アインシュタイン、その実在愛

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

実在か否か?

先週に続いて『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)を読もう。著者が60歳代後半に「自伝のようなもの」と題して綴った文章だ。軟らかな話題が満載かと思いきや、思い切り硬い話だった。(*1)

先週も書いたことだが、著者の関心事は「何を、どう考えるか」にあり、半生記も「脳内の出来事」に重きを置いている。実際、本書には物理の話が次々に出てくるが、それは著者の思考を跡づけるかたちで語られる。これが、ふつうの科学本と違うところだ。

で、先週の当欄が焦点を当てたのは、著者が若いころに培ったニュートン力学批判の視点だった。物理学史を振り返ると、19世紀には電磁気学が進展して、電場や磁場という「場」の概念が生まれた。これは、質量と力と運動法則だけで世界を記述しようとするニュートン流の質点の力学とは相いれなかった。著者は、この矛盾に真正面から向きあった。学界には二元論的な考え方も出てきたが、それでは満足できなかったのだ――。

今週は先へ進もう。注目するのは、著者が実在論者だったことだ。たとえば、1905年に発表したブラウン運動の考察。この年は「アインシュタイン奇跡の年」と呼ばれ、著者が画期的な論文を次々に出した。一番有名なのが、特殊相対性理論。そして、電子が光によって弾きだされる光電効果の理論。これは量子論の発展に寄与した。それらの陰に隠れがちだが、ブラウン運動の研究も科学史に残る。それが原子や分子の実在を決定づけたからだ。

ブラウン運動とは、花粉が水面で見せる不規則な動きを言う。植物学者のロバート・ブラウンが見つけていた。著者の論文は、それを理論づけたものだ。水面に浮かぶ微粒子の運動を熱力学の分子運動論を使って考えると、「粒子の動きを定量的に表す統計的な法則」が見つかった。その計算結果は、観察結果に「みごとに一致」する。これが、原子や分子が実在するか否かという、当時物理学界を揺るがしていた論争に決着をつけたのである。

実在するとみる「原子論」の旗手は、熱力学、統計力学のルートヴィッヒ・ボルツマン。対する「懐疑派」は、物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハらだった。ボルツマンが自死したのは1906年。著者のブラウン運動の論文とほとんど入れ違いだった。

著者は、この件ではボルツマンの側に立った。その主張はこうだ。「懐疑派」は「観測事実だけを科学知識の源泉とみる」(本書では斜体部分に傍点、以下も)という「実証主義的な姿勢」に固執して世界像を見誤った――。「脳が自在につむぎ出す概念」も「現実と突き合わせつつ使われていく」ならば「観測事実の説明に大きく役立つことがある」。言葉をかえれば、脳は観測事実の向こう側に潜む実在物を見逃さないということか。

著者は、人間の観測行為の有無にかかわらず、物理世界は現実に在るという実在論にこだわっていた。そのことは量子論に対する懐疑につながった。批判の的は1920年代半ばに確立した量子力学だ。電子が原子核の周りでどんな運動状態にあるか、ということなどを記述する。ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学とエルヴィン・シュレーディンガーの波動力学の2流派があるが、本書は後者に出てくる波動関数ψの弱点を突いている。

ψに対して、著者には疑問があった。アイザック・ニュートンの力学では「空間内の『質点と時間』が現実」、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの電磁気学では「空間内の『場と時間』が現実」である。では、量子力学のψもなんらかの「現実」を表しているのか?

