村上春樹の90年代サバービア体験

今週の書物/
『やがて哀しき外国語』
村上春樹著、講談社文庫、1997年刊

円が強かった

私が初めて日本列島を離れたのは1984年のことだ。33歳の夏だった。農業分野のバイオ技術を取材するために欧州各地を回った。あのころは新聞社の懐事情も潤沢で、出張の日数はひと月半に及んだが、それでもやはり、旅は旅に過ぎなかった。

たとえば、ドイツ(当時は西ドイツ)・ケルンの食堂で昼食をとったときの話。「本日のメニュー」を頼むと、卵の黄身が5~6個連なる巨大な目玉焼きが運ばれてきた。ドイツ人はこんな豪快な卵料理を食べるのか――。ただ後日、この話をドイツ通の先輩にすると、そんなものは見たこともないと笑われた。せいぜい2~3個並べるだけらしい。あれは店主の思いつきだったのか。旅人は旅先で偶然出あったものを地元の文化と勘違いする。

海外文化をある程度は齧ったかなと私が思ったのは、1992~1995年に英国ロンドンで暮らしたときだ。毎朝、同じバスや電車に乗る、職場では現地スタッフの日常を垣間見る、夕刻には馴染みのパブでビールを飲む。その繰り返しが、見たもの聞いたものから偶発の要素をそぎ落とし、地元の人々が身につけている思考様式や行動様式を紡ぎだしてくれる。外国には住んでみなければわからないことがたくさんある、とつくづく思った。

外国が本当はどんなものかを日本人の多くが知ったのは1990年前後ではなかったか。当時は日本経済が強かったので、欧米に対しても引け目を感じないようになっていた。そのせいか、海外生活者の間に異文化を突き放して論評する余裕が生まれたのだ。

で、今週の一冊は『やがて哀しき外国語』(村上春樹著、講談社文庫、1997年刊)。本書は、著者が1991~1993年、米国東部の大学町ニュージャージー州プリンストンで暮らした日々をエッセイ風に綴った16編の文章から成る。1992~1993年に講談社のPR誌「本」に連載されたものが初出。単行本は1994年に同社が刊行している。著者はそのころ40代半ば。長編小説『ノルウェイの森』(1987年)ですでに人気作家になっていた。

このプリンストン住まいも、著名作家だからこそ実現したようだ。巻頭「はじめに」によれば、著者が米国人との雑談でプリンストンのような「静かなところ」で作家活動をしたいと漏らしたら、プリンストン大学が家まで用意して招待を申し出たという。

著者は巻末「あとがき」で、執筆にあたっては米国社会について「少し引いたところから時間をかけていろんなことを考えてみたかった」と打ち明けている。理由は、そこに自分が「一応『属して』生活している」からだ。著者には、本書よりも早く世に出した『遠い太鼓』という欧州滞在記があるが、そちらは「旅行者の目」でものごとを見ていた。それに対して、このプリンストン便りは居住者の視点に立っていることを強調している。

16編のうち、私がついつい引き込まれたのは「大学村スノビズムの興亡」。著者が「トレントン・タイムズ」という地方紙を定期購読している話が出てくるからだ。トレントンはニュージャージー州の州都で、プリンストンからは車で20分ほど。この新聞は地元の「奇妙な出来事」や「細かい事件」をとりあげ、火事や交通事故も1面トップで扱う。「読んでいると、その辺にいる普通のアメリカ人の暮らしぶりが少しずつわかってくる」という。

ちなみに著者は、「ニューヨーク・タイムズ(NYタイムズ)」も併読しているが、それは土曜日曜だけ配ってもらうというとり方にした。書評やテレビ番組の紹介、レジャーやアートの記事がたっぷりあり、これで「だいたい十分」と判断したわけだ。

ここで著者は、「僕の知っているプリンストン大学の関係者」の愛読紙について書く。それによると、だれもが「NYタイムズ」を毎日読んでおり、「トレントン・タイムズ」はとっていない。自分が「トレントン…」の定期購読者だと告白すると「あれっというような奇妙な顔」をされ、「NY…」を毎日はとっていないと言うと「もっと変な顔」になる。米国社会の知識人層が1990年代にどうであったかがまざまざと見えてくるくだりである。

「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」という一編は、米国社会のゆとりを象徴する「平和なるサバービア(郊外地)」の暗部に焦点を当てる。プリンストンは、まさにサバービア。その「平和」ぶりは新聞ダネを見てもわかる。たとえば、大学内の自転車泥棒。あるいは、著名作家が被害者となる追突事故。後者の記事には、作家が「やれやれ」という表情で車の脇に立つ写真が載っていたそうだから、深刻な事故ではなかったらしい。

ところが、そんなサバービアにも「事件」が起こる。プリンストンに住む女性が、ホラー作家スティーヴン・キングの『ミザリー』は自分の作品だと言い張り、キングに手紙を書きつづけて、ついにはキングを告訴したというのだ。著者は、その騒ぎを新聞報道に沿ってたどる。この女性は「ちょっと変な人」というのが著者の見方だ。当欄は又聞きの又聞きをなぞるわけだから断定は控えるが、私もキングが盗作したようには思えない。

