1964+57=2021の東京五輪考

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

57年間

「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた)。

「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。

三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。

シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。

この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?

石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。

5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。

今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。

国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。

大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。

想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。

開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。

観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。

5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。

……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。

たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。

二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。

思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。

「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。

さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。

午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。

ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

熊野という驚くべき超多様性

今週の書物/
『ごった煮のおもしろさ「熊野山略記」を読む』
桐村英一郎著、はる書房、2021年刊

天竺→唐→熊野

熊野とは、不思議な縁がある。

一度目は、火の玉を追いかけたときだ。1985年10月8日、謎の火の玉が列島の夜空を横切った。甲子園球場では観衆が総立ちになったから、覚えている方もおられるだろう。そのころ、私は朝日新聞大阪本社の科学記者だった。「どこに落ちたか、見てきてくれないか」。科学部の上司は、若手部員の私に無理難題を押しつけた。社が用意したタクシーに社会部の2人と乗り込んで、一路、火の玉が消えた方角へ針路をとった。

社を出発する時点でわかっていたのは、火の玉が南のほうへ流れたというくらいだ。落下場所など見当もつかなかった。携帯電話が広まっていない時代なので大きな携帯無線機を持たされた記憶があるが、本社は追加の指示をなにも言ってこない。大阪の南には紀伊半島が控えているだけだ。だったら、その突端をめざすよりほかないではないか。こうして私たちの車は南紀に入り、熊野の森の闇をさまようように走りまわったのである。

当然、これは無駄足だった。翌日に帰阪後、南紀で隕石の破片らしいものが見つかったというニュースが現地から届いたが、それが火の玉の残骸だとは断言できなかった。今では、あの火の玉は隕石でなく、人工天体の落下だったという説が有力のようだ。

次に熊野の森に入ったのは、さほど昔ではない。熊野古道見たさで思い立った私的な旅行だった。那智の滝を眺め、熊野本宮大社に参り、中辺路(なかへち)を歩き、童子の像などを見て回った。あいにくの土砂降りで、全身ずぶ濡れになったことを覚えている。

深い闇と激しい雨。これが、私の皮膚感覚に刻まれた熊野だ。ただ考えようによっては、熊野は私に素顔を見せてくれたのだとも言える。ここは〈ふつうの日本〉ではない、そのことを肝に銘じよ、とでも戒めるように。それでいて、熊野は心地よくもある。〈ふつうの日本〉からふらりとやって来ても拒まれることはない。これは、私が新聞社にいたころ、南紀に幾度となく出張した折に町の人々の表情から感じとったことである。

で、今週の1冊は『ごった煮のおもしろさ「熊野山略記」を読む』(桐村英一郎著、はる書房、2021年刊)。著者は、1944年生まれの朝日新聞元記者。ロンドン駐在、大阪、東京両本社の経済部長、論説副主幹を務めた。経済畑、科学畑と専門分野は異なるが、私にとっては大先輩である。2004年に定年退職すると奈良県明日香村に住み、神戸大学で客員教授を務めた。現在は、三重県熊野市在住。古代史探究に打ち込み、著書も多い。

著書の一つに『熊野からケルトの島へ――アイルランド・スコットランド』(三弥井書店、2016年刊)がある。この本は、当欄の前身「本読み by chance」で紹介した(2018年5月4日付「熊野とケルト、島の果ての奥深い懐」)。ユーラシア大陸から見れば、東西の辺境のそのまた辺境といえる場所に光を当て、両者に通じあうものを浮かびあがらせた。その着想は、国際経済記者の職歴と定年後の知的関心が化学反応したもののように思える。

その著者の最新作が、この『…「熊野山略記」を読む』である。ご本人から送っていただいたので、ぱらぱらめくると漢字が多い。漢文がそのまま載っているページもある。高校時代の授業が思いだされる。これは困った、とても読み通せないな、と白旗を揚げた。

本書は、著者が「熊野山略記」(以下、「略記」)という古文書を読み込んで、熊野文化の起源を探ったものだ。「略記」は室町中期以前の作とみられ、「本宮・新宮・那智山から成る熊野三山の由来、聖地たる理由」などを三巻にまとめている。この『…「熊野山略記」を読む』は三部構成。第三部は「略記」原文、第二部はその漢文を日本文に読み下して解説したもの。著者は、第一部で「略記」を踏まえた自身の熊野観を披歴している。

