百閒「ありえない世界」の現実味

今週の書物/
「東京日記」
=『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)所収

自動車

ありえないことがある――これは、年をとればとるほど痛感することである。東日本大震災のような天災に見舞われる、新型コロナウイルス感染症のような疫病がはやる、ウクライナ侵攻のような不条理に出遭う。これらはいずれも不意をつく出来事だったが、歴史を顧みれば似たような災厄はあった。ありえない、とは決して言えない。ところが、人生には本当にありえないことが起こる。それはむしろ、ありふれた風景のなかにある。

たとえば電車に乗っていて、前方の座席を見渡したとしよう。乗客6人のうち5人が片手に板切れをもち、もう一方の手でトントン叩いている――別段驚くこともないありふれた光景だ。だが、昔からありふれていたわけではない。こんなことはありえなかった。

20世紀末に情報技術(IT)が台頭したころから、世の中は大きく変わるという予感はあった。21世紀初めにかけて、世界はインターネットで結ばれ、私たちは携帯電話を手にするようになった。ネットとケータイがうまく組み合わされば、私たちの生活様式が激変するのは理の当然だ。ただ、人々が黙々と板切れを叩く姿が日常の風景に溶け込むとは、だれが予想しただろう。あのころ、それはほとんどありえないことだった。

その板切れ、即ちスマートフォンが開発され、消費者に受け入れられ、世の隅々にまで行き渡る道筋を私は検証したわけではない。だから直感で言うのだが、スマホ文明は必然だけで生まれたわけではないだろう。偶然が別の向きに働けば、端末のありようやネットとのつながり方が異なったものとなり、掌の板切れも指先のトントンも出現しなかったのではないか。私たちはIT進化の数多ある小枝の一つに紛れ込んだだけなのかもしれない。

そう考えてみると、私たちが今ありえないと思っていることを見くびってはいけない。ありえないようなことが、いずれ現実になることは大いにありうるのだ。で、今週は『東京日記 他六篇』(内田百閒著、岩波文庫、1992年刊)の表題作を読む。「改造」誌1938年1月号に発表された作品だ。これは短編小説というよりも、23話から成る掌編連作とみたほうがよい。登場人物にとってありえないと思われる話が次々に出てくる。

作品に入るまえに、著者百閒(1889~1971)について予習しておこう。生家は岡山の造り酒屋。東京帝国大学でドイツ文学を学び、学生時代、夏目漱石門下に入った。卒業後は陸軍士官学校などで教職に就くかたわら、小説家や随筆家として文筆活動に勤しんだ。

本書の巻末解説(川村二郎執筆)によれば、百閒文学は「一貫して、日常の中に唐突に落ちこむ別世界の影に執着している」という。この「東京日記」もそうだ。私は漱石の「夢十夜」を連想した(*)。ドイツ文学でいえば、フランツ・カフカの作風に近い。

著者の人柄がしのばれる一文が本書巻末にある。著者に師事し、本書の出版にかかわった中村武志さんのことわり書きだ。それによると、著者は戦後も亡くなるまで「旧漢字、旧仮名づかいを厳として固守」した。時流に左右されない頑固な人だったのだろう。ただ、この文庫版では遺族の許可を得て、新漢字、新仮名づかいに改められている。そうしたのは、「できるだけ多く」の若者たちに百閒作品に触れてほしいとの一念からだという。

では、「東京日記」第1話に入ろう。ここでは「日常」と「別世界」の落差が巧みな筆づかいで描かれている。「日常」を実感させるのは東京に実在する地名だ。「三宅坂」「日比谷の交叉点」……東京人ならば、そう聞いて「ああ、あのあたりだな」とお濠端の風景が目に浮かぶに違いない。ところが、そのお濠から「牛の胴体よりもっと大きな鰻」が姿を現し、「ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝い出した」。これはまぎれもなく「別世界」だ。

この「別世界」には予兆があった。「私」は日比谷交叉点で、乗っていた路面電車を降ろされる。車掌は車両故障だという。雨降りだが、雨粒に「締まりがない」。風は止まり、生暖かい。夜でもないのに、ビルの窓々にあかりが見える。そのとき、お濠で異変が起こった。「白光りのする水が大きな一つの塊りになって、少しずつ、あっちこっちに揺れ出した」。こうして、大鰻が現れたのである――。不気味な気配の描き方が半端ではない。

