植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

文章にも陰翳をみる谷崎日本語論

今週の書物/
「文章読本」
=『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)所収

どうしてこんなことに、ああだ、こうだ、と頭を悩ますのだろうか。当欄を書いていて、そんなふうに苦笑することがままある。たいていは文章作法にかかわる。たとえば、「だだだ」の問題。末尾が「だ。」の文が何回も繰り返されてしまうことだ。見苦しいというより聞き苦しい。黙読してそう感じる。で、「だ。」の一つを「である。」に置き換えたりする。「〇〇だ。」の「〇〇」が名詞なら、「〇〇。」と体言止めにすることもある。

ただ、この切り抜け策にも難がある。「である。」でいえば情報密度の問題だ。私は新聞記者だったので、文を短くするよう叩き込まれてきた。ニュース記事では「だ。」が好まれ、「である。」は嫌われた。だから今も、文末を「である。」とすることには罪悪感がある。

体言止めについては、社内で別の視点から追放運動が起こったことがある。「容疑者を逮捕。」のような文が槍玉にあがったのだ。これでは、「逮捕した。」なのか「逮捕する。」なのかがわからない。私たちは、文の完結を求められた。辟易したのは、これで体言止めそのものが悪者扱いされたことだ。私は、納得がいかなかった。文章のところどころを名詞で区切ることは、ときにリズム感をもたらす。だから、当欄では遠慮なく体言止めを使っている。

「たたた」の問題もある。過去の事象を綴るときに「た。」の文が続くことだ。こちらは、「だだだ」ほど耳障りではない。「た。」「た。」……とたたみかけることは韻を踏んでいるようで、詩的ですらある。だが半面、文章が単調になってしまうことは否めない。

そんなこともあって、私は「た。」も続かないように工夫している。一つは、「た。」のうちのどれかを「たのである。」に替える方法だ。ただ、これは「だ。」の「である。」化と同様、簡潔さを損なう副作用がある。もう一つの解決法は、「た。」の一部を現在形にしてしまうことだ。日本語は時制が厳格でないので、読者が過去の世界に誘い込まれた後であれば、「した。」が「する。」にすり替わっていても、現在に引き戻されることはない。

一介のブログ筆者でも、このように苦心は尽きない。なかには馬鹿馬鹿しいこともあるが、気になりだしたら振り払えないのだ。これは、文筆を生業としてきた人間の宿命だろうか。同じ悩みは文豪も抱えていたらしい。そのことがわかる一編を今週はとりあげる。

谷崎潤一郎が1934年に発表した『文章讀本』(中央公論社刊)。今回は、『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)というエッセイ集に収められたものを読む。「陰翳礼讃」は私が好きな文化論で、こちらについても語りたいが別の機会にしよう。

「文章読本」の目次をみると、第一部は「文章とは何か」、第二部は「文章の上達法」、第三部は「文章の要素」。この一編が文字通り、作文の指南書とわかる組み立てだ。第一部は「現代文と古典文」「西洋の文章と日本の文章」の比較論が読みどころ。第二部では「文法に囚われないこと」という章も設け、日本語の融通無碍さを論じている。第三部は、文章を「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の切り口で考察している。

谷崎流の指南は話が具体的だ。たとえば、本稿のまくらで触れた「だだだ」や「たたた」の問題もきちんと扱っている。その箇所を読んで気づかされたのは、「だだだ」「たたた」は日本語ならではの悩みということだ。日本語の文は、ふつう主語、目的語、述語の順なので、文末は「だ」や「た」や「る」になりやすい。これに対して、英語は文の終わりに目的語の名詞がくることが多いので、“is,is,is”問題や“was,was,was”問題はありえない。

この「読本」によれば、同一音の文末が反復されると、その音が「際立つ」という。「最も耳につき易い」のは、「のである」止めと「た」止め。「のである」には「重々しく附け加えた」印象があり、「た」は「韻(ひびき)が強く、歯切れのよい音」だからだ。「た」止め回避の手だてとして、著者は「動詞で終る時は現在止めを」と提案している。「た。」の一部を現在形にしてしまうという私の切り抜け策は、文豪も推奨していたことになる。

