『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊
薔薇の花を見て、ああまた初夏が巡ってきた、と思う。年をとると時の流れは速い。生に限りがあることを自覚して、時の終わりが頭にちらつくこともある。時間は切実な関心事だ。で当欄は今春、哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を読んだ。(*1 *2)
ただ、哲学談議だけでは時間の半面を見たに過ぎない。学問の世界には、まったく別の観点から時間を考えている一群の人々がいる。それは自然科学者、とりわけ物理学者だ。
自然界は、物体によって成り立っている。物体は空間軸と時間軸の座標で位置づけられ、その動き方は空間の位置変化を時間で割った速度や、その速度変化をさらに時間で割り込んだ加速度によって記述できる――物理世界の出来事をこのようにとらえることに私たちは慣れてきた。現代に入ってニュートン力学の限界が見え、相対性理論や量子力学などのややこしい話が出てきたものの、空間と時間の大枠は健在のように見える。
文系の時間像は前々回、前回に書いたように一筋縄ではいかないが、理系の時間像は見通しが良い。かつて「本読み by chance」でとりあげた『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)は、この文理の断絶を見抜いていた。(*3)
橋元さんはこう指摘した。「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」「一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない」。私も同感だ。科学者だって、忙しがったりのんびりしたりしているのに不思議なことだ。だが最近は、物理系の人が「人間的時間」に踏み込むようになった。それは、橋元さんだけではない。
『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。この本のことは新刊当時、新聞で知った(朝日新聞2019年11月16日朝刊読書面「売れてる本」欄)。評者は批評家の福尾匠さん。「本書には文系/理系という安易な分割を越えた知性が、というより、理系にしか引き出せない文系の魅力が刻まれている」と結んでいた。私も一読してそう思った。本の帯に「革命的な時間論」とあるのも、うなずける。
著者は1956年、イタリア生まれの物理学者。パドヴァ大学大学院で博士号を得た後、イタリア、米国、フランスの大学で理論研究を重ねてきた。相対性理論と量子力学を一つにまとめる理論の構築に挑んでおり、「ループ量子重力理論」を主張する一人だ。その一方、一般向けの物理本も次々に執筆している。本書は、2017年にイタリアで出版された。著者紹介欄によると、30を超える国々で刊行が決まり、「世界的ベストセラー」になっている。
この本の要点は二つある。一つめは、物理学は時間がなくても成り立つということ。もう一つは、それでも私たちには時間があるように感じられるということ。後者は、人間の本質にかかわる。二つめがあるから、「人間的時間」に踏み込んでいると言えるのだ。
時間が絶対的でないことは、すでに多くの科学ファンが知っている。20世紀に入ってアルバート・アインシュタインが相対性理論を築いたことで、アイザック・ニュートン流物理学の絶対時間が否定されたからだ。そのことは本書も念押ししている。
たとえば、第一章「所変われば時間も変わる」の冒頭部では「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」と書かれている。これは、一般相対論の効果だ。「物体は、周囲の時間を減速させる」と説明して、「山より平地のほうが減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〔の質量の中心〕に近いからだ」(〔〕内は訳注、太字表記は原文に従った)と言う。この話の切りだし方に私は戸惑い、そして納得した。巧い、この人は!
アインシュタインの相対論を扱う一般向け科学書は、特殊相対論から入るのが常道だ。特殊相対論は慣性座標系同士を扱う理論なので、列車と駅のホームのようなわかりやすいイメージで考察できる。実際、アインシュタイン自身もまず特殊相対論を仕上げ、そのあとに一般相対論へ進んだ。ところが著者は、いきなり一般相対論を読者に提示した。推察するに、それは時間が「物体」とかかわっていることを印象づけたかったからだろう。
一般相対論の解説では見事な論法がある。太陽と地球の間に重力が働く様子を、このように描く。「直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか」。いわゆる近接作用だ。そうならば「水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」――時空が重力の伝え手なら、それはコンクリート塊のような剛体ではありえない。
ここまでの話では、時間は存在する。ただそれは、物体によって影響を受ける。この限りでは、著者は、時間よりも物体を重視している。だが、よく読むと、その物体も絶対視してはいない。むしろ、逆なのだ。物体を幻のようなものとみている。
その話が出てくるのは、第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」だ。モノよりもコトを重んじる世界観を全展開している。物体の代表格「石」を例に挙げ、こう言い切る。それは「崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程」である――と。古典物理学も現代物理学も「物の状態」ではなく「出来事の起き方」を語っており、「『物』はしばらく変化がない出来事」に過ぎないという。
この考え方に立てば、世界は「出来事の集まり」ということになる。しかも、それらは互いにつながりあって「出来事のネットワーク」をかたちづくっている。物理学者は長い間、素粒子研究などで「基本的な実体の正体」を探し求めてきたが、最近は「出来事同士の関係」を知るほうが世界をとらえやすいことがわかってきた、という。モノよりコトを重んじる世界観は、「実体」より「関係」を重んじる世界観と言い換えてもよいだろう。
著者は、人間についても「出来事のネットワーク」論で語る。人間は、自身が「食べ物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程」という出来事だが、それは「社会的な関係」や「化学反応」や「同類の間でやりとりされる感情」のネットワークの「結び目」となり、ほかの出来事とつながっている。ここで「食べ物」や「光」や「化学反応」が、「言葉」や「感情」や「社会的な関係」と並列されるところに本書のおもしろさがある。
見落とせないのは、著者が「出来事」の本質を「変化」とみていることだ。「出来事」は、「物」のように続くことはあっても、それはあくまで「しばらく」だ。ずっとではない。ということは、出来事から成る世界も「絶えず変化している」と見たほうがよい。
世界が「変化」とともにあるなら、そこに時間は欠かせないように思われる。ところが著者は、時間は要らないという。なぜ、そんなことがいえるのか。第八章「関係としての力学」に進むと、この疑問は氷解する。「変化」は時間変数“t”の関数によって表すものという常識が私たちにはあるが、著者はそれにこだわらない。或る量の変わり方は別の量の変わり方と関係づければ、どのようにも表現できる。別の量は“t”でなくともよいのだ。
人類は、物事の変化をまず、「日数」や「月の満ち欠け」「太陽の高さ」に関係づけた。これらが暦や時計を生み、「一つの変数を選んで『時間』という特別な名前をつける」ことになった。だが、それは不要だ、と著者は断言する。知りたいのは「もの同士が、互いに対してどのように変化するのか」だ。著者の専門である量子重力の基本方程式も「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」形式をとっているという。
ここまでの話で、本書の要点の一つめ、物理学に時間はなくてもよいということの論旨はおぼろげながら見えてきたように思う。だが、もう一つの難問が残っている。私たちはなぜ時の流れを感じるのか、だ。この問いの答えを求めて、次回も引きつづき本書を読む。
*1 当欄2023年4月21日付「『時間がない』と哲学者は言った」
*2 2023年4月28日付「時間を『我が身』に引き寄せる」
*3 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者」
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月5日公開、通算677回
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