ノーベル物理学賞が一線を越えた

今週の書物/
2020
年ノーベル物理学賞発表資料(下の画像はその一部)
スウェーデン王立科学アカデミー

特異点

ノーベル賞の発表資料、とりわけ理系3賞のそれは、なかなか読み応えがある。

中身の難解さは超一級。論文で読めば、術語だらけ、数式交じりということになろう。ところが、発表資料のうちでもプレスリリース即ち報道用の資料や一般向けの解説は、タウン誌さながらの平たい文章で書かれている。その落差にこそ値打ちがある。

無署名の文書だ。だれが書いているのだろうか。いつも、そう訝る。建前から言えば、賞の選考にあたった科学者の一人とみるべきだろうが、それにしては文章がこなれている。手練れの科学ジャーナリストか、あるいは、それに類する人の手になるものか?――というのが10月9日公開時の当稿だった。だが、ここで私は誤った。その後、ノーベル賞のウェブサイトを調べたら、資料によっては筆者の署名が入っていることがわかったのだ。

たとえば今年、物理学賞や化学賞の一般向け解説として出された資料には、文末に小さな文字で筆者名が記されている。ネットで検索すると、その人と思われる科学ライターやジャーナリストが実在する。やはり、メディア系の人物が資料づくりにかかわっていたのだ。そうか、ノーベル賞の選考情報は候補者を絞り込んだ段階になって、わが業界の仲間たちの手に渡っていたのだ。この人たちと友だちになっていればよかった、とつくづく思う。

それにしても、ノーベル賞の選考経過はめったに漏れない。2010年、医学生理学賞を地元スウェーデン紙がすっぱ抜いた例が思いだされるくらいだ。執筆を頼まれた書き手は、発表資料という媒体に特ダネを出稿するようなつもりで秘密を厳守しているのだろう。

発表資料の文章が「こなれている」とはどういうことか。専門の話をかみ砕いて伝えていることは間違いない。だが、それだけではない。選考時の議論をしっかり踏まえているからだろうが、受賞研究の価値を的確にえぐり出している。科学研究をめぐる記述は、それが価値評価の次元に及んだとき、もはや術語や数式は要らなくなる。日常の言葉で語ることができるのだ。だから、タウン誌同様、平明であっても不思議はない。

で、今週の「書物」は、ノーベル各賞の発表資料。この文書は、去年も物理学賞と平和賞について当欄の前身「本読み by chance」でとりあげている(2019年10月11日付「ノーベル賞がETを視野に入れた日」、2019年10月18日付「平和賞があえて政治家を選んだわけ」)。今年は2回に分けて、理系各賞の発表資料から、これはという読みどころを拾いあげよう。今週はまず、10月6日に発表された物理学賞に目を向けてみる。

物理学賞は、ブラックホールの研究者3人に贈られる。英国のロジャー・ペンローズは1965年、ブラックホールの形成が一般相対論から導きだせることを示した。ドイツのラインハルト・ゲンツェル、米国のアンドレア・ゲズは1990年代以来初頭の天体観測で、銀河系の中心に超大質量高密度の天体が存在することを確認した。太陽の400万倍もの質量が太陽系ほどの領域に詰まっている。ブラックホールがあるに違いなかった(敬称略、以下も)。

今回の選考結果で興味深いのは、2年続きで宇宙・天文分野が選ばれたことだ(前述の「ノーベル賞がETを視野に入れた日」参照)。しかも、受賞者の構成が理論家1人、観測家2人というのも同じ。理論家が一角を占めたのは、宇宙物理学の現況を反映している。

ノーベル賞は手堅いので、検証が難しい研究は敬遠される。だから、宇宙物理の理論家、即ち宇宙論の学者は不利だった。あのスティーヴン・ホーキング(1942~2018)が受賞に縁がなかった理由の一つもそこにある。ところが、ここ数十年で宇宙観測の技術が格段に進歩した。可視光を含む電磁波や素粒子を精度良くとらえる機器が、地上や地下や宇宙空間に勢ぞろいしてきた。理論家の仕事が観測で裏打ちされる時代に入ったのだ。

ここでは、そんな宇宙論学者ペンローズ(1931~)に焦点を当てる。ただ、この人は宇宙のことだけを考えているのではない。「ペンローズのタイル貼り」という幾何模様で有名な数学者でもある。心とは何か、という人文系の難題にも挑んで著書を出している。ホーキングとは同分野の人。好奇心旺盛なところも似ている。私は現役時代、覚えている限りで計3回、取材の機会を得た。至言をいくつか聞いているが、その紹介は別の機会に譲ろう。

