「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
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タクシーの推理、超ロング客の謎

今週の書物/
『一方通行――夜明日出夫の事件簿』
笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊

乗り場表示板

このところ、硬い本が続いた。ここらで、ちょっと息を抜こう。私の息抜きは、テレビの前に寝転がって、ひと昔前、ふた昔前の2時間ドラマをほろ酔い気分で観ることだ。今回は当欄も、同じような脱力状態で前世紀ミステリーの世界をさまよってみよう。

2時間ドラマの人気シリーズといえば、十津川警部、浅見光彦、霞夕子……と年齢性別さまざまな主人公がいる。夜明日出夫もその一人。「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系列)に、元警視庁捜査一課刑事のタクシー運転手として登場する。

「タクシードライバー…」は、定型化が際立つ2時間ドラマだ。たとえば、冒頭場面。渡瀬恒彦演じる夜明がハンドルを握っている。すると、後部座席で大島蓉子演じる中年女性客が、わがままを言ってひと騒動引き起こす――。いつの間にか定着した前振りの賑やかしだ。ただ、ドラマの本筋とは関係ない。ドタバタが一段落して、次に乗ってくる〈2番目の客〉が問題人物。どこか謎めいている。こうして視聴者は事件を予感する。

シリーズは回を重ねるごとに、こんな〈お約束〉が生まれ、視聴者が筋の流れを読めるようになった。夜明は〈2番目の客〉の信頼を勝ち得て、ご指名で迎車を頼まれるほどになる。無線で駆けつけた〈2番目の客〉の仕事場は、偶然にも夜明の娘あゆみが働くアルバイト先だった。親子は、そこでばったり対面する……。細部にまで定型ギャグが張りめぐらされている。規格化された部材で組み立てられたプレファブ建築のようだ。

実は、この定型化こそ2時間ドラマの魅力だ。「タクシードライバー…」は、始まって10分ほどで犯人の目星がつく。30分もすれば事件の構図が見通せる。あとはウトウトしていてもいい――。これは、2時間ドラマの商品価値の一つと言ってもよい。

「タクシードライバー…」シリーズについては実は6年前、当欄の前身ブログでもとりあげている()。あのときは「定型化」を別の視点から説明した。その一節はこうだ。

《このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある》

この推察は、さほど見当違いではなかろう。テレビドラマには、小説にない制約がある。登場人物の顔がすべて公開されていることだ。美しいが翳のある女優が画面に現れたら、フーダニットの答えは見えているも同然ではないか。だから、制作陣はフーダニットを最初からあきらめ、別の選択をした。事は予想通りに運ぶ。その結果、安心して観ていられる。この価値を極大化したのが「タクシードライバー…」シリーズだと言ってよい。

では、シリーズの原作はどうか。

今週は、『一方通行――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊)を読む。1992年、「小説現代」臨時増刊に発表された長編推理小説。同年、「講談社ノベルス」の1冊としても刊行されている。著者が1990年から手がけた夜明日出夫ものの第6作に当たる。調べてみると、この1編も1994年、シリーズ第4作としてドラマ化されている。〈2番目の客〉となるのがめずらしく男性で、その役を寺尾聰が演じたらしい。

原作の冒頭部はどうか。冬の午後、夜明は東京・江古田界隈を走っている。乗客は女子高校生らしい二人。「そこで、停めて!」といきなり叫ぶ。メーター料金をきっかり2で割り、それぞれ千円札と小銭を出しあう。マイペースだが、大島蓉子ほどの毒気はない。

この小説には、前振りがもう一つある。女子二人が降りた後、「ドロボー」という絶叫が聞こえてくる。バイク男が女性の通行人からハンドバッグを奪ったのだ。夜明はタクシーの向きを変えてバイクの行く手を阻み、ひったくり犯がバイクを乗り捨てて逃げようとするところを取り押さえた。パトカーが駆けつけたとき、最年長の警官が驚いたように言う。「ああ、夜明警部補じゃありませんか」。この一幕はテレビでも見た記憶がある。

