ウィーン、光と翳りとアドルフと

今週の書物/
「クリムト 接吻」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈薄め〉

あのころに見ておきたかったなあ、という絵がある。19世紀末から20世紀初めにかけて欧州の画壇に新風を吹き込んだオーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の作品群がそうだ。1990年代のロンドン駐在時代、ウィーンに出張する機会は幾度かあったが、仕事の合間に美術館をのぞく時間はなかった。夏休みや冬休みに見にゆく手もあったが、家族旅行の立ち寄り先としてクリムトの絵は優先順位が高くはなかった。

クリムトの絵と言えば、女性のエロティックな姿が目に浮かぶ。ただし、それは解毒され、気品が漂っている。あの沈潜した色調のせいだろうか。あるいは、捻りがきいた構図がもたらす効果なのか。いずれにしても、従来の絵画世界にない何かがそこにはある。

この画家が「ウィーン分離派」創始者の一人とされていることも、彼の絵に心惹かれるようになった理由の一つだ。「分離派」と聞くと、私は建築をすぐに思い浮かべてしまうのだが、この用語は実は分野の垣根を超えた一群の芸術家を指すものだった。美術作品であれ、建造物であれ、旧来の様式から離れて新しいものをつくろうというのが分離派の芸術運動だ。19世紀末、オーストリアやドイツで台頭した。その源流にクリムトがいたことになる。

建築について言えば、分離派の作品群はギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック……と続く歴代の建築様式が国際様式と呼ばれるモダニズム建築にとって代わられる端境期に現れた。型にはまらず自由、重厚というより軽快――そんな印象を受けることが多いので、私は好きだ。それは、クリムトの絵画にも通じる。あの沈潜した色調も、捻りがきいた構造も、絵画界での様式離脱の産物と言えるのだろう。

で、今週は、そのクリムトの絵について書いた文章を読む。『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)所収の「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆)だ。朝日新聞日曜版1985年8月4日付紙面に載った記事の文庫版再録である。著者は1953年生まれの朝日新聞記者(当時)。去年暮れ、病に倒れて死去した。その人となりは今年2回、当欄で触れている。(*1、*2)

中身に立ち入る前に「世界 名画の旅」という企画について説明しておこう。これは1980年代半ば、朝日新聞が日曜版の目玉商品として始めた連載。日曜版がカラー刷りだったことをフルに生かして、世界各地の美術館などに所蔵された絵画を大きく載せ、その作品にまつわる話題を掘り起こして記事にするというものだった。執筆陣は、筆力がある名うての記者ばかり。バブル経済崩壊前のことなので海外出張にも潤沢な予算がついたようだ。

「クリムト 接吻」の書き出しも紀行文風だ。ウィーンの町並みを見物するには市電の環状線に乗ればよい、という話から始まる。約40分で旧市街を1周。この路面電車の通り道が「リング通り」だ。「窓からは、ハプスブルク帝国期に建てられた荘重な建物のシルエットを眺めることができる」。劇場、大学、市役所、議事堂、王宮、博物館、美術館……。この道路は1857年、当時のオーストリア皇帝の意向を受けて建設が始まった。

皇帝は何を望んだのか。もともとリング通り一帯には「旧市街を囲む城壁」があった。それをあっさり取り壊して「強大な帝国の威光を示す建物」を次々に配置していく。30年ほどかけての大事業。中世の城郭都市を近代の帝都につくりかえたかったのだろう。

このリング通りのことは、私も『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)を紹介したときに触れている。この本は、それを「分離派」と関係づけていた。ここでは、拙稿のその一節をそっくり引用しよう。

《当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという》(*3)。皇帝の近代はしょせん、旧時代の様式をなぞるものだった。そうではない本当の近代を分離派は求めていた。

では、分離派クリムトは画家として、どんな近代をめざしたのか。「接吻」という作品に沿って考えてみよう。この絵では、肩を露わにした女性が花園に立ち、男性の接吻を受けている。目を閉じてうっとりした表情、体にぴったり合った着衣が官能的だ。不思議なのは、男性の足が地についていないことだ。そう思って見ると、女性は横たわっているようでもある。二人をくるむように描かれた模様がベッドを覆う布の柄にも見えてくるではないか。

「接吻」記事はこう読み解く――。絵が「官能を大胆に描きながら、不思議にみだらさを感じさせない」のは「『死』のイメージ」が「放逸な悦楽」を粉砕しているからだ。「悦楽に沈む女性」は「つま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているかに見える」。ここで「絶壁」とあるのは、花園が画面右側で途切れているからだ。「途切れる先に広がる金色の奈落――それは、ウィーンが置かれた現実そのものだった」とある。

「接吻」が描かれたのは1907~1908年。そのころ、ウィーンは華やかさの陰で「死の病に侵されていた」。帝国の支配は民族主義のうねりを受けて崩れそうだった。帝都にも経済格差の亀裂が走り、リング通りの外側には、内側の繁栄と隣り合わせの貧困があった。

