「靖国」に吹いた戦後民主主義の風

今週の書物/
『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』
毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊

靖国アクセス

転勤族はみなそうかもしれないが、初任地は忘れがたい。私にとって、それは北陸の福井市だ。街の真ん中を城跡が占め、濠に囲まれて福井県庁と県警本部がある。私の職場――新聞社の支局――はその濠端にあり、隣は市役所だった。私が赴任した1977年ごろ、市役所の裏手は再開発の前で飲食店などが狭い通りに密集していた。宿直明けの日は支局長に連れられてメシ屋の暖簾をくぐり、ごはんとみそ汁の朝食を掻き込んだものだ。

その一角は、佐佳枝廼社(さかえのやしろ)という神社の門前町だった。別名、越前東照宮。徳川家康や藩祖の松平秀康、幕末の藩主松平慶永(春嶽)を祀る神社だ。私が記者1年生だったころ、その社に朝方しばしば参拝する人物がいたことを今回、初めて知った。『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊)を読んだからである。その人は元藩主直系の松平永芳氏(1915~2005)だった。

で、今週はこの本をとりあげる。毎日新聞が2006年8月6~19日に連載した記事をもとにしているが、記者たちは連載後も取材を重ねて書籍化したという。2006年夏は、当時の小泉純一郎首相が終戦の日に靖国神社を参拝するかどうかが一大関心事となり、実際、当日早朝に決行された。「靖国」が政治問題化していたのである。本書の単行本は2007年、毎日新聞社から刊行された。それに加筆修正されたのがこの文庫版である。

本書によると、松平永芳氏は1978年、東京・九段にある靖国神社の宮司となる。前任者が同年春に亡くなり、後任に白羽の矢が立ったのだ。選考には、戦没者遺族の意向がものを言う。日本遺族会が動きだし、相談をもちかけたのが元最高裁長官石田和外氏だった。タカ派で知られた人だ。石田氏は同郷の松平氏の名を挙げた。「国や英霊を思う気持ち」が「並々ならない」という理由からだ。福井県選出の自民党有力参院議員も賛成した。

松平永芳氏は元海軍少佐であり、戦後は陸上自衛隊に入った。防衛研修所戦史室史料係長などを務め、1968年に1等陸佐で隊を退くと、郷里の福井市から声がかかり、市立郷土歴史博物館長の職に就いた。参拝の日課はこのときに始まったのだろう。

松平氏が靖国神社の宮司を引き受けるとき、石田氏と交わしたやりとりが本書に再現されている。本人の言によれば、これで受諾の意思を固めたという。松平氏が「日本の精神復興」には東京裁判の否定が欠かせないとして「いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだ」と主張すると、石田氏は「国際法その他から考えて当然祭ってしかるべきもの」と応じた。1978年夏、松平氏は宮司に就任、その年のうちにA級戦犯14人が合祀されたのである。

本書は副題にあるように、その「A級戦犯を合祀した男」の横顔を描きだしている。松平氏が祖父春嶽を崇拝していたこと、その祖父は幕末に開国開明派だったのに本人は国粋的なことなど、興味は尽きない。だが当欄が松平氏に触れるのはここまでとしよう。私がこの本で新鮮な驚きを覚えたのは、靖国神社が戦後、A級戦犯の合祀までどうであったかを詳述したくだりだ。逆説的だが、そこに戦後民主主義の力強さを見てとることができる。

靖国神社は1945年、敗戦で存亡の危機に立たされる。このときに宮司の役が回ってきたのは元皇族だ。筑波藤麿氏(1905~1978)である。山階宮家出身だが成人後、臣籍降下して侯爵となった。当時、皇族男子は軍務に就くのがふつうだったが、筑波氏は東京帝国大学文学部に学び、国史の研究家となる。そして1946年1月、靖国神社宮司に就任。この時点では「国家公務員」だったが、翌週には宗教法人の一宮司に立場が変わっている。

