文章にも陰翳をみる谷崎日本語論

今週の書物/
「文章読本」
=『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)所収

どうしてこんなことに、ああだ、こうだ、と頭を悩ますのだろうか。当欄を書いていて、そんなふうに苦笑することがままある。たいていは文章作法にかかわる。たとえば、「だだだ」の問題。末尾が「だ。」の文が何回も繰り返されてしまうことだ。見苦しいというより聞き苦しい。黙読してそう感じる。で、「だ。」の一つを「である。」に置き換えたりする。「〇〇だ。」の「〇〇」が名詞なら、「〇〇。」と体言止めにすることもある。

ただ、この切り抜け策にも難がある。「である。」でいえば情報密度の問題だ。私は新聞記者だったので、文を短くするよう叩き込まれてきた。ニュース記事では「だ。」が好まれ、「である。」は嫌われた。だから今も、文末を「である。」とすることには罪悪感がある。

体言止めについては、社内で別の視点から追放運動が起こったことがある。「容疑者を逮捕。」のような文が槍玉にあがったのだ。これでは、「逮捕した。」なのか「逮捕する。」なのかがわからない。私たちは、文の完結を求められた。辟易したのは、これで体言止めそのものが悪者扱いされたことだ。私は、納得がいかなかった。文章のところどころを名詞で区切ることは、ときにリズム感をもたらす。だから、当欄では遠慮なく体言止めを使っている。

「たたた」の問題もある。過去の事象を綴るときに「た。」の文が続くことだ。こちらは、「だだだ」ほど耳障りではない。「た。」「た。」……とたたみかけることは韻を踏んでいるようで、詩的ですらある。だが半面、文章が単調になってしまうことは否めない。

そんなこともあって、私は「た。」も続かないように工夫している。一つは、「た。」のうちのどれかを「たのである。」に替える方法だ。ただ、これは「だ。」の「である。」化と同様、簡潔さを損なう副作用がある。もう一つの解決法は、「た。」の一部を現在形にしてしまうことだ。日本語は時制が厳格でないので、読者が過去の世界に誘い込まれた後であれば、「した。」が「する。」にすり替わっていても、現在に引き戻されることはない。

一介のブログ筆者でも、このように苦心は尽きない。なかには馬鹿馬鹿しいこともあるが、気になりだしたら振り払えないのだ。これは、文筆を生業としてきた人間の宿命だろうか。同じ悩みは文豪も抱えていたらしい。そのことがわかる一編を今週はとりあげる。

谷崎潤一郎が1934年に発表した『文章讀本』(中央公論社刊)。今回は、『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)というエッセイ集に収められたものを読む。「陰翳礼讃」は私が好きな文化論で、こちらについても語りたいが別の機会にしよう。

「文章読本」の目次をみると、第一部は「文章とは何か」、第二部は「文章の上達法」、第三部は「文章の要素」。この一編が文字通り、作文の指南書とわかる組み立てだ。第一部は「現代文と古典文」「西洋の文章と日本の文章」の比較論が読みどころ。第二部では「文法に囚われないこと」という章も設け、日本語の融通無碍さを論じている。第三部は、文章を「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の切り口で考察している。

谷崎流の指南は話が具体的だ。たとえば、本稿のまくらで触れた「だだだ」や「たたた」の問題もきちんと扱っている。その箇所を読んで気づかされたのは、「だだだ」「たたた」は日本語ならではの悩みということだ。日本語の文は、ふつう主語、目的語、述語の順なので、文末は「だ」や「た」や「る」になりやすい。これに対して、英語は文の終わりに目的語の名詞がくることが多いので、“is,is,is”問題や“was,was,was”問題はありえない。

この「読本」によれば、同一音の文末が反復されると、その音が「際立つ」という。「最も耳につき易い」のは、「のである」止めと「た」止め。「のである」には「重々しく附け加えた」印象があり、「た」は「韻(ひびき)が強く、歯切れのよい音」だからだ。「た」止め回避の手だてとして、著者は「動詞で終る時は現在止めを」と提案している。「た。」の一部を現在形にしてしまうという私の切り抜け策は、文豪も推奨していたことになる。

この助言からうかがえるのは、著者が文章を人間の五感でとらえていることだ。「た」止めを避けるというのは聴覚の重視である。別の箇所では太字でこうも書く。「音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない

この「読本」は作文教室でありながら、日本語論としても読める。日本語の特徴を見定めながら、それを生かした文章のあり方を探っていると言ってもよいだろう。

「文法に囚われないこと」の章には「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません」と書かれている。一例は、時制の緩さ。規則があるにはあるが「誰も正確には使っていません」。だから、「たたた」も切り抜けられるわけだ。あるいは、主語なしの許容。日本語文は「必ずしも主格のあることを必要としない」――。これらの特徴が「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない」という日本語の美学に結びついている。

