オーウェルは二つの社会主義を見た

今週の書物/
『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』
川端康雄著、岩波新書、2020年刊

右寄り

新聞記者の一線を離れてみると、後悔がたくさんある。現役時代、もうちょっと頭を働かせれば、あんなことが書けたな、こんなこともできたな、ということだ。

今夏、朝日新聞デジタルに「オーウェルの道をゆく――『労働者階級の街』から見た英国のいま」という記事が連載された(2023年7月26~29日、8月2日、16~20日、その後、短縮版が朝日新聞夕刊「現場へ!」欄に載った)。筆者は、ロンドン駐在の金成隆一記者。「英国の地方を訪ね、特別な肩書のない人々の話を聞きたい」と思い、作家ジョージ・オーウェル(1903~1950)がかつて歩いたイングランド鉱工業地帯の今を見たという。

心にズシンと響いたのは、「特別な肩書のない人々の話を聞きたい」の一言だ。これだ、こんな取材がしたかったのだ。私も1990年代、ロンドンに駐在していたが、科学記者という肩書に縛られ、ほとんど学者ばかりを追いかけていた。そのことが悔やまれる。

イングランド北部の空気は、ロンドン時代の出張取材や休暇旅行でなんども吸っている。鉱工業地帯でパブにふらりと立ち寄ると、労働者らしい男たちがビールを片手に陽気に語りあっていたものだ。店内に飛び交うのはもちろん英語だが、ケンブリッジやオックスフォードで耳にするそれとはまったく違った。ここにいる人々こそが英国社会の本体なのだ――私もそう認識していたが、話を聴いてまわろうとは思わなかった。

それをやってのけたのが、金成記者だ。いや、もとをたどればジョージ・オーウェルということになろう。オーウェルは1936年、ジャーナリストとしてイングランド北西部、マンチェスターに近い炭鉱町ウィガンを取材した。ロンドンからは鉄道やバスを乗り継ぎ、安宿や民家に泊まる旅だった。こうして英国労働者階級の「もっとも典型的な人たち」の声に触れたのだ。翌年、『ウィガン波止場への道』というルポルタージュを発表している。

で今週は、そのオーウェルの伝記であり解説書でもある一冊を読む。『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』(川端康雄著、岩波新書、2020年刊)だ。著者は1955年生まれ。近現代の英国文化や英文学が専門の研究者。オーウェルの邦訳も多く手がけている。本書では、オーウェルの生涯46年余を幼少期から死の当日までたどっている。文筆生活を始めてからの記述では、そこに作品世界を絡ませているのが読みどころだ。

中身に入ろう。著者は「はじめに」の一文を「いまでは不思議なことに思えるのだが」と切りだし、日本では昭和中期、「政治的左派」や「進歩的知識人」の大勢がオーウェルを嫌っていたことを振り返る。たぶん、若い人々にはピンとこないだろう。

実際、オーウェルの代表作『動物農場』(1945年)と『一九八四年』(1949年、*1*2)は東西冷戦期、ソ連型社会主義に対する批判の書として読まれた。右寄りと見られたわけだ。西側には、オーウェルを「反ソ・反共のイデオローグ」に担ぎあげる動きがあった。

「はじめに」は、その後の変転も跡づける。『一九八四年』がブームを呼んだ現実の1984年前後、左派のオーウェル嫌いは収まり、代わりに「『情報革命』『管理社会』といったキーワードを用いた『一九八四年』論が増えてきた」。当然の流れだな、と私は思う。ソ連東欧の体制が崩壊に向かいつつあったこと、世の中がコンピューターを中心とする情報技術(IT)の台頭で隅々まで管理されようとしていたことが影響したのだろう。

「はじめに」は、2010年代の政治情勢にも言及している。日本では、マイナンバー法や特定秘密保護法などの法制で「監視社会化」の流れが強まった。米国では、ドナルド・トランプ大統領という専制的権力者が登場して、「フェイク・ニュース」「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などの流行語も生まれた。『動物農場』や『一九八四年』は「反ソ・反共」の色彩を弱め、「身近な世界の危機を表現した小説」になっているわけだ。

この構図の反転は大きな意味をもっている。『動物農場』や『一九八四年』の作品世界が当時のソ連型国家をモデルにしていることは間違いないが、そこにある「管理」や「監視」の過剰は社会主義そのものの病ではない、と本書は主張しているように思える。最近は、自由主義を別名にしていた資本主義が同じ病のリスクにさらされているではないか。病因は社会主義にあるわけではない。この一点は、心にとめておくべきだろう。

私が察するに、オーウェルの胸中には二つの社会主義像があった。一つは、陰湿な暗黒郷(ディストピア)の社会主義。もう一つは、それとは真反対に明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義。本書によると、オーウェルはスペイン内戦で、その二つの違いを見てとった。1936年暮れ、現地ルポを書くつもりでバルセロナに赴くが、町の「雰囲気」に気押され、ほどなく民兵組織に入る。町の様子は著書『カタロニア讃歌』に描かれている。

建物の大半は労働者階級が占拠して、旗がひらめいていた。オーウェルが心揺さぶられたのは、商店の店員やカフェの給仕の言葉づかいだ。相手が客であっても「セニョール」などの敬称は用いない。「同志」「君」と呼びかけていたという。エレベーターボーイにチップを渡そうとして、たしなめられたこともあった。この町では店員も給仕もエレベーターボーイも客もみな「対等」だった。オーウェルは、ここに社会主義のあるべき姿を見る。