「接吻」記事は、クリムト作品の「官能」が19世紀末~20世紀初めに「もてはやされた」理由を探っている。着目するのは「性に対する意識」だ。記事によると、帝都には表向き「性」に触れない空気があった。その裏で、街には売春行為など「性」があふれていた。リングの内外に繁栄と貧困があるように、「性」にも二重性があったのだ。クリムトの絵は、上流階級の気品漂う世界にも実は官能が潜むことを強調しているように見える。

記事のもう一つの読みどころは、この時代にこの都市で画家を志した二人の青年を対比させていることだ。二人には、ウィーン美術アカデミーの入試を受けたという共通点がある。一人は1906年に合格した。後にクリムトの弟子となるエゴン・シーレだ。「死と少女」などの作品で知られる。もう一人は1907年と1908年に受験したが、合格できなかった。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。やがて独裁者となるあの人である。

記事の筆者外岡がすごいのは、シーレ青年とヒトラー青年がウィーンで住んだ場所をすべて見てまわったことだ。どちらも転居を繰り返したようで、居住先はそれぞれ6カ所ずつ。1908年には、二人の住まいが300mの近距離だったこともある。面識はなくとも「人込みの中で視線を交わしたこと」くらいはあっておかしくないという。もう一つ興味深いのは、二人とも最初と最後の住まいがリング通りの外側にあったことだ。

実際、「リングの外」は二人に影響を与える。ただ、その方向はまったく異なっている。

シーレは美術アカデミーを退学して「リングの外」の労働者街に住み、貧しい人々をモデルに絵筆をとった。ウィーンの世情は、リング内側の虚飾が剥げ落ちる時代にさしかかっていた。そこで「当時の美術の主流だった装飾的な要素を捨て、切り込むように赤裸々な人間を描いた」のである。これは、クリムト作品がリング建設期の余韻を漂わせているのと対照的だ。「接吻」でも、官能は装飾性のある衣服や花畑に包まれていた。

ヒトラーも、「華麗なウィーンの幻影の裏に潜む悲惨」を目の当たりにしたところまではシーレと同じだ。だが、そのウィーンに憎しみを募らせ「腐敗の根源にユダヤ人がいる」という妄想にとらわれる。これが人類史に刻まれる残虐行為の駆動要因となった。

この記事には、ヒトラーの絵画作品が1点載っている。1907年ごろ、リング通りをやや上方から見通した水彩画だ。遠近法に従っているのに平板。陰翳がほとんどない。このありきたりな絵の描き手が、世界をあのような悪夢に陥れたとは――。一瞬、背筋が凍った。
*1当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 「本読み by chance」2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月29日公開、通算624回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ウクライナの怖くて優しい小説

今週の書物/
『ペンギンの憂鬱』
アンドレイ・クルコフ著、沼野恭子訳、新潮社

ヴァレニキ

キエフがキーウになった。これは正しい。地名は、たとえ国外での呼び名であれ、できる限り地元の人々の意向に沿うべきだからだ。ただ、この表記変更を日本の外務省が決めたとたん、国内メディアがほとんど一斉に「右へならえ」したことには違和感を覚える。

表記を変えるなら、メディアが率先して敢行すればよかった。一社だけでは混乱を招くというなら、日本新聞協会に提起して足並みを揃えることもできただろう。こうしたことは平時に決めるべきものだ。キーウ表記を求める「KyivNotKiev運動」をウクライナ政府が始めたのは2018年だから、時間はたっぷりあった。この運動がウクライナの世論をどれほど強く反映したものかを冷静に見極めてから、自主判断することもできたはずだ。

それはともかく、今回のロシアによるウクライナ侵攻では、これまでと違う戦争報道が見てとれる。日本国内のメディアが、というよりも西側諸国のメディアがこぞって、戦闘状態にある二国の一方に肩入れしているように見えることだ。ベトナム戦争以降の記憶を思い返しても、そんな前例はなかったように思う。それは一にかかって、この侵攻が不当なものだからだ。大国が小国を力でねじ伏せようとする構図しか見えてこない。

ただ、その副作用も出てきている。ウクライナの戦いはロシアの侵攻に対するレジスタンス(抵抗運動)だが、それをイコール民族主義闘争とみてしまうことだ。もちろん、その色彩が強いのは確かだが、両者は完全には同一視できない。ところが、今回の侵攻はあまりに不条理なので、「レジスタンス」という言葉に拒否感がある思想傾向の人までウクライナに味方する。このときに民族主義がもちだされ、称揚されることになる。

日本外務省のウェブサイトによると、ウクライナにはロシア民族が約17%暮らしている。ほかにもウクライナ民族でない人々が数%いる。この国は多民族社会なのだ。だから、レジスタンスにはその多様性を守ろうという思いも含まれているとみるべきだろう。

で、今週は『ペンギンの憂鬱』(アンドレイ・クルコフ著、沼野恭子訳、新潮社、2004年刊)。略歴欄によれば、著者は1961年、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれ、3歳でキーウに転居、今もそこに住んでいる。出身地は誕生時、レニングラードと呼ばれていた。移住先はこのあいだまでロシア語読みキエフの名が世界に通用していた。都市名の変転は、著者が激動の時代を生きてきたことの証しだ。この本の原著はソ連崩壊後の1996年に出た。

