小池真理子が抉る家庭幻想のひび

今週の書物/
「妻の女友達」
=『妻の女友達』(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収

コロナ禍の3年間にもっとも存在感を示したのは、「家」かもしれない。家といっても、社会のあちこちに残滓が残っている家制度のことではない。入れものとしての家だ。戸建てであれ、集合住宅であれ、外部世界を物理的に遮断した空間のことである。

新型コロナウイルス感染症が広まりだすと、「ステイホーム」が叫ばれた。高齢者だけではなく働き盛りの世代まで、なるべく家にとどまるように促された。在宅勤務が推奨され、「テレワーク」「リモートワーク」も広まった。家が生活の主舞台となったのだ。

買いものも外食も極力控えた。それでふえたのが宅配サービスだ。通販で買ったもの、デリバリーを頼んだものが家に届けられる。その結果、「置き配」が日常化した。配達人は玄関先に物品を置いて帰る。支払いも今はデジタル決済で済ますことができるから、直接の受け渡しがなくとも用は足りた。コロナ禍の脅威が高まり、人と人の接触を減らすことが叫ばれていた一時期、私たちは貝が殻に身を潜めるように家に籠ったのだった。

ただ、家が閉鎖空間の性格を強めたときでも、その内側には多彩な社会が存在した。そこにあるのは、社会の最小単位としての家庭だ。夫婦二人ということがある。夫婦に子が一人もしくは複数という構成がある。親一人に子がいるというパターンがある。老老介護のような高齢者世帯がある。そして、独り住まいの家庭も少なくない。私たちはコロナ禍によって内向きに暮らしたことで、いつになく家庭を意識したのではないか。

それでふと思うのは、今は家庭がとらえどころないということだ。家庭が多様なのは昔も変わらない。私が幼かったころは戦争が終わって間もなかったから、寡婦や父のない子もあちこちにいた。だが、それでも当時の人々には、家庭らしい家庭というものに固定観念があった。父がいて母がいて子どもがいる、ときには子の祖父母もいる――そんな絵に描いたような家庭像を描くホームドラマが、ラジオやテレビにあふれ返っていた。

で、今週の一編は、そんな家庭像がまだ辛うじて有効だった時代に書かれた短編ミステリー。小池真理子の「妻の女友達」だ。同名の短編集(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収のものを読む。この作品は1989年、日本推理作家協会賞(短編部門)を受けている。1989年といえばバブル経済期。日本社会には、まだ高度経済成長の遺産があった。ここで提示された家庭のイメージは、その遺産の一部といえないこともない。

主人公の広中肇は、38歳の地方公務員。市役所の出張所に勤めている。担当は戸籍係で、「やるべきことを機械的にやっていればいい」という仕事をこなしていた。出張所は、田園地帯の面影が残る私鉄沿線の住宅街にある。肇は毎朝、妻の志津子から手製の弁当を受けとり、自転車を漕いで出勤、毎夕きっかり午後5時に職場を離れた。帰路、寄り道することはなかった。安定しているが、退屈といえば退屈。でも、不満な様子はない。

結婚は5年前。見合いだった。志津子は「優しくて気配りのきく家庭的な女」であり、「少ない給料をやりくりする能力」も持ちあわせていた。「清楚で控え目な感じ」が魅力だったし、「平穏な家庭生活を育もう」という姿勢も好ましかった。肇は「満点をやってもまだ足りないいい女房」と思っていたのだ。「家庭的」「やりくり」「控え目」……配偶者は専業主婦であって当然、とみる当時の男性目線を反映した言葉が並んでいる。

肇と志津子には、ちえみという3歳の娘がいる。一家はリビングと二間から成る貸家住まいだが、あちこちに縫いぐるみやモビール、人形の家などが飾られていた。娘を思う母親が手づくりしたものばかりだ。志津子は、良妻賢母の見本のような女性だった。

この作品は、その家庭の安定にひびが入っていく様子を淡々と描きだしている。志津子は初夏の或る晩、夕食を終えた後、肇に新聞の折り込み広告を見せながら「おずおずと」切りだす。「通ってもいいかしら」。駅前でカルチャーセンターが開校した、フランス料理の講座もある、週一度だから受講してもよいか――そんな話だった。「でも、あなたがその必要がない、とおっしゃるのなら、やめます」と、どこまでも控え目だ。