〈2番目の客〉は、原作も男性だった。40代後半か。黒のスーツを三つ揃いで着こなしている。サングラスで目もとを隠しているが、「知的で繊細で、いわゆるインテリの顔」だ。とりあえずの行き先は、神奈川県の川崎港。18時発のフェリーに乗るのだという。

男は江古田に自宅があるが、訳あって5年間も東京を離れていた。最近帰京したが、ホテル住まい。家には妻がいるのに帰宅しない。今も門の前までは行ったが、呼び鈴ひとつ鳴らさず、引き返してきたという。謎だらけだ。〈2番目の客〉の必須要件を満たしている。

その男が、車内の運転手表示を見て「夜明日出夫さんか」と独りごとのように言い、爆弾提案をする。「夜明さんにも、旅行に付き合ってもらうわけにはいきませんかね」。自身の名が「井狩真矢(しんや)」であること、今回は船で宮崎県日向に渡り、そこから陸路で九州を横断、長崎県の雲仙温泉で泊まるつもりであることを打ち明けた。「ブラッと出かける」旅だ。飛行機でひとっ飛びしないのも「旅の途中」を大事にしたいからだという。

井狩の考えでは、九州では陸上区間のすべてをタクシー1台にまかせる。ということは、全行程で運転手を束縛することになる。井狩はフェリー代や高速道路料金、宿泊費を負担したうえで、往復の走行の対価として45万円を支払うという。運転手の立場でいえば、願ってもない長距離(ロング)の客だ。夜明は、テレビでもこの手の上客にしばしば恵まれて「ロングの夜明」の異名をとるが、これほどの「超ロング」はめったにない。

井狩がもちかけた話は不自然だ。「旅の途中」を楽しみたいなら九州上陸後にタクシーを借り切ればよい。なぜ、フェリーの船旅にまで東京のタクシー運転手を車付きで同行させるのか。井狩は、日向でタクシーをつかまえて雲仙までと頼むのが「何となく面倒で億劫」と言うのだが、説得力はない。ただ、不自然さが漂うからこそ、なにか底意を感じてしまう。井狩の胸中にどんな企みがあるのか、読者もあれこれ思いをめぐらすことになる。

作中には、運転手側の事情も書かれている。1)突然ロングの発注を受けると営業所への帰庫時間を守れない2)タクシーは二人の運転手が1台を交代で使っているので、一人が何日間も乗るには相方の了解がいる3)昼夜ぶっ通しの仕事は二人一組で引き受けるのが原則――。法令から当局の指導、営業所の規則まで、運転手には諸々の縛りがある。その一方で、ロングが一定距離以上に及ぶなら客の求めを断ることも認められているらしい。

ただ、今回は幸運にも上記三つの難関を切り抜けられそうだった。このころ、業界は運転手不足が深刻で1台に二人を割り当てることが難しくなり、夜明は1台を独占していたからだ。これで1)と2)は突破できる。3)は労働時間の制限にかかわるので微妙だが、フェリー乗船中は「事実上、乗務しないで休んでいる」から営業所も容認するはず、と夜明は勝手に決め込んだ。これが、現実社会に通用する理屈かどうかはわからない。

九州旅行まるごとのロング走行は、乗客からみて常識を逸しているだけではなく、運転手の側からみても想定外だった。にもかかわらず、この作品は無理を通して夜明に超ロングを押しつけている。それができるのも、エンタメ小説の特権だろう。ちなみに本作のテレビ版では、井狩が雲仙温泉に行ってくれとは言わない。目的地は栃木県・川治温泉。ロングではあるが超ロングではない。テレビのほうが現実的ということだろうか。

この小説もドラマ同様、タクシーにロングの客が現れた時点で犯人探しのハラハラ感は薄れている。フーダニット路線は、原作でも半ば放棄されていたのだ。読者は読み進むうち、犯人にどんな動機があり、どのようなトリックを使って犯行に及んだのかというハウダニット(howdunit)に引き寄せられていく。井狩の言葉を借りて言えば、タクシーものミステリーの読みどころは犯人特定という目的地ではなく、「旅の途中」にある。
* 「本読み by chance」2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ
☆ 引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月2日公開、通算680回
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今年は、なんでも覚悟する