この小説はロシア語で書かれている。「訳者あとがき」によると、著者は自身を「ロシア語で書くウクライナの作家」と位置づけている。19世紀の作家ゴーゴリが「ウクライナ出身だがロシア語で書くロシアの作家」を「自任」したのと対照的だ。その意味では、クルコフという小説家の存在そのものが現代ウクライナの多様性を体現している。ただ最近は民族主義の高まりで、ウクライナ語の不使用に風当たりが強いらしいが。(*)

中身に入ろう。主人公ヴィクトルは「物書き」だ。キエフ(地名は作中の表記に従う、以下も)に暮らしている。作品の冒頭では、動物園からもらい受けた皇帝ペンギンのミーシャだけが伴侶だ。ある日、新聞社を回って自作の短編小説を売り込むが、冷淡にあしらわれる。が、しばらくして「首都報知」社から執筆依頼の打診が舞い込む。存命著名人の「追悼記事」を事前に用意しておきたいので、匿名で書きためてほしいというのだ。

ここでは私も、新聞社の内情に触れざるを得ない。新聞記者は、締め切り数分前に大ニュースが飛び込んできても、それに対応しなくてはならない。このため、いずれ起こることが予想される出来事については現時点で書ける限りのことを書いておく。これが予定稿だ。その必要があるものには大きな賞の受賞者発表などがあるが、著名人の死去も同様だ。経歴や業績、横顔や逸話などをあらかじめ原稿のかたちにしておき、万一の事態に備える。

予定稿はどんな種類のものであれ、社外に流出させてはならない。事実の伝達を使命とする新聞には絶対許されない非事実の記述だからだ。とりわけ厳秘なのが、訃報の予定稿。世に出たら、当事者にも読者にも顔向けができない。だからこの作品でも、編集長は「極秘の仕事」とことわっている。そんなこともあって、「首都報知」社では追悼記事の予定稿を「十字架」という符牒で呼ぶ。これではバレバレだろう、と苦笑する話ではあるのだが。

ヴィクトルはまず、十字架を書く人物を新聞紙面から拾いだす。第1号は作家出身の国会議員。目的を告げずに取材に押しかけると、議員は喜んで応じてくれて、愛人がいることまでべらべらしゃべった。愛人はオペラ歌手。そのことに言及した原稿を書きあげると、編集長は喜んだ。第2号からは省力化して、新聞社から提供される資料をもとに執筆することになる。こうして作業は進み、たちまち数百人分の十字架ができあがった。

ここで気になるのは、その資料の中身だ。それは「最重要人物(VIP)」の「個人情報」のかたまりで、これまでに犯した罪は何か、愛人は誰かといったことが書き込まれている。資料を保管しているのが、社内の「刑法を扱っている」部門というのも不気味だ。

ある朝、編集長から電話がかかる。「やあ! デビューおめでとう!」。ヴィクトル執筆の十字架が初めて紙面に出たというのだ。たしかに新聞には、あの議員の追悼記事が自分の書いた通りに載っていた。ただ、死因がわからない。出社して編集長に聞くと、深夜、建物6階の窓を拭いていて転落したという。その部屋は自宅ではなかった。編集長は「いいことも悪いことも全部私が引き受ける!」と言った。なにか込み入った事情がありそうだ。

このときのヴィクトルと編集長のやりとりは、十字架は本当に追悼記事なのか、という疑問を私たちに抱かせる。編集長は原稿から「哲学的に考察してる部分」を削るつもりはないと言いながら、それは「故人とはまったく何の関係もない」と決めつける。その一方で、社が渡した資料の「線を引いてある部分」は必ず原稿に反映させるよう強く求める。ヴィクトルが「物書き」の技量を発揮したくだりなど、増量剤に過ぎないと言わんばかりだ。

この小説の恐ろしさは、十字架の記事が個人情報の記録と直結して量産されていくことだ。その限りでヴィクトルは、記者というよりロボットに近い。私たち読者は新聞社の向こう側に目に見えない存在の暗い影を見てしまう。この工程を操っているのは、旧ソ連以来の“当局”なのか、体制転換期にありがちな“闇の勢力”なのか。そんなふうに影の正体を探りたくなる。これこそが、この作品が西側世界で関心を集めた最大の理由だろう。

実際、ヴィクトルの周りには不穏な空気が漂う。ハリコフ駐在の記者からVIPの資料を受けとるために出張すると、その駐在記者が射殺されてしまう。十字架1号の議員の愛人が絞殺される事件も起こる……。こうしていくつもの死が累々と積み重なっていく。

半面、この小説には別の魅力もある。ヴィクトルの周りに、読者を和ませる人々が次々に現れることだ。新聞の十字架記事とは別に、生きている人物の追悼文を注文してくる男ミーシャ(作中では「ペンギンじゃないミーシャ」)、ヴィクトルの出張中、ペンギンのミーシャの餌やりを代行してくれた警官のセルゲイ、元動物園職員で一人暮らしをしている老ペンギン学者ピドパールィ……みんな謎めいているが、不思議なくらい優しい。