日本語の語彙の乏しさを論じたくだりも必読だ。ここで、日本語とは大和言葉を指す。

例に挙がるのは「まわる」。大和言葉では、独楽の自転に対しても地球の公転に対しても「まわる」という動詞を使うが、これに対応する中国語(原文では「支那語」)、すなわち漢字の種類は多い。「転」「旋」「繞」「環」「巡」「周」「運」「回」「循」……。これらの文字を使い分けることによって、独楽の自転のように「物それ自身が『まわる』」ことと、地球の公転のように「一物が他物の周りを『まわる』」ことの区別もできるのだ。

語彙が豊かでないのは、大和言葉の欠点だ。それは著者も認めている。だから、日本語は「漢語」を取り入れ「旋転する」などの動詞を生みだしてきた。さらに「西洋語」やその「翻訳語」も取り込んで語彙を増強している。「翻訳語」には「科学」「文明」などがある。

著者は、この欠点を「我等の国民性がおしゃべりでない証拠」とみている。続けて「我等日本人は戦争には強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のために引けを取ります」と述べているのは1930年代だからこそだが、いま読むと心に突き刺さる。

だが、欠点は長所の裏返しでもある。そのことを、著者は『源氏物語』須磨の巻を題材に解説している。光源氏が都を離れ、須磨の漁村に移り住んだときの心理描写に「古里覚束なかるべきを」という表現があるが、その英訳を「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは」と訳し戻して、原文と比べている。ちなみに、この英訳は英国の東洋学者アーサー・ウェイリー(原文では「ウエーレー」と表記)の手になるものだ。

著者によれば、光源氏を悲しませているのは、社交界の人々との離別だけではない。「古里覚束なかるべきを」には「いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさ」を「取り集めた心持」が凝縮されているのだ。この「心持」を精密に分析しようとすればキリがなく、分析を重ねるほど輪郭がぼやけてくる。こういう心理状態を描くとき「わざとおおまかに、いろいろの意味が含まれるようなユトリのある言葉」を用いるのが、日本流というわけだ。

『更科日記』を引いた一節では、足柄山を描いた文章に「おそろしげ」という言葉がなんども出てくることを著者は見逃さない。日本の古典文学には、このように同一の言葉の反復が多いという。ただ著者によれば、同じ言葉であっても、それぞれが「独特なひろがり」を伴っている。「一語一語に月の暈のような蔭があり裏がある」というのだ。これは、文章にも「陰翳」を見ていることにほかならない。さすが谷崎と言うべきだろう。

私たちは今、ワープロソフトを使うので文章を何度も推敲することが習慣になってしまった。だが、墨と筆を使っていた時代は違う。いったん墨書した文言は消えずに残った。だから、頭に浮かぶ言葉がそのまま作品になったのだ。大和言葉の文学では、語彙が限られる分、同じ言葉が書きとめられやすい。だから私たち読者は、同じ言葉から別々のニュアンスをかぎ分けなくてはならない。いや、かぎ分ける自由を手にしたのだともいえる。

同じ言葉の繰り返しは、私がブログを書くときに避けようとしていることの一つだ。だが著者谷崎の卓見によれば、それは排除すべきものではなく、美点にさえなりうる。同じ言葉のそれぞれに多様な「蔭」があるだなんて、なんと素晴らしい言語観だろうか。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月31日公開、同年4月3日更新、通算672回
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「原子の火」1950年代の原子力観

今週の書物/
『原子力発電所――コールダーホール物語』
ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊

黒鉛を使う

12年という時間幅は忘却に十分なのか。日本の現政権は東京電力福島第一原発事故の傷が癒えず、事故炉の後始末も道半ばだというのに、原子力発電の推進路線に回帰した。懲りない面々だ。私はそこに、歴史に学ぼうとしない姿勢を見てしまう。

原子力発電の歴史でまず注目すべきは勃興期の1950年代だ。この時代に何があったのか、どんな議論があったのか――それは2020年代の今、原発にどう向きあうかという問題につながっている。そこで今週は、原子力の古文書ともいえる書物を読む。

『原子力発電所――コールダーホール物語』(ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊)。著者は、英国のハーウェル原子力研究所の研究者で、金属物理学が専門。原著は、コールダーホール原子力発電所が稼働を始めた1956年に出た。

中身に入る前に予備知識を仕入れておこう。コールダーホール原発(すでに運転停止)は、英国イングランド北西部カンブリア地方にある。1号機は、商用発電を実現した第1世代の原子炉といえる。発電方式は、私たちがいま原発と聞いてイメージする軽水炉とは大きく異なっている。まず、燃料は濃縮ウランでなく天然ウラン。冷却材に水を使わず、二酸化炭素ガスで冷やした。中性子の減速材も液体の水ではなく、固体の黒鉛だった。

この炉は1950年代後半、日本でも関心を集めた。日本初の商用炉をどうするか、という懸案があったからだ。政府の原子力委員会がめざしたのが、実用化を果たしたコールダーホール型原子炉の輸入だった。だが、それが論争を巻き起こす。問題視されたのは、炉内に黒鉛をレンガのように積みあげる構造だ。英国のように大地震が少ないところならばともかく、地震国日本では不安を拭えない。日本学術会議も批判的な立場をとった。(*1)