さて、この作品でありえないことがあると痛感させられたのは第3話だ。冒頭に「永年三井の運転手をしていた男」が登場する。三井財閥のお抱え運転手だったということだろう。退職後に「食堂のおやじ」となり、彼と「私」とは店主と常連客の間柄にある。その男がある日、「老運転手」然とした制服姿で「私」の前に現れた。「古風な自動車」が外で待機している。「迎えに来てくれた」のだ。男は「私」を乗せて車を走らせた。

執筆は1930年代。すでに街に自動車が走っていた時代だが、クルマ社会の到来はまだ遠い先の話だった。その時点からみて「古風な自動車」というのだから、よほどクラシックな車種なのだろう。この一編は、そんなレトロな雰囲気で書きだされている。

では、ドライブはどんなものだったのか。車は街路を滑らかに走っていたが、四谷見附で信号が赤になり、停止した。隣には緑色のオープンカーが停まっている。ここで、不思議なことが起こる。「だれも人が乗っていなかった」はずなのに「信号が青になると同時に、私の車と並んで走り出した」のである。「前を行く自転車を避けたり」「先を横切っている荷車の為に速力をゆるめたり」もする。これはまさしく、現代の自動走行ではないか。

自動走行車を目の当たりにしても、歩行者は驚かない。警察官も同様だ。この街では、自動車に運転手がいないことが当たり前になっているようだ。「私」は、そういう人々の反応を含めて、ありえないと感じている。そこにあるのは「別世界」だった。

1930年代の視点に立つと、この「別世界」はお濠の鰻が市街を動きまわる「別世界」と等価だ。だが、視点を2023年に移せば話は違ってくる。車の自動走行は技術面では相当程度まで可能になっている。10年先を見越せば、制度面の体制も整ってくるだろう。たとえ道を行く車に人影がなくても、それは「別世界」とは言えない。そんな車を見て人々が無反応だったとしても、やはり「別世界」ではない。それは、ありうる世界なのだ。

これは、著者が考えもしなかったことだろう。この一編はレトロの雰囲気を調味料にしているくらいだから、未来物語ではない。ところが、作品発表から80年余が過ぎると、そのありえないことが近未来図に重なりあうのだ。世界は何が起こるかわからない。

この作品で私の心をもっともとらえたのは第4話。ある夜、東京駅で省線(現JR線)の上り最終電車を降り、駅前に出てみると夜空の様子がいつもと違う。「月の懸かっているのは、丸ビルの空なのだが、その丸ビルはなくなっている」。近づくと、敷地は原っぱでそこここに水たまりもあった。その夜は帰宅したが、翌朝用事があって現地を再訪すると丸ビルはやはりない。空き地は柵で囲まれていて、電話線や瓦斯管があった形跡もない――。

この一編の妙は、丸ビルがあった場所に「丸ビル前」のバス停があり、タクシーの運転手に行き先を「丸ビル」と告げればそこに連れていってくれることだ。だが、空き地のそばに佇む人に「丸ビルはどうしたのでしょう」と尋ねると、「丸ビルと云いますと」と要領を得ない。丸ビルは在ったのか、なかったのか、在るのか、ないのか……。話を最後まで読むと、ますますわからなくなってくる。この世界が「別世界」と交じりあうような作品だ。

考えてみれば、当時の丸ビルは今消え、新しい丸ビルが聳えている。街の建物が知らないうちに姿を消すのはよくあることだ。その意味では、これもありうる話なのか。

*当欄2023年1月13日付「初夢代わりに漱石の夢をのぞく
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月10日公開、通算665回
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「靖国」に吹いた戦後民主主義の風

今週の書物/
『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』
毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊

靖国アクセス

転勤族はみなそうかもしれないが、初任地は忘れがたい。私にとって、それは北陸の福井市だ。街の真ん中を城跡が占め、濠に囲まれて福井県庁と県警本部がある。私の職場――新聞社の支局――はその濠端にあり、隣は市役所だった。私が赴任した1977年ごろ、市役所の裏手は再開発の前で飲食店などが狭い通りに密集していた。宿直明けの日は支局長に連れられてメシ屋の暖簾をくぐり、ごはんとみそ汁の朝食を掻き込んだものだ。

