8・12に戦後史の位相を見る

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

鎮魂の夏がやって来た。8月といえば6日、9日、15日と、先の戦争の被爆犠牲者、戦没者、銃後の死者に思いを馳せる機運が高まる。三つの日付を読み込んだ俳句もあり、類似句がいくつも出てきている()。当欄も8月には関心がそこに向かい、戦争がらみの本を読むことが多かった。ただ忘れてならないのは、8月にはもう一つ、鎮魂の日があることだ。1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県山中に墜落、520人が生命を落とした。

あの日、私は何をしたか。ここでは、そのことを正直に打ち明けなければならない。当時、私は新聞社の大阪本社科学部に在籍していた。私の記憶では、午後7時のNHKニュースが終わる間際、松平定知アナウンサーが緊急ニュースとして「日航機の機影が消えた」という第1報を伝えた。そのとき私は部内にいたので、編集局全体が騒然となるのがわかった。記者の習性として、自分もなにかしなくてはならないと思った。

こんなとき、科学記者が真っ先に手をつけるべきは、遭難したと思われる航空機について記事を用意することだ。第1報によれば、機種はボーイング747だという。愛称ジャンボ機だ。ジャンボ機がどれほど巨大であり、工学面でどんな安全策がとられているか。それらのデータを過去記事などの資料をもとにまとめなくてはならない。だが、科学記者3年目の若輩にその役目は回ってこなかった。社会部の応援に回されたのである。

命じられた仕事は、乗客の関係者に電話をかけることだった。遭難は確からしいが、墜落の情報はなく不時着の可能性もある。安否を気遣う気持ちを関係者から聞きだし、乗客の旅がどんなものだったかについても聞ける範囲で聞く――そんな指示を受けた。

今ならばありえない取材だ。航空会社が遭難の時点で直ちに乗客名簿を公表することは、今はないように思う。ところが当時は、名簿が大まかな住所付きで公開された。新聞記者は電話帳でそれらしい番号を探しだし、手当たり次第に架電した。関係者は藁をもつかむ思いで最新情報を求めていたから、新聞社からの電話でも拒むことなく応じてくれた人が多い。家族や友人の心を不用意に波立たせた罪は深かった。今もなお、心が痛む。

個人情報尊重の機運は今ほど高まっておらず、個人情報保護の規制も緩い時代だった。メディアは、実名報道を基本とするジャーナリズムの原則をひたすら主張していた。あれから38年、私たちの価値観は変わった。情報の扱い方にかかわる企業やメディアの行動原理だけではない。人々の生活様式や思考様式も一変した。この視点に立って8・12を回顧することは意義深い。今夏は機を失しないよう、もう一つの鎮魂に思いをめぐらせる。

手にとったのは、『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫)。事故の1年後、1986年8月に新潮社が出した単行本を1989年に文庫化したものだ。なお、本書本文には、著者が「新潮45」誌で発表したルポルタージュも組み込まれている。

著者は1948年生まれのノンフィクション作家。学生時代はベトナム戦争に反対する市民運動の活動家だった。作品のテーマは教育や技術化社会にも及んでいる。本書は1987年、講談社ノンフィクション賞(現・講談社本田靖春ノンフィクション賞)を受けた。

本書は六つの章から成る。第1章「真夏のダッチロール」、第2章「三十二分間の真実」は日航ジャンボ機墜落事故そのものの実相に迫っているが、第3章以降では事故を多角的な視点でとらえ直している。たとえば第4章「遺体」は、遺体収容や身元確認に焦点を当てた。第5章「命の値段」は補償をめぐる保険業界の動きを追った。そして第6章「巨大システムの遺言」は、航空機を一つのシステムとしてとらえ直している。

そんななかで異彩を放つのは、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。ざっと読むと、墜落事故に直結しない話が書かれている。とくに章の前半では、羽田空港ロビーと空港周辺地域の空気感を比べている。興味深いのは、その対比によって戦後日本社会が1985年の時点でどんな位相にあったかが浮かびあがってくることだ。これもまた、あの事故が私たちに突きつけた現実にほかならない。ということで当欄は今回、第3章の前半に的を絞る。