政府は結局、コールダーホール型を改良して使う方針で押し切った。これが、日本原子力発電東海発電所(16.6万kw、1966年営業運転開始、廃炉の工程が進行中)である。

本書の邦訳も、この経緯と無縁ではないだろう。刊行年の1957年は原子力委員会発足の翌年。翻訳陣をみると、伏見は執筆当時、大阪大学教授(素粒子論)で原子力委の参与でもあった。森はジャーナリスト出身で日本原子力産業会議に身を置いていた。末田も同会議のスタッフだ。伏見は学術会議でも発言力があったから、コールダーホール型炉の安全性にも関心が深かったと思われる。ただ本書の翻訳は、別の動機で手がけたらしい。

訳者あとがきによれば、本書は「原子力の基礎についての解説書」と「原子力発電所の実際の建設記録」との両面を併せもっている。いわば、原発の初等教科書といった感じだ。章立ては「解説書」→「建設記録」の順なので、当欄もその流れに従う。

私の目にまずとまったのは、「原子の火」という言葉だ。著者は、そこで「火」を二つに分けて論じている。「ふつうの火」と「原子の火」である。前者の燃料は、石炭、石油、ガス、木材などさまざまある。これに対して「原子の火をもえつづけさせることのできる天然の物質」は「ただ一つ」で、それがウランだという。原発が生みだすのは熱なのだから「火」にたとえたくなる気持ちはよくわかる。だが、この類推には無理がある。

著者も「素人からしばしばうける質問」をもちだす。「その原子の火をともすにはどうすればよいのか?」。これに対する答えは、こうだ。「原子の火は、連鎖反応を持続させるようなうまい条件で、じゅうぶんな量のウランが原子炉にあつめられたときにしかおこらない」。これでは「素人」も戸惑うだろう。油に火をつけるのに油がいっぱいなければない、ということはない。核分裂という原子核反応と酸化という化学反応は同列に語れない。

それなのに、原子力報道では「原子の火」などの言葉がしばしば用いられてきた。日本では1957年8月、茨城県東海村の実験用原子炉が核分裂の連鎖反応を続けること(臨界)に成功したとき、新聞各紙が「原子の火」(朝日)「第三の火」(毎日)「太陽の火」(読売)という大見出しを掲げている。このたとえには問題があるのではないか、と私はかねがね考えてきた。そのことは福島第一原発事故後、いっそう強く思うようになっている。

福島の事故直後、私たち科学記者のもとには社内の別部門から問い合わせが殺到した。その一つが「炉内はいつになったら鎮火するのか?」だ。炭火が燻っているなら水をかければ消える。だが、放射性物質の崩壊現象は一定の時間幅で続くので、炉内の発熱は放水では止まらない。科学記者は受け売りの知識でそう答えたが、なかなか納得してもらえなかった。「原子の火」は、どうしても「ふつうの火」の延長線上に置かれてしまうのだ。(*2)

今回、私は「原子の火」をめぐって二つのことに気づいた。一つは、原子力を「火」にたとえる論法が日本だけのものではないこと。もう一つは、本書の刊行が1957年4月なので、それが東海村「原子の火」報道に影響を与えたかもしれないということだ。

さて、話を「建設記録」に進めよう。ああ、そうだったのかと教えられたのは、コールダーホール型炉の主目的が発電ではなかったことだ。本書によれば、1950年前後、原子炉研究は軍事優先の状況にあった。「あたらしいアイディアがでてくると、それがプルトニウム生産という目的に貢献するかどうかをしらべ、これにプラスするかぎりでのみ受けいれられた」と著者は書く。プルトニウムには「原爆材料」としての用途があった。

研究拠点のハーウェル原子力研究所では、発電炉(愛称「ピッパ」)の設計が進行中だったが、そこに軍部の意向が届いた。「軍事用プルトニウムの生産を増強してほしい」というのだ。その結果、ピッパは「発電を主としあわせてプルトニウム生産をも行なうもの」から「プルトニウム生産設備であってあわせて発電もするもの」に性格を変えた。1953年、政府はピッパ型の原子炉の建設を決める。これがコールダーホール原発だった。

発電炉では、タービンの熱効率を高めるため、炉から高温で熱を取りだそうとする。ところがプルトニウム生産炉は、その生産量さえふえればよいので高温の必要はない。この折り合いをつけるために技術陣が悪戦苦闘したことが、この本には詳述されている。

こうみてくると、第2次大戦後に颯爽と登場した原子力平和利用の試みは戦中の核兵器開発とひとつながりだったことを改めて思い知らされる。軍民両用(デュアルユース)が露骨なかたちで姿を現しているのだ。1953年は、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が「平和のための原子力(atoms for peace)」を提唱した年である。麗句によって核保有国の既得権を守りつつ核拡散を牽制したわけだが、その空虚さを感じてしまう。

コールダーホール原発は湖水地方の一隅にある。この地方は「ピーターラビットの里」とも呼ばれ、観光客の人気を集めている。本書は、原発所在地の地誌にも触れている。それによると、近くにはコールダー川が流れ、原子炉は荘園領主の館コールダー・ホールの農場に建てられた。原発名に、立地場所の自然と歴史が刻まれたわけだ。このくだりを読んで、そうか、あのあたりも本来はイングランドの田園地帯だったのだなと思った。

