「渡し」で出会う人生の偶然

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

リースリング

今週も渡し船に乗り続ける。19世紀ドイツのロマン派詩人ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」という詩と、それを旋律に乗せたカール・レーヴェの歌曲をめぐる話だ。詩は、ライン川水系ネッカー川が舞台。主人公は、かつて同じ渡しに乗った亡き友に思いを寄せて……。その情景が日本人の心も動かし、詩想を語りあう人々の交流が新聞の投書欄を経由して広がったことを先週は書いた。それを「昭和版ネットワーク」と呼んだのである(*)。

私が読んだのは、『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)という本。昭和版ネットワークに連なる人々が、めいめいの視点で交流秘話を綴っている。

当欄が今回とりあげようと思うのは、人間社会にネットワークが生まれるとき、そこに偶然が関与してくることだ。この本には、この人とあの人がつながったのは偶然の妙があったからだ、とわかるエピソードが随所に出てくる。そのいくつかを拾いあげよう。

偶然がいっぱい詰まっているのは、松田昌幸さんの回顧だ。松田さんは電機会社の社員だった1970年代半ば、NHKのラジオ番組「趣味の手帳」で「渡し場」のことを知った。番組は、1956年の朝日新聞「声」欄がきっかけとなり、この詩を愛でる人々がつながったことを伝えていた。一度聴いて心に残ったが、幸運にも再放送があった。松田さんはそれをとっさに録音し、話の要点をカードにメモして、ファイルに綴じ込んでおいた。

松田さんが60歳代半ばになった1990年代末のことだ。妻が掃除中、ファイルからはみ出たカードを見つけた。偶然にも、この録音のメモだった。もう一度聴きたいと思ったが、テープが見つからない。ここで、たまたまテープのコピーを友人に贈っていたことが幸いする。その音源で番組を再聴した。「渡し場」について、もっと知りたくなる。思い立つとまず、「声」欄投書の反響を記事にした『週刊朝日』1956年10月7日号を探した。

ここでも、偶然のいたずらがある。松田さんが国会図書館に行くと、この雑誌は1956年10月分だけが欠落していたという。探しものに限ってなかなか出てこない――これは、私たちがよく体験することだ。結局、この号は東京・立川の公立図書館で見つけた。

松田さんの話で最大の偶然は、小出健さんとの出会いだ。小出さんは1956年、渡しが主題のあの詩は誰の作品か、と問うた猪間驥一さんの「声」欄投書に返信を寄せた人の一人である。『週刊朝日』にはウーラント「渡し場」の邦訳も載り、猪間さんとの共訳者として小出さんの名があった。この人に会ってみたい――幸い、誌面には住所が載っていた。番地こそないが、町域は記されている。個人情報保護に敏感な今ならばなかったことだろう。

このときの興奮を、松田さんはこう書く。「私の脳裏にボンヤリと“小出健”なる表札のイメージが浮かんでくるではないか。それもその筈、私の家から7軒目にあることに気が付くのに時間はかからなかった」。こうして二人はめぐりあい、意気投合するのである。

小出さんは2006年、松田さんに誘われてレーヴェの音楽会に出かける。そこで歌曲「渡し」を聴き終えたとき、立ちあがって一礼した。その光景が朝日新聞のコラム『窓』で紹介され、「ウーラント同“窓”会」という21世紀版のネットワークが芽生えたのだ。

「同“窓”会」は、昭和版ネットワークを引き継ぎながら新しい様相も帯びている。IT(情報技術)を取り込んで、さらなる広がりを見せているからだ。松田さんは、自身のウェブサイトでウーラント「渡し場」の話題を広めた。それを見て同“窓”会の存在を知り、仲間に入ったのが当欄に前回登場した中村喜一さんだ。先週書いたことだが、中村さんも今、自分のサイト内に「友を想う詩! 渡し場」のサブサイトを開設している。

