1964+57=2021の東京五輪考

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

57年間

「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた)。

「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。

三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。

シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。

この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?

石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。

5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。

今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。

国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。

大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。

想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。

開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。

観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。

5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。

……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。

たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。

二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。

思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。

「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。

さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。

午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。

ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

チャペックの疫病禍を冷静に読む

今週の書物/
『白い病』
カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊

白いマスク

去年、コロナ禍の前途が見通せなかったころ、私の本漁りは混乱した。世を覆う暗雲は無視できない。その一方で、生々しい話からは目をそらしたい気分もあった。たとえば、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房、2020年4月刊)は、その緊迫感ゆえに当欄で直ちにとりあげたが(2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)、買い込んだままページを開くのをためらっていた本もある。

戯曲『白い病』(カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊)は、その一つだ。著者(1890~1938)はチェコ生まれの作家。代表作「R・U・R」はロボットという新語を生みだした戯曲で、AI(人工知能)時代の到来も予感させる。

チャペックと言えば、私はその著書『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(飯島周編訳、平凡社ライブラリー)を話題にしたことがある(「本読み by chance」2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。それは、排他的な移民政策をとる権力者が米国に現れる未来を予測していた。そして実際、この拙稿公開から1年後、国境を壁で閉ざす政策を掲げたドナルド・トランプ氏が米国大統領に就任したのである。

大した予言力だ。それは、チャペックがもともと新聞記者だったことに由来するのかもしれない。作品の主題は、個人の心の襞や愛憎ではない。ジャーナリストの鑑識眼で社会を読み解き、それにいくつかの仮定を施して次の時代を見通す。さながら、コンピューターを用いた数値実験のようなものだ。その作家が、この戯曲では疫病禍をとりあげている。私たちが直面するコロナ禍の先行きが暴かれているようで、ちょっと怖いではないか。

さて、そんなふうに怖気づいてから半年ほどが過ぎた。今も、コロナ禍は深刻なままだ。特効薬がない、病床確保が十分ではない、という状況は変わらない。ワクチン接種が始まったことだけが明るい材料だが、半面、ウイルスの変異株が次々に現れて心配な雲行きだ。一つだけ明言できるのは、あとしばらくは――たぶん、それは年単位の話だろう――ウイルスとワクチンの攻防が続くということ。そんな全体像だけは認識できるようになった。

ならばきっと、半年前よりもこの作品を冷静に吟味できるだろう。そもそも、ここに描かれる「白い病」は架空の疫病だ。しかも、作品が発表されたのは1世紀前の1937年。DNAの立体構造発見(1953年)よりもずっと前のことだから、感染の有無を遺伝子レベルで調べるPCR検査はなく、蔓延の様子を正しく把握することも至難の業だった。病原体の正体はわからず、伝播経路も追跡できない。とりあえず、今のコロナ禍とは別の話だ。

さっそく、戯曲の中身に入ろう。この作品で、著者は疫病流行時の世相を模式化して描いている。それは、いわば社会の縮図だ。登場人物には、最高権力者と思しき元帥がいる。爵位を有する軍需産業の経営者もいる。二人一組で産軍複合体の象徴か。医学界には、大物の大学病院教授。この人は、国の「枢密顧問官」でもある。新聞記者も出てくる。中流家庭の家族も顔を出す。そして陰の主役が、変わり者扱いされる医師ガレーン博士だ。

まずは、この病の素描から。教授は記者の取材に答える。「皮膚に小さな白い斑点ができるが、大理石のように冷たく、患部の感覚は麻痺している」。罹患の徴候は「大理石のような白斑(マクラ・マルモレア)」だが、皮膚病ではない。「純粋に体内の病」であり、数カ月後に敗血症で亡くなる人が多いという。治療は「適量の鎮静剤を処方すること」。対症療法しかないということだ。教授は、この現実を記者にはわからない用語を使って言う。

教授によれば、この疫病は「白い病」と呼ばれているが、正式名称は症例報告者の名に因んで「チェン氏病」。初症例が見つかったのは「ペイピン」の病院だという。ペイピンが「北平」なら北京の旧称だ。教授は、中国では「興味深い新しい病気」が「毎年のように」出現していると言い添える。黄禍論の影響も感じとれる。だが一方で「貧困がその一因」との認識も示しているから、作者の帝国主義批判の表出と読めないこともない。