この騒ぎは思わぬ副産物を生みだした。米東部メイン州にあるキング邸でキングの妻が偽物の爆弾によって脅されるという事件が起こったのだ。幸い妻は逃げ、犯人の男性は捕まったが、彼は「叔母」の作品が盗まれたから犯行に及んだ、と説明した。ところがプリンストンにいるくだんの女性は、自分にはそんな甥はいないと一蹴して、爆弾騒動は「キングが仕組んでやった狂言」「自己宣伝のためにやったこと」と八つ当たりした。

この件では、例の「トレントン・タイムズ」も奮起した。フロリダ州にいる女性の叔父に電話をかけ、偽爆弾男と同一名の人物が親類にはいないことを証言してもらったのだ。地元の「奇妙な出来事」を執拗に追いかける地方紙の面目躍如というところだ。

新聞報道によれば、キング側の弁護士はこの女性を「フラストレイティッド・オーサー(芽の出ない作家)」とみている。偽爆弾男も『ミザリー』の続編を自分が書こうとの野心があったようなので、やはり「芽の出ない作家」の部類に入るというのが著者の見立てだ。

さて、ここで著者のサバービア論を紹介しよう――。米国の郊外住宅はとにかく広大だ。敷地が400~500坪はざらで、車寄せの道は長く、芝の前庭は広い。そこに地縁のない人々が住みつくのだから「何かしら深い孤独感、孤絶感のようなもの」が漂っている。この地域社会では「ごく普通のおばさん」に見える隣人が「ベストセラー作家への脅迫の手紙をせっせと書きつづけている」としても気づかない。サバービアには、そんな怖さがある。

実際、サバービアには「フラストレイティッド」(frustrated)な空気が淀んでいるのだろう。挫折してイライラした、という感じか。この一編には「芽の出ない作家」だけでなく、「エリート弁護士のふりをした銀行強盗」の話も出てくる。近隣の町に住む「ヤッピー風」の人物は、弁護士でありながら本業の不振で強盗稼業に手を染め、逮捕劇のさなかに銃撃を受けて死んだという。こんな現実を「サバービア的な悪夢」と著者は表現する。

著者によれば、米国社会には郊外に車2台を置けるガレージ付きの家を手に入れれば「人生は一応あがり」(太字部分に傍点)という共通認識があった。私たちが1960年代、米国製ホームドラマで見せつけられた生活風景だ。だが、その「アメリカの夢」は「もうだんだん通用しなくなっている」。逆に疼いているのが「サバービア的な悪夢」だ。「今のアメリカの中産階級が心の底で感じているある種の不安」がサバービアにはあるという。

2023年の今、米国社会で「夢」はとうに瓦解し、「不安」が現実のものになっているのではないか。郊外の住宅地は物理的には残っても心理的に変質し、そこに住む人々からゆとりを奪っているのだろう。分断社会の過酷さも、そのことに一役買っているように思う。

1990年代、その予兆を日本人居住者が感じとっていた。その人が作家ならではの観察眼をもっていたこともあるだろう。だが、それだけではない。私たちはあのころ、米国社会を対等目線で見るようになり、ホームドラマの幻影にもう惑わされなかったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月15日公開、同月19日更新、通算695回
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震災を社会的事件として省みる

今週の書物/
『関東大震災――その100年の呪縛』
畑中章宏著、幻冬舎新書、2023年7月刊

9月1日午前11時58分

震災から100年と聞いて、キョトンとした人も多いだろう。いま震災といえば、まずは2011年の東日本大震災を思い浮かべる。1995年の阪神・淡路大震災を思いだす人も少なくないだろう。だが、高齢世代には別の記憶もある。私は東京育ちなので、幼いころに年配の人たちが「震災のときは……」と語りあっていたことを覚えている。ここで震災は1923(大正12)年の関東大震災(大正関東地震)を指す。震災と戦災は近過去の二大災厄だった。

関東大震災は1923年9月1日午前11時58分に起こった。震源については諸説あり、相模湾北西部、神奈川県西部などといわれる。地震の規模はM7・9と推定されている。東京とその近隣県は震度6の揺れに襲われた。関東地方南部や東海地方などが被災して、死者・行方不明者は計10万5000人余。昼食の時間帯だったので、都市部では火災が相次いだ。東京では、中心部の東京市域(15区)の4割強が焼き尽くされたのである。

震災当時、私の祖父一家は千駄ヶ谷(現・東京都渋谷区)で和菓子屋を営んでいた。父は生後5カ月で、祖母は授乳中だった。祖父が突然の揺れに驚いて外へ飛び出したところ、屋根瓦が落ちてきたという。ともあれ、一家は火災にも倒壊にも遭わずに済んだ。

震災が私のファミリーヒストリーにもたらした最大の変化は、郊外移転だ。東京は震災後、焼けだされた人々であふれかえり、都市圏の膨張が加速された。私鉄の郊外電車が次々に開通・延伸して、田園地帯に新しい住宅街が生まれていた。祖父は、その機運に乗じて新天地を郊外に求めた。昭和に入ってからだが、山手線の内側を去り、外側の私鉄沿線に移り住んで駅前商店街に店を開いた。戦後、その店舗兼住宅で私は育ったのである。

そう考えると、関東大震災は私とも無縁ではない。で、今週は、震災100年の節目に『関東大震災――その100年の呪縛』(畑中章宏著、幻冬舎新書、2023年7月刊)を読む。著者は1962年生まれの民俗学者。『天災と日本人』(ちくま新書)などの著書がある。

