「時間がない」と物理学者は言った

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

時間は不要?

薔薇の花を見て、ああまた初夏が巡ってきた、と思う。年をとると時の流れは速い。生に限りがあることを自覚して、時の終わりが頭にちらつくこともある。時間は切実な関心事だ。で当欄は今春、哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を読んだ。(*1 *2

ただ、哲学談議だけでは時間の半面を見たに過ぎない。学問の世界には、まったく別の観点から時間を考えている一群の人々がいる。それは自然科学者、とりわけ物理学者だ。

自然界は、物体によって成り立っている。物体は空間軸と時間軸の座標で位置づけられ、その動き方は空間の位置変化を時間で割った速度や、その速度変化をさらに時間で割り込んだ加速度によって記述できる――物理世界の出来事をこのようにとらえることに私たちは慣れてきた。現代に入ってニュートン力学の限界が見え、相対性理論や量子力学などのややこしい話が出てきたものの、空間と時間の大枠は健在のように見える。

文系の時間像は前々回、前回に書いたように一筋縄ではいかないが、理系の時間像は見通しが良い。かつて「本読み by chance」でとりあげた『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)は、この文理の断絶を見抜いていた。(*3

橋元さんはこう指摘した。「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」「一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない」。私も同感だ。科学者だって、忙しがったりのんびりしたりしているのに不思議なことだ。だが最近は、物理系の人が「人間的時間」に踏み込むようになった。それは、橋元さんだけではない。

『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。この本のことは新刊当時、新聞で知った(朝日新聞2019年11月16日朝刊読書面「売れてる本」欄)。評者は批評家の福尾匠さん。「本書には文系/理系という安易な分割を越えた知性が、というより、理系にしか引き出せない文系の魅力が刻まれている」と結んでいた。私も一読してそう思った。本の帯に「革命的な時間論」とあるのも、うなずける。

著者は1956年、イタリア生まれの物理学者。パドヴァ大学大学院で博士号を得た後、イタリア、米国、フランスの大学で理論研究を重ねてきた。相対性理論と量子力学を一つにまとめる理論の構築に挑んでおり、「ループ量子重力理論」を主張する一人だ。その一方、一般向けの物理本も次々に執筆している。本書は、2017年にイタリアで出版された。著者紹介欄によると、30を超える国々で刊行が決まり、「世界的ベストセラー」になっている。

この本の要点は二つある。一つめは、物理学は時間がなくても成り立つということ。もう一つは、それでも私たちには時間があるように感じられるということ。後者は、人間の本質にかかわる。二つめがあるから、「人間的時間」に踏み込んでいると言えるのだ。

時間が絶対的でないことは、すでに多くの科学ファンが知っている。20世紀に入ってアルバート・アインシュタインが相対性理論を築いたことで、アイザック・ニュートン流物理学の絶対時間が否定されたからだ。そのことは本書も念押ししている。

たとえば、第一章「所変われば時間も変わる」の冒頭部では「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」と書かれている。これは、一般相対論の効果だ。「物体は、周囲の時間を減速させる」と説明して、「山より平地のほうが減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〔の質量の中心〕に近いからだ」(〔〕内は訳注、太字表記は原文に従った)と言う。この話の切りだし方に私は戸惑い、そして納得した。巧い、この人は!

アインシュタインの相対論を扱う一般向け科学書は、特殊相対論から入るのが常道だ。特殊相対論は慣性座標系同士を扱う理論なので、列車と駅のホームのようなわかりやすいイメージで考察できる。実際、アインシュタイン自身もまず特殊相対論を仕上げ、そのあとに一般相対論へ進んだ。ところが著者は、いきなり一般相対論を読者に提示した。推察するに、それは時間が「物体」とかかわっていることを印象づけたかったからだろう。

一般相対論の解説では見事な論法がある。太陽と地球の間に重力が働く様子を、このように描く。「直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか」。いわゆる近接作用だ。そうならば「水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」――時空が重力の伝え手なら、それはコンクリート塊のような剛体ではありえない。

ここまでの話では、時間は存在する。ただそれは、物体によって影響を受ける。この限りでは、著者は、時間よりも物体を重視している。だが、よく読むと、その物体も絶対視してはいない。むしろ、逆なのだ。物体を幻のようなものとみている。

その話が出てくるのは、第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」だ。モノよりもコトを重んじる世界観を全展開している。物体の代表格「石」を例に挙げ、こう言い切る。それは「崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程」である――と。古典物理学も現代物理学も「物の状態」ではなく「出来事の起き方」を語っており、「『物』はしばらく変化がない出来事」に過ぎないという。