今回の発表を聞いて、私には一つ疑問が湧いた。ブラックホールを予言したのはペンローズが初めてだったのか、ということだ。答えは、発表資料のうち一般向け解説で明かされている。「いま私たちがブラックホールと呼ぶものの最初の理論的な記述は、一般相対論の発表後、数週間のうちに出ている」。プレスリリースにも、アインシュタインがブラックホールの実在を信じなかったという話が出てくる。概念そのものは早くからあったのだ。

では、ペンローズのブラックホールはどこが違うのか。一般向け解説によると、違いは「特異点定理」にあるらしい。特異点では、物質の密度が無限大であり、空間も時間も止まって既知の法則は破綻する。彼は、それを組み込んだブラックホール像を描きだしたのだ。その描像では、「事象の地平線」と呼ばれる境目の内側で時間が空間に取って代わる。吸い込まれた物質はすべて時間の流れに乗って最奥の特異点まで運ばれ、そこで時間も止まる。

このような筋書きで、物体が自らの重みで潰れたときにブラックホールをかたちづくることを「現実的な解」として示したのが、ペンローズの理論だった。

では、プレスリリースでもっとも印象に残る記述を挙げよう。ペンローズがブラックホールの細密に描きだしたことを述べた後、このように書かれている。“at their heart, black holes hide a singularity in which all the known laws of nature cease.”

「ブラックホールは、その心臓部に特異点を隠しもっている。その一点では、私たちが知っている自然法則のすべてが停止する」。これは、ノーベル賞が一線を踏み越え、現代物理学の枠外にある無法地帯――地帯というより地点だが――を認めたとも読みとれる。

さて、ゲンツェル、ゲズそれぞれのグループが、銀河系中心のブラックホールの存在を確信したのは、周辺の天体運動を精密に測定したからだった。特異点という抽象的な存在を具体的な現象で裏づけたことになる。だからこそ、ノーベル賞も一線を越えられたのだろう。

最後にもう一度、ホーキングの話を。実は彼も1960年代、ペンローズとともに特異点定理の研究をしている。あと3年ほど長生きしていたら、今回の受賞者に名を連ねることもあったのではないか? 一瞬そんなふうにも思ったが、それはちょっと違う。

ホーキングは著書『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)で、1965年に「ペンローズの定理について読んだ」と述べている。その定理では、重力崩壊する物体は「最後には特異点をつくる」としていた。これこそが、今回の受賞研究だ。どうやら、特異点の探究では、10歳ほど年長のペンローズに一日の長があったとみて間違いないらしい。

ホーキング自身が特異点の研究で注目を集めるようになったのは、1970年にペンローズとの共著論文を発表してからだ。この論文は、一般相対論が成り立てば、宇宙の始まりに「ビッグバン特異点」があるはずだとの見方を示していた。彼はその後、この特異点を消し去るべく、自らの宇宙論に虚時間の世界をもち込むのだ。(「本読み by chance」2018年3月30日付「ホーキングの虚時間を熟読吟味する」)

宇宙観測の技術は、日進月歩で進んでいる。だが、宇宙の始まりに特異点があるかどうか、そこに虚時間があるかどうかの判別は簡単ではない。ホーキングは没後の今も、ノーベル賞から遠いところで讃えられる科学者であり続ける。それはそれで、よいことではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月9日公開、同年11月9日最終更新、通算543回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

村上春樹で思う父子という関係

今週の書物/
『猫を棄てる――父親について語るとき』
村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊

猫帰る

村上春樹が少年期を振り返って父親とのことを書いたというのは、私にとって驚きだった。『猫を棄てる――父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊)。この人の小説は、エピソードの切りとり方こそ日常感覚にあふれているが、そこに抜きんでた空想力をもち込んで、ぶっ飛んだ物語世界に私たちを誘い込む。ところが今回は、あたかも私小説作家のように自らの個人史を晒して、一冊の書物にしたのだという。

もっとも、これを小説として読むのは誤りだ。巻末の「小さな歴史のかけら」と題するあとがきで、著者はこの一編を「文章」とのみ称している。その完成度からみて〈作品〉とみなしてよいと私は思うが、それはフィクションでもエッセイでもない。

初出は、月刊『文藝春秋』の2019年6月号。「文章」の長さは中編小説ほどのものなので、ほかの作品と併せて単行本にするという選択肢もあったが、あえて「独立した一冊の小さな本」にしたという。あとがきには「内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかったからだ」とある。著者自身も、この作品が小説家村上春樹の世界から外れていることを認めているのである。

もう少し、あとがきにこだわろう。著者には「亡くなった父親のことはいつか、まとまったかたちで文章にしなくてはならない」という思いがあり、「そのことが喉にひっかかった小骨のように、僕の心に長い間わだかまっていた」という。

私は、この吐露に納得した。実は、私も今年、父を失っている。97歳の静かな死だったから天寿を全うしたと言ってよいだろう。父と私との関係は平凡だった。確執はなかったが、仲が良かったわけでもない。少年時代にキャッチボールをした、日曜大工を手伝った、という思い出もないのだから、淡白な間柄だった。だが、死のその日から、父のことを思いめぐらすようになった。著者の心にも同じような転回があったのかもしれない。