この見方に、私は懐疑的だ。旧ソ連型の社会主義国では独裁的な指導者も「同志」と呼ばれる。それを「対等」とみるのは甘くはないか。実は『カタロニア讃歌』も「同志」という言葉が「たいていの国」では「まやかし」であることを認めている。ただ、オーウェルはスペイン内戦の民兵組織に参加した数カ月、「本当の同志的連帯」を経験したというのだ。ここでもまた、社会主義の本質は「階級のない社会」であることを強調している。

スペイン内戦は、選挙で政権に就いた人民戦線の共和国政府と、欧州のファシズム勢力を後ろ盾にするフランシスコ・フランコ将軍派との間で繰り広げられた。オーウェルは人民戦線の一翼を担う民兵組織「マルクス主義統一労働者党」(POUM)に入隊、スペイン北部で塹壕戦に加わった。著者によれば、『カタロニア讃歌』の戦場描写には「ずっこけた」印象がある。仲間を英雄視しなかったのは、「同志的連帯」のなせる業だったのだろう。

オーウェルはこの国で、もう一つの社会主義も現認する。入隊から4カ月後、1937年4月に休暇でバルセロナを再訪すると、町の空気が一変していたことを『カタロニア讃歌』は書きとめている。「同志」や「君」は消えつつあり、「セニョール」が復活していた。それだけではない。5月上旬には、共和国政府の内部抗争が激化してバルセロナで市街戦が起こり、オーウェルもPOUM本部を守るため、「歩哨任務」に駆りだされた。

本書には、この内部抗争の背景説明がある――。スペインの共和国政府はソ連を「最大の援助者」としており、ソ連の絶対的権力者ヨシフ・スターリンの意向を無視できなかった。POUMの方針は、スターリンとソ連共産党内で敵対したレフ・トロツキーの思想に近かったので、共和国政府主流派からは「ファシスト軍以上に危険」とみなされ、「粛清」を受けることになったというわけだ。その結果、POUMの党首は拷問の末に殺されている。

オーウェル自身も危うかった。本書によると、当局がオーウェル夫妻――妻も夫を追ってスペインに来ていた――を「狂信的なトロツキスト」とみていたことを示す文書が見つかっている。現に、オーウェルの戦友だった英国の青年は1937年6月に獄死している。

オーウェルは1937年5月、別の理由で死にかけた。バルセロナから戦場に戻ってまもなく、ファシスト軍の銃弾が首を貫いたのだ。動脈からずれていたことで一命をとりとめた。このあと療養施設で過ごした後、国外へ出る。列車に乗れたのは6月23日。共和国政府は6月16日にPOUMを非合法化していたから、間一髪で難を逃れたことになる。スターリン体制に対する警戒がオーウェルの皮膚感覚に根づいたとしても不思議はない。

本書でオーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月24日公開、通算705回
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安吾が描く傷痍軍人がいる風景

今週の書物/
『復員殺人事件』
坂口安吾著 河出文庫、2019年刊

負傷

戦後を生きたということは、いくぶんかは戦前戦中を生きたことである。最近よくそう思う。私は「戦争を知らない子供たち」世代だが、こんな思いを抱いてももはや違和感がない。戦後世代が戦争の語り部を担うべき時代になったということか。

ここで言う「戦後」は狭義で、戦争の臭いが残っていた時代ということだ。西暦でいえば1950年代まで、あるいは60年代前半も含めて64年の東京オリンピックころまでか。私は50年代初めの生まれだから、自身の幼少期がこのなかにすっぽり収まる。

幼いころ、私の記憶には戦争の名残がいくつか刻まれた。その一つが、傷痍軍人のいる風景だ。たぶん、若い人からは「何のことか」という反応があるだろう。子どもが大人に連れられて盛り場に出かけると、必ずと言ってよいほど傷痍軍人を見かけたものだ。

たとえば、東京・渋谷。私たちの家族は井の頭線を使って渋谷に出ていたので、改札を出てから高架の通路を歩き、ハチ公前付近で地上に降りたのだが、このときいつも通る階段があった。窓はなく、薄暗い。踊り場にはいつも、白い服を着た男性が座り込んでいた。「怖そうなおじさんだな」。子ども心にそんな印象をもった。大人たちも、見て見ぬふりで通り過ぎていくことが多かったように思う。その白衣の人物が傷痍軍人だった。

その人は手足の一部が義肢だったと記憶するが、はっきりとは思いだせない。アコーディオンで軍歌かなにかを奏でていたような気もするが、それも定かではない。おそらくは母親が耳もとで「あのおじさんは、戦争でけがをしたのよ」とささやいてくれたのだろう。私は「しょういぐんじん」という言葉を覚えた。「へいたいさん」が手や足を失う「せんそう」という修羅場が近過去にあったことを、こうして感じとったのだ。

街角の傷痍軍人たちはたいてい、足もとに箱を置いて金銭を求めていた。軍役による傷病者ならば、これは支援カンパを募る正当な行為にほかならない。ところが現実には、哀れみを乞う人のように見られていた。偽装が疑われている気配さえあった。総じていえば、世間はあの人たちに冷たかったのだ。日本社会が軍国一色から平和一色に反転したことで、人々はこの国に軍隊が存在していた事実までなきものにしたかったのではないか。

で、今週は『復員殺人事件』(坂口安吾著、河出文庫、2019年刊)。著者(1906~1955)は、言うまでもなく、戦後文壇の一角を代表する無頼派の作家。純文学だけでなく、推理小説も手がけた。後者では「不連続殺人事件」が有名。本作もその系譜にあるが、未完のままだった。1949~50年、「座談」誌(文藝春秋新社)に連載されたが、同誌廃刊で途絶えてしまったのだ。それなのに私が手にとった本書は、見事に完結している!

