優生学の優しい罠

今週の書物/
『「現代優生学」の脅威』
池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021

DNAの二重らせん

コロナ禍のニュースを聞いていて、ギクッとする瞬間があった。「命の選択」という言葉を耳にしたときだ。病床が足らず、入院させる人、治療する人を選ばなくてはならない――そんな状況が国内でも現出した。その結果、「自宅療養」を強いられた人が在宅で落命する悲劇も相次いだ。医療資源が限られているという現実があらわになり、この人には薬を提供するが、あの人には我慢してもらう、という選別がなされたのである。

「命の選択」という言葉は、科学記者にとって耳慣れないものではない。科学報道の一領域に生命倫理があり、案件の一つに出生前診断があった。30年ほど前には、受精卵にさかのぼって遺伝子のDNAや染色体を調べ、遺伝病の有無などを突きとめる着床前診断も登場した。これらは、現実には赤ちゃんを産むかどうかという問題につながってくる。そこで記者たちは、この診断技術をとりあげるとき、「命の選択」という表現を用いたのである。

実は、その着床前診断をめぐって今夏、見落とせないニュースがあった。日本産科婦人科学会が、診断対象となる遺伝性の病気の範囲を広げる方針を決めたというのだ。これまでは「成人に達する以前に」生き続けられないおそれがある重い遺伝病などに限っていた。だが、今後は「原則、成人に達する以前に」という文言に改め、大人になってから発症するものも条件付きで認めようというのだ(朝日新聞2021年6月27日朝刊)。

新たに加わる診断対象としては、現時点で有効な治療法が望めない病気などを挙げている。不気味なのは、範囲がどこまで広がるかわからないことだ。最近では多くの病気に遺伝要因が見つかり、遺伝性とされる病気が旧来の遺伝病の枠に収まらないからである。

これは、生命倫理の大事件と言ってよい。ところが世間では、それほど騒ぎにならなかった。考えてみれば、私たちは今、自分がコロナ禍で「選択」の対象になりかねない状況にある。自身の危機感が先に立って、人類の倫理を考える余裕がなくなっているのか。

で、今週は、こうした生命倫理の問題に今日的な角度から迫ってみる。手にとったのは『「現代優生学」の脅威』(池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021年刊)。集英社の『kotoba』誌に2020年に連載された論考をもとにしている。著者は1947年生まれの生物学者、評論家。生物学を構造主義の視点から論じ、進化論など生物学のテーマに限らず、科学論や社会問題など幅広い分野で著作がある。

本書「まえがき」によれば、「優生学」とは「優れた者たちによる高度な社会」を目標とする研究をいう。そのためには「優れた者たち」の血筋だけを後続世代に残し、「劣った者たち」のそれは絶やすか、あるいは「改良」すればよい、という発想をする。

この発想を現実社会で具現化したのが、ナチス・ドイツによる「優生政策」だ。それは、「障害者の『断種』とユダヤ人の大量殺戮という人類史上最悪の災厄」を引き起こしてしまった。この経緯もあって、優生学の主張は第2次世界大戦後の先進諸国で「タブー」となった。だが、著者が「その後も国家施策などに小さくない影響を与えました」と指摘している通り、「いわゆる優生思想」はさまざまなかたちで生き延びてきたのである。

日本の国家施策はどうか。第四章「日本人と優生学」を見てみよう。1948年、戦時中の「国民優生法」を受け継いで「優生保護法」が定められ、第一条で「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」とうたわれた。今からみれば不適切極まりない表現だ。これによって、ハンセン病患者の断種手術も正当化された。この法律が、こうした優生学的な条項を除いて「母体保護法」に代わったのは1996年。「優生」は戦後半世紀も生き延びていた。

では、国内の優生思想は1996年で息絶えたのか。いやいや、それはしぶとく生きている、と見抜いたのが本書だ。書名に「現代優生学」とあるのは、この理由からだろう。ここで「現代」とは、21世紀の今を指している。著者は「まえがき」で、出生前診断による妊娠中絶や、知的障害者施設を標的にした多人数殺傷事件などを例に挙げ、「戦後、一度は封印されたはずの優生学が、奇妙な新しさをまとって再浮上している」と書いている。

出生前診断について言えば、診断結果を受けて中絶するかどうかを決断するのは胎児や受精卵の親御さんだ。この立場に身を置いて考えれば、迷いがいかほどのものかが想像できる。片方には、わが子に苦難を背負うことなく育ってほしいという願望がある。他方には、授かった生命に対する敬意と愛情がある。そこに覆いかぶさってくるのが、今風の自己決定権尊重だ。お決めになるのは、あなたご自身です、というわけだ。

一方、前述の多人数殺傷事件は、重度障害者の生を社会が支えることに異を唱える一青年の手で引き起こされた。それ自体は凶悪犯罪であり、刑事裁判で裁くよりほかない。ただ、そんな主張を正論であるかのように公言する人間が現れた背景は座視できないだろう。そこに見え隠れするのは、生産性を高めることばかりに熱心な世間の風潮だ。なにごとも効率本位で考えようとする新自由主義の価値観も影響しているように思える。

