今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊
「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた」)。
「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。
三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。
シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。
この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?
石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。
5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。
今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。
国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。
大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。
想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。
開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。
観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。
5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。
……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。
たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。
二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。
思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。
「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。
さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。
午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。
ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
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