中村さんが松田さんに初対面するまでの経緯も微笑ましい。松田さんのウェブ発信で、松田邸が小出邸の近所にあるとの情報を得た。小出邸の所在地は『週刊朝日』の記事で大まかにはわかっている。それをもとに「住宅地図とGoogle Street View」を駆使して松田邸の住所を突きとめ、「書状」で打診してから訪問したという。ストリートビュー、住宅地図、手紙、面談。デジタルとアナログが見事に組み合わされているではないか。

この本は、「渡し場」の詩だけではなく、その歌曲「渡し」にこだわる人々の軌跡もたどっている(邦題で「場」の有無は、原題に前置詞“auf”があるかないかに拠っている)。猪間さんも、詩がウーラント作だとわかると今度は曲探しに乗りだした。1961年の欧州滞在時には、ドイツの新聞に働きかけて記事にしてもらった。この時点では歌曲があるかどうかも不確かだったので、曲がないなら曲をつくってほしい、とも呼びかけたという。

詩「渡し場」にレーヴェが曲をつけているという情報は1973年、朝日新聞名古屋本社版「声」欄の投書でもたらされた。ウーラントの故郷テュービンゲンに留学経験のある大学教授からのものだった。曲の探索でも新聞が情報の交差点になっていたことがわかる。

1973~1975年には、譜面を手に入れたい、という投書が「声」欄に相次いだ。このうち1975年の1通に対しては、ドイツからも反響があった。国際放送局ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長からの報告だ。レーヴェの曲について作品番号まで調べてくれていたが、「これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが」と書かれていた。本国でも、そんなに有名な歌ではなかったらしい。

ところが、ここから急進展がある。丸山明好さんという人が、アルテンドルフさんに書面でさらなる探索を頼んだのだ。丸山さんは中央大学で猪間さんの教え子だった。手紙には恩師とウーラント「渡し場」との縁なども記した。ドイチェ・ヴェレはこれで奮起したのだろう。大学の研究者の力も借りて「渡し」の楽譜を発掘、それだけではなく東ドイツ(当時)の歌手が歌ったという音源が西ベルリンの放送局に残っていることも突きとめてくれた。

1975~1976年、楽譜と録音が丸山さんの手もとに届く。その結果、レーヴェの歌曲「渡し」もウーラントの詩「渡し場」と同様、日本の愛好家に共有されたのである。

余談だが、丸山さんには、この録音をめぐって忘れがたい思い出がある。1988年、ドイツを旅行中のことだ。特急列車に乗ったとき、アタッシェケースに「渡し」のカセットテープを入れていた。あの歌をハイデルベルクのネッカー川河畔で聴きたい、そんな思いがあったからだ。ところが、駅で下車したとき、手荷物がないことに気づく。置き引きに隙を突かれたのだろう。テープは、アタッシェケースもろとも失われてしまった。

ところが2日後、アタッシェケースが警察からホテルに届けられる。中身の金品は奪われ、テープレコーダーもなかったが、なぜかテープは残されていた。「ドイツの泥棒さん」は「几帳面で親切(?)だ」と感じ入り、いっぺんにドイツ好きになったという――。この本には、こんな小さなドラマがいっぱい詰め込まれている。書名のもととなった元朝日新聞論説委員高成田享さんのコラム表題のように「『渡し』にはドラマがある」のである。

考えてみれば、私たちの日常は偶然の積み重なりで進行している。偶然が人と人との間に思いがけない出会いをもたらし、そのつながりが人生をドラマチックに彩ってくれるのだ。この本は、そのことをさりげなく教えてくれる先輩たちからの贈りものと言ってよい。
*当欄2022年2月18日付「渡し』が繋ぐ昭和版ネットワーク
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月25日公開、同月27日最終更新、通算615回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「渡し」が繋ぐ昭和版ネットワーク

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

ドイツワイン

「ネット社会」という用語は、いつごろから広まったのか。今、朝日新聞データベースの検索にかけると、この言葉の初出は1995年だった。インターネット元年といわれる年だ。ネット社会のネットがインターネットを含意していることが、このことからもわかる。