こうしてみると、著者が言う通り、「現代優生学」は確かに「奇妙な新しさをまとって」いる。その「新しさ」を醸しだすキーワードが自己決定権や新自由主義ではないか、と私は思う。自己決定権は、今や〈保守派〉の対義語となった〈リベラル派〉も尊重している(*)。新自由主義は、〈リベラル派〉の経済政策と対立するが、ナチズムのように全否定はされない。このようにして優生思想は私たちの時代に優しげな罠を仕掛けるのだ。

私が本書で衝撃を受けたのは、優しげな罠は実は優生思想の源流にも見てとれることだ。著者は、19世紀末のドイツで優生学を切りひらいた先人に光を当てている。一人は医師でもあったヴィルヘルム・シャルマイヤー、もう一人はアルフレート・プレッツだ。

まずは、シャルマイヤーから。本書によると、その主張はダーウィン進化論に強く影響されている。「文明や文化が発展するほど、自然淘汰が阻害され、人間の変質(退化)が進む」と考えたのだ。「変質(退化)」を促すものとして「医学・公衆衛生の発達」を挙げる。「虚弱な個体が生き延びて、子を産み続けること」が淘汰の妨げとなり、退化をもたらすというのが、その論理だった。医師が医学の意義を懐疑するという不思議な構図がある。

驚くのは、彼がこの考え方を意外な方向に押し広げることだ。「退化」の要因として「戦争による兵役」や「私有財産制」(「資本制」)も問題視する。前者は「強健者や壮健な人間を選択的に早逝させる」、後者は「資本家は虚弱でも生存できる」という状況をつくりだす――そう考えて、反戦と社会主義の立場をとったという。ここからは、経済的な弱者は支援するが生物学的な弱者は切り捨てる、という歪んだ弱者擁護の思考回路が見てとれる。

彼の発想でもう一つ見過ごせないのは、すべての国民の「病歴記録証」をつくり、それを当局が保管するという施策だ。病気の遺伝要因を次世代に受け渡さないように、婚姻届を出すときに「記録証の提示」を求める。これは、今ならばDNA情報の管理というかたちをとるだろう。プライバシー保護の観点から反対意見が殺到するのは必至だが、技術的にはすぐにも実現できることだ。私たちは優生学の誘惑にきわめて近いところにいる。

もう一人、プレッツは「人種衛生学」の提唱者。人間の集合には、相互扶助の原理で動く側面(「社会」)と、闘争や淘汰が避けられない側面(「種」)があるとみた。懸念したのは、種が「淘汰の低減」に直面すると「社会」の発展が鈍ることだ。「相互扶助と淘汰の両立」を目標に考えを練り、思い至ったのが「淘汰を出生前に移行させる」ことだった。遺伝性の病気を抱える人々の生殖を規制しようという発想は、ここから出てきたという。

優生学は、昔はあからさまに、人類の存続や社会の発展がときに個人の権利より優先されるという立場から主張された。今は個人の権利が第一とささやきながら、個人の次元で辛い選択を迫る局面が出てきたように見える。だから昔より、細心の注意が欠かせない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月26日公開、通算602回
*本読み by chance「朝日を嫌うリベラル新潮流」(2018年11月23日付)参照
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世界が違うとはどういうことか

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

枝分かれ

今週も引き続き、『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)を読む(当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える」)。

先週も書いたことだが、量子力学について専門家を質問攻めにしていると、途中で疎外感に襲われることがある。ここで「専門家」というのは、物理を数式で考えられる人のことだ。当方にはそれができないから、必死でイメージを頭に思い浮かべようとする。最初は、なんとなくわかった感じになるが、あるところから先へ進めなくなる。挙句、「量子力学は日常世界のイメージでは理解できないんですよ」――そんな通告を受けてしまうのだ。

その壁を突破したいというのが、量子力学に関心を寄せる素人の切なる願いである。同じ思いの人は少なくない。友人知人のなかには、果敢にも高年齢になってから量子力学の方程式を学ぶ人がいる。私も、数式を眺めて雰囲気を感じとるくらいの水準には達したい。ただ、今さら数理の技を身につけようとは思わない。それよりはやはり、量子力学をイメージしたいのだ。絵画にだって具象画だけでなく抽象画というものがあるではないか!

これは、決して高望みではないらしい。この本の著者は、量子力学を「説明できないもの、理解できないもの」とする通念を取っ払いたいという立場を本文中で鮮明にしている。幸いなことに、そしてありがたいことに、専門家にも強い味方が現れたのである。

この本は、ひとことで言えば量子力学の解釈にかかわる書物である。邦題の副題にある通り、教科書的なコペンハーゲン解釈を批判的にとらえ、これまで異端とされてきた多世界解釈の強みを浮かびあがらせている。ここではまず、先週のおさらいをしておこう。

多世界理論では、波動関数のみを世界の現実とみる。それは、方程式に従って刻々変化していく。これを波動関数の時間発展という。そこにあるのは決定論だ。コペンハーゲン解釈のように確率論で物事が決まったりはしない。波動関数は観測によって、観測する側とされる側が一体となったものの重ね合わせになる。このとき、観測者は――あなたや私も――どんな状態を観測したかによって分岐している。世界も観測者も、枝分かれしたのである。