今週の書物/
スベトラーナ・アレクシエービッチさんにインタビュー
朝日新聞2023年1月1日朝刊

新春(*1)

1年前は的外れだった。2022年年頭の当欄には、国政が改憲に向かって動くとの見立てがあった(2022年1月7日付「社説にみる改憲機運の落とし穴)。ところが、現実はそれをスキップした。私たちの眼前には、もうすでにキナ臭い世界がある。

ロシアによるウクライナ侵攻が2月に勃発した。大国の軍隊が隣国にずかずかと入り込んで武力を行使する――その「軍事行動」にはいろいろな理由づけがなされたが、説得力はない。今日の国際社会の常識に照らせば、暴挙というほかなかった。

予想外の事態が突然出現したため、日本国内の世論も一気に防衛力増強へ傾いた。その風向きに便乗するかのように、政府は現行憲法の生命線である専守防衛の原則を拡大解釈して、敵基地攻撃能力を備えることにした。事実上の改憲といえるのではないか。

ウクライナ侵攻が日本社会に拙速な変更をもたらしたのは、それだけではない。原子力政策がそうだ。ロシアは石油や天然ガスの輸出大国なので、侵攻に対する西側諸国の経済制裁はエネルギー需給を逼迫させた。その一方で、国際社会の課題として地球温暖化を抑えるための脱炭素化がある。これで息を吹き返したのが、原発活用論だ。その追い風を受けて、日本政府は原発の新規建造や60年間超の運転を認める政策に舵を切った。

見通しの悪さをいえば、コロナ禍に対しても見方が甘かった。1年前の冬、日本では感染の第6波が立ちあがっていたが、それも春夏には収まるだろう、という希望的予感があった。だが、実際はどうか。6波のあとも7波、8波に見舞われている。

コロナ禍では、私たちの意識も変わった。政府はこの1年で行動規制を緩めた。社会を動かさなければ経済は回らない。人々の我慢も限界に達している。そんな事情があって、オミクロン株は従来株と比べて感染力は高いが重症化リスクが低い、というデータに飛びついたのだ。とはいえ緩和策で感染者がふえれば、それに引きずられて重症者も増加する。コロナ禍の実害をやむなく受け入れる感覚が、世の中に居座った感がある。

ウクライナ侵攻の突発、いつまでも終わらないコロナ禍――予想外のことがもとで心はぐらつき、世の中も変容した。私たちは引きつづき、そんな事象に取り囲まれている。2023年も何が起こるかわからない。相当の覚悟を決めなくてはなるまい。

で今週の書物は、私の古巣朝日新聞の元日紙面。ぱらぱらめくっていくと、オピニオン欄の表題に「『覚悟』の時代に」とあった。今年のキーワードは、やはり「覚悟」なのか。

とりあげたい記事はたくさんあるが、今回はベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)へのインタビューに焦点を当てる。第1面から2面にかけて展開された大型記事だ。1面トップに据えられた前文によれば、取材陣(文・根本晃記者、写真・関田航記者)は11月下旬、彼女が今住んでいるベルリンの自宅を訪れたという。先週の当欄に書いたように、秋口から準備を進めてきた新年企画なのだろう(*2)。

インタビューの主題はロシアのウクライナ侵攻だ。1面トップを飾ったアレクシエービッチさんの横顔は憂いをたたえている。おそらくは、ウクライナの苛酷な現実に思いをめぐらせてのことだろう。その表情を写真に収めた関田記者が大みそか、滞在先のキーウでロシアのミサイルによると思われる攻撃に遭い、足にけがをしたという記事が同じ朝刊の別のページに載っている。現地の緊迫感が伝わってくるようなめぐりあわせだ。

アレクシエービッチさんは、どんな人か。前文にはこう要約されている。旧ソ連ウクライナ生まれ。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。執筆に用いてきた言語はロシア語。旧ソ連のアフガン侵攻やチェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故に目を向け、「社会や時代の犠牲となった『小さき人々』の声につぶさに耳を傾けてきた」。当欄の前身「本読み by chance」も、彼女がノーベル文学賞を受けた2015年、その著作を紹介している(*3)。