その一角は、佐佳枝廼社(さかえのやしろ)という神社の門前町だった。別名、越前東照宮。徳川家康や藩祖の松平秀康、幕末の藩主松平慶永(春嶽)を祀る神社だ。私が記者1年生だったころ、その社に朝方しばしば参拝する人物がいたことを今回、初めて知った。『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊)を読んだからである。その人は元藩主直系の松平永芳氏(1915~2005)だった。

で、今週はこの本をとりあげる。毎日新聞が2006年8月6~19日に連載した記事をもとにしているが、記者たちは連載後も取材を重ねて書籍化したという。2006年夏は、当時の小泉純一郎首相が終戦の日に靖国神社を参拝するかどうかが一大関心事となり、実際、当日早朝に決行された。「靖国」が政治問題化していたのである。本書の単行本は2007年、毎日新聞社から刊行された。それに加筆修正されたのがこの文庫版である。

本書によると、松平永芳氏は1978年、東京・九段にある靖国神社の宮司となる。前任者が同年春に亡くなり、後任に白羽の矢が立ったのだ。選考には、戦没者遺族の意向がものを言う。日本遺族会が動きだし、相談をもちかけたのが元最高裁長官石田和外氏だった。タカ派で知られた人だ。石田氏は同郷の松平氏の名を挙げた。「国や英霊を思う気持ち」が「並々ならない」という理由からだ。福井県選出の自民党有力参院議員も賛成した。

松平永芳氏は元海軍少佐であり、戦後は陸上自衛隊に入った。防衛研修所戦史室史料係長などを務め、1968年に1等陸佐で隊を退くと、郷里の福井市から声がかかり、市立郷土歴史博物館長の職に就いた。参拝の日課はこのときに始まったのだろう。

松平氏が靖国神社の宮司を引き受けるとき、石田氏と交わしたやりとりが本書に再現されている。本人の言によれば、これで受諾の意思を固めたという。松平氏が「日本の精神復興」には東京裁判の否定が欠かせないとして「いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだ」と主張すると、石田氏は「国際法その他から考えて当然祭ってしかるべきもの」と応じた。1978年夏、松平氏は宮司に就任、その年のうちにA級戦犯14人が合祀されたのである。

本書は副題にあるように、その「A級戦犯を合祀した男」の横顔を描きだしている。松平氏が祖父春嶽を崇拝していたこと、その祖父は幕末に開国開明派だったのに本人は国粋的なことなど、興味は尽きない。だが当欄が松平氏に触れるのはここまでとしよう。私がこの本で新鮮な驚きを覚えたのは、靖国神社が戦後、A級戦犯の合祀までどうであったかを詳述したくだりだ。逆説的だが、そこに戦後民主主義の力強さを見てとることができる。

靖国神社は1945年、敗戦で存亡の危機に立たされる。このときに宮司の役が回ってきたのは元皇族だ。筑波藤麿氏(1905~1978)である。山階宮家出身だが成人後、臣籍降下して侯爵となった。当時、皇族男子は軍務に就くのがふつうだったが、筑波氏は東京帝国大学文学部に学び、国史の研究家となる。そして1946年1月、靖国神社宮司に就任。この時点では「国家公務員」だったが、翌週には宗教法人の一宮司に立場が変わっている。

本書によれば、この人選には「占領軍や世論に配慮して、できるだけ軍と縁遠い人物を選ぶ」との方針もあったという。事情を知る筑波氏の長男、常治氏の見解である。ちなみに常治氏(1930~2012)は科学評論家で、生物学や農学、エコロジー思想に詳しかった。レイチェル・カーソン著『沈黙の春』の新潮文庫版で解説を執筆、これは当欄の前身でも紹介している(「本読み by chance」2019年2月15日付「『沈黙の春』の巻末解説を熟読する)。

興味深いことに、筑波宮司自身も自分を「白い共産主義者」と形容していた。「赤色までは行かないけど桃色だ」と冗談めかすことも。毎日新聞取材班は、筑波氏が言う「共産主義」を「戦後民主主義や平和主義をもっと徹底させた理想」と解釈している。