ヴィクトルの同居人となるのは、「ペンギンじゃないミーシャ」の娘ソーニャ4歳。父ミーシャが姿を消すとき、書き置き一つで預けていく。そして、ソーニャの世話をしてくれるセルゲイの姪ニーナ。ヴィクトルと彼女は、なりゆきで男女の関係になる。この二人とソーニャとペンギンのミーシャ――その4人、否3人と1頭は、まるでホームドラマの家族のように見える。そこには、十字架の記事をめぐる闇とは対極の明るさがある。

登場人物には善良な人々が多いように見えるが、実はそれが罠なのかもしれない。そう思って読み進むと、やはり好人物だとわかって、再びホッとしたりもする。人々が優しくても社会は怖くなることがある。読者にそう教えてくれるところが、この作品の凄さか。
*朝日新聞2022年3月16日朝刊に著者クルコフ氏の寄稿がある。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月22日公開、通算623回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

“もっている”記者という悲劇

今週の書物/
「災厄」
R
・シアーズ著、福島正実訳
『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)所収

記者の産物

クジというもので、特等賞に当たったことが私にはない。ツキがないのだ、とつくづく思う。ただ、自分の新聞記者生活を振り返ると、あながちそうとばかりは言えない。1987年2月、銀河系直近の大マゼラン雲に超新星が現れたのが、ツキに恵まれた例だ。

超新星は、恒星が一生の最期に大爆発する姿。このときは爆発で飛び散った素粒子ニュートリノを、東京大学教授小柴昌俊さんのグループが捕まえた。岐阜・富山県境の神岡鉱山に置いた水タンク「カミオカンデ」が検出したのだ。ではなぜ、私にツキがあったのか。実は1月に新聞社の科学部で持ち場替えがあり、私は天文担当になったばかりだった。もし持ち場替えがなければ、この科学的大事件を取材する機会を逃していただろう。

超新星ニュートリノをめぐっては、小柴さん自身の幸運がよく語られる。「カミオカンデ」をニュートリノの観測に合わせて改造した後、東大を定年退職するまで約3カ月間。この短い期間に、さほど遠くない超新星からニュートリノが届くというめったにない出来事が起こったのだ。それに比べれば、科学記者のツキなど取るに足らない。だが、個人的には大きな意味があった。物理学者の幸運に同期して、私にも大仕事が舞い込んだのである。

私自身がツキを得て大仕事に出あったのは、この一件くらいだ。ただ業界を見渡すと、この人は大仕事を引き寄せているのではないか、と言いたくなる記者もいる。俗な言い方をすれば“もっている”。何を「持つ」のかが不明の「持つ」である。スポーツのニュースで、偶然まで味方につけてしまうような選手によく使われる。ただこれは、記者に対しては誉め言葉になりにくい。少なくとも、当人が堂々と自慢できる話ではない。

というのも、新聞記者の大仕事は不幸な事件や事故であることが多いからだ。ところが、駆けだしの記者が警察回りを始めてすぐ大事件に遭遇すると、先輩たちから「事件を引っ張ってきたな」「もっているヤツだ」と冷やかされたりする。刑事事件には被害者がいるので、この軽口は不謹慎のそしりを免れない。だが、記者は事件の取材競争が始まると気持ちが高ぶっていく。それで仲間うちでは、こんな歪んだ心理が生まれてしまうのだ。

で、今週は、そんな記者心理を見透かしたような米国のSF短編を読む。「災厄」(R・シアーズ著、福島正実訳)。当欄が先週とりあげた作品と同様、『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)に収められた一編である(*)。

冒頭に描かれるのは1950年代半ば、独立戦争のさなかにあるアルジェリアの街だ。主人公の「ぼく」は米国人の新聞記者。なぜ、自分はこの戦地に特派されたのか。理由の一つは、どういうわけか「流血の惨事」に「縁」があって「いくつかの大きな事故や戦乱のスクープ」で名を馳せていたことにある。業界では「厄病神(カラミティ)」とも呼ばれている。たぶん、本社も彼を“もっている”記者とみて白羽の矢を立てたのだろう。

「ぼく」自身は、戦場取材を希望していたわけではなかった。このときもカフェの一角に陣取って、一群の売笑婦が通りを行き過ぎるのを眺めていた。と、突然、若い女性が近づいてきて同じテーブルに相席する。「アメリカ人じゃありません?」と声をかけてくる。「故郷のひとだと思ったら、たまらなくお話がしたくなっただけなの」。ニューヨーク出身の踊り子で、名前はカーラ。この街でもキャバレーでショウに出ているという。

カーラは謎めいていた。いきなり「ぼく」の職業を新聞記者と言い当てる。「あなたはおぼえていないでしょうけど、わたしはあなたをおぼえているのよ」。そう言って、7歳のときに火事があって……と昔話を始めると、「ぼく」にもその記憶がよみがえってくる。10年あまり前のこと、テキサス・シティでアパートの火事があり、そのとき「ぼく」が助けだした女の子がカーラだった。これで二人は意気投合、ついには一夜をともにする。

