「太陽」の好奇心が輝いた日

今週の書物/
「太陽の族長――谷川健一」
船曳由美著
「地名と風土」第15号(日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊)所収

太陽の贈りもの

ご近所からのいただきものが書物というのは、今どきめったにないことだ。この春、近くにお住まいのベテラン編集者で、著述家でもある船曳由美さん(*1、*2)が「地名と風土」という雑誌を一冊分けてくださった。出版人であり、日本地名研究所の設立にかかわり、なによりも在野の民俗学者として知られる谷川健一(1921~2013)の生誕100年を記念する号だという。特集に谷川健一にゆかりの26人が文章を寄せている。その一人が船曳さんだ。

谷川は大学卒業後、平凡社に入った。同社が1963年夏、日本初のグラフィックマガジンとして月刊「太陽」を創刊すると初代編集長に就く。その編集部で谷川の薫陶を受けたのが1962年入社の船曳さんだ。で今週は、「太陽の族長――谷川健一」(船曳由美著、「地名と風土」第15号〈日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊〉に寄稿)を読むことにする。そこに満載された逸話からは、往時の出版界の活気が伝わってくる。

中身に踏み込む前に、私の世代――1963年夏には小学6年生だった――の目には「太陽」がどう映っていたか、という話をしておこう。小6男子の手が伸びる雑誌は、なんといっても「少年サンデー」や「少年マガジン」だった。「平凡パンチ」が翌年創刊されたが、それは買って読むものではなく、どこかでこっそり開くものだった。だから「太陽」は、医院の待合室や銀行のロビーに置かれた行儀のよい雑誌という印象しか残っていない。

谷川民俗学が雑誌を通じて読者と分かち合おうとしたものの価値が、私にはまだわからなかったのだ。10代前半の少年には仕方のないことだ。ただ青春期に入っても、その真価に気づかなかったのは不覚というしかない。考えてみれば、あの1960~1970年代は工業化や都市化によって国内外の文化遺産がないがしろにされた時代にぴったりと重なる。谷川の「太陽」は、カメラとペンの力でその激流に抵抗したのである。

ここでは、船曳さん(以下、著者と呼ぶ)の寄稿の読みどころをみていこう。まずは誌名「太陽」について――。これは、著者が社内公募に応えて出した案が通ったのだという。谷川は、その名に琉球列島の「太陽=てだ」を託した。沖縄には「太陽は毎朝、東方の穴から出て中天をかけり、夜はまたその穴にかえっていく」という古来の信仰がある。著者が「谷川さんは太陽(てだ)の族長ですね」と言うと、谷川は「晴レガマシイな」と答えた。

平凡社は当時、東京・麹町にある旧邸宅の建物を社屋にしていた。かつては満鉄副総裁の公舎だったという。本館には舞踏会の会場にもなる大部屋があったが、その上層部に3階をつくるなど改築や増築を重ね、出版社の体裁を整えていった。「太陽」編集室は3階の大広間。「どの机にも資料が乱雑に山と積まれている。ピースの青缶にタバコの箱。机の引き出しにはウイスキーの小ビン」とある。IT端末が並ぶ昨今の出版職場とは大違いだ。

編集部員の行動様式にも隔世の感がある。先輩部員たちは午後3時になると「サア、汗を流してくるか」と近くの銭湯に出かけた。浴衣姿で戻ってくると、ビールを一杯ひっかけ、頭に鉢巻を巻いて仕事モードに入る。体内時計が夜行性に設定されていたのだろう。

新人の著者に割り当てられた仕事は、「女ひとりの旅」という連載の編集作業だった。この企画は「日本列島の、いま現在を生きている人びとの実像」を「女性の視点で見、かつ記録する」ことをめざした。その第1回の筆者に白羽の矢が立ったのが、当時、新進作家として多忙を極めていた有吉佐和子だ。著者は、谷川と有吉邸を訪ねた。二人が作家の旅心をくすぐる様子には出版文化ののどかさがあり、新聞人としてはうらやましい限りだ。

