チャペックの疫病禍を冷静に読む

今週の書物/
『白い病』
カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊

白いマスク

去年、コロナ禍の前途が見通せなかったころ、私の本漁りは混乱した。世を覆う暗雲は無視できない。その一方で、生々しい話からは目をそらしたい気分もあった。たとえば、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房、2020年4月刊)は、その緊迫感ゆえに当欄で直ちにとりあげたが(2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)、買い込んだままページを開くのをためらっていた本もある。

戯曲『白い病』(カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊)は、その一つだ。著者(1890~1938)はチェコ生まれの作家。代表作「R・U・R」はロボットという新語を生みだした戯曲で、AI(人工知能)時代の到来も予感させる。

チャペックと言えば、私はその著書『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(飯島周編訳、平凡社ライブラリー)を話題にしたことがある(「本読み by chance」2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。それは、排他的な移民政策をとる権力者が米国に現れる未来を予測していた。そして実際、この拙稿公開から1年後、国境を壁で閉ざす政策を掲げたドナルド・トランプ氏が米国大統領に就任したのである。

大した予言力だ。それは、チャペックがもともと新聞記者だったことに由来するのかもしれない。作品の主題は、個人の心の襞や愛憎ではない。ジャーナリストの鑑識眼で社会を読み解き、それにいくつかの仮定を施して次の時代を見通す。さながら、コンピューターを用いた数値実験のようなものだ。その作家が、この戯曲では疫病禍をとりあげている。私たちが直面するコロナ禍の先行きが暴かれているようで、ちょっと怖いではないか。

さて、そんなふうに怖気づいてから半年ほどが過ぎた。今も、コロナ禍は深刻なままだ。特効薬がない、病床確保が十分ではない、という状況は変わらない。ワクチン接種が始まったことだけが明るい材料だが、半面、ウイルスの変異株が次々に現れて心配な雲行きだ。一つだけ明言できるのは、あとしばらくは――たぶん、それは年単位の話だろう――ウイルスとワクチンの攻防が続くということ。そんな全体像だけは認識できるようになった。

ならばきっと、半年前よりもこの作品を冷静に吟味できるだろう。そもそも、ここに描かれる「白い病」は架空の疫病だ。しかも、作品が発表されたのは1世紀前の1937年。DNAの立体構造発見(1953年)よりもずっと前のことだから、感染の有無を遺伝子レベルで調べるPCR検査はなく、蔓延の様子を正しく把握することも至難の業だった。病原体の正体はわからず、伝播経路も追跡できない。とりあえず、今のコロナ禍とは別の話だ。

さっそく、戯曲の中身に入ろう。この作品で、著者は疫病流行時の世相を模式化して描いている。それは、いわば社会の縮図だ。登場人物には、最高権力者と思しき元帥がいる。爵位を有する軍需産業の経営者もいる。二人一組で産軍複合体の象徴か。医学界には、大物の大学病院教授。この人は、国の「枢密顧問官」でもある。新聞記者も出てくる。中流家庭の家族も顔を出す。そして陰の主役が、変わり者扱いされる医師ガレーン博士だ。

まずは、この病の素描から。教授は記者の取材に答える。「皮膚に小さな白い斑点ができるが、大理石のように冷たく、患部の感覚は麻痺している」。罹患の徴候は「大理石のような白斑(マクラ・マルモレア)」だが、皮膚病ではない。「純粋に体内の病」であり、数カ月後に敗血症で亡くなる人が多いという。治療は「適量の鎮静剤を処方すること」。対症療法しかないということだ。教授は、この現実を記者にはわからない用語を使って言う。

教授によれば、この疫病は「白い病」と呼ばれているが、正式名称は症例報告者の名に因んで「チェン氏病」。初症例が見つかったのは「ペイピン」の病院だという。ペイピンが「北平」なら北京の旧称だ。教授は、中国では「興味深い新しい病気」が「毎年のように」出現していると言い添える。黄禍論の影響も感じとれる。だが一方で「貧困がその一因」との認識も示しているから、作者の帝国主義批判の表出と読めないこともない。