では、インターネット以前の世の中にネットがなかったかと言えば、そうではない。ここで言うネットとはネットワークのことであり、人と人との網目状のつながりを指している。考えてみれば、人間社会は太古の昔からネットワークをかたちづくってきた。

ただ、インターネットの人間関係は血縁や地縁、あるいは職域の縁とは様相を異にする。そこには、いくつかの落とし穴がある。たとえば、匿名性。自身の身元を隠した書き込みは誹謗中傷を誘発しやすい。しかも、困ったことに増幅効果もある。ネット論調は同調意見を雪だるま式に膨らませるので、ただでさえひと色に染まりがちだが、それが誹謗中傷をはらんだものならば、狙われた人物は集中砲火を浴びることになる……。

だが、インターネットには、こうした負の効果を差し引いても大きな魅力がある。長所をいくつか挙げよう。一つは公共性。ネットに載った情報は、だれでもいつでも触れることができる。仮想空間に広場があり、私たちはそこに出入り自由というわけだ。もう一つは関係の緩さ。これは匿名性と裏腹の関係にあるが、ネットを通じた情報のやりとりでは相手と顔を突きあわせる必要がない。私たちは適度の距離感を保った関係に身を置ける。

ふと思うのは、昔はこうしたインターネットの良さを先取りした人間関係が皆無だったのか、ということだ。もしかしたら、〈公共性〉と〈関係の緩さ〉を具えたネットワークがユートピアのように存在したのかもしれない――いや、たしかに存在したのだ!

で、今週の1冊は『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)。ここには、昭和版のネットワークが見てとれる。しかも私の心をとらえたのは、その〈公共性〉や〈関係の緩さ〉を担保するものが、新聞や週刊誌、ラジオ番組だったことだ。マスメディアにはこんな働きもあったのか――これは、元新聞記者にとってうれしい驚きだった。

本の表題と編者名には説明が要る。「渡し」は、渡し船の渡し。ライン川支流ネッカー川の両岸を行き来する船である。ルートヴィヒ・ウーラントは、19世紀ドイツのロマン派詩人。弁護士でもあり、政治家でもあった。カール・レーヴェは、同じ時代のドイツの声楽家兼作曲家。この本の中心には、ウーラントの詩とそれに節をつけたレーヴェの歌がある。そして、編者名に出てくる“窓”は、かつて朝日新聞夕刊にあったコラム名に由来する。

ウーラント同“窓”会は、「窓」欄2006年7月6日付の「『渡し』にはドラマがある」という記事で結ばれた15人(うち2人は物故者)がメンバー。記事の筆者で、当時は朝日新聞論説委員だった高成田享さんが今回、この本を編集するにあたってまとめ役を務めた。

「窓」欄記事の書き出しはこんなだった――。ドイツ歌曲の音楽会で「不思議な光景」を目撃した。「渡し」という題名の曲が終わったとき、聴衆の一人が起立して頭を深く下げたのだ。その曲は、渡し船で川を渡るとき、かつて同乗した友に思いをめぐらせたことを歌にしていた。友の一人は静かに逝った。もう一人は戦争で落命した。船頭さん、今回の船賃は3人分払おうではないか。そんな歌詞だ。では、その人はなぜ一礼したのか。

発端は、その50年前にさかのぼる。朝日新聞1956年9月13日朝刊の投書欄「声」に「次のような内容の詩をご存じの方はあるまいか」と尋ねる一文が載った。詩は渡し場が舞台。主人公は船上で、今は亡き友とこの渡しに乗ったことを思いだし、下船時に亡友の船賃も支払おうとする――そんな筋書きだったという。「どこの国のだれの詩か」。そう問うた投稿者は猪間驥一(いのま・きいち、1896~1969)さん。経済統計学者である。

今回の本『「渡し」には…』では、1956年の「声」欄を起点として2006年の「窓」欄を一応の収束点とするネットワークの軌跡が、関係者14人の寄稿をもとに再現されている。当然だがダブリの記述が多いので、寄稿群を併読してその要点をすくい取ろう。