夫「きみが通いたいなら、かまわないよ」。妻「ほんと? いいの?」。夫「いいとも」。このやりとりには、妻は夫の管理下にあるという大前提があるように感じられる。

同じ夜のことだった。広中家にはもう一つ、異変が起こる。午後9時近く、突然電話が鳴り響いたのだ。肇が受話器を取ると、「もしもし? 広中志津子さんのお宅でしょうか」。女性の声だ。多田美雪と名乗った。肇は志津子に向かって「きみの友達じゃない?」と聞く。「美雪さん? まさか、あの美雪さんじゃ……」。志津子には心当たりがあるようだった。高校時代の級友。渡米して帰国後「女流評論家」となり、今はメディアの寵児だ。

志津子は電話口に出ると、短い会話を交わしてすぐ受話器を下ろした。多田美雪は今から立ち寄りたい、と言ったという。もう、そばまで来ているというのだから強引な話だ。だが、志津子に迷惑がる気配はない。「いいでしょう?」と肇に同意を求める。

志津子は、多田美雪がどれほどの著名人かを語って聞かせる。筆名が「ジャネット・多田」であることや「アメリカ人の男の人と結婚して、別れた話を書いた本」が話題を呼んだことだ。その本は「あなたに見せたでしょう?」と言う。肇も、そのことは覚えている。『ブロンドの胸毛と暮らした日々』というエッセイ集だった。題名に嫌悪を感じて読む気にはならなかったが――。このあたりから、家庭の安定を脅かす異物の影が見えてくる。

筋を逐一たどるのはネタばらしになる恐れもあるので、このくらいでやめよう。ただ、ミステリーにかかわらない範囲で、もう少しだけ話を進めておく――。多田美雪は、たしかに来宅する。「講演会の帰り」ということで、そのいでたちは「映画やテレビでしか見ることのできない女優のようだった」。ハイヤーで帰途についたら「志津ちゃんのこと」が思い浮かんで電話をかけたという。それは、旧友に対する友情の表れとばかりは言えなかった。

美雪の本音は、志津子に「身の回りの世話」をしてもらえないか、ということにあった。家政婦のような見ず知らずの人は家に入れたくない、週に一度でいいから留守中に合鍵で入って掃除や片づけをしておいてくれないか――。志津子は困惑しつつ、うれしそうな表情も見せて、肇の顔をうかがう。肇は「きみの好きにしたらいいよ」と言うしかない。こうして話はまとまる。これが家庭の安定を揺るがす一連のゴタゴタの始まりだった。

作者が巧妙なのは、1980年代末の価値観の移ろいをあぶり出すのに、二つの極端を遭遇させたことだ。片方には専業主婦、良妻賢母という旧来の女性像がある。もう一方には、自身の体験を赤裸々に語って飛躍する女性の生き方がある。両者は互いに異物であり、相互作用がないように見えながら、実はどこかで通じている。どちらの側の女性も同時代人だからだ。或る夜、片方がもう一方と接触したことで、そこに化学反応が起こる。

家が殻になった今、美雪が志津子の家にふらりと現れることもあるまい。私たちは異物に触れる機会がめっきり減った。それがよいかどうかは別の話だが。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月23日公開、通算683回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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「週刊朝日」デキゴトの見方

今週の書物/
『デキゴトロジーRETURNS
週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊

「週刊朝日」2023年2月24日号

「週刊朝日」が5月末に終わる。公式発表によれば「休刊」だが、これは出版業界では実質「廃刊」を意味する。朝日新聞社が1922(大正11)年に創刊して、最近はグループ企業の朝日新聞出版が引き継いでいたが、満100歳超えの年に退却することになった。

私にとっては古巣の新聞社の刊行物なので、落胆はひとしおだ。メディアの紙ばなれが進み、新聞報道と結びついた出版文化の担い手が退場するのは、ジャーナリストの一人としても残念に思う。だが、それだけではない。この雑誌には私的にも思い出がある。

私が大学に入った1970年代初め、「週刊朝日」は表紙に毎号、同じ一人の女子を登場させていた。その女子の名は「幸恵」。10代で、私よりも少し年下だった。週がわりでポーズや表情を変えてくる。私は彼女の可憐さに惹かれ、この雑誌の愛読者になった。