このとき編集部が旅の行き先として提案したのが、大分県臼杵の磨崖仏(まがいぶつ)だった。「ダメ、ダメ!」と有吉。クリスチャンであっても仏を見にいくのはかまわない。「でもネ、私はホンモノしか認めない」――まがいはまがいでも「紛い仏」と勘違いしたのだ。著者は「磨崖仏」の3文字を手持ちのノートに大書して誤解を解いた。石仏の数は60体を超え、高さ3mほどのものもある、と聞いて有吉は大いに乗り気になった、という。

編集者泣かせは、想定外の事態が生じることだ。この企画でも、それが起こった。ある日、四ツ谷駅近くで聖イグナチオ教会の塔を仰ぐと、青空に白い雲が浮かんでいた。その形は、天使の翼のようだ。著者は、予感にとりつかれたように電話ボックスに飛び込み、有吉に電話した。「先生、しつこいようですが」と切りだし、臼杵行きの念押しをする。著者が「大天使ガブリエルが来てもですよ」とたたみかけると、「“受胎告知”? バカね」。

ところが、本当に大天使ガブリエルが舞い降りたのだ。「貴女って予言者?」。作家は身ごもった。創刊を数カ月後に控え、有吉佐和子臼杵の旅は大事をとって中止に。その子は無事に生まれた。作家、エッセイストとして知られる有𠮷玉青である。

著者はドタキャンに遭遇してもめげない。それならばこの人、と思いついたのが詩人の岸田衿子だ。旅先に選んだのは、「椰子の実」にまつわる柳田国男の逸話と島崎藤村の詩で有名な愛知県伊良湖岬だった。ここでも岸田邸を訪れる場面が詳述されている。

東京・谷中の岸田邸の描写。玄関の引き戸を開けると、「いらっしゃい」の声とともに「美しい詩人が、天蓋から下がる薄紅の花のれんの間から白い顔をのぞかせた」。貝殻草のドライフラワーが数えきれないほど垂れ下がっていたのだ。著者は貝殻草のチクチクを首筋に感じながら、伊良湖岬行きの話をもちかける。「渥美半島は、花々に埋もれています」と言い添えて。「花は嬉しいわ、いいわ」――この世ばなれした執筆依頼である。

このときもハプニングがある。家の奥から男が出てきたのだ。著名詩人の田村隆一ではないか。それはちょうど、詩人二人が共同生活を始めたころだった。伊良湖岬の話をすると「面白い」と言う。お願いしている相手は岸田さんだと釘を刺すと「分かっているよ、だからボクが付いていく」。結局は「新米」には「衿ちゃん」を「任せられない」という田村の意向に沿って、著者は伊良湖岬行きから外された。代わりに田村自身が同行したという。

これらの回顧に触れると、1960年代の出版文化は人と人との血の通った関係のうえに成り立っていたのだな、とつくづく思う。出版人が、書き手を選ぶ。選ばれたほうはそれをありがたがるでもなく我を通す。その構図は今も変わらないだろう。ただ今日では、ほとんどのことが電子メールのやりとりで決められるのではないか。本づくり、雑誌づくりから偶然の妙が消え、遊びもない、駆け引きもない、ただの事務手続きになってしまった。

この寄稿で著者は、初期「太陽」の誌面を振り返っている。「特集」を列挙すれば、創刊7月号が「エスキモー」、8月号が「タヒチ・マルケサス」、9月号が「沖縄」、10月号が「海の高砂族」……。表紙の写真をたどると、7月号が「西ニューギニア原住民の木偶の祖霊像」、8月号が「埴輪女子頭部」、9月号が「ナイジェリアの木彫騎馬戦士像」、10月号が「ペルーのチャンカイの人形壺」、11月号は「縄文時代後期の土偶」……。

「女ひとり旅」の行き先だけを挙げると、7月号「伊良湖岬」、8月号「萩」、9月号「大神島・池間島」、10月号「阿蘇山」、11月号「篠山」、12月号「男鹿半島」……。

一覧してわかるのは、「太陽」が向かうところ、国境もなければ、文明の境界線もないということだ。極寒の地もある、常夏の島もある、アフリカもある、南米もある、日本列島もある。日本列島については虫の目で細部に分け入っている感がある。