チェン氏病は、すでに世界的な大流行、即ち「パンデミック」の様相を呈している。500万人超が亡くなり、患者数は1200万人にのぼる。世界人口が今の3分の1のころだから単純には比較できないが、死者数が数百万人規模である点は今回のコロナ禍と共通する。

さらに注目したいのは、教授が「白い病」のパンデミックが見かけより大きいとみていることだ。報告された患者数の3倍以上の人々が「斑点ができているのを知らずに世界中を駆けずり回っている」――と教授は指摘する。斑点は無感覚だから感染に気づかない、多くの人は知らないうちに感染拡大に手を貸している、ということだ。これは、コロナ禍で無症状の感染者がウイルスの伝播に一役買っている現状を連想させる。

このことは疑心暗鬼も呼び起こす。それは、教授が自室でひとりになったとき、ふと漏らす独り言からもうかがわれる。ト書きに「立ち上がって、鏡の前に立ち、注意深く顔を眺める」とあり、「いや、ないな。まだ、出てはいないな」とつぶやく。教授は新聞記者に対しては、医学の権威としてチェン氏病の蔓延を客観的に論じていた。だが内心を覗けば、自分自身も感染しているかもしれない、という疑念を拭い去れないでいたのだ。

もう一つギクッとするのは、「白い病」が年齢限定であることだ。教授は、感染が45歳、あるいは50歳以上に限られるとして、人体の経年変化「いわゆる老化」がこの疫病に有利な条件もたらすという見解を披瀝する。今回の新型コロナウイルス感染症には、罹患年齢にはっきりした区切りはない。だが、高齢者が重症になりやすいという傾向は早くから言われてきた。著者は、疫病禍が老若の断絶を明るみに出すことも見通していたのである。

この戯曲では、一家団欒の会話にもこの軋轢がもちだされる。父が「五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない」と不満を漏らすと、娘は辛辣に応じる。「若い世代に場所を譲るためでしょ」。息子も、この世代交代論に乗ってくる。国家試験のために受験勉強中の身だが、先がつかえていれば合格しても職がないというのだ。「でも、もうすこし長生きしてほしいけど」と言い添えているから、半ば軽口ではあるのだが……。

病気そのものの話は、このあたりで打ち切る。さて、ガレーン博士とは何者か? 大学病院で教授と面談する場面では、自分は地域医療の医師で、「とくに、貧しい方の診療をしています」と自己紹介している。その実践のなかで「白い病」の治療法を見いだしたという。数百人に施したところ、回復率は「六割ほど」。そこで、臨床試験を大学病院で試みたいと願い出る。教授は上から目線で聞き流していたが、興味がないわけでもなさそうだ。

ガレーンには強みがあった。彼はかつて、教授の義父の助手だったのだ。義父は医学界に君臨した人物。その有能な弟子だったらしい。そうと知って教授も嘆願を受け入れる。とりあえず、治療費が払えない患者が集まる13号室での治験を許すのだ。

実際、その治療効果は目を見張るものだった。元帥は「奇跡と言ってよい」とほめる。教授は当初、ガレーンが治療の詳細を明かさないことに怒り、「君は、自分の治療法を個人的な収入源と捉えている」となじっていたが、元帥の称賛には「身に余る光栄」と悦に入る。

この戯曲で最大の読みどころは、そのガレーンのたった一人の闘いだ。ネタばらしになるので、筋は追わない。ただ一つ言いたいのは、彼が「白い病」の治療法――その正体は「マスタードみたいな黄色い液体」の注射薬らしい――の独占を企む動機が、物欲でも栄誉欲でもないことだ。最終目的は悪事ではない。それどころか、善意に満ちている。ただ、善のために医療行為を駆け引きのカードにしてよいか、と問われれば議論は分かれるだろう。

これを読んで私は、コロナ禍の行方が今、ワクチンに左右されている現実を思う。ワクチンが巨大な知的財産であること、外交の切り札になること、今や安全保障の必須要件でもあること……そんな力学が際立つ時代の到来を、チャペックの『白い病』は暗示していた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月9日公開、同日更新、通算582回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

立花隆の宇宙は夢とロマンじゃない

今週の書物/
「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出)
=『文明の逆説――危機の時代の人間研究』(立花隆著、講談社文庫、1984年刊)所収

