外骨という骨ばった遊び心

今週の書物/
『学術小説 外骨という人がいた!』
赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊

濃霧

風刺の難しい時代である。目の前には、風刺したい世の中がある。世界のトップリーダーには、風刺したくなる人物が幾人もいる。そしてネット時代の今、私たちのだれもが風刺の発信に使える道具を手にした。それなのになぜ、難しいのか。

ひとことで言えば、風刺はやっぱり人の心を傷つけるのだ。相手が米国の大統領なら、あるいは日本国の首相なら、辛辣に笑い飛ばしてもよいだろう。なにしろ先方は、途方もない権力の持ち主なのだから――そんな了解事項が世の中には一応ある。いや、あったと言うべきか。だが、その通念が今は通りにくくなった。権力者の座にある人物を皮肉ることは、その人と同じ思考をする人々を皮肉ることになりかねないからだ。

ドナルド・トランプ氏の反知性主義を風刺することは、知的エリートに反発して彼に投票した多くの人々を風刺することになってしまう。それが本意でないなら、批判は真正面からするしかない。発言をファクトチェックして事実誤認を指摘する、というように。

かつて新聞の紙面では、政治漫画というアイテムが売りものだった。たいていはひとコマで、政治面の真ん中にドカンと置かれていた。当代一級の漫画家が政界の要人を似顔絵風に描いて、ニュースの裏事情を茶化す。活字によってはできない憂さ晴らしを絵に託している感があった。ところが、これも最近は地味にしか扱われない。記事の分量を減らしたくないからではあろうが、風刺に対する逆風を反映しているようにも見える。

新聞の政治漫画は、日本だけのものではない。少なくとも30年ほど前、私がロンドンに駐在していたときは現地紙に載っていた。そのころすでに欧州では女性の政治家が多かったから、彼女たちも風刺の標的になった。漫画に登場する彼女たちはたいていスカートを履いていて、そのスカート丈が茶化しのネタになることもあった。今なら、完全にアウトだろう。その女性政治家の背後にいる世界中の女性たちがどう感じるか、が問題なのだ。

では、風刺の時代は終わったのか。即答はできないが、終わったとは思いたくない。明らかな不合理がのしかかってくるのなら理屈で対抗すればよい。だが、世の中には、もやもやした不条理もある。それを吹き飛ばすには笑いのタネにするしかないではないか。

で、今週は『学術小説 外骨という人がいた!』(赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊)。風刺家の先人といえる明治大正昭和期のジャーナリスト宮武外骨の軌跡を自由気ままな筆致で描いた本。著者は、1937年生まれの画家であり作家。路上観察学会の活動でも知られる。尾辻克彦の名で書いた小説『父が消えた』で芥川賞も受けている。私が今回手にしたのは、1985年に白水社が刊行した単行本を文庫化したものだ。

ふつうこうした評伝風の本には、当該人物の略歴や横顔がどこかに要約されているものだが、この本は違う。本文はもとより、「はじめに」にも「あとがき」にも、それは出てこない。だから、複数の辞典類に目を通して、大づかみに頭に入れておこう。

外骨は幕末の1867年、讃岐(現・香川県)の富裕な農家に生まれた。1887年に東京で「頓智協会雑誌」を、1901年には大阪で「滑稽新聞」を創刊するなど、青年期から社会風刺を手がけた。この間、不敬罪で禁固刑を受けたこともある。一方、昭和期に入って1927年には、東京帝国大学で「明治新聞雑誌文庫」の管理を任されるなど、学術面の貢献も。意外だったのは、没年が1955年であること。私が4歳になるまでご存命だったのだ。

まずは、著者と外骨の出会いから。著者は1967年、東京・阿佐ヶ谷の古書店で買い込んだ外骨の雑誌に衝撃を受ける。「HEART 教育画報 ハート」(漢字は新字体に改める、以下も)の第2号。発行所として「滑稽新聞社」の名があり、刊行年は明治末期の1907年。まもなく、こんどは友人が荻窪の古書店で別の雑誌「スコブル」を掘りだしてくる。その第1号は大正期の1916年10月発行で、「宮武外骨主筆」の名が掲げられていた。