著者自身も、これが即答しにくい難題であることは認めている。ψは、観測者が電子の位置や運動量を測ったとき、ある値をとる状態が「これこれの確率で見つかる」ということを言っている。この確率を「現実の量」として実測するには、測定を幾度となく繰り返さなければならない。では、1回きりの測定で得た位置や運動量の値はいったい何なのか。それは、決定論に従って事前に予測できるものなのかどうか。わからないことが多い。

著者はここで、架空の人物二人の対話を提示する。A氏は、「系」をかたちづくる粒子の位置や運動量は測定前に「決まっているはずだ」という立場。そうならば、ψは「系の実体」について「だいたいのことしか表していない」ことになる。これに対して、B氏は決定論を否定して、こう言う。位置や運動量は測定時に限り「ψが決める特有な確率」に従って「ある値が顔を出す」。だから、ψは「系の実体を余すところなく表現してる」と譲らない。

著者は、ψは不完全だとしてA氏を支持する。一方、B氏の側に立つのが、当欄もとりあげた量子力学の多世界解釈だ。それはψの完全性を主張している(*2)。多世界解釈の登場は1957年。本書の原著執筆よりも後のことなので、著者はもちろん言及していない。

著者がψの不完全性を論じる箇所でもちだすのが、局所実在論だ。ここで述べられていることは、著者のグループが1935年に発表した「EPRの逆説」と重なりあう(EPRは、著者と論文共著者の姓の頭文字。ただし、本書はEPRの論文には触れていない)。

一つの系が部分系1と部分系2から成るとしよう。量子力学によれば、全体系にも部分系にもそれぞれψがある。部分系1を測定すると、その結果が全体系のψを通じて部分系2のψに影響する。部分系同士が離れていても、部分系1を測ったとたん「テレパシーが働いたかのごとく」部分系2が変化するわけだ。著者は、これを断固否定する。物理学には局所性があり、物事は複数の場所にまたがって一気には決まらない、とみる。

この局所実在論はその後、否定された。それは、1970年代以降の実験研究による。去年、ノーベル物理学賞を贈られたアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏は、その実験に挑んだ人々だ。「量子もつれ」と呼ばれる関係にある一対の光子をつくり、2光子が離れていても両方の状態が一挙に決まる様子を確かめた。著者はその実験結果を知ることなく、1955年に逝去した。

もし、著者が近年の量子研究熱を目の当たりにしたなら、どんな顔をするだろうか。そんな意地悪な空想もないわけではない。ただ、著者は理想をとことん追い求めながらも、理想通りにいかない現実をまともに受けとめた。私はそこに誠実さを感じる。

著者の物理学者としての理想は、一元論であり、実在論であり、決定論だったのだろう。ひとことでいえば、スッキリ明快な物理学をめざしていた。ただ研究は、そんな思惑を裏切ることもある。ときには自分自身の研究が悩みのタネを生みだすこともあった。

たとえば、こういうことだ。当欄が前回話題にしたように、著者にとってはニュートン流の「質点」の力学よりもマクスウェル流の「場」の物理が魅力的に見えた。学界には、この共存を受け入れる考え方が生まれたが、アインシュタインは一元論を理想としたので「場」の物理に一本化できないか、と考えた。ところが、奇跡の年1905年に発表した研究結果には、この願望に背くものが一つならず含まれていたように私は思う。

前述のブラウン運動を見てみよう。著者の研究が分子や原子の存在を支持したことは、実在論には適ったが、それは「質点」の力学の再評価にもつながったのではないか。

光電効果も、ややこしい。著者は、物質に光を当てると電子が飛びだす現象を考察して、光には粒子の一面があることを突きとめた。どちらかといえば「質点」のイメージになじむ理論だ。光の粒(光子)には質量がないから「質点」とは言えないが、粒子は離散的なので「場」のイメージとはそりが合わない。さらにこの理論によって、光は波であり、粒子でもあるということになった。この二面性もなんとか一元論の枠組みに収めたい――。

こう読んでくると、アインシュタインは自分で厄介ごとを抱え込む物理学者だったようにも思える。だが、そもそも科学とは一筋縄で答えが出るものではない。本人は理想と現実が角突きあわせる「脳内の出来事」に、かえって心地よさを感じていたのかもしれない。

*1 当欄2023年1月20日付「アインシュタイン、思考の自伝
*2 当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える
☆外国人の人名は、著者の表記に従いました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月27日公開、通算663回
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アインシュタイン、思考の自伝