その象徴が境内にある「鎮霊社」だ。高さ3mほどの小ぶりな社で、参道から見ると本殿の左側奥に建っている。1965年の建立。立て札には「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める」とあり、「万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する」と明記された。大日本帝国の軍人だけでなく、民間の戦争犠牲者も、敵国を含む諸外国の戦没者も、慰霊と鎮魂の対象とすることを明言しているのである。

鎮霊社の着想は1963年、筑波氏が「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員で欧米諸国を回ったことがきっかけだった。団長は立教大学総長、副団長は筑波氏と薬師寺管主、立正佼成会会長という顔ぶれだった。東西冷戦で核戦争が危惧されるなか、宗教界の要人が宗派を超えて平和主義の旗を振ったのである。筑波氏の主張は「社報」1964年1月号にある。日本が「自己中心の幼稚なる殻にとじこもって居る」限り「真の平和は得られぬ」――。

靖国神社は戦後30年余、戦後民主主義の理想追求に同調していた。これは今の感覚では意外だが、1960年代に立ち返ればありそうなことだった。ここで書き添えれば、靖国神社には戦後民主主義のもう一つの側面、軍事より経済優先の気配もあったことだ。

ここに登場するのが、横井時常氏という人物だ。靖国神社では「ナンバー2」の「権宮司」という職にあった。1946年初め、筑波氏が宮司となる直前だが、横井氏は連合国軍総司令部(GHQ)の宗教課長に一つの提案をしている。戦前から「軍事博物館」として付設されている「遊就館」を一新させる将来構想だった。「娯楽場(ローラースケート・ピンポン・メリーゴーランド等)及び映画館にしたい」(原文のママ)とぶちあげた。

この構想は、ただの思いつきではなかった。それどころか、具体性を帯びてくる。横井氏の証言を載せた『靖国神社終戦覚書』によれば、神社周辺を娯楽街に生まれ変わらせる案が1946年秋までにまとまり、地権者や役所との接触も始まっていた。神田界隈の大学生に狙いを定め、神社敷地内に映画館を集める計画。総数20館というから、今で言えばシネプレックスか。近隣の焼け跡にも音楽堂や美術館を立地させようとしていた。

この娯楽化路線は何を意味するのか。靖国神社も戦後は一事業体となり、存続のために経営戦略を求められていたということか。それとも、靖国が人々に愛されるために世相に歩み寄ろうとしたのか。どちらにしても、私には戦後民主主義の落とし子のように思われる。

ただ、娯楽街づくりの計画は戦没者遺族から反発を受け、頓挫した。ただ、靖国神社にはその後も、生臭い構想がもち込まれたり、絵空事の案が浮上したりしたらしい。「浅草のような歓楽街にする」「パリの『のみの市』界隈に似た一大歓楽街にする」……。

本書によると、靖国神社では戦後、数多の案が生まれては消えた。たとえば「靖国廟宮」構想。横井氏が、GHQには靖国神社を「記念碑的なもの」にしたいとの意向があるらしいと察知、先回りして出した改称案だった。雑誌刊行を画策したという話もある。有名作家を編集長に招き、本気で読者をつかもうとしたようだが、構想倒れに終わった。映画街といい、雑誌創刊といい、靖国神社は文化の拠点になることを夢見ていたように見える。

「靖国」は戦後しばらく、良くも悪くも世間並みだった。世俗的ではあったが、理想主義の風も吹いていた。日本のリベラル派陣営はなぜ、それに気づかなかったのか。風を生かして対話を重ねていれば、世論を二分しない鎮魂のあり方を見いだしていたかもしれない。

☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月3日公開、通算664回
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今年は、なんでも覚悟する

今週の書物/
スベトラーナ・アレクシエービッチさんにインタビュー
朝日新聞2023年1月1日朝刊

新春(*1)

1年前は的外れだった。2022年年頭の当欄には、国政が改憲に向かって動くとの見立てがあった(2022年1月7日付「社説にみる改憲機運の落とし穴)。ところが、現実はそれをスキップした。私たちの眼前には、もうすでにキナ臭い世界がある。