分け隔てがなく、飽くこともない知的好奇心。これこそが雑誌「太陽」の編集姿勢を、そして谷川民俗学を貫いた基本精神なのだろう。その様相は、専門領域を細かく分ける象牙の塔とは大きく異なる。まさに在野の知的活動を具現するものが「太陽」だった。
*1 「本読み by chance」2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、「地方」の豊饒
*2 「本読み by chance」2020年2月28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月27日公開、同月30日最終更新、通算628回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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ウィーンでミューズは恋をした

「ココシュカ 風の花嫁」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈濃いめ〉

ウィーンは、ただの芸術の都ではない。芸術革新の都でもあった。19世紀末から20世紀初めにかけて、繁栄と貧困が混在する帝都に絵画や建築の新潮流が起こる。分離派である。官能の画家グスタフ・クリムトも、その旗を振った。そんなことを先週は書いた。(*)

分離派の運動は、芸術分野で旧時代と切り離された新時代の作品群を生みだそうというものだった。それで気づくのは、同様の動きが別分野にもあったことだ。分離派よりもやや遅れて1920~1930年代、学術分野に旋風を巻きおこしたのが「ウィーン学団」だ。

ウィーン学団は、ウィーン大学を拠点に文系理系の研究者が専門の違いを超えて議論をたたかわせた学者集団である。形而上学を排して哲学の科学化をめざし、論理実証主義を重んじた。物理学者であり、哲学者でもあるエルンスト・マッハの影響を強く受けている。

ここまでのことでわかるのは、ウィーンはオーストリア・ハンガリー二重帝国の末期、芸術と学術の坩堝であったことだ。その片鱗をうかがわせる記述は、先週とりあげた記事「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1985年8月4日付)にもあった。当時の帝都には、性を禁忌とする表の顔と性に耽溺する裏の顔があったが、その「二重基準」と向きあった科学者に精神医学のシグムント・フロイトがいたという。

そんなウィーンの空気が横溢するのが、同じ連載の別の回「ココシュカ 風の花嫁」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1987年2月8日付)という記事だ。これも、『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)で読むことができる。オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリア出身の画家、「風の花嫁」は彼が1914年に仕上げた油彩画である。

「風の花嫁」に描かれた女性のモデルは、アルマ(1879~1964)だ。記事に姓はない。彼女の人生を語るときに姓が馴染まないからだろう。父親は貴族の家系に連なる画家だったが早逝、その後、母は父の弟子と結ばれる。自身も長じてから、結婚を3回経験している。だから、彼女の生涯を一つの姓で括ることには無理があった。いや、それだけではない。アルマ自身が家に縛られることのない自由な生き方を追求していたのである。

アルマの恋人や夫たちを並べてみると、その顔ぶれに驚く。初恋の相手は、当欄が先週とりあげた絵描きのクリムトだった。ただ、この恋は、アルマの母親が割って入って打ち切られる。母は娘の日記を盗み見て「早すぎる」と判断したのだ。最初の結婚相手は、すでに名声を博していたオーストリアの作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーだ。二人の結婚生活は8年間続き、子どもにも恵まれたが、マーラーの病没によって終止符が打たれた。

二人目の夫は、ドイツで活躍していた建築家ヴァルター・グロピウス(記事の表記では「グローピウス」)だ。モダニズム建築の巨匠である。三人目はオーストリアの詩人で、劇作家、小説家でもあるフランツ・ウェルフェルだ。アルマの恋人や夫たちが打ち込んだものは、絵画、音楽、建築、そして文学。芸術のほぼ全領域を覆う。別々の分野でそれぞれ大仕事をしていた芸術家たちが同じ一人の女性に魅せられたという事実には圧倒される。