そのことを物語る証拠物件が先日、見つかった。学生時代に友人たちと出したガリ版刷りの同人誌である。私も短編小説を載せたが、そこに彼女が登場していた。作中人物というわけではない。ただ、冒頭にいきなり顔を出す。「アスファルトの上に週刊朝日。表紙の幸恵が雨にぬれてびしょびしょだ」。自賛になるが、雨の路面に「週刊朝日」が貼りついているなんてイカシタ情景ではないか。読み手に作品世界を予感してもらう効果はあった。

当時の青年層には「朝日ジャーナル」が人気の雑誌だったが、高度成長が極まり、反抗の季節が過ぎるころには世相とズレが生じていた。これに対して「週刊朝日」は透明感があり、端然としていてかえって新鮮だった。その象徴が「表紙の幸恵」だったともいえる。

私は1977年、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」は職場のあちこちに置かれていたから、読む機会がふえた。お気に入りは、1978年に始まった「デキゴトロジー」という企画。小話のような体裁で、ラジオ番組で聴取者のはがきが読まれるのを聴いている感じたった。

で、今週の1冊は『デキゴトロジーRETURNS』(週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊)。誌面に1993~1995年に載った100話余りを収めている。本書カバーの惹句によれば、それらは「ウソみたいだけど、ホントのホントの話ばかり」。新聞社系の雑誌なのでホントを載せるのは当然だが、新聞とは違ってホントであればよいわけではない。そのホントが「ウソみたい」なところに当誌は価値を見いだしているのだ――そんな宣言である。

たとえば、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった朝の話。神戸市東灘区の女性66歳は激しい揺れと大きな音に驚き、「やっぱり高速道路が落ちよった。渋滞しすぎたんや」と思った。阪神高速のそばに住んでいるので、高架が車列の重みにいつまで耐えるか日ごろから気がかりだったのだ。「心配してたとおりやろ」。その見当外れのひとことに「地震でどこかに頭、打ったんか」と息子。母は「地震ってなんや」と答えた――。

「ウソみたい」な話ではある。だがあのころ、関西圏の直下で大地震が起こると考えていた人はそんなに多くなかった。強烈な揺れと音に襲われて地震以外のことを思いつく人がいても不思議はない。一家族のこぼれ話でありながら、一面の真理を突いている。

この親子のやりとりは漫才もどきだ。「地震ってなんや」のひとことはオチにもなっている。大震災を題材にすることは不謹慎と非難されかねないから難しいが、この一編に後味の悪さはない。話術に長けていても、無理に笑いをとろうとしていないからだろう。

もちろん、デキゴトロジーにはただの笑い話も多い。東大阪市の「女性カメラマン」38歳の体験談。大の犬好きで、散歩で白い雑種犬と出会ったとき、「犬に会釈した」。犬は、これを勘違いしたらしく「すれちがいざま、すばやく左フトモモに噛みついた」。飼い主がその場で詫びて別れたが、帰宅後に噛まれた箇所を見ると、歯形が残り、血が出ているではないか。彼女は動転してタウンページで獣医の番号を探しあて、電話をかけた――。

オチは獣医のひとこと。「人間のお医者さんに診てもらったらどうでしょうか」。要約すればそれだけの話だが、原文の筆致は軽やかだ。この話題からは特段の教訓が汲みとれるわけではない。ただ、私たちが日常しでかしそうな失敗の“あるある”である。

このように、デキゴトロジーは個人レベルの話を主体にしている。ここが、官庁を情報源とすることが多い新聞記事と大きく異なるところだ。官庁情報は公益に寄与する価値を帯びており、建前本位であり、統計的である。無駄な情報がまとわりついていても、それらは削ぎ落とされて発表される。これに対し、個人の体験談はたいてい無駄な情報が満載の世間話に過ぎない。だが、「ウソみたい」な「ホントの話」の多くはそこに宿る。