この本には、それぞれの雑誌の表紙が大きく載っている。「HEART」第2号は上半分に大きなハートマーク。下半分は「西洋新玩具」と銘打って、民俗学者が収集しそうな「不思議な形の人形類」を並べている。どこか、怪しげだ。一方、「スコブル」第1号は、題字下に人魚が腹ばいで横たわる、という絵柄。人魚の上半身は露わ、右ひじをついて顎を支え、その指先には筆記具が……。モダンを超えてポストモダンまで先取りした感がある。

著者によれば、そのころ、即ち1970年前後、知識人の間には外骨を「要するに奇人……だな」のひとことで片づける傾向があった。そこに見てとれるのは単行本文化だ。外骨流の「雑誌表現のやりくちに於いて目の覚める革命的手法」には目が届いていなかった、という。

外骨流の極意を「滑稽新聞」を素材に概説した箇所では、「面白さの要素」に「攻撃力」「エログロ表現」「絵遊び」「文字遊び」「毎号の表紙」の五つを挙げている。雑誌は、読むだけのものではない。見るもの、遊ぶものでもある、ということだろう。

この本は、表題に「学術小説」と角書きされているように、フィクション仕立てになっている。著者が先生となり、美学校の教室や武道館、後楽園球場、あるいは渋谷のガード下で、「滑稽新聞」について講義するのだ。これはと言う紙面をスライド画像にして「カシャン」「カシャン」と映していく、という趣向。それらの画像はこの本にそっくり載っているから、私たちも外骨の〈見て読む〉メディアの恩恵に浴することができる。

おもしろいのは、「文字のツラで意味の世界をぶっ叩く」という章だ。ここではまず、外骨流の小技が紹介される。「滑稽新聞」を出していたころ、世の中には言論活動をゆすり行為に悪用する新聞がはびこり、外骨はその「騙したり脅したり」の手口に同業者として腹を立てていた。そこでユスリ批判の一大キャンペーンを展開。このとき、「ユスリ」の3文字を「特別に太(ぶっと)い活字」にした。わざわざ印刷所に特注したのだという。

圧倒されるのは、新年号の附録。それは、本物の古新聞に墨書風の「滑稽新聞 新年附録」「紙屑買の大馬鹿者」の文字がでかでかと刷り込まれていた。こういうことだ――。「無差別にかき集めた古新聞」の切れ端を印刷機にかけた。「八万部ほどの附録が一点一点全部違うわけで、こんな豪華なことはありません」と、著者もあきれる。もはや古紙に過ぎないものに人を食った新しいメッセージ。紙1枚のモノ性と情報性を際立たせた妙技だ。

さらに度胆を抜かれるのは、「明治源内小野村夫之写真」。ここで、明治源内小野村夫は外骨の別名である。その顔らしき画像が、ほぼ1ページ大に印刷されている。と言っても、ほとんど黒一色。目や唇は白い。下段の記事には「無器械写真法」「肉体直接の実印」との説明も。「斯様な写真をとりたい人は自分の顔に墨を塗ッて」(ルビは省略、以下も)とあるが、外骨が本当に数万回、墨だらけの顔を紙に押しつけたとは思えない。

日露戦争下の「滑稽新聞」社説は、伏せ字の「○」だらけだ。実際、文字より○のほうが多い。著者は「お見事」とほめ、「しかしこの美しさは何でしょうか」と感嘆する。たしかに一種のアートに見えなくもない。だがどっこい、堂々社論も展開しているのだ。○でない部分の文字を飛び石を跳ぶように読んでいこう。「今の軍事当局者はつまらぬ事までも秘密秘密と云ふて新聞に書かさぬ事にして居る」と、言論統制を皮肉っている。

その戦争報道にも諧謔がある。ロシア艦隊が濃霧に包まれて見えにくい状況を、外骨は3種の文字で伝えた。「霧」の漢字が縦横にぎっしりと埋め尽くされるなか、「露艦」の2文字がところどころに紛れ込んでいる。「霧」と「露」が似ていることに着眼した視覚表現だ。