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

考える

理系本を語るのは難しい。とりわけ、それが数学のように抽象世界を相手にする分野なら、なおさらだ。物理学も、今や具象世界を抽象世界に投影して考える営みとなっているから同様だ。それなのに私は、ついついその難所に引き寄せられてしまう。

一つには、私が科学畑の元新聞記者であり、今も科学ジャーナリストを名乗っているからだろう。現役時代は、業務として研究者から難しい話を根掘り葉掘り聞きだし、それを記事にしていた。その習性が今、老後の読書に乗り移ってしまった感じだ。

言うまでもないことだが、私は取材時に難しい話を100%理解していたわけではない。そうかと言って、まったくわからなかったということもない。いや、正直に言おう。話を聞きはじめた時点で理解度が0%だったことはある。それでもめげずに愚問の数々を投げかけていくと、おぼろげながら話の輪郭がつかめるようになってくる。これでようやく、記事の見通しが立つのだ。足裏の痒みを靴底から掻くような作業ではある。

では、輪郭をつかむとは何なのか。理解度が0%と100%の間にある状態なのは確かだ。だがそれは、50%だ、60%だ、というように数字で表せるものではない。あえて言えば、わかったような気持ちになる心のありようを指しているのではないか。

わかったような気持ち――これは、私たち人間にとって欠かせない。この世界がどんなものかわからずに生きるのは危険だ。だが、ヒトという生きものが、なにもかもわかることはありえない。ならばとりあえず、的外れにならない範囲でわかったような気持ちになることが必要ではないか。科学ジャーナリズムの存在意義の一つは、そんな心理状態を人々に提供することにある。科学本が一般向けに書かれ、読まれるのも同じ理由からだろう。

ただ、科学記事を書くのと、科学本を読書ブログで話題にするのとでは勝手が違う。記事の取材では科学者に根掘り葉掘り質問をぶつけられるが、読書ブログを書くのにその工程はない。情報源は本そのもの。本をあれこれ撫でまわし、食らいつけるところを齧りとっていくしかない。今回は、20世紀でもっとも著名な科学者の手になる書物を齧れる限り齧ってみよう。さて、それで、わかったような気持ちになれるかどうか――。

『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)。著者アインシュタイン(1879~1955)は、ドイツ生まれで米国へ渡った理論物理学者。時空の物理学である特殊相対性理論や一般相対性理論を築いたことで知られる。量子論への寄与も大きい。「訳者あとがき」によれば、本書原文は“Albert Einstein: Philosopher-Scientist”という書物(1949年刊)の巻頭に収められている。

本書では、その「訳者あとがき」の分量が本文の約半分もある。しかも、訳者は化学系の工学博士。理論物理学者ではない。だから、著者の業績に対して適度な距離感を保っている。その立ち位置は、私たち読者と同じ地平にいるように思えて心地よい。

本書原文の題名は“Autobiographisches”(「自伝のようなもの」)。ところが、まったく自伝らしくない。ページをめくると物理学の話が次々に出てくる。数式が顔を出すこともある。著者自身は、この文章を「自分の葬儀に使う弔辞」みたいなものと言う。自分にとって大事なのは「何をどう考えるか」(本書では斜体部分に傍点、以下も)であって「日々の雑事」に関心はないとして、「脳内の出来事」を中心に書く姿勢を鮮明にしている。

一例として、著者は幼少期の体験を書きとめている。父親から方位磁石を見せてもらったときの「驚き」だ。方位磁石は、本体をどちらの向きに動かしても針は一定方向を指し示す。それは「脳内にできていた概念世界とは、まったく合わない」ことだった。このように私たちの脳は、既存の概念世界と衝突する現象に出あったとき「大きく揺さぶられる」。そんな体験を繰り返すことが「思考力を鍛える」と、著者は主張している。