この考え方に立てば、世界は「出来事の集まり」ということになる。しかも、それらは互いにつながりあって「出来事のネットワーク」をかたちづくっている。物理学者は長い間、素粒子研究などで「基本的な実体の正体」を探し求めてきたが、最近は「出来事同士の関係」を知るほうが世界をとらえやすいことがわかってきた、という。モノよりコトを重んじる世界観は、「実体」より「関係」を重んじる世界観と言い換えてもよいだろう。

著者は、人間についても「出来事のネットワーク」論で語る。人間は、自身が「食べ物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程」という出来事だが、それは「社会的な関係」や「化学反応」や「同類の間でやりとりされる感情」のネットワークの「結び目」となり、ほかの出来事とつながっている。ここで「食べ物」や「光」や「化学反応」が、「言葉」や「感情」や「社会的な関係」と並列されるところに本書のおもしろさがある。

見落とせないのは、著者が「出来事」の本質を「変化」とみていることだ。「出来事」は、「物」のように続くことはあっても、それはあくまで「しばらく」だ。ずっとではない。ということは、出来事から成る世界も「絶えず変化している」と見たほうがよい。

世界が「変化」とともにあるなら、そこに時間は欠かせないように思われる。ところが著者は、時間は要らないという。なぜ、そんなことがいえるのか。第八章「関係としての力学」に進むと、この疑問は氷解する。「変化」は時間変数“t”の関数によって表すものという常識が私たちにはあるが、著者はそれにこだわらない。或る量の変わり方は別の量の変わり方と関係づければ、どのようにも表現できる。別の量は“t”でなくともよいのだ。

人類は、物事の変化をまず、「日数」や「月の満ち欠け」「太陽の高さ」に関係づけた。これらが暦や時計を生み、「一つの変数を選んで『時間』という特別な名前をつける」ことになった。だが、それは不要だ、と著者は断言する。知りたいのは「もの同士が、互いに対してどのように変化するのか」だ。著者の専門である量子重力の基本方程式も「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」形式をとっているという。

ここまでの話で、本書の要点の一つめ、物理学に時間はなくてもよいということの論旨はおぼろげながら見えてきたように思う。だが、もう一つの難問が残っている。私たちはなぜ時の流れを感じるのか、だ。この問いの答えを求めて、次回も引きつづき本書を読む。
*1 当欄2023年4月21日付「時間がない』と哲学者は言った
*2  2023年4月28日付「時間を我が身に引き寄せる
*3 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月5日公開、通算677回
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時間を「我が身」に引き寄せる

今週の書物/
『時間の非実在性』
ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊

現在と「私」

時間の話を今週も続けよう。手にとるのは、引きつづき『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊)だ。先週は、本書の中核をなす著者自身の論文を読み込んだ(*1)。著者は、時間をA系列「過去・現在・未来」やB系列「より前・より後」などいくつかの側面に切り分け、論理を積みあげることで結論を引きだしている。時間は実在しないというのであるだ。

だが、読者の一人としては不満が残る。時間が実在しない? だからどうしたというのだ――そんな感じか。時間が在ろうがなかろうが、私たちはいつも時間を感じとっている。朝、目覚めれば、きょうも始まるんだ、と思う。湯を沸かそうと薬缶を火にかければ、いつ沸騰するかが気になる。駅に駆けつけて電車がすでに発車していれば、悔しがる。日常生活の場面場面に時間的な何かが入り込んでいる。私は、その正体を知りたいのだ。

実際、著者論文の魅力は「時間の非実在性」を証明することとは別のところにあるように思う。ひねくれた読み方かもしれないが、結論はひとまず措いて、それを導くために著者がどんな考察をしたかに注目すると、時間のさまざまな特質が浮かびあがってくる。

このときに助けとなるのが、本書後段に収められた訳者の「付論」だ。訳者は著者に敬意を払いながらも、それに全面同意しているわけではない。その距離感が絶妙。だから、今週は訳者「付論」に焦点を当て、著者マクタガートの時間論を私たちに引き寄せてみよう。

著者と訳者で見方に微妙な違いがあるのは、時間の系列分けだ。著者が提唱する「A系列」「B系列」の分類に対して、訳者はそれとはやや異なる見解を示している。

訳者によれば、著者が「A系列」と呼ぶものには「二義性」がある。一つは「いかなる時点も現に過去か現在か未来か(のどれか一つ)である」(太字部分は原文では傍点)という「端的なA事実」、もう一つは「いかなる時点も未来から現在へ、現在から過去へと変化する」という「本質的なA変化」。前者は静的、後者は動的だ。ここで訳者が主張するのが、A変化はむしろ、B系列の「より前・より後」になじむのではないか、ということだ。

訳者が用いる「端的」という言葉には、「絶対的」の意味合いがある。端的なA事実では、現在はこの現在しかない。ただ私たちは、現在ではない時点を「現在とみなす」ことができる。その結果、端的でないA事実もまた「相対的な概念」としてありうるのだ。