宮武外骨というと、反骨の人と思う。だが、ただ権力に盾ついていたわけではなさそうだ。世界をまるごと相手にして、その批評に遊び心を注ぎこんでいたのだ。風刺が成立するには、そんな心の余裕が欠かせない。それが今、失われつつあることを憂うる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年2月12日公開、通算561回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
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もく星号はなぜ2度落ちたか

今週の書物/
「『もく星』号遭難事件」
『日本の黒い霧(上)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

離陸

「もく星」号と聞いて、ピンと来る人はそんなに多くはないだろう。日本航空の路線でかつて就航していたプロペラ旅客機。1952(昭和27)年4月9日、伊豆大島の三原山山腹に墜落、乗員乗客37人が全員落命した。戦後の国内民間航空史上、最初の大事故である。

私にとっては、1歳にもならない乳児期の出来事。当然のことながら、ひとかけらの記憶もない。ただ、それでも小学生のころ、そんな惨事があったとは聞いていた。なぜか? 家でテレビドラマを見ていたときにしばしば、この事故が話題になったからだ。

話は飛ぶが、テレビ草創期に人気を博した俳優に大辻伺郎がいる。「赤いダイヤ」(1963年、TBS系)という小豆相場を題材にしたドラマで、主役を演じていた。子ども心にも、クセのある役者だな、と思ったものだ。その彼が画面に現れると、大人たちはドラマとは関係のない話を始めた。大辻伺郎の父は大辻司郎という漫談家で、「もく星」号事故の犠牲者だという。そんなことがあって、私はこの飛行機の名を知ったのである。

ただ、この事故がいくつもの謎を残していることを私はずっと知らなかった。元新聞記者として、まことに恥ずかしい。最近、録画保存していた蔵出しのミステリードラマを見て、事故の原因や事故情報の流布に不可解な点が多々あることを教えられたのである。

ドラマは、「風の息」(1982年、テレビ朝日系)。松本清張の同名小説を原作にしたもので、「土曜ワイド劇場」の2時間(2H)枠をほぼ3時間に拡げて放映された。出演者は、栗原小巻、根津甚八、関根恵子(現・高橋惠子)……。栗原と根津が、それぞれの行きがかりから事故の解明に首を突っ込む、という筋立てだ。事故は現実のものだがフィクション仕立てなので、真相は見極めがたい。これをもって事故を知ったとは言えない。

ということで今回は、原作の小説をとりあげない。代わりに同じ著者のノンフィクションを読む。「『もく星』号遭難事件」(『日本の黒い霧(上)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『…黒い霧』の各編は1960年に『文藝春秋』誌に連載されたものだから、事故の8年後に書かれたことになる。ちなみに先日話題にした「追放とレッド・パージ」も、この連載の一編だった(当欄2020年12月4日付「追放、パージというイヤな言葉)。

「『もく星』号…」の一編は小説ではないので、記述は淡々としている。一つの答えに絞り込もうという強引さもさほど感じられない。だがだからこそ、事故の陰に隠された部分の大きさが読者の心に重くのしかかってくる。まさに「黒い霧」と呼ぶにふさわしい。

本文は冒頭、「昭和二十七年四月九日午前七時三十四分、日航機定期旅客便福岡板付行『もく星』号は羽田飛行場を出発した」と切りだされる。「密雲垂れこめ、風雨が頻り」という悪天候。機は20分後、千葉県の館山上空を通り過ぎてまもなく「消息を絶った」。

見つかったのは、まる1日たった翌朝だ。天気は回復している。日航の捜索機が、三原山の山腹に機体各部が散らばっているのを確認した。火口の東方、高さ2000フィート(約600m)のあたりというから、山頂(758m)に近い。破片の列は山頂方向へ帯状に連なっていた。機長が「突然、雲の間から現れた山を見て」「驚き、機種を上げようとした」と著者はみる。そうなら、「もく星」号は大島ルートを低すぎる高度で飛んでいたことになる。

このノンフィクションから見えてくる「もく星」号事故の謎は二つある。一つめは、墜落の原因。なぜそんなに低空飛行していたのか、という疑問だ。当時の羽田発日航便は西日本へ向かうとき、館山付近で針路を変え、そのあと高度を約3000フィートから6000フィートまで上げて大島上空を通り過ぎることになっていた。ところが、この日の「もく星」号は2000フィートで西進していたらしいのだ。いったい、何が起こったのか?