まずは「声」の後日談。猪間さんの問い合わせには直ちに反響が多数寄せられ、その詩はウーラント作「渡し場」であるとの情報が届く。猪間さんは、そのことを8日後の21日付「声」欄で報告、27日には学芸欄にも寄稿した。その時点で反響の手紙は約40通に達していた。この話題には『週刊朝日』も飛びつき、10月7日号で手紙の幾通かを紹介している。うち1通が小出健さんのもの。当時28歳。50年後の音楽会で一礼した人だ。

『週刊朝日』によれば、猪間さんが探していたのは、小出さんが戦後、旧制大学予科の卒業直前、ドイツ語教師から贈られた詩と同一だった。君たちはこれからそれぞれの学部に進む、だが友のことは忘れるな――「ザラ紙にタイプした原詩と英訳」には、そんな思いが込められていたという。この情報提供がきっかけとなり、猪間さんと小出さんの交流が始まったようだ。誌面には両人の「共訳」による「渡し場」の邦訳も載っている。

最後の一節には、こんな言葉がある。
受けよ舟人(ふなびと) 舟代(ふなしろ)を
受けよ三人(みたり)の 舟代を

この訳詩に惹かれて「ノートに転記」した人がいる。1956年当時、高校3年生だった中村喜一さんだ。以来、この詩「渡し場」は心の片隅にすみついたようだ。長年勤めた化学会社を退職後にネッカー川を旅したりもしている。この本には、中村さんが「声」欄や『週刊朝日』の記事などをもとに作成した「日本における『渡し場』伝播径路図」が載っている。それによると、「渡し場」は日本では少なくとも二つの径路に分かれて広まったらしい。

「径路図」によると、「渡し場」を日本に最初に伝えたのは高名な教育者、新渡戸稲造。米国留学中に英訳を知ったらしい。1912年、著書に邦訳を載せた。翌年には、人気雑誌『少女の友』もこの詩を掲載している――これは、猪間さんの「声」を読んだ長谷川香子さんが寄せた情報だ。猪間さんは投書で、詩は「少年雑誌か何かで読んだ」としていたが、その雑誌は同世代異性の家族や知人が愛読していたものかもしれない。

では、小出さんのドイツ語教師は「渡し場」をどこで知ったのか。教師は旧制第一高等学校出身。一高では1913年、基督教青年会が開いた卒業生送別会で前校長の新渡戸がこの詩のことを語ったという。実はこの情報も「声」欄への反響の一つ。卒業生として送別会に居合わせた山岡望さんからもたらされた。くだんのドイツ語教師は山岡さんよりも学年が下だが、「渡し場」の話は下級生にも伝承されたのではないか、と中村さんは推理する。

「径路図」を見ていると、不思議な気分になる。詩歌「渡し場」への共感は、『少女の友』ルートと一高ルートに分かれて伝播した。それぞれには多くの人々が葡萄の房の実のように群がり、同じ一つの詩を愛してきた。興味深いのは、その系統違いの人々が数十年後、新聞の片隅に現れた1通の投書でつながったことだ。こうして昭和版ネットワークが生まれた。それを象徴するのが、猪間さんと小出さんの「共訳」という化学反応だった。

一つ、書き添えたいことがある。中村さんは1938年生まれだがデジタルに強く、自身のウェブサイトに「友を想う詩! 渡し場」というサブサイトを開設している。昭和版ネットが今はインターネットに受け継がれている――これも、ちょっといい話ではないか。
*この本の話題は尽きないので、来週もとりあげる予定。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月18日公開、同日更新、通算614回
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今ここの宇宙論という哲学

今週の書物/
『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』
伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊

無限?

