物理思考を人の世に生かす方法

今週の書物/
『物理学者のすごい思考法』
橋本幸士著、インターナショナル新書(集英社インターナショナル社)、2021年刊

牛が1頭?

科学を取材してきて、もっとも縁が深かった分野は物理学だ。新聞記者の持ち場は人繰りをどうするかという部内事情で決まることが多いが、それだけではない。記者本人の希望も幾分かは反映される。私が物理学を好んだのは間違いない。それはなぜか。

理由は、いろいろ考えられる。たぶん、学生時代に物理系の学科に所属していたことも影響している。ただ私には、物理になじんでいるから物理を取材するという直線的な動機はなかった。むしろ、その逆だ。物理につまずいたから物理について書きたかったのである。

屈折した心理だ。だが、それなりの理屈はある。私が世界に存在することの根底には物理学がある、という見方は学生時代から変わらない。ただ、その物理学を究めることはだれにでもできることではなさそうだ。だからと言って私たちが物理学に無関心でいたら、宝の持ち腐れではないか。物理知の恩恵に浴する権利は万人にあるはずだ。それに道筋をつけるのが科学記者の仕事だろう――ザクッと言えば、そんな理屈だった。

そう思って物理学の報道に携わってきたわけだが、そのうちに気づいたことがある。「トップクォークが見つかった」「ヒッグス粒子が確認された」「重力波が検知された」……確かに、これらは超一級の発見である。素粒子物理の標準理論が考える通りに粒子の顔ぶれが出揃ったこと、一般相対性理論の予見通りに時空が波打つこと。こうした科学ニュースは、専門外の私たちも知っておいたほうがよい。だが、物理知の恩恵はそんな発見だけなのか。

私が思うに、物理知は物理学の成果だけではない。物理学者の思考様式そのものが知的価値を帯びている。このなかには、社会で共有したいものがある。共有によって、世間の風景は変わるだろう。私たちが科学的になる、とはそういうことではないのか。

当欄はコロナ禍が始まってすぐ、『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)という本をとりあげた()。著者は、素粒子物理の研究経験がある理系作家。この本では「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」と、地上の人間を撞球台の球に見立てて感染禍を考察していた。そこで見えてきたのは、人と人が接触しないことが感染拡大を抑える決め手になるという数理だった。

人を球と見なすことには、個人の個性を無視するという点で抵抗もあるだろう。だが、感染という集団現象を考えるときは、とりあえず個人の事情を無視したほうが事の本質に迫れる。この思考法はいかにも物理学者らしい、と私は思った。実際、新型コロナウイルス感染症に対してはワクチン接種が広まるまで人と人の接触削減がほとんど唯一の対抗策だった。私たちは、自分自身にもビリヤードの球のような一面があることを思い知ったのだ。

で、今週は『物理学者のすごい思考法』(橋本幸士著、インターナショナル新書〈集英社インターナショナル社〉、2021年刊)。著者は1973年生まれ。理論物理学者で素粒子論などを研究している。「大阪育ち」で京都大学出身。バリバリの関西人である。本書はエッセイ47編を収める。これらは、『小説すばる』誌の連載「異次元の視点」(2016~2021年)と筆名D-braneでのブログ「Dブレーンとのたわむれ」(2014年)をもとにしている。

バリバリ関西人の本らしく、本書は関西風の風味にあふれている。たとえば、「ギョーザ」「焼肉屋」「たこ焼き」の話題が次々に出てくること。「ギョーザの定理」という1編は、妻子ともどもギョーザを手づくりする話。著者は、具の量に比べて皮の枚数が足りそうもないとき、3個分の具を2枚の皮で包むUFO型の変種を何個交ぜればよいかを考える。その結果、皮がn枚ほど不足ならUFO型を約n個つくればよい、という定理に至るのだ。

ひとこと言い添えると、この場面で著者は「つるかめ算や!」と喜んでいる。確かに、普通のギョーザとUFO型ギョーザをどういう配分でつくるかは算数の問題集に出てきそうだ。本書には、物理学者が使う数学は算数であると論じた1編もある(「数学は数学ではなかった」)。私の印象でも、物理学者の数学は数学者の数学と違って抽象的ではない。この例でいえば、ギョーザという現実世界を映す数理と言えるだろう。算数に近い。

本書には夫婦漫才の楽しさもある。「ギョーザの定理」「たこ焼き半径の上限と、カブトムシについて」の2編は最後の1行に絶妙のオチがあるのだが、それは著者の妻が発するひとことだ。その機知が、著者の思考が数学に近づくのを算数につなぎとめている。