さて、いよいよ本題に入る。先週よりももう一歩深く、多世界解釈に踏み込むことにしよう。今週は、観測とは何か、観測によって世界が分かれるとはどういうことか――この2点について、イメージを思い描くことにこだわりながら考えていこうと思う。

まずは、観測について。ここで出てくる用語が「デコヒーレンス」だ。これは、状態の重ね合わせ(これを、コヒーレントな状態という)が壊されることを意味する。著者によれば、この概念が1970年、ドイツの物理学者ハインツ・ディーター・ツェーから提案されると、多世界解釈にとって「必須の要素」になった。デコヒーレンスは、観測で「波動関数が収縮して見える理由」を教えてくれる。そこに「『観測』とは何か」の答えもある。

一般論で言えば、デコヒーレンスの主犯は周辺環境だ。聴き入っている音楽が窓の外を走るオートバイの爆音でぶち壊しになるように、量子世界の状態の重ね合わせは周りの騒々しさによって台無しになる。だから、重ね合わせを情報処理の仕掛けに用いる量子コンピューターでは、その部分を周辺環境から遠ざけることが求められている。著者はこの本で、周辺環境の存在が観測という行為と密接不可分であることを述べている。

前回も書いたように、量子世界の観測では観測する側とされる側が量子もつれになる。今回、新たに考慮に入れるのは、観測する側が世界から孤立していないということだ。この本では、電子に具わるスピンという性質を見てとる観測装置が登場する。これは、スピンが上向きなら目盛り盤の針が左に振れ、下向きなら針は右を指す――というように作動する。この装置にも空気の分子や光の粒(光子)がぶつかっていて、相互作用が生じている。

ここで、空気や光などは「環境」と呼んでよい。量子力学の言葉で言えば、観測装置は空気や光などと相互作用することで「環境と量子もつれの状態」にある。このときに見落としてならないのは、「環境」が漠然としていることだ。「光子などの粒子をすべて追跡するなど、誰にだってできない」。そこで「厳密に何がどうなるか」はつかめない。観測装置と環境との量子もつれは把握不能――これこそがデコヒーレンスの本質であるらしい。

これは観測装置にとって、もつれる環境が一つに定まらないことを意味する。量子もつれごとに相手となる環境が異なるのだ。その結果、装置はそれぞれの環境に引きずられてしまう。ここに世界の分岐がある。著者の見方を私なりに理解したのは、そういうことだ。

では、スピンの観測で何が起こるかを時系列でたどってみよう。観測前、電子は〈スピン上〉と〈スピン下〉が重ね合わさるコヒーレントな状態にあり、それに観測装置の針がどちらにも振れない〈針中〉の状態と〈環境0〉がもつれ合っていた。ところが、観測された途端、〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉が量子もつれで一体になった状態と、〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉が同様にもつれて一体化している状態とが重ね合わさることになる。

著者は、この過程を数式風の略図で説明している。これは観測の核心をついていてわかりやすい。当欄は図の部分を言葉に置き換え、同じことを文字と記号だけで表現してみよう。ここでは、「+」は重ね合わせを、「・」はもつれをそれぞれ表している。
(〈スピン上〉+〈スピン下〉)・〈針中〉・〈環境0〉
➡〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉+〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉

この式からは、多くのことがわかる。スピンだけの重ね合わせ状態が観測によって消え、その代わり、スピンと針と環境がそっくり異なる世界が重ね合わさることになる。世界の数は観測前に一つだったのが、観測後には二つになる。これこそが、世界の枝分かれだ。

さて、いよいよ「観測者」の出番である。装置の目盛り盤の傍らに針を読む人間がいるとしよう。世界が枝分かれするなら「観測者も残りの宇宙にともなって」「コピーに分岐する」。ここで「残りの宇宙」とは環境の別表現だ。では、それぞれの分身は何を見るのか? 〈スピン上〉〈スピン下〉のどちらか一つしか見えない。「波動関数が収縮したように見える」(原文では太字部分に傍点)というのは、実はこういうことだったのである。

この略図を見ると、観測という行為が私たちにとってどんな意味をもつのかについて、別の角度からも考えたくなる。観測とは、電子のように重ね合わせの状態にあるものに取りついて、自分自身をも枝分かれさせる行為ではないか――そんなふうに思えてくる。

枝分かれのくだりで興味深いのは、そこに「世界」論があることだ。著者が「世界」の条件として挙げるのは「世界のさまざまな部分が、少なくとも原則として、お互いに影響を及ぼせていること」だ。逆をいえば、影響を及ぼせないなら別世界と言ってもよいのだろう。この本は「幽霊世界」をもちだす。幽霊たちがどこかにいる可能性を論じつつ「幽霊世界で起こることは私たちの世界で起こることとは絶対に関わりを持たない」と断じている。