本書によれば、この人選には「占領軍や世論に配慮して、できるだけ軍と縁遠い人物を選ぶ」との方針もあったという。事情を知る筑波氏の長男、常治氏の見解である。ちなみに常治氏(1930~2012)は科学評論家で、生物学や農学、エコロジー思想に詳しかった。レイチェル・カーソン著『沈黙の春』の新潮文庫版で解説を執筆、これは当欄の前身でも紹介している(「本読み by chance」2019年2月15日付「『沈黙の春』の巻末解説を熟読する)。

興味深いことに、筑波宮司自身も自分を「白い共産主義者」と形容していた。「赤色までは行かないけど桃色だ」と冗談めかすことも。毎日新聞取材班は、筑波氏が言う「共産主義」を「戦後民主主義や平和主義をもっと徹底させた理想」と解釈している。

その象徴が境内にある「鎮霊社」だ。高さ3mほどの小ぶりな社で、参道から見ると本殿の左側奥に建っている。1965年の建立。立て札には「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める」とあり、「万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する」と明記された。大日本帝国の軍人だけでなく、民間の戦争犠牲者も、敵国を含む諸外国の戦没者も、慰霊と鎮魂の対象とすることを明言しているのである。

鎮霊社の着想は1963年、筑波氏が「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員で欧米諸国を回ったことがきっかけだった。団長は立教大学総長、副団長は筑波氏と薬師寺管主、立正佼成会会長という顔ぶれだった。東西冷戦で核戦争が危惧されるなか、宗教界の要人が宗派を超えて平和主義の旗を振ったのである。筑波氏の主張は「社報」1964年1月号にある。日本が「自己中心の幼稚なる殻にとじこもって居る」限り「真の平和は得られぬ」――。

靖国神社は戦後30年余、戦後民主主義の理想追求に同調していた。これは今の感覚では意外だが、1960年代に立ち返ればありそうなことだった。ここで書き添えれば、靖国神社には戦後民主主義のもう一つの側面、軍事より経済優先の気配もあったことだ。

ここに登場するのが、横井時常氏という人物だ。靖国神社では「ナンバー2」の「権宮司」という職にあった。1946年初め、筑波氏が宮司となる直前だが、横井氏は連合国軍総司令部(GHQ)の宗教課長に一つの提案をしている。戦前から「軍事博物館」として付設されている「遊就館」を一新させる将来構想だった。「娯楽場(ローラースケート・ピンポン・メリーゴーランド等)及び映画館にしたい」(原文のママ)とぶちあげた。

この構想は、ただの思いつきではなかった。それどころか、具体性を帯びてくる。横井氏の証言を載せた『靖国神社終戦覚書』によれば、神社周辺を娯楽街に生まれ変わらせる案が1946年秋までにまとまり、地権者や役所との接触も始まっていた。神田界隈の大学生に狙いを定め、神社敷地内に映画館を集める計画。総数20館というから、今で言えばシネプレックスか。近隣の焼け跡にも音楽堂や美術館を立地させようとしていた。

この娯楽化路線は何を意味するのか。靖国神社も戦後は一事業体となり、存続のために経営戦略を求められていたということか。それとも、靖国が人々に愛されるために世相に歩み寄ろうとしたのか。どちらにしても、私には戦後民主主義の落とし子のように思われる。

ただ、娯楽街づくりの計画は戦没者遺族から反発を受け、頓挫した。ただ、靖国神社にはその後も、生臭い構想がもち込まれたり、絵空事の案が浮上したりしたらしい。「浅草のような歓楽街にする」「パリの『のみの市』界隈に似た一大歓楽街にする」……。

本書によると、靖国神社では戦後、数多の案が生まれては消えた。たとえば「靖国廟宮」構想。横井氏が、GHQには靖国神社を「記念碑的なもの」にしたいとの意向があるらしいと察知、先回りして出した改称案だった。雑誌刊行を画策したという話もある。有名作家を編集長に招き、本気で読者をつかもうとしたようだが、構想倒れに終わった。映画街といい、雑誌創刊といい、靖国神社は文化の拠点になることを夢見ていたように見える。

「靖国」は戦後しばらく、良くも悪くも世間並みだった。世俗的ではあったが、理想主義の風も吹いていた。日本のリベラル派陣営はなぜ、それに気づかなかったのか。風を生かして対話を重ねていれば、世論を二分しない鎮魂のあり方を見いだしていたかもしれない。

☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月3日公開、通算664回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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アインシュタイン、その実在愛

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

実在か否か?