ではさっそく、インタビュー本文に入ろう。アレクシエービッチさんはウクライナ侵攻の第一報に触れたとき、「ただただ涙がこぼれました」と打ち明ける。ロシア文化になじみ、ロシアが「大好き」な人間なので「戦争が始まるなんて到底信じられなかった」。

その一方で彼女は、「戦争は美しい」と主張する男性に取材した経験を語る。「夜の野原で砲弾が飛んでいる姿はとても美しい」「美しい瞬間があるんだ」――そんな悪魔的な言葉を引いて、彼女は戦争には「人間の心を支配してしまうようなものがある」と指摘する。

「ウクライナ侵攻では人間から獣がはい出しています」。インタビューでは、そんな衝撃的な言葉もとび出す。作家は「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に仕事をしているというのが、彼女の持論だ。「文学は人間を育み、人々の心を強くしなければなりません」。名前が挙がるのはロシアの文豪たち。「ドストエフスキーやトルストイは、人間がなぜ獣に変貌(へんぼう)するのか理解しようとしてきました」という。

聞き手の記者が、ウクライナ侵攻ではロシア軍の占拠地域で「残虐な行為」が相次いだことに水を向けると、彼女も「なぜ、こうもすぐに人間の文化的な部分が失われてしまうのでしょうか」と慨嘆している。では、何が原因でロシア社会に「獣」性が現れたのか。

その答えをアレクシエービッチさんは用意していた。「ロシア人を獣にしたのはテレビ」と言い切るのだ。ロシアのテレビメディアが数年前から、プーチン政権の意向に沿ってウクライナを敵視する報道をしてきたことにロシア人の多くが影響された、という。

一例は、ウクライナで捕虜になったロシア兵と郷里の母親との電話のやりとりだ。兵士が「ここにはナチはいない」と言うと、母は「誰に吹き込まれたの」と突っぱねた。反論の論拠にしたのは、ロシアのテレビ報道だったという。電話はウクライナ側が「実情を伝えれば解放してやる」と促したものだそうだから、兵士の言葉にも吟味は必要だろう。ただ、ロシアでテレビが伝えるウクライナ像の多くが歪んでいることは間違いなさそうだ。

率直に言えば、この説明には若干の違和感がある。今の時代、テレビにそれほどまでの影響力があるのか、と思われるからだ。ロシアの人々も、高齢世代を除けばSNSに馴染んでいるだろう。だから、テレビ報道が政府寄りに偏っても、偏りはすぐばれるのではないか。SNSにも規制がかかっているらしいが、SNSの不自由さは目に見えるかたちで現れるので、メディア統制の意図をかえって見抜かれてしまうのではないか――。

とはいえ、「人間から獣が」出てきたようなウクライナの現実に、一方的な情報が関与しているのは確かだ。その意味で、アレクシエービッチさんの言葉は、私たちへの警告となる。日本社会に、あからさまなメディア統制はない。SNSは、ほとんど言いたい放題だ。だが、それがかえって付和雷同のうねりを生みだすことがある。政府は、その波に乗っかって権力を行使しようとする。私たちは、情報社会の高度な不気味さに包まれている。

私たちが今年、最悪の事態として覚悟しなければならないのは、武力行使やコロナ禍が延々と続くことだけではない。一方的な情報の波に対しても身構えなければならないだろう。なぜならその波にのまれることが、事態をいっそう悪い方向へ動かしてしまうからだ。

アレクシエービッチさんは、絶望に直面する人の「よりどころ」は「日常そのもの」であり、それは「朝のコーヒーの一杯でもよい」と言う。そういえば、けさのコーヒーは苦いけれど心をほっとさせてくれた。2023年が、そんなコーヒーのようであればよいと思う。

*1 新聞は、朝日新聞2023年1月1日朝刊(東京本社最終版)
*2 当欄2022年12月30日付「大晦日、人はなぜ区切るのか
*3 「本読み by chance」2015年10月16日付「ベラルーシ作家にノーベル賞の意味
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月6日公開、通算660回
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女王去って連邦は悩む

