、この聖断を受けて「動きらしい動きをほとんどみせていない」。1378号を「再考し、変更する」こともなかったのだ。

10日未明の聖断は、そのままポツダム宣言受諾とはならなかった。連合国側は無条件降伏を求めていたので、日本が一つでも条件をつけたことに納得しなかったのだ。ただ、これが転換点となり、戦争終結の流れは定まった。こうして14日、受諾の聖断に至る。

考えてみれば、この状況は混沌の極みだ。政府は、国としては終戦に舵を切った。それなのに関東軍に対しては表向き、新たな敵となったソ連と戦うよう号令をかけている。筋が通っていない。しかも、現地に居留する邦人たちは蚊帳の外に追いだされているのだ。

実をいえば、蚊帳の外はこのときに始まったことではない。1944年、太平洋方面での対米戦で敗色が濃くなると、陸軍中枢は「関東軍の精鋭師団の南方転用」に踏み切った。ただ、師団の移動は攻撃の的になりやすい。だから、この動きは厳秘だった。民間人も軍が離れたと知れば、大挙して退去するだろう。これは、敵に気づかれるきっかけになる。「敵を欺くにはまず味方から」。在留邦人は軍事行動のカムフラージュに利用されたのである。

こうして関東軍は「空洞化」された。関東軍自身も1944年夏、「今後は防衛を第一とする」という方針に切り換えている。このとき、満洲国で進行中の振興計画は中断された。それなのに「民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げる」などの指示は出ていない。

著者はここで、関東軍が邦人の満洲移民を牽引した歴史を振り返る。開拓団が「現地住民を追いはらってまで」入植に心血を注いだのは関東軍に対する信頼があったからだという。ところが、陸軍中枢が南方と本土の防衛を優先して関東軍を見限ったとき、「関東軍はそれならばと居留民と開拓団を見捨てた」。日本の軍国主義は民間人を侵略政策の最前線に送り込んだ挙句、最後の最後にその梯子を外したのである。罪深いというしかない。

本書には「歴史的汚点」とされる史実も記されている。ソ連参戦翌日の8月10日、さすがに関東軍も新京一帯に住む邦人婦女子の後方避難を決める。当初は民間人家族→官僚家族→軍人家族の順で列車に乗せる方針だったようだが、11日昼までに用意された計18便に乗れたのは軍や大使館、満鉄(南満洲鉄道)関係の家族が大半だった。軍人家族は機敏に動けるので避難行動の「誘い水」にした、という軍部の言い訳は空々しい。

こうして満洲は、慌ただしく8月15日を迎えた。だが現実には、この地には諸般の事情から終戦がなかったのだ。本書によると、関東軍が戦闘をやめたのは最後まで山中で戦っていた師団が武装を解いた8月29日。居留邦人の多くはこのときまで、いや、このときを過ぎても取り残され、危険にさらされ、苦難を強いられた。本書は、現地で何があったかを丹念に掘り起こしている。ただ、当欄はそれをなぞらない。あまりにも悲惨だからだ。

一つだけ、印象深い話を拾いあげておく。8月22日、関東軍が総司令部庁舎をソ連軍に明け渡したときのことだ。退去後も居残ることになった日本人が一人だけいた。地下室でボイラーを焚く老人だ。とどまってほしいというソ連軍将校の意向を受けて関東軍将校が老人に打診すると、「身寄りのないものゆえ、どこで死んでもいいから残ります」と言ったという。この言葉に、祖国から突き放された者の諦念を感じるのは私だけか。

さて私は先ほど、満洲で戦闘の終結が遅れた理由を〈諸般の事情から〉と書いた。その事情の過半は、日本外交の拙さに原因する。弱点は、終戦前後に次から次へ露呈した。著者の筆はそれらを鋭く突いている。次回は、そのあたりのところを浮かびあがらせる。
*当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月29日公開、同日更新、通算637回
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