著者は、操縦室の機長が羽田出発前、地上の管制員とどんなやりとりを交わしたかを跡づけている。これを理解するには、予備知識が必要だ。事故発生時、日本はまだ連合国軍の占領下にあったということである。関東地方の航空管制は埼玉県所沢の米軍ジョンソン基地が司り、その指令を羽田にいる米軍所属の管制員が中継して機長に伝えていた。しかも、日航は運行業務をノースウエスト社に任せきりで、「もく星」号機長も米国人だった。

で、問題はこの日、何があったかだ。離陸前、「もく星」号の機長に届いた指令は、驚くべきことに「館山通過後十分までは高度二〇〇〇を維持して下さい」だった。館山から大島までは8分しかかからないから、これだと「衝突は必至」。機長はただちに「低すぎる」「何かの間違いではないか」と言い返している。機長は日本での飛行時間がまだ70時間だったというが、東京付近の空に不案内ではなかったことがわかる。

このときは、機長に呼応してノースウエストの羽田駐在員も抗議、それが管制塔経由でジョンソン基地に伝わり、基地は訂正の連絡をしてきたという。だから不思議なのは、2000フィートを「低すぎる」と強く認識していた機長がその高度で大島に向かったことだ。

もう一つの謎は、「もく星」号の消息が途絶えてからのドタバタだ。羽田離陸から半日ほど過ぎた午後3時、運輸省の外局である航空庁が、米軍横田基地から入手したとされる情報を発表した。それによると、日航機が静岡県舞阪沖で遭難、海上保安庁の船と米空軍機が現場へ急行したが、霧が立ち込めていてなにも見つかっていない、という。この情報はまもなく、「機体は海中に没し、尾部のみが見える」と更新された。

一方、3時15分には、これと食い違う話が伝わってくる。航空庁の板付分室が米軍から聞いたという情報だ。「もく星」号が静岡県浜名湖の南西16kmの海面で見つかり、乗客乗員全員が米軍の手で助けられたというのである。その25分後、国警静岡県本部も、同じ情報の詳細を発表する。機体を発見したのは「米第五空軍捜索機」であり、「米軍救助隊」が派遣されて乗員乗客をすべて救いあげたが、その船の入港先は不明とのことだった。

二つの情報を見比べると、遭難地点は概ね合致している。舞阪(現・浜松市)は浜名湖に面した町なので、ザクッと言えば現場は浜名湖に近い遠州灘ということだ。ただ、乗客乗員が無事なのかどうかは決定的に違う。現場は混乱した。海と空から捜索が続いたが、機体は見えない。米軍掃海艇2隻が全員の救助に成功したとの情報も浮上したが、夜になって当の2隻からそれを否定する連絡があり、「搭乗人員全員が絶望視されるに至った」という。

この混乱は、乗客家族の悲しみを倍加することになった。乗客の一人、大手製鉄会社の社長の場合はどうだったか。「全員救助」の知らせを受けると、息子と娘が製鉄会社関係の4人とともに車で静岡方面へ向かった。「フルスピードで走る車の中で六人の心は喜びにはずんでいた」と、著者は推察する。どの家族も当日は根拠のない情報に踊らされ、翌日、正反対の真実を突きつけられて目の前が真っ暗になったのだ。それは、罪深い虚報だった。

二つの虚報は、いずれも米軍から届いたとされる。だが、米軍が意図して嘘をついたようには見えない。遭難機発見という虚偽の事実を言いふらしても、機体はいずれどこかで見つかるだろうから嘘はすぐばれてしまうではないか――。私などはそう考えたが、著者の推理はちょっと違う。その答えは、ここでは明かさない。この虚報の謎と飛行高度の謎とを重ね合わせ、もしかしたらそうかもしれないという可能性を指摘したとだけ言っておく。