今週の書物/
読売新聞、東京新聞、朝日新聞各紙の2022年9月20日付朝刊

王室

英国はすごい、と目を見張ったのは1994年、ネルソン・マンデラ大統領の新体制となった南アフリカ共和国が直ちに英連邦(the Commonwealth)に再加盟したこと、そして翌年、エリザベス英女王の訪問を手厚く迎えたことだ。人種隔離政策アパルトヘイトによる「白人支配」を終わらせた政権がなぜ、かつて植民地支配していた旧宗主国になじみ、微笑みかけようとするのか。この展開に驚いた人や首を捻った人もいたに違いない。

南アは1931年に独立すると英連邦に加わるが、1961年には離脱している。人種隔離政策に国際社会の批判が集まっていたことが背景にある。その政策を捨てたのだから、元に戻れるということなのだろう。だが、わざわざ戻る必要もないではないか。

そのころ、私はロンドン駐在だった。新政権の樹立を挟む1993年と1995年には任地から南アへ出張もした。目的は南アの核兵器放棄について取材することだったが、その合間に現地で人種間の緊張も垣間見た。たとえば、タクシーで「黒人」の運転手と世間話をしていると、辛辣な「白人」観を聞かされたものだ。ただ、このとき「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系住人は散々な言われ方だったが、英国系はさほど嫌われていなかった。

運転手との世間話という小さな私的体験を根拠に英国の植民地主義をどうこう言うことは控えるべきだろう――そう自戒していたときに英女王の南ア訪問があったのだ。私が現地で受けた印象はあながち的外れではなかった。これは、大英帝国の植民地統治が巧妙だったのか。それとも、南アには欧州の入植者が複数の民族だったという特殊事情があって、英国系が相対的に善玉扱いされたということなのか。私には即断できない。

で今週は、書籍ではなく、エリザベス女王の国葬報道で英連邦を考えてみる。

私は女王国葬の当日、葬儀と葬列を米CNNでずっと見ていた。もっとも印象に残ったのは、英連邦に対する配慮が半端ではない、ということだった。葬儀の冒頭、要人たちが聖書を読む場面で、英国のリズ・トラス首相よりも先に朗読に立ったのがパトリシア・スコットランドという女性だ。肩書は「英連邦事務総長」。帽子の陰から褐色の顔がのぞく。この葬儀が、英国というよりも英連邦のものであることを感じさせる式次第だった。

スコットランド事務総長の横顔に触れておこう。英連邦の公式サイトによると、彼女はドミニカ国生まれ、カリブ海諸国出身では二人目、女性としては初の事務総長だという。いや、それだけを紹介したのでは不十分だ。英文ウィキペディアには、彼女が英国の外交官、弁護士であり、労働党の政治家だという記述がある。「英国とドミニカ国の二重国籍である」とも書かれている。この二重性こそが英連邦のありようを体現しているように思われる。

そもそも、英連邦とは何か。公式サイトにある一文を訳せば、こうなる。「英連邦は、対等な関係にある56の独立国の自発的意思にもとづく連合体である」――ただ、原文に「英連邦」はなく、“The Commonwealth”とあるだけ。「英連邦」は訳語に過ぎない。サイトには「加盟国政府は、開発や民主主義、平和のような目標を共有することで合意している」とも書かれている。この連合体は、ただの仲良しクラブということか。

ところが話は、そう簡単ではない。連邦は二重構造なのだ。そのことは英連邦の公式サイトに明記されていないが、英王室の公式サイトに入るとわかる。“Commonwealth realms”という用語が出てくるのだ。「エリザベス女王を君主とする国」(当欄の公開時点では、この記述が女王存命時のままとなっている)を指すという。邦訳は「英連邦王国」。英国以外の英連邦加盟国のうち14カ国は、英国と同一の人物を君主としているのである。