A変化も端的なA事実だけを考えれば、たった一つの現在に乗って起こるものだ。ところが私たちには、そうでないA変化もある。想念のなかで現在ではない時点を現在とみなしたとき、そこに「概念的」なA変化を思い描くことができる。A変化は、「端的」でなければ「概念的」に過去にも未来にも遍在するのだ。そこで示されるのが「A変化=B関係」という等式である。これによって、A系列の一角がB系列と重なることになる。

この「付論」は、A、B両系列の役割を見直している。「A系列の本質は、あくまでも『端的な一点による分割』である」とあるように、A系列の主な役割は、現在によって過去と未来を分けることだ。時点が動くことは、むしろB系列の寄与が大きいという。

マクタガートのA系列は、どんな時点もまず未来にあり、それが現在に来て、やがて過去になるというA変化を含んでいる。ただこれは、現在でない時点も現在とみなす立場でいえば、現在がB系列の「より前・より後」に沿って動いていくことにほかならない。両者の違いは視点の置き方による。時間の「動性」ということでいえば、本質的に同じことの二つの現れなのかもしれない。これはこれで、すっきりする話ではある。

「付論」が興味深いのは、A系列やB系列が意味するものを再整理した後、それを人間の考察につなげていることだ。それによると、「現在」は「私」に似ているらしい。

二人の人物が会話しているとしよう。一人が「私こそが(唯一の本当の)私だ」と主張すれば、もう一人は「あなたは私ではなくあなたである」と反論するだろう。この議論は決着がつかない。「二人とも対等に『私』」だからだ。「二種のリアリティ」が共存することになる。では、異なる時点の現在同士が語りあうとしたらどうなるか。どちらも自分こそが「現在」と言い張るから、同様に「二種のリアリティ」が出現することになるだろう。

時間は、「私」から類推できるのだ。ただ、時間論では忘れてならないことがある。「二種のリアリティ」が「変化」に欠かせない、ということだ。時間の本質である「変化」を思い描くとき、「複数の現在」を「対等」ととらえる見方と「一つの現在だけが現実の現在」という見方を併せもつ必要がある。前者は「変化」を俯瞰する「超越的見地」、後者は「現実」にこだわる「内在的見地」だ。矛盾含みでも両者を受け入れなくてはならない。

訳者は、ここで「端的な現在」――すなわち「一つの現在だけが現実の現在」として現れる現在――がいつなのか、という問いに答えることの難しさを語る。そこには、B系列の「より前・より後」の枠組みには収まり切らない「語りえぬもの」があるという。

さて、その「語りえぬもの」に迫るときに「私」との類推が役に立つのだ。「私」は、「その眼からしか世界は見えず」「その身体しか現実には動かせない」ので、「現実にはただ一人しか存在しえない」。だが、私たちはその制約を熟知したうえで、だれもが「私」であることを受け入れている。他者に「人格(person)」を付与するのだ。これは、「一時点」だけが現在なのに「どの時点」も現在になるという時間論の「矛盾」に通じている。

ここで強調すべきは、訳者はこの「矛盾」によって時間が存在しないとは言っていないことだ。むしろ、「時間の存在のためにはその矛盾が不可欠」という見方をする。

ここからは、訳者の見解を私なりの解釈で要約してみよう。私たちが、この今を「端的に現実の現在」と感じるとき、それは「端的に現実の現在」の「一例」とみているわけではない。それは、まぎれもなく唯一の「端的に現実の現在」なのだ。人はその内側にいて、それを「丸ごと」体験する。だがその一方、外側の視点で、同様の現在がほかの時点にもあることを知っていて、両者を見比べている――私たちが感じる時間はそのようなものだ。

これは「私」についても言える。「私」が自分は「端的な私」だと自覚するとき、それは唯一の「端的な私」だ。「私」は「端的な私」の内側にいる。ただ外側の視点で、同様の「私」が他者にも宿ることを知っている――「私」とはそういうものである。

マクタガートの時間論は、時間に内在する矛盾を明らかにしたことに意義がある。ただ、その結論として「時間の非実在性」を言われても、私たちの人生観にそれほど響いてこない。そうだとしても、時間はいつものように流れ、私たちが過去を悔やみ、未来に慄くことに変わりがないからだ。時間とは、たとえ幻影であっても、できすぎた仕掛けだ。訳者が着眼した「現在」と「私」の相似性も、その仕掛けに関与しているのだろうか。

訳者は本書の「はじめに」で、マクタガートの時間論をルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの独我論に引き寄せている。前者の「時間には矛盾がある」は後者の「独我論は語りえない」に対応し、「矛盾」や「語りえなさ」なしに世界は成り立たないと主張する。