第3章冒頭の一節は、空港ロビーの描写だ。そこには「新しさのざわめき」があり、「明るく、陰影のない照明」がある。床面には「硬質の輝き」、周りには「先端のテクノロジーの気配」。売店の新聞や雑誌は「最新の話題」を発信し、乗客たちは「もう飛行機を降りた先のことを考えている」。場内に流れる「くぐもった音調のアナウンス」も、乗客の心を煽っているように聞こえる。前のめり感があふれる特別な空間なのだ。

これは、今も言えることかもしれない。私はごく最近、ある空港の国内線搭乗口で出発を待つ間、同様の印象を受けた。周りに、スマートフォンの電話で会社の同僚と仕事談議に没頭する人がいても違和感がなかったのだ。昨今は業務連絡をメールで済ますことが多いが、空港には電話を多用するビジネスパーソンがいる。自分の肉声が会社を動かしていると自負する人が、ここには結構いるのではないか。これもまた、一つの前のめり感である。

「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……これらの言葉が似合うのが現代の空港だ。だがときに、それが虚構に過ぎないことに気づかされる瞬間もある。著者はここで、自身が米国西海岸の空港で出あった光景をもちだす。ロビーにはアジア系の難民らしい家族がいたが、一家が立ち去った直後、近くの乗客が声を発して立ちあがった。遠くの席へ避難した人もいる。磨きたての床面に幼子のものと思われる固形排泄物が残されていたのだ。

空港の「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……を演出するのは、床面の「ぴかぴか」に象徴される「清潔感」だろう。だが一皮剥けば、そこも人間という生きものの生息空間にほかならない。著者は、ジャンボ機墜落事故を描くときもこの一点にこだわる。

本書は、この視点に立って考察の対象を空港の外にも広げている。空港周辺には倉庫や工場が建ち並び、水路に土砂やゴミの運搬船が行き交う。著者は、その町を歩いてみる。

1985年11月、この地域では女子中学生の飛び降り自殺という不幸な事件が起こった。マンションのベランダに残されたメモによれば、少女は女子のツッパリ集団から「舎弟」となるよう迫られたのだという。著者は、「舎弟」の一語に引っかかる。「最新のテクノロジーを駆使した空港施設に隣接する街区」にふさわしくないと思えたからだ。「先端のビジネスマン」が集まる空間の足もとで、少女たちが「舎弟」などと言いあっているとは。

著者は、その違和感に吸い寄せられる。少女の中学校は「空港ロビーから徒歩で二十分ほどの距離」にあった。著者は「高速道路やモノレールから見える巨大な電飾看板」の裏面を見あげながら学校方面へ向かう。電柱に「旋盤工員」や「女子パート」の求人広告。商店街はなく工場、また工場。その屋根越しに機影が見える。「中学校があるどころか、人が住んでいることすら信じられなかった」が、やがて高層住宅群や低層アパートが姿を現した。

中学校は下水処理場の工事現場に面していた。現場を取り囲む塀には、処理場完成後の風景がペンキで描かれている。水路の水は青々として、魚やエビが飛び跳ねている。高速道路やモノレール、空港ビルの向こうには青空が広がり、ジャンボ機の飛び立つ姿も。いかにもありそうな未来図だ。そこに「豊かで潤いのある生活環境をつくる下水道」の標語が……。「しかし、このあたりの町並は、標語を裏切っていた」と、著者は率直に書く。

著者の観察結果を要約すればこうだ。高度成長末期、工場地帯の敷地に空きができて集合住宅が建ち並んだ。それは首都圏への労働力流入の受け皿となったが、町は未成熟のままだった。あふれ返るのは、住人たちのクルマくらい。空疎な標語ばかりが目につく――。

東京と大阪を結ぶ日航123便の墜落は、ビジネスパーソンを大勢乗せていたということで日本社会の最先端を襲った惨劇だった。だが、その最先端は、高度経済成長が放置した社会の歪みと隣りあわせでもあった。来週も引きつづき、本書のこの章を読もう。
* 「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月4日公開、通算689回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「戦後」を風化させない鉄道の話

今週の書物/
『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』
原武史著、朝日新書、2023年5月刊