この助言からうかがえるのは、著者が文章を人間の五感でとらえていることだ。「た」止めを避けるというのは聴覚の重視である。別の箇所では太字でこうも書く。「音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない

この「読本」は作文教室でありながら、日本語論としても読める。日本語の特徴を見定めながら、それを生かした文章のあり方を探っていると言ってもよいだろう。

「文法に囚われないこと」の章には「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません」と書かれている。一例は、時制の緩さ。規則があるにはあるが「誰も正確には使っていません」。だから、「たたた」も切り抜けられるわけだ。あるいは、主語なしの許容。日本語文は「必ずしも主格のあることを必要としない」――。これらの特徴が「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない」という日本語の美学に結びついている。

日本語の語彙の乏しさを論じたくだりも必読だ。ここで、日本語とは大和言葉を指す。

例に挙がるのは「まわる」。大和言葉では、独楽の自転に対しても地球の公転に対しても「まわる」という動詞を使うが、これに対応する中国語(原文では「支那語」)、すなわち漢字の種類は多い。「転」「旋」「繞」「環」「巡」「周」「運」「回」「循」……。これらの文字を使い分けることによって、独楽の自転のように「物それ自身が『まわる』」ことと、地球の公転のように「一物が他物の周りを『まわる』」ことの区別もできるのだ。

語彙が豊かでないのは、大和言葉の欠点だ。それは著者も認めている。だから、日本語は「漢語」を取り入れ「旋転する」などの動詞を生みだしてきた。さらに「西洋語」やその「翻訳語」も取り込んで語彙を増強している。「翻訳語」には「科学」「文明」などがある。

著者は、この欠点を「我等の国民性がおしゃべりでない証拠」とみている。続けて「我等日本人は戦争には強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のために引けを取ります」と述べているのは1930年代だからこそだが、いま読むと心に突き刺さる。

だが、欠点は長所の裏返しでもある。そのことを、著者は『源氏物語』須磨の巻を題材に解説している。光源氏が都を離れ、須磨の漁村に移り住んだときの心理描写に「古里覚束なかるべきを」という表現があるが、その英訳を「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは」と訳し戻して、原文と比べている。ちなみに、この英訳は英国の東洋学者アーサー・ウェイリー(原文では「ウエーレー」と表記)の手になるものだ。

著者によれば、光源氏を悲しませているのは、社交界の人々との離別だけではない。「古里覚束なかるべきを」には「いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさ」を「取り集めた心持」が凝縮されているのだ。この「心持」を精密に分析しようとすればキリがなく、分析を重ねるほど輪郭がぼやけてくる。こういう心理状態を描くとき「わざとおおまかに、いろいろの意味が含まれるようなユトリのある言葉」を用いるのが、日本流というわけだ。

『更科日記』を引いた一節では、足柄山を描いた文章に「おそろしげ」という言葉がなんども出てくることを著者は見逃さない。日本の古典文学には、このように同一の言葉の反復が多いという。ただ著者によれば、同じ言葉であっても、それぞれが「独特なひろがり」を伴っている。「一語一語に月の暈のような蔭があり裏がある」というのだ。これは、文章にも「陰翳」を見ていることにほかならない。さすが谷崎と言うべきだろう。

私たちは今、ワープロソフトを使うので文章を何度も推敲することが習慣になってしまった。だが、墨と筆を使っていた時代は違う。いったん墨書した文言は消えずに残った。だから、頭に浮かぶ言葉がそのまま作品になったのだ。大和言葉の文学では、語彙が限られる分、同じ言葉が書きとめられやすい。だから私たち読者は、同じ言葉から別々のニュアンスをかぎ分けなくてはならない。いや、かぎ分ける自由を手にしたのだともいえる。