ウィーンの芸術家人脈は科学者人脈にもつながっていた。たとえば、マーラーはフロイトに接触している。夫婦仲がギクシャクしていることに悩み、精神医学にすがったのだ。もともとの原因は、マーラーが結婚当初、音楽の才能に秀でたアルマの作曲活動を認めようとしなかったことにあるのだが、彼は精神分析を依頼した。夫は妻に母親像を追い求め、妻は夫に父親像を見ようとしている、というのがフロイトの見立てだった。

で、今回の本題。アルマを取り囲む華麗な人脈でとりわけ輝いて見えるのが、「風の花嫁」の作者ココシュカだ。見かけのうえでは、アルマの最初の結婚と二番目の結婚の間で中継ぎの恋愛相手を務めたに過ぎない。だがその関係は、短くとも強烈なものだった。

ココシュカは1912年春、アルマ邸に呼ばれる。肖像画の発注を受けたのだ。マーラーは前年に亡くなっている。アルマは喪服姿だった。横顔のスケッチが始まる。「深く澄んだ目。通った鼻筋。ふくよかな成熟を示すほお」。アルマはピアノを奏でる。ココシュカは、その姿を描きとめようとした。瞬間、咳き込み、ハンカチを口に当てる。血がにじんでいた。この出来事に「ココシュカはいきなりアルマを抱きすくめ、逃げ去った」という。

こうして二人の恋が始まる。アルマ32歳、ココシュカ26歳。ココシュカは斯界では「強烈な表現」や「挑戦的な言辞」で知られた存在だった。アルマに対しても、いきなり「生涯の伴侶(はんりょ)になって下さい」と書いた手紙を送る。本人は求婚のつもりだったようだが、アルマはこれを求愛とだけ解釈して受け入れた。こうして二人は2013年、スイスとイタリアに旅行する。このときに着想されたのが「風の花嫁」だった。

その絵は、深い青を基調にしている。荒波の海だ。風が吹いている。一組の男女が小舟に揺られ、横たわっているように見える。女性が男性の肩に頬を寄せているから、恋人同士なのだろう。女性は「うっとり」目を閉じている。これに対して、男性の「虚空にすえたまなざし」は「不安とも悲愁ともつかない色」をたたえている。ココシュカは、恋愛の絶頂期でも不吉な予感を拭えなかったのだろう。そして現実も、その通りの展開となる――。

1914年、アルマはココシュカの子を身ごもる。ココシュカは子をほしがったが、アルマは産まなかった。この年、第1次世界大戦が勃発する。ココシュカは結婚の望みを絶たれ、志願して軍隊に入った。このとき「風の花嫁」を売り払い、その代金で馬を買いつけて出征したという。絶望感が深かったのだろう。一方、アルマは翌年にはグロピウスの妻となっている(この結婚年は、ウィキペディア英語版=2022年4月24日最終更新=による)。

筆者外岡は、この失恋の理由をココシュカ資料保管所長のウィンケラー氏から聞いている。氏の見解によれば、ココシュカもアルマに「母親像」を見ようとしたが、アルマが欲したのは「自由」と「旅」だった。「風の花嫁」はもともと「情熱的な赤の色調」だったが、それを「憂いを含む青ざめた色調」に塗りかえていったという。ここまでなら、年下のマザコン男が年上の恋多き女にふられる話だ。だが、この顛末はそれにとどまらない。

外岡はウィーンのカフェで、アルマの孫にも会っている。マーラーとの間にできた子どもの子で、名は祖母と同じアルマだ。夜泣きしても「祖母の姿を見ただけでぴたりと泣きやんだ」という幼時体験を披露しつつ、祖母を「さまざまな芸術家に霊感を与えたミューズ」と位置づけた。ウィンケラー氏も同じ言葉を用いて、アルマがココシュカの求婚を拒んだ深層心理を読み解く。「彼女は、ミューズの地位を失うことを恐れたのかもしれない」

ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる9人姉妹の女神たちのことだ。詩神と呼ばれたりもするが、もともとはあらゆる知的営みをつかさどる存在を指したという。だから、祖母アルマに「ミューズ」を見いだした孫アルマの目は的を外していない。

この記事を読むと、当時のウィーンでは芸術や学問の濃度が比類ないほど高かったことを実感する。高濃度だから、ミューズを結節点とするネットワークが生まれたのだ。
*当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月6日公開、通算625回
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ウィーン、光と翳りとアドルフと