特急

戦争の記憶が風化した、と言われて久しい。だが、そう嘆いているうちに風化が始まっているのが、戦後の記憶だ。放っておいたら、1945年の終戦と1995年のインターネット元年の間にある50年が、私たちの歴史からすっぽり抜け落ちてしまうのではないか。

先の大戦については、先行世代が記憶を史実に落とし込んできた。自らの体験を綴った文筆家がいる。年長者の話を聞き書きしたジャーナリストがいる。史料を掘り起こして隠された事実をあばき出した史家もいる。史実の集積は、すでに一定の分量に達している。
 
デジタル時代に入ると、文書データの多くが電子化され、そのうちの相当部分がインターネットで共有されるようになった。ザクッといえば、世界の動きが同時進行で記録され、保存されていくという感じ。アーカイブズ機能がリアルタイムで稼働している。

これに対して、大戦とデジタル時代に挟まれた50年間は影が薄い。復興期や高度成長期、バブル期を含む半世紀にもかかわらず、である。私たちの世代にとっては幼少期、思春期と青壮年期に対応するので思い出深い。とりわけ忘れがたいのは高度経済成長がもたらした社会変容だが、それを戦時中の事象のように歴史化しようという機運はない。しかも、その記録は、ネット検索してもデジタル時代の事象ほどに蓄積されていない。

ということで、今回は日本社会の戦後史に思いを馳せる本を読もう。戦後というだけではあまりにも漠然としているので、それを一つの切り口から覗いてみることにする。切り口に選んだのは鉄道だ。これならば、夏休みの旅気分も味わえるだろう。

手にとった本は『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(原武史著、朝日新書、2023年5月刊)。著者は1962年、東京生まれ。日本政治思想史の研究者だが、興味の幅は広い。大の鉄道好きで、自称「鉄学者」。本書は朝日新聞土曜別刷り「be」の連載(2021年6月5日~2023年2月11日掲載分)をまとめたものだ。書名に「2号車」とあるのは、〈1号車〉にあたる本を2021年に出しており、その続編だからだ。

本書は、明治以降の鉄道余話を多く集めている。だが、それだけではない。自身の個人史にも触れて、少年期以来の鉄道体験を懐かしそうに語っている。当欄は今回、後者に的を絞る。そこから、高度経済成長後1970~1980年代の世相が見えてくるからだ。

最初に紹介したいのは、「あの駅前食堂はどこへ」という一編。1973年初め、著者が小学4年生のころの話だ。「中学受験のための進学塾が開催するテストを受けるため、毎週日曜日に代々木まで通っていた」とある。あのころは駅前に食堂がつきものだった。代々木駅周辺にも、そんなたたずまいの店があった。白地に黒字の看板。店内のテーブルには12星座のおみくじ器……。著者はテスト終了後、この店で五目そばを注文していたという。

この思い出話に私はちょっと驚いた。1973年は、私自身も毎週日曜日、代々木の進学塾に通っていたのだ。ただし、私の立場は学生アルバイト。試験監督や採点をする側だった。この一編の記述をみる限り、著者が通う塾は私のバイト先ではなかったようだ。私も昼食は駅周辺で調達したが、その食堂に入った記憶はない。ともあれ1970年代、著者と私は10年ほどの年齢差を保ちながら同じの空気を共有していたことになる。

「大阪万博からの帰り道」という一編では、その年齢差が露わになる。これは1970年、著者が小学2年の夏休みに大阪・千里丘陵で開かれていた日本万国博覧会を見学した話だ。父親と二人、東京・大阪日帰りの強行軍だった。東京・羽田空港8時発大阪空港8時45分着の日航DC8機に乗り、空港から直行バスで会場入り。帰途は北大阪急行と地下鉄御堂筋線で新大阪へ。東京23時40分着の最終列車「ひかり88号」で帰京した。

ここで思うのは、当時19歳の私には万博を見にゆこうという意志も、見に行きたいという願望も皆目なかったことだ。1970年はまさに70年安保の年であり、学園にも街頭にも若者たちの反体制運動が渦巻いていた。私自身はこうした運動に加わったわけではないが、体制側の応援団にはなりたくなかった。政府が旗振り役となり、大企業が参加し、国民的歌手が「こんにちは、こんにちは」と呼びかける行事は体制側の祝祭そのものだった。