父は子にとって、とりわけ息子にとって、そういう存在であることがままあるのだろう。その人が存在しているときは紐帯を自覚することがない。ところが非存在となったとたん、その紐帯の絡みつくさまがにわかに浮かびあがってくる。なんと逆説めいていることか。

で今週は、この本をとりあげる。冒頭、表題のエピソードが「父親に関して覚えていること」の一つとして披歴される。一家が兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)に住んでいたころ、「海辺に一匹の猫を棄てに行ったことがある」。飼っていたのか、それともただ居ついていただけなのかもはっきりしない雌猫。「昭和30年代の初め」のことらしい。当時は、猫を棄てることが「とくに世間からうしろ指を差されるような行為ではなかった」。

著者は1949年生まれだから、まだ子どもだ。父が漕ぐ自転車の後ろにまたがって猫の入った箱を抱え、海辺へ向かった。父子は香櫨園(こうろえん)の浜まで2キロほど走り、防風林で猫に別れを告げ、家路を急いだ。で、玄関を開けたときのことだ。「さっき棄ててきたはずの猫が『にゃあ』と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた」のである。父は「呆然」とし、次いで「感心」して、最後には「いくらかほっとした」表情を見せたという。

ここで私には一つ、思いあたることがある。少年期の記憶はどこかぼやけていて、大人になって思い返すときに改編されていたりするものだ。著者を疑うつもりはないが、この猫の先回りにもそんなトリックがあるのかもしれない。父子はまっすぐではなく、回り道して帰宅したのではないか。棄て場所は浜ではなく、もっと近所だったのではないか。いや、そもそも、猫を棄てに出かけてはいなかったのかもしれない……。

著者自身、猫が自分の「友だち」であり、家族とも「仲良く」やっていたことを振り返り、「どうしてその猫を海岸に棄てに行かなくてはならなかったのだろう?」「なぜ僕はそのことに対して異議を唱えなかったのだろう?」と自問している。

もう一つ、父の思い出として特記されているのは、朝食前に「長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたこと」だ。父は、京都の由緒ある寺の住職の次男だった。自身は阪神間の中高一貫校で国語教師になったが、読経の習慣は身についていた。異彩を放つのは、そのお経を毎朝、何に対して唱えていたかだ。父の前にあるのは、いわゆる仏壇ではなかった。代わりに「美しく細かく彫られた小さな菩薩」を入れたガラスケースが置かれていた。

著者は、子ども心に理由を知りたくて「誰のために」と聞いたことがあった。父は、「前の戦争で死んでいった人たちのため」「仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのため」と答えた。著者の問いかけは、そこで止まる。「おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かが――場の空気のようなものが――あったのだと思う」。そうだ、戦後世代の私たちは先行世代と心を通わせようとすると、いつもこの壁にぶち当たるのだ。

著者は、このあたりから父の個人史を描きはじめる。それは、この一編のお肉の部分なので細部に立ち入らない。「文章」とは言っても、やはり稀代の小説家村上春樹の作品なのだ。物語としても十分に読めるのだから、ネタをばらすようなことは控えたいと思う。

私が目をとめたのは、この個人史のぼやけやゆらぎだ。著者の記憶には、もともと父の軌跡がとどめられてはいた。ところが父の没後、それが欠陥だらけであることが著者自身の調査によってわかってくる。そこに読みものとしての魅力も生まれている。

一例を挙げれば、父の軍歴。父は、旧制中学校を出て仏教系の専門学校に在学中、兵隊にとられる。20歳だった。著者は、そのときに父が入営した部隊名を間違って覚えていた。間違ったまま放置されていたのはなぜか。それは、配属先と信じ込んでいた部隊がある事件とかかわっており、父に対するもやもやした疑念を生んでいたからだ。「生前の父に直接、戦争中の話を詳しく訊こうという気持ちにもなれなかった」と、著者は告白する。

父は2008年、90歳で永眠した。息子が「何も訊かないまま」、父が「何も語らないまま」、父子は世界を分かつことになったのだ。それで著者は調査に乗りだして、父の配属先が別の部隊とわかり、疑念も晴れた。「ひとつ重しが取れたような感覚があった」という。

父は1938年、中国大陸の戦線に送り込まれた。1年で除隊後、専門学校に復学して卒業したが、1941年に再び召集される。ところが2カ月後、上官から「召集解除」を言い渡されたという。著者が「父から聞いた話」では、上官は父が京都帝国大学の学生であることを慮って「学問に励んだ方がお国のため」と告げたというのだが、信じ難い。著者も「そんなことが一人の上官の裁量でできるものかどうか、僕にはよくわからない」と懐疑的だ。