ロシアによるウクライナ侵攻が2月に勃発した。大国の軍隊が隣国にずかずかと入り込んで武力を行使する――その「軍事行動」にはいろいろな理由づけがなされたが、説得力はない。今日の国際社会の常識に照らせば、暴挙というほかなかった。

予想外の事態が突然出現したため、日本国内の世論も一気に防衛力増強へ傾いた。その風向きに便乗するかのように、政府は現行憲法の生命線である専守防衛の原則を拡大解釈して、敵基地攻撃能力を備えることにした。事実上の改憲といえるのではないか。

ウクライナ侵攻が日本社会に拙速な変更をもたらしたのは、それだけではない。原子力政策がそうだ。ロシアは石油や天然ガスの輸出大国なので、侵攻に対する西側諸国の経済制裁はエネルギー需給を逼迫させた。その一方で、国際社会の課題として地球温暖化を抑えるための脱炭素化がある。これで息を吹き返したのが、原発活用論だ。その追い風を受けて、日本政府は原発の新規建造や60年間超の運転を認める政策に舵を切った。

見通しの悪さをいえば、コロナ禍に対しても見方が甘かった。1年前の冬、日本では感染の第6波が立ちあがっていたが、それも春夏には収まるだろう、という希望的予感があった。だが、実際はどうか。6波のあとも7波、8波に見舞われている。

コロナ禍では、私たちの意識も変わった。政府はこの1年で行動規制を緩めた。社会を動かさなければ経済は回らない。人々の我慢も限界に達している。そんな事情があって、オミクロン株は従来株と比べて感染力は高いが重症化リスクが低い、というデータに飛びついたのだ。とはいえ緩和策で感染者がふえれば、それに引きずられて重症者も増加する。コロナ禍の実害をやむなく受け入れる感覚が、世の中に居座った感がある。

ウクライナ侵攻の突発、いつまでも終わらないコロナ禍――予想外のことがもとで心はぐらつき、世の中も変容した。私たちは引きつづき、そんな事象に取り囲まれている。2023年も何が起こるかわからない。相当の覚悟を決めなくてはなるまい。

で今週の書物は、私の古巣朝日新聞の元日紙面。ぱらぱらめくっていくと、オピニオン欄の表題に「『覚悟』の時代に」とあった。今年のキーワードは、やはり「覚悟」なのか。

とりあげたい記事はたくさんあるが、今回はベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)へのインタビューに焦点を当てる。第1面から2面にかけて展開された大型記事だ。1面トップに据えられた前文によれば、取材陣(文・根本晃記者、写真・関田航記者)は11月下旬、彼女が今住んでいるベルリンの自宅を訪れたという。先週の当欄に書いたように、秋口から準備を進めてきた新年企画なのだろう(*2)。

インタビューの主題はロシアのウクライナ侵攻だ。1面トップを飾ったアレクシエービッチさんの横顔は憂いをたたえている。おそらくは、ウクライナの苛酷な現実に思いをめぐらせてのことだろう。その表情を写真に収めた関田記者が大みそか、滞在先のキーウでロシアのミサイルによると思われる攻撃に遭い、足にけがをしたという記事が同じ朝刊の別のページに載っている。現地の緊迫感が伝わってくるようなめぐりあわせだ。

アレクシエービッチさんは、どんな人か。前文にはこう要約されている。旧ソ連ウクライナ生まれ。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。執筆に用いてきた言語はロシア語。旧ソ連のアフガン侵攻やチェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故に目を向け、「社会や時代の犠牲となった『小さき人々』の声につぶさに耳を傾けてきた」。当欄の前身「本読み by chance」も、彼女がノーベル文学賞を受けた2015年、その著作を紹介している(*3)。

ではさっそく、インタビュー本文に入ろう。アレクシエービッチさんはウクライナ侵攻の第一報に触れたとき、「ただただ涙がこぼれました」と打ち明ける。ロシア文化になじみ、ロシアが「大好き」な人間なので「戦争が始まるなんて到底信じられなかった」。

その一方で彼女は、「戦争は美しい」と主張する男性に取材した経験を語る。「夜の野原で砲弾が飛んでいる姿はとても美しい」「美しい瞬間があるんだ」――そんな悪魔的な言葉を引いて、彼女は戦争には「人間の心を支配してしまうようなものがある」と指摘する。