宇宙から見た地球(NASA画像)

もう、ふた昔も前に『サイアス』という雑誌があった。1996年秋に創刊された隔週刊の科学誌だ。朝日新聞社が出していた月刊『科学朝日』の改名後継誌。残念なことだが、やがて月刊に戻り、世紀末の2000年に「休刊」という名の店じまいとなった。

『サイアス』創刊号(1996年10月18日付)で表紙を飾ったのが、先日訃報が伝えられた希代のジャーナリスト、立花隆さんの顔の大写しである。その余白を埋めるように誌名『SCIaS』のロゴがあり、「連載/立花隆/100億年の旅」(/は改行)という大見出しもあった。見出しで大書されているのは連載名「100億年の旅」ではなく、筆者「立花隆」のほうだ。出版市場で、この人の集客力がどれほど強かったかがみてとれる。

創刊の半年前、私は新聞社内の異動で出版局へ移り、まもなく『サイアス』編集部の副編集長になった。副編の仕事は、編集長のもとで誌面を企画したり、寄稿者や記者の原稿を整えたりすることだ。副編は二人いたが、立花連載の担当は私になった。私は創刊の準備段階からかかわり、編集者となる部員とともに立花事務所をよく訪ねたものだ。それは「猫ビル」と愛称される建物で、階ごとに別分野の書物を詰め込んだ知の要塞だった。

「100億年の旅」は、立花さんが理系の研究室を訪れ、研究者に長時間のインタビューをして記事にまとめるというものだった。人工知能、ロボット、仮想現実感……当時はまだ目新しくもあった領域に分け入り、突っ込んだ質問をたたみかける。取材は、知的好奇心の赴くまま盛りあがったようだ。私が深夜、編集部で仕事をしていると、取材に付き添う部員から電話がかかり、「まだ続いています」とあきれ気味の報告を受けることもあった。

やがて、立花さんから原稿が届く。私はそれを副編として読むのだから、誤字脱字がないか、事実誤認がないか、中見出しをどうするか、など実務に気をとられた。いま思うと、立花流の科学筆法を第一読者としてもっと味わえばよかったな、という悔いがある。

立花流の特徴は、工学系の研究者を取材したときに際立つ。工学研究は、たいてい実社会に直結している。その成果は経済活動と密接不可分で、ベンチャービジネスを生みだしたり、知的財産権に実を結んだりする。だが、立花さんの主たる関心は、そこにはなかった。理学系の研究、たとえば素粒子物理に興味を抱くのと同じように、工学研究に魅せられていたように思えるのだ。ロボット工学ならば、ロボットを通じて人間を知るというように。

で、今週の書物は「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出、『文明の逆説――危機の時代の人間研究』=立花隆著、講談社文庫、1984年刊=所収)という論考だ。著者は1940年生まれだから、これは30代になりたてのころに書かれた。出世作「田中角栄研究」(1974年)が世に出るより3年前のことである。『文明の逆説』は、今回の一編を含む初期の論考を1冊にまとめたもので、単行本は1976年に講談社から出ている。

本題に入る前に、この本の冒頭に収められた「文明の逆説――序論と解題」に触れておこう。そこでは、自身がルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに惹かれて論理学や現代数学に誘われ、科学哲学や言語哲学にも関心をもつに至ったことを打ち明けている。ローマ帝国史など史学の蘊蓄も披露している。衒学的なのは若さ故か。ただ、著者が田中角栄を書くときも、先端研究を論ずるときも、脳裏にこんな知的背景があったことは心にとめておきたい。

論考「宇宙船『地球号』…」は、地球を宇宙船に見立てる論法が「思想的流行」として席巻中、という話から切りだされる。「流行」の理由には、執筆の前々年、米国のアポロ宇宙船が人類を月に送り込んだということがあった。だが、それだけではない、と私は思う。

たとえば、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)。邦題にある「宇宙船地球号」は“Spaceship Earth”の直訳であり、原著の刊行は1969年。この本を読むと、1970年前後は人類が資源乱費の愚に気づく転換点だったことがわかる(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)。当時「地球号」という言葉には、そんな危機感が凝縮されていた。