実際、父は京大に進み、文学を学び、卒業した。だが、著者が京大の名簿に当たってみると、父の入学は1944年だった。「子供の頃に僕が聞かされた――聞かされたと記憶している――話」は「残念ながら事実にはそぐわない」と、途方に暮れるのだ。

ただ、父がこの話をするとき、「上官のおかげで命を助けられた」と言っていたことには重みがある。1941年に父が入営した師団は戦争末期、ビルマ戦線でほとんど壊滅状態になったからだ。父が最初の兵役で所属した師団も日米開戦後、中国大陸からフィリピンの激戦地へ転戦させられたので、除隊が延びていればこちらで戦死した可能性もある。「そうなればもちろん僕もこの世界には存在していなかったことになる」と、著者は書く。

この一編は、ぼやけてゆらぐ記憶のかたまりだ。もっとも衝撃的なのは、父が一度だけ明かしたという軍隊での出来事。あまりに強烈なので紹介しない。だがそれも、主語ははっきりしない。ぼんやりしているからズシンとくる。父と子は、そんな記憶でつながっている。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月2日公開、通算542回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新聞記者オールディーズ考

今週の書物/
『事件記者【報道癒着】』
酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊

紙と板

先々週、先週と新聞記者のレガシーを語った。伝説の人とも呼べる先輩記者の訃報が届いて、先行世代が残してくれた職業観を真正面から受けとめてみたのだ。ただ、ちょっと話がまじめ過ぎた。記者の仕事には、もっとハチャメチャな側面がある。

事実を先んじて伝えたい。記者を突き動かしているのは、そんな子どもじみた思いだ。夕刊、朝刊と日に2回、勝ち負けの決まるレースがある。超一級の情報を自分だけがつかみ、それを記事にして競争相手に一泡吹かせたい――その一心で日々、駆けまわっている。

この競争は、「抜く」「抜かれる」という業界用語で表現される。市場経済ではものごとの価値が「売れる」「売れない」で測られるが、新聞記者はそれを気にしない。頭にあるのは「抜く」「抜かれる」の物差しばかり。そのことは、当欄の前身(「本読み by chance」2019年10月25日付「横山秀夫「64」にみる記者の生態学」)でも書いた。メディアの無定見を「売らんかな」の精神のせいにする人が多いが、新聞に限って言えばそうではない。

新聞記者の世界は、資本主義以前。中世も古代も跳び越えて、太古の狩猟社会のようだ。それを描いたドラマにNHKがテレビ草創期に毎週放映した「事件記者」(1958~1966)がある。警視庁記者クラブに詰める記者たちがギルド的友愛でつながりながら、化かし合いの競争を繰り広げる。私は少年時代、将来の自分が同じ道に入ることも知らず、この番組に熱中した。(「本読み by chance」2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」)

私は、新聞記者になったが科学畑が長かったので「事件記者」とは言えない。ただ駆けだし時代、警察の記者クラブにいたころの自分を思い返すと、あのドラマの記者群像とダブって見える。それは、子どもじみた大人という記者の特性がむき出しになる世界だった――。

で、今週は『事件記者【報道癒着】』(酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊)を電子書籍で読む。島田はドラマ「事件記者」の原作者。ちなみに前述の拙稿「ジャジャジャジャーン…」では、彼が書いた小説『事件記者』(徳間文庫)をとりあげている。その設定を引き継いで21世紀の今を舞台に仕立て直したのが、今回の小説だ。著者は1966年生まれ、ドラマの脚本やゲームシナリオなどの執筆も手がけている。

当欄は、ここで酒井版『事件記者』の筋書きには立ち入らない。断片的なエピソードをいくつか拾いだし、ドラマの記憶や私自身の思い出にある昔の記者像と今現在のそれを引き比べて、彼此の違いをあぶり出してみたい、と思う。

まずは、朝の記者クラブ風景。東京日報の相沢キャップがソファーで各紙朝刊に目を通している。「出勤途中の電車内で、各新聞社の電子版朝刊にはスマホで一通り目を通してきてはいるのだが、やはり、毎朝きまっての特オチ特ダネのチェックはインクの匂いがまだ残る新聞紙面で確認するに限る」(引用部のルビは省く、以下も)。私は「電子版」「スマホ」の語句を見て、今ならそうだろうなと納得し、すぐに、でもちょっと違うなと苦笑した。

昔の記者は当然、電子版で他紙の特ダネにあわてるようなことはなかった。私たちは、事件記者であろうが科学記者であろうが、自腹を切って競争紙を定期購読するのが常だったのだ。それは、ひとえに一刻も早く朝刊を開いて「特オチ特ダネのチェック」をするためだった。布団のなかで他紙の大見出しに愕然とし、いっぺんに目が覚めたことは幾度もある。今は「電子版」で済ますのだろうが、ただ「出勤途中の電車内で」というは遅すぎる!