「ウクライナ侵攻では人間から獣がはい出しています」。インタビューでは、そんな衝撃的な言葉もとび出す。作家は「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に仕事をしているというのが、彼女の持論だ。「文学は人間を育み、人々の心を強くしなければなりません」。名前が挙がるのはロシアの文豪たち。「ドストエフスキーやトルストイは、人間がなぜ獣に変貌(へんぼう)するのか理解しようとしてきました」という。

聞き手の記者が、ウクライナ侵攻ではロシア軍の占拠地域で「残虐な行為」が相次いだことに水を向けると、彼女も「なぜ、こうもすぐに人間の文化的な部分が失われてしまうのでしょうか」と慨嘆している。では、何が原因でロシア社会に「獣」性が現れたのか。

その答えをアレクシエービッチさんは用意していた。「ロシア人を獣にしたのはテレビ」と言い切るのだ。ロシアのテレビメディアが数年前から、プーチン政権の意向に沿ってウクライナを敵視する報道をしてきたことにロシア人の多くが影響された、という。

一例は、ウクライナで捕虜になったロシア兵と郷里の母親との電話のやりとりだ。兵士が「ここにはナチはいない」と言うと、母は「誰に吹き込まれたの」と突っぱねた。反論の論拠にしたのは、ロシアのテレビ報道だったという。電話はウクライナ側が「実情を伝えれば解放してやる」と促したものだそうだから、兵士の言葉にも吟味は必要だろう。ただ、ロシアでテレビが伝えるウクライナ像の多くが歪んでいることは間違いなさそうだ。

率直に言えば、この説明には若干の違和感がある。今の時代、テレビにそれほどまでの影響力があるのか、と思われるからだ。ロシアの人々も、高齢世代を除けばSNSに馴染んでいるだろう。だから、テレビ報道が政府寄りに偏っても、偏りはすぐばれるのではないか。SNSにも規制がかかっているらしいが、SNSの不自由さは目に見えるかたちで現れるので、メディア統制の意図をかえって見抜かれてしまうのではないか――。

とはいえ、「人間から獣が」出てきたようなウクライナの現実に、一方的な情報が関与しているのは確かだ。その意味で、アレクシエービッチさんの言葉は、私たちへの警告となる。日本社会に、あからさまなメディア統制はない。SNSは、ほとんど言いたい放題だ。だが、それがかえって付和雷同のうねりを生みだすことがある。政府は、その波に乗っかって権力を行使しようとする。私たちは、情報社会の高度な不気味さに包まれている。

私たちが今年、最悪の事態として覚悟しなければならないのは、武力行使やコロナ禍が延々と続くことだけではない。一方的な情報の波に対しても身構えなければならないだろう。なぜならその波にのまれることが、事態をいっそう悪い方向へ動かしてしまうからだ。

アレクシエービッチさんは、絶望に直面する人の「よりどころ」は「日常そのもの」であり、それは「朝のコーヒーの一杯でもよい」と言う。そういえば、けさのコーヒーは苦いけれど心をほっとさせてくれた。2023年が、そんなコーヒーのようであればよいと思う。

*1 新聞は、朝日新聞2023年1月1日朝刊(東京本社最終版)
*2 当欄2022年12月30日付「大晦日、人はなぜ区切るのか
*3 「本読み by chance」2015年10月16日付「ベラルーシ作家にノーベル賞の意味
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月6日公開、通算660回
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大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
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「点と線」を原武史経由で読む

今週の書物/
『「松本清張」で読む昭和史』
原武史著、NHK出版新書、2019年刊

駅のホーム

今月の当欄はテレビに目を転じて、2時間ミステリー(2H)の看板シリーズに焦点を当てた。森村誠一原作の「終着駅シリーズ」と西村京太郎原作の「トラベルミステリー」だ。テレビ朝日系列の両シリーズは、ともに今月放映の作品が最後となる。改めて思うのは、両者の源流に松本清張の長編小説『点と線』があるのではないか、ということだ。勤め人社会の落とし穴を描いている。鉄道がよく出てくる。そんな特徴が受け継がれている。