考えてみれば、「現在」も「私」もとらえどころがない。「現在」はあるはずなのに、その瞬間を私たちは指し示すことができない。「私」は何かと問われれば、その答えに窮する。両者に「矛盾」や「語りえなさ」がまとわりついているのはもっともなことだ。

ただ、世の中には「矛盾」を放ったままにできない人たちがいる。たとえば、自然科学者がそうだ。今、物理学界にどんな時間論が現れているのか。次回は、そちらに踏み込む。
*1 当欄2023年4月21日付「時間がない哲学者は言った
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月28日公開、同日更新、通算676回
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「時間がない」と哲学者は言った

今週の書物/
『時間の非実在性』
ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊

変化

月旅行の話題を目にすることが多くなった。米国主導の国際宇宙計画「アルテミス」が進行中だからだ。すでに昨年、無人宇宙船が月の周りを回った。2025年には飛行士が月面に降りるという。人間が月面を踏むのは、1960~1970年代の米アポロ計画以来である。

それでふと思うのは、時間のとらえどころのなさだ。1969年にアポロ11号の飛行士が人類初の月面着陸を成し遂げたことは確かな記憶として残っている。月世界をぎこちなく歩く飛行士の姿、同時通訳が繰り返す「すべて順調」の声……。もう54年も前になるが、きのうのことのようだ。ところが、「アルテミス」の有人月面探査はたった2年先のことなのにぼんやりしている。過去は近くに感じるが、未来は縁遠い。

アルテミス計画には、火星への道をひらくという狙いもある。月の周回軌道に宇宙ステーションを造って、それを足がかりに有人初の火星探査に乗りだそうというのだ。目標は2030年代半ば。10年も先のこととなると、ますます縁遠く感じられる。

過去と未来は、現在を挟んで同じ一つの時間軸に載っているように思われる。だが、両者は対称ではない。過去はすべて確定しているが、未来はどれも未確定だからだ。もう一歩踏み込んで言えば、未来の未確定には、その未来が存在するかどうかもはっきりしないということが含まれる。私の場合、2025年の月面探査はともかく、2030年代半ばの火星探査に対しては、その思いを持たざるを得ない。年をとるとはそういうことなのだろう。

これは私的実感だが、人間70歳を超えると未来は二つに分かれる。一つは「ちょっと先か」「だいぶ先か」で測れる未来。もう一つは、自分が「居合わせるか」「居合わせないか」が問われる未来だ。2025年の月面探査は辛うじて「ちょっと先か」「だいぶ先か」の領域にあるが、2030年代の火星探査は「居合わせるか」「居合わせないか」を見定めないことには実感できない――そんなことに気づいて、時間論への関心がまた強まった。

私のブログも、かつて時間について考えた()。とりあげたのは『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)。読みどころの一つは、英国の哲学者ジョン・エリス・マクタガート(1866~1925)の時間論を解説していることにあった。

で、今回は、そのマクタガートに直接迫ろうと思う。『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫、2017年刊)。著者が1908年、英国の哲学論文誌“Mind”に発表した論文“The Unreality of Time”を書籍化したものだ。論文の邦訳を収めているだけではない。それに訳者が哲学者として「注解と論評」を付し、「付論」も併載している。訳者執筆部分の分量は、論文本体の5倍ほどに及ぶ。

当欄はまず、論文本体を読み解くことにするが、論理に論理を重ねる文章は難解を極める。とりあえずは、わかった部分を拾いあげる方式で書き進めてみよう。

論文冒頭の一節によれば、「時間は実在しない」とする説は「自然なものの見方」に反していても、古今東西の哲学や宗教に採り入れられてきた。著者も同意見だが、理由は先哲が説明してきたこととは異なるので、そのことを明らかにしたい、という。すなわち、論考の主題は「時間の非実在性」の証明にある。ただ、私が興味を覚えたのは証明そのものではない。私たちが「時間」と感じるものを、著者が“解体”していくところに醍醐味がある。

時間を考えるときに、著者がもちだすのが3種類の「系列」だ。最初に出てくるのが「A系列」と「B系列」。A系列は「過去・現在・未来の区別」に注目する。これに対してB系列では「より前・より後の区別」が問題となる。読み進むと、もう一つ、「C系列」が提案されている。「それには変化がなく、ただ順序があるだけ」だ。訳者「注解と論評」によれば、C系列は「時計の文字盤」にたとえられる。時刻の数字が並んでいるだけだ。

著者はこの論文で、時間はB系列の「より前・より後」だけで成立するかという問いを発して、それだけでは不十分だとしている。その論理はこうだ――。

まず、押さえておきたいのは、出来事が変化することだ。これは、歴史的な事件についてもいえる。英国アン女王の死去(1714年)を考えてみよう。この出来事が「英国女王の死」という事象であることは不変だ。ただ、一点だけ変わることがある。「初めは未来の出来事であった」のに「現在」を経て、「遠い過去になっていくであろう」ということだ。あらゆる出来事はA系列の未来→現在→過去の変化をくぐり抜けるのである。