警察と新聞の関係も激変した。相沢が訳あって、庁舎玄関の制服警官と言葉を交わす場面がある。警官は礼儀正しいが、ふだんは不愛想。相沢は「分かっています。上から言われているんでしょ? マスコミの人間とはあまり親しくするなって」。そして、先輩の懐旧談を受け売りする。「昔はそれこそ、捜査一課の刑事たちと記者クラブの連中が一緒になって近くの居酒屋で酒を酌み交わしたり、家族同士の付き合いなんかも頻繁にあったらしいよ」

相沢が、新人記者に取材法を伝授するくだりにはこんな嘆きも。「その昔は、夜討ち朝駆けと言って、担当刑事の家まで朝に夜に日参してはネタを仕入れてきたものなんだが、これが今ではずいぶん難しい」。世間が、公務員の守秘義務に厳しくなったのだ。

夜討ち朝駆けは、かつて事件記者の日課だった。おぼろげな記憶では、ドラマ「事件記者」の面々も、村チョウさん、山チョウさんと呼ばれる刑事の自宅玄関前に群がって、捜査情報を聴きだしていたように思う。これは事件記者に限らず記者一般に言えることだが、連れだって飲みにいくのであれ、自宅に押しかけるのであれ、家族と仲良しになるのであれ、取材先との間に私的交流があることは、情報源に食い込んでいるとして褒められたものだ。

これは、なあなあの関係を生んだ。東京日報が機動捜査隊の出動を嗅ぎつけて、凶悪事件の発生を知ったとき、長老記者は新人にこんな思い出話をする。「ワシらと刑事たちがツーカーの間柄じゃった頃は、機動捜査隊が動き出す前に、捜査一課の顔馴染みの刑事がここに顔を出して、『コロシの一報が入ったけど尾いてくるかい?』なんて声かけてくれたもんじゃ」。現場では、短時間だが立ち入りを許して写真も撮らせてくれたという。

長老の回顧談には、新聞社のハイヤーが社旗を立てて捜査車両を追いかける話も出てくる。旗はボンネットの先端でひらめいている。それは、ドラマ「事件記者」のオープニング映像そのものだ。あのころの新聞社旗は、報道機関は公器なのだ、という自負の表れだったように思う。今の感覚で言えば、思いあがっている。あの旗は、そんな歪んだ自負の匂いを町中にまき散らしていたのだから、世間の反感を買うのも当然だろう。

新聞が、公器としての特権をふりかざす時代は終わったのだ。だから、記者も創意工夫を凝らさなくてはならない。そんなこともあるのかと思わせる一節が、この小説にはある。前述の機捜隊出動を東京日報の記者がどう察知したか。警視庁近くのビルで別の記者クラブに詰めていた記者が、窓際に据えたビデオカメラで機捜隊の車が出ていく瞬間を録画したというのだ。テクノロジーが「ツーカー」の欠如を補ったのである。

昔と変わらないのは記者クラブか。私が京都支局の警察回りだったとき、キャップからこっぴどく叱られたことがある。内偵取材の資料を無造作にポケットに突っ込んでクラブに戻って来たら、咎められたのだ。他社に感づかれるではないか、というわけだ。相沢も、新人にクラブの作法を教え込んでいる。他社のブースに足を踏み入れるのはダメ。他社が何を追いかけているかは、些細な「会話や態度」から嗅ぎとらなければならない――。

昔と変わらない取材方法もある。私は京都時代、殺人事件が起こると現場周辺の家々や店々を回って「聞き込み」をしたものだ。この小説で新人記者が、現場に急いでも規制線の先に立ち入れないなら意味がないのでは、と突っかかると、先輩記者が諭す。「事件記者が取材するポイントはごまんとある」。被害者の隣人知人を見つけて、どんな人物だったか、誰とつきあっていたかを聞く。商店や飲食店を回って、日ごろの暮らしぶりを探る――。

足で稼ぐ事件取材は今も続いているわけだ。ただ、今どきの記者たちは昔よりずっと辛い目に遭っているに違いない。個人情報保護の認識が広まったからだ。政治家や企業トップの不正なら、公人の情報は開示すべきだ、と堂々と言える。だが、市井の事件当事者についてあれこれ聞きだすとなると話は別だ。事件の真相は、辛いことだが次世代に手渡すべき公的な記録であり、限られた範囲で公にされなくてはならないと思えるのだが……。

今週は1960年代のドラマを思いだしながら、ハチャメチャな話を懐かしもうと思っていた。だが結局は、前回「新聞記者というレガシー/その2」(2020年9月18日付)同様の切実な論点に戻ってしまった。やはり、新聞は深刻な局面にあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月25日公開、同日最終更新、通算541回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新聞記者というレガシー/その2