私も10年遅く生まれていたら、1970年には親にねだって万博に出かけたことだろう。時代の表と裏を見る役回りが10年の年齢差によって分かたれたのである。

本書では、著者も10年の時間差に言及している。それが出てくるのは「鶴見事故が左右する運命」という一編だ。著者が小学生だった1970年代前半は「鉄道は安全な乗り物と思われていた」と振り返ったうえで「もう一〇年早く生まれていたら、そうは思わなかっただろう」と書く。そこで例示されるのが、1962年の三河島事故、1963年の鶴見事故。死者数はそれぞれ160人と161人で、戦後の2大国鉄衝突事故といわれる。

この規模の大事故が大都市圏で起これば、知人の知人くらいの範囲に犠牲者が出てくるようだ。鶴見事故のとき、私は小学6年生。義理の伯母から親類の一人が亡くなったという話を聞いた記憶がある。本書によると、作家小池真理子も当時11歳。事故で叔父を失っていた。彼女は後に列車事故を題材にして『神よ憐れみたまえ』という作品を書いている。あの事故は、子どもにとっても心に突き刺さる出来事だったことがうかがわれる。

これも年齢差の仕業だろうか、この一編には物足りないことが一つある。鶴見事故が起こった1963年11月9日、日本ではもう一つ大事故があったが、その言及がないのだ。福岡県・三井三池炭鉱の炭塵爆発だ。死者458人。戦後最大の炭鉱災害だった。同じ日に戦後最大級の惨事が重なるという偶然。同じ月の22日(日本時間23日)には、米国でジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されている。三つの事象はひとかたまりで私の脳内にある。

「ダイヤを入手、原点の論文に」は、著者の鉄道少年ぶりを物語る一編。1970年代半ば、中学生時代の夏休みに取り組んだ自由研究の思い出だ。著者が選んだテーマは、もちろん鉄道。1年のときは南武線と青梅線、2年では横浜線をとりあげた。中1の夏はまず、東京駅前にある国鉄本社1階の「国鉄PRコーナー」窓口で質問攻勢をかけたが、期待したほどのことは聞きだせなかった。すごいのは、これであきらめなかったことだ。

「守衛の目を盗まなければならなかった」がビルの内部に紛れ込み、当該部署で直接話を聞いた。職員の多くは「怪しむことなく、親切に質問に答えてくれた」という。それで中2の夏は、この方式を大展開する。最大の収穫は、横浜線のダイヤグラムを入手したことだ。職員は「これは部外秘だよ」と言いながら手渡したとか。今ならば、少年が相手であってもコンプライアンスの一語に阻まれるだろう。世間には、ほどほどの緩さがあった。

ダイヤグラムは斜めの線が各列車の行程を表している。これを、車両基地の出入りが記された「日程表」と突きあわせると、「どの日に横浜線のどの区間を走る電車がどういう車両で編成されているか」がわかる。著者は車両基地を訪ね、その日程表も手に入れた。新聞記者も顔負けの取材力だ。横浜線は当時、他線の中古車両で列車を編成していたから車体の色がまちまち。その運用ぶりを「内部資料」をもとに再現、「論文」にまとめあげた。

私の心に残るのは、「壁のように見えた山並み」という一編だ。著者が1980年、高校2年の冬に友人と東北地方を旅したときのことが綴られている。二人は山形県の今泉駅で、長井線(現・山形鉄道フラワー長井線)から米坂線に乗り換えた。このとき、著者が跨線橋から撮った写真が本書には載っている。一面の雪原にまっすぐ延びる米坂線の鉄路。その向こうには、飯豊山地の量感のある山並みが屏風のようにそびえ立っている。

その風景を見て、友人は「どうやってあの山並みを越えてゆくんだろう」とつぶやいた。二人は米坂線で日本海側に出て羽越本線に乗る予定だったので、山を越さなくてはならない。「私には山並みが、これからの人生に立ちはだかる壁のように見えた」。青春期の不安がちらついた瞬間といえるだろう。ただこの日、著者たちを乗せた列車は「難無く勾配を上り、いつの間にか峠を越えた」「山並みは、蜃気楼だったのかと思った」という。