これは余談だが、関西弁も本書の魅力だ。「緑の散歩道と科学」という1編には、著者夫婦が散歩しながら交わす会話がある。「花がムッチャ綺麗なんは、葉っぱが綺麗ちゃうからやんなぁ」「はぁ? なにゆうてんの? 葉っぱも綺麗やんか」――このやりとりは私のような関東人には難しい。「綺麗ちゃう」は「綺麗と違う」→「綺麗でない」という否定表現なのだが、「綺麗じゃない?」と肯定的に聞きとって意味を取り違えてしまう。

本書で物理流の思考をもっとも鮮明に描きだしていると私が思うのは、「近似病」と題する1編だ。冒頭に、物理学者にとって「近似」は「至福の喜び」とある。では、「近似」とは何か。著者によれば、それはジョークのタネにもされる物理学者らしい物言いに凝縮される。「あそこに牛が見えますね。さあ、牛を球だと考えてみましょう」――牛という存在から、角や耳や尻尾や脚を取り去ってしまおうというのだ。こうして牛は球に近似される。

この思考法については『物理学者はマルがお好き』(ローレンス・クラウス著、青木薫訳、ハヤカワ文庫NF、2004年刊)という本がある。ここでマルは球と言い換えてよい。この本は私もかつてどこかで書評した記憶があるが、機会があれば当欄で再読したい。

『コロナの時代の僕ら』の「ビリヤードの球」も、このマルに通じている。物理流の思考は、物事を球やマルに見立てることで物理世界だけでなく人間社会にも適用できるのだ。

物理学者の近似志向には訳がある。本書によれば、それは物理学の研究に「物事の量を比べる」という工程があるからだ。なにごとであっても、どれほど大きいか、どちらが大きいか、その見当をつけることから始める。これは、物理学の理論が実験の裏づけを求めていることに関係しているらしい。実験を試みるには、調べようとする対象に見合った機材を用意しなければならない。「近似して推測する能力は物理学者に必須」なのだ。

ここで大事なのは推測は「近似」でよいということだ。世間には、物理学者は数値に厳密な人々という通念があるようだが、それは違う。私が取材を通じて得た印象を言えば、細かな数字にはこだわらない人が多い。物事を桁で考えることに長けた人々である。

「物理学者の思考法の奥義」という1編でも、「奥義」の核心に近似が位置づけられている。学会の会場に向かうバスが満員だったときの話らしい。友人が「何人乗っとんねん」と問い、著者が「有効数字1桁で60人」と答える。物理学者がこんな会話を交わす光景を私は見慣れているから、思わず苦笑した。友人と著者の頭にあるのは「バス一台に人間を詰め込んだ場合、何人入るか。有効数字1桁で答えよ」という設問である。

著者は、バスは3m×10m×2mの直方体、人は70kgの水から成る球と定義して、その直方体にこの球が何個収められるか、を計算する。答えは、ザクっと60個。55~64個の幅を見込んだ数字だから「有効数字」は1桁だ。ここでも人間が球に近似されている。

このくだりで私の頭をよぎったのが、最近ソウルで起こった雑踏圧死の惨事だ。ハローウィン直前の週末、繁華街の路地に想像を絶する人々が押し寄せた。気になるのは、その夜の混雑について当局がどんな試算をしていたのか、ということだ。試算によって得たい数字は、その狭隘な空間に「何人入るか」ではない。「何人入れてもよいか」だ。そうなると、近似の仕方にも工夫が要る。たぶん、人を水70kgの球に見立てるのではだめだろう。

もし人を球や円柱で近似するのなら、球や底面の円の半径をどれほどにするかを吟味しなくてはならない。それは、身体の周りに余裕をもたせるほどに大きくなければならない。感染症対策や防犯の観点からも、一定の半径が必要だ。多角的な視点が求められる。

この稿の前段で、物理学者の思考様式には社会で共有したいものがある、と私は書いた。物理知を孤立させるのはもったいないということだ。物理知は物理以外の知と結びついて私たちに恩恵をもたらす。それを促すのも科学ジャーナリズムの役目だろう。

*当欄2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考

(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月11日公開、通算652回
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抒情派が社会派になるとき