今風の起業で財を成した富豪が自腹を切って地球を飛びだす。そんなニュースが去年相次いだ。一般人が宇宙を旅する時代はもうすぐ、というとりあげ方が目立つ。

だが、待てよ、である。あの人たちが体験したのは本当に宇宙なのか? 宇宙は広大だ。地球は太陽系の一部であり、太陽系は我が銀河、即ち銀河系の一角にあって、銀河系は無数に散らばる銀河の一つだ。富豪たちが出かけたのは地球の庭先にほかならない。

逆に言えば、あの人たちは――ということは私たち一般人も――この世に生まれ落ちた瞬間から宇宙に存在しているのではないか。銀河系は宇宙の一要素であり、太陽系は銀河系の一かけらであり、地球は太陽系の一員だからだ。こんなことを言うと、へそ曲がりの小理屈だな、と揶揄されそうではある。でも私は、科学記者に珍しく、本気でそう考えてきた。宇宙開発を「夢だ、ロマンだ」ともてはやすことには違和感がある。

私たち人間は、だれもがみな、自分は今、ここにいると感じている。その〈今、ここ〉はどれも、宇宙の時間と空間のなかにある。宇宙は私たちの存在の土台なのだ。それが何かは、人間にとって切実な問題といえる。夢やロマンのようにふわふわしていない。

言葉を換えれば、宇宙は哲学のテーマである。実際、ギリシャ以来いつの時代も、哲学はときどきの宇宙観を人々に提供してきた。近世以降は自然哲学者や科学者によって提示される宇宙観が数式で理論づけられ、観測で裏打ちされるようになった。ただ、そんなこともあってか、宇宙の探究が私たちの〈今、ここ〉と切り離されてしまった感がある。そうならば残念なことだ。現代の宇宙観もまた、〈今、ここ〉と無縁ではありえない。

で、今週は『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊)。著者は1949年生まれの哲学者で、京都大学名誉教授。京都の風土に根ざして研究を重ねたせいだろうか、著書では、文理の垣根を超えて宇宙論も扱ってきた。

本書は、三つの章で組み立てられている。時代区分で言えば「古代」「近代」「現代」。第1章はギリシャ(本書の表記では「ギリシア」)哲学の宇宙観を振り返り、とりわけプラトンの天文思想に光を当てている。第2章の主役は、ドイツの哲学者イマヌエル・カント。近世に一新された宇宙観を近代の哲学者がどう受けとめたかを解説している。第3章では、ビッグバン宇宙論などの20世紀科学が哲学に与えた影響を浮かびあがらせている。

プラトンについては、その著『ティマイオス』の宇宙論が素描されている。それによると、デミウルゴスという神が「設計者」となった宇宙は「調和の世界(コスモス)」をめざしていたという。だが、現実の宇宙は究極のコスモスを実現しているわけではない。

恒星が散在する天空、即ち「恒星天」は「完全な球体」であり、星々も「最高度に完全な運動である円運動」をしているので、コスモスそのものだ。ところが、太陽や月、惑星の世界はこの球体に乗っていない。とはいえ、私たちが太陽や月を見て「季節」「日時」を認識していることでわかるように、これらにも「時間という秩序」のもとになる「数学的な比例構造」が組み込まれている。だから、宇宙は全体として調和している、とみる。

本書は、これをプラトン哲学のキーワード「イデア」に対応させる。イデアとは、現実の事物の「原型」であり「模範」でもある「完全な存在」だ。恒星天はイデアの「完全」を具現しているが、太陽や月、惑星はその「似像(にすがた)」や「影」の水準にあるという。

ギリシャの哲人は、宇宙にイデアを追い求めながらもその完全版は手に入れられず、一部は「似像」や「影」で満足しなければならなかった。これは、当時の宇宙観が天動説から脱け出せなかったからにほかならない。太陽系天体の扱いに手を焼いたということだ。

ところが近世になると地動説が強まり、天動説にとって代わった。本書によれば、カントがニュートン力学を哲学の側面から支える『純粋理性批判』(1781年)を執筆したころ、天文学は地球だけでなく、太陽系そのものも宇宙の中心から外して考えるようになっていたという。これは人間観も激変させた。人間は「宇宙の片隅のそのまた片隅の、非常に辺鄙(へんぴ)なところに生存する生物」とみなさざるを得なくなったのだ。