出来事はA系列があるから変化する。変化がなければ時間もないから、A系列は時間にとって必須といえよう。ところでB系列の「より前・より後」は時間の存在を前提にしているので「A系列のないところにB系列はありえない」ことになる。

著者はA、B両系列を比べ、両者は「時間にとって等しく本質的」と言いつつ、A系列のほうが「究極的」と断じている。ここで展開される論理は、なるほどと思わせるものだ。B系列の「より前・より後」は、C系列の出来事群にA系列の「過去・現在・未来」を当てはめ、「変化と方向」を付与したときに生まれる。ところが、A系列の「過去・現在・未来」は定義できない。A系列は、数学の公理のようなものなのだ。

話は込み入ってくるので、わからないところは飛ばしていこう。著者は「A系列なしに時間はありえないことの証明には成功した」と宣言したうえでA系列が実在不能なことを示し、それを「時間は現実に存在することはできない」という結論につなげようとする。この証明のなかで「過去・現在・未来は、両立不可能な規定」という記述が出てくる。あらゆる出来事は、過去、現在、未来の「どれか一つ」でしかありえないということだ。

その一方で、すべての出来事は過去・現在・未来のどれにもなりうる。仮に一つの出来事をMと呼ぶことにしよう。もしMが過去なら、それはかつて未来か現在だった。Mが未来なら、それはこれから現在になって、過去にもなるだろう。Mが現在なら、それはかつて未来だったが、これからは過去になるだろう。著者は、この定めが過去・現在・未来の両立不可能性とは「不整合」な関係にあるとして、それを克服しようとする。

ここで出てくるのが、「過去・現在・未来という特性は同時的であるときにのみ両立不可能」という理屈だ。裏を返すと、未来・現在・過去が「継起的」なものならばそれらのすべてになってよい。ただ、ここにも、決定的な難点がある。A系列について語るときに「同時的」「継起的」という時間の概念が混ざり込んでしまうことだ。「時間を説明するために」「時間の存在を前提しなければならない」。これは「悪循環」にほかならない。

改めて、この論文の要点をすくいとれば、次のようになる――。時間の正体を突きとめようと理詰めで考え抜いたら、時間は時間の概念なしに語れないという壁にぶち当たった。著者はこの矛盾を踏まえて「時間の非実在性」という結論を導きだしている。

さて、マクタガートの時間論を読んでいて気になるのは、未来の出来事が現在となり、過去に変わっていくというとらえ方はニュートン力学の決定論に縛られていないかということだ。私はそこに、未来の出来事はあらかじめ決まっているとみる固定観念を感じてしまう。ところが本稿のまくらで書いたように、私にとって過去は確定しているが、未来は不確定だ。このことをA系列、B系列、C系列でうまく説明できるのだろうか。

もう一つの関心事は、マクタガートの時間論が人間の生とどう関係しているかだ。私たちは過去を思い返し、未来を予想するとき、悔いや不安を感じる。現在にただ一人いることには孤独感も覚える。マクタガート流の思考をすれば、この心模様を説明できるのか。

後者については、訳者が本書に収めた「付論」がヒントになる。マクタガートの時間論を糸口に人間のありように視野を広げ、持論を展開している。次回はその「付論」を読む。
* 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月21日公開、通算675回
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アインシュタイン、その実在愛

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

実在か否か?

先週に続いて『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)を読もう。著者が60歳代後半に「自伝のようなもの」と題して綴った文章だ。軟らかな話題が満載かと思いきや、思い切り硬い話だった。(*1)

先週も書いたことだが、著者の関心事は「何を、どう考えるか」にあり、半生記も「脳内の出来事」に重きを置いている。実際、本書には物理の話が次々に出てくるが、それは著者の思考を跡づけるかたちで語られる。これが、ふつうの科学本と違うところだ。

で、先週の当欄が焦点を当てたのは、著者が若いころに培ったニュートン力学批判の視点だった。物理学史を振り返ると、19世紀には電磁気学が進展して、電場や磁場という「場」の概念が生まれた。これは、質量と力と運動法則だけで世界を記述しようとするニュートン流の質点の力学とは相いれなかった。著者は、この矛盾に真正面から向きあった。学界には二元論的な考え方も出てきたが、それでは満足できなかったのだ――。

今週は先へ進もう。注目するのは、著者が実在論者だったことだ。たとえば、1905年に発表したブラウン運動の考察。この年は「アインシュタイン奇跡の年」と呼ばれ、著者が画期的な論文を次々に出した。一番有名なのが、特殊相対性理論。そして、電子が光によって弾きだされる光電効果の理論。これは量子論の発展に寄与した。それらの陰に隠れがちだが、ブラウン運動の研究も科学史に残る。それが原子や分子の実在を決定づけたからだ。