私は1993年にこの地域を訪れている。稼働準備中の核燃料再処理施設ソープ(THORP)を取材するためだった。一帯には原子力施設が集まり、セラフィールドの名で呼ばれるようになっていた。だだっ広い平原にコンクリート建造物が点在する様子は寒々しかった。

私には、その風景が日本国内の原発密集地とだぶって見えた。1970年代、新人記者として北陸福井に赴任したころ、半島部には原子炉が建ち並び、さらに増設されようとしていた。原子力は過疎地を狙い撃ちする。これも洋の東西を問わない現実のようだ。

*1 言論サイト「論座」2021年6月21日付「学術会議史話――小沼通二さんに聞く(3)=尾関章構成」(一部有料)
*2 『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代選書)
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月3日公開、同年4月10日更新、通算668回
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2・26で思うkillとmurder

今週の書物/
『二・二六事件』
太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊

決起の破綻

ウクライナのニュースを見ていると、頭がクラクラすることがある。「敵国に兵士×××人の損害を与えた」というような報道発表に出あったときだ。要するに「敵兵×××人を殺した」ということではないか。それなのに、どこか誇らしげですらある。

これは、邦訳がなせる業かもしれない。英文の記事でよく見かける言い方は“×××troops were killed.”ここで用いられる動詞は“kill”であって“murder”ではない。日本語にすれば、どちらも「殺す」だが、英語では両者に大きな違いがある。

“kill”は幅広く、なにものかを死に至らしめることを言う。目的語が人とは限らない。生きものはもちろん、無生物であっても、機能を無効化するときに使われる。主語も人に限定されない。事故や災害が原因でも“kill”であり、犠牲者は受動態で“be killed”と言われる。だから「殺す」と訳すにしても、意味をかなり広げなくてはならない。日本語でも「はめ殺しの窓」のような用法があるが、あれと同じような殺し方である。

これに対して“murder”は、ミステリーの表題で「~殺人事件」と訳されるように故意の「殺人」を指す。日本語で「故殺」「謀殺」などと言うときの「殺す」だ。

ウクライナ報道で私が覚える違和感は何か。それは、情報の発信源が“kill”と言っているのを“murder”と受けとめたことにあるのだろう。だが、私が間違っているとは思わない。戦場で“kill”された人々も、結果としてやはり“murder”されたのである。

こと戦争にかかわる限り“kill”と“murder”は切り分けられない。こう確信するのは、私が戦後民主主義に育てられた世代だからだろう。戦後民主主義は、生命の尊重を最優先する。だから、仮にたとえ崇高な目的があったとしても、そのために他者の生命を奪ってよいとは考えない。敵兵を攻撃して生命を絶つ行為を“murder”ではないと言い切れないのだ。平和ボケと冷笑されても、この認識は私の思考回路に染みついている。

ただ心にとめておきたいのは、私たちの社会にも“kill”と“murder”を切り分ける人々がかつてはいたことだ。だからこそ、大日本帝国は戦争を始め、ドロ沼に陥っても立ちどまることができず、膨大な犠牲を払った末にようやくそれを終えたのだ。

で今週は、そんな戦前日本社会にあった“kill”の正当化に焦点を当てる。とりあげる書物は、『二・二六事件』(太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊)。1936年2月26日、陸軍青年将校と有志民間人の一群が起こした政権中枢に対する襲撃事件の顛末を、史料を渉猟して再構成したものだ。この文庫版は、河出書房新社「ふくろうの本」シリーズの1冊、『図説 2・26事件』(2003年刊)をもとにしている。

著者は、1937年生まれの出版人。明治期以降の戦史を中心に日本の近現代史を扱った編著書が多い。在野のグループ「太平洋戦争研究会」の主宰者でもある。

本書の中身に立ち入る前に、2・26事件とは何かをおさらいしておこう。昭和初期の日本経済は世界恐慌の大波を受け、失業者の増加や農村の疲弊が深刻になっていた。政治に対する不満が高まるとともに軍部の影響力が強まり、軍内部に権力闘争が起こった。そんな情勢を背景に、尉官級の陸軍将校が天皇親政の国家体制をめざそうと決起したのが、この事件である。クーデターを企てたわけだ。だが軍上層部は同調せず、頓挫した。

本書では、事件の全容が一覧表になっている。決起将校は20人、これに下士官や兵士、民間人らを加えた参加者の総勢は1558人。襲撃場所は16カ所。即死者は計9人。高橋是清蔵相ら政府・宮中の要人だけでなく、巡査部長、巡査級の警察官も含まれる。

本書は、2・26事件の一部始終をほぼ時系列に沿って再現している。血なまぐさい場面が続出するので、それを一つひとつなぞりたくはない。ここでは、岡田啓介首相がいた官邸や高橋蔵相の私邸に対する襲撃に焦点を絞り、何があったかを見てみよう。