先週に続いて『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)を読もう。著者が60歳代後半に「自伝のようなもの」と題して綴った文章だ。軟らかな話題が満載かと思いきや、思い切り硬い話だった。(*1)

先週も書いたことだが、著者の関心事は「何を、どう考えるか」にあり、半生記も「脳内の出来事」に重きを置いている。実際、本書には物理の話が次々に出てくるが、それは著者の思考を跡づけるかたちで語られる。これが、ふつうの科学本と違うところだ。

で、先週の当欄が焦点を当てたのは、著者が若いころに培ったニュートン力学批判の視点だった。物理学史を振り返ると、19世紀には電磁気学が進展して、電場や磁場という「場」の概念が生まれた。これは、質量と力と運動法則だけで世界を記述しようとするニュートン流の質点の力学とは相いれなかった。著者は、この矛盾に真正面から向きあった。学界には二元論的な考え方も出てきたが、それでは満足できなかったのだ――。

今週は先へ進もう。注目するのは、著者が実在論者だったことだ。たとえば、1905年に発表したブラウン運動の考察。この年は「アインシュタイン奇跡の年」と呼ばれ、著者が画期的な論文を次々に出した。一番有名なのが、特殊相対性理論。そして、電子が光によって弾きだされる光電効果の理論。これは量子論の発展に寄与した。それらの陰に隠れがちだが、ブラウン運動の研究も科学史に残る。それが原子や分子の実在を決定づけたからだ。

ブラウン運動とは、花粉が水面で見せる不規則な動きを言う。植物学者のロバート・ブラウンが見つけていた。著者の論文は、それを理論づけたものだ。水面に浮かぶ微粒子の運動を熱力学の分子運動論を使って考えると、「粒子の動きを定量的に表す統計的な法則」が見つかった。その計算結果は、観察結果に「みごとに一致」する。これが、原子や分子が実在するか否かという、当時物理学界を揺るがしていた論争に決着をつけたのである。

実在するとみる「原子論」の旗手は、熱力学、統計力学のルートヴィッヒ・ボルツマン。対する「懐疑派」は、物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハらだった。ボルツマンが自死したのは1906年。著者のブラウン運動の論文とほとんど入れ違いだった。

著者は、この件ではボルツマンの側に立った。その主張はこうだ。「懐疑派」は「観測事実だけを科学知識の源泉とみる」(本書では斜体部分に傍点、以下も)という「実証主義的な姿勢」に固執して世界像を見誤った――。「脳が自在につむぎ出す概念」も「現実と突き合わせつつ使われていく」ならば「観測事実の説明に大きく役立つことがある」。言葉をかえれば、脳は観測事実の向こう側に潜む実在物を見逃さないということか。

著者は、人間の観測行為の有無にかかわらず、物理世界は現実に在るという実在論にこだわっていた。そのことは量子論に対する懐疑につながった。批判の的は1920年代半ばに確立した量子力学だ。電子が原子核の周りでどんな運動状態にあるか、ということなどを記述する。ヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学とエルヴィン・シュレーディンガーの波動力学の2流派があるが、本書は後者に出てくる波動関数ψの弱点を突いている。

ψに対して、著者には疑問があった。アイザック・ニュートンの力学では「空間内の『質点と時間』が現実」、ジェームズ・クラーク・マクスウェルの電磁気学では「空間内の『場と時間』が現実」である。では、量子力学のψもなんらかの「現実」を表しているのか?

