ノーベル物理学賞、踊り場の年に

今週の書物/
ノーベル賞発表資料(物理学賞、2023年)
スウェーデン王立科学アカデミー

ノーベル週

発表前》
今年のノーベル賞発表が進行中だ。すでに生理学・医学、物理学、化学、文学の4賞が決まった。今夕、平和賞の発表があり、来週初めには経済学賞も決定する。ただ私は、この日程に先立って今、受賞者がだれひとり決まっていない時点で本稿を書いている。

本稿の後段では、視点を現時点に戻す。賞の選考結果を見て、その発表資料を読み込むつもりだ。ノーベル賞理系部門の発表資料は、科学研究を私たち一般人がどう受けとめたらよいか、そのヒントを与えてくれる。今年もそれを味わうことにする。

事前事後2段階の執筆を思いついたのには訳がある。私は新聞社の科学記者だったころ、ノーベル賞発表前の数週間は心が張りつめていた。発表は日本時間の夜なので、翌朝の新聞に記事を間に合わせるには事前の準備が欠かせない。受賞者が日本人なら人物像や逸話もたっぷり紙面化するからなおさらだ。だから初秋になると、いつも受賞者の予想に思いをめぐらせていた。あのソワソワ感を当欄の作業でも再体験したい。そんな魂胆があった。

私が現役時代、理系3賞のうちもっとも注目していたのは物理学賞だ。物理領域を取材する機会が多かったからだが、科学の動向をみるときの指標になりやすいということもあった。ということで、今回も物理学賞について書く。ただ、私はいま退職の身で、近年どんな研究がもてはやされているかをつぶさには知らない。だから、あの人が受賞しそう、という予想はできない。賞全体の大きな流れについて四方山話風に語ることにしよう。

そんな視点で見ると、今年の物理学賞は踊り場の状態にあると言える。俗っぽい比喩を用いれば、狙っていた「大魚」をひととおり釣りあげた直後ということだ。だから今回は、ほっと一息ついて海を見つめ、次なる釣果を探しているところだろう。

では、その「大魚」にはどんなものあったか。私が真っ先に挙げたいのは、去年の受賞研究「量子もつれ」だ(*1)。アラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏が、量子世界では光子(光の粒子)対が「量子もつれ」という強い相関関係をもちうることを確かめ、それがもたらす現象を調べた。量子コンピューター開発のような量子情報科学に道を開いたが、それだけではない。

量子もつれは、私たちがニュートン物理学によって頭に刷り込まれたものとは異なる世界像をはらんでいる。たとえば、状態の重ね合わせ。粒子の状態はAかBかだけではなく、AでもありBでもあることがありうるという。あるいは非局所性。A、Bの重ね合わせにある粒子対の片方がAと観測された瞬間、遠く離れたもう一方がBであることが確定するという。受賞者の研究で私たちの世界像は一変したと言ってよい。

だから、去年の受賞研究は超弩級だった、というのが私の個人的見解だ。私は1990年代にアスペ、ツァイリンガー両氏に対面取材しているので、とくに二人の受賞は待ち望んでいた。それが現実になったことで、今年はある種の虚脱感のなかにいる。

量子研究に対する物理学賞を振り返ると、世紀の変わり目に受賞ラッシュがあった。低温で現れる量子現象の研究が4回(1996年、1998年、2001年、2003年)、低温実験の手法開発が1回(1997年)。量子力学の基礎問題が再び注目されるようになった証しだった。

量子情報科学につながる研究が脚光を浴びたのは2012年だ。状態の重ね合わせを壊さずに保ち、操作する実験に成功したセルジュ・アロシュ(フランス)、デイビッド・ワインランド(米国)両氏が受賞した。それは、「シュレーディンガーの猫」という思考実験で空想される量子世界の不可解さを現実に見せつけるものだった。2012年と2022年の二つの受賞研究によって、量子力学の世界像はもはや疑う余地がなくなった。

「大魚」は量子の分野だけではない。2010年代以降の受賞研究を見てみよう。素粒子分野では、2013年のヒッグス粒子。質量の起源とされる粒子が巨大加速器実験で見つかったのを受けて、その粒子の存在を予言した理論研究者が賞を受けた。2015年には、ニュートリノ質量の発見。受賞者の一人は梶田隆章さんだ。巨大加速器がなくても自然界の観測で素粒子探究の最前線に立てることを示したという点で、物理学の新潮流を代表していた。