今週の書物/
「クリムト 接吻」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈薄め〉

あのころに見ておきたかったなあ、という絵がある。19世紀末から20世紀初めにかけて欧州の画壇に新風を吹き込んだオーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の作品群がそうだ。1990年代のロンドン駐在時代、ウィーンに出張する機会は幾度かあったが、仕事の合間に美術館をのぞく時間はなかった。夏休みや冬休みに見にゆく手もあったが、家族旅行の立ち寄り先としてクリムトの絵は優先順位が高くはなかった。

クリムトの絵と言えば、女性のエロティックな姿が目に浮かぶ。ただし、それは解毒され、気品が漂っている。あの沈潜した色調のせいだろうか。あるいは、捻りがきいた構図がもたらす効果なのか。いずれにしても、従来の絵画世界にない何かがそこにはある。

この画家が「ウィーン分離派」創始者の一人とされていることも、彼の絵に心惹かれるようになった理由の一つだ。「分離派」と聞くと、私は建築をすぐに思い浮かべてしまうのだが、この用語は実は分野の垣根を超えた一群の芸術家を指すものだった。美術作品であれ、建造物であれ、旧来の様式から離れて新しいものをつくろうというのが分離派の芸術運動だ。19世紀末、オーストリアやドイツで台頭した。その源流にクリムトがいたことになる。

建築について言えば、分離派の作品群はギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック……と続く歴代の建築様式が国際様式と呼ばれるモダニズム建築にとって代わられる端境期に現れた。型にはまらず自由、重厚というより軽快――そんな印象を受けることが多いので、私は好きだ。それは、クリムトの絵画にも通じる。あの沈潜した色調も、捻りがきいた構造も、絵画界での様式離脱の産物と言えるのだろう。

で、今週は、そのクリムトの絵について書いた文章を読む。『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)所収の「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆)だ。朝日新聞日曜版1985年8月4日付紙面に載った記事の文庫版再録である。著者は1953年生まれの朝日新聞記者(当時)。去年暮れ、病に倒れて死去した。その人となりは今年2回、当欄で触れている。(*1、*2)

中身に立ち入る前に「世界 名画の旅」という企画について説明しておこう。これは1980年代半ば、朝日新聞が日曜版の目玉商品として始めた連載。日曜版がカラー刷りだったことをフルに生かして、世界各地の美術館などに所蔵された絵画を大きく載せ、その作品にまつわる話題を掘り起こして記事にするというものだった。執筆陣は、筆力がある名うての記者ばかり。バブル経済崩壊前のことなので海外出張にも潤沢な予算がついたようだ。

「クリムト 接吻」の書き出しも紀行文風だ。ウィーンの町並みを見物するには市電の環状線に乗ればよい、という話から始まる。約40分で旧市街を1周。この路面電車の通り道が「リング通り」だ。「窓からは、ハプスブルク帝国期に建てられた荘重な建物のシルエットを眺めることができる」。劇場、大学、市役所、議事堂、王宮、博物館、美術館……。この道路は1857年、当時のオーストリア皇帝の意向を受けて建設が始まった。

皇帝は何を望んだのか。もともとリング通り一帯には「旧市街を囲む城壁」があった。それをあっさり取り壊して「強大な帝国の威光を示す建物」を次々に配置していく。30年ほどかけての大事業。中世の城郭都市を近代の帝都につくりかえたかったのだろう。

このリング通りのことは、私も『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)を紹介したときに触れている。この本は、それを「分離派」と関係づけていた。ここでは、拙稿のその一節をそっくり引用しよう。

《当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという》(*3)。皇帝の近代はしょせん、旧時代の様式をなぞるものだった。そうではない本当の近代を分離派は求めていた。