首相官邸を襲撃したのは、歩兵第一連隊(歩一)機関銃隊の約290人。歩一は、今の東京ミッドタウン所在地に駐屯していた連隊だ。未明に出動、午前5時には官邸を取り囲んだ。「挺身隊」が塀を越えて門を開け、将兵がなだれ込み、官邸内の首相居宅(公邸)へ突入した。「屋内は真暗だった。手さぐりで進むのだが予備知識がないのでさっぱり見当がつかない」と、二等兵の一人は振り返っている(埼玉県編纂『二・二六事件と郷土兵』所収)。

この二等兵は、和室を一つずつ見てまわる。警官の拳銃の発砲音も聞こえてくるので油断はできない。前方の廊下で「白い影」が動いた。後を追い、「ココダ!」と思って飛び込むと、お手伝いさんの部屋だったらしく、女性の姿があった。当てが外れて部屋を出た途端、銃弾が腹を直撃する。這って洗面所まで逃げたところで意識が途絶えた――。手記を残したのだから、一命はとりとめたわけだが、生きるか死ぬかの攻防が、そこにはあった。

別の二等兵は、居宅部分の中庭に逃げ込む「老人」を目撃した。報告を受けた少尉は、すぐさま射殺の命令を下す。二等兵は「老人」の顔と腹を撃ったが、それだけでは絶命しなかった。襲撃部隊を率いる中尉は、上等兵の一人にとどめの発砲を命じる。胸と眉間に2発。「老人」は息絶えた。ここで信じられないことが起こる。中尉が「老人」の顔を岡田啓介首相の写真と突きあわせ、その男が首相本人であると見誤ったのだ。

「老人」は実は首相の義理の弟で、「首相秘書官事務嘱託」の立場にある松尾伝蔵陸軍予備役大佐だった。面立ちがもともと首相に似ていたが、髪を短く刈ってわざわざ首相に似せていた可能性もある。結果として、影武者の役を果たすことになったのは間違いない。襲撃部隊は、人違いの銃殺に万歳の声をあげ、樽酒を運び込ませて乾杯までしたという。本物の首相は「お手伝いさんの部屋」の押し入れに隠れ、難を逃れたという。

高橋是清蔵相の殺害では、将校たちが直接手を下した。蔵相の私邸は東京・赤坂にあり、蔵相は二階の十畳間で床に就いていた。近衛歩兵第三連隊の中尉や鉄道第二連隊の少尉らが二手に分かれて押し入り、寝室へ。中尉が「『国賊』と呼びて拳銃を射ち」、少尉は「軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました」――事後、少尉自身が憲兵隊にこう供述したという。この場面からは、相手が「国賊」なら“kill”は正当化できるという論理が見てとれる。

こうみてくると、2・26事件の青年将校らは人間の生命よりも国家の体制を大事に思う人々だったのだろうと推察される。だが、そう決めつけるのはやめよう。本書を読み進むと、意外なことに気づく。彼らにとっても生命はかけがえのないものであったらしい――。

青年将校らに対する軍法会議のくだりだ。1936年6月に死刑を求刑された少尉(前出の少尉二人とは別人。階級は事件当時、以下も)は手記にこう書く。「死の宣告は衝撃であった」「全身を打たれたような感じがして眼の前が暗くなった」。同様に死刑の求刑を受けた民間人(元将校)の手記にも「イヤナ気持ダ、無念ダ、シャクニサワル、が復讐のしようがない」とある。“kill”を正当化した人々が“be killed”に直面して動揺した様子がわかる。

この心理は人間的ではある。前出の元将校は仲間に「軍部は求刑を極度に重くして、判決では寛大なる処置をして我々に恩を売ろうとしている」と楽観論を披瀝したらしい。7月の判決では「眼の前が暗くなった」少尉が無期禁固、楽観論の元将校は死刑だった。

自分の生命はだれもが可愛い。こう言ってしまえば、それまでだ。だがだからこそ、他人の生命を粗末にすることは罪深い。人の生命は“kill”されても“murder”されるのと同等の結果をもたらす。キナ臭いにおいがする今だからこそ、そのことを再認識したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月24日公開、通算667回
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「靖国」に吹いた戦後民主主義の風

今週の書物/
『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』
毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊

靖国アクセス

転勤族はみなそうかもしれないが、初任地は忘れがたい。私にとって、それは北陸の福井市だ。街の真ん中を城跡が占め、濠に囲まれて福井県庁と県警本部がある。私の職場――新聞社の支局――はその濠端にあり、隣は市役所だった。私が赴任した1977年ごろ、市役所の裏手は再開発の前で飲食店などが狭い通りに密集していた。宿直明けの日は支局長に連れられてメシ屋の暖簾をくぐり、ごはんとみそ汁の朝食を掻き込んだものだ。

その一角は、佐佳枝廼社(さかえのやしろ)という神社の門前町だった。別名、越前東照宮。徳川家康や藩祖の松平秀康、幕末の藩主松平慶永(春嶽)を祀る神社だ。私が記者1年生だったころ、その社に朝方しばしば参拝する人物がいたことを今回、初めて知った。『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊)を読んだからである。その人は元藩主直系の松平永芳氏(1915~2005)だった。