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

コンクリート

「戦争を知らない子供たち」(北山修作詞、杉田二郎作曲)という歌が流行ったのは、1971年のことだ。男子が髪を伸ばしてなぜいけないのか、われわれは戦後生まれ、あの戦争を知らない世代なのだ――歌詞には、若者たちのそんな開き直りがあった。

この歌は、若者が「戦争を知らない」ことに引け目を感じていることの裏返しでもあっただろう。少なくとも、私にはそう思われる。戦争は、日本社会にあっては1945年8月15日をもって正当なものから不当なものに変わった。だがそれは、あくまでも建前の話だ。戦前戦中を通り抜けてきた人々の心には往時の思考様式がしっかり組み込まれていた。その意味で、私たちは戦争を知らなくとも戦争の残滓に取り囲まれていた。

私自身の経験を打ち明けよう。私が学んだ公立の小中学校では体罰が日常のことだった。今ならば教育の倫理として×印がつくことは間違いないが、1950~60年代にそんなことはなかった。私たちが慕っていた先生も男子を叱るときは悪びれることなく平手打ちした。不思議な記憶もある。それは、体罰容認派の先生に組合活動に熱心な人が含まれていたことだ。あのころは日本社会に戦争と平和、軍国主義と戦後民主主義が混在していた。

この混在は、小中学生には気にならなかっただろう。だが10代も後半になれば、大人社会の二重基準として許しがたくなった。そう考えれば、1960年代後半に盛りあがった学生運動も理解できる。戦争を知らない世代は戦後社会に巣くう自己矛盾と闘ったのである。

で、当欄は今週も、引きつづき長編小説『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊)を読む。この作品でも、主人公「私」の内面には「戦争を知らない子供たち」の意識がちらつく。たとえば、「私たちが生まれたとき、既に戦争は終わっていた」と切りだされる段落。「私たち」にとって戦争は「雨に濡れた硝子窓の彼方に広がるぼんやりとした情景」だった、とある。それは「浪漫的」で、男たちが「手柄話」として語ったりするものだった。

続く段落で、「私たち」には――たぶん、主人公のみならず著者や私にも――「決定的な体験が欠けているとの卑小感、劣等感」があるという。「予め去勢されていた」との自覚もある。このことは、作品を貫く視点として押さえておくべきだろう。

さて、この作品のもう一人の主役は、明治の歌人石川啄木(1986~1912)だ。そこでは、啄木が抒情派として詩壇に登場しながら、最晩年は1910~11年の大逆事件に衝撃を受けて左派思想に傾倒したことが史料に沿って描かれる。ただ、本書は近代日本文学史の再検証ではない。啄木に内在する「抒情詩人としての彼」と「無政府主義者、社会主義者としての彼」の対立を参照しながら、1970年代を生きる若者の姿を浮かびあがらせている。

当欄は今回も啄木には深入りしない。啄木像に重なる1970年代の若者像に焦点を絞る。

では、この作品の主人公にとって「大逆事件」に相当するものは何か? 唐突だが、それは「コンクリート」であるように私には思われる。主人公の「私」は郷里の北海道へ向かう途中、上野発の夜行列車を盛岡で降り、啄木ゆかりの渋民村(現在は盛岡市に編入)までバスに乗る。車窓には切り通しの崖が見えるのだが、「私」はその地肌を見て寒気に襲われた。赤茶けて見えるのは、土ではなくコンクリートだった。なぜ、「肌寒い」のか。

「私」は東京で集団就職先の町工場を追われ、帰郷の途につくまで工事現場で働いていた。そのなかには、崖をコンクリートで覆う現場もあった。パイプの埋設を受けもっていたが、1回だけ、セメントや砂利を吹きつける作業を志願したことがある。銃器のような機械の操作は苛酷で「腕はがくがくになり、意識は徐々に混濁していった」。事なきを得たのは、同僚が機械を止めてくれたからだ。車窓の光景に、その記憶が蘇ったのである。

特筆すべきは、このバス車中での回想で、著者が主人公の内面を借り、実に6ページにもわたってコンクリート論、アスファルト論を展開していることだ。主人公は思う――。日本社会は、あたかも「非国民を摘発する」ように「どんなに細い道も見つけ次第アスファルトで塗り潰し、どんな瑣細な亀裂も赤茶けたコンクリートで塗り固めずにはすますことができなかった」。それは「土に対する恐怖」「風景に対する敵意」の表れのようだという。

このくだりを読んで思いだしたのが、当欄前回で触れた馬橇だ(*1)。主人公の小学生時代、U市には「馬糞風」が吹いた。春になると馬糞が雪の下から顔を出し、カサカサに乾いて風に舞う。そこに見えるのは、コンクリートの対極にある泥臭い世界だ。