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

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この夏に死去した柴田鉄治という先輩記者の本を今週も。改めて著者の人物像をなぞっておくと、もともとは社会部記者であり、科学報道にも携わった人。記者として〈現場主義〉に徹し、〈情報公開〉の社会を追い求める戦後民主主義の子でもあった。

先週の拙稿で、私には書き残したことがある。本書冒頭の記述についてだ。著者は、新聞を「産業としての新聞」と「ジャーナリズムとしての新聞」に切り分け、いま日本では後者が「戦後最大の危機に直面している」と断じた。この切り分け方に私は「2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる」とかみつき、理由は「後で論じる」としていたのだ(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」)。今回は、この話から始めよう。

もとより、私のこの批判はフェアではない。著者が新聞の二つの側面を分けて考えたのは、あくまでも刊行年、すなわち2003年のことだからだ。あのころはまだ、新聞の宅配が電気、ガス、水道などと同列にみなされていた。だから私自身も、同様の切り分け方をしていた。曲がり角は2010年ごろではなかったか。以来、「産業としての新聞」が苦境に立たされ、「ジャーナリズムとしての新聞」を切り離して論じることが難しくなった。

著者も最晩年は「産業としての新聞」に危機感を抱いていたのかもしれない。ただ、息を引きとるその瞬間まで、1家庭に1紙は新聞をとるという固定観念から脱することはなかったように思う。その意味では、古き良き記者人生を生き抜いたのである。

もちろん、この本で繰り広げられる「ジャーナリズムとしての新聞」論も、新聞以外のメディアを強く意識している。ただ、競争相手として描かれるのは、もっぱらテレビ。著者の若手記者時代がテレビの台頭期に重なっていたからだろう。著者が、その強みとして一目置くのは「映像の威力とリアルタイム(即時性、同時性)」。1972年にあった浅間山荘事件の現場中継を境にテレビがマスメディアの「王座に座った」という見方も披歴している。

テレビとの確執をめぐる話では、記者クラブ問題が詳述されている。省庁には、メディア各社の記者が張りついていて記者クラブという緩い集団をかたちづくっている。クラブ員は内輪の取り決めを結んでおり、記者発表をどの時点から紙面や電波に載せてよい、というような「しばり」に従う。このとき、「解禁時刻がほとんど『テレビは夕方から、新聞は朝刊から』となっていることも新聞にとっては大問題」と、著者は嘆いている。

著者が社会部長時代にはこんなこともあったらしい。記者クラブの発表案件には、「叙勲・褒章」や「歌会始の入選者」のように事前に資料が配られるが、公表日まで紙面化やニュース化を控えるものがある。その解禁時刻の設定を、新聞は公表当日の朝刊から、テレビは前日の夕方から、とするか、それとも、新聞は当日朝刊から、テレビも当日朝からとするか――。半日の時間差をめぐって新旧両メディアが角突き合わせたというのである。

2020年の今からみると、この半日の争いは空しい。今は多くの人々がソーシャルメディアを手にしたから、記者クラブが報道の日時を仕切ることそのものが難しくなった。記者クラブに属さない人の発信がマスメディアを出し抜くこともできるのだ。

マスメディアが負けそうなのは、速報性だけではない。迫真性についても言える。つい最近、台風10号が九州付近を通り過ぎたときもそうだった。このとき、現地の人々が刻々ネットにあげる書き込みに目を通していると、テレビのニュースを見ているときとはまったく異なる臨場感があった。そこから感じとれるのは、暴風雨に窓を叩きつけられている人たちの悲鳴だ。静かなスタジオで台風の威力や進路を解説するのとは違う情報発信である。

ただ、ソーシャルメディアには落とし穴がある。聞きつけた話をすぐ拡散することには早とちりの危険が付きまとう。その場からの発信は局所の事実を伝えてくれるが、事態の全体像を俯瞰できない。これは私の見方だが、こうしたソーシャルメディアの欠点を見極めることが、マスメディアの活路を見いだすことにつながるように思える。大局的にものを見て信頼度の高い情報を選びだす――その手助けをするメディアは今も必要なのである。

この本の話に戻ろう。刊行年のころは、報道は正義の味方という通念が崩れだしたころだった。新聞記者は、かつて巨悪を暴く善玉のイメージだったが、それが一転、善良な市民を苛む悪玉として嫌われる場面がふえてきた。「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」などで「当事者や関係者が多大の苦痛を被る」と指弾されたのだ。著者は過熱取材の非を認めつつも、政府が「メディア規制を行う方向を打ち出した」ことには警戒感を示している。

2000年代初め、「メディア規制法案」と一括りされる個人情報保護法案と人権擁護法案が国会に提出され、議論になっていた。新聞界には両法案に対する批判が強かったが、前者は2003年、この本の刊行直前に成立する。そして今、個人情報は侵すべからざるものという意識が世の中に浸透した。先週の当欄にも書いたが、それが不正事件を暴く取材活動の足かせとなり、著者が希求する〈情報公開〉社会の実現を難しくしている。