チェン氏病は、すでに世界的な大流行、即ち「パンデミック」の様相を呈している。500万人超が亡くなり、患者数は1200万人にのぼる。世界人口が今の3分の1のころだから単純には比較できないが、死者数が数百万人規模である点は今回のコロナ禍と共通する。

さらに注目したいのは、教授が「白い病」のパンデミックが見かけより大きいとみていることだ。報告された患者数の3倍以上の人々が「斑点ができているのを知らずに世界中を駆けずり回っている」――と教授は指摘する。斑点は無感覚だから感染に気づかない、多くの人は知らないうちに感染拡大に手を貸している、ということだ。これは、コロナ禍で無症状の感染者がウイルスの伝播に一役買っている現状を連想させる。

このことは疑心暗鬼も呼び起こす。それは、教授が自室でひとりになったとき、ふと漏らす独り言からもうかがわれる。ト書きに「立ち上がって、鏡の前に立ち、注意深く顔を眺める」とあり、「いや、ないな。まだ、出てはいないな」とつぶやく。教授は新聞記者に対しては、医学の権威としてチェン氏病の蔓延を客観的に論じていた。だが内心を覗けば、自分自身も感染しているかもしれない、という疑念を拭い去れないでいたのだ。

もう一つギクッとするのは、「白い病」が年齢限定であることだ。教授は、感染が45歳、あるいは50歳以上に限られるとして、人体の経年変化「いわゆる老化」がこの疫病に有利な条件もたらすという見解を披瀝する。今回の新型コロナウイルス感染症には、罹患年齢にはっきりした区切りはない。だが、高齢者が重症になりやすいという傾向は早くから言われてきた。著者は、疫病禍が老若の断絶を明るみに出すことも見通していたのである。

この戯曲では、一家団欒の会話にもこの軋轢がもちだされる。父が「五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない」と不満を漏らすと、娘は辛辣に応じる。「若い世代に場所を譲るためでしょ」。息子も、この世代交代論に乗ってくる。国家試験のために受験勉強中の身だが、先がつかえていれば合格しても職がないというのだ。「でも、もうすこし長生きしてほしいけど」と言い添えているから、半ば軽口ではあるのだが……。

病気そのものの話は、このあたりで打ち切る。さて、ガレーン博士とは何者か? 大学病院で教授と面談する場面では、自分は地域医療の医師で、「とくに、貧しい方の診療をしています」と自己紹介している。その実践のなかで「白い病」の治療法を見いだしたという。数百人に施したところ、回復率は「六割ほど」。そこで、臨床試験を大学病院で試みたいと願い出る。教授は上から目線で聞き流していたが、興味がないわけでもなさそうだ。

ガレーンには強みがあった。彼はかつて、教授の義父の助手だったのだ。義父は医学界に君臨した人物。その有能な弟子だったらしい。そうと知って教授も嘆願を受け入れる。とりあえず、治療費が払えない患者が集まる13号室での治験を許すのだ。

実際、その治療効果は目を見張るものだった。元帥は「奇跡と言ってよい」とほめる。教授は当初、ガレーンが治療の詳細を明かさないことに怒り、「君は、自分の治療法を個人的な収入源と捉えている」となじっていたが、元帥の称賛には「身に余る光栄」と悦に入る。

この戯曲で最大の読みどころは、そのガレーンのたった一人の闘いだ。ネタばらしになるので、筋は追わない。ただ一つ言いたいのは、彼が「白い病」の治療法――その正体は「マスタードみたいな黄色い液体」の注射薬らしい――の独占を企む動機が、物欲でも栄誉欲でもないことだ。最終目的は悪事ではない。それどころか、善意に満ちている。ただ、善のために医療行為を駆け引きのカードにしてよいか、と問われれば議論は分かれるだろう。

これを読んで私は、コロナ禍の行方が今、ワクチンに左右されている現実を思う。ワクチンが巨大な知的財産であること、外交の切り札になること、今や安全保障の必須要件でもあること……そんな力学が際立つ時代の到来を、チャペックの『白い病』は暗示していた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月9日公開、同日更新、通算582回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

武蔵野夫人というハケの心理学

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

深い思い入れがある東京西郊、国分寺崖線の話を1回で終わりにする手はない。ということで、今回も引きつづき『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)をとりあげる。(当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」)

先週は、主人公道子の倫理的とも言える婚外恋愛――これも不倫と呼ぶのだろうか――の感情が崖線の自然のなかで自覚される様子を作品から切りとってみた。そこには、「はけ」の地形から湧き出る水の湿潤があった。斜面を覆う樹林が生み出す陰翳もあった。