本書を執筆するにあたって著者が抱いた問題意識は、巻頭の一文「はじめに」に要約されている。「災害」は震動や津波、氾濫、暴風、噴火だけでは成り立たない。「天変地異が起こった場所に人間が住んでいること」が不可欠の要件なのだ。だからこそ、「自然科学や建築工学の領域から検証するだけではなく〈社会的事件〉としてみるべきではないか」――。その通りだ。関東大震災については、とくにこの視点が求められる。

私が思うに、関東大震災の災厄像は三つほどのキーワードで特徴づけられる。下町の大火、流言蜚語、朝鮮人虐殺だ。このうち下町の大火は、地震の揺れという自然科学的な現象が直接もたらしたものだが、流言蜚語と朝鮮人虐殺はそうではない。このようなことがなぜ、どうして起こったのかを解き明かそうとするなら、世相や集団心理に対する考察が必要になる。歴史的、政治的、経済的な背景も総覧しなくてはならない。

本書は、関東大震災を「社会的事件」ととらえている。全編を二分すると、前半は震災の実相と影響を論じているが、後半では時間軸を延ばし、1945年の東京大空襲や1964年の東京五輪、1970年の大阪万博、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災、2021年の再度の東京五輪なども話題にしている。著者は、それらに関東大震災の「呪縛」を見いだそうとするのだが、率直に言えば、必ずしも納得がいく話ばかりではない。

そこで当欄は今回、本書前半に的を絞ることにしよう。そこでは著者が、関東大震災の知られざる一面に光を当てているからだ。これを読むと、私たちはこの100年間、震災を偏った見方でとらえてきたのではないか、という気持ちになってくる。

私が目を見開かされたのは、冒頭の「〈当事者性〉と〈非当事者性〉」と題する章を読んだときだ。ここで著者は、江戸時代以来の「山の手と下町の格差」に着目する。関東大震災で「破壊的な状況を呈した」のは下町だった。ところが、震災体験を書き残した知識人はたいてい山の手にいたので「それほど震えなかった」(太字部分は原文では傍点、以下も)――。震災史話の多くは、災厄をその「非当事者」が語るという構図を内在させているのだ。

著者が引用する文献の一つが、作家田山花袋(1872~1930)の『東京震災記』。花袋は代々木の自宅で地震に見舞われ、戸外へ出て庭木の陰で自宅が揺れる様子を見ていたが、「この時、前の二階屋の瓦は凄まじい響を立てて落ちた」という。代々木は千駄ヶ谷に近いから祖父の証言とも辻褄が合う。注目したいのは、「このくらいですめば、そう大した大地震というほどのこともない」と安堵する人がいたことを花袋が記していることだ。

著者が指摘する通り、ここには「下町の被害との空間的、心理的な距離感」が見てとれる。ただ、花袋はやはり自然主義の作家だ。『東京震災記』では市街地の大火に目を向け、「凄まじい火の旋風」が起こったことや「何処に行っても全く火」という状況が出現したこと、犠牲者数が「数万」を超えたことに言及。下町の焼け跡を回り、「黒焦げ」の遺体頭部が「炭団(たどん)」のように「際限なく重なり合っている」惨状も報告している。

当事者性の希薄さは、流言蜚語に結びついたようだ。一般に噂の大きさは〈重要度〉×〈曖昧さ〉の掛け算で決まる、といわれる。本書によれば、関東大震災でも「東京全域が壊滅・水没する」「津波が赤城山麓にまで達する」などの風説が飛び交ったというが、これは情報が東京下町の「当事者」から山の手の「非当事者」に広がるうちに不確かなものとなって〈曖昧さ〉の度合いを強めたとみれば、当然のことのように思われる。

腑に落ちないのは、流言蜚語のなかに「朝鮮人が暴徒化して、井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というデマが交ざっていたことだ。この情報は、地震とは無縁の要素で構成されている。地震と聞いて思い浮かぶ天変地異――大地の陥没や海洋の津波、火山の噴火など――とは無関係なことが言いふらされたのだ。唐突感を否めない。そしてこのデマが、市井の人々による朝鮮人虐殺という日本近現代史の汚点となる事態を引き起こした。

著者はこのデマの発生原因について、「治安当局や軍が仕掛けた」とする見方を含め諸説があることに触れたうえで、こういう。「『日常』的に弱者だったものたちが、『非日常』時においては最弱者となる」「限界状況で、日々の差別が極限まで助長される」――。この分析に私なりに言葉を補えば、日本社会が近代化の途上で身につけてしまった異質なものを排除する傾向に首都東京の非常事態が火をつけた、ということではないか。

朝鮮人虐殺にかかわる話で背筋が凍ったのは、著者が作家志賀直哉(1883~1971)の『震災見舞』を引用したくだりだ。志賀は、自分の乗った列車が信越本線松井田駅(群馬県)に停車中、兵士を含む一群が朝鮮人らしい人物を追いかけているのを車窓から目撃した。追っ手の一人が戻って来て、友人に打ち明ける――。朝鮮人でないとわかったが、「こういうときでもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」。