そうか、と私は思った。第三部はもちろん、第二部も私には手に負えない。だったら、第一部だけを読もうではないか。第二部の読み下しと解説は著者が成し遂げた偉業だが、だからこそ準備不足の私にあれこれ言う資格はない――そんなふうに都合よく考えたのである。

第一部は「主人公の諸相」と題されている。ここで著者は、「略記」に登場する主な人物、神仏のあれこれを物語風に紹介する。一読してわかるのは、人物や神仏の国際性だ。飛行機もインターネットもない時代に、よく世界をこれだけ広くとらえられたものだと思う。

たとえば、熊野権現。熊野三山に祀られる神は、仏や菩薩の化身なので権現と呼ばれる。この神は「唐からはるばる飛来」したのだという。「飛来」だから、海路ではなく空路だ。唐の天台山(中国浙江省)→九州の英彦山(福岡大分県境)→四国の石鎚山→淡路島の諭鶴羽山とトランジットを繰り返し、南紀に到着。熊野に着いても、あちらの梢、こちらの峰と小飛行している。熊野人の想像力には、ほとんど今の航空便と同じ自由度があったのだ。

「略記」が「おおらか」なのは、別の箇所では異説を平気で載せていることだ。それによると、熊野権現の「飛来元」が、唐ではなく天竺(古代インド)の摩訶陁国(まがだこく)だという。東アジアにとどまらず、南アジアまで視野に入れているのである。

「略記」には、上記2説を折衷させた筋書きも出てくる。後に熊野権現となる慈悲大顕王が天竺の迦毘羅国を旅立ち、唐の天台山を経て、九州→四国→淡路島→紀伊国のルートをたどったというのだ。ちなみに、迦毘羅国は釈迦が生まれたとされる国である。

権現だけではない。那智山の青岸渡寺を開いた裸形上人も、もともとは海外の人らしい。「略記」によれば、「熊野川河口の地で長年修行を重ねた後に那智に移った」ことになっている。では、どこからその河口部にやって来たのか。著者は、この人がインド・ジャイナ教「裸行派」出身の行者だとする説や、「仁徳帝の時代、印度より一行六人と共に熊野浦に漂着」という青岸渡寺に伝わる説を紹介する。こちらは海路の来日だ。

熊野のある紀伊半島は、海を挟んで世界とひと続きだったと言ってよい。「略記」には、「南蛮」(エビス、「夷」「狄」「戎」「江賓主」とも書く)も登場する。「黒潮に乗って南方から来て、熊野灘沿岸に住み着いた『海の民』」だ。「南蛮」は敵役となり、征伐される側に回るのだが、その子孫たちが地元に根を張って「繁昌」して「氏人」になったという話も織り込まれている。著者はそこに、「熊野のおおらかさと懐の深さ」をみる。

さらに驚かされるのは、その南蛮制圧に寄与した「熊野三党」のルーツだ。「三党」は、榎本氏、宇井氏、鈴木氏を名乗る平安初期の豪族だ。「略記」では、それぞれの家系をさかのぼると天竺に行き着くという話が綴られている。天竺の慈悲大顕王、即ち、後の熊野権現は来日に先立って家臣を日本列島へ送り込んでいた。その子孫たちが熊野の豪族として根づいた、というのだ。著者があきれるように、「略記」で「一番突飛」な話ではある。

この話が本当なら、すごいことだ。1200年ほど昔、日本列島を舞台に海外にルーツをもつ二派が相争ったことになる。片や「南蛮」、こなた「天竺」。両者が交差した場が熊野というわけだ。その展開は、純血主義志向の歴史観からは大きく外れている。

もちろん、これは伝説半分の、眉に唾をつけて聞くべき物語だ。ただ、たとえ眉唾ではあっても、それが日本の政治中心からさほど遠くない一角に史話として生き延びてきたという事実は、心にとめるべきだろう。そのことは、私が熊野の闇で、あるいは熊野の森で、ここは〈ふつうの日本〉とは違うのだ、と囁かれたように感じた記憶と響きあう。と同時に、来訪者を拒まない気風が心地よかったという体験を思い起こさせる。

著者はあとがきで、「熊野の地が私を『ほっとさせる』のは、本音や混沌(坩堝のような入り混じり)をあえて隠したり、避けようとしたりしない、その有り様に惹かれるからだ」と打ち明けている。そんな空気を日々吸い込んでいる先輩を、私はうらやましく思う。
*本文にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月16日公開、通算583回
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■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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コロナ時代の嘘をあばく本の質感