ブラウン運動とは、花粉が水面で見せる不規則な動きを言う。植物学者のロバート・ブラウンが見つけていた。著者の論文は、それを理論づけたものだ。水面に浮かぶ微粒子の運動を熱力学の分子運動論を使って考えると、「粒子の動きを定量的に表す統計的な法則」が見つかった。その計算結果は、観察結果に「みごとに一致」する。これが、原子や分子が実在するか否かという、当時物理学界を揺るがしていた論争に決着をつけたのである。

実在するとみる「原子論」の旗手は、熱力学、統計力学のルートヴィッヒ・ボルツマン。対する「懐疑派」は、物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハらだった。ボルツマンが自死したのは1906年。著者のブラウン運動の論文とほとんど入れ違いだった。

著者は、この件ではボルツマンの側に立った。その主張はこうだ。「懐疑派」は「観測事実だけを科学知識の源泉とみる」(本書では斜体部分に傍点、以下も)という「実証主義的な姿勢」に固執して世界像を見誤った――。「脳が自在につむぎ出す概念」も「現実と突き合わせつつ使われていく」ならば「観測事実の説明に大きく役立つことがある」。言葉をかえれば、脳は観測事実の向こう側に潜む実在物を見逃さないということか。

著者は、人間の観測行為の有無にかかわらず、物理世界は現実に在るという実在論にこだわっていた。そのことは量子論に対する懐疑につながった。批判の的は1920年代半ばに確立した量子力学だ。電子が原子核の周りでどんな運動状態にあるか、ということなどを記述する。ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学とエルヴィン・シュレーディンガーの波動力学の2流派があるが、本書は後者に出てくる波動関数ψの弱点を突いている。

ψに対して、著者には疑問があった。アイザック・ニュートンの力学では「空間内の『質点と時間』が現実」、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの電磁気学では「空間内の『場と時間』が現実」である。では、量子力学のψもなんらかの「現実」を表しているのか?

著者自身も、これが即答しにくい難題であることは認めている。ψは、観測者が電子の位置や運動量を測ったとき、ある値をとる状態が「これこれの確率で見つかる」ということを言っている。この確率を「現実の量」として実測するには、測定を幾度となく繰り返さなければならない。では、1回きりの測定で得た位置や運動量の値はいったい何なのか。それは、決定論に従って事前に予測できるものなのかどうか。わからないことが多い。

著者はここで、架空の人物二人の対話を提示する。A氏は、「系」をかたちづくる粒子の位置や運動量は測定前に「決まっているはずだ」という立場。そうならば、ψは「系の実体」について「だいたいのことしか表していない」ことになる。これに対して、B氏は決定論を否定して、こう言う。位置や運動量は測定時に限り「ψが決める特有な確率」に従って「ある値が顔を出す」。だから、ψは「系の実体を余すところなく表現してる」と譲らない。

著者は、ψは不完全だとしてA氏を支持する。一方、B氏の側に立つのが、当欄もとりあげた量子力学の多世界解釈だ。それはψの完全性を主張している(*2)。多世界解釈の登場は1957年。本書の原著執筆よりも後のことなので、著者はもちろん言及していない。

著者がψの不完全性を論じる箇所でもちだすのが、局所実在論だ。ここで述べられていることは、著者のグループが1935年に発表した「EPRの逆説」と重なりあう(EPRは、著者と論文共著者の姓の頭文字。ただし、本書はEPRの論文には触れていない)。

一つの系が部分系1と部分系2から成るとしよう。量子力学によれば、全体系にも部分系にもそれぞれψがある。部分系1を測定すると、その結果が全体系のψを通じて部分系2のψに影響する。部分系同士が離れていても、部分系1を測ったとたん「テレパシーが働いたかのごとく」部分系2が変化するわけだ。著者は、これを断固否定する。物理学には局所性があり、物事は複数の場所にまたがって一気には決まらない、とみる。

この局所実在論はその後、否定された。それは、1970年代以降の実験研究による。去年、ノーベル物理学賞を贈られたアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏は、その実験に挑んだ人々だ。「量子もつれ」と呼ばれる関係にある一対の光子をつくり、2光子が離れていても両方の状態が一挙に決まる様子を確かめた。著者はその実験結果を知ることなく、1955年に逝去した。

もし、著者が近年の量子研究熱を目の当たりにしたなら、どんな顔をするだろうか。そんな意地悪な空想もないわけではない。ただ、著者は理想をとことん追い求めながらも、理想通りにいかない現実をまともに受けとめた。私はそこに誠実さを感じる。