では、メディア批判の強まりに記者はどう対処したらよいのか。その問いに対する答えも、この本にはある。「権力との闘いに萎縮してしまったら、新聞に未来はない」という言葉だ。ここで「新聞」は、間口を広げてジャーナリズムと言い換えてもよいだろう。

著者は、三つの例を挙げている。「自ら精神病患者を装って」精神科病院に入り、潜入ルポルタージュを連載記事にした記者。アパルトヘイト時代の南アフリカに「身分を隠して」入り、その実態を伝えた記者。「一労働者として自動車工場にもぐりこみ」、労働現場の実情をノンフィクション作品にまとめたフリーの書き手。これらの取材に対しては、高い評価がある一方、倫理面の批判がつきまとうが、著者は「目的は手段を浄化する」と言い切る。

今は、コンプライアンス(規範遵守)の世の中だ。「目的は手段を…」のひとことに抵抗感を覚える人は多い。2020年の今、現役の記者たちの大勢もそうだろう。だが、著者は違った。そこには戦後民主主義の子としての新聞記者の論理がある。

この点では、私も著者を支持する。個人情報のことなら、こう考えてはどうか。人はだれも、公人と私人の両面を併せもっている。私人の個人情報は厳しく守らなくてはならないが、公人の個人情報は開示すべき場面もある。どこまでが私で、どこからが公なのか。この見極めは、そのつど考えなくてはならない。万能のマニュアルなどないのだ――。「目的は手段を…」という突き放したもの言いは、そんな柔軟思考の一つの表現ではないのか。

著者が現役のころ、記者は何をどこまでどう取材すべきかをその場その場で考えていたように思う。ところが今、記者もマニュアルに縛られている(「本読み by chance」2019年4月26日付「記者にマニュアルは似合わない」)。この本で改めてその現実を痛感する。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月18日公開、同月22日最終更新、通算540回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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新聞記者というレガシー/その1

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

鉛筆

8月、柴田鉄治という先輩が逝った。1935年生まれ、85歳だった。朝日新聞の社会部記者として活躍、社会部長や論説委員を務め、退職後も言論活動を続けた。テレビを賑わす有名人ではない。だが、業界では「シバテツ」の愛称で慕われていた。私が社会部経験もないのに「先輩」と書くのは、シバテツが一時――それは私が科学部員になるより前だが――科学部長だったことがあるからだ。晩年は自らも科学ジャーナリストと名乗っていた。

柴田さんの人となりは、私も幾分かは知っている。記者の集まりなどで会食する機会があったからだ。そのほのかな交流の思い出も踏まえて言えば、シバテツは戦後民主主義を体現する社会部記者だったように思う。

その行動様式と思考パターンを一つずつ挙げておこう。行動様式は〈現場主義〉だ。これは自身の取材歴が立証している。1965~66年に南極の観測隊に同行した。69年には米国でアポロ11号の月探査を取材した。思考パターンでは、なにごとも〈情報公開〉に結びつける傾向があった。脳死臓器移植のように世論が二分される問題について論じるのを幾度か聞いたことがあるが、透明性が不可欠という結論に落ち着くことが多かったように思う。

2020年の今、シバテツがめざした新聞記者の〈現場主義〉も〈情報公開〉も厳しい局面に立たされている。〈現場主義〉を売りものにできなくなったのはIT全盛のせいだ。ネット空間にはソーシャルメディアが広まり、だれもが現場から発信できるようになった。〈情報公開〉にも強敵がいる。個人情報の保護が壁になっているのだ。最近は政官界の不祥事でも当事者が「個人情報にかかわる」と言って、だんまりを決め込むことがある。

シバテツは、新聞記者が戦後民主主義を大らかに謳歌していた時代を生きた人と言えよう。当欄は、彼の追求した記者像が今どこまで成り立つかを見極めることで、その価値観のどの部分が過去のものとなり、どの部分を受け継いでいくべきかを考えてみようと思う。で、今週は『新聞記者という仕事』(柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊)。米国の同時多発テロから2年、春にイラク戦争が勃発した年の夏に刊行された本だ。

冒頭の一文は「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」。それは「新聞の地位」が「多メディア時代」で低下したことではない、と著者はことわる。「産業としての新聞」ではなく「ジャーナリズムとしての新聞」が危ないというのだ。この「産業」と「ジャーナリズム」の切り分けは、2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる。そのことについては後で論じることにしよう。まずは、2003年の著者の声に耳を傾ける。

著者は、この年にあったイラク戦争の報道を1960~70年代のベトナム戦争のそれと比べる。後者では、日本の新聞社も戦地に記者を送り込んだ。ところが、前者では「全社がバグダッドを離脱してしまった」。これは「日本の新聞のジャーナリスト精神の衰退」を表しているという。危険地帯の取材について「死地に赴くような社命は出すべきではない」としながら、「最終的な判断は現地の記者に任せるべきなのだ」と主張する。