もし、多世界理論が正しいとしても、別の世界にいる分身とは交信できない。向こうの世界に渡って分身と入れかわるわけにもいかない。今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない。世界がいっぱいあっても、この世界はかけがえがない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月19日公開、通算601回
*余談ですが、今回と似たタイトルで小文を書いたことがあります。「『あなたとは世界が違う』という話」(「本読み by chance」2015年5月8日付)。青春のほろ苦さとともにある「世界が違う」。これも、どこかで多世界のイメージと響きあうような気がします。
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世界は一つでないと今なら言える

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

観測

危険思想という言葉がある。それは、異端者に対するレッテルとして使われることが多い。言うまでもないことだが、このレッテル貼りはよくない。人は心のなかでなら何を思い描いてもよいのだ。その自由が、ときに常識の呪縛を解き放ってくれることもある。

私もかつて、自分自身が危険思想の持ち主と見られているように感じたことがある。極左に走ったわけではない。極右に振れたわけでも、過激な宗教に染まったのでもない。そもそも一つの考えの信奉者になったことは、これまで一度もない。ただ、科学記者として一つのテーマを追いかけていて、常識外の見解に興味を抱き、それを記事にしたことはある。このとき、周りの視線に危険思想を遠ざけようとする気配があったことを覚えている。

「一つのテーマ」とは量子力学である。1920年代半ばに打ちたてられた新しい物理学だ。私は1995年、欧州に科学記者として駐在していたとき、量子力学の核心部を生かした量子コンピューターや量子暗号の研究が台頭していることを知り、取材に駆けまわって報告記事を書いた。それは、量子力学の不可解さをどう解釈するかという哲学めいた問いに深くかかわっていた。答えの一つが多世界解釈。これこそが上記の「常識外の見解」である。

ざっくり要約しよう。量子力学の世界は波動関数というもので記述される。ここでは、電子を例にとろう。その状態は波によって表される。位置一つとっても、電子は一点にあるのではなく、A点にもB点にもC点にも……あることになる。重ね合わせの状態だ。ところが、私がその位置を測ったとしよう。すると電子の在り処はA点かB点かC点か……どこか一カ所に定まる。何が起こったのか? これが量子力学の観測問題である。

定説としては、コペンハーゲン解釈が広まっている。コペンハーゲンは、量子論の先駆者ニールス・ボーアの本拠地だ。この解釈は、ボーアの系譜にある物理学者らが唱えたので教科書的な見解として受け入れられてきた。それによると、観測の瞬間に波束の収縮ということが起こる。電子がA点にあるとの測定結果が出たとしよう。このとき、波は膨らみを失い、A点の箇所だけに聳え立つ。もはやB点、C点……には波の影もかたちもない。

コペンハーゲン解釈の対抗馬が多世界解釈だ。この立場では、波束は収縮しない。波は観測後も続く。そこでは、電子がA点にあるのを見た私、B点にあるのを見た私、C点にあるのを見た私……が重なり合う。観測の瞬間に私はいくつにも分かれ、それぞれの分身がそれぞれの世界を生きていくのだ。〈多世界〉と呼ぶ理由はここにある。この考え方は量子力学誕生の約30年後、1957年に米国の大学院生ヒュー・エヴェレットが発表していた。

荒唐無稽な世界観ではある。危険視されるのも致し方ないか。いや、違う。常識外ではあるが、常識の世界を乱さないからだ。この解釈に従えば、私には無数の分身がいることになるが、一つの分身が別の分身のいる世界と行き来したり、分身同士がメールをやりとりしたりはできない。それぞれの私がそれぞれの世界で物理法則に従うのだから何も問題ない。だが、それでも冷たい視線が向けられた。少なくとも四半世紀前までは……。

で、今週は、その空気が今や大きく変わったことをうかがわせる一冊。『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)。著者は米国カリフォルニア工科大学の理論物理学者。序章で多世界の理論が「うさんくさい」とみられてきたことを認めつつ、それは「量子力学を理解する最も純粋な方法」(原文では太字箇所に傍点、以下も)と言って憚らない。

この本の組み立ては、大きくとらえればこんなふうだ――。前半は、読み手を量子力学の世界に招き入れ、それを素直に受けとめれば多世界理論に行き着くことを堂々と論じている。後半に入ると、別の解釈には何があるか、量子論が宇宙論の「時空」にどうかかわるか、といった問いにも答えていく。後半は、かなり難しい。当欄は、とりあえず前半に絞って話を進めたい。ただいずれの日か、この本に戻って後半部分にも触れたいとは思う。

第一章には著者の宣言がある。「量子力学が説明できないもの、理解できないものとだけは思われないようにする」という決意表明だ。これは、科学者でもないのに物理学の周辺をうろついてきた者には新鮮に聞こえる。私は科学記者として、量子力学の不可解さについて物理学者を質問攻めにしてきたが、最後には、日常の感覚ではとらえきれないんだよ、と突き放されたものだ。だが、この本は最後まで面倒をみてくれそうではないか。

第二章では、「緊縮量子力学(austere quantum mechanics)」と呼ばれる立場が「勇気ある定式化」として紹介される。「緊縮」では硬いので、節約型の量子力学と言い換えてもよいだろう。波動関数だけに注目して、余計なことを考えない。著者は、量子力学をもっとも素直に受けとめれば、世界は一つではない、世界はたくさんある、とみるのが自然であることを論じている。多世界理論が「最も純粋」というのは、そのことである。