著者の物理学者としての理想は、一元論であり、実在論であり、決定論だったのだろう。ひとことでいえば、スッキリ明快な物理学をめざしていた。ただ研究は、そんな思惑を裏切ることもある。ときには自分自身の研究が悩みのタネを生みだすこともあった。

たとえば、こういうことだ。当欄が前回話題にしたように、著者にとってはニュートン流の「質点」の力学よりもマクスウェル流の「場」の物理が魅力的に見えた。学界には、この共存を受け入れる考え方が生まれたが、アインシュタインは一元論を理想としたので「場」の物理に一本化できないか、と考えた。ところが、奇跡の年1905年に発表した研究結果には、この願望に背くものが一つならず含まれていたように私は思う。

前述のブラウン運動を見てみよう。著者の研究が分子や原子の存在を支持したことは、実在論には適ったが、それは「質点」の力学の再評価にもつながったのではないか。

光電効果も、ややこしい。著者は、物質に光を当てると電子が飛びだす現象を考察して、光には粒子の一面があることを突きとめた。どちらかといえば「質点」のイメージになじむ理論だ。光の粒(光子)には質量がないから「質点」とは言えないが、粒子は離散的なので「場」のイメージとはそりが合わない。さらにこの理論によって、光は波であり、粒子でもあるということになった。この二面性もなんとか一元論の枠組みに収めたい――。

こう読んでくると、アインシュタインは自分で厄介ごとを抱え込む物理学者だったようにも思える。だが、そもそも科学とは一筋縄で答えが出るものではない。本人は理想と現実が角突きあわせる「脳内の出来事」に、かえって心地よさを感じていたのかもしれない。

*1 当欄2023年1月20日付「アインシュタイン、思考の自伝
*2 当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える
☆外国人の人名は、著者の表記に従いました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月27日公開、通算663回
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アインシュタイン、思考の自伝

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

考える

理系本を語るのは難しい。とりわけ、それが数学のように抽象世界を相手にする分野なら、なおさらだ。物理学も、今や具象世界を抽象世界に投影して考える営みとなっているから同様だ。それなのに私は、ついついその難所に引き寄せられてしまう。

一つには、私が科学畑の元新聞記者であり、今も科学ジャーナリストを名乗っているからだろう。現役時代は、業務として研究者から難しい話を根掘り葉掘り聞きだし、それを記事にしていた。その習性が今、老後の読書に乗り移ってしまった感じだ。

言うまでもないことだが、私は取材時に難しい話を100%理解していたわけではない。そうかと言って、まったくわからなかったということもない。いや、正直に言おう。話を聞きはじめた時点で理解度が0%だったことはある。それでもめげずに愚問の数々を投げかけていくと、おぼろげながら話の輪郭がつかめるようになってくる。これでようやく、記事の見通しが立つのだ。足裏の痒みを靴底から掻くような作業ではある。

では、輪郭をつかむとは何なのか。理解度が0%と100%の間にある状態なのは確かだ。だがそれは、50%だ、60%だ、というように数字で表せるものではない。あえて言えば、わかったような気持ちになる心のありようを指しているのではないか。

わかったような気持ち――これは、私たち人間にとって欠かせない。この世界がどんなものかわからずに生きるのは危険だ。だが、ヒトという生きものが、なにもかもわかることはありえない。ならばとりあえず、的外れにならない範囲でわかったような気持ちになることが必要ではないか。科学ジャーナリズムの存在意義の一つは、そんな心理状態を人々に提供することにある。科学本が一般向けに書かれ、読まれるのも同じ理由からだろう。

ただ、科学記事を書くのと、科学本を読書ブログで話題にするのとでは勝手が違う。記事の取材では科学者に根掘り葉掘り質問をぶつけられるが、読書ブログを書くのにその工程はない。情報源は本そのもの。本をあれこれ撫でまわし、食らいつけるところを齧りとっていくしかない。今回は、20世紀でもっとも著名な科学者の手になる書物を齧れる限り齧ってみよう。さて、それで、わかったような気持ちになれるかどうか――。

『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)。著者アインシュタイン(1879~1955)は、ドイツ生まれで米国へ渡った理論物理学者。時空の物理学である特殊相対性理論や一般相対性理論を築いたことで知られる。量子論への寄与も大きい。「訳者あとがき」によれば、本書原文は“Albert Einstein: Philosopher-Scientist”という書物(1949年刊)の巻頭に収められている。

本書では、その「訳者あとがき」の分量が本文の約半分もある。しかも、訳者は化学系の工学博士。理論物理学者ではない。だから、著者の業績に対して適度な距離感を保っている。その立ち位置は、私たち読者と同じ地平にいるように思えて心地よい。