いきさつは、本書巻末に収められた江戸川乱歩の一文が詳しい。著者没後の1957年、乱歩と荒正人、高木彬光の3人が民放ラジオ局の座談会に居合わせた。そこで「復員…」の中断が話題にのぼり、高木が作品を仕上げることになった。それで書き継いだ部分が1957~58年に旧「宝石」誌(宝石社)に掲載。本書では全30章のうち第20章から最後までが高木の手になる。このとき、原題は「樹のごときもの歩く」と改められていた。

改題の理由を、乱歩は「復員…」が「もう季節はずれになっていた」と説明している。この感覚はよくわかる。人々が傷痍軍人に見て見ぬふりしているのを私が現認したのも、ちょうどそのころだ。世間は戦争を封印したかったのだろう。たしかに「樹のごときもの…」は、推理小説の題名として思わせぶりで秀逸だ。ただ、今の私たちはこの作品から戦後の空気を感じとりたいと思っている。だからこそ、本書も原題のほうを選んだのだろう。

中身に入ろう。ミステリーなので筋は追わない。小説の枠組みだけを素描しよう。舞台は、神奈川県小田原市にある富豪の邸宅だ。当主の倉田由之は「海道筋で屈指の成金」。中学校で武道を教えていたこともあるが、ブリの定置網漁で大もうけして漁船20隻余を抱える大船主になった。1947(昭和22)年夏の時点で、邸には長男の妻、長女一家、次女と三男が同居。さらに由之の元教え子が雇人として、その家族ともども住み込んでいた。

長男の公一とその息子は1942(昭和17)年1月、海釣りからの帰宅途中、鉄道線路で轢死。遺体に不審な点があり、警察は殺人事件とにらんだが、迷宮入りしていた。長男の妻は夫と息子の死後も倉田家に残り、今は義父由之と男女の関係にある。

1947(昭和22)年9月、この一族に予期せぬ出来事が起こる。「ヨレヨレの白衣をまとうた一人の傷痍軍人が倉田家の玄関に立っていた」。その男は右手と左足を失っており、両目を失明、鼻や顎は原形をとどめず、声も出せなかった。応対に出た雇人の娘は「物乞い」と見てとったが、「傷痍軍人」はなかなか引き下がらない。1942年に召集され、戦地にいた次男安彦(30)が復員してきたということらしいが、見た目だけではわからない。

そもそも安彦には謎があった。出征は兄親子が不審死した直後だったが、このとき日記を妹である次女美津子に預け、自分が戦死したら開けるように言いおいていた、と美津子は証言する。包みの表書きには「マルコ伝第八章二十四」の文字があったという。日記は厳封のまま美津子が保管したが、いつのまにか消えていた。「マルコ伝」は新約聖書に収められた福音書で、「第八章二十四」には「樹の如きものの歩くが見ゆ」という文言がある。

現れた「傷痍軍人」は本物の安彦か。安彦ならば兄親子の不審死事件の秘密を握っているのか。この物語はまず、そんな謎解きに読者を誘う。そして、倉田一族を新たに襲う連続殺人事件……。探偵役は巨勢(こせ)博士。安吾作品では「不連続…」に続いての登場だ。年齢は30歳前後。「ホンモノの博士にあらず」と、巻頭「登場人物」欄にある。その相棒役が一人称の「私」。矢代という小説家で、巨勢からは「先生」と呼ばれている。

当欄は今回、最初の問い「本物かどうか」に的を絞って作品を読み返してみよう。

本物説の有力証拠は手型だ。美津子によれば、安彦からは日記とともに手型も預かっていた。「遺品」代わりのつもりだったらしい。美津子は「傷痍軍人」の健在の左手から手型をとり、「遺品」と一緒に巨勢事務所に持ち込んだ。巨勢は両者が一致する、と断定した。

ところが、これには反証が出てくる。雇人が「傷痍軍人」の入浴を手伝ったときに背丈を測ると、安彦より6分(約1.8cm)低かったというのだ。雇人によれば、身長計には安彦が出征2年前に計測した結果が記されているという。巨勢の鑑定と雇人の証言は完全に背反する。これをどう説明したらよいのか。手型の紙がすり替えられたのか、あるいは身長計の記録が捏造されたものなのか。なんらかの作為があったとしか思えない。

この話には、ツッコミも入れたくなる。たしかに1940年代のことだから、DNA型鑑定はありえない。ただ当時でも犯罪捜査に指紋鑑定は使われており、それを活用すれば本人確認ができたはずだ。そう考えると、この推理小説はリアリズムの立場では語りえない。