同じ言葉の繰り返しは、私がブログを書くときに避けようとしていることの一つだ。だが著者谷崎の卓見によれば、それは排除すべきものではなく、美点にさえなりうる。同じ言葉のそれぞれに多様な「蔭」があるだなんて、なんと素晴らしい言語観だろうか。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月31日公開、同年4月3日更新、通算672回
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竹中労が大杉栄で吠える話

今週の書物/
『断影 大杉栄』
竹中労著、ちくま文庫、2000年刊

アナーキーな色

古書店の書棚で背表紙に懐かしい名を見つけた。竹中労(たけなか・ろう)。知らない、という人が若い世代には多いだろう。私もよく知っているわけではない。ただ、その人が1960~1970年代、メディア界で“危険視”されていたことは印象に残っている。

名前は、週刊誌でよく見かけた。と言っても、書かれる側にいたわけではない。書く側である。肩書はルポライター。政治に首を突っ込み、芸能界にも興味津々だった。タブーのない人。テレビに出ると何を言い出すかわからない。見るほうも気が気でなかった。

竹中労は謎めいている。今回経歴を調べていて、そのことを痛感した。たとえば出生年。ネット検索すると「1930年生まれ」としている記述が多い。竹中が1991年に死去したときの朝日新聞記事(1991年5月20日付朝刊)も、1930年生まれで没年齢を計算している。ところがウィキペディア(2023年3月20日最終更新)によると、1930年は「戦災後復活した戸籍」に載っている生年であり、1928年生まれとする記録もあるという。

最終学歴もはっきりしない。ネット検索では「東京外語大学除籍」としているものを見かけるが、ウィキペディアでは「甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)中退」となっている。東京外大に入ったかどうかが判然としないのだ。ちなみに旧制甲府中の中退は、校長に退陣を迫り、ストライキを打ったことが問題化して「退学勧告」を受けたためらしい(ウィキペディアによる)。竹中の青春は波乱に富んだものだったらしい。

経歴の不透明は、戦後の混乱のせいだけではない。竹中の父英太郎(1906~1988)は画家で、戦前は探偵小説や怪奇小説に挿絵を描いていたが、労働運動にもかかわり、アナキズム(無政府主義)に惹かれていた。労の型破りな言動には父の影響もあっただろう。

で、今週の1冊は、その竹中労がアナキズムについて語った『断影 大杉栄』(竹中労著、ちくま文庫、2000年刊)。大正期のアナキスト大杉栄の軌跡をたどりながら、その思想に対する共感を思う存分書き込んでいる。だから本書は、ただの評伝ではない。

巻頭の「凡例(はじめに)」によれば、本書は竹中没後、本人が大杉について書いていた文章を「夢幻工房」を名乗る人物、もしくは集団がまとめたものだ。一部は現代書館刊『大杉栄』(FOR BEGINNERSイラスト版、1985年)の原稿、あとは未発表の原稿という。

「凡例」は、著者竹中のテキストには誤った表記が多く、固有名詞や数字の確認作業はしたが「パーフェクトではありません」と言う。しかも、著者は自著に文献を引くとき、「資料を見ないで」記憶を頼りに書いていたので、「引用文は原著と相当ことなっています」とことわっている。「夢幻工房」氏は、そのほうが「原文よりずっと意味が明解」と開き直り、悪びれた様子がない。本のつくりそのものがアナーキーなのだ。

ということで、当欄も今回はアナーキーにならざるを得ない。いつもは、書物の要点を原文にできる限り忠実に紡ぎだしているが、本書については通読後の感想をそのまま書きつけることにしよう。そのほうが著者の主張を正確に汲みとれるような気がする。

私の印象では、本書は日本では無政府主義が正当に扱われてこなかったことへの抗議の書であるように思われる。著者の念頭にはアナ・ボル抗争がある。無政府主義即ちアナキズムとマルクス・レーニン主義即ちボルシェヴィズムの対立である。人々が国家権力に抵抗して自由を求める運動は、無政府主義がマルクス・レーニン主義によって切り捨てられたことでやせ細ってしまった。著者は1980年代半ばにそのことを肌で感じている。