で、今週はこの本をとりあげる。毎日新聞が2006年8月6~19日に連載した記事をもとにしているが、記者たちは連載後も取材を重ねて書籍化したという。2006年夏は、当時の小泉純一郎首相が終戦の日に靖国神社を参拝するかどうかが一大関心事となり、実際、当日早朝に決行された。「靖国」が政治問題化していたのである。本書の単行本は2007年、毎日新聞社から刊行された。それに加筆修正されたのがこの文庫版である。

本書によると、松平永芳氏は1978年、東京・九段にある靖国神社の宮司となる。前任者が同年春に亡くなり、後任に白羽の矢が立ったのだ。選考には、戦没者遺族の意向がものを言う。日本遺族会が動きだし、相談をもちかけたのが元最高裁長官石田和外氏だった。タカ派で知られた人だ。石田氏は同郷の松平氏の名を挙げた。「国や英霊を思う気持ち」が「並々ならない」という理由からだ。福井県選出の自民党有力参院議員も賛成した。

松平永芳氏は元海軍少佐であり、戦後は陸上自衛隊に入った。防衛研修所戦史室史料係長などを務め、1968年に1等陸佐で隊を退くと、郷里の福井市から声がかかり、市立郷土歴史博物館長の職に就いた。参拝の日課はこのときに始まったのだろう。

松平氏が靖国神社の宮司を引き受けるとき、石田氏と交わしたやりとりが本書に再現されている。本人の言によれば、これで受諾の意思を固めたという。松平氏が「日本の精神復興」には東京裁判の否定が欠かせないとして「いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだ」と主張すると、石田氏は「国際法その他から考えて当然祭ってしかるべきもの」と応じた。1978年夏、松平氏は宮司に就任、その年のうちにA級戦犯14人が合祀されたのである。

本書は副題にあるように、その「A級戦犯を合祀した男」の横顔を描きだしている。松平氏が祖父春嶽を崇拝していたこと、その祖父は幕末に開国開明派だったのに本人は国粋的なことなど、興味は尽きない。だが当欄が松平氏に触れるのはここまでとしよう。私がこの本で新鮮な驚きを覚えたのは、靖国神社が戦後、A級戦犯の合祀までどうであったかを詳述したくだりだ。逆説的だが、そこに戦後民主主義の力強さを見てとることができる。

靖国神社は1945年、敗戦で存亡の危機に立たされる。このときに宮司の役が回ってきたのは元皇族だ。筑波藤麿氏(1905~1978)である。山階宮家出身だが成人後、臣籍降下して侯爵となった。当時、皇族男子は軍務に就くのがふつうだったが、筑波氏は東京帝国大学文学部に学び、国史の研究家となる。そして1946年1月、靖国神社宮司に就任。この時点では「国家公務員」だったが、翌週には宗教法人の一宮司に立場が変わっている。

本書によれば、この人選には「占領軍や世論に配慮して、できるだけ軍と縁遠い人物を選ぶ」との方針もあったという。事情を知る筑波氏の長男、常治氏の見解である。ちなみに常治氏(1930~2012)は科学評論家で、生物学や農学、エコロジー思想に詳しかった。レイチェル・カーソン著『沈黙の春』の新潮文庫版で解説を執筆、これは当欄の前身でも紹介している(「本読み by chance」2019年2月15日付「『沈黙の春』の巻末解説を熟読する)。

興味深いことに、筑波宮司自身も自分を「白い共産主義者」と形容していた。「赤色までは行かないけど桃色だ」と冗談めかすことも。毎日新聞取材班は、筑波氏が言う「共産主義」を「戦後民主主義や平和主義をもっと徹底させた理想」と解釈している。

その象徴が境内にある「鎮霊社」だ。高さ3mほどの小ぶりな社で、参道から見ると本殿の左側奥に建っている。1965年の建立。立て札には「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める」とあり、「万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する」と明記された。大日本帝国の軍人だけでなく、民間の戦争犠牲者も、敵国を含む諸外国の戦没者も、慰霊と鎮魂の対象とすることを明言しているのである。

鎮霊社の着想は1963年、筑波氏が「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員で欧米諸国を回ったことがきっかけだった。団長は立教大学総長、副団長は筑波氏と薬師寺管主、立正佼成会会長という顔ぶれだった。東西冷戦で核戦争が危惧されるなか、宗教界の要人が宗派を超えて平和主義の旗を振ったのである。筑波氏の主張は「社報」1964年1月号にある。日本が「自己中心の幼稚なる殻にとじこもって居る」限り「真の平和は得られぬ」――。

靖国神社は戦後30年余、戦後民主主義の理想追求に同調していた。これは今の感覚では意外だが、1960年代に立ち返ればありそうなことだった。ここで書き添えれば、靖国神社には戦後民主主義のもう一つの側面、軍事より経済優先の気配もあったことだ。