本書の価値を高めているのは、そんな著者の「脳内の出来事」がそのまま科学史になっていることだ。私も今回の読書では、そこに目を向けることにした。まずは、19世紀の物理学にニュートン力学ばなれの兆しがあったことを本書からたどってみよう。

ニュートン力学は、「質点系の力学」だ。アイザック・ニュートンが17世紀に打ちたて、19世紀には「物理全体の基礎」となっていた。そこには、「質量」と「力」とニュートンの「運動法則」の三つさえあれば万事を語れる、という世界観がある。これは、著者が物理専攻の学生だった19世紀末、物理学の「ドグマ」(教義)になっていた。ただ同じころ、その「信仰」を揺るがせるような動きが出てきたという。新しい研究分野の台頭である。

一つは、波動光学だ。これを「力学の土俵」で理解するのは難しかった。光は、力学の視点からは「エーテルという弾性体の振動」とみなされる。もしそうならば、空間にはエーテルが充満しているはずだ。ただ光は横波であり縦波ではないから、エーテルは縦波を起こさない「非圧縮性の固体」に近いに違いない。ところが、実際には「どんな物体も空間内をスイスイ動いていく」ではないか。これではとても固体とは思えない――。

もう一つは、電磁気学である。マイケル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルが築きあげた。この研究によって、「重さのあるどんなものとも関係のない電磁現象、つまり電磁の生む波」が真空中を伝わることもわかったのである。

光も電磁波も――光も電磁波の1帯域であることはわかってくるのだが――質点系の力学でとらえることはできない。それは、質量と力と運動法則で成り立つニュートン力学の三角形とは別のところに存在するわけだ。ここに新しい物理学の出番があった。

著者は、ニュートン力学に「内的完全性」があるか、「内的に単純(自然)」かどうか、という観点でも議論を展開している。ここでは、ニュートンが物体とは無関係な存在として想定した「絶対空間」の難点を論じ、その運動法則は「力の起源」を明らかにしていない、力と位置エネルギーの数式には「勝手な仮定」が紛れ込んでいる、などの見解も示している。著者の「脳内」では、ニュートン力学のあちこちに綻びが見えていたことになる。

波動光学や電磁気学では、「場」が主役となる。ニュートン力学の「遠隔力」が、「場」に取って代わられるのだ。本書は、ヘンドリック・ローレンツが1870年代に提示した電磁世界のイメージを要約している。私がさらに要約すると、以下のようになる。

・電磁場は真空でも存在可能
・粒子は電荷が在る場所
・粒子間の真空には、粒子の電荷の位置と速度に対応して場が発生する
・粒子の電荷は場を生み、場は粒子の電荷に影響を与える
・このとき粒子はニュートンの運動法則に従って動く

著者はローレンツの仕事を評価しつつ、自身が若いころに抱いた違和感も率直に打ち明けている。「ニュートンが重視した質点と、どこまでも広がる……その両方を基本概念に使っている」。物理学者らしく、その「二元論」的構造に引っかかったのだ。著者は、ここで一つの着想を得る。「場」のエネルギー密度が著しく大きな領域を「粒子」とみればよいのではないか。それがうまくいけば、質点の運動方程式も「場」の方程式から導ける。

考えてみれば、著者の一般相対論は、重力を「遠隔力」とは見ず、重力の「場」で一元的に描きだした。それだけではない。「力の起源」も時空の曲がりによって説明している。

前述のように、著者は既存の概念世界と相いれない物事に出あうことに価値を見いだしている。青年時代に遭遇した「場」の物理学は、まさにそれだったのだろう。これを糸口に、当時の「ドグマ」ニュートン力学を批判的にとらえて相対論にたどりついたのだ。

著者アインシュタインの「脳内の出来事」は、これにとどまらない。相いれない難物との遭遇はほかにもあったのだ、次回も本書で、その脳内模様をたどってみよう。
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月20日公開、通算662回
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大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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女王去って連邦は悩む