1980年代半ばといえば、国内では学生運動が勢いを失ったころだ。旧ソ連・東欧圏では民主化の動きが台頭して、マルクス・レーニン主義に翳りが見えていた。そんな折、著者は若者に向けて、反体制は「ボル」だけではない、「アナ」もある、と言いたかったのだろう。だからこそ、大杉栄をFOR BEGINNERSシリーズでとりあげたのではないか。ちなみに著者自身も日本共産党員だったが、1967年に「除籍」で党を離れたという。

FOR BEGINNERSシリーズ『大杉栄』の「あとがき」は本書巻末にも収められているが、そこには、こんな記述がある。「アナキズムは鉄の規律を強制せず、個別の情動と創意とを連動する。自由を求めるものは、みずから自由でなければならない……」

ところが、日本の左翼運動史では無政府主義は党派の統制を逸脱するものとされ、ときに「反革命」のレッテルも貼られた。代表的なアナキスト大杉栄にいたっては、男女関係の刃傷沙汰「葉山日蔭茶屋」事件で被害者となったことや、関東大震災後に軍人の手で伴侶や甥ともども殺害されたことばかりが語り継がれ、大杉周辺に漂う自由の精神が正当に評価されていない――著者の思いをすくいとれば、そういうことになるだろう。

ここでは、1916(大正5)年秋の日蔭茶屋事件に焦点を当てよう。そのころ、大杉は女性A、B、Cと「一対三の多角恋愛」の関係にあった。Aは妻、Bは愛人、Cは新しい愛人だ。Bは新聞記者、Cは結婚していて夫は女学校時代の恩師だった。大杉とCが神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」にいるところへ突然、Bがやって来る。Cは帰京。Bは大杉と言い争いになり、彼の首を切りつけた――大杉は逗子の病院へ運び込まれて一命をとりとめる。

この事件は映画の題材となり、1970年に公開された。「エロス+虐殺」(吉田喜重監督)。出演陣は、大杉が細川俊之、Bが楠侑子、Cが岡田茉莉子だった。私は封切り後まもなく、その作品を新宿のアートシアターで観ている。映像は美しいが、衝撃的だった。

著者はこの事件を論じるとき、アナキズムは「個人の自我」を「ただちに全的に解放」して「社会制度」の「解体」をめざす、と強調している(太字は原文では傍点、以下も)。ここが、ポルシェヴィズムと違うところだ。問うているのは「個々人の悟性」であり「マルクス・レーニン流の弁証法的理性」は関心外、というのだ。「自由恋愛」は「個別人間の覚悟」を重んずる点で、「革命運動」「出家遁世」「テロリズム」と同根という。

このくだりで著者が批判の目を向けるのは、戦後の既成左翼だ。性をめぐって「道徳的に最も保守であり」「徹底した公序良俗を金看板にしている」ことを見逃さない。「むしろ今日のほうが、“自由な魂”への軛(くびき)はより重くきびしいのでありますまいか」

2023年の今、大杉の女性とのつきあい方や、それを前向きに受けとめる著者の恋愛観に違和感を覚える人は多いだろう。昨今は婚前の自由恋愛を認めつつ、結婚している人の婚外恋愛はダメという見方が標準仕様だからだ。不倫は、週刊誌の鉄板ネタになっている。

もう一つ、著者が「自由恋愛」を「テロリズム」と同列視していることも、今ならば炎上騒ぎを呼びおこしたはずだ。これは、若者がまだ「武力闘争」という言葉を平気で使っていたころだからこそ公言できた論法。要らぬ誤解を招く例示と言うべきだろう。

こう見てくると、竹中労は“out of date”の人だ。時代遅れというよりも、時代の枠からはみ出しているという感じか。だが私は、「個人の自我」の「解放」にとことんこだわる姿勢には心惹かれる。今の時代、そんな解放志向の精神があまりにもなさすぎる。

大杉はAと別れてCと連れ添い、5人の子に恵まれた。本書によれば、1923年の震災前は「子供らの面倒」をみて「乳母車を押して歩く」日々だったという。この情景は今のジェンダー観にもぴったりくる。大杉はやはり、先駆的な人だったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月24日公開、通算671回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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原発被害「閾値」行政の不条理

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv!