では、分離派クリムトは画家として、どんな近代をめざしたのか。「接吻」という作品に沿って考えてみよう。この絵では、肩を露わにした女性が花園に立ち、男性の接吻を受けている。目を閉じてうっとりした表情、体にぴったり合った着衣が官能的だ。不思議なのは、男性の足が地についていないことだ。そう思って見ると、女性は横たわっているようでもある。二人をくるむように描かれた模様がベッドを覆う布の柄にも見えてくるではないか。

「接吻」記事はこう読み解く――。絵が「官能を大胆に描きながら、不思議にみだらさを感じさせない」のは「『死』のイメージ」が「放逸な悦楽」を粉砕しているからだ。「悦楽に沈む女性」は「つま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているかに見える」。ここで「絶壁」とあるのは、花園が画面右側で途切れているからだ。「途切れる先に広がる金色の奈落――それは、ウィーンが置かれた現実そのものだった」とある。

「接吻」が描かれたのは1907~1908年。そのころ、ウィーンは華やかさの陰で「死の病に侵されていた」。帝国の支配は民族主義のうねりを受けて崩れそうだった。帝都にも経済格差の亀裂が走り、リング通りの外側には、内側の繁栄と隣り合わせの貧困があった。

「接吻」記事は、クリムト作品の「官能」が19世紀末~20世紀初めに「もてはやされた」理由を探っている。着目するのは「性に対する意識」だ。記事によると、帝都には表向き「性」に触れない空気があった。その裏で、街には売春行為など「性」があふれていた。リングの内外に繁栄と貧困があるように、「性」にも二重性があったのだ。クリムトの絵は、上流階級の気品漂う世界にも実は官能が潜むことを強調しているように見える。

記事のもう一つの読みどころは、この時代にこの都市で画家を志した二人の青年を対比させていることだ。二人には、ウィーン美術アカデミーの入試を受けたという共通点がある。一人は1906年に合格した。後にクリムトの弟子となるエゴン・シーレだ。「死と少女」などの作品で知られる。もう一人は1907年と1908年に受験したが、合格できなかった。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。やがて独裁者となるあの人である。

記事の筆者外岡がすごいのは、シーレ青年とヒトラー青年がウィーンで住んだ場所をすべて見てまわったことだ。どちらも転居を繰り返したようで、居住先はそれぞれ6カ所ずつ。1908年には、二人の住まいが300mの近距離だったこともある。面識はなくとも「人込みの中で視線を交わしたこと」くらいはあっておかしくないという。もう一つ興味深いのは、二人とも最初と最後の住まいがリング通りの外側にあったことだ。

実際、「リングの外」は二人に影響を与える。ただ、その方向はまったく異なっている。

シーレは美術アカデミーを退学して「リングの外」の労働者街に住み、貧しい人々をモデルに絵筆をとった。ウィーンの世情は、リング内側の虚飾が剥げ落ちる時代にさしかかっていた。そこで「当時の美術の主流だった装飾的な要素を捨て、切り込むように赤裸々な人間を描いた」のである。これは、クリムト作品がリング建設期の余韻を漂わせているのと対照的だ。「接吻」でも、官能は装飾性のある衣服や花畑に包まれていた。

ヒトラーも、「華麗なウィーンの幻影の裏に潜む悲惨」を目の当たりにしたところまではシーレと同じだ。だが、そのウィーンに憎しみを募らせ「腐敗の根源にユダヤ人がいる」という妄想にとらわれる。これが人類史に刻まれる残虐行為の駆動要因となった。

この記事には、ヒトラーの絵画作品が1点載っている。1907年ごろ、リング通りをやや上方から見通した水彩画だ。遠近法に従っているのに平板。陰翳がほとんどない。このありきたりな絵の描き手が、世界をあのような悪夢に陥れたとは――。一瞬、背筋が凍った。
*1当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 「本読み by chance」2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月29日公開、通算624回
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外骨という骨ばった遊び心

今週の書物/
『学術小説 外骨という人がいた!』
赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊

濃霧

風刺の難しい時代である。目の前には、風刺したい世の中がある。世界のトップリーダーには、風刺したくなる人物が幾人もいる。そしてネット時代の今、私たちのだれもが風刺の発信に使える道具を手にした。それなのになぜ、難しいのか。