これは、1970~1980年代の私たちを正しく映している。高度成長が終わり、不安はあったが、世の中はなんとかなっていた。あの空気感も史実として記録しておくべきだろう。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月28日公開、通算688回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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タクシーの推理、超ロング客の謎

今週の書物/
『一方通行――夜明日出夫の事件簿』
笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊

乗り場表示板

このところ、硬い本が続いた。ここらで、ちょっと息を抜こう。私の息抜きは、テレビの前に寝転がって、ひと昔前、ふた昔前の2時間ドラマをほろ酔い気分で観ることだ。今回は当欄も、同じような脱力状態で前世紀ミステリーの世界をさまよってみよう。

2時間ドラマの人気シリーズといえば、十津川警部、浅見光彦、霞夕子……と年齢性別さまざまな主人公がいる。夜明日出夫もその一人。「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系列)に、元警視庁捜査一課刑事のタクシー運転手として登場する。

「タクシードライバー…」は、定型化が際立つ2時間ドラマだ。たとえば、冒頭場面。渡瀬恒彦演じる夜明がハンドルを握っている。すると、後部座席で大島蓉子演じる中年女性客が、わがままを言ってひと騒動引き起こす――。いつの間にか定着した前振りの賑やかしだ。ただ、ドラマの本筋とは関係ない。ドタバタが一段落して、次に乗ってくる〈2番目の客〉が問題人物。どこか謎めいている。こうして視聴者は事件を予感する。

シリーズは回を重ねるごとに、こんな〈お約束〉が生まれ、視聴者が筋の流れを読めるようになった。夜明は〈2番目の客〉の信頼を勝ち得て、ご指名で迎車を頼まれるほどになる。無線で駆けつけた〈2番目の客〉の仕事場は、偶然にも夜明の娘あゆみが働くアルバイト先だった。親子は、そこでばったり対面する……。細部にまで定型ギャグが張りめぐらされている。規格化された部材で組み立てられたプレファブ建築のようだ。

実は、この定型化こそ2時間ドラマの魅力だ。「タクシードライバー…」は、始まって10分ほどで犯人の目星がつく。30分もすれば事件の構図が見通せる。あとはウトウトしていてもいい――。これは、2時間ドラマの商品価値の一つと言ってもよい。

「タクシードライバー…」シリーズについては実は6年前、当欄の前身ブログでもとりあげている()。あのときは「定型化」を別の視点から説明した。その一節はこうだ。

《このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある》

この推察は、さほど見当違いではなかろう。テレビドラマには、小説にない制約がある。登場人物の顔がすべて公開されていることだ。美しいが翳のある女優が画面に現れたら、フーダニットの答えは見えているも同然ではないか。だから、制作陣はフーダニットを最初からあきらめ、別の選択をした。事は予想通りに運ぶ。その結果、安心して観ていられる。この価値を極大化したのが「タクシードライバー…」シリーズだと言ってよい。

では、シリーズの原作はどうか。

今週は、『一方通行――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊)を読む。1992年、「小説現代」臨時増刊に発表された長編推理小説。同年、「講談社ノベルス」の1冊としても刊行されている。著者が1990年から手がけた夜明日出夫ものの第6作に当たる。調べてみると、この1編も1994年、シリーズ第4作としてドラマ化されている。〈2番目の客〉となるのがめずらしく男性で、その役を寺尾聰が演じたらしい。

原作の冒頭部はどうか。冬の午後、夜明は東京・江古田界隈を走っている。乗客は女子高校生らしい二人。「そこで、停めて!」といきなり叫ぶ。メーター料金をきっかり2で割り、それぞれ千円札と小銭を出しあう。マイペースだが、大島蓉子ほどの毒気はない。

この小説には、前振りがもう一つある。女子二人が降りた後、「ドロボー」という絶叫が聞こえてくる。バイク男が女性の通行人からハンドバッグを奪ったのだ。夜明はタクシーの向きを変えてバイクの行く手を阻み、ひったくり犯がバイクを乗り捨てて逃げようとするところを取り押さえた。パトカーが駆けつけたとき、最年長の警官が驚いたように言う。「ああ、夜明警部補じゃありませんか」。この一幕はテレビでも見た記憶がある。