志賀は、このあと「ひどい奴だと思ったが、ふだんそう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた」と書き添えている。白樺派作家が自己の内面を通して描こうとしたものは「無関心が冷酷を生みだしてしまう」現実だ、と著者はいう。「正直な描写」だが、「むごさを感じざるをえない」とも。同感だ。イモリに生命の本質を見た鋭敏な感覚()は、そこに見てとれない。「気楽」の背後には、やはり山の手目線の〈非当事者性〉があるのだろうか。

本書によれば、当時の山本権兵衛首相は「内閣告諭」で、震災後の朝鮮人迫害を非難して「日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)する」「諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」と述べたという。大陸進出を正当化する帝国主義の立場から見ても、望ましい事態ではなかったのだ。だが政府は震災後、帝都の復興ばかりに熱心で、虐殺の素地となった民族差別は放置した。このことが次の時代に反戦思想を阻害したことは間違いないだろう。

著者は、第一部「関東大震災という〈大事件〉」の結語で、大震災は「文明史的転換」の「契機」となりえたが、そうはならなかったという。災害を社会的事件ととらえて検証できたはずだが、それを怠り、「批判的転換の機会」を逸したのだ。翻って思うに、私たちは今も、同種の誤りを繰り返していないか。東日本大震災も、コロナ禍も、自然の災厄でありながら社会的事件だ。それなのに、災厄後の社会を変えようという機運がなさすぎる。
* 「本読み by chance」2018年7月13日付「志賀直哉という教科書風レトロ
☆ 『東京震災記』『震災見舞』の引用は、本書に従って現代表記にしてあります。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月1日公開、通算693回
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戦争の夏に「第三の男」を読む

今週の書物/
『第三の男』
グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊

楽都ウィーン

いつのまにか1年半の戦争になってしまった。ロシアによるウクライナ侵攻である。

第2次世界大戦後、国際社会はいくたびか戦争を経験した。それは、東西冷戦を反映した局地紛争のこともあった。民族間や宗教間の確執のこともあった。ただ、戦争の空気が地球全体を覆うことは一度もなかったように思う。ところが、今般は様相が異なる。

最大の理由は、そこにロシア対NATO(北大西洋条約機構)の大きな構図があることだ。ロシアは、もはや旧ソ連のように世界を二分する超大国ではない。だが、それがかえって不安定な要因を生みだしている。NATOは、北米と欧州の主要国が加盟しており、いわゆる西側陣営が実体化されたものだ。直接の戦争当事者ではないが、当事国ウクライナの後ろ盾となっている。この状況は、世界戦争の一歩手前だと言っても言い過ぎではあるまい。

私たちの世代が奇妙に思うのは、それなのに世界規模の反戦運動が起こらないことだ。ウクライナの抵抗を支援する声は世界中に広まっている。だが、「反戦」という言葉がなぜかあまり聞こえてこない。確かに真っ先に批判すべきは、ロシアの侵攻だ。隣国に踏み込んで人々の生命と財産を奪う行為はどんな理由があっても許されない。ただ、それだけではなく、戦争そのものに対して「ノー」を突きつける動きがもっとあってよい。

1960年代のベトナム反戦を思いだしてみよう。ベトナム戦争は、米国がアジアでの覇権を死守しようとする戦いだった。そのために蹂躙されたのが、ベトナムの人々の自決権だ。だから、私たちの世代は「米帝国主義」に反発を覚え、心情的にはベトナムの抵抗勢力に連帯感を抱いたものだが、それでも「反戦」という言葉は捨てなかった。私たちは、たとえ戦争当事者のどちらか一方に共感していたとしても「反戦」を訴えるべきなのだ。

論理に矛盾があるかなとは思いつつ、私がこんなことを言うのも、戦争が人を殺すことを合法化しているからだ。殺人の正当化は、悪の培地を用意することにほかならない。それゆえに私たちは、人々の抵抗を応援しつつ、戦争そのものには反対しなくてはならない。

で今週は、戦争とは何かについて考える。手にとった本は『第三の男』(グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊)。第2次大戦後のオーストリア・ウィーンを舞台に、戦勝国の占領が敗戦国の社会を混乱に陥れる様子を描いている。

本書は、言うまでもなく不朽の映画作品「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年、英国)の小説版だ。ただ、映画の小説化(ノベライズ)ではない。著者グリーン(1904~1991)は映画プロデューサーに頼まれ、ウィーン占領の「物語」を執筆した。それをたたき台にリードと議論を重ね、映画の脚本を仕上げた。たたき台の「物語」が、この小説版だ。新聞記者出身の作家が書いたものなので、ジャーナリスティックな感覚が見てとれる。

この映画のことは、先月の当欄で言及している(*)。名優オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が戦争を肯定するような台詞を吐いたという話だ。その台詞は、イタリアでは戦争の時代にルネサンスが花開いた、という趣旨だった。ただ、この文言は小説版には出てこない。巻末解説「たそがれの維納」(川本三郎執筆)によると、脚本にもなかったらしい。ウェルズが19世紀の芸術家の文章をもとに考案したアドリブだという。

著者の度量を感じさせるのは、本書冒頭の序文で、映画が「物語」即ち小説版と同じではないことについて、「変更」は「いやがる著者に強制されたもの」ではないとことわっていることだ。「映画は物語よりも良くなっている」「映画は物語の決定版」と強調している。

とはいうものの、当欄は今回、映画ではなく、あくまでも小説版に沿って『第三の男』に迫ることにする。本書の原著は、1950年に刊行された。本書のもとになる邦訳は『グレアム・グリーン全集』第11巻(早川書房、1979年刊)に収められている。