興味深いのは、著者がこの虚報を「謀略」とはみていないことだ。謀略なら、それは周到に練りあげられた攻めの情報操作だろう。ところが、世の中には不都合なことを取り繕うための守りの情報操作もある。近年は、後者のほうが多いように思える。この一編には「謀略が無かったから、本題の『日本の黒い霧』たり得ないか、というとそうではない」という言葉がある。著者清張は、フェイクニュースの時代を予感していたとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月25日公開、通算554回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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野に咲く花、あの社会党はどこへ

今週の書物/
『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』
保阪正康著、河出新書、2020年刊

「花はどこへ行った」はピート・シーガーのフォークソングだ。「野に咲く花はどこへ……」(日本語詞・おおたたかし)と唄いだされる。最近、日本の社会民主党が分裂して究極のミニ政党になるというニュースに触れ、その歌を小声で口ずさんでいる自分がいる。

社民党と言えば、やや失礼な言い回しをすれば野党界の老舗だ。前身の日本社会党は戦後、日本政界の一角を占め、とりわけ1955年から約40年間は与党自由民主党と対峙する野党第一党であり続けた。まさに「野に咲く花」だったのだ。ところが、その花の末裔が今、枯れ落ちる寸前のように見える。私はここで、一党派の盛衰について書くつもりはない。ただ、社会党的なるものに存在感があったという史実を心にとどめておきたいとは思う。

意外かもしれないが、社会党はおしゃれだった、という印象が私にはある。1970年前後、街角で見かけた政党ポスターがそうだ。それをおぼろげな記憶をもとに再現すれば、ガランとした電車の車内風景を写真に撮って全面に刷り込んでいた。アングルが斜めに傾いている。座席には終着駅まで乗り過ごしたらしいサラリーマンがいたような気もするが、はっきりしない。ただ、都市生活の人間疎外を感じさせる一瞬を巧く切りだしていた。

ひとことで言うと、都会的だったのだ。この印象を裏づけるように、当時、社会党のポスターづくりには大手広告代理店がかかわっていたという話を聞いたことがある。もしそうなら、もちろんビジネスとして請け負ったのだろう。だが、かかわったクリエイターやアーティストたちの内心には仕事の域を超えて、この政党に対する愛着があったのではないか。それほどにリキが入っていた。社会党は、カタカナ書きの職業を味方につけていた。

これは、テレビを見ていてもわかることだった。芸能人・タレントたちを政治の座標軸に位置づけてみると、ゴリゴリの左翼系ではなくても、自民党を嫌う一群が存在していた。そういう人たちが、それとなく社会党に好意的な発言をする場面がままあったように思う。

あのころは農村部では保守が優勢、都市部では革新が強いという色分けもあった。だから、社会党が都会的に見えたのは不思議ではない。問題は、高度成長期とその後のバブル期に農村地帯がどんどん都市化していったのに、なぜ、この党は大きくならなかったのかということだ。皮肉にも、列島改造政策などで都市化を推し進めたのは自民党政権だった。政敵がチャンスをくれたのに、それを生かせなかったのだとも言える。

で、今週の1冊は『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』(保阪正康著、河出新書、2020年刊)。著者は1939年生まれ、出版社の編集者出身の著述家。日本現代史、とりわけ昭和の戦前戦後史を学者とは異なる視点で読み解いてきた。あとがきによると、この本は「サンデー毎日」の連載「戦後革新の対立軸」をもとにしているというが、奇しくも社会党の後継政党に「消滅」の黄信号が灯る局面で世に出ることになった。

著者は、学者でないというだけではない。社会党関係者でもなかった。社会党嫌いであったわけでもない。序章では、自身が社会党の「熱烈とまでは言わないが、支持者であった」と打ち明け、「しかし次第にこの政党に関心を失った」と言い添える。この距離感がいい。

この立ち位置ゆえに、社会党のお家芸だった路線論争に深入りして、そこで唱えられたイデオロギーをマルクス主義の文献と突きあわせて吟味したりはしない。そうかと言って、社会党には追い風だった戦後民主主義まで否定したりもしない。むしろ、この政党が仲間うちの確執に明け暮れて、時代とともに移り変わってゆく人々の心模様を読みとることを怠り、世間の位相からどんどんずれていく様子を、これでもかこれでもかと指弾しているのだ。