著者自身も、これが即答しにくい難題であることは認めている。ψは、観測者が電子の位置や運動量を測ったとき、ある値をとる状態が「これこれの確率で見つかる」ということを言っている。この確率を「現実の量」として実測するには、測定を幾度となく繰り返さなければならない。では、1回きりの測定で得た位置や運動量の値はいったい何なのか。それは、決定論に従って事前に予測できるものなのかどうか。わからないことが多い。

著者はここで、架空の人物二人の対話を提示する。A氏は、「系」をかたちづくる粒子の位置や運動量は測定前に「決まっているはずだ」という立場。そうならば、ψは「系の実体」について「だいたいのことしか表していない」ことになる。これに対して、B氏は決定論を否定して、こう言う。位置や運動量は測定時に限り「ψが決める特有な確率」に従って「ある値が顔を出す」。だから、ψは「系の実体を余すところなく表現してる」と譲らない。

著者は、ψは不完全だとしてA氏を支持する。一方、B氏の側に立つのが、当欄もとりあげた量子力学の多世界解釈だ。それはψの完全性を主張している(*2)。多世界解釈の登場は1957年。本書の原著執筆よりも後のことなので、著者はもちろん言及していない。

著者がψの不完全性を論じる箇所でもちだすのが、局所実在論だ。ここで述べられていることは、著者のグループが1935年に発表した「EPRの逆説」と重なりあう(EPRは、著者と論文共著者の姓の頭文字。ただし、本書はEPRの論文には触れていない)。

一つの系が部分系1と部分系2から成るとしよう。量子力学によれば、全体系にも部分系にもそれぞれψがある。部分系1を測定すると、その結果が全体系のψを通じて部分系2のψに影響する。部分系同士が離れていても、部分系1を測ったとたん「テレパシーが働いたかのごとく」部分系2が変化するわけだ。著者は、これを断固否定する。物理学には局所性があり、物事は複数の場所にまたがって一気には決まらない、とみる。

この局所実在論はその後、否定された。それは、1970年代以降の実験研究による。去年、ノーベル物理学賞を贈られたアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏は、その実験に挑んだ人々だ。「量子もつれ」と呼ばれる関係にある一対の光子をつくり、2光子が離れていても両方の状態が一挙に決まる様子を確かめた。著者はその実験結果を知ることなく、1955年に逝去した。

もし、著者が近年の量子研究熱を目の当たりにしたなら、どんな顔をするだろうか。そんな意地悪な空想もないわけではない。ただ、著者は理想をとことん追い求めながらも、理想通りにいかない現実をまともに受けとめた。私はそこに誠実さを感じる。

著者の物理学者としての理想は、一元論であり、実在論であり、決定論だったのだろう。ひとことでいえば、スッキリ明快な物理学をめざしていた。ただ研究は、そんな思惑を裏切ることもある。ときには自分自身の研究が悩みのタネを生みだすこともあった。

たとえば、こういうことだ。当欄が前回話題にしたように、著者にとってはニュートン流の「質点」の力学よりもマクスウェル流の「場」の物理が魅力的に見えた。学界には、この共存を受け入れる考え方が生まれたが、アインシュタインは一元論を理想としたので「場」の物理に一本化できないか、と考えた。ところが、奇跡の年1905年に発表した研究結果には、この願望に背くものが一つならず含まれていたように私は思う。

前述のブラウン運動を見てみよう。著者の研究が分子や原子の存在を支持したことは、実在論には適ったが、それは「質点」の力学の再評価にもつながったのではないか。

光電効果も、ややこしい。著者は、物質に光を当てると電子が飛びだす現象を考察して、光には粒子の一面があることを突きとめた。どちらかといえば「質点」のイメージになじむ理論だ。光の粒(光子)には質量がないから「質点」とは言えないが、粒子は離散的なので「場」のイメージとはそりが合わない。さらにこの理論によって、光は波であり、粒子でもあるということになった。この二面性もなんとか一元論の枠組みに収めたい――。

こう読んでくると、アインシュタインは自分で厄介ごとを抱え込む物理学者だったようにも思える。だが、そもそも科学とは一筋縄で答えが出るものではない。本人は理想と現実が角突きあわせる「脳内の出来事」に、かえって心地よさを感じていたのかもしれない。

*1 当欄2023年1月20日付「アインシュタイン、思考の自伝
*2 当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える
☆外国人の人名は、著者の表記に従いました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月27日公開、通算663回
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アインシュタイン、思考の自伝