実際、終戦後に帰還した傷痍軍人で、外見による本人照合ができず、赤の他人の家に居つくことになったという人はおそらく皆無だろう。もちろん、そういう物語を創作することはできる。純文学なら、人間の自己同一性(アイデンティティー)を考える契機になる。エンタメ文学なら、本作のようにミステリーの仕掛けにもなるだろう。ただ私には、傷痍軍人から戦争のリアリズムを抜き去ってしまうことにためらいがある。

この小説の「傷痍軍人」は、彼が安彦であれ、安彦のなりすましであれ、人々から疑心暗鬼の目で見られた事実に変わりない。戦地に向かうときは小旗をうち振ってくれたのに、傷ついて帰ってくればよそよそしい。戦争とはなんと冷酷なものかと改めて思う。
☆引用箇所にあるルビは、原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月17日公開、通算704回
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寺山修司、反1960年代の美学

今週の書物/
『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』
寺山修司著、中公文庫、2020年刊

書を捨てよ

この夏、私は新聞に載った1枚の写真に目を惹きつけられた。鉄道の操車場だろうか、引き込み線のレールがうねるように延びている。線路はポイント箇所で分岐したり、合流したりしていて、貨物車輛が停まっているところもある。手前には、青年らしさが残る男性。線路の砕石や枕木を踏んでこちらに歩いてくる。背広にネクタイ、革靴といういでたち。コートの裾を風になびかせている。詩人寺山修司(1935~1983)30代の姿だ。

写真は、朝日新聞読書面(2023年8月12日付)のトップ記事に添えられていた。ただ、一見して報道写真とは異質だ。キャプションには「寺山修司=1967年、青森港の引き込み線」とあるだけ。誰がなんのために撮影したのか、どんな理由でこの背景が選ばれたのかは、よくわからない。ネット検索を試みると、大手レコード店のポスターに同一とみられる画像が使われているから、広く出回っているものなのかもしれない。

ともあれ、私は懐かしさを覚えた。なによりも今なら、被写体が線路を歩くという場面の撮影は、映画のロケでもなければ許されないだろう。だが1960年代は、当該施設の現場責任者に頼めば融通を利かせてもらえたのではないか。その意味で、この1枚はあのころの緩さを証明している。それは、昨今のコンプライアンス(規範遵守)一辺倒の世相になじまない。あのころと今の空気感の落差が、この画面からは見てとれる。

もう一つ、印象的なのは寺山の服装。コートの着こなしで不良っぽさを醸しだしてはいるものの、詩作や演劇などで前衛文化の先端にいた人にしてはスクエア(真面目)だ。寺山修司とはどんな人物だったのか。この写真から、私はそれを知りたくなった。

記事も私の好奇心をそそる。比較文学者の堀江秀史さんが「この人を読む」という企画で寺山を論じているのだが、そのなかに「寺山は、いつも自信に満ちている」「自己の悲惨な現実を詠むことを嫌った」という記述がある。これは、ちょっと意外だった。

寺山で私がまず思いだすのは、あの東北訛りだ。饒舌で、言葉が次々に湧き出してくるのだが、どこか沈潜した感じがつきまとう。そこを巧妙に切りとったのが、タモリのものまねだ。その印象から、この人の内面では郷里青森の風土が東京の都市文化と軋轢を起こして、引け目のような心理を生みだしているのではないかと私は思っていたが、「自信に満ちている」という。これはもう一度、本人自身の話に耳を傾けなくてはならない。

で、今週は『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』(寺山修司著、中公文庫、2020年刊)。エッセイや演説の再録などを30編ほど集めた本で、読売新聞社が1969年に刊行したものの文庫化。書名に「ぼくが戦争に…」とあるが、いわゆる戦争の話ではない。

本文に入ろう。最初の一編は「風に吹かれて――反戦青年委員会」。冒頭の一文に土曜深夜、場末の映画館で東映のヤクザ映画を観るのが楽しみ、という話がある。中学生のころ、「暴力はいいが、権力はいけないよ」と説く人がいたこと。その後、G・ソレルの本で「力が上から下へ働く時に権力となり、下から上に働く時には暴力となるのだ」という一文に出あったこと。著者のそんな思い出話を読むと、あのころの暴力観が想起される。

こんな話から切りだされるのも、1960年代後半に新左翼運動が台頭していたからだろう。反戦青年委員会は、もともと社会党や総評の傘下で生まれたが、1967~1968年には、「個人としての主体性」も尊重する組織となり、羽田や成田などの闘争拠点や新宿騒乱事件で機動隊と対立した。既成左翼から離れて新左翼の一翼を担ったと言ってよい。ところが、そのこともあって中高年の労働者との間に溝ができる。それがなぜかを著者は考察する。

著者が問題視するのは、労働者の多くが「自らの労働に疑問を持っていない」現実だ。働くことが「楽しいか」と問うのを怠り、「生き甲斐を思想化すること」を放棄しているという。たしかにあのころ労働運動の主流は、労働者が働くのは「生活のため」と割り切って賃上げ闘争に没頭し、新左翼は「革命に臨め」と呼びかけることに夢中だった。これに対して著者は、「労働そのものを通して、生き甲斐の思想化を急げ」と主張している。

「希望という病気――東京大学」という一編は、1960年代末、学園紛争が極点に達した東京大学の構内に立ち入り、落書きされた壁などを見て回りながら、大学論を展開する。おもしろいのは、理想の大学像のたとえに東京見物の「はとバス」を挙げていることだ。