市井の個人情報を中心にしているので、危うい話はたくさんある。翻訳業に就いている大阪府在住の女性34歳の目撃談。初夏の午後、電車に乗って仕事がらみの資料を読んでいると、女子高生二人組の大声が聞こえてきた。目をあげると、二人は向かい側の座席でソックスを脱いでいる。いや、それだけでは終わらない。「平然とパンストをはき始めた」。まるで「女子更衣室」状態。近くに座る若い男性は「恥ずかしそうに下を向いていた」――。

考えてみれば、この一話が書かれたのは、電車で化粧することの是非が世間で議論の的になっていたころだ。女子高生二人もパンスト着用後、化粧に着手したという。そう考えると、電車の「更衣室」状態は公共空間の私物化が極まったものと言えなくもない。

危うさはときに警察のご厄介にもなる。今ならばコンプライアンス(遵法)尊重の立場から記事にしにくい領域にも、当時のデキゴトロジーは果敢に踏み込んだ。たとえば、「名門女子大」の学生が「駅前から撤去されて集積所に置かれた放置自転車」を「試乗」して見つかり、警察署で始末書を書く羽目になったという話。記事には「窃盗現行犯」とあるが、正しくは占有離脱物横領の疑いをかけられ、署で油をしぼられたということだろう。

デキゴトロジーによれば、この女子大生は「借用」に許容基準を設けていた。自転車が撤去から時を経て、所有者も愛着を失うほど「ぼろぼろ」なことだ。「他人の迷惑は最低限に、資本主義社会における罪を最小限に」という「良識」だった。この大学町では、その後も「借用」と思われる自転車が散見されたという。緩い時代だった。今は昔だが、私たちの社会にも法令違反をこのくらいの緩さで考える時代があったことは記憶にとどめたい。

とはいえ、日本社会の緩さはたかが知れている。世界基準はずっと大らかだ。米東海岸在住の日本人女性が西海岸からの帰途、カリフォルニア州オークランド空港でシカゴ行きの便に乗ったときのことだ。座席に着くなり機内放送があった。乗務するはずのパイロットが行方不明。「家に電話したけれど、だれも出ないし心配です」と言う。待たされた挙句、代役のパイロットが乗り込んで離陸したが、それからが大変だった。

代役パイロットが機内放送で、自分は「シカゴ空港に慣れていない」からとりあえずコロラド州デンバーまでお連れする、と説明したのだ。着陸直前には「デンバーは素晴らしいところです」「今度はぜひご滞在を」というアナウンスまで聞かされた。そこでパイロットが入れ代わり、シカゴに到着。東海岸には3時間遅れで戻った。航空会社に悪びれた様子は感じられない。ちなみにこの一話では、女性も航空会社も実名で登場している。

さて、こうした「ウソみたい」な「ホントの話」はだれがどう取材していたのか。本書巻末に収められた「週刊朝日」編集部員の一文によると、執筆陣の主力はフリーランスのライターたちであったようだ。登場人物の職業に「カメラマン」など出版関係が目立つのも、それで合点がいった。デキゴトロジー掲載記事のかなりの部分は、書き手が自分の交際範囲にアンテナを張りめぐらして手に入れた情報をもとにしているらしい。

そう考えると、デキゴトロジーはSNS以前のSNSとみることもできそうだ。ツイッターやインスタグラムなどが広まっていなかったころ、個人発の情報を分かちあうには既存メディアの助けを借りるしか手立てがなかった。そういう情報共有の場を用意したという点で「週刊朝日」は時代を先取りしていたのである。ところが今、個人発の情報は伝達手段を含めて個人が扱える。「週刊朝日」休刊はその現実も映している。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月17日公開、通算666回
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大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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終着駅が終着駅に着くとき

今週の書物/
『終列車』
森村誠一著、祥伝社文庫、2018年刊

新宿駅

一つの時代が終わった、という常套句を思わず使いたくなる。この暮れ、2時間ドラマの人気シリーズが二つ消えることになった。テレビ朝日系列で長く続いてきた「終着駅シリーズ」と「西村京太郎トラベルミステリー」。月内に最終作品が放映される。

「終着駅」「トラベルミステリー」と聞いただけではピンとこない人が多いだろう。ただ、主人公が前者は牛尾刑事(愛称モーさん)、後者は十津川警部と聞けば、ああ、あのドラマかと思い当たる人もいるに違いない。シリーズが始まったのは前者が1990年、後者が1979年。長く「土曜ワイド劇場」の看板メニューだった。いま土ワイはなく、後継の2時間ドラマ枠も消滅した。最近はスペシャル番組としてオンエアされてきた。