宇宙・天文分野では、2011年の受賞研究が宇宙の加速膨張の発見。これは、宇宙の成分表やシナリオを根底から見直すきっかけとなった。2017年には重力波の観測。アルバート・アインシュタインが一般相対論で予言していた時空の波を100年たって検出した。

わかりやすい話では2019年、太陽系外惑星の発見が受賞研究の一つに選ばれている。1990年代半ばまで、惑星は太陽系だけにあると思われていたが、それが覆ったのだ。地球外生命が存在する可能性も強まったわけだから、これもまた世界像を塗りかえる業績だった。

物理学には複雑系科学という分野があり、ここ数十年活発になっているが、ノーベル物理学賞はなぜか関心を示さなかった。ところが2021年に突然、「複雑系の理解に対する画期的な貢献」という授賞理由を掲げ、3氏に賞を贈った。その一人が、気候変動の数理研究が専門の真鍋淑郎さんだ。ノーベル賞が温暖化問題に着眼したことに世間は喝采したが、それだけではない。複雑系科学を正当に位置づけるという課題をようやく果たしたのである。

と、こう書き連ねてくると、物理学賞は諸分野の「大魚」のほとんどを釣りあげてきたと言ってよい。ただ、科学という大湖は広くて深い。私は気づかないでいるが、「大魚」に育ってまもない新顔の重要研究もきっとあるに違いない。発表が楽しみだ――。

発表後》
で10月3日、スウェーデン王立科学アカデミーは今年のノーベル物理学賞を発表した。賞が光を当てたのは「アト秒」。アトとは10のマイナス18乗のこと。時間幅がアト秒単位のきわめて短い光パルスをつくって物質内の電子の振る舞いを調べる手法を開発したピエール・アゴスティーニ(米国)、フェレンツ・クラウス(ドイツ)、アンヌ・ルイリエ(スウェーデン)各氏が受賞した。ここでカッコ内の国名は、所属先の所在地を示している。

発表を聞いて、なるほどと私は思った。アト秒の物理は10年ほど前、欧米の科学誌を賑わせていた。極微の探究はついに時間尺度にも及んだ、という文脈で語られていたように思う。その興奮を私はすっかり忘れていたが、ノーベル賞はしっかり覚えていた。

では、本題の発表資料に入ろう。今回読むのは、報道資料(press release、A4判1枚)と一般向け科学解説(popular science background、同5枚)の2種類。以下の記述では、それぞれ「報道」「解説」と略記する。

一読して気づくのは、物理世界の途方もなさを私たちがなんとなく実感できるよう工夫していることだ。アト秒については「報道」「解説」とも、宇宙誕生から今までの時間、即ち138億年に含まれる1秒の個数が、1秒間が含むアト秒の個数に比肩するとしている。

光パルスがなぜ役立つかでは、「解説」に次の一文がある。「高速度撮影やストロボ光があれば、素早く動く現象も詳細な画像でとらえられる」。パルスがストロボ光の役目を果たすというわけだ。ただ、このたとえはアト秒物理が注目されだしたころからあった。

問題は、十分に短い光パルスをどうつくるかだ。「解説」によると、かつてはフェムト秒(フェムトは10のマイナス15乗)より短くはできないとみられていた。ところが21世紀初め、アゴスティーニ、クラウス両氏が、それぞれ数百アト秒のパルスを生みだす。この成果の土台を築いたのが、ルイリエ氏の1980年代からの研究だった。「解説」は、その手法の要点を簡略な図と明快な文章で説明している。要約すればこうだ――。

レーザー光をガスのなかに通すと、ガスの原子内の電子が外へ飛びだす。電子はレーザー光からエネルギーを貰い、原子内に戻ると、余分なエネルギーを光として放つ。この光は、振動数がもとのレーザー光の整数倍になっている。音楽で言えば「倍音」に当たる。これら「倍音」の光をうまく重ね合わせれば、波の干渉で強めあったり弱めあったりして時間幅がアト秒のパルスが現れる――まるで光の手品のようではないか。

科学の醍醐味の一端が、この発表資料からは感じとれる。私たちは資料執筆者の筆力に導かれ、科学者の思考を追体験できるからだ。これも、ノーベル賞の効用だろう。

アト秒の物理は、当欄の関心事である時間論とも関係している(*2*3)。だから、これからも目が離せない。今年の物理学賞は、私に大事な宿題を思いださせてくれた。
*1 当欄2022年10月7日付「量子もつれをふつうの言葉で語る
*2 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*3 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月6日公開、通算698回
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