著者によれば、「はとバス」は東京に出てきてから経験した「最大の学問的感激」だった。なぜなら、「自分たちが啓蒙されつつある現実のなかを走り抜けてゆく、という快感があった」からだという。言い換えれば「肉眼で確かめた世界」を「説明されつつある世界」に重ね合わせることで、そのズレを発見できたわけだ。『書を捨てよ、町へ出よう』の著者らしい見解だ。高等教育が提供すべきものが何かをずばり言い当てている。

あの寺山調のしゃべりを堪能できるのは「一九六八年、関西学院大学でのラリー」。著者は当時、各地の大学を訪れて集会で話しており、そのうちの一つがこの一編だ。質疑応答で、大学生の想像力が乏しいのは大学生自身のせいか、それとも国民全体の問題かと問われ、こう答える。「あなたならあなたの問題としてですね、あなたが最近、毎日が楽しいかどうかとかね、そういうことじゃないかと思いますね」。ここにもまた「楽しい」が出てくる。

前述のように、著者は労働者に対して「生き甲斐を思想化する」よう促すが、ここでは大学生に「幸福を思想的にとらえる主体性」を求めている。「思想化」あるいは「思想的にとらえる」とは、自分なりにイメージを練りあげることを指しているのだろう。

では、著者は「生き甲斐」や「幸福」にどんなイメージをもっているのか。それは、具体的に語られない。ただ、第5章「同世代の戦士たち」に並ぶ競輪選手や競馬の騎手、サッカー選手、ボクサーの人物評を読むとヒントは見えてくる。著者にとっての「生き甲斐」や「幸福」は、どうやらスポーツの美学とも関係しているらしい。ひとことでは言えないので、ここでは要約しない。ただ、第5章は本書の読みどころではある。

話を戻すと、「…関西学院大学でのラリー」には学生運動に対する苦言もあった。学生たちの言葉が「自分の肉体のなかで」「一つの存在にまで高まっていない」として、「資本主義の矛盾」「国家権力」「反動」といった政治用語は、その「手応え」を「自分の肉体のなかで、きちんと捉え直して使ったほうがいい」と助言する。ここで「肉体」を連発するのも、著者がスポーツの美学に心惹かれていることの表れのように思われる。

こうみてくると、著者寺山修司は、私が想像していたよりもずっとわかりやすい人のように思えてきた。なによりまず、労働であれ、学生生活であれ、人生に「生き甲斐」や「幸福」があることを確信している。問題は、それを個々人がその人なりに「思想化」しないでいることにあるというのだ。思想を前面に押し立てる政治運動は盛んだが、その思想は個々人の「生き甲斐」や「幸福」とは別のところにあったということだろうか。

本書には、著者が1968年、米国の公民権運動指導者マーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州で暗殺された日、首都ワシントンにいたことが書かれている(「私怨をもって政治を超えられるか」)。ホテルの支配人から夜の外出を控えるよう求められたという。渡米の目的は不明だが、こんな歴史的事件にたまたま居合わせたのは海外に出る頻度が高かったからだろう。著者の視野が世界的だったことをうかがわせるエピソードだ。

著者は、この「私怨をもって…」で、政治的な暗殺は「個人の情念」と無関係でないという主張を展開する。テロ行為は「手工業的」な部分抜きにあり得ず、それは「『暴力』そのものが人格化してゆかざるを得ないような孤独な生活」を伴うというのだ。

考えてみれば、1968年は政治の年だった。日本では大学紛争が相次いだ。米国ではベトナム反戦の機運が高まった。フランスではパリ五月革命が起こった。チェコスロバキアでは「プラハの春」の風が吹いた。一方で、これらと逆向きの事件も起こる。米国ではキング牧師だけではなく、ロバート・ケネディ上院議員も暗殺されている。そんななかで著者は、徹底して個々人にこだわる。本書副題「反時代的…」の意味はそこにあるのだろう。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月29日公開、通算697回
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池波の絵に見る東京の変わり目

今週の書物/
『東京の情景』
池波正太郎著、朝日新聞社、1985年刊

東京2023(六本木で)

温泉宿の図書コーナーが私は好きだ。廊下の一角に書棚が設えてあって本が並んでいる。客はその本を自由に取りだせて、自分の部屋に持ち帰って読むこともできる。旅館やホテルにとって必須の設備ではないが、湯どころのまったり感を高めるものではある。

書棚に並ぶ本の傾向は、それぞれ異なる。海外小説から思想書、芸術書まで揃えていて気取っているな、と感じさせる宿がある。そうかと思えば、地元の観光案内や郷土史本のほかはムック類で棚を埋めているだけ、という宿もある。一つ言えるのは、そこに旅館業ならではの奥行きを感じることだ。日本では昔から、宿屋の主人が造り酒屋の主人とともに地域文化の担い手だった。図書コーナーには、その伝統の片鱗が見てとれる。

初秋の一日、私は北関東の温泉宿に泊まった。そこにもやはり「図書室」があった。壁際の書棚に本がぎっしり詰まっている。気に入ったのは、本の集め方が気まぐれなことだった。背表紙を見ても、サルトルから宮部みゆきまで多彩な書き手の本が交ざりあっている。一部には読み込まれた形跡もあるので、宿の主人が自分の蔵書を運び込んだのかもしれない。私同様、雑食性の読書家なのだろう。3冊ばかり借りて、部屋に持ち帰った。