寂しい話だ。だが、これも必然の定めだろう。両シリーズの俳優陣を思い浮かべれば、それはわかる。モーさんであれ、十津川警部であれ、演じる役者は警察官の定年年齢をとうに超えている。芸能人が若見えするのは確かだが、無理が出てきたのは否めない。

いつまでも続くと思うな、人生と2時間ミステリー(2H)。高齢の2Hフリークとして、この現実は潔く受け入れなければなるまい。で、当欄は今月、両シリーズを振り返る。今週は「終着駅シリーズ」。書物としてシリーズ第1作(1990年放映)の原作となった長編小説『終列車』(森村誠一著、祥伝社文庫)を用意しているが、そこに入る前にテレビの「終着駅シリーズ」について語ろう。今回はあくまで、小説よりもドラマが主題だからだ。

このシリーズには、印象的な場面が二つある。一つは、モーさんの家庭生活だ。住まいは踏切のそばにあって、電車が通るたびに警報音が鳴り、警告灯が点滅する。その光が照らしだすのが警視庁職員住宅の銘板だ。モーさんが帰宅すると、妻澄枝の手料理で夕食となる。間取りは2DKほどだが、リビングもなければ、ダイニングキッチンもない。そこにあるのは、夫があぐらをかいてなごむ茶の間と、妻が背中を見せて調理する台所だ。

モーさんの役は最初の4回だけ露口茂が演じ、1996年の第5作から片岡鶴太郎が引き継いだ。翌年の第7作で岡江久美子演じる澄枝が登場、職員住宅の場面が定番となった。私的感想を率直に言えば、片岡の演技には過剰感があってついていけないことがあるが、それを中和してくれるのが岡江だった。彼女は2020年の第36作まで出演、その年、コロナ禍で帰らぬ人となった。2021年の第37作では、過去の映像が織り込まれた。

もう一つ印象に残るのは、新宿西警察署の捜査会議だ。出演者はシリーズ途中で入れ代わったが、私が好きなのは、秋野太作が刑事課長、徳井優が山路刑事(愛称ヤマさん)という配役だ。モーさんはこのシリーズで、考えに考え抜いた独創的な謎解きをする。その推理に対して、ヤマさんはたいてい批判的だ。二人は仲が悪いのか? どうも、そうではないらしい。課長もこの議論を静観している。どこか、戦後民主主義の風通しよさがあるのだ。

さらにこのシリーズを特徴づけるのが、ドラマの舞台である新宿の土地柄だ。1960~70年代は、若者の街だった。ぶらぶら歩いて名画座やジャズ喫茶で時間をつぶす……数百円あれば半日楽しめたものだ。アングラ演劇、反戦フォークなど対抗文化の発信源でもあった。ところが1980年代、その存在感が薄れていく。代わって目立つようになったのが、副都心区域に建ち並ぶ高層ビル群。コンクリート製の街がもたらす疎外感が強まった。

シリーズ開始の1990年は、バブル経済の絶頂期だ。東京は空騒ぎのさなかにあった。あのころ街に出て深夜まで飲むと、タクシーの空車を見つけるのが至難だった。新宿も1960~70年代の反体制機運は弱まり、銀座、六本木、湾岸地域などと並んでバブリーな街になっていた。ただ新宿には、ほかの街にない特色があった。バブル経済の陰も見えたことだ。新宿駅東方の歓楽街と西口のビル街との対比が、陰翳を際立たせていたようにも思う。

新宿駅はターミナル駅であり、人流の交差点だ。JR線の駅に小田急線や京王線の駅が隣接している。真下には地下鉄丸ノ内線の駅があり、西武新宿線の新宿駅も近い。JR線に乗る利用客だけでも1日平均75万人に達する(2000年の統計、JR東日本の公式サイトによる)。駅全体で見れば、毎日百万人単位の人々が通り過ぎているということだ。総数が大きい分、厄介ごとを抱えた人も多いに違いない。そこに事件のタネがある。