カーラはハニートラップではないか、と思われる導入部だ。話がスパイ小説めいたものに発展するのかなという気もしてくるが、それからの展開はこの予想を裏切る。

翌日早朝、二人は地中海沿岸へドライブに出る。あたりにはローマ時代の遺跡があったので、廃墟のそばでサンドイッチをぱくついた。朝の陽射しが注ぐなかでのピクニック。「すばらしい恋」だ。ただこのとき、「ぼく」の内心には「奇妙な不安定感」が湧きあがっていた。「胸さわぎ」のようなものだ。「悪いこと」の予感といってもよい。そして、それは現実になる。大理石の柱がぐらつき、倒壊した。大地震が起こったのである。

二人は、どうにか逃げ抜けた。「ぼく」はその日、地震の原稿を本社に送りつづける。仕事をしていても、避難時にカーラが「もういや! もう、またこんなことになるなんて!」と絶叫していたことが気になる。送稿を終えて「きみは、今までに、何度もこういう災害を見てるんじゃないの?」と尋ねると、彼女はそれを認めた。テキサス・シティの火災、列車事故2回、1年前のリオ・デ・ジャネイロ大火……。それらすべてに居合わせたという。

ここで交わされる「ぼく」とカーラの問答が、この小説の主題だ。「きみは、災害が起こるまえに、何か、感ずるんじゃないか?」「そうなの。わたし、何か恐ろしいことが起こるとき、かならず、何か感ずるの」。不安に駆られて、一人だけでいられなくなるという。「ぼく」は、前夜の情事にもそんな事情があったのかと思い、「奇妙な安堵と失望」の入り交じった気分になるが、カーラは「でも、それだけじゃないわ」と抱きついてくる――。

主題についてあれこれ書くのは、このくらいでやめる。その代わり、作品の後段で出てくる災厄のことで、私がとんでもないことに気づいてしまったことを書き添えておこう。

その災厄とは「一九五五年のマン島レース」で起こった大事故だ。「あの惨事については、皆さんのほうがよく知っているだろう」と作者がことわっているから、実際にあった事象を指しているらしい。レースに出場したクルマが「超満員の観客席の中へ、頭から突っこんで」「マン島レース始まって以来の悲惨な大事故を惹き起こした」とある。死者82人、重軽傷者100人余という数字まで示されているので、これは史実だろうと思った。

このとき頭に浮かんだのが、自動車レースの聖地ル・マンだ。いつのことかはわからないが、ここで大事故があったという話を聞いた気がする。ネットで検索すると、ウィキペディアに「1955年のル・マン24時間レース」という項目があり、接触による炎上事故でドライバーと観客「83名」が亡くなったと記されている(2022年4月15日確認)。この事故を作品に取り込んだのだな、と早合点しそうになった。が、どうもおかしい???

違和感の理由はすぐにわかった。作中で描かれているのは「マン島レース」であって、「ル・マン24時間レース」ではない。マン島は英国の自治保護領で、イングランド西岸のアイリッシュ海にある。一方、ル・マンは字面でわかるようにフランスの小都市で、ロワール地方にある。ここで話がややこしいのは、マン島も有名な「レース」開催地であることだ。オートバイの「マン島TTレース」が、毎年の恒例行事になっている。

これは、作者がわざとすりかえたのか、それとも単なる勘違いか。作者の創意を雑念なしにくみとるのが正攻法だが、作者はレース系の話題が苦手で混同したのだろう、とニヤッとするのも読書の楽しみ方としてはありだろう。もう一つ、翻訳の段階で取り違えられた可能性はどうか。原文で確かめるべきだが、今すぐ手に入らない。推測で言えば、原語で「マン島」は“Isle of Man”、「ル・マン」は“Le Mans”なので、間違えたとは考えにくい。

私の関心は本題から離れ、作中の「マン島レース」事故が実話かどうかという一点で立ち往生してしまった。事実の認定にこだわるのは元新聞記者だからだろう。たまたま読んだSFでこんな難所に出あうとは。私は別の意味で、“もっている”のかもしれない。
*当欄2022年4月8日付「忘れたらどうするかがわかる小説
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月15日公開、通算622回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

忘れたらどうするかがわかる小説

今週の書物/
「奇妙な子供」
リチャード・マシスン著、石田善彦訳
『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)所収

メモリー

忘れることが怖い年齢になった。日常生活のさまざまな局面で、この怖さを実感する。たとえば、玄関を出たときがそうだ。歩きだしてしばらくすると、カギを締めたか、締め忘れたかが気になる。20m先ならすぐ戻るが、50m先だとちょっと悩む。結局は引き返してドアをガチャガチャとやり、施錠済みを確認してホッとするのだが……。以前なら「心配性だな」と苦笑いしたものだが、最近は笑い話では済まされないと思うようになった。

記憶状態をテストしたりもする。先々週もちょっと触れたことだが、私はテレビの2時間ミステリー(2H)が好きだ(*)。今は地上波各局の新作の放映枠が消えてしまったから、旧作をBS局やCS局で観ることが多い。となると、主な制作年は1980~2000年代だ。画面には、懐かしい男優女優が次々に出てくる。そんなときに私が心がけているのは、彼ら彼女らの芸名をフルネームで思いだすことだ。2Hにはそんな効用もある。