立花論考「宇宙船『地球号』…」も、同様の危機感に根ざしている。だから、著者が宇宙を好きだとしても、それは、メディアが宇宙の話題をとりあげる場面で用いる常套句「夢とロマン」とはもっとも遠いところにある。これは、強調しておきたいことだ。

この論考で、著者は「宇宙空間は死の空間である」という。私たちが、地球の外に「裸のまま」で放置されたとしよう。そこには、紫外線が降り注いでいる。太陽風など高エネルギー粒子が吹きつけ、隕石や宇宙塵も高速で飛んでくる。もちろん、息を吸いたくても空気がない。新陳代謝に欠かせない物質もない。細かなことを言えば、太陽の方角を向けば焦熱、振り返れば極寒という極端な温度差もある。とても生きてはいけないのだ。

では、私たちはなぜ、地球ならば生きていけるのだろうか? 紫外線を大量に浴びずにいられるのは、上空にオゾン層があるからだ。太陽風の直撃を受けずに済むのは、地磁気が防御壁になっているからだ……。このように著者は、地球が私たちに与えてくれる恩恵を一つずつ挙げていく。著者にとっての宇宙は、人間の生存条件を考えるときの思考実験の舞台になっている。「宇宙船」に対する関心も、この文脈のなかにあると言ってよい。

この論考には、なるほどそうだな、と思うたとえ話がある。航空機のしくみを知りたいなら、「模型飛行機を作ってみれば、空気より重いものが空を飛ぶのに必要なメカニズムがわかる」。物事の本質に迫るには「いちばん簡単なモデル」を考察するのが最善であり、有人宇宙船は地球の「簡単なモデル」になる。「宇宙船と現実の地球を比較してみることによって、我々は地球をより本質的に知ることができるだろう」と、著者は言うのだ。

読みどころの一つは、物資の自給自足だ。著者によれば、アポロ司令船は乗組員の排泄物を液体なら外へ捨て、固体なら殺菌密封して持ち帰った。だが、次世代の「火星宇宙船」では、長期飛行になるので循環型のシステムが提案されているという。宇宙船に緑藻類クロレラの培養装置を置く。排泄物はクロレラの肥料にする。二酸化炭素も光合成の原料として吸収させる。その光合成が船内に食料と酸素を供給する――そんな案が紹介されている。

著者は、これを地球と比べる。結論は「地球のほうがはるかによくできている」。地球規模で「エコシステム(生態系)」という「物質循環系」が働いて、水も食料も酸素も「すべての必要物資の自給自足体制が完全にととのっている」からだ。生物界の食物連鎖も、大気と海洋の間で起こる気象現象も、この系の一翼を担う。著者は、エコロジーという環境保護思想を、世間に先んじて1970年代初頭から強く意識していたことになる。

この論考は、文明の失敗も箇条書きにしている。著者が筆頭に挙げるのは、食料増産が「エコシステムを単純化し、不安定なものにしたこと」だ。畑とは「自然の植物群落」を排除して、限られた作物だけを育てる「極度に特異な場所」にほかならない。それが地表の一角――著者が引く統計では陸地の15%――を占めて、「自然のダイナミックな均衡と進化」を阻害しているという(当欄2021年5月21日付「石さんが砂について書いた話」参照)。

気候変動に論及したくだりもある。「宇宙船でいえば、エアコン装置を破壊するようなことを、現に我々はやりつつあるのだ」。ここでは、地球の温暖化と寒冷化の両方が語られており、温暖化については原因の一つが「炭酸ガス」(二酸化炭素)の「温室効果」であることに触れている。温暖化がメディアで大きく扱われるようになったのは1980年代後半からだ。この点でも、著者の知的関心は未来の論題を先取りしていたのである。

立花さんの宇宙は、夢の宇宙でないばかりか実在の宇宙でもなかったように私には思える。それは、人間が地球に生存することの幸運を実感できる脳内空間ではなかったか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月2日公開、同月9日最終更新、通算581回
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「識者」ファインマンの闘いに学ぶ

「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」
=『困ります、ファインマンさん』(リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊)所収

氷水

コロナ禍で問われているのは、専門家と政治家の関係だ。政治家は、次の一手を聞かれると「専門家の意見をうかがって決める」と言う。ところが実際には、その真意を汲みとらないことがままある。都合のよいところだけつまみ食いしたりするのだ。