ここに登場するのが、横井時常氏という人物だ。靖国神社では「ナンバー2」の「権宮司」という職にあった。1946年初め、筑波氏が宮司となる直前だが、横井氏は連合国軍総司令部(GHQ)の宗教課長に一つの提案をしている。戦前から「軍事博物館」として付設されている「遊就館」を一新させる将来構想だった。「娯楽場(ローラースケート・ピンポン・メリーゴーランド等)及び映画館にしたい」(原文のママ)とぶちあげた。

この構想は、ただの思いつきではなかった。それどころか、具体性を帯びてくる。横井氏の証言を載せた『靖国神社終戦覚書』によれば、神社周辺を娯楽街に生まれ変わらせる案が1946年秋までにまとまり、地権者や役所との接触も始まっていた。神田界隈の大学生に狙いを定め、神社敷地内に映画館を集める計画。総数20館というから、今で言えばシネプレックスか。近隣の焼け跡にも音楽堂や美術館を立地させようとしていた。

この娯楽化路線は何を意味するのか。靖国神社も戦後は一事業体となり、存続のために経営戦略を求められていたということか。それとも、靖国が人々に愛されるために世相に歩み寄ろうとしたのか。どちらにしても、私には戦後民主主義の落とし子のように思われる。

ただ、娯楽街づくりの計画は戦没者遺族から反発を受け、頓挫した。ただ、靖国神社にはその後も、生臭い構想がもち込まれたり、絵空事の案が浮上したりしたらしい。「浅草のような歓楽街にする」「パリの『のみの市』界隈に似た一大歓楽街にする」……。

本書によると、靖国神社では戦後、数多の案が生まれては消えた。たとえば「靖国廟宮」構想。横井氏が、GHQには靖国神社を「記念碑的なもの」にしたいとの意向があるらしいと察知、先回りして出した改称案だった。雑誌刊行を画策したという話もある。有名作家を編集長に招き、本気で読者をつかもうとしたようだが、構想倒れに終わった。映画街といい、雑誌創刊といい、靖国神社は文化の拠点になることを夢見ていたように見える。

「靖国」は戦後しばらく、良くも悪くも世間並みだった。世俗的ではあったが、理想主義の風も吹いていた。日本のリベラル派陣営はなぜ、それに気づかなかったのか。風を生かして対話を重ねていれば、世論を二分しない鎮魂のあり方を見いだしていたかもしれない。

☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月3日公開、通算664回
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アインシュタイン、その実在愛

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

実在か否か?

先週に続いて『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)を読もう。著者が60歳代後半に「自伝のようなもの」と題して綴った文章だ。軟らかな話題が満載かと思いきや、思い切り硬い話だった。(*1)

先週も書いたことだが、著者の関心事は「何を、どう考えるか」にあり、半生記も「脳内の出来事」に重きを置いている。実際、本書には物理の話が次々に出てくるが、それは著者の思考を跡づけるかたちで語られる。これが、ふつうの科学本と違うところだ。

で、先週の当欄が焦点を当てたのは、著者が若いころに培ったニュートン力学批判の視点だった。物理学史を振り返ると、19世紀には電磁気学が進展して、電場や磁場という「場」の概念が生まれた。これは、質量と力と運動法則だけで世界を記述しようとするニュートン流の質点の力学とは相いれなかった。著者は、この矛盾に真正面から向きあった。学界には二元論的な考え方も出てきたが、それでは満足できなかったのだ――。

今週は先へ進もう。注目するのは、著者が実在論者だったことだ。たとえば、1905年に発表したブラウン運動の考察。この年は「アインシュタイン奇跡の年」と呼ばれ、著者が画期的な論文を次々に出した。一番有名なのが、特殊相対性理論。そして、電子が光によって弾きだされる光電効果の理論。これは量子論の発展に寄与した。それらの陰に隠れがちだが、ブラウン運動の研究も科学史に残る。それが原子や分子の実在を決定づけたからだ。

ブラウン運動とは、花粉が水面で見せる不規則な動きを言う。植物学者のロバート・ブラウンが見つけていた。著者の論文は、それを理論づけたものだ。水面に浮かぶ微粒子の運動を熱力学の分子運動論を使って考えると、「粒子の動きを定量的に表す統計的な法則」が見つかった。その計算結果は、観察結果に「みごとに一致」する。これが、原子や分子が実在するか否かという、当時物理学界を揺るがしていた論争に決着をつけたのである。

実在するとみる「原子論」の旗手は、熱力学、統計力学のルートヴィッヒ・ボルツマン。対する「懐疑派」は、物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハらだった。ボルツマンが自死したのは1906年。著者のブラウン運動の論文とほとんど入れ違いだった。

著者は、この件ではボルツマンの側に立った。その主張はこうだ。「懐疑派」は「観測事実だけを科学知識の源泉とみる」(本書では斜体部分に傍点、以下も)という「実証主義的な姿勢」に固執して世界像を見誤った――。「脳が自在につむぎ出す概念」も「現実と突き合わせつつ使われていく」ならば「観測事実の説明に大きく役立つことがある」。言葉をかえれば、脳は観測事実の向こう側に潜む実在物を見逃さないということか。

著者は、人間の観測行為の有無にかかわらず、物理世界は現実に在るという実在論にこだわっていた。そのことは量子論に対する懐疑につながった。批判の的は1920年代半ばに確立した量子力学だ。電子が原子核の周りでどんな運動状態にあるか、ということなどを記述する。ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学とエルヴィン・シュレーディンガーの波動力学の2流派があるが、本書は後者に出てくる波動関数ψの弱点を突いている。

ψに対して、著者には疑問があった。アイザック・ニュートンの力学では「空間内の『質点と時間』が現実」、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの電磁気学では「空間内の『場と時間』が現実」である。では、量子力学のψもなんらかの「現実」を表しているのか?