前回、私が焦点を当てたのは、道子が父方の従弟、勉とともに崖線沿いを流れる野川の水源を探し求める探索行だ。少年少女の小さな冒険のような趣がある。だが、二人の内面をのぞくと、そうとばかりは言えない。崖線を歩いていても成人男女の心の綾がある。というのも、この物語は二組の夫婦と一人の青年の5人によって織りなされる群像劇であり、そこにドロドロした5元連立方程式が潜んでいるからだ。だが当欄は、その筋に踏み込まない。

今回は、筋立てからは完全に離れて、「はけ」の地形や生態系、そこに漂う空気感を浮かびあがらせようと思う。なぜなら、この作品では、著者がそれらの細部をさながら科学者のような目で描きだしているからだ。自然が登場人物の心理と響きあっているように見える。

まずは、地形学。道子が夫の忠雄と住む「はけ」の家はどんなところに位置しているのか。勉が戦地から帰還後、この家を再訪するときの描写が手がかりになる。中央線の駅――たぶん、国分寺か武蔵小金井だろう――を降りて、武蔵野の風景の只中を歩いていく。「茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畠中の道に倦きたころ、『はけ』の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た」。高台の突端に豊かな緑があるのだ。

著者の記述によれば、「はけ」の家の敷地は、この斜面の上から下まですべてに及んでいるらしい。「上道」と「下道」の両方に接しているということだ。近隣の家々は、北側の上道に門を構えていたが、道子の家は違った。道子の父、故宮地信三郎が「ここはもともと南の多摩川の方から開けた土地」と主張して譲らなかったからだ。上道にも木戸だけはあったが、宮地老人は生前、そこからは客が入り込めないようにしていた。

勉は、それを知っているがゆえに、木戸の脇から手を突っ込み、掛け金をはずして中へ入った。小道は草が茂り、段状にうねりながら下っていく。下方に「はけ」の家が姿を現す。「見馴れぬ裏屋根の形は不思議な厳しさをもって、土地の傾斜を支えるように、下に立ちふさがっていた」。道なりに歩いていくと、ついには「『はけ』の泉を蔽う崖の上」に出る。家のヴェランダが見え、道子が母方の従兄の妻、富子とおしゃべりしている――。

この一節は、恋物語の導入部として絶妙だ。青年は駅前の喧騒を背に田園を抜け、崖線に至る。禁断の裏門から忍び込んで、草を分け入り、坂道を下りていくと、そこには密やかな泉の湧き口があり、これから青年の心を揺り動かす女たちがいる。

次は、物理学。勉には「物の働きに注意する癖」があった。だから、「はけ」の家に住み込むようになってからは湧き水の「観察」に余念がない。「水は底の小砂利を少しずつ転ばしていた」「一つの小砂利が、二つ三つ転がって止まり、少し身動きし、また大きく五、六寸転がり、そうしてだんだん下へ運ばれて行く」。関心は定量的となり、小砂利が10分でどれほど進むかを測ったりもする。無機物からも生気を感じているかのようだ。

生物学もある。道子と勉が7月の日差しを浴び、ヴェランダで腰掛けていたときのことだ。一羽の小鳥が「上の林から降りて来て、珊瑚樹の葉簇(はむら)を揺がせて去った」。ここで読み手は、鳥の動線にハッとさせられる。崖だからこそ、こんな急降下をするのだ。「はけ」の水が池に流れ、池の水がさらに下方へ流れ落ちるように、崖は自然界に垂直方向の動きを促す。生きものも例外ではない。3次元の世界を軽やかに行き来する。

このとき、二人の前には一対のアゲハ蝶が現れる。一羽の翅は黒っぽい。もう一羽は淡い褐色。二羽は雌雄のようで、一羽はもう一羽に近づいては離れ、また近づこうとしている。道子も勉も、その揺れ動きをじっと見つめ、そこに自分自身の心模様を重ねている。

著者によれば、「はけ」の一帯は鳥や蝶の「通い道」になっている。鳥は窪地の低い木々を好んだ。蝶は水辺の花で翅を休めた。こうした生物群が二人の眼前にふいに現れ、恋心を揺るがしていく。この作品は、生態系の妙までもすくいとろうとしているのだ。