今回も『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)を引きつづき読む。先週は、東京電力福島第一原発事故の汚染被害地域で年間線量20mSv(ミリシーベルト)という数値が独り歩きしている現実を見た。

このことでは、科学担当の元新聞記者として書いておきたいことが一つある。「閾(しきい)値なし直線(LNT)仮説」と呼ばれる考え方をどうみるか、ということだ。この仮説は、被曝による健康リスクが或る線量から急に現れるものではないと考える。リスクの有無は不連続でないというのだ。リスクは、線量がふえるにつれてしだいに高まることになる。国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告も、この立場をとっている。

LNT仮説に対する評価は、専門家や科学記者の間でばらついているようだ。理由はよくわかる。被曝線量が低いときのリスク増は、あったとしても増え幅が小さくて見極めにくいからだ。だが、だからこそ、この仮説は尊重されるべきものだと私は思う。

なにごとであれ、不確定さを伴う問題に対処するときは最悪の筋書きを心にとめるべきだからだ。その筋書きに対する根拠が現時点では不十分でも、それを織り込んで対策をとっておくことが最悪の事態を回避できる。これは、予防原則の一つと言ってよいだろう。

そのことを踏まえて本書を読むと、現実はそうなっていない。福島第一原発事故で本来の生活を乱された人々は被災地支援の諸政策に囲まれているが、それらはLNT仮説と逆向きの思想で成り立っているように見える。著者は福島県内に住む人々や県外に避難した人々を取材して、それぞれが抱える問題を浮かびあがらせているが、そこにあるのは〈閾値〉の行政だ。〈閾値〉以下の世界では3・11は強制終了されようとしている。

もちろん、政府や自治体が被災地を支援するとき、支援先を無制限には広げられないので、どこかで線を引くことになる。線引きを公正にするには基準値が必要だからだ。行政に閾は欠かせない。問題は、閾の決め方や扱い方に道理があるかどうかではないか。

本書の冒頭部では、福島県富岡町の放射線量が詳述されている。富岡町は福島第一原発の南方約10kmにあり、事故後は全域に避難指示が出された。このうち2017年4月に指示が解除された区域の元住人がその年の秋に自宅の線量測定のため「一時帰宅」したとき、著者は同行取材している。この区域は2012年3月時点で年間積算線量20mSv超とみられていたが、それが年間20mSv以下に減ったとされ、避難指示の解除に至ったのである。

この取材時、元住人宅の1時間当たりの放射線量、即ち線量率は次の通りだった。μSvはマイクロシーベルト、1mSvの1000分の1である。(*)
ベランダ   毎時0.7μSv(事故前の約17倍)
庭の植え込み 毎時3μSv(事故前の約75倍)
玄関脇雨樋下 毎時10μSv以上(測定器の上限超え)

数値を見てまず知りたくなるのは、それが避難指示解除の要件の一つ、年間線量20mSv以下を満たしているかどうかだ。このことについては、私が独自に調べてみた。環境省公式サイトのQ&Aコーナー(2016年度版)には、公衆の被曝線量限度(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)年間1mSvを1時間当たりの線量率で表すと毎時0.23μSvになる、とされていた。そうならば、年間20mSvはその20倍なので毎時4.6μSvとなる。

先へ進む前に、年間1mSvから毎時0.23μSvを導きだした計算法を跡づけておこう。環境省の説明によれば、こうなる――。住人が屋外で過ごす時間が1日のうち8時間だとみなすと、残り16時間は屋外の空間線量の4割程度しか被曝しないことになる。ここで屋外の空間線量率が毎時xμSvとすると、年間線量限度には次の数式が成り立つ。
1mSv=1000μSv=(x×8+0.4x×16)×365μSv