著者自身も、これが即答しにくい難題であることは認めている。ψは、観測者が電子の位置や運動量を測ったとき、ある値をとる状態が「これこれの確率で見つかる」ということを言っている。この確率を「現実の量」として実測するには、測定を幾度となく繰り返さなければならない。では、1回きりの測定で得た位置や運動量の値はいったい何なのか。それは、決定論に従って事前に予測できるものなのかどうか。わからないことが多い。

著者はここで、架空の人物二人の対話を提示する。A氏は、「系」をかたちづくる粒子の位置や運動量は測定前に「決まっているはずだ」という立場。そうならば、ψは「系の実体」について「だいたいのことしか表していない」ことになる。これに対して、B氏は決定論を否定して、こう言う。位置や運動量は測定時に限り「ψが決める特有な確率」に従って「ある値が顔を出す」。だから、ψは「系の実体を余すところなく表現してる」と譲らない。

著者は、ψは不完全だとしてA氏を支持する。一方、B氏の側に立つのが、当欄もとりあげた量子力学の多世界解釈だ。それはψの完全性を主張している(*2)。多世界解釈の登場は1957年。本書の原著執筆よりも後のことなので、著者はもちろん言及していない。

著者がψの不完全性を論じる箇所でもちだすのが、局所実在論だ。ここで述べられていることは、著者のグループが1935年に発表した「EPRの逆説」と重なりあう(EPRは、著者と論文共著者の姓の頭文字。ただし、本書はEPRの論文には触れていない)。

一つの系が部分系1と部分系2から成るとしよう。量子力学によれば、全体系にも部分系にもそれぞれψがある。部分系1を測定すると、その結果が全体系のψを通じて部分系2のψに影響する。部分系同士が離れていても、部分系1を測ったとたん「テレパシーが働いたかのごとく」部分系2が変化するわけだ。著者は、これを断固否定する。物理学には局所性があり、物事は複数の場所にまたがって一気には決まらない、とみる。

この局所実在論はその後、否定された。それは、1970年代以降の実験研究による。去年、ノーベル物理学賞を贈られたアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏は、その実験に挑んだ人々だ。「量子もつれ」と呼ばれる関係にある一対の光子をつくり、2光子が離れていても両方の状態が一挙に決まる様子を確かめた。著者はその実験結果を知ることなく、1955年に逝去した。

もし、著者が近年の量子研究熱を目の当たりにしたなら、どんな顔をするだろうか。そんな意地悪な空想もないわけではない。ただ、著者は理想をとことん追い求めながらも、理想通りにいかない現実をまともに受けとめた。私はそこに誠実さを感じる。

著者の物理学者としての理想は、一元論であり、実在論であり、決定論だったのだろう。ひとことでいえば、スッキリ明快な物理学をめざしていた。ただ研究は、そんな思惑を裏切ることもある。ときには自分自身の研究が悩みのタネを生みだすこともあった。

たとえば、こういうことだ。当欄が前回話題にしたように、著者にとってはニュートン流の「質点」の力学よりもマクスウェル流の「場」の物理が魅力的に見えた。学界には、この共存を受け入れる考え方が生まれたが、アインシュタインは一元論を理想としたので「場」の物理に一本化できないか、と考えた。ところが、奇跡の年1905年に発表した研究結果には、この願望に背くものが一つならず含まれていたように私は思う。

前述のブラウン運動を見てみよう。著者の研究が分子や原子の存在を支持したことは、実在論には適ったが、それは「質点」の力学の再評価にもつながったのではないか。

光電効果も、ややこしい。著者は、物質に光を当てると電子が飛びだす現象を考察して、光には粒子の一面があることを突きとめた。どちらかといえば「質点」のイメージになじむ理論だ。光の粒(光子)には質量がないから「質点」とは言えないが、粒子は離散的なので「場」のイメージとはそりが合わない。さらにこの理論によって、光は波であり、粒子でもあるということになった。この二面性もなんとか一元論の枠組みに収めたい――。

こう読んでくると、アインシュタインは自分で厄介ごとを抱え込む物理学者だったようにも思える。だが、そもそも科学とは一筋縄で答えが出るものではない。本人は理想と現実が角突きあわせる「脳内の出来事」に、かえって心地よさを感じていたのかもしれない。

*1 当欄2023年1月20日付「アインシュタイン、思考の自伝
*2 当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える
☆外国人の人名は、著者の表記に従いました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月27日公開、通算663回
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