背景には、少年期の体験があるようだ。この本によれば、著者は戦時中、機銃掃射で「戦闘機が急降下しながらこちらに向かってくるときの恐怖」を実感した。1945年3月の大空襲では東京・麹町の自宅を失っている。焼け跡には「敷地を覆い尽くすばかりに焼夷弾の殻が落ちていた」。戦場にも、そこに住む人がいる。そのことを身をもって知っているから〈現場主義〉なのだろう。(当欄2020年8月14日付「コロナ禍の夏、空襲に思いを致す」)

戦後ほどなく姉を亡くしてもいる。栄養失調に陥り、病死したという。「つくづく戦争はいやだと子ども心に刻みつけられた」。その裏返しで日本国憲法に共鳴する。東京大学理学部に進み、地球物理を学ぶが、一方で東大新聞研究所(現在は東大大学院情報学環に統合)でも受講した。「就職するなら、平和と人権を守る仕事、すなわちジャーナリズムの仕事をしたい」。そんな思いから新聞記者になった。まさに、戦後民主主義が生んだ記者である。

1959年に朝日新聞社に入った後、支局や支社を経て社会部員となり、最初の大仕事が南極取材だった。65年出発の観測隊に同行したのである。そこで見たものは、61年発効の南極条約のもとで国境線が引かれず、「パスポートもいらなければ、税関もない」世界だった。ソ連の基地に近づいて無線通信で訪問を打診してみると、「どうぞ、どうぞ」。訪ねてみると「基地をくまなく案内してくれた」だけでなく「ウオツカの乾杯攻め」にも遭った。

米ソ冷戦の真っ盛りで、東西両陣営の間には見えない壁が立ちはだかる時代だったから、さぞかし強烈な印象を残したことだろう。これが、著者晩年の一念につながってくる。地球上から戦争をなくすにはどうするか、そのヒントは南極にある、という主張だ。

この本は、1969年のアポロ11号報道にも触れている。著者は、月面の生中継を米国ヒューストンにある航空宇宙局(NASA)の施設で見た。記者室は、宇宙飛行士たちが月面で動きまわる様子に沸いていたが、著者の脳裏に焼きついたのは「月から見た地球」の映像だったらしい。写っているのは「青く、小さい、ガラス玉のように輝く美しい星」であり、「この広い宇宙で人間が住めるところは地球しかなさそうだ」と思わせるものだった。

興味深いのは、この映像の衝撃が世相の変転と結びつけて語られていることだ。日本列島は1960年代にすでに公害や自然破壊に蝕まれていたが、著者によれば、それが社会の一大事になったのは70年代初頭だった。「新聞報道によって社会が燃え上がる」には「燃料(具体的な事実)」「酸素(人々の関心)」「発火点以上の温度(新聞の報道)」の三つが揃わなくてはならない。60年代はまだ、その「人々の関心」が足りなかったのではないか――。

で、「月から見た地球」の出番だ。著者は、その「小さく頼りなげな」姿が環境問題に対する「人々の関心」を呼び起こしたとの仮説を示す。地球の遠望映像はアポロ8号も撮っていたので、11号で世情が一変したとは言い難い。ただ一連の月探査が、当時はやりだした「宇宙船地球号」という言葉とも呼応して、1970年代に環境保護の機運を高めたとは言えよう。(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)

余談だが、この柴田仮説は、情報の広がり方を燃焼という化学現象になぞらえている点で寺田寅彦の随筆「流言蜚語」を思いださせる(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)。二人は、地球物理つながりで響きあうところがあるのかもしれない。

さらにもう一つ、余談を。この本には出てこないのだが、私にはシバテツのアポロ取材でどうしても触れておきたい記事がある。見出しは「『月より地上の飢え』黒人が抗議のデモ」(朝日新聞1969年7月16日付夕刊)。フロリダ州ケネディ宇宙センター発の柴田特派員電だ。11号の打ち上げ直前、その足もとで開かれた集会を取材、公民権運動家の演説を記事にしたのだ。さすが社会部記者。月探査の報道でも地球の現実を忘れていない。

と、ここまで書いてきてわかるのは、著者の〈現場主義〉がいつも地球観と結びついているということだ。南極では戦時とは真逆の体験をして、地球に平和がありうることを確信した。アポロ取材では、月のことよりも地球を気づかって、エコロジー思想の台頭も予感した。そこには、鋭い洞察がある。ただ駆けつけるだけの〈現場主義〉とは違うのだ。来週は、そのシバテツ流の可能性と限界を〈情報公開〉にも話を広げて考察してみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月11日公開、同年10月18日更新、通算539回
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