著者は、節約型の量子力学に二つの側面を見てとる。一つは、波動関数を「知識の整理を助けるだけの帳簿作成装置」とみないことだ。それを「現実をそのまま写し取ったもの」ととらえる――「認識論的」ではなく、「存在論的」な考え方に立とうというのである。

もう一つは、波動関数について「それは決定論的な規則にしたがって時間発展し、それ以外は何も関係しない」とみることだ。ここでは「決定論的」の一語に注目したい。量子力学は確率論の物理学とも言われるが、波動関数に限れば方程式通りの決定論に従う。

では、存在論的であり、決定論的でもある波動関数の正体とは何か? 著者によれば、それは量子状態だ。ならば量子状態とは? 「私たちが観測をしてみた場合のあらゆる可能な結果の重ね合わせ」だという。重ね合わせがまるごと方程式に従って移りゆくのである。

著者はこの「緊縮量子力学」を、前述のコペンハーゲン解釈――この本では「教科書量子力学」と呼んでいる――に対置して議論を進めていく。観測という行為のとらえ方について両者を対比しているところが読みどころだ。ここでは、それをなぞっておこう。

「教科書…」は、原子や電子のように微視的なものの観測では観測される側と観測する側の間に線を引いて考える。観測される側は量子力学に支配されているが、観測する側は古典力学の法則に従う、とみるのだ。ところが「緊縮…」は、この仕切りを取っ払う。たとえば、電子を写せるカメラがあったとして電子をカメラで観測する場合を考えてみよう。このとき、カメラの様子も電子と同様に波動関数によって表現するのである。

それでは、カメラの波動関数とはどんなものでどのように変化するのか。カメラが観測装置として電子の位置を見極めるとき、その波動関数が観測前に意味しているのは「これはカメラで、まだ電子を見ていない」ということだ。ところが、電子を被写体としてとらえた途端、「電子がここにいるのを見たかもしれないし、あそこにいるのを見たかもしれない」……に変わる。カメラの状態も、電子の重ね合わせに引きずられて重ね合わさるのだ。

えっ、カメラの重ね合わせだって? 重ね合わせは、電子のような微視世界でなら許せるが、私たちが暮らす巨視世界ではありえない――そんな違和感に応えるように、著者は私たちがこの不気味な重ね合わせを見ないで済む理屈を種明かししてくれる。

それは、量子力学では「二つの異なる物体」も「一つの波動関数だけ」で表されるということだ。こうして電子とカメラはつながる。その波動関数は、電子とカメラの「あらゆる可能な組み合わせの重ね合わせ」だ。ただ、なんでもあり、というわけではない。「電子はこの場所にあって、カメラはその同じ場所で電子を観測した」という整合性は求められる。一定の条件に縛られているのだ。このつながりが「量子もつれ」である。

観測とは、観測する側と観測される側が量子もつれを起こすことだ。ここで著者は、カメラをあなたに置き換えることを促す。あなたは当初、「まだその電子を見ていない」が、観測するとともにもつれが生じて「電子が見つかる可能性のある場所それぞれ」について電子とつながる。その結果、「ちょうどその場所にいる電子を見つけたあなた」が重ね合わせ状態になる。あなたまで重なり合うのだ。分身の登場である。ここに多世界が成立する。

さあ、ようやく多世界理論にたどり着いた。次回も引きつづき、この話を続ける。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月12日公開、通算600回
*当欄は今年、「量子」の話題を継続的にとりあげています。
量子の世界に一歩踏み込む」(2021年5月28日付)
量子力学のリョ、実存に出会う」(2021年6月4日付)
量子力学の正体にもう一歩迫る」(2021年9月10日付)
量子のアルプス、「波」の登山路」(2021年9月17日付)
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村上春樹の私小説的反私小説

今週の書物/
『一人称単数』
村上春樹著、文藝春秋社、2020年刊

1968年、セ・リーグ

ものを書く仕事に就いた者の常として、私にも作家志望のころがあった。学生時代、文芸サークルの部室に出入りしたことがある。友人たちとガリ版刷りの同人誌を出したこともある。思い返してみれば、20歳前後のころに会社勤めするつもりなどさらさらなかった。

結果としては会社員になった。ただ、就職先が新聞社で、あのころはほかの業界よりも多少は自由の空気が漂っていたから、内心の作家志望は捨てなかった。とはいえ新聞記者という職種のせわしなさは半端ではないから、ふだんはそんな野心をすっかり忘れている。帰宅後の深夜、こっそり小説を書きためる余裕もない。時折、このまま記者を続けるのかなあという迷いが心に浮かぶとき、自分が作家志望であることを再確認していたのだ。

私が「作家」を思い浮かべるとき、それは、ほとんど「小説家」と同義だった。私と同世代の新聞記者が駆けだしのころ、メディア界にはノンフィクション旋風が吹いていたから、記者の延長線上にノンフィクション作家を位置づけ、それを最終ゴールと考える人もいた。だが、私は違った。心のどこかで、事実に即してものを書く自分は世を忍ぶ仮の姿、と思っていたのだ。真に書くべきことは虚構のなかにこそある、とでもいうように。