この代数を中学生に戻った気分で解くと、答えはx=0.19μSvになる。ただ、これは実測値ではない。自然界にはもともと毎時約0.04μSvの放射線があるから、両方を足し合わせた毎時0.23μSvを測定すれば、公衆の線量限度年間1mSvの水準ということになる。

この計算の当否はわからない。屋内被曝を屋外の4割としたり、屋外滞在を1日8時間とみたりという仮定が入っているからだ。前者は、木造家屋かコンクリート建築かで違ってくるだろう。後者も、当人の年齢や職業によってまちまちだろう。ただ、避難指示を解く区域の線を引くには、ざっくりした仮定をもちこんで基準値をはじき出すしかない。このとき頭に叩き込んでおくべきは、その数値が大まかな目安に過ぎないということだ。

では、前述の元住人宅の測定結果をこの目安と比べよう。ベランダや庭先は毎時4.6μSv以下だが、玄関付近の雨樋付近はそれを超えている。場所によっては年間20mSv超もあるということだ。住宅1戸の敷地内に限っても、放射線量は大きくばらついている。

線量のばらつきを示す記述は本書のあちこちに出てくる。たとえば、「ホットスポットファインダー」という空間線量計を紹介するくだり。この機器は「一歩進むごとの放射線量を正確に数値化」できる。その測定で「放射性物質は風雨によって移動し、溜まりやすい場所にとどまる」ことがはっきりした。たとえば、路面の舗装がアスファルトなら線量は低いが、透水性のものだと放射性物質が染み込んで居すわり、高い値を示すことがあるという。

線量のばらつきは行政の判断に影響を与え、人々の生活設計を左右することもある。南相馬市の住人の一人は、その不条理を露骨なかたちで体験した。この人が住んでいる地域では2011年、政府の政策に従って年間積算線量20mSv超とされる家々が「特定避難勧奨地点」の指定を受けた。この人の場合、「両隣」(原文は傍点)は勧奨地点になったが、自分の家は外された。その判定結果は「賠償額の決定的な違い」にも直結しているという。

この話で痛感するのは、政府の施策が一見科学的でありながら実は非科学的なことだ。毎時の線量率を隣家と比べたとき、違いがμSvで小数点以下ならば「測定の誤差の範囲」であり、そのことは政府もわかっているはず、と著者は主張する。私もそう思う。

本書は、放射能除染の不条理も突いている。衝撃的なのは、福島県内では「県面積の約八〇パーセントが除染されない」という現実があるらしいことだ。除染は特措法のもとで政府や自治体が進めているが、田畑や山林では「ほぼ行われないに等しい」と著者は言う。

田畑は、農作業で放射性物質が土壌に交ざり込んでいる場合、表土を剥ぐだけでは除染にならないということで対象外になった。山林は、腐葉土を除くと土量が嵩む、土壌除去が防災に悪影響を与えかねない、といった理由で住宅の周辺以外は手つかずになっている。

著者は、除染で出た土の行方にも関心を向けている。本書によると、郡山市内では汚染土が児童公園の地中に埋められたことがあった。ブルーシートで覆われただけですべり台のそばに放置されたこともあった。埋設場所が住人に知らされなかったという事実も明らかになっている。福島第一原発の一部が立地する双葉町では、汚染土の行き場とされる中間貯蔵施設の用地確保がままならならず、汚染土の「仮置き場」が散在しているという。

ここでもう一度思い返したいのは、セシウム137は原子炉にとどまっても、汚染土の一部になっても、地中に埋められても、仮置き場に山積みされても、放射能の半減期が約30年で一定していることだ。私たちは原子核物理の時間尺度に縛られているのである。

私たちは被曝のリスクに向きあうとき、線量に閾値があると思わないほうがよいし、測定値には誤差があると考えたほうがよい。一方、放射性物質を扱うときは、半減期という数値に厳格に支配されていることを忘れてはならない。数字とのつきあい方は難しい。
*前回述べたように、本書では福島県内の空間線量率を「事故前」は毎時0.04μSvとしている。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月17日公開、同日更新、通算670回
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3・11原発事故という進行形

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv?