で、その1冊が『東京の情景』(池波正太郎著、朝日文庫、2007年刊)。全30編のエッセイに著者自身の手になる水彩画を組みあわせた画文集。池波正太郎(1923~1990)は時代物の人気作家だが、絵も素人とは言えない。構図にも色彩にも力がある。

温泉宿でなぜ東京か、という違和感はあった。ただ、この本は「アサヒグラフ」誌の連載(1983年)を書籍化したものだ。エッセイは短文で、水彩画は心地よい。湯上がりに読むには、もってこいだった。本は、宿でひとまず読了。ただ、当欄で話題にするには手もとに1冊置いておく必要がある。そこで通販サイトを渉猟したが、新品はすでになく中古本に高値がついている。どうせなら、と文庫化される前の単行本を中古で購入した。

さっそく本を開こう。冒頭の「大川と待乳山聖天宮」には、著者生誕の地である浅草の絵が載っている。浅草は隅田川(大川と呼ばれていた)の右岸に位置するが、その一帯を左岸側から望む構図だ。舟が行き交う川面の向こうに小高い丘。これが、待乳山(まつちやま)だ。てっぺんに見える屋根が聖天宮(しょうてんぐう)。仏教寺院だが、本尊はもともとインド古代神話の神だったという。東京のど真ん中に古代インドの神がいらっしゃるとは。

この絵で印象的なのは、待乳山周辺を覆う樹林の緑だ。ところが、手前の川べりはコンクリートの護岸が横一線に延びている。前近代の自然と近代の人工物の同居だ。潤いと殺風景の同居と言い換えてもよい。1980年代は、そんな風景が東京のあちこちにあった。

私は今回、グーグルアースのストリートビューで、この絵と同じ視点の景色を眺めてみた。驚くべきことに、隅田川右岸は今やスポーツ公園に生まれ変わり、植栽の緑がまぶしいほどではないか。一方、待乳山の高みはビル陰に隠れてしまったように見える。

私が思うに、東京の変容は1980年代が曲がり角だった。江戸から東京へ、前近代から近代へという変身が一段落したのだ。ただ、東京は近代都市になっても、その隙間に震災や戦災を生き抜いた前近代を混在させていた。ところが1980年代以降、人々の都市景観に対する意識が高まり、そんなごちゃごちゃ感は次々に排除されていった。だから、あのような近代と前近代の同居は二度と見られないものであり、記録にとどめておくべきだろう。

著者は、本書「あとがき」で「むかしの東京の残片が、この画文集だ」と明言している。しかも、その「残片」は1980年代の動態のなかにある。「去年に描いた画の建物や景観が、たった一年のうちに打ち毀(こわ)された例は一、二にとどまらぬ」というのだ。

それを痛感するのは、「銀座の雨(天國)」という一編。絵に描かれているのは、銀座8丁目の天ぷら料理「天國(てんくに)」本店。瓦屋根の和風建築に明かりが煌々と灯る姿が首都高速道路を背景に浮かびあがっている。本文には「この、おもい出が深い天國の店がビルになってしまう」とある。現に、店は1984年に8階建てのビルに生まれ変わった。さらに今は、同じ8丁目の別の場所へ移転している(「天國」のウェブサイトによる)。

「おもい出が深い天國」と書かれているのには訳がある。著者は戦前に「株式仲買店の小僧」だったころ、自転車で会社回りをする途中、ここに立ち寄っていたらしい。「資生堂のチキン・ライスか、天國のお刺身御飯を食べるのが、何よりのたのしみだった」というから贅沢ではある。私は、築地の勤め先に通うようになった1986年から付近をよく歩いたが、天國はもうすでにビルだった。著者の絵は、たしかに旧東京の「残片」を記録している。

「柳橋夜景」には、おもしろい記述がある。「夜は、景観の中の邪魔なものを闇に隠してくれる」。花街柳橋の界隈では、夜になると「昔日のおもかげ」が見えてくるというのだ。添えられた絵をみれば、たしかにそうだと思う。隅田川のコンクリート護岸は、ほとんど暗闇に溶け込んでいる。代わって見えるのは、船宿の明かりに浮かびあがる柳の木、屋形船の屋根に吊るされた赤提灯の列。昔の「残片」は夜景で蘇るということか。

「残片」を大事に思う著者は当然、新しく現れたものに批判的だ。だが、決して批判一辺倒ではない。「赤坂・霊南坂教会」という一編を読むと、高度経済成長の象徴ともいえる高速道路に対して、愛憎相半ばする思いを抱いていたことがよくわかる。

タクシーに乗って首都高に上がり、都心部から目黒方面へ向かうときの話だ。「ホテルオークラのあたりにさしかかると、きまって私は車窓へ顔をつける」と、著者は書く。目が惹きつけられるのは、霊南坂教会の尖塔だ。教会周辺は「赤坂の谷間(たにあい)が、むかしの旧態をとどめている」「むかしのままの坂道が多く残されていて、木立も深い」。それらもまた、著者のような東京っ子にとっては懐かしい旧東京の「残片」だった。