考えてみれば主人公や著者や私は、津々浦々の道という道が次々に舗装されていく様子を自らの目で見てきた世代だ。それは、高度経済成長による都市化や自動車文明の投影にほかならなかった。列島改造を象徴するものは新幹線や高速道路の建設だったかもしれないが、このとき同時に列島全土の泥道の多くがアスファルトに覆い尽くされたことも忘れてはならない。著者の繊細な感性は、そのことを見過ごせなかった。

この作品ではもう1カ所、コンクリートという言葉が頻出する場面がある。

建設工事の飯場で主人公の「私」は、小学校時代からの親友卓也に偶然再会する。卓也は新米の作業員だった。東京の大学に進んだが、今は休学中だという。その彼が、昼休みの雑談で始めたのがコンクリート談議だ。コンクリートは「固く充実している」。だが、それは「現実だろうか」と問いかける。卓也によれば「現実ではない」。コンクリートでつくったものはかつて「存在しなかった」。いずれは「また存在しなくなってしまうだろう」。

卓也は、街歩きをしているときの心模様を語る。両側に聳える高層ビルが崩れ、足もとの路面に亀裂が走る――それは「夢」のようだが「夢」と言い切れない。都市は「高速度撮影で捉えた世界の崩壊の、ほんの一齣(ひとこま)」ではないだろうか。

卓也の話はしだいに過激になる。唯一の「現実」は「爆弾」だ、と言ったりもする。「だってコンクリートを粉々に砕いちまうんだからな」。これには「私」も、コンクリートの破壊がなぜ「現実」なのか、と問い返す。卓也の答えは、ビルをじっと見ていれば、それをかたちづくる線も面も立体も消えていく、というものだった。私たちはコンクリートの建造物が「永久に」「在りつづける」と思い込まされているだけ、と結論づけるのだ。

「私」は、その爆弾について「譬え話なんだろ」と聞いてみる。「いや、譬えじゃない」と卓也は言い返す。当時は過激派の動きが活発だったから、政治的な理由があるのだろうか。「私」にはそうは思えない。卓也の爆弾論に「理窟」がないからだ。「爆破しようとする意思」しか見てとれない。すなわち、爆弾は「純粋な表現」であり、「抒情」なのではないか。「私」は、「理窟の空白」を「暴力で埋める」という発想に違和感を拭えなかった。

こう読んでくると、この作品を解くキーワードは「コンクリート」にほかならないと確信する。それは直接的には、列島改造を後押しした高度経済成長を象徴している。だが、その奥には「管理社会」という化けものが潜んでいる。作中では、自分が「出自」「家庭の経済力」「学歴」「職場」などによって測られ、自分で自分を意味づけることができない社会を指している。卓也も「私」も、それを拒絶しようとしてできずにいるのだ。

抒情派だった啄木が大逆事件の顛末を見て、社会主義者を自認するようになったのと同様、外岡秀俊はコンクリートの塊に囲まれて息苦しい時代の到来を感じとり、青春小説の作家から社会派の新聞記者に転身したのではないか。そんな気がしてならない。

私は今回、北海道札幌への旅でこの『北帰行』文庫版を携えた。仕事があっての札幌滞在だったが、日程の合間に著者外岡の母校、札幌南高校周辺を歩いた(*2)。それは、直線の道路と中低層のビルが公園の樹木や街路樹の葉の色づきに彩られる街だった。コンクリートには不思議と圧迫感がない。この作品の主人公も札幌を「無性格」で「透明な光」に満ち、そこには「拍子抜けがするような質の健やかさ」がある、と評している。

外岡がこの街にずっといて東京に出てこなければ、コンクリートに管理社会を見ることはなく、新聞記者になることもなかった?――私はふと、そんな「もしも(if)」を思った。

*1 当欄2022年10月28日付「北行きの飛行機で『北帰行』を読む
*2 周辺の地理情報については、外岡秀俊さんの学友でもある札幌在住の作家澤田展人さんのご教示を受けました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月4日公開、通算651回
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北行きの飛行機で「北帰行」を読む

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

北へ

機体がふわりと浮かびあがり、秋空のど真ん中へ飛び込んでいく。某日午前、東京羽田発札幌千歳行きの航空便が離陸すると、私はポケットから文庫本をとりだした。『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年刊)である。今回、旅の道づれはこの本と決めていた。