そして、気象学。勉が夜更け、崖下の野川沿いを歩いているときのことだ。川面からは水蒸気が立ち昇り、それが靄となって遠方の明かりがかすんでいる。樹林からは、梟の声が聞こえてくる。ああ、道子はあの木立に隠れた家で、夫といっしょにいるに違いない――。「俺は一体こんなところでいつまで希望のない恋にかまけていていいのだろうか」。夜の「はけ」は闇の底で静かに息づいて、昼間にはない内省を青年の心に呼び起こす。

つまるところ、これは心理学の書物か。「はけ」だからこその人の動きがある、ものや生きものの動きがある。日差しもあれば、闇もある……。自然が魔力のように登場人物の心を震わせる様子が克明に描かれている。『武蔵野夫人』は、ただの恋愛小説ではない。
*引用では、本文にあるルビを原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月30日公開、通算572回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

武蔵野夫人、崖線という危うさ

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

自然に心地よさを感じるようになったのは、いつごろからか。たぶん、小学校にあがるより前だったと思う。母の実家に預けられた日、祖母に連れられてよく散歩に出た。住宅街の家並みは崖のところで果て、そこから坂道を下りると、斜面は樹林に覆われている。その繁みに入り込むと、湧き水らしきものが流れ出ていた。「イズミ」という言葉を、そのときに教わったように思う。これが私にとって自然の原風景だった。

もう一つ、忘れがたい記憶がある。中学生のときだ。どんな行き掛かりでそうなったかが思いだせないのだが、学校の英語教師と友人と私の3人で郊外へサイクリングに出た。行き着いた先は崖の下。そこにも湧き水があって、男性教師は上半身裸になって水を浴びた。大のおとなが子どものようにはしゃぐ。学校の日常からはかけ離れた光景だった。自然が秘める魔力のようなものを感じとった瞬間でもあった。

祖母の崖と教師の崖は、ひと続きのものだった。それは東京西郊を流れる多摩川左岸の河岸段丘がつくりだした段差であり、国分寺崖線と名づけられていることをやがて知る。そして、崖に湧き水の水源が隠されていて、その地形が「はけ」と呼ばれていることも。

青春期に入ると、この崖線は特別な意味を帯びてくる。学校には、列島各地から同世代の若者が集まって来た。彼ら彼女らには、それぞれの郷里があった。では、私自身の原風景は何か。そう自問したとき、真っ先に思い浮かんだのがあの崖だ。それは、私にとっては母なる大河、多摩川が生みだした起伏にほかならない。崖線への愛着はいっそう増した。(「本読み by chance」2019年8月23日付「夏休みだから絵本で川下りしてみた」)

学生時代、国分寺崖線の自然を守ろうという市民グループの見学会に参加したことがある。グループは現地の立ち入り許可を得ていたようで、私たちは崖道を分け入り、湧き水の源にたどり着いた。子どものころよりも宅地化は進んでいたが、それでも泉は健在だった。

20代半ば、就職して東京を離れた。このとき望郷の向かう先には、いつも崖線があった。関西方面を転々としたので、植生の違いが気になった。西日本は照葉樹林帯にあるせいか、林地に常緑樹が目立つ。一方、東京近郊の雑木林は二次林ではあるが、落葉樹が多い。透明感のある葉が秋には色づき、冬に落ちる。崖線の懐かしさは、その季節感とともにあった。(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の「動」、ロンドンの青春」参照)

私の崖線体験で思うのは、都会人にとって斜面がどれほど貴重なものか、ということだ。大都市の緑は、どんどん追いやられていく。唯一の例外が崖だ。宅地は傾斜地にも迫るが、急峻なら手が出せない。東京では、そこに異空間が残された。それが、情感のある物語の場となっている。(当欄2020年6月26日付「渋谷という摩訶不思議な街」、「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」)

で、今週の1冊は『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)。著者(1909~1988)は東京生まれで、京都帝国大学に進み、フランス文学を学んだ作家。卒業後は会社勤めのかたわら、スタンダールの翻訳なども手がけた。戦時には召集を受けて戦地へ。フィリピンで米軍の捕虜となり、収容所生活を体験した。復員後の1949年、『俘虜記』で横光利一賞を受賞。『武蔵野…』は翌50年に発表された恋愛小説である。