こうしたなかで、カントは「認識論的反省」を試みる。宇宙が「とてつもなく広い世界」であるならば「全体の大きさ」はどうなのか、宇宙が無限か有限かという難題に私たちは答えを見いだせるのか――こう問うた末にたどり着いた結論は「人間は、その理性の使用によっては、宇宙の無限・有限の問題に決着をつけることができない」というものだった。人間の「認識能力」に「制約」がつきまとうことを潔く認めたのである。

宇宙の時間について考えてみよう。著者の解説によれば、有限説の根拠はこうだ。もし宇宙に始まりの一瞬がなければ、それは物事の継起が無限に続くことを意味する。継起は「完結」しないということだ。そうなると、継起の完結時点である「現在」が成り立たない。

無限説はこうなる。もし宇宙に始まりの一瞬があるなら、宇宙は宇宙が存在しない「空虚な時間」に生まれたことになる。空虚が宇宙誕生の契機を宿すとは考えられない――。こうして、宇宙の時間をめぐる問いは二律背反(アンチノミー)に直面して頓挫する。

カントによれば、私たち人間にとっての「経験的世界」は「世界の事実の実相に迫った姿ではない」。それは「現象」であって「本物」ではないのだ。私たちにできるのは「世界の事物について時間的、空間的にその位置を特定し、その事物がどのように移動したり変化したりするかを因果法則という形式で表現する」ことである。人間は「時空の枠組み」と「因果性の概念」という「認識能力」をメガネにして世界を見ているに過ぎない。

興味深いのは、このカントの洞察が現代の宇宙論に思わぬかたちで示唆を与えていることだ。まずは、ビッグバン宇宙論に触れておこう。宇宙は大爆発(ビッグバン)で始まったという見方だ(*)。1960年代、その名残が宇宙背景放射として観測されたことで今や定説になった。宇宙には始まりがあったという宇宙観だ。カントの「認識論的反省」によれば答えを出せないはずの問題に、現代科学が正解らしきものを突きつけたのである。

ところが、話は一筋縄ではいかない。宇宙初期にはビッグバンに先だつ急膨張(インフレーション)があったとする理論が現れ、そこから、宇宙は一つではないという仮説が派生したのだ。本書は、インフレーション理論そのものには踏み込んでいない。ただ、宇宙が単一でなく、別の宇宙が「並行して存在」する可能性には触れていて、そのなかには私たちの宇宙より「時間的に先行」するものがあるかもしれない、と論じている。

これは、宇宙の始まりよりも前に宇宙があるという話だ。ビッグバン宇宙論によって、宇宙の時間の有限説が力を得たかと思いきや、次いで登場したインフレーション理論で無限説が巻き返した――。カントの洞察通り、人間はやはりこの問いに答えられないのか。

本書は終盤で、地球外生命探しの話題をとりあげている。そのくだりで著者は「人類の知性が生み出した科学や技術は、宇宙の中でどの程度まで普遍的で一般的なのでしょうか」と問いかけている。これは、人間観にかかわる哲学者の問題意識だろう。天文学では20世紀末以降、太陽系のほかにいくつもの惑星系が見つかり、地球外生命の現実感が高まっている。宇宙人探しは、もはや宇宙に夢とロマンを求める人たちだけのものではない。

この本を読むと、哲学者は物事を考えるとき、どこから先は知ることができないのかという視点も持ちあわせていることがわかる。ひたすら知ろうとする科学者との違いだ。私たちが科学本と併せて哲学本を読むことの意義は、そのあたりにあるのかもしれない。
*当欄2021年12月31日付「宇宙の最期か自分の最期か」参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月11日公開、通算613回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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外岡秀俊の物静かなメディア批判

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

鉛筆1本

メディアが騒がしい時代にも物静かなジャーナリストはいる。記事を書けば、品位がにじみ出る。発言すれば、説得力がある。朝日新聞元記者の外岡秀俊さんは、そんな人だった。去年暮れ、突然の病に倒れ、68歳で死去した。(以下、文中敬称略)