序章は、「社会党に代表された戦後社会の姿あるいはイメージ」が私たちに残したものを辛辣な筆致で箇条書きにしている。「平和、自由、進歩といったプラスイメージの語彙を空虚にさせた」「生活の中の現実主義を糊塗するために空論を弄(ろう)することになった」……。現実を見て解決策を探らず、ただ立派なスローガンを掲げた。その結果、「空虚」な言葉の「空論」ばかりが飛び交うことになった。ずれていく、とはそういうことだ。

私は社会党のポスターを「都会的」と感じたが、著者は、1960年代から党の要職を務めた江田三郎に「都会的なスマートさ」を見ている。彼の存在は「党の人気を底上げする力」を秘めていたという。白髪のエネルギッシュな風貌で「テレビ映りも良い」と評しているが、「都会的」で「スマート」なのは外見のことではないだろう。思考の「柔軟性」がその印象を与えたのだ。それがかたちになったのが、構造改革論に根ざした江田ビジョン。

江田ビジョンでは、英国の議会政治、米国の豊かさ、ソ連の福祉、日本の平和憲法を理想像として提示している。この説明は、人々の胸にすとんと落ちた。ところが、これを「改良主義」と切り捨てる左派勢力が党内には強く、党の方針とはならなかったのだ。

江田は1977年、ついに社会党を離れる。このときの話が同じ著者の『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に出てくる。党は離党届を、本部のある社会文化会館では受けとろうとしなかった。党に近づくな、ということか。江田は会館建設の資金集めに貢献した人だ。著者は、党の仕打ちを「許せない」と断じている。(「本読み by chance」2015年4月10日付「『昭和』を聞きつづける人の本」)。同じ視点は、この『対立軸の…』にもある。

著者は、今回の本でも「昭和30年代、40年代の東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、戦前の陸軍の青年将校のようなタイプが多かったと思う」と述べている。振りかざす旗が「天皇絶対」から「社会主義絶対」に代わっただけで、「正義は我にあり」「自らに抗するものは非正義」とする点は共通だという。私も同感だ。社会党の社会主義者たちには、自分たちはなぜ社会主義をめざすのか、という自問がなかったように見える。

私がこの本でもっとも強く興味を覚えたのは、社会党の成長経済との向きあい方を振り返った箇所だ。「社会党は高度経済成長を受け入れていながら、そしてそれに見合う生活上の豊かな部分を満喫しているのに、体質は社会主義の路線や理論に甘えていた」という著者の指摘は図星だろう。あのころ、支持母体の労組は毎年の春闘で高度成長の分け前を手にしていた。その後ろ盾となるだけで義務を果たしている気になっていたのではないだろうか。

実際、高度成長の恩恵が相当なものであったことは、著者も認めている。「私自身、経済社会の豊かさの中で文筆業に入っただけに、当時の経済成長の一端に触れる実感があった」と打ち明け、「私のような実感を持っている者が、社会党の支持から離れ、いわゆる『支持政党なし』に変わっていったのであろう」と分析する。支持者たちが社会党の「古い体質」、すなわち「イデオロギーに固執している状態」を見限ったのである。

では社会党は、あの時代に存在理由を取り戻すことができたのか――それが私の関心事だ。この本は、その問いに真正面からは答えてくれない。ただ、高度成長期の社会を論述したくだりから、存在理由は失ってはおらず、見失っていただけらしいことがわかる。

著者は、1960年代後半から日本社会に「二つの特徴」が現れたという。一つは豊かさの不公平。ところが、個々人の所得増に惑わされて「分配が公平にいっているような錯覚」が生じた。もう一つは公害。それは「高度成長に伴う不可避的な問題」にほかならなかった。

この二つに、社会党はもっと目を向けるべきだったのだ。その後、分配の不公平は市場経済万能論や経済のグローバル化で深刻度を増し、格差社会を生みだしていく。公害は、住民対企業の構図に収まらないエコロジー思想を育て、地球環境に対する危機感が強まっていく。一つの左派政党が1960年代、この展開を予想できたとは思わない。だがせめて、その激流に取り残されないだけの思考の準備をしていてほしかった。そう思わざるを得ない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月18日公開、通算553回
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小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
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