今週の書物/
『アインシュタイン回顧録』
アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊

考える

理系本を語るのは難しい。とりわけ、それが数学のように抽象世界を相手にする分野なら、なおさらだ。物理学も、今や具象世界を抽象世界に投影して考える営みとなっているから同様だ。それなのに私は、ついついその難所に引き寄せられてしまう。

一つには、私が科学畑の元新聞記者であり、今も科学ジャーナリストを名乗っているからだろう。現役時代は、業務として研究者から難しい話を根掘り葉掘り聞きだし、それを記事にしていた。その習性が今、老後の読書に乗り移ってしまった感じだ。

言うまでもないことだが、私は取材時に難しい話を100%理解していたわけではない。そうかと言って、まったくわからなかったということもない。いや、正直に言おう。話を聞きはじめた時点で理解度が0%だったことはある。それでもめげずに愚問の数々を投げかけていくと、おぼろげながら話の輪郭がつかめるようになってくる。これでようやく、記事の見通しが立つのだ。足裏の痒みを靴底から掻くような作業ではある。

では、輪郭をつかむとは何なのか。理解度が0%と100%の間にある状態なのは確かだ。だがそれは、50%だ、60%だ、というように数字で表せるものではない。あえて言えば、わかったような気持ちになる心のありようを指しているのではないか。

わかったような気持ち――これは、私たち人間にとって欠かせない。この世界がどんなものかわからずに生きるのは危険だ。だが、ヒトという生きものが、なにもかもわかることはありえない。ならばとりあえず、的外れにならない範囲でわかったような気持ちになることが必要ではないか。科学ジャーナリズムの存在意義の一つは、そんな心理状態を人々に提供することにある。科学本が一般向けに書かれ、読まれるのも同じ理由からだろう。

ただ、科学記事を書くのと、科学本を読書ブログで話題にするのとでは勝手が違う。記事の取材では科学者に根掘り葉掘り質問をぶつけられるが、読書ブログを書くのにその工程はない。情報源は本そのもの。本をあれこれ撫でまわし、食らいつけるところを齧りとっていくしかない。今回は、20世紀でもっとも著名な科学者の手になる書物を齧れる限り齧ってみよう。さて、それで、わかったような気持ちになれるかどうか――。

『アインシュタイン回顧録』(アルベルト・アインシュタイン著、渡辺正訳、ちくま学芸文庫、2022年刊)。著者アインシュタイン(1879~1955)は、ドイツ生まれで米国へ渡った理論物理学者。時空の物理学である特殊相対性理論や一般相対性理論を築いたことで知られる。量子論への寄与も大きい。「訳者あとがき」によれば、本書原文は“Albert Einstein: Philosopher-Scientist”という書物(1949年刊)の巻頭に収められている。

本書では、その「訳者あとがき」の分量が本文の約半分もある。しかも、訳者は化学系の工学博士。理論物理学者ではない。だから、著者の業績に対して適度な距離感を保っている。その立ち位置は、私たち読者と同じ地平にいるように思えて心地よい。

本書原文の題名は“Autobiographisches”(「自伝のようなもの」)。ところが、まったく自伝らしくない。ページをめくると物理学の話が次々に出てくる。数式が顔を出すこともある。著者自身は、この文章を「自分の葬儀に使う弔辞」みたいなものと言う。自分にとって大事なのは「何をどう考えるか」(本書では斜体部分に傍点、以下も)であって「日々の雑事」に関心はないとして、「脳内の出来事」を中心に書く姿勢を鮮明にしている。

一例として、著者は幼少期の体験を書きとめている。父親から方位磁石を見せてもらったときの「驚き」だ。方位磁石は、本体をどちらの向きに動かしても針は一定方向を指し示す。それは「脳内にできていた概念世界とは、まったく合わない」ことだった。このように私たちの脳は、既存の概念世界と衝突する現象に出あったとき「大きく揺さぶられる」。そんな体験を繰り返すことが「思考力を鍛える」と、著者は主張している。

本書の価値を高めているのは、そんな著者の「脳内の出来事」がそのまま科学史になっていることだ。私も今回の読書では、そこに目を向けることにした。まずは、19世紀の物理学にニュートン力学ばなれの兆しがあったことを本書からたどってみよう。