外岡の記者歴はこうだ。1977年、新聞社に入り、二つの地方支局を経験、その後、学芸部や社会部に籍を置いた。ニューヨークとロンドンに駐在経験もある。特筆すべきは、デスク(出稿責任者)や部長などの中間管理職を経ることなく、編集局長に就いたこと。退任後は編集委員として第一線に戻った。この時代だから執筆は打鍵によるが、昔風に言えば「鉛筆1本」の記者生活を貫いた。2011年、介護のために早期退職、故郷の札幌に住んだ。

私にとって外岡は入社同期生。記者部門は30人ほどいたが、外岡は最初から有名人だった。東京大学在学中の1976年に『北帰行』という小説で文藝賞を受け、作家デビューしていたからだ。その作品は、石川啄木の足跡をたどる青年の物語。同じ年に芥川賞を受けた村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とは対極の空気感だ。外岡自身も1970年代風の若者ではなかった。貴公子然とした姿が女性誌のグラビアを飾るのを見た記憶が私にはある。

そんなこともあり、外岡は別格の同期生だった。たとえば最近、私たちの同期会は彼が東京にいる日に合わせて開かれた。記者という生きものは競争心のかたまりなので、自分を同期の仲間と比べたがるものだが、彼をライバル視する向きは皆無だった。理由には、彼が傑出した記者だからということがある。だが、それだけではない。彼の言動からは、世俗的な野心が微塵も感じとれなかったのだ。際立つのは記者精神のみだった。

その記者精神は、あくまでも「外岡流」のものだ。そこからは、肩をそびやかして巨悪に立ち向かう昔風の記者像は感じられない。当世風の記者のように弱者に目を向けるが、ただ寄り添うだけでは終わらせない。筋が一本通っているのだ。弱者を苦しめるものの正体を見定めることを決して忘れない。取材先には礼節をわきまえ、穏やかな態度で接するが、胸のうちは批判精神に満ちている――それが「外岡流」と言えるだろう。

で今週は、そんな「外岡流」を彼の著作から抽出してみる。手にとったのは、東日本大震災の1年後に出た『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)である。

著者(外岡)は、早期退職の直前に大震災に遭遇した。発生直後から被災地を取材、社を去っても「フリーの立場」でそれを続行したのである。この本では、「生と死の境」「自治体崩壊」「原発避難」……などと題する各章の冒頭に著者自身の取材報告(ルポ)を置き、そのあと災害の構図を関係機関の文書などをもとに考察して、教訓を紡ぎだしている。ルポの一部は、朝日新聞本紙や『アエラ』『世界』両誌に載った記事をもとにしたものだ。

「外岡流」はこの本の随所に見てとれるのだが、今回は一つだけを切りだそう。「最悪の事故」と題する章の書き下ろしルポである。焦点が当たるのは双葉病院。東京電力福島第一原発の膝元福島県大熊町にあり、地震直後に停電や断水に見舞われ、さらに被曝禍の追い討ちに遭った。入院患者たちは転院先を求めて一時難民状態となり、この本によれば、2011年3月末までに40人が落命した(提携する介護老人保健施設の入所者を含めると50人)。

3・11の原発事故は、津波と違って目に見えるかたちで人々の生命を奪うことは少なかったが、例外もある。それが、この双葉病院の悲劇だ。当時の東電幹部に刑事責任を問えるかどうかは別にして、あの事故がなければあの悲惨な死はなかった、とは言えるだろう。

注目したいのは、このルポが静かなメディア批判になっていることだ。著者は、双葉病院の患者に犠牲者が出たことを伝える報道が「病院関係者は患者を見捨てて逃げた」という印象を与えたことが気になった。それは、福島県災害対策本部が示した「見捨てたととられても仕方がない」との認識にもとづいていた。こういうとき、メディアはとりあえず役所の発表に頼らざるを得ない。著者もメディア人なので、そのことはわかっている。

ただ問題は、このとき県本部が事実関係を調べると表明していたのに、調査結果がなかなか出てこなかったことだ。メディアも、この問題の検証にすぐには乗りださなかった。そこで著者が退職まもない身で、院長ら関係者に対する直接取材を重ねたというのである。