シリーズ名「終着駅」には、違和感もある。東京で終着駅らしい終着駅と言えば、上野駅の13~17番線ホームだ。正面から見渡すと、各線で列車が車止めの手前で停まっている様子を一望できる。最終到着点であることが一目瞭然だ。だが、JR新宿駅にこの光景はない。私鉄線の新宿駅では上野駅13~17番線の眺めを疑似体験できるが、それを「終着駅」とは呼ばない。日々乗り降りする「電車」の行き止まりは「終点」なのだ。

とはいえ、新宿にも終着駅の一面はある。中央本線は東京駅を起点とするが、新宿始発の長距離列車も多いからだ。その裏返しで、新宿止まりの上り列車もたくさんある。新宿駅は甲信地方から見れば東京の玄関であり、間違いなく終着駅でもあるのだ。

では、いよいよ『終列車』(森村誠一著、祥伝社文庫、2018年刊)に入る。この小説は1988年、光文社から刊行された。祥伝社の文庫版に先だって、光文社文庫、角川文庫にも収められている。発表年からわかるように1980年代、バブル最盛期の空気が漂う作品だ。

冒頭では、一見無関係と思われる場面がいくつか断章風に描かれる。ヘアサロンでの男性客と男性ヘアデザイナーの会話、幼女が犠牲となるひき逃げ事故、それとは別の追突炎上事故、暴力団幹部から鉄砲玉となるよう命じられる若手組員――作品はこれらの断片をつなぎ合わせ、ジグソーパズルのように一つの絵を浮かびあがらせていく。その完成形を見せては身もふたもないので、それは控える。ここでは絵の一部を切りだしてみる。

切りだそうと思うのは、二組の男女だ。二組には長距離列車の車中でめぐりあったという共通点がある。5月19日、新宿23時20分発急行アルプスの乗客だった。この列車は松本で中央本線から大糸線に入り、南小谷(みなみおたり)まで行く。首都圏の登山好きを中部地方の山岳地帯へ運ぶ夜行列車だった。どちらも、男女はアルプス車内でたまたま席を隣り合わせる。それが縁で信州でも行動をともにする。だが、二組は対照的だった。

グリーン車の二人はこんなふうだ――。男は40代後半、有名企業の課長で妻子もあるが、社内では窓際扱いされている。そんなこともあって六本木のバーに入り浸り、店のママと関係をもつ。ママは20代。いっしょに信州へ温泉旅行することになり、列車の指定席券も用意したが、彼女は待ち合わせ場所に来ない。男は車内で待つが、ついに現れなかった。このとき、空席を探しまわる別の女が現れた。男はその女に声をかけ、隣席の切符を譲る。

その女も謎めいている。まだ若いが「表情に陰翳(いんえい)があり、全身に懶(ものう)げな頼りなさがある」。男が探りを入れると、「行き当たりばったりの列車」にとび乗り「気が向いた所」に降り立つような旅がしたかった、と女は答える。だが実は、別の男がかかわる訳ありの旅ではないか、と男は疑う。それでも男と女は二人して茅野で降り、蓼科高原の宿へ向かう。どちらも、本来の相手ではない相手に連れ添って……。

この男女は、愛人との蜜月を行きずりの恋で代替したことになる。背景にあるのは、1980年代末の世相か。世にはびこるあぶく銭が軽佻浮薄な行動を誘発したようにも思える。

では、もう一組はどうか。こちらは、鉄砲玉になりそこなった組員の男と、交通事故で夫と子を失った女という組み合わせ。自由席で隣り合うことになった。男の旅にも女の旅にも、逃避行の気配が漂う。この二人も同じ駅で列車を降り、同じ宿の同じ部屋に泊まることになるのだが、一線を越えない。自身の心が苛まれているから相手の心を気遣う。そんな関係だ。きれいごとに過ぎる気もするが、それがこの作品では清涼剤になっている。

森村誠一は二組の男女の対比でバブル社会を風刺したのか。この小説がドラマ化されてまもなく、日本経済のバブルははじけた。作品は近未来を予感していたようにも思える。

*ドラマのデータは、私自身の記憶とテレビ朝日、東映の公式サイトの情報をもとにしましたが、不確かな点はウィキペディア(項目は「終着駅シリーズ」=最終更新2022年11月26日=など)を参照しました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月9日公開、通算656回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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