本書原文の題名は“Autobiographisches”(「自伝のようなもの」)。ところが、まったく自伝らしくない。ページをめくると物理学の話が次々に出てくる。数式が顔を出すこともある。著者自身は、この文章を「自分の葬儀に使う弔辞」みたいなものと言う。自分にとって大事なのは「何をどう考えるか」(本書では斜体部分に傍点、以下も)であって「日々の雑事」に関心はないとして、「脳内の出来事」を中心に書く姿勢を鮮明にしている。

一例として、著者は幼少期の体験を書きとめている。父親から方位磁石を見せてもらったときの「驚き」だ。方位磁石は、本体をどちらの向きに動かしても針は一定方向を指し示す。それは「脳内にできていた概念世界とは、まったく合わない」ことだった。このように私たちの脳は、既存の概念世界と衝突する現象に出あったとき「大きく揺さぶられる」。そんな体験を繰り返すことが「思考力を鍛える」と、著者は主張している。

本書の価値を高めているのは、そんな著者の「脳内の出来事」がそのまま科学史になっていることだ。私も今回の読書では、そこに目を向けることにした。まずは、19世紀の物理学にニュートン力学ばなれの兆しがあったことを本書からたどってみよう。

ニュートン力学は、「質点系の力学」だ。アイザック・ニュートンが17世紀に打ちたて、19世紀には「物理全体の基礎」となっていた。そこには、「質量」と「力」とニュートンの「運動法則」の三つさえあれば万事を語れる、という世界観がある。これは、著者が物理専攻の学生だった19世紀末、物理学の「ドグマ」(教義)になっていた。ただ同じころ、その「信仰」を揺るがせるような動きが出てきたという。新しい研究分野の台頭である。

一つは、波動光学だ。これを「力学の土俵」で理解するのは難しかった。光は、力学の視点からは「エーテルという弾性体の振動」とみなされる。もしそうならば、空間にはエーテルが充満しているはずだ。ただ光は横波であり縦波ではないから、エーテルは縦波を起こさない「非圧縮性の固体」に近いに違いない。ところが、実際には「どんな物体も空間内をスイスイ動いていく」ではないか。これではとても固体とは思えない――。

もう一つは、電磁気学である。マイケル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルが築きあげた。この研究によって、「重さのあるどんなものとも関係のない電磁現象、つまり電磁の生む波」が真空中を伝わることもわかったのである。

光も電磁波も――光も電磁波の1帯域であることはわかってくるのだが――質点系の力学でとらえることはできない。それは、質量と力と運動法則で成り立つニュートン力学の三角形とは別のところに存在するわけだ。ここに新しい物理学の出番があった。

著者は、ニュートン力学に「内的完全性」があるか、「内的に単純(自然)」かどうか、という観点でも議論を展開している。ここでは、ニュートンが物体とは無関係な存在として想定した「絶対空間」の難点を論じ、その運動法則は「力の起源」を明らかにしていない、力と位置エネルギーの数式には「勝手な仮定」が紛れ込んでいる、などの見解も示している。著者の「脳内」では、ニュートン力学のあちこちに綻びが見えていたことになる。

波動光学や電磁気学では、「場」が主役となる。ニュートン力学の「遠隔力」が、「場」に取って代わられるのだ。本書は、ヘンドリック・ローレンツが1870年代に提示した電磁世界のイメージを要約している。私がさらに要約すると、以下のようになる。

・電磁場は真空でも存在可能
・粒子は電荷が在る場所
・粒子間の真空には、粒子の電荷の位置と速度に対応して場が発生する
・粒子の電荷は場を生み、場は粒子の電荷に影響を与える
・このとき粒子はニュートンの運動法則に従って動く

著者はローレンツの仕事を評価しつつ、自身が若いころに抱いた違和感も率直に打ち明けている。「ニュートンが重視した質点と、どこまでも広がる……その両方を基本概念に使っている」。物理学者らしく、その「二元論」的構造に引っかかったのだ。著者は、ここで一つの着想を得る。「場」のエネルギー密度が著しく大きな領域を「粒子」とみればよいのではないか。それがうまくいけば、質点の運動方程式も「場」の方程式から導ける。

考えてみれば、著者の一般相対論は、重力を「遠隔力」とは見ず、重力の「場」で一元的に描きだした。それだけではない。「力の起源」も時空の曲がりによって説明している。

前述のように、著者は既存の概念世界と相いれない物事に出あうことに価値を見いだしている。青年時代に遭遇した「場」の物理学は、まさにそれだったのだろう。これを糸口に、当時の「ドグマ」ニュートン力学を批判的にとらえて相対論にたどりついたのだ。

著者アインシュタインの「脳内の出来事」は、これにとどまらない。相いれない難物との遭遇はほかにもあったのだ、次回も本書で、その脳内模様をたどってみよう。
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月20日公開、通算662回
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