このテストでは、ときに自信を失うこともある。その役者を知らないわけではない。世間的にも有名だ。レギュラーの出演番組から私生活の噂話まで次々に思い浮かぶのだが、なぜか名前だけが出てこない。「ほら、あの人、あの人だよ」。モヤモヤが喉元まで届いているのに言葉にならないという感じだ。思いつく苗字をア行、カ行……の順で想起してみるが、どうしても思いだせない。ところが数分たって突然、その名がひらめいたりする。

つくづく思うのは、人間がなにかを覚えているということの不可解さだ。たとえば、私がなかなか思いだせない俳優をAとしよう。Aの出演番組はドラマBやバラエティーCであり、私生活で噂される相手はDだとする。このとき、私の脳ではAがB、C、Dに紐づけられている。A、B、C、Dのネットワークだ。不思議なのは、記憶からAの名が消えても、なにものかがB、C、Dとかかわっているという情報は残存していることである。

で、今週は、私たちの生活が記憶に支えられていることを思い知らせてくれるSF。「奇妙な子供」(リチャード・マシスン著、石田善彦訳)という短編小説だ。『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫、1976年刊)に収められている。編者はSF系の作家兼翻訳家兼評論家であり、『SFマガジン』初代編集長としても知られる。その人が「おかしな世界」を描くSFの秀作12編を選んだものが、この短編集である。

この「奇妙な…」は、話の入り方は絶妙だ。夕暮れ時のオフィス街。西日がビル群の窓で照り返されている。窓の下からは車や人々が通りを行き交う音が聞こえてくる――そう、退社時刻だ。この小説の主人公ロバート・グラハムも仕事じまいのモードに入っていた。

午後5時きっかり、処理済みの書類を決裁かごに投げ入れ、帰り支度する。「きょうもまた終った」。さあ、家に帰って夕食だ。食後はテレビを楽しむか、それとも友人夫婦に声をかけてトランプのブリッジでもするか。解放感に浸ってオフィスを出る。

ところがグラハムは、エレベーターに乗ってから困ったことに気づく。妻に頼まれた買い物が何だったか、どうしても思いだせないのだ。シナモンだったか、胡椒だったか、それとも「えぞねぎ(チャイブ)」か。この困惑は彼を襲う変事の予兆にほかならなかった。

ビルの玄関から外に出たときのことだ。今度は、もっと差し迫ったことが思いだせなくなっていた。「今朝、おれはどこに車を駐めたろう?」。グラハムはマイカーで通勤していて、車は路上の駐車用スペースに置いていた。この朝とめたかもしれない場所を一つひとつ思い返していく。あそこはトラックが先にとまっていた、あそこは女性が車をバックギアで入れようとしていた……だが、自分の車がどこにあるのかは見当がつかない。

花屋の前ではないか。あそこにはこれまでも、しばしばとめていた。そう思って足を運んでみると、そこにもなかった。グラハムはその街角に茫然と立ち尽くして、駐車スペースに目を向ける。すると脳裏に、まず緑のフォードが浮かんだ。それが消えると、今度は青のシボレーが現れた。自分の車は緑の1954年型フォードのはずなのに、その記憶もぐらついている。「最初は駐車した車の場所を忘れ、今度は自分の車の型式を忘れてしまっている」

記憶の混乱がマイカーの型式によって顕在化したというのは、いかにも米国の小説らしい。グラハムの脳内では、1932年型の空冷式フランクリンから1954年型のフォードまで「これまでに所有したすべての車の像が走りすぎた」。1947年のプリマス、1938年のポンチャック、1945年のシボレー……その想起は時系列に従っていない。「まるで年月がねじれ、過去と現在がぴったりとくっつき合ってしまったようだった」とある。

グラハムは、改めて自己確認する。「現在は一九五四年だ。おれは三十七歳だ。おれの持っているのは緑色のフォードだ」――だが依然、車の場所は思い当たらない。

グラハムは結局、地下鉄で家に帰ることにする。ところが、地下鉄駅の階段入り口で彼の頭はまた、混乱する。自分はマンハッタンに住んでいるはずだ。いや、ブルックリンだったか。いやいや、クィーンズだ。いやいやいや、ニュージャージー州かもしれない……。

と、このように筋を追っていたら結末に行き着いてしまう。このへんで筋からは離れよう。記憶はどう守られているのか、その問いのヒントをこの作品から拾いあげてみる。

まず言えるのは、記憶には付帯情報があることだ。たとえば、グラハムの住まいの記憶は詳細な住所を伴う。マンハッタンなら西87丁目568番地3-Cアパートメント、ブルックリンなら東7丁目222番地……。これは、情景付きのこともある。ブルックリンの記憶には「プロスペクト公園の近くのあの小さな家」が結びついている。これでわかるのは、一つの記憶が記憶として成立するには、それを支える関連記憶が欠かせないということだろう。

住んでいる場所を、一度でも住んだ記憶がある場所から選びだすときも付帯情報が助けになる。グラハムはクィーンズやニュージャージー州に住んだことを覚えていたが、その一方で、クィーンズには少なくとも15年間住んでいない、ニュージャージー州に住んでいたのは10歳まで、という別の記憶もしっかり保っていた。これによって、現住所の候補地のうち二つは過去の居住地として排除できる。消去法で答えを絞り込めるのである。