著者は、ここで高速道路の長所短所を指摘している。長所は「高速道路からでなくては見えぬ風景」を楽しめることだ。首都高で言えば、虫瞰でも鳥瞰でもなく、斜め上方から見る景観か。霊南坂教会の一帯は、その穴場らしい。では、短所は何か。それは、たとえ「目をみはる美しい風景」が目に飛び込んできても「其処に人間がとどまることを、一瞬もゆるさない」ことだ。これでは、著者のように絵に描きとめることもできない。

この本に載っている絵で私がもっとも心を動かされたのは、「夕焼けの赤羽橋」だ。左側にはビルがそそり立ち、右側にはコンクリート構造物がどんと居座っている。両者に挟まれて、都市水路がある。港区赤羽橋付近の古川(新堀川)だ。コンクリート構造物は首都高の高架とみられ、湾曲部分が横へ突きだして、川の上方に覆いかぶさっている。高速道路の出入り口らしい。その傾斜路を車が1台、2台と昇っていく。なんとも大胆な構図だ。

構図だけではない。その色彩にも圧倒される。ビルとコンクリート構造物に挟まれた狭い空が、赤系統の絵の具で塗りつぶされているのだ。赤にオレンジ色が混ざったような感じ。夕焼けだ。その光は下方の川にも映され、水面は紫がかった赤に染まっている。

この一編によると、1863(文久3)年、尊皇攘夷の志士清河八郎が刺客に暗殺されたのが、この近辺だった。夕方、赤羽橋から西方に目をやると「清河八郎の鮮血のような夕焼け空」が広がり、ビルや高速道路や川面を「赤く染めていた」。そんな体験談を披歴して、著者は書く。「コンクリートと車輛に蝕(むしば)まれつくした風景にも、それなりの詩情がただよう」と。ここに旧東京の「残片」はないが、夕空がその代役を果たしている。

池波正太郎は江戸を描く達人だっただけではない。本書では、東京を1980年代という切り口で小気味よく点描している。それは、もはや歴史書のように思える。(*1*2*3
*1 当欄2023年7月28日付「戦後を風化させない鉄道の話
*2 当欄2023年8月4日付「812に戦後史の位相を見る
*3 当欄2023年8月11日付「812の回想を歴史にする
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月22日公開、通算696回
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村上春樹の90年代サバービア体験

今週の書物/
『やがて哀しき外国語』
村上春樹著、講談社文庫、1997年刊

円が強かった

私が初めて日本列島を離れたのは1984年のことだ。33歳の夏だった。農業分野のバイオ技術を取材するために欧州各地を回った。あのころは新聞社の懐事情も潤沢で、出張の日数はひと月半に及んだが、それでもやはり、旅は旅に過ぎなかった。

たとえば、ドイツ(当時は西ドイツ)・ケルンの食堂で昼食をとったときの話。「本日のメニュー」を頼むと、卵の黄身が5~6個連なる巨大な目玉焼きが運ばれてきた。ドイツ人はこんな豪快な卵料理を食べるのか――。ただ後日、この話をドイツ通の先輩にすると、そんなものは見たこともないと笑われた。せいぜい2~3個並べるだけらしい。あれは店主の思いつきだったのか。旅人は旅先で偶然出あったものを地元の文化と勘違いする。

海外文化をある程度は齧ったかなと私が思ったのは、1992~1995年に英国ロンドンで暮らしたときだ。毎朝、同じバスや電車に乗る、職場では現地スタッフの日常を垣間見る、夕刻には馴染みのパブでビールを飲む。その繰り返しが、見たもの聞いたものから偶発の要素をそぎ落とし、地元の人々が身につけている思考様式や行動様式を紡ぎだしてくれる。外国には住んでみなければわからないことがたくさんある、とつくづく思った。

外国が本当はどんなものかを日本人の多くが知ったのは1990年前後ではなかったか。当時は日本経済が強かったので、欧米に対しても引け目を感じないようになっていた。そのせいか、海外生活者の間に異文化を突き放して論評する余裕が生まれたのだ。

で、今週の一冊は『やがて哀しき外国語』(村上春樹著、講談社文庫、1997年刊)。本書は、著者が1991~1993年、米国東部の大学町ニュージャージー州プリンストンで暮らした日々をエッセイ風に綴った16編の文章から成る。1992~1993年に講談社のPR誌「本」に連載されたものが初出。単行本は1994年に同社が刊行している。著者はそのころ40代半ば。長編小説『ノルウェイの森』(1987年)ですでに人気作家になっていた。

このプリンストン住まいも、著名作家だからこそ実現したようだ。巻頭「はじめに」によれば、著者が米国人との雑談でプリンストンのような「静かなところ」で作家活動をしたいと漏らしたら、プリンストン大学が家まで用意して招待を申し出たという。

著者は巻末「あとがき」で、執筆にあたっては米国社会について「少し引いたところから時間をかけていろんなことを考えてみたかった」と打ち明けている。理由は、そこに自分が「一応『属して』生活している」からだ。著者には、本書よりも早く世に出した『遠い太鼓』という欧州滞在記があるが、そちらは「旅行者の目」でものごとを見ていた。それに対して、このプリンストン便りは居住者の視点に立っていることを強調している。