『点と線』の初出は、1957年2月号~1958年1月号の『旅』誌連載だ。清張は、この作品で社会派推理小説という新分野の旗手になった。ここで「社会派」とは何を意味するのか。私見を言えば、作者の観察眼が同時代の世の不条理を見抜いていることだ。

たとえば、この作品では事件が官僚機構の病と深く結びついている。中央官庁の高級官僚が業者と結託して甘い汁を吸う、追及の手が及びそうになると下級官僚をトカゲの尻尾のように切って捨てる――私たち読者は、そんな構図を生々しく見せつけられるのだ。

作品が発表されたころ、私たちは子どもだったが、この構図のことは薄々知っていた。同様の事件が後を絶たず、新聞やテレビを賑わせていたからだ。長じて自らが新聞記者になると、官庁がらみの事件が起こるたび、そこにその構図がないかを疑うようになった。驚くべきことに、日本の官僚機構は今も同じ構図から脱け出せないでいる。そう見てくると、清張は1950年代後半、日本社会の慢性疾患をいち早く見いだしていたことになる。

ただ、この作品の社会派としての魅力は、不条理をあぶり出したことにとどまらない。筋立てだけでなく細部の描写から、当時の世相が見えてくる。東京と地方の距離感、それと重なりあう豊かさと貧しさの落差、列島の交通網が過渡期にあったこと……。

で、今週の1冊は『点と線』――といきたいところだが、あえてそれを避ける。選んだ本は『「松本清張」で読む昭和史』(原武史著、NHK出版新書、2019年刊)だ。なぜ、間接的に語ることにしたのか。最大の理由は、著者の松本清張観をかなりの部分、私も共有しているからだ。ならば当欄は、この本に収められた著者の『点と線』論を紹介して、その指摘に賛意を表したほうが説得力をもつのではないか。そう思ったのである。

この本は、NHK・Eテレが2018年に放送した「100分de名著 松本清張スペシャル」をもとにしている。その教材として刊行された本を、改題、加筆、再構成したものだ。清張作品のうち、『点と線』『砂の器』『日本の黒い霧』『昭和史発掘』と未完の『神々の乱心』に焦点を当てている。最初の二つは戦後社会高度成長期の位相をリアルタイムで切りだした長編小説、残り三つは戦前戦後史を掘り起こしたノンフィクションや小説である。

『点と線』は第一章でとりあげられている。題して「格差社会の正体」。章題をみて、私は一瞬戸惑う。高度成長期は日本社会に「一億総中流」の意識が広まった時代という印象があるからだ。だが著者は、その初期には「格差」が存在した事実を見逃さない。

格差の具体例は乗りものだ。著者が世に言う鉄ちゃん、無類の鉄道好きであることはよく知られている。この本もその蘊蓄が満載だ。長旅で乗る列車が特急か急行かという選択に、著者は格差を見てとる。『点と線』で、福岡市の海岸で不審な死を遂げた中央官庁課長補佐の佐山憲一が東京駅で乗り込んだのは寝台特急だった。これに対して、警視庁刑事の三原警部補が九州や北海道への出張時に多用するのは夜行の急行列車である。

これは先週、当欄が読んだ『寝台急行「銀河」殺人事件』(西村京太郎著、文春文庫)を思いださせる。警視庁の亀井刑事が東京駅で寝台急行「銀河」に乗ろうとするとき、「急行列車ですか。なつかしいですなあ」と昔を思い返す場面と響きあっている。(*)

『点と線』で佐山が乗った寝台特急は「あさかぜ」。1956年に登場した「花形列車」だ。そのころは寝台車のほかに客車も連結しており、特別二等車(略称「特二」)があった。当時の国鉄では普通車が三等車だったので、二等車というだけで格上だが、それよりもさらに高級感がある。二等車でも「ボックスタイプの直角椅子」が設えてあった時代、特二には「リクライニングができる」座席が並び、背もたれを倒すことができたのだ。