今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊

付箋

驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。

封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。

前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。

 文字には色が必要だったのだ
 僕に君が必要なように

書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。

ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)

で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。

いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。

著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。

49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。

著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。

ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」

108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。

213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。

249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。

このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。

ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。

著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。

最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
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外骨という骨ばった遊び心

今週の書物/
『学術小説 外骨という人がいた!』
赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊

濃霧

風刺の難しい時代である。目の前には、風刺したい世の中がある。世界のトップリーダーには、風刺したくなる人物が幾人もいる。そしてネット時代の今、私たちのだれもが風刺の発信に使える道具を手にした。それなのになぜ、難しいのか。

ひとことで言えば、風刺はやっぱり人の心を傷つけるのだ。相手が米国の大統領なら、あるいは日本国の首相なら、辛辣に笑い飛ばしてもよいだろう。なにしろ先方は、途方もない権力の持ち主なのだから――そんな了解事項が世の中には一応ある。いや、あったと言うべきか。だが、その通念が今は通りにくくなった。権力者の座にある人物を皮肉ることは、その人と同じ思考をする人々を皮肉ることになりかねないからだ。

ドナルド・トランプ氏の反知性主義を風刺することは、知的エリートに反発して彼に投票した多くの人々を風刺することになってしまう。それが本意でないなら、批判は真正面からするしかない。発言をファクトチェックして事実誤認を指摘する、というように。

かつて新聞の紙面では、政治漫画というアイテムが売りものだった。たいていはひとコマで、政治面の真ん中にドカンと置かれていた。当代一級の漫画家が政界の要人を似顔絵風に描いて、ニュースの裏事情を茶化す。活字によってはできない憂さ晴らしを絵に託している感があった。ところが、これも最近は地味にしか扱われない。記事の分量を減らしたくないからではあろうが、風刺に対する逆風を反映しているようにも見える。

新聞の政治漫画は、日本だけのものではない。少なくとも30年ほど前、私がロンドンに駐在していたときは現地紙に載っていた。そのころすでに欧州では女性の政治家が多かったから、彼女たちも風刺の標的になった。漫画に登場する彼女たちはたいていスカートを履いていて、そのスカート丈が茶化しのネタになることもあった。今なら、完全にアウトだろう。その女性政治家の背後にいる世界中の女性たちがどう感じるか、が問題なのだ。

では、風刺の時代は終わったのか。即答はできないが、終わったとは思いたくない。明らかな不合理がのしかかってくるのなら理屈で対抗すればよい。だが、世の中には、もやもやした不条理もある。それを吹き飛ばすには笑いのタネにするしかないではないか。

で、今週は『学術小説 外骨という人がいた!』(赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊)。風刺家の先人といえる明治大正昭和期のジャーナリスト宮武外骨の軌跡を自由気ままな筆致で描いた本。著者は、1937年生まれの画家であり作家。路上観察学会の活動でも知られる。尾辻克彦の名で書いた小説『父が消えた』で芥川賞も受けている。私が今回手にしたのは、1985年に白水社が刊行した単行本を文庫化したものだ。

ふつうこうした評伝風の本には、当該人物の略歴や横顔がどこかに要約されているものだが、この本は違う。本文はもとより、「はじめに」にも「あとがき」にも、それは出てこない。だから、複数の辞典類に目を通して、大づかみに頭に入れておこう。

外骨は幕末の1867年、讃岐(現・香川県)の富裕な農家に生まれた。1887年に東京で「頓智協会雑誌」を、1901年には大阪で「滑稽新聞」を創刊するなど、青年期から社会風刺を手がけた。この間、不敬罪で禁固刑を受けたこともある。一方、昭和期に入って1927年には、東京帝国大学で「明治新聞雑誌文庫」の管理を任されるなど、学術面の貢献も。意外だったのは、没年が1955年であること。私が4歳になるまでご存命だったのだ。

まずは、著者と外骨の出会いから。著者は1967年、東京・阿佐ヶ谷の古書店で買い込んだ外骨の雑誌に衝撃を受ける。「HEART 教育画報 ハート」(漢字は新字体に改める、以下も)の第2号。発行所として「滑稽新聞社」の名があり、刊行年は明治末期の1907年。まもなく、こんどは友人が荻窪の古書店で別の雑誌「スコブル」を掘りだしてくる。その第1号は大正期の1916年10月発行で、「宮武外骨主筆」の名が掲げられていた。