さて、映画プロデューサーの企画通り、この作品の陰の主役はオーストリアの首都ウィーンである。1945年、ナチスドイツの支配から解放されたが、今度は戦勝国に占領された。市域は米国、ソ連、英国、フランスの「四大国」によって分割統治された。ただし、「環状道路(リング)」に囲まれる都心部「インナー・シュタット」は四大国の共同管理。月ごとの輪番制で一つの国が「議長」となり、「治安の責にあたる」というものだった。

このインナー・シュタットには、「連合国警察」の巡回がある。四大国のそれぞれが憲兵一人ずつを送り込み、国際パトロール隊を急ごしらえしていた。「うまく気心が通じているとは義理にも言えないが、敵の国語をしゃべって話が通じていることは事実だった」。ここで「敵の国語」とはドイツ語のことか。そんなギクシャクぶりがよくわかるくだりが、小説後段にある。ここでは、その一節を、筋を明かさない範囲で紹介しよう。

ソ連が議長国のとき、国際パトロール隊のソ連兵が深夜、英国の占領地区にまで車を走らせ、女優を連行しようとした。他国の隊員には片言のドイツ語で「ソ連国民が、正当な書類も持たずにここに住んでいる」と説明した。米兵が「まずいドイツ語」で「ソ連はオーストリアの市民を逮捕する権利はない」と反発したが、ソ連兵は、女優はハンガリー人であると主張した。ハンガリーはソ連の一部だとでも言いたいのか。すでに東西冷戦の構図がある。

このくだりでは、女優が服を着替える場面がある。ソ連兵は「部屋を離れることを拒否した」。だから、女優の一挙手一投足を監視しつづけた。米国兵は「無防備の女をソ連兵と二人だけにしておこうとはしなかった」。だから、後ろ向きに立ち、神経を集中させた。英国兵は「室内に留まることを拒否した」。フランス兵は「衣裳ダンスにうつる女の着替える姿を、冷ややかに楽しんでいた」――艶笑小話の感はあるが、四大国占領の混乱がわかる。

作品の輪郭を素描しておこう。主人公ロロ・マーティンズは英国の大衆作家。学校時代の友人ハリー・ライムに招かれ、ウィーンにやって来る。ハリーは現地で難民救済の仕事に携わっていたが、住まいのあるアパートを訪ねると、つい最近、車に轢かれ死んだとのことだった。事故は自宅前の路上で起こり、友人二人が目撃していたという。ただ、ロロが調べていくと、現場にはもう一人、謎の人物がいたらしい。これが「第三の男」である。

ロロは、ロンドン警視庁の警察官で今はウィーンに駐在しているキャロウェイ大佐と知りあい、占領下の都市の暗部を教えられる。そこにはびこっているのは闇商売だった。物資の不足につけ込んで「法外な値段」を吹っかける商いが横行しているという。

キャロウェイ大佐が捜査しているのが、抗生物質ペニシリンの密売だ。大佐によれば、ペニシリンは「軍の病院」――ここで「軍」とは占領軍のことだろう――に優先的に配給される。それを看護兵が掠めとり、オーストリアの医師たちに横流しするという犯罪が組織化されていた。大儲けするのはボスで、実行犯の分け前はわずか。それでも実行犯は、自分を「賃金労働者」のように感じて納得する。「全体主義の政党に酷似している」のだ。

作中では、このペニシリン闇商売が医療犯罪として悪質なものになっていく様子も大佐の言葉で語られているが、それはここでは書かない。作者グリーンは序文で「闇ペニシリンの物語は悲惨な事実にもとづいている」としているが、細部は虚構の可能性もあるからだ。ただ、ペニシリンは第2次大戦中に感染症の特効薬として注目されるようになり、戦後の医療現場では垂涎の的だった。それを「闇」に取り込む悪党がいても不思議はない。

作者は、ウィーンの「闇」を都市構造と結びつけている。この物語によれば、ウィーンの街角にあるポスター用の広告塔は内部が地下の下水路網へ通じている。それは「ウィーン中のほとんどどこへでも」抜けられる地下道であり、脱走兵や泥棒の隠れ家でもあった。

作者は本書序文で、ウィーンでの取材時に英国の情報将校から、下水路の内部には四大国の管理が及んでいないことを教えられたという。「各国の情報部員は何の制限もなく自由に行き来できる」のである。この作品では、その下水路網で大捕りものが繰り広げられる。「滝」がある、「急流」がある、「洞穴」もある。「われわれのほとんど誰もが知らない、奇妙な世界が、われわれの足の下に横たわっている」――それは文字通り「闇」の世界だった。

戦争の結末は、戦勝国にとっても決して好ましいものではない。分割占領が新たな紛争のタネをまくことがある。闇の商いで暴利を貪る地下組織が根を張ったりもする。やはり、戦争には良いことなどない。「反戦」という言葉を捨ててはならない、と改めて思う。
* 当欄2023年7月7日付「科学記者のゆとりを味わう
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月18日公開、通算691回
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「戦後」を風化させない鉄道の話

今週の書物/
『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』
原武史著、朝日新書、2023年5月刊