3・11がまた巡ってくる。今年は特別な思いでその日を迎える。12年ひと回りが過ぎたことが感慨深いだけではない。先週の当欄にも書いたように、人の世の忘却の速さに驚かされているのだ。現政権が原発回帰策に舵を切っても世間は静かなままだ。(*)

12年前に時計の針を戻してみよう。東京電力福島第一原発の電源喪失を耳にしたのは、3月11日夕方のことだ。津波が東北地方太平洋岸を襲う様子をテレビ映像でリアルタイムで見て、途方に暮れていたときだった。追い討ちをかけるような原発の危機。発電所が電力を失うなんて悪い冗談ではないか、と一瞬思った。私は新聞社内で、同じ職場にいるベテラン原発記者から「大変なことになるよ」と聞いて事態の深刻さを知った。

その後の推移は同僚の予言通りだった。翌12日には1号機で水素爆発があった。14日には3号機でも同様の爆発が起こる。このころから、事故の本質が世間の人々にも見えてくる。原子炉は冷却水の循環が絶たれると、原子核の崩壊によって出る熱で水素が発生し、爆発に至ること、爆発で放射性物質が飛散すると福島県内のみならず、県境を越えて広域の大気や水を汚してしまうこと――そう知って不安感は恐怖感に変わった。

実際、私の周りにも首都圏を一時離れた人たちがいる。その時点で放射性物質は首都圏にも届いており、放射線のレベルがどれほど高くなるか見通しが立たなかった。メディアは事故炉へ注水を続ける現場の作業を報じ、私たちはその悪戦苦闘に気を揉んだ。

私は先週、「原子の火」と「ふつうの火」の混同に論及した(*)。福島第一原発の事故後、私たち科学記者が別部門の記者から「炉内はいつ鎮火するのか」と聞かれ、核崩壊は火事とは異なり、水をかけても止まらないことを説明した、という話である。原子核は物理法則に忠実であり、その理論が予測する時間幅で壊れていくのだ。たとえば、セシウム137では放射性物質の量が半分になる半減期が約30年――。これは水で速められない。

ここで私が思うのは、物理学の視点でみれば福島第一原発事故は終わっていないということだ。事故炉に放射性物質が残り、核崩壊を繰り返しているだけではない。外部に撒き散らされた放射性物質も崩壊を続けている(除染しても除染土のなかで続行する)。私たちは、事故で人間の時間尺度を超える原子核現象を抱え込んでしまった。しかも、その現象の一部は原発の管理された区域内ではなく、公共の空間でも進行中なのだ。

事故から12年しかたっていないのに、私たちの多くはあのときの危機感を忘れかけている。だが、忘れることのできない人々が大勢いるのも間違いない。その理由の一つも、事故原発周辺の生活圏に原子核物理の時間尺度が刻印されていることにあるのだろう。

で、今週は『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)帯の惹句に「オリンピックの忘れもの」とある。福島第一原発事故を過去の出来事にしようとする動きを戒める書だ。著者は出版社出身のフリーライターで、この事故で被害に遭った人々に取材を重ね、ノンフィクション作品を発表してきた。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店、2020年刊)は講談社本田靖春ノンフィクション賞を受けている。

本書を開いて著者のセンスの良さを感じたのは、「はじめに」に次の注書きを見つけたときだ。「空間放射線量を記した際は、原発事故前の何倍にあたる数値かを添えてある」――。事故前の空間線量率とされたのは、毎時0.04μSv(マイクロシーベルト)。福島県内で1990~1998年に実測された値の平均だ。或る地点がいま毎時0.7μSvであると記したくだりでは、それが事故前の約17倍に相当することをカッコ書きで明記している。

事故前に基準を置くという著者の視点に私は共鳴する。放射線被曝によって受ける健康面のリスクをめぐっては、住人が浴びる線量をどこまで抑えるべきかが論点となり、現時点の値がどのくらいかに関心が集まる。だが、それだけで十分だろうか。線量が事故前に比べてどれほど増えたかにも目を向けたほうがよいのではないか。集団の被曝線量が一気に底上げされるという現象は、リスク要因を分析するときに無視できないように思える。