専門家という言葉にも罠がある。専門家とは、特定の分野に通じた人のこと。だから、A分野のことを聴きたければ、Aの専門家を集めなければならない。B分野ならB、C分野ならCだ。ところが現実にはA、B、Cの専門家が一堂に会して、バランスよく結論をまとめることになる。これは、専門家というよりも有識者の集団だ。世論が二分される問題で合意点を探るのなら話は別だが、危機に直面して専門知を求めているときには不向きだ。

去年夏、コロナ対策をめぐって医療か経済かという二項対立が際立ったとき、私は朝日新聞の言論ウェブサイト「論座」(2020年7月24日付)に「コロナ対策、いま必要なのは『識者会議』か?」という論考を書いた。必要なのは「分科会」という名の識者会議ではなく、政策判断に直接の助言を与える実働集団だ。医療系、経済系それぞれの専門家集団が連携して、人々の接触機会の節減目標などを試算すべきではないか、と主張したのである。

1年たって、状況は変わった。医療か経済かの二項対立は薄れ、医療崩壊を抑えることが経済回復への近道との見方が広まっている。その結果、専門家の声がまとまりやすくなり、政府を動かす局面もあった。だが、事がオリンピック・パラリンピックの開催にかかわるとなると、政府はかたくな。専門家の意見をつまみ食いして済まそうとしている気配が濃厚だ。再び、識者会議の弱点を見せつけているとは言えないだろうか。

そんなことを考えていたら、この話にも例外があることに気づいた。識者として呼ばれ、おそらくは大所高所の議論だけを求められていたのに、自ら実働集団の役目まで果たした人がいた。米国の理論物理学者リチャード・P・ファインマン(1918~1988)である。

で、今週は「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」(『困ります、ファインマンさん』〈リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊〉所収)。著者は、素粒子論など理論物理学が専門。1965年、朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受けた。この一編は1986年、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査を担う大統領委員会に加わったときの体験記である。

事故は1986年1月、チャレンジャーの打ち上げ直後に起こった。爆発で機体は壊れ、乗組員7人は帰らぬ人となった。固体燃料ロケットの継ぎ目付近に欠陥があったことが、しだいにわかってくる。その事故を調べたのが、この委員会だ。委員長は元国務長官のウィリアム・ロジャーズ弁護士。委員13人の大半は理系で、軍人や雑誌編集者もいる。だから、専門家会議というよりも識者会議に近い。著者も、宇宙工学のことでは門外漢だった。

委員会は、この年の6月まで続き、最終報告書をまとめた。そこでは、著者自身の「報告」が「付録」扱いとなった。いわば、少数意見の併記。著者は持論を譲らなかったということだ。委員会では、その存在感をフルに発揮したのだとも言えよう。

著者の委員としての動き方を知って敬意を禁じ得ないのは、二つのことだ。一つは、自分は専門家ではない、と強く認識していること。もう一つは、にもかかわらず、いや、だからこそ、専門家の話を遠慮することなく聴きまくっていることだ。

それは、事前準備の段階から見てとれる。著者は2月上旬、初会合のために夜行便でワシントンへ向かう当日、地元パサデナで動きだす。勤め先のカリフォルニア工科大学は、米航空宇宙局(NASA)の研究を担うジェット推進研究所(JPL)を運営している。そこで、シャトルに詳しい技師の一人ひとりから、知っていることを洗いざらい聞きだしたという。「とにかく彼らはシャトルのことなら隅から隅まで知りぬいていた」と驚嘆している。

このときに書きとめたメモの2行目に「Oリングに焦げ跡を発見」とある。「Oリング」は、問題の継ぎ目部分にぐるりと巻かれた合成ゴムの密封材だ。チャレンジャー事故の調査でにわかに世に知られるようになった。朝日新聞の当時の報道では、大統領委員会でも2月中旬に「Oリング」という用語が登場しているが、著者はそれに先だって、Oリングがシャトルの要注意箇所らしいとの知識を自前の聞き込みで仕入れていたのである。