著者が、取材で聞いた話をまとめるとこうなる――。双葉病院では地震でただちに電気、ガス、水道が止まった。事務職員らは帰宅させたが、医師7人、看護師64人の大半は勤務を続けた。照明は落ち、心電図も使えない。暖房も切れたので、病棟はダルマ式ストーブで寒さをしのいだ。夜には固定電話も携帯電話もつながらなくなった。手当てが必要な患者は一カ所に集められ、点滴などの処置はペンライトを頼りに続けられたという。

12日早暁、大熊町の防災無線が「全員避難」を告げる。病院職員は町役場に走って、避難用バスの手配を頼んだ。県外から観光バス5台が迎えに来たのは昼前。このときに避難できたのは、入院患者のうち歩くことができる209人。一行には、医師3人を含む職員数十人も付き添った。これが「第一次避難」だ。残されたのは、動けない患者131人と老健施設の入所者たち。院長ら医師2人と総務課長ら職員の一部は居残った。

このあと院長らは交代で病院を出て、さらなる避難の手立てを確保しようと奔走した。自衛隊の姿を見かけて救援を求めると、夜になって自衛官と警察官が二人連れで来院した。翌13日に救出するとのことだったが、結局は空手形。院長らは13日夜も事務室に泊まり込んだ。「これから迎えに行く」と連絡があったのは、14日早朝。まず警察が、次いで自衛隊が駆けつけた。この「第二次避難」で、患者34人と老健施設の入所者全員が病院を出た。

残されたのは計算上、患者97人。だが、この避難までに院内で絶命した人もいるので、著者は「約九〇人」と書いている。この人たちが一時、孤立状態に置かれたのは事実のようだ。それには事情がある。福島第一原発では、12日午後の1号機水素爆発に続いて14日午前中に3号機も同様の爆発を起こしたのだ。院長らはその夜、警察署から「緊急避難だ。すぐ車に乗れ」と促され、警察車両に分乗、町外退避を余儀なくされたというのである。

途中、自衛隊とともに病院へ戻るという話になったが、うまく合流できなかった。警察幹部からは、病院に残る患者は「自衛隊に任せるしかない」と告げられたという。これを受け入れたことには議論の余地があるかもしれない。だが著者は「院長らは、第二次避難に立ち会っただけでなく、その後も避難を続行しようと最大限の努力をしていた」と弁護する。病院が「患者を見捨てた」という認識は、こうした経緯を見ていないというのだ。

著者は、病院で第二次避難がどんな手順で進められたかを細部まで描写している。警察の指示で、まずは患者たちに防護服を着せた。被曝を避けるためだ。院長ら病院職員も防護服を着させられ、患者のオムツを換えたり、点滴装置を外したりした。警察官は患者たちをストレッチャーで病院の出口まで運び、そこからは自衛官に任せた。ちなみに、防護服の着用について自衛隊は「必要ない」と言っていた。現場は相当混乱していたらしい。

私が感心するのは、著者が院長ら病院関係者の「証言」を自らの目で確認しようとしていることだ。2011年12月、「警戒区域」にある双葉病院を現地取材して「残留物やストレッチャーの位置などから、その証言に偽りがないことを確信した」という。

双葉病院にとり残された患者は最終的に自衛隊に救いだされた。だがそれを待てず、院内で亡くなった人がいる。避難時の「移動中」に、あるいは「搬送先」で息絶えた人もいる。著者は、重症の患者たちがただでさえ死と隣り合わせなのに原発事故の被曝禍という未知の災厄に直面して死の淵に追い込まれた顛末を克明に記している。その誠実な筆致に触れると、渦中にいて「最大限の努力」をした人々に責めを負わせる気にはなれない。

双葉病院の避難をめぐる報道に対しては、著者が書いているように2011年秋ごろからメディア内にも検証の動きが出ている。コロナ禍の医療危機で私たちが似たような混沌を目の当たりにしている今、外岡秀俊の物静かなメディア批判に改めて耳を傾けたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月4日公開、同日更新、通算612回
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