外岡秀俊(1953~2021)は、勤め先の朝日新聞社で私と同期だった。卓抜な記者だっただけではない。言動に品位が漂い、社内外の敬愛を集めていた。だから、一線記者の立場から中間管理職を飛び越えて編集局長の任に就いた。その後、早期退職して故郷札幌に戻り、母親の介護を引き受ける。そんな見事な半生が去年暮れ、突然途絶した。心不全だった。私が北に旅するとき、この本を手にした心情もわかっていただけるだろう。(文中敬称略)

当欄は今年、外岡のことを繰り返し書いてきた。2月と3月には『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書)を2回に分けてとりあげた(12)。4月と5月には『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)に収められた著者の記事を紹介した(34)。今回、もう一度話題にしたら過剰感は否めない。だが、どうしてもそうしたい。それは、こういうことだ――。

『3・11…』『世界 名画の旅…』で私が注目したのは、外岡の新聞記者としての一面だった。前者は東日本大震災被災地からの報告、後者は欧州の絵画紀行。どちらにも、同業の身として心に響く話が盛り込まれていた。もちろん、彼は私にとってまぶしい記者だが、それでも共有するものはある。ひとことで言えば、同じ時代を取材者の立場で駆け抜けてきたという思いである。私は今年、当欄で4回を費やしてその共感に浸ったのである。

だが、それだけでは外岡の一面しか見ていない。彼は1977年に新聞記者になる以前から、すでに作家だった。前年、今回とりあげる長編小説『北帰行』で文藝賞を受けていたのだ(「文藝」1976年12月号に発表)。ただその後、記者の仕事に忙殺され、創作活動をほとんど休止している。人間外岡秀俊の内部では記者としてのエンジンが全開したが、この間、作家としての衝動はどこでどうなっていたのか。旧友としてはそれが知りたい。

ということで、今回は『北帰行』を熟読する。この小説は、北海道の炭鉱町U市から集団就職で東京に出た「私」が、流血沙汰を起こして町工場をやめさせられ、職を転々としたあげく帰郷を決心、歌人石川啄木の足跡に思いを馳せながら北へ北へと向かう物語だ。そこに、「私」の内面を去来する自身の回想や啄木の史実が織り込まれている。当欄は、例によって筋はたどらない。「私」の視点がどこにあったかに注目しようと思う。

まずは、時代背景を押さえておこう。今昔の隔絶を印象づけるものの一つは馬橇(ばそり)だ。「私」が小学生のころは馬が雪道で橇を引く様子が校舎の窓からも見えた。手綱を引き、馬を叱咤する馭者の源さん、その源さんを「私」と親友の卓也に引きあわせてくれた図工教師びっくりさん、そして源さんの小屋で見せてもらった仔馬。卓也と「私」は、その仔馬をジルゴという愛称で呼んだ。ジルゴをめぐる「私」の思い出は作品の随所で蘇る。

もう一つ、時代を特徴づけるのはテレビだ。「日一日と、屋根に林立するアンテナの数が増えていく」変化を「私」は10歳のころに現認した。「何か得体の知れないものがひたひたとU市に打ち寄せてくる」ように感じたという。人々の暮らしに家電製品やクルマが入り込み、町では道路工事やビル建設が進んだ。「私」の町では、そんな高度経済成長の起点が馬橇の行き交う光景だったのだ。飛躍の幅は大都会よりもはるかに大きかった。

ただ、炭鉱町の人々は高度成長の恩恵を受けたとは言い難い。いやむしろ、その犠牲者だったとも言えるだろう。石炭業界は1950年代後半から石油に市場を奪われ、廃山や閉山、規模縮小を余儀なくされていた。U市の炭鉱も、政府から「合理化」をせっつかれていた。この作品では、「私」が通う中学校に由紀という少女が東京から転校してくるのだが、彼女の父親も会社から「合理化」狙いで送り込まれた鉱山技師らしかった。

この作品で、私がもっとも心を動かされたのは、炭鉱事故に震撼するU市を描いたくだりだ。「けたたましいサイレンの唸りが鳴り響いたのは、寒空に初雪が舞う冬の昼下がりのことだった」。このとき、「私」は中学校で数学の授業中。教師が幾何図形を板書する手をとめた。チョークが「ぼきんと折れて粉を散らした」。炭鉱町で、「コヨーテの遠吠え」のようなサイレンは不吉な報せだ。その音を聞いて、校内がざわめきはじめる。