その意味では、もはや私は作家志望ではない。野心は、いつのまにか雲散霧消した。たぶん、年齢のせいだろう。残された時間は限られている。ゼロから虚構を築くことにかまけてはいられない。自身の記憶を紡いで、そこから想念を膨らませていく――自分から逃れられないのが人間の宿命ならば、そのほうが自然ではないか。そう思うようになった今、この心境に響きあう短編小説集に出あった。当代きっての人気作家のものだ。

『一人称単数』(村上春樹著、文藝春秋社、2020年刊)。2018~2020年に『文學界』誌に発表された7編に、表題作の書き下ろし1編を加えた作品集。著者が古希にさしかかり、そして70代に入ったころの作品群である。当欄は去年、『猫を棄てる――父親について語るとき』(文藝春秋社、2020年刊)という作品――小説ではなく「文章」――をとりあげたが、それと似た空気感もある(2020年10月2日付「村上春樹で思う父子という関係

この短編集所収の作品群を一つに分類するのは、なかなか難しい。すぐに思いつくのは、私小説だ。もう一つ思い浮かぶのは、自伝である。ただ、よく読んでみれば、そのどちらとも言えない。それはなぜか? 今回は、このあたりから話を切りだしてみよう。

まず、なぜ私小説と言えないのか。書名『一人称単数』は、私小説性を暗示しているように見える。一連の作品も「僕」や「ぼく」や「私」の視点で書かれている。ただ、それらに著者の実体験が投影されている度合いは、まちまちだ。いくつかの作品では、私小説を支えるリアリズムが完全に吹っ飛んでしまっている。その空想体験が著者自身にあるのだとすれば私小説と言えなくもないが、ふつうの私小説とはまったく趣が異なる。

私小説らしくないのは、それだけではない。私小説らしい私小説では、作家が一人称で青春期の挫折や中年期の惑いなどを赤裸々に語る。「生きざま」と呼ばれるものが現在進行形で提示されるのだ。だがこの本では、過去を遠目に眺めている作品が目立つ。

では、自伝の変種なのか。どうも、それとも違う。自伝なら記述が系統だっているはずだが、そうとは言えない。もちろん、当欄が推した『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、晶文社刊)のような例外はある(2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。あの本は、植草がメディアに載せた文章を寄せ集めたものだったが、その組み立て方が本人の気ままな生き方にぴったり合うものだからこそ、「自伝」と呼べたのだ。

……と、ここまで書いてきて思うのは、稀代のストーリーテラーであっても齢七十ともなると自分が生きてきた現実の重みが増してくるのだなあ、ということだ。私的リアリズムと作家としての想像力が釣りあったところに、これらの作品群があるとは言えないか。

所収作品のいくつかを覗いてみよう。最初にとりあげたいのは「『ヤクルト・スワローズ詩集』」という一編。「一九六八年、この年に村上春樹がサンケイ・アトムズのファンになった」(サンケイ・アトムズはヤクルト・スワローズの前身)とあるから、著者の個人史に即している。「僕」はそのころから神宮球場の外野席――座席がなく芝生の斜面だった――に腰を下ろし、試合を観ながら「暇つぶしに詩のようなものをノートに書き留めていた」。

1982年、「僕」はそれらを「半ば自費出版」で世に出した。「『羊をめぐる冒険』を書き上げる少し前」とあるから、これも個人史と矛盾しない。収められたのはどんな詩か。「八回の表/1対9(だかなんだか)でスワローズは負けていた」――この球団は下位低迷の時代が長かった。「阪神のラインバックのお尻は/均整が取れていて、自然な好感が持てる」(/は改行)――ラインバックがいたのもあの時代だ。現実のプロ野球史も踏襲している。

実は『ヤクルト・スワローズ詩集』は、著者が折にふれて話題にしてきた。その出版の真偽は、村上春樹ファンの間で永遠の謎であるようなのだ。そんな出版物の幻影がこの短編集にも顔をのぞかせた。時を重ねれば虚も実になる、とでも言うように……。

この作品の対極にあるのが「品川猿の告白」か。「僕」が「群馬県M*温泉」のさびれた宿で湯に浸かっていると、年老いた猿が浴室に入ってきて「背中をお流ししましょうか?」と声を掛けてくる。猿は言う。自分は東京・品川の御殿山近辺で大学教師の家に住んでいた。飼い主はクラシック音楽が好きで、自分もその影響を受けた。ブルックナーで言えば「七番」の「第三楽章」が好き――。これは、どうみても私小説とも自伝とも言い難い。

「僕」は深夜、品川猿を部屋に招き、ビールを飲みながら身の上話を聞く。その猿には、人間の女性に恋して「名前を盗む」欲求があった。免許証などをこっそり手に入れ、名前を見つめて念じる――そんな「プラトニックな行為」である。奇想天外な小話としてはおもしろい。ただ、この短編はそれで終わらない。「僕」は5年ほどして、その嘘っぽさが反転するような奇妙な体験談に出あう。もしかしたら、品川猿は実在するのかもしれない!