Oリングに目をつけた委員の一人に空軍高官のドナルド・クティナ氏もいる。初会合の日、地下鉄で職場に帰ろうとしている姿を見て「運転手つきの特別車なんぞにふんぞり返って乗りたがる軍人どもとは大違いだ」と著者は好感を抱く。こうして二人は仲良くなる。

ある日、そのクティナ氏から電話がかかってくる。「実は今朝、車のキャブレターをいじっているうちにひょいと思いついたんですがね」「先生は物理の教授でしょう。いったい寒さはOリングにどんな影響を及ぼすものですか?」(太字箇所に傍点)。事故は極寒の日に起こっているから「目のつけどころ」の良い質問だ。著者は「硬くなるはず」と即答した。それにしても、車をガチャガチャやっているときに頭が冴えるとは米国人らしい。

Oリングについては、著者自身の武勇伝もある。委員会の席で実験をやってのけたのだ。同様のゴム材を手に入れ、工具で締めつけて氷水に浸けた。しばらくして水から取りだすと、工具を外しても形が元に戻らない。「この物質は三二度(セ氏〇度)の温度のときには、一、二秒どころかもっと長い間弾力を失うということです」。余談だが、この日は前回の会議で委員席に置かれていた氷入りの水が配られておらず、あわてて注文したという。

こうして、Oリングの低温による硬化が密封機能を弱め、事故の引きがねになったことがわかってくる。これは著者の手柄話のように巷間伝えられたが、この体験記は、それもクティナ氏が「手がかり」をくれたからこそ、とことわっている。著者は公正な人だった。

もう一つ、著者の面目が躍如なのは、NASAがシャトル打ち上げの失敗率を低くみている事実を突きとめたことだ。技術者の一人は、それを1%(100回に1回)とはじき出していた。無人ロケットの実績をもとに、有人飛行時の安全対策も見込んで試算したという。ところがNASA上層部は、失敗は「10万回に1回」と言い張った。これだと1日1回打ち上げても300年間は成功が続くことになる、と著者はあきれる。

ちなみにこの技術者は、シャトルが上空で制御不能になる事態を想定して、墜落による地上の被害を小さくするために機体を爆破する装置を積むかどうかを決める立場にあった。技術者は任務を果たすために、失敗のリスクを直視しなくてはならないのである。

理系の有識者が果たすべきは、こうした理系思考を報告や提言や答申に反映することにあるのだろう。著者は、NASAの「10万回に1回」論を追及していくが、先方も譲らない。著者が米国の宇宙開発に対して抱いた最大の違和感は、ここにあったように思う。

苦笑いしたのは、忖度というものが米国にもあることだ。著者によれば、NASAではこんなことが起こっているらしい――。シャトル計画の予算を議会で通すには、それが安全で経済的であると言わなくてはならない。だから、上層部は「そんなに何回も飛べるわけがありません」という現場の声を聞いたとたん、議会で嘘をつく立場に追い込まれることになる。現場は、上層部から疎ましがられたくないから黙る。これが、NASA版の忖度だ。

2年後、著者は永眠した。素粒子だけでなく、官僚の振る舞いまで見抜いた最晩年だった。有識者とはこういう人を言うのだろう。お見事ですね、ファインマンさん!
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月25日公開、同年7月9日更新、同月9日更新、通算580回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
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星屑の宵、テレビに心躍った

今週の書物/
『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』
五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊

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テレビがつまらないというのは高齢世代ならではの嘆きのようだ。若い世代は、周りにテレビに代わるものがあふれている。もはや、テレビに求めるものはないということか。

私が特につまらないと思うのは、いわゆるバラエティーだ。ひな壇に出演者が10人ほどずらりと並ぶ。顔ぶれを見ると、芸人と呼ばれる人々がいる。グラビア系タレントもいれば、タレント化した医師や弁護士、元政治家もいる。だれかが喋れば、みんなが笑う。賑やかだ。それを、スタジオの色調が増幅する。ひな壇後方の衝立は、なぜかたいてい極彩色。見ている側の聴覚と視覚に騒々しさのかたまりが、どっと飛び込んでくる。

私は、テレビをつけてこの場面に出くわすと、すぐ撤退する。だが最近は、チャンネルを替えても似たり寄ったりのことが多い。そんなときは致し方なく〈バラエティー(多様性)〉をのぞくことになるが、その名とは裏腹に画一的であることこのうえない。