〈2番目の客〉は、原作も男性だった。40代後半か。黒のスーツを三つ揃いで着こなしている。サングラスで目もとを隠しているが、「知的で繊細で、いわゆるインテリの顔」だ。とりあえずの行き先は、神奈川県の川崎港。18時発のフェリーに乗るのだという。

男は江古田に自宅があるが、訳あって5年間も東京を離れていた。最近帰京したが、ホテル住まい。家には妻がいるのに帰宅しない。今も門の前までは行ったが、呼び鈴ひとつ鳴らさず、引き返してきたという。謎だらけだ。〈2番目の客〉の必須要件を満たしている。

その男が、車内の運転手表示を見て「夜明日出夫さんか」と独りごとのように言い、爆弾提案をする。「夜明さんにも、旅行に付き合ってもらうわけにはいきませんかね」。自身の名が「井狩真矢(しんや)」であること、今回は船で宮崎県日向に渡り、そこから陸路で九州を横断、長崎県の雲仙温泉で泊まるつもりであることを打ち明けた。「ブラッと出かける」旅だ。飛行機でひとっ飛びしないのも「旅の途中」を大事にしたいからだという。

井狩の考えでは、九州では陸上区間のすべてをタクシー1台にまかせる。ということは、全行程で運転手を束縛することになる。井狩はフェリー代や高速道路料金、宿泊費を負担したうえで、往復の走行の対価として45万円を支払うという。運転手の立場でいえば、願ってもない長距離(ロング)の客だ。夜明は、テレビでもこの手の上客にしばしば恵まれて「ロングの夜明」の異名をとるが、これほどの「超ロング」はめったにない。

井狩がもちかけた話は不自然だ。「旅の途中」を楽しみたいなら九州上陸後にタクシーを借り切ればよい。なぜ、フェリーの船旅にまで東京のタクシー運転手を車付きで同行させるのか。井狩は、日向でタクシーをつかまえて雲仙までと頼むのが「何となく面倒で億劫」と言うのだが、説得力はない。ただ、不自然さが漂うからこそ、なにか底意を感じてしまう。井狩の胸中にどんな企みがあるのか、読者もあれこれ思いをめぐらすことになる。

作中には、運転手側の事情も書かれている。1)突然ロングの発注を受けると営業所への帰庫時間を守れない2)タクシーは二人の運転手が1台を交代で使っているので、一人が何日間も乗るには相方の了解がいる3)昼夜ぶっ通しの仕事は二人一組で引き受けるのが原則――。法令から当局の指導、営業所の規則まで、運転手には諸々の縛りがある。その一方で、ロングが一定距離以上に及ぶなら客の求めを断ることも認められているらしい。

ただ、今回は幸運にも上記三つの難関を切り抜けられそうだった。このころ、業界は運転手不足が深刻で1台に二人を割り当てることが難しくなり、夜明は1台を独占していたからだ。これで1)と2)は突破できる。3)は労働時間の制限にかかわるので微妙だが、フェリー乗船中は「事実上、乗務しないで休んでいる」から営業所も容認するはず、と夜明は勝手に決め込んだ。これが、現実社会に通用する理屈かどうかはわからない。

九州旅行まるごとのロング走行は、乗客からみて常識を逸しているだけではなく、運転手の側からみても想定外だった。にもかかわらず、この作品は無理を通して夜明に超ロングを押しつけている。それができるのも、エンタメ小説の特権だろう。ちなみに本作のテレビ版では、井狩が雲仙温泉に行ってくれとは言わない。目的地は栃木県・川治温泉。ロングではあるが超ロングではない。テレビのほうが現実的ということだろうか。

この小説もドラマ同様、タクシーにロングの客が現れた時点で犯人探しのハラハラ感は薄れている。フーダニット路線は、原作でも半ば放棄されていたのだ。読者は読み進むうち、犯人にどんな動機があり、どのようなトリックを使って犯行に及んだのかというハウダニット(howdunit)に引き寄せられていく。井狩の言葉を借りて言えば、タクシーものミステリーの読みどころは犯人特定という目的地ではなく、「旅の途中」にある。
* 「本読み by chance」2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ
☆ 引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月2日公開、通算680回
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植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
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