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という一編でも虚が紛れ込む。チャーリー・パーカー(1920~1955)はジャズ界では伝説のアルトサックス奏者で、バードの愛称で呼ばれる。「僕」は学生時代、バードが実は1960年代も生き延びていて、ボサノヴァ奏者と組んでLPを出したという「架空のレコード批評」を大学の文芸誌に寄稿した。編集長は、その「もっともらしいでっちあげ」をすっかり本気にしてしまったという。

15年が過ぎて「僕」は、その「若き日の無責任で気楽なジョーク」のしっぺ返しに遭う。舞台はニューヨーク。宿のホテルを出てイースト14丁目界隈をぶらつき、中古レコード店をのぞく……そこで何を見つけたかは、だいたい察しがつくだろう。

心にズシンと響くのは、最後に収められた表題作。「私」がバーでミステリーを読みながらカクテルを飲んでいると、一人の女性客が話しかけてくる。「そんなことをしていて、なにか愉しい?」。言葉づかいが挑発めいている。だが、誘っているのではない。「悪意」もしくは「敵対する意識」が感じられる。「あなたのことを存じ上げていましたっけ?」と聞きただすと「私はあなたのお友だちの、お友だちなの」という答えが返ってくる。

女性客は「私」を責めたてる。彼女の友だちは、そして彼女自身も「不愉快に思っている」「思い当たることはあるはずよ」「三年前に、どこかの水辺であったことを」……。「私」には「身に覚えのない不当な糾弾」だ。だが、「実際の私ではない私」が3年前に水辺で起こした悪事を暴かれ、「私の中にある私自身のあずかり知らない何か」が可視化されそうだという恐怖感が、「私」にはある。ここでは、「私」の自己同一性が揺らいでいる。

この短編集では、作家村上春樹が生きてきた実在の時間軸にいくつもの架空の小話が絡みついている。人間に恋する猿に出会ったという妄想も、バードがボサノヴァを吹いたというでっちあげも、3年前の出来事をなじる不意打ちも……どれもこれも、事実と虚構の境目がぼやけている。しかも、その境目は時の流れとともに微妙にずれ動いているようにも見える。もしかして70歳になるとは、そんな虚実の経年変化を実感することなのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月5日公開、通算599回
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苦海の物語を都市小説として読む

今週の書物/
『苦海浄土――わが水俣病』
石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊

アセトアルデヒド

今週も『苦海浄土――わが水俣病』(石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊)の話を。(当欄2021年10月22日付「苦海浄土を先入観なしに読む」)

この作品は、1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。本人が辞退したことで受賞作とはならなかったが、選ばれたことに相違はない。私は読まず嫌いで敬遠してきたのだが、精読すると、さすがノンフィクションらしいなと感じる一面と、これもノンフィクションなのかという一面が混在していた。そこには、新聞記者流のノンフィクション観には収まり切らない文章表現がある。そんなことを先週は書いた。

実際、私が数十ページを読んだだけで感じとったのは、この作品には小説の顔があるな、ということだった。アルベール・カミュの小説『ペスト』にどこか似ている感じがした。共通するのは、病が面的にはびこること。片方は感染症で、もう一方は公害病だが、ともに地域社会をまるごと揺るがす。都市そのものが有機的であり、作品の影の主人公といった趣がある。(当欄2020年5月8日付「ペスト』考、拙稿再読で知る怖さ」)

『苦海…』でそれが最初に見えてくるのは、冒頭の章で水俣市役所衛生課の仕事ぶりが描かれるくだりだ。衛生課は1960年代半ば、水俣病患者の検診があるときにその送迎用バスを走らせていた。バスが患者のいる集落にやって来て合図のクラクションが聞こえると、人々が路地から現れ、海辺の道やたんぼ沿いの道に集まってくる。そこには「首がすわらない胎児性水俣病の子どもたち」がいる。「おぼつかない足つきの成人患者たち」もいる。

著者は、バスの車内風景も「私」を主語に描きだす。患者や患者家族たちの「不安げな様子」が車中では弱まるというのだ。発語の難しい子は、バスに乗っていることがうれしいようで「かすかな声」を発している。大人たちも子を見守りながら心を和ませて「おしゃべり」している。著者は、この小さな幸福に疎外感の裏返しを見てとる。「故郷の景色の中に、いつもすっぽりと入りきれないで暮らしてきたこと」の証しだというのだ。

もう一人、焦点が当てられるのは、そのバスの運転手だ。子どもたちに「よう」「やあ」と声をかけ、発車時には「そうら、行くぞ」のひと声がある。体の不自由な子が乗ってきたときは、微笑を浮かべて着席の世話をする。好感のもてる青年だ。ところが運転中は「どこかおこってさえ見える顔つき」になる。「自分でもわからないままに、蓄積されてゆくいきどおりをためこんでいて、始末に困っているよう」――「私」の目にはそう映る。

この青年の「いきどおり」に、同郷人に対する「本能的な連帯心のようなもの」があることを著者は見抜く。それは、水俣市民が水俣病に対して示す反応の一つであり、「この土地をめぐっている地下水のような、尽きぬやさしさ」にほかならないというのである。