「あさかぜ」が東京駅に横づけされた場面は、この作品の読みどころだ。その姿が隣接ホームから見通せる時間は限られている――これがミステリー謎解きのカギとなっている。

一方、急行はどうか。『点と線』は三原刑事が乗った急行「十和田」の車内を描いており、著者はこれを引用する。上野駅を19時15分に出て翌朝9時9分、青森に着く。文字通りの夜行列車である。「前に腰かけた二人が、東北弁でうるさく話しあっていたので、それが耳について神経が休まらなかったのだ」――この記述からわかるのは、三原が四人掛けのボックス席で車中泊したということだ。著者は「おそらく三等車であろう」と推察する。

三原はこのあと青函連絡船で津軽海峡を渡り、函館14時50分発、札幌20時34分着の急行「まりも」に乗り継ぐ。上野からまる一昼夜の旅。札幌では「くたくた」になり、「尻が痛くなっていた」。ちなみにこの出張は、中央官庁の出入り業者である安田辰郎の足どりを跡づけるものだった。「安田はおそらく、上野から二等寝台か特二で悠々と来たのであろう」――三原が安田の境遇をうらやむ心理を、清張はそんな言葉で表現している。

著者は『点と線』の時代、夜行の旅では「二等寝台車に乗れる客」と「急行の三等車でしか行けない客」がいたことをもって「当時は厳然と階級が存在した」と断ずる。国鉄は1960年に客車の3等級制を2等級制に改め、さらに1969年には等級制をやめて「普通車」「グリーン車」の名で呼ぶようになった。これは社会から階級が消えていく流れに呼応している、と著者はみる。「一億総中流」の意識は高度成長後期にできあがったものなのだろう。

格差は二等寝台と三等の違いにとどまらない。著者は、安田の「飛行機による移動の可能性」にも触れている。ネタばらしになりかねないのにあえて言及したのは、そこに時代の位相を見たからだろう。当時、列島縦断の旅では空路と陸路という格差も出現しつつあった。

格差は、階級や階層の間だけではなく地域の間にもあった。東京と地方の格差だ。『点と線』では、三原刑事が九州出張から帰京後、東京駅から有楽町の喫茶店に直行する。「彼はうまいコーヒーに飢えていた」「これだけは田舎では味わえない」と清張は書いている。

つくづく思うのは、二等寝台と三等であれ、空路と陸路であれ、東京と地方であれ、両者間の格差がどんどん小さくなっていったことだ。高度成長期が終わるころ、人々は東京から大阪へ出張するとき、飛行機にするか新幹線にするかを各自の都合で決めるようになった。珈琲党も、自家焙煎の喫茶店やフランチャイズのコーヒー店が津々浦々に広まり、東京にいる必要はなくなった。格差解消と言えば聞こえがよいが、均質化が極まったのだ。

こうしてみると、『点と線』の時代を起点とする高度成長には二面性があった。それは人々の貧富の差を縮めたが、同時に社会の構成要素が具える個性を薄れさせてしまった。科学用語を用いるならば、エントロピーが大きくなったということだ。冷水1リットルと熱湯1リットルが混ざって、ぬるま湯2リットルになってしまったわけだ。日本の風景は今や、東京も地方も似たもの同士だ。のっぺりしてつまらなくなったともいえるだろう。

裏返せば、『点と線』の世界はのっぺりしていない分、魅力があった。それは、安田の妻亮子の趣味からもうかがうことができる。亮子は結核の療養中で、鉄道の時刻表が愛読書だった。この一瞬にも「全国のさまざまな土地で、汽車がいっせいに停っている」「たいそうな人が、それぞれの人生を追って降りたり乗ったりしている」。彼女は発着時刻がぎっしり並んだページの向こう側に、駅ごとに異なる風景を見ていたのではないか。

高度成長がもたらした貧富の差の縮小は半世紀を経て、もはや期限切れだ。著者は、私たちが1990年代のバブル経済崩壊を経て「持てる者と持たざる者との差が広がる格差社会」に直面していることを指摘して、こう書く。「そうした状況の中でこの小説を読むと、格差がはっきりと描かれていることが逆に切実に迫ってくる」――。『点と線』を今読むことは、私たちがいっとき抱いた「総中流」意識のはかなさを知ることにもなるだろう。

* 当欄2022年12月16日付「2時間ミステリー、老舗の退場
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月23日公開、通算658回
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