話題は、芸能界の恋話から政界のゴタゴタ、日常の些事までさまざまのようだが、流れが型にはまっているのだ。だれかがひとり、意表を突く発言をする。それに対するツッコミが別のだれかから飛んでくる。ここでどっと笑い声が起こって「そっちから来ますか」などの合いの手が入る。ツッコミとはいえ不適切発言は回避されており、最後は予定調和に落ち着く――視聴者は、どこかの職場の飲み会を居酒屋で聞かされているような気分になる。

「テレビがつまらない」という言葉は、今春話題にした『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)にも出てくる。バラエティーだけを語っているわけではなさそうだが、そのくだりを引用しよう。(2021年4月16日付「コロナ時代の嘘をあばく本の質感」)

「テレビがつまらない/どのチャンネルもつまらない/そんなわけで仕方なく/外国の番組にチャンネルを合わせたりする」。わかる、わかる。私も去年はCNNの大統領選報道をずいぶん見ました。九島さんは、テレビ業界人の「家にも ろくに帰れない」ほどの忙しさを慮ってこうも書く。「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そうで/そんな状態で作る番組が/おもしろいわけはない」(/は改行)

テレビ批判は、さらに続く。「スポンサーがお金を払いたくなる番組は/好感度が高く 視聴率が高いような/要するに見ても見なくてもいい/あたりさわりのない番組なのだ」。なるほど、九島さんの言う通りだ。まず、「好感度」と「視聴率」をものさしに出演者を選ぶ。その一群に「あたりさわりのない」テーマで語りあってもらい、「見ても見なくてもいい」予定調和を電波に載せる――これぞ、今のバラエティー番組ではないか。

で、今週の1冊は『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』(五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊)。「シャボン玉ホリデー」は1961~72年、日本テレビ系列で放映された人気バラエティー。「スターダスト」(星屑)は、そのエンディングで歌われたジャズの曲名だ。この番組のことは当欄の前身でも、ちょっと触れたことがある。(「本読み by chance」2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)

伝説の番組を郷愁たっぷりに振り返った裏話と言ってしまえば、それまでだ。だが、この本には史料としての価値がある。1990年代半ばに関係者の話を聴いているからだ。現時点、番組にかかわった人に物故者は少なくない。主役のザ・ピーナッツ2人とクレージーキャッツ7人(当時のメンバー)だけを見ても8人が世を去った。健在の人も今はもう1960年代の記憶がぼやけているはずだ。90年代は、本にするのにちょうどよい頃合いだった。

編著者は1943年生まれ。日本テレビ社員として、歌番組やバラエティーのディレクターやプロデューサーを務めた人だ。「シャボン玉…」には1967年の入社直後からアシスタントディレクターとしてかかわったというが、この番組の制作現場を放映期間のすべてにわたって間近に見ているわけではない。したがって、本書の大半は取材にもとづく。そのこともあってか、編著者自身も本文では三人称の証言者として登場する。

この本の史料価値をさらに高めているのが、番組の場面を切りとったような写真の数々。巻頭にはカラーグラビアもある。巻末には各回のタイトルやゲスト出演者、視聴率などを記載した資料も載っている。本文や章扉には、台本を再現したらしい記述も出てくる。

それらを眺めているだけで、私のような世代には番組の空気感が蘇ってくる。まずは、オープニングのコント。どうということのないネタが多かった気がするが、最後に牛の鳴き声がモーッと聞こえてきて一同うろたえる。そして、画面にシャボン玉が飛び交い、ピーナッツの歌うテーマソングが流れる。前田武彦作詞の歌にあった「丸いすてきな 夢ね」というひとことが印象的だった。それが、この番組のすべてを言い表していたようにも思う。

ちなみに、なぜシャボン玉かと言えば、スポンサーが石鹸会社だったからだ。現社名で言えば、牛乳石鹸共進社(本社・大阪市)。モーッの理由もわかる。日曜日午後6時半~7時の時間枠を日用品メーカー1社が10年余も支えた。これだけでもすごいことだ。