今週の書物/
読売新聞、東京新聞、朝日新聞各紙の2022年9月20日付朝刊

王室

英国はすごい、と目を見張ったのは1994年、ネルソン・マンデラ大統領の新体制となった南アフリカ共和国が直ちに英連邦(the Commonwealth)に再加盟したこと、そして翌年、エリザベス英女王の訪問を手厚く迎えたことだ。人種隔離政策アパルトヘイトによる「白人支配」を終わらせた政権がなぜ、かつて植民地支配していた旧宗主国になじみ、微笑みかけようとするのか。この展開に驚いた人や首を捻った人もいたに違いない。

南アは1931年に独立すると英連邦に加わるが、1961年には離脱している。人種隔離政策に国際社会の批判が集まっていたことが背景にある。その政策を捨てたのだから、元に戻れるということなのだろう。だが、わざわざ戻る必要もないではないか。

そのころ、私はロンドン駐在だった。新政権の樹立を挟む1993年と1995年には任地から南アへ出張もした。目的は南アの核兵器放棄について取材することだったが、その合間に現地で人種間の緊張も垣間見た。たとえば、タクシーで「黒人」の運転手と世間話をしていると、辛辣な「白人」観を聞かされたものだ。ただ、このとき「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系住人は散々な言われ方だったが、英国系はさほど嫌われていなかった。

運転手との世間話という小さな私的体験を根拠に英国の植民地主義をどうこう言うことは控えるべきだろう――そう自戒していたときに英女王の南ア訪問があったのだ。私が現地で受けた印象はあながち的外れではなかった。これは、大英帝国の植民地統治が巧妙だったのか。それとも、南アには欧州の入植者が複数の民族だったという特殊事情があって、英国系が相対的に善玉扱いされたということなのか。私には即断できない。

で今週は、書籍ではなく、エリザベス女王の国葬報道で英連邦を考えてみる。

私は女王国葬の当日、葬儀と葬列を米CNNでずっと見ていた。もっとも印象に残ったのは、英連邦に対する配慮が半端ではない、ということだった。葬儀の冒頭、要人たちが聖書を読む場面で、英国のリズ・トラス首相よりも先に朗読に立ったのがパトリシア・スコットランドという女性だ。肩書は「英連邦事務総長」。帽子の陰から褐色の顔がのぞく。この葬儀が、英国というよりも英連邦のものであることを感じさせる式次第だった。

スコットランド事務総長の横顔に触れておこう。英連邦の公式サイトによると、彼女はドミニカ国生まれ、カリブ海諸国出身では二人目、女性としては初の事務総長だという。いや、それだけを紹介したのでは不十分だ。英文ウィキペディアには、彼女が英国の外交官、弁護士であり、労働党の政治家だという記述がある。「英国とドミニカ国の二重国籍である」とも書かれている。この二重性こそが英連邦のありようを体現しているように思われる。

そもそも、英連邦とは何か。公式サイトにある一文を訳せば、こうなる。「英連邦は、対等な関係にある56の独立国の自発的意思にもとづく連合体である」――ただ、原文に「英連邦」はなく、“The Commonwealth”とあるだけ。「英連邦」は訳語に過ぎない。サイトには「加盟国政府は、開発や民主主義、平和のような目標を共有することで合意している」とも書かれている。この連合体は、ただの仲良しクラブということか。

ところが話は、そう簡単ではない。連邦は二重構造なのだ。そのことは英連邦の公式サイトに明記されていないが、英王室の公式サイトに入るとわかる。“Commonwealth realms”という用語が出てくるのだ。「エリザベス女王を君主とする国」(当欄の公開時点では、この記述が女王存命時のままとなっている)を指すという。邦訳は「英連邦王国」。英国以外の英連邦加盟国のうち14カ国は、英国と同一の人物を君主としているのである。

独立、対等を旨とする国々の連合体でありながら、加盟国の約4分の1はうち一つの国の君主を自国の君主に定めている。英連邦王国のつながりはふつう〈同君連合〉とみなされないが、形式的にはそう呼んでもおかしくない状態にある。矛盾を含む構造である。