ここでふと頭をかすめるのは、人間はふだんからこんな作業を脳内で繰り返し、それによって自分の記憶を補強しているのではないか、という仮説だ。そして、一つのことをすっかり忘れてしまったときには、脳内に残された関連の記憶を総動員してそこから元の記憶を再建しているのかもしれない。朝出た家へ夜帰る、よその家には闖入しない、という日常の安定もそんなしくみに支えられているのか。ちょっと心細いが、心強くもある。

もう一つ、記憶の支えとなりそうなものに文書がある。証明書の類だ。現代社会では、これは最強のように思える。この作品でも、グラハムが運転免許証を手にとる場面があって、これで一件落着かと思わせる。ところが、そうは問屋が卸さない。免許証の住所は転居時に変更を届けていなかったものではないか、と本人自身が疑う。書かれていることが事実とは言えないのだ。少なくともこの小説の作者は、文書を信用していない。

それで私がふと思いだしたのが、去年も今年もコロナワクチンの接種会場で運転免許証を提示したことだ。スタッフは、免許証の写真と私の顔を見比べ、私を私と断定した。だが、よくよく考えてみれば、免許証に記された名前の人物が免許証の写真の人物と同一であることの根拠はどこにあるのだろう。大昔、免許証を初めて取得したときに厳密な審査を受けたようには記憶していない。そもそも、私は私で間違いないのか。

この小説の結末は、ああそういうことか、と思わせるものだ。そこにはSFらしい筋立てがある。ただ、その筋を抜きにしても、この作品は興味深い。人生なんてしょせん、記憶の断片の寄せ集めではないか。そんなことを、さりげなく教えてくれるからだ。私たちは日々、その断片を組み立て直して自分という系(システム)をつくりあげている。それがばらばらになる日まで組み立てつづけるのが人間というものなのだろう。
*当欄2022年3月25日付「西村京太郎、鉄道の魔術師
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月8日公開、同日更新、通算621回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

箱男の気持ち、今ならよくわかる

今週の書物/
『箱男』
安部公房著、新潮文庫

箱の内側

コロナの春がまためぐってきた。咲き誇る桜並木の下を、乱れ散る花びらの中を、行き交う人々と距離をとりながらマスク姿で歩くのも3年連続となった。おととし「今年ばかりは仕方ない」と思って受け入れた急場の作法だったが、それがもはや習慣になっている。

長閑なり距離を取りあう箱男(寛太無)

こんな行動様式がすっかり身についてしまったからか。街をぶらついていて頭に浮かんだのが「箱男」という言葉だ。顔面は口も鼻も頬もすべて覆っている。人が近づいてくれば、無意識にその人から遠のいている。これなら、だれかとすれ違っても気づかれないだろう。挨拶しなくても済みそうだ――そんな自分の姿は、頭からダンボール箱をかぶった人間と同じではないか。それで、前掲の拙句を先日の句会に出したのである。

「箱男」は小説の題名だ。前衛の作風で知られる安部公房(1924~1993)の長編小説である。発表は1973年。第1次石油ショックが高度成長を終わらせた年だが、日本社会が石油高騰の直撃を受けたのは晩秋のことなので、高度成長最末期の作品と言ってよい。

考えてみれば、「箱男」という発想はあの時代にぴったり合っていた。なによりも「箱」が世間にあふれ返っていたからだ。私の幼少期は高度成長期に入る前で、物を入れる大ぶりの箱といえば木製のリンゴ箱だったが、それがいつのまにかダンボール箱に代わっていた。軽量で組み立て式のところが、大量生産品の包装に適したのだろう。スーパーの倉庫にダンボール箱が山積みになっている光景は、高度成長期の象徴の一つだった。

人が箱をかぶるというのも、あの時代らしい思いつきだ。高度成長期の象徴には団地の風景もあった。直方体の建物がずらりと並んでいる。同一規格の建物それぞれに同一規格の居住空間が詰め込まれている。これだけでもう、「箱男」と言えるではないか。

高度成長期は人間関係が一変したころでもあった。農漁村部にあった地縁血縁の社会が縮まる一方、大都市圏では縁の希薄な社会が膨らんだ。都市の人間は多かれ少なかれ、人間関係を節減したのだ。「箱男」のたたずまいには、そんな状況が投影されている。

で今週は、その『箱男』(安部公房著、新潮文庫、1982年刊)を読む。筋はあるのだが、その流れを入念に追いかけていると読みどころを見逃してしまう――そんな作品だ。背景には、1950~60年代にフランス文学界を席巻した「新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」「反小説(アンチロマン)」の影響もあるだろう。著者は切り抜き帳を作成するように、さまざまな文章の――ときには画像の――切れ端をぺたんぺたんと貼りつけていく。

それは、冒頭4ページを見ただけでもわかる。
1ページ目 ネガフィルムの1コマ(被写体は判別困難)
2ページ目 新聞記事(東京・上野で「浮浪者」の取り締まり)
3ページ目 「ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている」など
4ページ目 「箱の製法」と題して「材料」「工具」を列挙