特急

戦争の記憶が風化した、と言われて久しい。だが、そう嘆いているうちに風化が始まっているのが、戦後の記憶だ。放っておいたら、1945年の終戦と1995年のインターネット元年の間にある50年が、私たちの歴史からすっぽり抜け落ちてしまうのではないか。

先の大戦については、先行世代が記憶を史実に落とし込んできた。自らの体験を綴った文筆家がいる。年長者の話を聞き書きしたジャーナリストがいる。史料を掘り起こして隠された事実をあばき出した史家もいる。史実の集積は、すでに一定の分量に達している。
 
デジタル時代に入ると、文書データの多くが電子化され、そのうちの相当部分がインターネットで共有されるようになった。ザクッといえば、世界の動きが同時進行で記録され、保存されていくという感じ。アーカイブズ機能がリアルタイムで稼働している。

これに対して、大戦とデジタル時代に挟まれた50年間は影が薄い。復興期や高度成長期、バブル期を含む半世紀にもかかわらず、である。私たちの世代にとっては幼少期、思春期と青壮年期に対応するので思い出深い。とりわけ忘れがたいのは高度経済成長がもたらした社会変容だが、それを戦時中の事象のように歴史化しようという機運はない。しかも、その記録は、ネット検索してもデジタル時代の事象ほどに蓄積されていない。

ということで、今回は日本社会の戦後史に思いを馳せる本を読もう。戦後というだけではあまりにも漠然としているので、それを一つの切り口から覗いてみることにする。切り口に選んだのは鉄道だ。これならば、夏休みの旅気分も味わえるだろう。

手にとった本は『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(原武史著、朝日新書、2023年5月刊)。著者は1962年、東京生まれ。日本政治思想史の研究者だが、興味の幅は広い。大の鉄道好きで、自称「鉄学者」。本書は朝日新聞土曜別刷り「be」の連載(2021年6月5日~2023年2月11日掲載分)をまとめたものだ。書名に「2号車」とあるのは、〈1号車〉にあたる本を2021年に出しており、その続編だからだ。

本書は、明治以降の鉄道余話を多く集めている。だが、それだけではない。自身の個人史にも触れて、少年期以来の鉄道体験を懐かしそうに語っている。当欄は今回、後者に的を絞る。そこから、高度経済成長後1970~1980年代の世相が見えてくるからだ。

最初に紹介したいのは、「あの駅前食堂はどこへ」という一編。1973年初め、著者が小学4年生のころの話だ。「中学受験のための進学塾が開催するテストを受けるため、毎週日曜日に代々木まで通っていた」とある。あのころは駅前に食堂がつきものだった。代々木駅周辺にも、そんなたたずまいの店があった。白地に黒字の看板。店内のテーブルには12星座のおみくじ器……。著者はテスト終了後、この店で五目そばを注文していたという。

この思い出話に私はちょっと驚いた。1973年は、私自身も毎週日曜日、代々木の進学塾に通っていたのだ。ただし、私の立場は学生アルバイト。試験監督や採点をする側だった。この一編の記述をみる限り、著者が通う塾は私のバイト先ではなかったようだ。私も昼食は駅周辺で調達したが、その食堂に入った記憶はない。ともあれ1970年代、著者と私は10年ほどの年齢差を保ちながら同じの空気を共有していたことになる。

「大阪万博からの帰り道」という一編では、その年齢差が露わになる。これは1970年、著者が小学2年の夏休みに大阪・千里丘陵で開かれていた日本万国博覧会を見学した話だ。父親と二人、東京・大阪日帰りの強行軍だった。東京・羽田空港8時発大阪空港8時45分着の日航DC8機に乗り、空港から直行バスで会場入り。帰途は北大阪急行と地下鉄御堂筋線で新大阪へ。東京23時40分着の最終列車「ひかり88号」で帰京した。

ここで思うのは、当時19歳の私には万博を見にゆこうという意志も、見に行きたいという願望も皆目なかったことだ。1970年はまさに70年安保の年であり、学園にも街頭にも若者たちの反体制運動が渦巻いていた。私自身はこうした運動に加わったわけではないが、体制側の応援団にはなりたくなかった。政府が旗振り役となり、大企業が参加し、国民的歌手が「こんにちは、こんにちは」と呼びかける行事は体制側の祝祭そのものだった。

私も10年遅く生まれていたら、1970年には親にねだって万博に出かけたことだろう。時代の表と裏を見る役回りが10年の年齢差によって分かたれたのである。

本書では、著者も10年の時間差に言及している。それが出てくるのは「鶴見事故が左右する運命」という一編だ。著者が小学生だった1970年代前半は「鉄道は安全な乗り物と思われていた」と振り返ったうえで「もう一〇年早く生まれていたら、そうは思わなかっただろう」と書く。そこで例示されるのが、1962年の三河島事故、1963年の鶴見事故。死者数はそれぞれ160人と161人で、戦後の2大国鉄衝突事故といわれる。

この規模の大事故が大都市圏で起これば、知人の知人くらいの範囲に犠牲者が出てくるようだ。鶴見事故のとき、私は小学6年生。義理の伯母から親類の一人が亡くなったという話を聞いた記憶がある。本書によると、作家小池真理子も当時11歳。事故で叔父を失っていた。彼女は後に列車事故を題材にして『神よ憐れみたまえ』という作品を書いている。あの事故は、子どもにとっても心に突き刺さる出来事だったことがうかがわれる。