この導入部が終わると、歌とコントが交互に繰り広げられる。歌い手はピーナッツだけではない。ゲストたちがいる。持ち歌も歌ったが、海外のヒット曲やジャズのスタンダードナンバーをカバーすることが多かったように思う。さらに、これは今回、掲載写真を見ていて思いだしたことだが、歌は歌だけではなかった。ピーナッツが男女のダンサーを従え、ミュージカル風の振り付けで踊りながら歌うのが定番のメニューだった。

1960年代前半、日曜夜の「一般家庭の典型的なテレビ鑑賞の流れ」が「てなもんや三度笠」→「シャボン玉ホリデー」→「隠密剣士」→「ポパイ」だったことが、この本の脚注にも記されている。わが家もまったくそうだった。当時、私のような思春期男子は、クレージーのギャグに笑い転げながら、ピーナッツのダンスに内心、胸をときめかしたものだ。巻末資料で視聴率の記録を見ても、20%台の数字を稼ぐ回が多かったことがわかる。

この本でわかるのは、「シャボン玉…」が手間をかけた番組であることだ。準レギュラーの中尾ミエは、こう証言する。「まず録音の日があって、振付の日があって……。で、水曜が本番だから、三日はリハーサルやってた」。週1回30分のための週3日である。収録日は、午後1時にピーナッツのダンスリハーサル、午後2時にその本番、午後6時にクレージーがスタジオに入り、翌日午前3~4時まで録画撮り――そんなこともあったという。

ピーナッツについて言えば、「シャボン玉…」への起用が決まった時点からハードな日課が始まっていたようだ。振付師が振り返る。「当時のピーナッツはダンスができなかった」「連日朝の六時ぐらいからレッスンしてネ」「ぜんぜん、へこたれませんでしたネ」

制作陣も同様だ。若手ディレクターと新進放送作家の共同作業を描いたくだりが、その熱気を伝えてくれる。深夜、放送作家にディレクターから電話がかかってくる。提出していた台本は「非常に面白い」が「少し直したい」という。メールはもちろん、ファクスもなかったころだ。代々木の「連れ込み旅館」に呼びだされる。男子二人が一室にこもり、「ヒザ突き合わせながら直した」。これが、作家の「シャボン玉…」デビュー作になった。

「シャボン玉…」は、高度成長期という1960~70年代の空気に支配されていたのだなあ、とつくづく思う。出演者やスタッフが24時間、ほぼすきまなく働いていたというのは、あのころのモーレツサラリーマン流だ。スタジオでは「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そう」だったのだろう。それなのに、あの番組を「つまらない」と感じたことはない。逆に、私たちの心をつかんで放さなかったのである。

理由は何だろうか。この本に一つ、ヒントがある。植木等の専属運転手から抜擢されてコメディアンになった小松政夫の言葉だ。「何が良かったって、ボクらは大人のグループにつけたってェのは大変なコトですよネ」――周りを見渡すと、付き人たちに「罵詈雑言」を浴びせるようなタレントが多かったが、クレージーに限って、そんなことはなかったという。師弟関係にはあったのだろうが、徒弟制度的でも体育会風でもなかったのである。

たとえば、小松の谷啓評。谷を相手に「面白い話」をすると、まずは「喜んで聞いてくれる」。それが「励みになるんですネ、ボクらにとって」。そして、谷自身がコントを考える段になると「あンときにお前と話したアレをやろう、なんて言ってくれたりしてネ」。

見事な水平目線だ。これは、クレージーキャッツがジャズ奏者の集まりだからではないか。メンバーの犬塚弘は、クレージーの強みをこう分析している。「決められたことをやらない、とにかく壊していく」「ソロになると自分の好きなことをやる」「アドリブ、即興でいろんなことをやる」「だから自分の個性とか、そういうのが出た」――ジャズに象徴される戦後精神がテレビのエンタメに初めて結実したのが「シャボン玉…」だったように私は思う。

で、もう一度、今なぜテレビがつまらないのか。業界は今も「シャボン玉…」のころと同様に忙しい。だが、決められたことを壊す突破力も、好きなことにこだわるわがままも、アドリブであっと言わせる機知も奪われてしまったのではないか。そう思われてならない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月11日公開、同月12日最終更新、通算578回
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