今週の書物/
『NIELS BOHR』
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)
当欄は今年の年頭、実存主義にこだわった。夏目漱石の日記に「実存」を見て、ジャン-ポール・サルトルの講演を本で読んだ。さらに去年とりあげたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)も読み直してみた。(2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」、2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」、2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」、2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する」)
こうしてみると、当欄のあり方として、ときに一つのテーマにこだわるのも悪くはない。昨春、新しい看板として「めぐりあう書物たち」を掲げたとき、第一には自分自身と本との出会いという意味を込めたが、内心には本同士のめぐりあいもあり、と思っていた。私がこだわりのテーマを追いかければ、そこに本同士のネットワークが生まれるかもしれない。ならば今年は、テーマをもう一つ選ぼう。それで思いついたのが量子力学である。
振り返れば量子力学は、私にとって抜くに抜けないトゲのようなものだった。学生時代に物理学を学んだが、理系職に就くことを断念したのは、量子力学につまずいたからだ。数式が何を言いたいかがわからない、わからない数式を用いて仕事はできない――。
不惑を過ぎて、私は量子力学に再会した。ロンドン駐在の科学記者だった1990年代、量子力学が再び物理学者の関心事になっている流れを知り、それを欧州各地で取材したのである。報告記事は、まず紙面に載せ(朝日新聞科学面連載「量子の時代」、1995年10~12月に10回)、さらに本にまとめた(『量子論の宿題は解けるか』講談社ブルーバックス、1997年刊)。このときに気づいたのは、量子力学は物理学者にとってもトゲだということだ。
量子力学は1920年代半ばに出来あがったが、その解釈はずっと宿題だった。何を言おうとしているかは、物理学者にもはっきりしなかったのである。ところが20世紀も押し詰まったころ、宿題の答えの手がかりが見えてきた。量子力学が露わになる世界が、極微や極低温などの先端技術によって実験室でも再現できるようになったからだ。その試みが量子コンピューターや量子暗号といった次世代技術の芽を秘めていることも研究を後押しした。
量子コンピューターや量子暗号が政治経済の記事にも登場するようになった昨今の状況に接して、一つ残念に思うのは、その技術と表裏の関係にある量子力学の解釈問題が置き去りにされていることだ。そんなことは技術革新と関係ない、と言われてしまえばそれまでだ。だが、量子力学をどう解釈するかは、私たちが世界をどうとらえるかに深く結びついている。私たちは、もしかしたら現有の世界観をそっくり取り換えなくてはならないのだ。
で、今週選んだ書物は、電子出版の『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫〈底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊〉)。そもそも、量子力学の誕生にどんな動機があったのか、そこのところをしっかり押さえておこうと思ったのである。
この一編は、20世紀前半に日本の物理学界を牽引した著者(1890~1951)が、自身も渡欧時に師事したデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885~1962)の半生を簡略に綴ったものだ。ボーアの家庭環境や滞英遊学などにも触れているが、当欄は科学史の側面に的を絞る。マックス・プランクの量子仮説(1900年)を原点とする量子論の流れが、1920年代に量子力学として結実するまでのいきさつが見えてくるからである。
本題に入る前に、お許しをいただきたいことがある。この文章は全編、旧字体、旧仮名づかいで書かれている。デンマークを「丁抹」とするなど、旧式の地名表記もある。さらに著者は、ボーアをBohr、ケンブリッジをCambridgeとするなど原語表記も多用している。こうした文章は、昭和戦前の文化遺産として貴重なものだ。当欄はそのことを認めたうえで、本文の引用にあたって文字づかいや表記の仕方を現代風に改めることにする。
ボーアの業績で有名なのは、1913年に提案した原子模型だ。そこには「古典論では律し得ない二つの基礎仮定」があった。一つめは、原子内で電子の運動は「定常状態のみが許される」こと。「中間の状態」はない。二つめは、ある状態から別の状態へ移るとき、エネルギーのやりとりは電磁波の放射吸収によってなされ、その電磁波の振動数(ν)はエネルギーをプランク定数(ℎ)で割った値になること。なぜ、こんな仮定ができるのか?