まもなく、校内放送が流れる。三番坑で落盤があったという。「皆のお父さんがいるかもしれん。兄さんが居るかもしれん」……。「私」も、父親は炭鉱で働いている。学校を出て、坑口へ直行した。そこはもう人々が大勢群がり、殺気立っている。救急車が次々に駆けつける。毛布や握り飯も運び込まれる。坑内には二十数人が取り残されているらしい。「お父ちゃんが中に入ってんだよ」。そんな悲鳴が聞こえる。「私」の父は坑口のそばにいた。

坑口を封じなければ大爆発が起こる、というのが会社の判断だった。これに対して、封鎖すれば坑内の家族や仲間が「生殺し」にされる、というのが群衆の声だ。両者の間で、「私」の父は保安長という微妙な立場にあった。「坑夫」でありながら、会社側に立たされる役回り。父は「裏切り者」と指弾されると、自身を含む有志11人で救助隊をつくり、坑内へ突入する。結果として、そのことで事故の犠牲者が11人追加されることになった。

一方に資本家や経営者がいる。他方に労働者たちがいる。その狭間で、中間管理層が板挟みになっている。考えてみれば1960~70年代は、こういう構図で社会を読み解くことができる時代だった。著者は郷里北海道の炭鉱町に、その雛形を見いだしたのだろう。

2020年代の今は、これほどには単純でない。社会問題を階級の構図だけでとらえきれなくなった。貧しさは労働者階級にとどまらず、社会の隅々に浸潤している。経済だけで論じ切れない難題も顕在化した。その一つに、誰から先に助けるかというトリアージの問題がある。ある人を救うのに別の人を見捨ててもよいか、というトロッコ問題もある。そんな究極の選択が現代社会では避けられないとの認識を、著者は1970年代に先取りしていた。

その意味で、この作品は著者が新聞記者となることの予兆だった。今、記者外岡秀俊が遺した仕事を顧みるとき、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の取材は欠かせない。両震災で浮かびあがった今日的な難題に、こうした究極の選択があった。

記者活動の予兆といえば、このくだりで著者が報道のあり方に目を向けていることも見逃せない。報道陣は、「坑夫」の家族や仲間が待機する小学校に押し寄せてきた。「フラッシュを焚いたりテレビ・カメラを回したりするのを、私は苛立ちながら見詰めていた」。このとき、もっとも罪深いのは「不躾な質問」ではなかった。それよりも「同情の大袈裟な身振りをそのままなぞるような言葉」が「深く人々の腹に食い込んだ」と書いている。

著者や私が新聞記者になったころは、報道機関に対する風当たりが今ほどには強くなかった。事件事故の関係者を追いかけて取り囲む、という報道攻勢は今ではメディアスクラムと呼ばれて批判の的だが、当時はふつうにあった。自省を込めていえば私も、そしておそらくは著者も、若手のころは一線の記者としてその片棒を担いだのだ。著者は、やがては自身が背負わされるかもしれないそんな負の重荷を予感していたのだろうか。

本稿前段で書いたように私は、新聞記者外岡が30年余の記者生活を通じて作家外岡をどのように抱え込んでいたかを知りたかった。だが、炭鉱事故のくだりを読んでいると、彼の内面では作家としての視点が記者としての視点と重なりあい、新聞記事に影響を与えていたように思えてきた。人間に関心を寄せる文学者としての側面が、社会に目を凝らす報道人としての側面と共鳴している。その徴候が『北帰行』にすでに見てとれるのだ。

当欄はもう1回この作品をとりあげ、文学と報道とのかかわりを見ていこうと思う。

*1 当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2 当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
*4 当欄2022年5月6日付「ウィーンでミューズは恋をした
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月28日公開、通算650回
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「女」「男」という言葉

今週の書物/
『女のいない男たち』
村上春樹著、文春文庫、2016年刊

性別記号

テレビのニュースを見ていて最近気になるのは、「女」「男」に非難がましい語感が伴うようになったことだ。これらの言葉が「容疑者の女」「容疑者の男」として登場する。それが凶悪犯ならば違和感はない。だが、過失犯や形式犯についても「女を取り調べた」「男を逮捕した」と報じるのはどうだろうか。こうした立場に身を置くことは私たちのだれにもありうることだ。その轍を踏んだ瞬間、私たちも「女」や「男」になってしまう。