16編のうち、私がついつい引き込まれたのは「大学村スノビズムの興亡」。著者が「トレントン・タイムズ」という地方紙を定期購読している話が出てくるからだ。トレントンはニュージャージー州の州都で、プリンストンからは車で20分ほど。この新聞は地元の「奇妙な出来事」や「細かい事件」をとりあげ、火事や交通事故も1面トップで扱う。「読んでいると、その辺にいる普通のアメリカ人の暮らしぶりが少しずつわかってくる」という。

ちなみに著者は、「ニューヨーク・タイムズ(NYタイムズ)」も併読しているが、それは土曜日曜だけ配ってもらうというとり方にした。書評やテレビ番組の紹介、レジャーやアートの記事がたっぷりあり、これで「だいたい十分」と判断したわけだ。

ここで著者は、「僕の知っているプリンストン大学の関係者」の愛読紙について書く。それによると、だれもが「NYタイムズ」を毎日読んでおり、「トレントン・タイムズ」はとっていない。自分が「トレントン…」の定期購読者だと告白すると「あれっというような奇妙な顔」をされ、「NY…」を毎日はとっていないと言うと「もっと変な顔」になる。米国社会の知識人層が1990年代にどうであったかがまざまざと見えてくるくだりである。

「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」という一編は、米国社会のゆとりを象徴する「平和なるサバービア(郊外地)」の暗部に焦点を当てる。プリンストンは、まさにサバービア。その「平和」ぶりは新聞ダネを見てもわかる。たとえば、大学内の自転車泥棒。あるいは、著名作家が被害者となる追突事故。後者の記事には、作家が「やれやれ」という表情で車の脇に立つ写真が載っていたそうだから、深刻な事故ではなかったらしい。

ところが、そんなサバービアにも「事件」が起こる。プリンストンに住む女性が、ホラー作家スティーヴン・キングの『ミザリー』は自分の作品だと言い張り、キングに手紙を書きつづけて、ついにはキングを告訴したというのだ。著者は、その騒ぎを新聞報道に沿ってたどる。この女性は「ちょっと変な人」というのが著者の見方だ。当欄は又聞きの又聞きをなぞるわけだから断定は控えるが、私もキングが盗作したようには思えない。

この騒ぎは思わぬ副産物を生みだした。米東部メイン州にあるキング邸でキングの妻が偽物の爆弾によって脅されるという事件が起こったのだ。幸い妻は逃げ、犯人の男性は捕まったが、彼は「叔母」の作品が盗まれたから犯行に及んだ、と説明した。ところがプリンストンにいるくだんの女性は、自分にはそんな甥はいないと一蹴して、爆弾騒動は「キングが仕組んでやった狂言」「自己宣伝のためにやったこと」と八つ当たりした。

この件では、例の「トレントン・タイムズ」も奮起した。フロリダ州にいる女性の叔父に電話をかけ、偽爆弾男と同一名の人物が親類にはいないことを証言してもらったのだ。地元の「奇妙な出来事」を執拗に追いかける地方紙の面目躍如というところだ。

新聞報道によれば、キング側の弁護士はこの女性を「フラストレイティッド・オーサー(芽の出ない作家)」とみている。偽爆弾男も『ミザリー』の続編を自分が書こうとの野心があったようなので、やはり「芽の出ない作家」の部類に入るというのが著者の見立てだ。

さて、ここで著者のサバービア論を紹介しよう――。米国の郊外住宅はとにかく広大だ。敷地が400~500坪はざらで、車寄せの道は長く、芝の前庭は広い。そこに地縁のない人々が住みつくのだから「何かしら深い孤独感、孤絶感のようなもの」が漂っている。この地域社会では「ごく普通のおばさん」に見える隣人が「ベストセラー作家への脅迫の手紙をせっせと書きつづけている」としても気づかない。サバービアには、そんな怖さがある。

実際、サバービアには「フラストレイティッド」(frustrated)な空気が淀んでいるのだろう。挫折してイライラした、という感じか。この一編には「芽の出ない作家」だけでなく、「エリート弁護士のふりをした銀行強盗」の話も出てくる。近隣の町に住む「ヤッピー風」の人物は、弁護士でありながら本業の不振で強盗稼業に手を染め、逮捕劇のさなかに銃撃を受けて死んだという。こんな現実を「サバービア的な悪夢」と著者は表現する。

著者によれば、米国社会には郊外に車2台を置けるガレージ付きの家を手に入れれば「人生は一応あがり」(太字部分に傍点)という共通認識があった。私たちが1960年代、米国製ホームドラマで見せつけられた生活風景だ。だが、その「アメリカの夢」は「もうだんだん通用しなくなっている」。逆に疼いているのが「サバービア的な悪夢」だ。「今のアメリカの中産階級が心の底で感じているある種の不安」がサバービアにはあるという。

2023年の今、米国社会で「夢」はとうに瓦解し、「不安」が現実のものになっているのではないか。郊外の住宅地は物理的には残っても心理的に変質し、そこに住む人々からゆとりを奪っているのだろう。分断社会の過酷さも、そのことに一役買っているように思う。

1990年代、その予兆を日本人居住者が感じとっていた。その人が作家ならではの観察眼をもっていたこともあるだろう。だが、それだけではない。私たちはあのころ、米国社会を対等目線で見るようになり、ホームドラマの幻影にもう惑わされなかったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月15日公開、同月19日更新、通算695回
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