ここで著者は、青年の個人史にも立ち入っている。彼は水俣病が現れたころ、地元でタクシーの運転手だった。当時、市外や県外の乗客がどっとふえた。記者もいる。役人もいる。学者もいる。行き先は新日窒の工場、市立病院、市役所、そして宿泊先の温泉……。熊本大学の研究陣を水俣病の多発地域まで乗せていくこともあった。だから「彼なりの判断を水俣病全体に持っている」ようなのだが、そのことを自分から話そうとはしない。

私が『苦海…』に文学性を感じるのは、著者がこのように脇役に過ぎない一人の青年に目をやり、その寡黙ぶりから水俣の人々の深層心理に思いをめぐらせていることだ。この多角的な視点こそが、カミュ『ペスト』に通じる都市小説らしさを醸しだしているのである。

「水俣とはいかなる所か」と切りだされるくだりでは、地域史にも言い及んでいる。不知火海の向こうには、天草や島原がある。だから古来、「中央文化のお下(さ)がり」よりはむしろ、「大陸南方および南蛮文化」の影響下にあった。幕藩体制のもとでは、肥後の地にありながらも隣の薩摩との間で農民や商人の行き来があり、「商いを交わし婚姻を結び、信教の自由をとり交した形跡」も残っている。開かれた土地柄だったのだ。

主要産品には塩があった。ところが、1905(明治38)年に塩の専売制が始まって製塩業は大打撃を受ける。そこに工場を進出させたのが、新興の日本窒素肥料だ。1908(明治41)年のことだ。やがて水俣村(後の水俣市)民の心には「日本化学産業界の異色コンツェルン日窒を、抱き育ててきたのだという先進意識」が根づく。1961年には市の税収の約半分が「日窒関係」(当時の社名は「新日本窒素肥料」)で占められるまでになった。

そのころ、新日窒がアセトアルデヒドを生産する工程では水銀の触媒が使われ、それがメチル水銀となって八代海に排出されていた。メチル水銀は海洋生態系のなかで魚貝類の体内で濃縮される。それらが地産地消の生活を営んでいた人々に禍をもたらしたのである。

この歴史的背景は水俣の地域社会に亀裂をもたらした。「日窒関係」を生活の糧にする人々とそうでない人々、水俣病を背負う人々とそうでない人々の間には意識の乖離がある。「日窒関係」に依存しながら縁者に患者がいる、という立場もありうるので、そういう人たちは内なる葛藤を抱え込んだに違いない。著者は水俣で起こった一つの騒動を通じて、その軋轢を浮かびあがらせる。これで、作品はますます都市小説の色彩を強める。

1959年11月2日午前のことだ。水俣市立病院前は沸き立っていた。この日、水俣市には国会議員団が初の現地調査に訪れていて、水俣病患者家庭互助会の代表らが議員団に支援を陳情したのだ。そこには不知火海区の3漁協も、2000人とも4000人ともいわれる大集団で押しかけていた。漁師たちは昼食後、隊列を組んで新日窒水俣工場の正門前へ向かう。慣れないデモだった。この一部始終を、著者は現場で目撃したという。

著者は「定かならぬ物音」を聞きつけて正門のそばに近づく。漁師たちが工場になだれ込み、投石で窓ガラスを割って建物に入り、机や椅子、テレタイプのような事務機器を近くの排水溝へ投げ落としていた。建物脇に置かれた自転車も捨てられている。「こげん溝!/うっとめろ!」(/は改行、以下も)――この排水溝がメチル水銀を海に垂れ流していた水路かどうかははっきりしない。ただ、漁師が「溝」を狙い撃ちした心情はわかる。

この場面では、さらに強烈な描写もある。若い女性が、幼い子一人を背負い、もう一人を手でつなぎとめながら叫び声をあげている。「ああ、/とうちゃんの、ボーナスの減る。/ボーナスの減る!/やめてくれーい!」。声は、物品が壊されるたびに聞こえてくる。「彼女は日窒工員の妻にちがいない」(社名は原文のママ)と著者は直感する。昔ながらの村落社会が工業都市に変容し、そのことで人々が分断された現実が、この絶叫に凝縮している。

この出来事は、議員団の一人によって10日後、衆議院農林水産委員会で報告された。その議事資料も、この作品には織り込まれている。報告者は「関係漁民数千人」から「切実な陳情を受けた」としたうえで、こう語っている。「その後これら関係漁民の一部が工場に押入り事務所を損傷する等暴挙に出たことは遺憾に存ずる次第であります」――騒動が遺憾なのはわかるが、それより先に遺憾の意を表すべきことがあっただろうに、と思う。

バス運転手の内なる怒り、工員家族の素朴な嘆き。この作品からは、近代日本の工業化が地産地消の社会をどう崩壊させ、人間の次元でどんなひずみを生んだかが見えてくる。
*当欄の前身「本読み by chance」に関連記事が二つあります。
原田水俣学で知る科学者本来の姿」(2016年5月20日付)
石牟礼文学が射た近代という病」(2018年3月2日付)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月29日公開、通算598回
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