私が現役の新聞記者だったころは、こういう表現はなかった。記事で見かけるのは「容疑者の女性」「容疑者の男性」であり、「女性を取り調べた」「男性を逮捕した」だった。なぜ「女性」→「女」、「男性」→「男」の変化が起こったのか。私が察するに、背景には厳罰主義の風潮がある。「女性」「男性」は「女」「男」よりも丁寧で、敬意を払っているように感じられる。容疑者にはふさわしくない、とメディアが考えるようになったのだろう。

もともと、「女」「男」という言葉は公的な文書からは遠ざけられていた。おそらく、「女」「男」は「おんな」「おとこ」という大和言葉の響きが肉感的なせいで不適とされたのである。だから「女性」「男性」が重宝されてきたわけだが、こちらも最適とは言えない。「性」の一文字が付きまとっているため、不穏な気配を拭えないのだ。そこで近年よく見かけるようになったのが「女子」「男子」だ。「女子会」しかり、「男子スイーツ部」しかり。

いずれにしても性別の表現は問題含みではある。たとえば、かつてテレビドラマの題名に「女検事」「女監察医」があったが、「男検事」「男監察医」と銘打った作品は聞いたことがない。背景には、検事や監察医は男性の仕事という役割固定の通念があった。今は「看護婦」が「看護師」となり、「主婦」や「消防夫」がほとんど死語と化したように、「女」「男」「婦」「夫」などの性別漢字は職業名や役割名から追放される傾向にある。

ただ、「女」「男」が容疑者専用になりかねない傾向は私たちの言語世界をやせ細らせていないか。人生には、この2語を抜きにして語れない側面がある。むかし「男と女」(クロード・ルルーシュ監督)というフランス映画があった。ノルマンディー地方の曇り空が印象に残る。小説の世界でも『地方紙を買う女』(松本清張)、『宙ぶらりんの男』(ソール・ベロー)、『砂の女』『箱男』(安部公房)……数限りない「女」や「男」が登場する。

で、今週の1冊は短編小説集『女のいない男たち』(村上春樹著、文春文庫、2016年刊)。2013~2014年、「文藝春秋」「MONKEY」両誌に発表された作品群に書き下ろしの表題作を加えた全6編から成る。単行本は2014年に文藝春秋社刊。所収の「ドライブ・マイ・カー」は2021年に濱口竜介監督のメガホンで映画化され、今年のアカデミー賞で国際長編映画賞を受けた。作品賞にも日本映画として初めてノミネートされている。

「ドライブ・マイ・カー」の主人公は、妻をがんで失った「性格俳優」。妻は「正統的な美人女優」だった。夫は結婚してからは一度も不倫をしたことがなかったが、妻は「時折、彼以外の男と寝ていた」。相手は、少なくとも4人。夫は、うち一人と友だちづきあいを始める。自分は二人の関係を知っているが、自分が知っていることを男は知らない。妻がなぜ「その男と寝ることになったのか」、それを突きとめたくてあえて近づいたのだ。

この小説のなかで、その打ち明け話は俳優が雇い人の運転手に語るかたちをとっている。運転手は20代半ばの女性で、口ぶりは「ぶっきらぼう」だがシフト操作は「滑らか」。彼女は俳優に、それで妻の不倫の理由がわかったのか、と尋ねる。俳優は首を横に振る。男にあって自分にないものはいくつか見つかった。だが、そのどれが妻の心を惹きつけたかは不明だ。「男と女が関わり合うというのは、なんていうか、もっと全体的な問題なんだ」

「独立器官」という一編は、いわゆるプレーボーイを描いた作品。主人公は美容外科医52歳である。自分は結婚には不向きと信じて独身を貫いている。交際相手は夫や恋人のいる女性ばかりで、「ナンバー2の恋人」「雨天用ボーイフレンド」に徹してきた。その生き方は「内的な屈折や屈託」がほとんどない分、「技巧的」。同時並行で2~3人の女性とつきあうのはふつうのことで、逢瀬の日程は秘書の青年が「空港の管制官」のようにやりくりした。

この一編の読みどころは、そのプレーボーイがあるとき、一人の女性に心を奪われてしまうことだ。小説では「恋」の顛末をくだんの秘書が見ていて、一部始終を「僕」に事後報告してくれる。当欄はこれ以上書かないが、おおよそ察しはつくだろう。

「シェラザード」は、半ば非現実の世界を描いた村上ワールドの作品だ。主人公の男31歳の相手となる女35歳は「一度性交するたびに」「ひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた」。それで男は女を『千夜一夜物語』の王妃になぞらえ、内心でこう呼んでいる。