独立、対等を旨とする国々の連合体でありながら、加盟国の約4分の1はうち一つの国の君主を自国の君主に定めている。英連邦王国のつながりはふつう〈同君連合〉とみなされないが、形式的にはそう呼んでもおかしくない状態にある。矛盾を含む構造である。

その英連邦が、国葬で格別の扱いを受けたのは聖書朗読だけではなかった。読売新聞のロンドン電は「参列者の席順/英連邦を重視」と伝えている。会場では、女王の棺に近いところから英連邦王国、そのほかの英連邦諸国の順に参列者の席が並んだという。記事は、米国大統領に用意された座席が14列目だったという地元の報道に触れ、英国は英米関係を特別視しているが「国葬では英連邦の関係性を優先させた」と分析している。

東京新聞は、英連邦に焦点を当てたロンドン電でこんな見方もしている。「欧州連合(EU)からの離脱で国際的な評価が傷ついた英国は、以前よりも英連邦を重視している」。これも腑に落ちる指摘だ。私の実感では、英国人の欧州大陸に対する距離感は私たちが想像するよりも大きく、アジア・アフリカに対するそれは想像以上に小さい。このことは、英国メディアがどんな国際ニュースを頻繁にとりあげているかを見るとよくわかる。

手厚いアジア・アフリカ報道からは旧宗主国の〈上から目線〉も感じられる。だが、それだけではない。英国には、旧植民地からやって来た人々やその子孫が大勢いる。そのなかには、前述のスコットランド氏や先日の保守党党首選を最後まで争ったリシ・スナク氏のように社会の中枢を占める人たちもいる。英国は多民族社会であり、英連邦はそれを支える〈ふるさと連合〉なのだ。ただ、それはあくまで英国側の視点に立った話と言えよう。

現実に、英連邦の内部には反発もある。朝日新聞国際面の記事は「アフリカ大陸からは、女王への追悼の声が上がる一方で、英国の過去の植民支配や弾圧への憤りも聞かれた」としている。「憤り」の例に挙がるのは、ケニア人女性のツイッター発信だ。1950~60年代の独立闘争では祖父母世代が英国に「弾圧された」、だから自分は女王を「追悼することができない」――。これを読むと、私が南アで受けた印象はやはり例外的なのかとも思う。

英連邦王国では、その変則的な君主制に対して違和感が生じているようだ。同じ朝日新聞国際面の記事によると、英連邦王国の一つ、カナダのトルドー政権は国葬当日を休日扱いにしたが、国内にはこれに同調しない州も複数あったという。かつてフランス人の入植も盛んで、フランス語で暮らす人々が多いケベック州はその一つ。州首相は「子どもの登校日を減らすのは避けたい。パンデミックで既に、十分だ」と語ったという。

同様に英連邦王国であるオーストラリアには、君主制をやめようという動きがある。「与党労働党は共和制移行を党方針に掲げている」(東京新聞)、「アルバニージー首相は共和制移行に向けた議論をするため、担当副大臣を任命した」(朝日新聞)という状況なのだ。女王への追悼機運で移行にブレーキがかかっているようだが、英連邦王国の人々には、なぜ王様を海の向こうから借りてこなくてはならないのか、という思いもあるだろう。

東京新聞のロンドン電には思わず苦笑した言葉がある。女王弔問の列に並んでいた人から聞きとったひとことだ。その人の妹は英連邦王国の一つ、ニュージーランドに在住だが、「共和制になったら『変な大統領』が誕生しかねない」と心配している、という。この懸念は、ここ10年ほどで急に現実味を帯びるようになった。君主制をやめるときには「変な大統領」が出てこないしくみを考えなくてはならない。これは心にとめておくべきだろう。

それにしても、である。私たちは――少なくとも私は――英女王の国葬にうっとり見とれてしまった。そこには、生涯の職務を全うした人に対する敬意があった。伝統に裏打ちされた厳かさがあった。そしてなによりも、美しかった。と同時に、凋落した旧帝国の思惑が見え隠れしていた。過去の植民地支配の苦い記憶も聞こえてきた。さらに、君主制懐疑の風も吹きつけている。女王は死してなお、歴史を映す鏡になっているとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月30日公開、通算646回
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