その英連邦が、国葬で格別の扱いを受けたのは聖書朗読だけではなかった。読売新聞のロンドン電は「参列者の席順/英連邦を重視」と伝えている。会場では、女王の棺に近いところから英連邦王国、そのほかの英連邦諸国の順に参列者の席が並んだという。記事は、米国大統領に用意された座席が14列目だったという地元の報道に触れ、英国は英米関係を特別視しているが「国葬では英連邦の関係性を優先させた」と分析している。

東京新聞は、英連邦に焦点を当てたロンドン電でこんな見方もしている。「欧州連合(EU)からの離脱で国際的な評価が傷ついた英国は、以前よりも英連邦を重視している」。これも腑に落ちる指摘だ。私の実感では、英国人の欧州大陸に対する距離感は私たちが想像するよりも大きく、アジア・アフリカに対するそれは想像以上に小さい。このことは、英国メディアがどんな国際ニュースを頻繁にとりあげているかを見るとよくわかる。

手厚いアジア・アフリカ報道からは旧宗主国の〈上から目線〉も感じられる。だが、それだけではない。英国には、旧植民地からやって来た人々やその子孫が大勢いる。そのなかには、前述のスコットランド氏や先日の保守党党首選を最後まで争ったリシ・スナク氏のように社会の中枢を占める人たちもいる。英国は多民族社会であり、英連邦はそれを支える〈ふるさと連合〉なのだ。ただ、それはあくまで英国側の視点に立った話と言えよう。

現実に、英連邦の内部には反発もある。朝日新聞国際面の記事は「アフリカ大陸からは、女王への追悼の声が上がる一方で、英国の過去の植民支配や弾圧への憤りも聞かれた」としている。「憤り」の例に挙がるのは、ケニア人女性のツイッター発信だ。1950~60年代の独立闘争では祖父母世代が英国に「弾圧された」、だから自分は女王を「追悼することができない」――。これを読むと、私が南アで受けた印象はやはり例外的なのかとも思う。

英連邦王国では、その変則的な君主制に対して違和感が生じているようだ。同じ朝日新聞国際面の記事によると、英連邦王国の一つ、カナダのトルドー政権は国葬当日を休日扱いにしたが、国内にはこれに同調しない州も複数あったという。かつてフランス人の入植も盛んで、フランス語で暮らす人々が多いケベック州はその一つ。州首相は「子どもの登校日を減らすのは避けたい。パンデミックで既に、十分だ」と語ったという。

同様に英連邦王国であるオーストラリアには、君主制をやめようという動きがある。「与党労働党は共和制移行を党方針に掲げている」(東京新聞)、「アルバニージー首相は共和制移行に向けた議論をするため、担当副大臣を任命した」(朝日新聞)という状況なのだ。女王への追悼機運で移行にブレーキがかかっているようだが、英連邦王国の人々には、なぜ王様を海の向こうから借りてこなくてはならないのか、という思いもあるだろう。

東京新聞のロンドン電には思わず苦笑した言葉がある。女王弔問の列に並んでいた人から聞きとったひとことだ。その人の妹は英連邦王国の一つ、ニュージーランドに在住だが、「共和制になったら『変な大統領』が誕生しかねない」と心配している、という。この懸念は、ここ10年ほどで急に現実味を帯びるようになった。君主制をやめるときには「変な大統領」が出てこないしくみを考えなくてはならない。これは心にとめておくべきだろう。

それにしても、である。私たちは――少なくとも私は――英女王の国葬にうっとり見とれてしまった。そこには、生涯の職務を全うした人に対する敬意があった。伝統に裏打ちされた厳かさがあった。そしてなによりも、美しかった。と同時に、凋落した旧帝国の思惑が見え隠れしていた。過去の植民地支配の苦い記憶も聞こえてきた。さらに、君主制懐疑の風も吹きつけている。女王は死してなお、歴史を映す鏡になっているとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月30日公開、通算646回
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