非現実と言いたくなる世界は、こんなふうだ――。男は「ハウス」に缶詰めになっている。コロナ禍の今なら宿泊療養の感染者かもしれないが、2014年の作品にそれはありえない。官憲による身柄拘束とも考えにくい。なにがしかの組織が男の自由を束縛しているらしい。そこに買い物袋ひとかかえをもって定期的にやってくるのが、シェラザードである。車で約20分の距離に住む「専業主婦」で、性行為も「職務」の1項目に入っているらしい。

シェラザードが語る話は「私の前世はやつめうなぎだったの」というように荒唐無稽だ。「口が吸盤みたい」で「河や湖の底の石にくっついて、逆さになってゆらゆらと揺れているの」。ただ、そんな妄想ばかりではなかった。あるとき、高校時代に「空き巣」を繰り返していたことを打ち明ける……。彼女の性行為に占める「職務」と「個人的な領域」の配分はわからない。ただ、物語が切実になるにつれてその比率が変わっていくようではある。

「イエスタデイ」という作品は、若い男女の物語。「僕」は兵庫県芦屋出身の20歳で、東京の大学に通っている。「僕」の友人は同い年の浪人生。こちらは生まれも育ちも東京・田園調布だが、しゃべりはすべて関西弁。「後天的に学んだんや」「動詞やら、名詞やら、アクセントやらを覚えてな」。ビートルズの「イエスタデイ」も関西弁の詞をつけて歌う。「僕」は「ほぼ完璧な標準語(東京の言葉)」を話すので、そのやりとりがおかしい。

友人には、子どものころからの女友だちがいた。「手は握り合う。軽いキスはする。でもそれ以上には進まない」という関係にある。理由は、二人の現況の違いだ。友人は2浪の身だが、彼女は大学2年生。「それでおれは、言うなれば自己を二つに切り裂かれたわけや」。一方には、自分はおいてけぼりにされたという焦燥感。もう一方には、二人が「仲良しのカップル」として「お気楽」に生きるコースをとらないで済んだという解放感。

友人は「僕」に耳を疑う話をもちかける。「おれの彼女とつきおうてみる気はないか?」。彼女は「ええ子」、「美人」で「素直」で「頭もけっこうええ」と売り込む。倒錯した提案だ。ここからが小説の読みどころなので、筋は明かさない。ただ、ひとつだけ開示すると、後段で16年後の話が出てくる。それを読むと、男にとっては女が、女にとっては男が、人生を切り裂いてそのうちの一つに進ませる存在なのだな、とつくづく思う。

「木野」と題する作品は、「木野」というバーを営む木野という男の話。木野はスポーツ用品会社の営業マンだったが、あるとき会社を辞めて店を開いた。出張から予定よりも早く帰った日、会社の同僚と自分の妻との情事を目撃したのが脱サラの転機となった。店でのあれこれはしだいに現実感が薄らいで、幻想の気配が漂う。読み進むにつれて、バー「木野」そのものが女に裏切られた男の想念に過ぎないのではないか、とも思われてくる。

短編集の最後に収められた作品は表題作。作品冒頭は「僕」にかかってきた深夜1時すぎの電話だ。「妻は先週の水曜日に自殺をしました」。受話器の向こうで、そう告げたのは彼女の夫。電報文のような「純粋な告知」「修飾のない事実」だった。その妻――作中では「エム」と仮称される――と「僕」は「ずいぶん昔」に「つきあっていた」。夫は「僕」の電話番号をどこかから入手したらしいが、なぜ、そんな連絡をしてきたのかは見当がつかない。

「僕」はエムを回想する。ただ、彼女とどう出会ってどんなことをしたかは「面倒なことがある」ので語れない、という。代わりに空想されるのは中学校の教室だ。生物の時間、アンモナイトやシーラカンスの話を並んで聞いたという虚構の思い出とともに……。エムは本来、14歳の時点で「恋に落ちるべき女性」だったのだ、と「僕」は思う(太字部分に傍点)。エムの死によって「十四歳のときの僕自身」も失われていくようだ。

この短編集で「女」は、先立った人、去った人、裏切った人として登場する。「女」たちは先立った後も、去った後も、裏切った後も「男」たちの内側に存在する。ここでも対称性は成り立つのか。「男のいない女たち」という作品群も、ちょっと読んでみたい気がする。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月21日公開、通算649回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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