5ページ目からは「箱の製法」が詳述される。たとえば、ダンボールの大きさは縦横それぞれ1m、高さ1.3mぐらいが最適なこと。強さについていえば、標準品でも「一応の防水加工」が施されているのだが、雨季に耐えるものがほしければ、ビニール被膜で覆われた「蛙(かえる)張り」があること。底蓋を内側に折り込み、針金やテープでとめておけばポケット代わりに使える、といった体験者ならではの知恵も伝授されている。

「製法」指南をもう少し続けよう。箱の内壁には、針金を使って鉤(かぎ)を取りつける。ここに「ラジオ」や「湯呑(ゆの)み」や「魔法瓶」や「懐中電燈」や「手拭(てぬぐ)い」などをぶら下げるのだ。箱は移動可能の住居であって、衣服ではない。

微に入り細を穿って説明されるのが、「覗(のぞ)き窓の加工」だ。窓の寸法の参考値は上下28cm、左右42cm。結構、大きい。ただしそこには、縦方向に切れ目がある「艶消しビニール幕」を垂らしておく。箱男がまっすぐに立っているときは「目隠し」になるが、体を傾ければ切れ目に「隙間(すきま)」ができて「向うが覗ける」。隙間には「目つき」のような「表情」を生みだす効果があり、箱男の身を外敵から守ってくれる。

この開口部にこそ箱男の本質がある。向こうからこちらは覗けないが、こちらから向こうは覗ける、ということだ。これは、コロナ禍で日常のいでたちとなったマスク姿にも通じる。だからこそ、私は拙句のように春の街に箱男の影を感じとったのである。

人はどんな事情で箱男になるのか。「Aの場合」はこうだ――。きっかけは、自宅のあるアパートの周辺に箱男が住みはじめたことだ。ビニールの切れ目からのぞく片眼が不気味だった。Aは、その箱をめがけて空気銃を撃つ。急所を外したつもりだが、箱男は血痕かとも思われる黒ずみを地面に残して去っていった。2週間ほど後、Aが冷蔵庫を買い替えたとき、ダンボールの包装を解くと「いきなり箱男の記憶がよみがえってきた」。

Aは「しばらくあたりの様子をうかがってから、窓のカーテンを閉め」「おずおずと箱の中に這い込んでみた」。これが、箱の空気を初めて吸った瞬間だ。翌日には箱に窓を開け、中に入ってみる。そのとたん箱からとび出て、それを蹴り飛ばした。胸がドキドキして危険さえ感じたのである。だが3日目になると、箱の内側にとどまって、窓から「外」を覗けるようになった。こうして、しだいに箱男の世界に引き込まれていく。

窓越しに見た「外」の様子はこうだ。「すべての光景から、棘(とげ)が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える」。古雑誌の山も、小型テレビも、灰皿代わりの空罐も、実は「棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられた」とある。これを私なりに解釈すれば、私たちは日々、身のまわりのあらゆるものに敵意を感じ、警戒しているということだろう。箱は、その敵意に対する盾にほかならない。

4日目は箱の中からテレビを視聴した。5日目は室内では原則、箱のなかにいた。6日目、箱を脱いで街に出かけ、生活用品一式と食料を買い込んだ。これが何の準備かは容易に想像がつくだろう。興味深いのは、このときポスター・カラー7色を買ったことだ。帰宅して箱に戻り、内壁に吊るした手鏡に向きあい、懐中電燈を灯して、顔面にポスター・カラーを塗りたくった。箱は、自身の変身願望を満たしてくれる装置にもなるらしい。

7日目、「Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった」――こうして箱男が誕生したのである。いや、アパート周辺をうろついていた箱男の記憶がAの欲望に火をつけたのだから、箱男が増殖したと言ったほうが正確だ。

このくだりの結語部分で著者は、箱男になりたいという衝動はA一人のものではないことを強調している。それは「匿名(とくめい)の市民だけのための、匿名の都市」を「一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者」にとって「他人事ではない」という。

ここでは「匿名の都市」について言い添えられた注釈が欠かせない。その都市では「扉という扉」が「誰のためにもへだてなく」開放されている。逆立ち歩きをしようが、道端で眠りこけようが、道行く人を呼びとめたり、歌を歌ったりしようが、すべてが「自由」。しかも、「いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る」のだ。箱男は引きこもりの一形態のように見えて、そうではない。匿名でいるのは自由がほしいからだ。

では、今の世の中はどうか。匿名性は高まったように思う。報道では、当事者の名前が出ない記事がふえた。ネットには、ハンドルネームの書き込みが飛び交っている。だが、その一方で私たちは個人番号で管理され、防犯カメラで監視されている。ネットの向こう側に行動履歴や閲覧履歴が筒抜けで、広告戦略に利用されたりもする。匿名で自己を隠しているように見えて、いつもどこかから見られているのだ。匿名でも自由ではない。

現代の匿名は、箱男の箱ほどの効力もない。こういう時代だからこそ、箱男の気持ちがよくわかる。マスクで顔を覆い、人に近づかないようにしながら歩く――その日常に箱男との類似をみても怒りが湧いてこないのは、そんな理由からかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月1日公開、通算620回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。