ニュートン力学は、「質点系の力学」だ。アイザック・ニュートンが17世紀に打ちたて、19世紀には「物理全体の基礎」となっていた。そこには、「質量」と「力」とニュートンの「運動法則」の三つさえあれば万事を語れる、という世界観がある。これは、著者が物理専攻の学生だった19世紀末、物理学の「ドグマ」(教義)になっていた。ただ同じころ、その「信仰」を揺るがせるような動きが出てきたという。新しい研究分野の台頭である。

一つは、波動光学だ。これを「力学の土俵」で理解するのは難しかった。光は、力学の視点からは「エーテルという弾性体の振動」とみなされる。もしそうならば、空間にはエーテルが充満しているはずだ。ただ光は横波であり縦波ではないから、エーテルは縦波を起こさない「非圧縮性の固体」に近いに違いない。ところが、実際には「どんな物体も空間内をスイスイ動いていく」ではないか。これではとても固体とは思えない――。

もう一つは、電磁気学である。マイケル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルが築きあげた。この研究によって、「重さのあるどんなものとも関係のない電磁現象、つまり電磁の生む波」が真空中を伝わることもわかったのである。

光も電磁波も――光も電磁波の1帯域であることはわかってくるのだが――質点系の力学でとらえることはできない。それは、質量と力と運動法則で成り立つニュートン力学の三角形とは別のところに存在するわけだ。ここに新しい物理学の出番があった。

著者は、ニュートン力学に「内的完全性」があるか、「内的に単純(自然)」かどうか、という観点でも議論を展開している。ここでは、ニュートンが物体とは無関係な存在として想定した「絶対空間」の難点を論じ、その運動法則は「力の起源」を明らかにしていない、力と位置エネルギーの数式には「勝手な仮定」が紛れ込んでいる、などの見解も示している。著者の「脳内」では、ニュートン力学のあちこちに綻びが見えていたことになる。

波動光学や電磁気学では、「場」が主役となる。ニュートン力学の「遠隔力」が、「場」に取って代わられるのだ。本書は、ヘンドリック・ローレンツが1870年代に提示した電磁世界のイメージを要約している。私がさらに要約すると、以下のようになる。

・電磁場は真空でも存在可能
・粒子は電荷が在る場所
・粒子間の真空には、粒子の電荷の位置と速度に対応して場が発生する
・粒子の電荷は場を生み、場は粒子の電荷に影響を与える
・このとき粒子はニュートンの運動法則に従って動く

著者はローレンツの仕事を評価しつつ、自身が若いころに抱いた違和感も率直に打ち明けている。「ニュートンが重視した質点と、どこまでも広がる……その両方を基本概念に使っている」。物理学者らしく、その「二元論」的構造に引っかかったのだ。著者は、ここで一つの着想を得る。「場」のエネルギー密度が著しく大きな領域を「粒子」とみればよいのではないか。それがうまくいけば、質点の運動方程式も「場」の方程式から導ける。

考えてみれば、著者の一般相対論は、重力を「遠隔力」とは見ず、重力の「場」で一元的に描きだした。それだけではない。「力の起源」も時空の曲がりによって説明している。

前述のように、著者は既存の概念世界と相いれない物事に出あうことに価値を見いだしている。青年時代に遭遇した「場」の物理学は、まさにそれだったのだろう。これを糸口に、当時の「ドグマ」ニュートン力学を批判的にとらえて相対論にたどりついたのだ。

著者アインシュタインの「脳内の出来事」は、これにとどまらない。相いれない難物との遭遇はほかにもあったのだ、次回も本書で、その脳内模様をたどってみよう。
☆引用箇所にあるルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年1月20日公開、通算662回
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大晦日、人はなぜ区切るのか