この本には、それぞれの雑誌の表紙が大きく載っている。「HEART」第2号は上半分に大きなハートマーク。下半分は「西洋新玩具」と銘打って、民俗学者が収集しそうな「不思議な形の人形類」を並べている。どこか、怪しげだ。一方、「スコブル」第1号は、題字下に人魚が腹ばいで横たわる、という絵柄。人魚の上半身は露わ、右ひじをついて顎を支え、その指先には筆記具が……。モダンを超えてポストモダンまで先取りした感がある。

著者によれば、そのころ、即ち1970年前後、知識人の間には外骨を「要するに奇人……だな」のひとことで片づける傾向があった。そこに見てとれるのは単行本文化だ。外骨流の「雑誌表現のやりくちに於いて目の覚める革命的手法」には目が届いていなかった、という。

外骨流の極意を「滑稽新聞」を素材に概説した箇所では、「面白さの要素」に「攻撃力」「エログロ表現」「絵遊び」「文字遊び」「毎号の表紙」の五つを挙げている。雑誌は、読むだけのものではない。見るもの、遊ぶものでもある、ということだろう。

この本は、表題に「学術小説」と角書きされているように、フィクション仕立てになっている。著者が先生となり、美学校の教室や武道館、後楽園球場、あるいは渋谷のガード下で、「滑稽新聞」について講義するのだ。これはと言う紙面をスライド画像にして「カシャン」「カシャン」と映していく、という趣向。それらの画像はこの本にそっくり載っているから、私たちも外骨の〈見て読む〉メディアの恩恵に浴することができる。

おもしろいのは、「文字のツラで意味の世界をぶっ叩く」という章だ。ここではまず、外骨流の小技が紹介される。「滑稽新聞」を出していたころ、世の中には言論活動をゆすり行為に悪用する新聞がはびこり、外骨はその「騙したり脅したり」の手口に同業者として腹を立てていた。そこでユスリ批判の一大キャンペーンを展開。このとき、「ユスリ」の3文字を「特別に太(ぶっと)い活字」にした。わざわざ印刷所に特注したのだという。

圧倒されるのは、新年号の附録。それは、本物の古新聞に墨書風の「滑稽新聞 新年附録」「紙屑買の大馬鹿者」の文字がでかでかと刷り込まれていた。こういうことだ――。「無差別にかき集めた古新聞」の切れ端を印刷機にかけた。「八万部ほどの附録が一点一点全部違うわけで、こんな豪華なことはありません」と、著者もあきれる。もはや古紙に過ぎないものに人を食った新しいメッセージ。紙1枚のモノ性と情報性を際立たせた妙技だ。

さらに度胆を抜かれるのは、「明治源内小野村夫之写真」。ここで、明治源内小野村夫は外骨の別名である。その顔らしき画像が、ほぼ1ページ大に印刷されている。と言っても、ほとんど黒一色。目や唇は白い。下段の記事には「無器械写真法」「肉体直接の実印」との説明も。「斯様な写真をとりたい人は自分の顔に墨を塗ッて」(ルビは省略、以下も)とあるが、外骨が本当に数万回、墨だらけの顔を紙に押しつけたとは思えない。

日露戦争下の「滑稽新聞」社説は、伏せ字の「○」だらけだ。実際、文字より○のほうが多い。著者は「お見事」とほめ、「しかしこの美しさは何でしょうか」と感嘆する。たしかに一種のアートに見えなくもない。だがどっこい、堂々社論も展開しているのだ。○でない部分の文字を飛び石を跳ぶように読んでいこう。「今の軍事当局者はつまらぬ事までも秘密秘密と云ふて新聞に書かさぬ事にして居る」と、言論統制を皮肉っている。

その戦争報道にも諧謔がある。ロシア艦隊が濃霧に包まれて見えにくい状況を、外骨は3種の文字で伝えた。「霧」の漢字が縦横にぎっしりと埋め尽くされるなか、「露艦」の2文字がところどころに紛れ込んでいる。「霧」と「露」が似ていることに着眼した視覚表現だ。

宮武外骨というと、反骨の人と思う。だが、ただ権力に盾ついていたわけではなさそうだ。世界をまるごと相手にして、その批評に遊び心を注ぎこんでいたのだ。風刺が成立するには、そんな心の余裕が欠かせない。それが今、失われつつあることを憂うる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年2月12日公開、通算561回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
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