ひとことで言えば、風刺はやっぱり人の心を傷つけるのだ。相手が米国の大統領なら、あるいは日本国の首相なら、辛辣に笑い飛ばしてもよいだろう。なにしろ先方は、途方もない権力の持ち主なのだから――そんな了解事項が世の中には一応ある。いや、あったと言うべきか。だが、その通念が今は通りにくくなった。権力者の座にある人物を皮肉ることは、その人と同じ思考をする人々を皮肉ることになりかねないからだ。

ドナルド・トランプ氏の反知性主義を風刺することは、知的エリートに反発して彼に投票した多くの人々を風刺することになってしまう。それが本意でないなら、批判は真正面からするしかない。発言をファクトチェックして事実誤認を指摘する、というように。

かつて新聞の紙面では、政治漫画というアイテムが売りものだった。たいていはひとコマで、政治面の真ん中にドカンと置かれていた。当代一級の漫画家が政界の要人を似顔絵風に描いて、ニュースの裏事情を茶化す。活字によってはできない憂さ晴らしを絵に託している感があった。ところが、これも最近は地味にしか扱われない。記事の分量を減らしたくないからではあろうが、風刺に対する逆風を反映しているようにも見える。

新聞の政治漫画は、日本だけのものではない。少なくとも30年ほど前、私がロンドンに駐在していたときは現地紙に載っていた。そのころすでに欧州では女性の政治家が多かったから、彼女たちも風刺の標的になった。漫画に登場する彼女たちはたいていスカートを履いていて、そのスカート丈が茶化しのネタになることもあった。今なら、完全にアウトだろう。その女性政治家の背後にいる世界中の女性たちがどう感じるか、が問題なのだ。

では、風刺の時代は終わったのか。即答はできないが、終わったとは思いたくない。明らかな不合理がのしかかってくるのなら理屈で対抗すればよい。だが、世の中には、もやもやした不条理もある。それを吹き飛ばすには笑いのタネにするしかないではないか。

で、今週は『学術小説 外骨という人がいた!』(赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊)。風刺家の先人といえる明治大正昭和期のジャーナリスト宮武外骨の軌跡を自由気ままな筆致で描いた本。著者は、1937年生まれの画家であり作家。路上観察学会の活動でも知られる。尾辻克彦の名で書いた小説『父が消えた』で芥川賞も受けている。私が今回手にしたのは、1985年に白水社が刊行した単行本を文庫化したものだ。

ふつうこうした評伝風の本には、当該人物の略歴や横顔がどこかに要約されているものだが、この本は違う。本文はもとより、「はじめに」にも「あとがき」にも、それは出てこない。だから、複数の辞典類に目を通して、大づかみに頭に入れておこう。

外骨は幕末の1867年、讃岐(現・香川県)の富裕な農家に生まれた。1887年に東京で「頓智協会雑誌」を、1901年には大阪で「滑稽新聞」を創刊するなど、青年期から社会風刺を手がけた。この間、不敬罪で禁固刑を受けたこともある。一方、昭和期に入って1927年には、東京帝国大学で「明治新聞雑誌文庫」の管理を任されるなど、学術面の貢献も。意外だったのは、没年が1955年であること。私が4歳になるまでご存命だったのだ。

まずは、著者と外骨の出会いから。著者は1967年、東京・阿佐ヶ谷の古書店で買い込んだ外骨の雑誌に衝撃を受ける。「HEART 教育画報 ハート」(漢字は新字体に改める、以下も)の第2号。発行所として「滑稽新聞社」の名があり、刊行年は明治末期の1907年。まもなく、こんどは友人が荻窪の古書店で別の雑誌「スコブル」を掘りだしてくる。その第1号は大正期の1916年10月発行で、「宮武外骨主筆」の名が掲げられていた。

この本には、それぞれの雑誌の表紙が大きく載っている。「HEART」第2号は上半分に大きなハートマーク。下半分は「西洋新玩具」と銘打って、民俗学者が収集しそうな「不思議な形の人形類」を並べている。どこか、怪しげだ。一方、「スコブル」第1号は、題字下に人魚が腹ばいで横たわる、という絵柄。人魚の上半身は露わ、右ひじをついて顎を支え、その指先には筆記具が……。モダンを超えてポストモダンまで先取りした感がある。