私は若いころにも、この作品を読みかじったことがある。崖線の「はけ」が出てくるから飛びついたのだ。だが、読み切ってはいない。途中で投げ出した。「はけ」の描き方に不満があったわけではない。物語そのものについていけなくなったのだ。登場人物の心理が細やかに記述されているのだが、その綾をたどることが面倒になった。たぶん、私が若すぎたからだろう。今読み直してみると、大人たちの心模様はそれなりに納得がいく。

この物語は、「はけ」の一つを舞台にしている。それは、中央線国分寺・武蔵小金井間の中ほど、線路の南数百メートルの崖線にある。崖は「古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡」であり、崖下を流れる野川という小川は古代多摩川の「名残川」だという。

その核心部に湧水がある。「水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖となって尽きるところから湧いている」。そのあたりでは武蔵野台地表層の赤土、すなわち関東ローム層のすぐ下にある砂礫層が露わになり、地中から濁りのない水が湧きだしている。

物語の主人公は、秋山道子29歳。彼女が夫の大学教師忠雄(41)と住む家は、はけの一帯に建っている。敷地は、道子の亡父宮地信三郎が30年前に地主農家からただ同然で買い入れたもので、約1000坪もある。宮地は当時、鉄道省の官僚であり、武蔵小金井駅が開業するのを事前に知っていて購入したのだが、それは金銭欲のためだけではなかった。ここから南西を望めば、丹沢方面に富士が見える。その眺めが気に入ったのだ。

物語には、もう一組の夫婦とその娘、そして青年が一人登場する。夫婦は、道子にとって母方の従兄である石鹸製造業の大野英治(40)と妻富子(30)。娘は九歳で雪子という。青年は、道子の父方の従弟にあたる勉(24)。学徒召集でビルマの戦地へ送られ、帰還したばかりだ。勉は雪子の家庭教師を引き受け、道子の家に寄寓する……こうして終戦3年目の初夏、夫婦二組と青年一人の間に恋愛力学が生まれる。軸は、道子と勉の相思相愛だ。

例によって、筋書きは書かない。ただ一つ言っておきたいのは、道子と勉は一線を越えそうで越えないことだ。それは、道子の強い意志によるものだった。旧体制が崩壊して旧道徳が否定されたころではある。仏文が専門の忠雄もスタンダールにかぶれ、姦通に憧れて、左翼の文献を都合よく解釈した挙句、一夫一婦制を批判したりしている。だが道子は、そんな時代の空気や夫の言動も知らぬげに、自分が信じる倫理にこだわった。

道子が課したそんな条件が、勉のふつうとは異なる恋愛感情に火をつけたと言ってもよい。その導火線となるのが国分寺崖線だ。この一点に、この作品の独自性がある。

たとえば、勉の心理を描いたくだりには「彼は自分の『はけ』の自然に対する愛を道子と頒ちたいと思った」という一文がある。勉は、それを実現すべく道子を散歩に連れまわしては、武蔵野の地理や歴史を語ってみせる。知識は大抵、信三郎が書庫に遺した蔵書から仕入れたものだったが、本の受け売りだけでは終わらせなかった。忠雄の帰宅が遅いとわかっている日、二人は崖線沿いに野川の「水源の探索」に出かけるのだ――。

崖線は、欅や樫の木々が斜面を覆っていた。その下の道を歩いていくと、時折、静寂を破る音がする。「斜面の不明の源泉から来る水は激しい音を立てて落ちかかり、道をくぐって、野川の方へ流れ去った」。豊かな湧き水は二人の思いの通奏低音だったのかもしれない。この探索行でも勉は語りつづけ、道子はそれを「音楽でも聞くように聞いていた」。話の中身はどうでもよかった。「彼の心に関係があることは何でも聞くのが快かった」のだ。

そして二人はついに、水源らしい地点に行き着く。それは、線路の土手沿いにある池だった。近くには水田があり、農作業をしている人がいる。「ここはなんてところですか」と勉が尋ねると、「恋ヶ窪さ」という答えが返ってきた。そのひとことに、道子は衝撃を受ける。「『恋』こそ今まで彼女の避けていた言葉であった」。ところが二人がめざしてきた場所は……。道子は胸の内の「感情」が「恋」にほかならないことを強く自覚する。

私はこの一編を読んで、道子と勉が並んで歩くのがのっぺりした平地だったなら、恋心はこんなにも切実にならなかっただろう、と思う。斜面には樹木の葉陰がある。湧水の水音がある。それが私たちの心に陰翳と湿潤を与えてくれる。恋に崖は欠かせない。
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月23日公開、同月27日更新、通算571回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。