これも年齢差の仕業だろうか、この一編には物足りないことが一つある。鶴見事故が起こった1963年11月9日、日本ではもう一つ大事故があったが、その言及がないのだ。福岡県・三井三池炭鉱の炭塵爆発だ。死者458人。戦後最大の炭鉱災害だった。同じ日に戦後最大級の惨事が重なるという偶然。同じ月の22日(日本時間23日)には、米国でジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されている。三つの事象はひとかたまりで私の脳内にある。

「ダイヤを入手、原点の論文に」は、著者の鉄道少年ぶりを物語る一編。1970年代半ば、中学生時代の夏休みに取り組んだ自由研究の思い出だ。著者が選んだテーマは、もちろん鉄道。1年のときは南武線と青梅線、2年では横浜線をとりあげた。中1の夏はまず、東京駅前にある国鉄本社1階の「国鉄PRコーナー」窓口で質問攻勢をかけたが、期待したほどのことは聞きだせなかった。すごいのは、これであきらめなかったことだ。

「守衛の目を盗まなければならなかった」がビルの内部に紛れ込み、当該部署で直接話を聞いた。職員の多くは「怪しむことなく、親切に質問に答えてくれた」という。それで中2の夏は、この方式を大展開する。最大の収穫は、横浜線のダイヤグラムを入手したことだ。職員は「これは部外秘だよ」と言いながら手渡したとか。今ならば、少年が相手であってもコンプライアンスの一語に阻まれるだろう。世間には、ほどほどの緩さがあった。

ダイヤグラムは斜めの線が各列車の行程を表している。これを、車両基地の出入りが記された「日程表」と突きあわせると、「どの日に横浜線のどの区間を走る電車がどういう車両で編成されているか」がわかる。著者は車両基地を訪ね、その日程表も手に入れた。新聞記者も顔負けの取材力だ。横浜線は当時、他線の中古車両で列車を編成していたから車体の色がまちまち。その運用ぶりを「内部資料」をもとに再現、「論文」にまとめあげた。

私の心に残るのは、「壁のように見えた山並み」という一編だ。著者が1980年、高校2年の冬に友人と東北地方を旅したときのことが綴られている。二人は山形県の今泉駅で、長井線(現・山形鉄道フラワー長井線)から米坂線に乗り換えた。このとき、著者が跨線橋から撮った写真が本書には載っている。一面の雪原にまっすぐ延びる米坂線の鉄路。その向こうには、飯豊山地の量感のある山並みが屏風のようにそびえ立っている。

その風景を見て、友人は「どうやってあの山並みを越えてゆくんだろう」とつぶやいた。二人は米坂線で日本海側に出て羽越本線に乗る予定だったので、山を越さなくてはならない。「私には山並みが、これからの人生に立ちはだかる壁のように見えた」。青春期の不安がちらついた瞬間といえるだろう。ただこの日、著者たちを乗せた列車は「難無く勾配を上り、いつの間にか峠を越えた」「山並みは、蜃気楼だったのかと思った」という。

これは、1970~1980年代の私たちを正しく映している。高度成長が終わり、不安はあったが、世の中はなんとかなっていた。あの空気感も史実として記録しておくべきだろう。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月28日公開、通算688回
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あのゴドーの「待つ」とは何か

今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊

続・樹木の傍らで

「見ているやかんは沸かない」。英語には、こんな諺がある。
“A watched kettle doesn’t boil.”とも、
“A watched kettle never boils.”ともいう。

私がこの言葉に出あったのは1995年。科学記者としてロンドンに駐在していたころだ。物理学界で量子情報科学という新潮流が生まれ、量子コンピューターや量子暗号が話題になりはじめていた。私は欧州各地を回り、物理学者たちから取材した。このときに聞いた量子力学の不可解さの一つが、原子や電子の世界では観測の頻度を高めると状態が変わりにくくなるという話だ。観測が変化のブレーキになる。これを「量子ゼノン効果」という。

似たようなことは日常生活にもある。湯沸かしのやかんを火にかけて、もう沸くか、もう沸くか、と見ているとなかなか沸かない。ところが、ちょっとのあいだキッチンを出て戻ってくると泡を噴いている。あるいは、バス停でバスが来る方向をじっと見つめていてもバスは現れないが、一瞬目を離すと目の前に来ている――。量子ゼノン効果は、そんな「あるある」を連想させる。だから物理学者も、譬えに「見ているやかん…」をもちだすのだ。

量子ゼノン効果という命名は、ギリシャの哲学者ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」という逆説に因む。ゼノンの逆説では、矢は実際には飛んでいるが、ある瞬間をとらえると1カ所に止まっている。一方、量子ゼノン効果はこうだ――。原子の状態が電波照射によってAからBへ跳び移る現象を考えよう。照射時間を延ばして状態Bへ移る確率を高めていっても、観測を頻繁にしていると原子は状態Aに留まることが多いという。

量子力学には、観測する側が観測される側に影響を及ぼすのではないかという問題提起がある。量子ゼノン効果も、その一つだ。ただ、これはそのまま実生活に当てはめられない。「見ているやかんは沸かない」は、たぶん心理的な効果だ。私たちは、お湯がなかなか沸かなくてイライラした体験ばかりを記憶する。だから、「見ていると沸かない」を法則のように思ってしまうのだ。これは、人間の「待つ」という習性に起因するらしい。