今週の書物/
『世間胸算用――付 現代語訳』
井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊

柚子

泣いても笑っても、今年は残すところあと1日だ。この時季、なにを急かされているというわけでもないのに、せわしない。頭蓋には「年内に」という督促が響き渡っている。

現役時代を顧みてもそうだった。新聞社の編集局では秋風が吹くころ、「年内に」のあわただしさが始まる。元日スタートの連載や新年別刷り特集の企画が決まり、取材班が旗揚げして記者たちが動きだす。その力の入れ方は半端ではない。班には名文記者が集められた。出張予算もどんとついた。原稿がデスク(出稿責任者)から突き返され、記者が書き直すことも度々だった。12月も中ごろになると記事は仕上がり、次々に校了されていく……。

今思うのは、新年連載や新年特集は果たして読者の求めに応えたものだったか、ということだ。記事の中身をとやかく言っているのではない。そもそも新年企画なるものが必須なのか、という問いだ。もしかしたら、12月31日付と同じような1月1日付紙面があってよいのかもしれない。だが、私たち新聞人にはそういう選択肢が思い浮かばなかった。12月31日と1月1日の間にある区切りを重視したのだ。それはなぜか。

記者には日々のニュースを伝えるだけでなく、時代の流れをとらえるという大仕事もあるからだ。新年連載や新年特集は、後者の役割を果たす格好の舞台になる。

とはいえやっぱり、年末年始の区切りには、ばかばかしさがつきまとう。理由の一つは、年末の忙しさが年始の休息を捻りだすための突貫工事に見えてくるからだ。実際、新聞社の編集局は年越しの夜、突発ニュースに備える当番デスクや出番の記者を除いて解放感に浸った。部長たちが局長室に集まり、1年を振り返って語らう「筆洗い」という行事もあった。翌日、即ち元日付の紙面が新年企画でほぼ埋め尽くされていたからだ。

そう考えると、新聞の新年企画は家庭のおせち料理に似ている。おせちは、一家の台所を仕切る人々――かつては専業主婦であることが多かったが――が新年三が日の手間を軽減できるよう、日持ちする料理を暮れのうちに詰めあわせたものだ。年末のせわしなさ、あわただしさと引き換えに年始にはひとときの安らぎを確保しよう、という発想が見てとれる。年末年始の区切りは、こんなかたちで私たちの生活様式に組み込まれている。

で、今週は『世間胸算用――付 現代語訳』(井原西鶴著、前田金五郎訳注、角川文庫、1972年刊)。原著は、江戸時代の1692(元禄5)年刊。副題には「大晦日ハ一日千金」とある。井原西鶴(1642~1693)晩年の作品で、市井の年越しを描いた浮世草子だ。

浮世草子は、近世に広まった上方の町人文学。現代に置き換えれば、大衆小説と呼んでよいだろう。本作『世間胸算用』は全5巻計20話から成る。それぞれは短編というよりも掌編で、筆づかいは融通無碍だが、そのなかにドタバタ劇のような小話が組み込まれている。表題を一つ二つ挙げれば、冒頭2話は「問屋の寛闊女」「長刀はむかしの鞘」。ここで「寛闊」(*)は「派手めの」くらいの意味。字面だけを見ても、思わせぶりではないか。

本書には原文があるから、まずそれを読むべきだろう。だが、第1編の「世の定めとて大晦日は闇なる事……」という書きだしを見て、一歩退いた。古文の授業を思いだしたのだ。日本語だから読めないことはない。ただ、意味を早とちりして誤読する危険が高まる。

ありがたいことに本書には「現代語訳」もある。私たちの世代になじみの俗語でいえば〈あんちょこ〉だ。訳者は、近世日本文学の専門家。巻頭の「凡例」で、訳について「極めて不十分なもの」と謙遜して「本文通読の際の参照程度に利用していただければ」とことわっている。ただ、私は西鶴を論じるわけでも、その文体を分析するわけでもない。大晦日の空気感を知りたいだけなのだ。〈あんちょこ〉の活用に目をつぶっていただこう。

現代語訳のページを開くと、書きだしが「大晦日は闇夜であり、それと同時に、一年中の総決算日であるという世の中の定則は……」とある。「総決算日」は原文にない現代風の補いだが、それは文意を汲みとってのことだ。原文より硬くなった印象は否めない。半面、西鶴を訳者の解説付きで読ませていただいている気分にはなれる。現代風の用語はこれ以外にもところどころに織り込まれ、元禄期を現代に引き寄せる効果をもたらしている。