著者によれば、そのころ、即ち1970年前後、知識人の間には外骨を「要するに奇人……だな」のひとことで片づける傾向があった。そこに見てとれるのは単行本文化だ。外骨流の「雑誌表現のやりくちに於いて目の覚める革命的手法」には目が届いていなかった、という。

外骨流の極意を「滑稽新聞」を素材に概説した箇所では、「面白さの要素」に「攻撃力」「エログロ表現」「絵遊び」「文字遊び」「毎号の表紙」の五つを挙げている。雑誌は、読むだけのものではない。見るもの、遊ぶものでもある、ということだろう。

この本は、表題に「学術小説」と角書きされているように、フィクション仕立てになっている。著者が先生となり、美学校の教室や武道館、後楽園球場、あるいは渋谷のガード下で、「滑稽新聞」について講義するのだ。これはと言う紙面をスライド画像にして「カシャン」「カシャン」と映していく、という趣向。それらの画像はこの本にそっくり載っているから、私たちも外骨の〈見て読む〉メディアの恩恵に浴することができる。

おもしろいのは、「文字のツラで意味の世界をぶっ叩く」という章だ。ここではまず、外骨流の小技が紹介される。「滑稽新聞」を出していたころ、世の中には言論活動をゆすり行為に悪用する新聞がはびこり、外骨はその「騙したり脅したり」の手口に同業者として腹を立てていた。そこでユスリ批判の一大キャンペーンを展開。このとき、「ユスリ」の3文字を「特別に太(ぶっと)い活字」にした。わざわざ印刷所に特注したのだという。

圧倒されるのは、新年号の附録。それは、本物の古新聞に墨書風の「滑稽新聞 新年附録」「紙屑買の大馬鹿者」の文字がでかでかと刷り込まれていた。こういうことだ――。「無差別にかき集めた古新聞」の切れ端を印刷機にかけた。「八万部ほどの附録が一点一点全部違うわけで、こんな豪華なことはありません」と、著者もあきれる。もはや古紙に過ぎないものに人を食った新しいメッセージ。紙1枚のモノ性と情報性を際立たせた妙技だ。

さらに度胆を抜かれるのは、「明治源内小野村夫之写真」。ここで、明治源内小野村夫は外骨の別名である。その顔らしき画像が、ほぼ1ページ大に印刷されている。と言っても、ほとんど黒一色。目や唇は白い。下段の記事には「無器械写真法」「肉体直接の実印」との説明も。「斯様な写真をとりたい人は自分の顔に墨を塗ッて」(ルビは省略、以下も)とあるが、外骨が本当に数万回、墨だらけの顔を紙に押しつけたとは思えない。

日露戦争下の「滑稽新聞」社説は、伏せ字の「○」だらけだ。実際、文字より○のほうが多い。著者は「お見事」とほめ、「しかしこの美しさは何でしょうか」と感嘆する。たしかに一種のアートに見えなくもない。だがどっこい、堂々社論も展開しているのだ。○でない部分の文字を飛び石を跳ぶように読んでいこう。「今の軍事当局者はつまらぬ事までも秘密秘密と云ふて新聞に書かさぬ事にして居る」と、言論統制を皮肉っている。

その戦争報道にも諧謔がある。ロシア艦隊が濃霧に包まれて見えにくい状況を、外骨は3種の文字で伝えた。「霧」の漢字が縦横にぎっしりと埋め尽くされるなか、「露艦」の2文字がところどころに紛れ込んでいる。「霧」と「露」が似ていることに着眼した視覚表現だ。

宮武外骨というと、反骨の人と思う。だが、ただ権力に盾ついていたわけではなさそうだ。世界をまるごと相手にして、その批評に遊び心を注ぎこんでいたのだ。風刺が成立するには、そんな心の余裕が欠かせない。それが今、失われつつあることを憂うる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年2月12日公開、通算561回
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