で今週も、先週に続いて『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊、)。エストラゴン、ヴラジーミルという二人組が夕刻、田舎道でひたすらゴドーを待っているという話だ。ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある、と先週は書いた。今週は「待つ」とは何かを考えよう。ゴドーを待つというのは、湯が沸くのを待ったりバスが来るのを待ったりするのと同じなのか。

作品を読んで実感するのは、ゴドーの到来は湯の沸騰やバスの到着と違うことだ。お湯は100℃になれば煮えたぎる。バスは時刻表に沿って運行されていて、渋滞の遅れはあってもほぼ確実にやって来る。ところがゴドーの来着は、はっきりしない。

これは先週も書いたことだが、ゴドーはいつ来るかが不確かだ。待っている場所がここでよいのかも確信がもてない。そもそも、ゴドーから待つように指示されたのか、あるいはゴドーと待ち合わせの約束をしたのかさえ定かではない。なにもかもぼやけている。

私の頭を一瞬よぎったのは、ゴドーとは死のようなものか、ということだ。死は、いつ身に降りかかるかわからない。どんな状況下で起こるかも見通せない。ぼんやりしているところはそっくりだ。ただ、死はいずれ必ずやって来るが、ゴドーは現れるかどうか不明だ。

そして、私たちは――少なくとも私は――死を待ってはいない。いずれは死ぬと覚悟して死を予期することはあっても、それを積極的に望むことはない。「待つ」とは違うのだ。これに対して、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っている。ヴラジーミルが「希望」めいたものをゴドーに頼んだと打ち明けていることからも、そうとわかる。著者自身が訳した『ゴドー…』英語版の題名も“Waiting for Godot”。ゴドーは死ではなさそうだ。

このことからわかるのは、人間は相手が漠としたものであっても待とうとすることだ。この作品でそれが際立つのは、時代背景と関係しているかもしれない。戯曲が刊行されたのは、第2次世界大戦終結の7年後。人々の精神世界には、まだ解放感があった。著者ベケット自身は戦時中、ナチス占領下のフランスでレジスタンス運動にかかわっていたから、なおさらだったに違いない。希望を漠然と待つというのは、いかにも戦後の風景だ。

だが希望めいたものは、おいそれとは手に入らない。そもそも、ヴラジーミルがそれを人に頼んだことに無理がある。ゴドーが即答を避けたのも当然だ。安請け合いしていたら、逆に怪しげな輩ということになる。生半可な返事をしたのもうなずける。

ということで、ゴドーはなかなか現れない。代わりに登場するのが、ポッツォとラッキーの二人連れだ。ポッツォは地主を名乗り、ラッキーを牛馬のように扱っている。この二人がエストラゴンやヴラジーミルと交わす意味不明の会話に私たちはまた、引っかき回される。

意味不明の極みはラッキーの長口舌だ。それは、ポッツォの「考えろ!」のひとことでスイッチが入る。「単調に」とト書きにある。「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時(じ)かか間(かん)と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうが」(太字は本書原文では傍点)……これが延々2ページ半も続く。

ここに至って観客は、この作品では言語がただの音に還元されていることを思い知る。舞台では登場人物が訳のわからないことをしゃべっているが、それを逐語的に追いかけることが馬鹿馬鹿しくなる。意味するものから意味されるものがどんどん離れていく感じだ。

この作品には、反対に脳裏に焼きつく台詞がある。先週の当欄でも引用したエストラゴンとヴラジーミルの言葉の投げ合いだ。エ「もう行こう」、ヴ「だめだよ」、エ「なぜさ?」、ヴ「ゴドーを待つんだ」、エ「ああ、そうか」――同趣旨のやりとりは第一幕、第二幕を通じて繰り返し出てくる。細部が微妙に異なっても、エストラゴンが先を急ごうとするのをヴラジーミルが引きとめ、ゴドーを待たなければならないと戒める構図は変わらない。

ここで、「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」の問答には含蓄がある。一つには、ヴラジーミルがこの場を離れない理由を「ゴドーを待つ」ためと言い切っていることだ。これまでも述べてきたようにゴドーが来るかどうかは曖昧だが、それにもかかわらず決然としている。さらに言えば、第三者のエストラゴンも当事者の決意を当然のことと受け入れている。人間は、当てにならないものでも待とうとするものなのか。

舞台では、第一幕が終わるころ、ゴドーの使用人で「山羊(やぎ)の番」をしているという「男の子」が登場してヴラジーミルに言う。「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」。そして、ゴドー宛てにことづけがないかを尋ねる。ヴラジーミルは、男の子が自分やエストラゴンに「会った」という事実をきちんと伝えるよう頼む。ゴドーとヴラジーミルとの関係性がみてとれる場面だ。

こうして日は暮れ、第一幕は終わる。第二幕は「翌日」の「同じ時間」「同じ場所」だ。登場人物もまったく変わらない。エストラゴンとヴラジーミルに何が起こるかは大体察しがつくだろう。だから、ここには書かない。こうして毎日が過ぎていく――。

翻って今、私たちには漠然と待とうとするゴドー的なものがあるのだろうか。「希望」を「嘆願」するような相手が見つからないということだ。大変な時代だと改めて思う。
* 当欄2023年7月14日付「あのゴドーの『ゴドー』とは誰か
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月21日公開、通算687回
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