第1話「問屋の寛闊女」からは、元禄期、上方の都市部では消費文化がかなり進んでいたことがうかがわれる。「主婦」(原文では女房)たちは正月の晴れ着に流行模様の小袖をあつらえる。染め賃は高くつくが、模様がはやりものだから逆に目立たない。大金を浪費しているだけだ――。驚きなのは、当時すでに服飾流行=ファッションが人々の消費行動を支配していたことだ。生産者側にも、流行を支える商品の量産体制ができあがっていた。

子ども向け商品の消費も活発だ。親は、正月には破魔弓や手鞠、3月は雛遊びの調度品、5月は節句の菖蒲刀……と季節ごとに品々を用意する。それらは捨てられたり、壊れたりするものだから買い換えが必要だ。この時代、使い捨て文化もすでにあったのだ。

この世相は、商家の営みにも影響を与えていた。この一編では、問屋の主人が年の暮れ、「掛売り買い」の決算ということで取り立て人の攻勢に遭う話が出てくる。主人は、押し寄せる取り立て人たちに振手形を乱発する。総額は、問屋が両替屋に預けている額を大きく上回る。手形を渡す側は紙きれで当座の窮地を切り抜け、渡される側はその紙きれを自分自身の支払いに充てる。元禄の町人社会は、金融の危うさをもう内在させていたのである。

第2話「長刀はむかしの鞘」には、長屋の住人の年越しが綴られる。意外なことに、この所得層は借金取りに追われることは少なかったらしい。家賃は月々払わされている。食料品であれ、生活用品であれ、掛買いなどさせてくれない。「その日暮らしの貧乏人は」「小づかい帳一つ記載する必要もない」のである。ただ、この人たちも「正月の支度」はする。その資金捻出に活用されるのが質屋だ。大晦日の夕刻になって質入れに動きだす。

古傘と綿繰り車と茶釜を一つずつ持ちだして銀1匁を借り受けた家がある。妻の帯と夫の頭巾、蓋のない重箱など計23点で銀1匁6分を調達した家もある。大道芸人は商売道具の烏帽子などを質草に銀2匁7分を手にした。そして、浪人の妻が質屋に持ち込んだのは長刀の鞘。突き返されると、これは親が関ヶ原の戦い(1600年)で武勲を立てたときのもの、と啖呵を切る。関ヶ原からは歳月が流れ過ぎていて、はったりは歴然なのだが……。

取り立て人のなかに知恵者がいたことがわかるのは、「門柱も皆かりの世」という一編。材木屋の丁稚はまだ10代でひ弱な感じもあるが、鼻っ柱は強い。取り立て先の亭主が「払いたいけれども、ないものはない」と庭先で今にも腹を切ろうとすると、取り立て人たちは恐れをなして帰っていったが、この丁稚だけが残る。支払いを済ませるまでは「材木はこっちの物」と言うなり、大槌を振るって門口の柱を外してしまったのだ。

この丁稚は亭主に指南もする。取り立て人を追い払いたければ夫婦喧嘩を昼ごろから始めるのがいい、家を出ていくだの自殺するだの、言いあっているのを見れば、だれもが退散するだろう――。芝居をするにしてももっと上手にやれ、ということか。

「亭主の入替り」という一編にも、友人夫婦と連帯してひと芝居打ち、取り立て人を撃退する方法が登場人物によって伝授されている。それぞれの夫がそれぞれ友人の家に張りついて、強硬な取り立て人の役を演じる。「お内儀、私の売り掛け銀は、ほかの買掛かりとは違いますよ。ご亭主の腸を抉り出しても、埒を明けますぞ」。こんな光景に出くわせば、本物の取り立て人がやって来てもすごすご引き下がるに違いない、というわけだ。

それにしても江戸時代、なぜ代金回収の期限を一斉に大晦日にしたのか。自在に決めればよいものを。古来、人には何事にも区切りをつけたがる習性があるのだろうか。

*「闊」の字は、原文ではこれにさんずいが付いている。
☆引用箇所のルビは省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年12月30日公開、通算659回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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