それは、プランクの量子仮説を踏まえているからだ。この仮説では、エネルギーは塊のように一つ、二つと数えられる。ボーアは、それを原子の内部構造にもち込んだのである。(「本読み by chance」2019年12月6日付「ポアンカレ本で量子論の産声を聴く」)
この英断には前段がある。1910年代初め、ボーアは英国のマンチェスターでアーネスト・ラザフォードに会っている。その直前、ラザフォードは散乱現象の実験で、原子は原子核とその周りの電子からできていることを確かめていた。これによって、J・J・トムソンが主張していたブドウパン型の模型――「陽電気の雲塊の中に電子が浮かんで居るもの」――が否定され、長岡半太郎の土星型模型に近いものが有力な原子像になった。
ただ、この原子像にも難があった。分光学の研究で原子にはスペクトルがあること、すなわち、原子は元素の種類ごとに特定の振動数の電磁波しか放射吸収しないことがわかっていた。ところが、もし電子が古典論の物理に則って隕石の落下のように滑らかに軌道を落としていくのなら、とびとびの振動数をもつ電磁波の放射を説明できない。この矛盾を切り抜ける奇手が、原子が従うべき掟としての「二つの基礎仮定」だった。
ボーアの原子模型は、このように量子論を受け入れているが、一方で古典論にも踏みとどまっている。著者によると、原子の定常状態そのもののエネルギー値は、原子核や電子のような荷電粒子に適用されるクーロンの法則によって古典物理から算出しているというのだ。木に竹を接ぐような話ではある。興味深いのは、この値が今日の量子力学を用いた計算結果にもぴったり合うらしいことだ。著者は、それを「偶然の一致」と言っている。
木に竹を接ぐことになった事情を説明するくだりも、この一編にはある。著者によれば、私たちの「概念」は「巨視的事象」によってかたちづくられているので「描像能力の極限を超えて居る原子、分子等の微視的対象」には当てはめられない。古典論は「描像能力の限界内にある」ので、微視世界までは「定量的」に解き明かせないというのだ。この壁を突破するには、十余年後の「描像を超脱した量子力学」の登場を待たなくてはならない。
ただ、ボーアは二兎を追った。「定量」を可能にするために「二つの基礎仮定」を導入して量子論に一歩踏み込んだが、古典論に片足を残して「描像」も手放さなかった。著者は、その原子模型を「描像を用い得る」「一つの表現法」と位置づけている。
量子論と古典論の折り合いをつけることにも、ボーアは腐心した。これは、そんなに簡単なことではない。片方には、「単一の振動数を有する光量子」ばかりが放出される量子論の現象がある。そこに見られる振動数は不連続で、とびとびだ。もう一方には、「同時に多くの振動数をもった光を出す」ような古典論の現象がある。こちらは、光の振動数が切れ目なく連続している。この二つの物理学を仲良く併存させる道はあるのか。
ボーアは、こう考えた。量子論でも対象が大きくなって巨視の領域に近づけば、とびとびが連続に見えてくる。「極限」に達すれば古典論と「同じことになる」――逆を言えば、古典論は量子論の一部とみなせる。これが「対応原理」と呼ばれるものだ。
この一編を読んで印象深いのは、1910年代、量子力学前夜の量子論――これを前期量子論という――が「描像」にこだわったことだ。物理学の精神としては健全だったと言えるのではないか。今、量子力学の探究は実験技術の進展によって急展開を見せ、巨視と微視の境目が薄れている。もはや量子世界を「描像能力の極限を超えて居る」と突き放せなくなった。わけがわからないならわからないなりに、その世界をイメージしたい。切にそう思う。
〈注〉ℎはプランク定数。それを2πで割った数値がℏで「エイチバー」と読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月28日公開、同日更新、通算576回
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