政府は、福島第一原発周辺の汚染被害地域で避難指示解除の要件の一つに、放射線の年間積算線量が20mSv(ミリシーベルト)以下であることを挙げている。端的に言えば、住人に年間20mSvまでは我慢してほしいと求めたのである。そう言われてもピンとこないだろうが、本書で線量のカッコ書きを見ると愕然とするに違いない。年間線量が20mSv以下であっても、事故前と比べればはるかに高くなった場所がいっぱいあるからだ。

本書から離れるが、事故前に福島県内の年間積算線量がどうだったかを私自身で計算してみよう。毎時の線量率が本書の数値だとすれば、単純計算でこうなる。
毎時0.04μSv×24時間×365日=年間350μSv=年間0.35mSv
ここでは毎時の線量を屋内外で一律に見ているので、これはあくまでもザクっとした値だ。それでも、20mSvが事故前の水準に比べると桁違いに大きいことがわかる。

本書も、そのことをズバリ突いている。「公衆の被ばく線量限度」(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)はこれまで年間1mSvだったが、それが福島の事故対応では年間20mSvに「引き上げられ」、その限度内なら「安全」ということになった、というのだ。

私は40年余り前、原発が集中する福井県で記者になった。そのころ、原子力推進側がいつももちだす公衆の線量限度は年間100mrem(ミリレム)だった。今の単位では1mSvだ。当時もし、原発周辺で年間1mSv超が記録されれば大ニュースになっていただろう。

本書で印象に残るのは、福島第一原発事故で不安や苦難を強いられる人々がリスクコミュニケーションの風圧を受けている現実だ。リスクコミュニケーションとは、安全や健康を脅かす危険因子について当事者と関係機関が情報を共有することをいう。ところが、政府はこの言葉を「政府の考える『正解』をあの手この手で授け、納得させる」という意味で使っている、と著者は指摘する。政府主導の「不安の解消」策にほかならない、というのだ。

この施策の背後には、地元を苦しめる「風評被害」がある。福島産の農産物や水産品が不当に扱われることのないようにしたい、という動機は正しい。だが実際には、政府や学者の一部が「安全だ」と連呼したことで、「放射能汚染の事実」までが「『風評被害』と言われるようになった」と著者は批判する。「事実関係を丁寧に議論すべきこと」も「風評」扱いされるわけだから「これほど実害を隠す便利な言葉はない」と嘆いている。

著者は、この問題に「『被ばく防護』vs『風評対策』」「『健康・命』vs『経済・金』」の対立構図をみる。「健康」と「経済」は本来、前者を第一に考えながら後者も追い求めるべきものだが、それが「vs」の関係にされたところに福島の不幸があるように私は思う。

本書には、政府版「リスクコミュニケーション」の例がいくつか出てくる。一例は、政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」が2011年暮れに出した報告書。年間20mSvでがんになるリスクについて、喫煙や肥満、野菜不足などよりも低いとしている。著者は、年間10mSv未満の被曝でがんが増えるという論文も多いことから「この報告書が科学的に正しいと結論づけることはできない」と反駁する。

報告書の説明には別の問題もあるように、私には思える。それは、がんのリスクについて年間20mSvの被曝と喫煙とを比べていることだ。たばこががんの原因になることは明白であり、この報告書の記述が正しいとしても、年間20mSvでがんになる人の割合が喫煙のそれよりも小さいことを言っているに過ぎない。知りたいのは、年間20mSvの発がんリスクが事故前のそれ――自然界の放射線の発がんリスク――よりも高まったかどうかなのだ。

福島第一原発事故で地元の人々が背負い込んだ重荷の多くは、あのときを境に生活圏に飛び交う放射線が桁違いにふえたことに起因するのではないか。しかも、その線量は半減期に縛られてなおも減らない。原発事故は終わっていないのだ。次回も、本書を読む。
*当欄2023年3月3日付原子の火』1950年代の原子力観
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月10日公開、通算669回
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