新聞記者というレガシー/その2

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

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この夏に死去した柴田鉄治という先輩記者の本を今週も。改めて著者の人物像をなぞっておくと、もともとは社会部記者であり、科学報道にも携わった人。記者として〈現場主義〉に徹し、〈情報公開〉の社会を追い求める戦後民主主義の子でもあった。

先週の拙稿で、私には書き残したことがある。本書冒頭の記述についてだ。著者は、新聞を「産業としての新聞」と「ジャーナリズムとしての新聞」に切り分け、いま日本では後者が「戦後最大の危機に直面している」と断じた。この切り分け方に私は「2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる」とかみつき、理由は「後で論じる」としていたのだ(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」)。今回は、この話から始めよう。

もとより、私のこの批判はフェアではない。著者が新聞の二つの側面を分けて考えたのは、あくまでも刊行年、すなわち2003年のことだからだ。あのころはまだ、新聞の宅配が電気、ガス、水道などと同列にみなされていた。だから私自身も、同様の切り分け方をしていた。曲がり角は2010年ごろではなかったか。以来、「産業としての新聞」が苦境に立たされ、「ジャーナリズムとしての新聞」を切り離して論じることが難しくなった。

著者も最晩年は「産業としての新聞」に危機感を抱いていたのかもしれない。ただ、息を引きとるその瞬間まで、1家庭に1紙は新聞をとるという固定観念から脱することはなかったように思う。その意味では、古き良き記者人生を生き抜いたのである。

もちろん、この本で繰り広げられる「ジャーナリズムとしての新聞」論も、新聞以外のメディアを強く意識している。ただ、競争相手として描かれるのは、もっぱらテレビ。著者の若手記者時代がテレビの台頭期に重なっていたからだろう。著者が、その強みとして一目置くのは「映像の威力とリアルタイム(即時性、同時性)」。1972年にあった浅間山荘事件の現場中継を境にテレビがマスメディアの「王座に座った」という見方も披歴している。

テレビとの確執をめぐる話では、記者クラブ問題が詳述されている。省庁には、メディア各社の記者が張りついていて記者クラブという緩い集団をかたちづくっている。クラブ員は内輪の取り決めを結んでおり、記者発表をどの時点から紙面や電波に載せてよい、というような「しばり」に従う。このとき、「解禁時刻がほとんど『テレビは夕方から、新聞は朝刊から』となっていることも新聞にとっては大問題」と、著者は嘆いている。

著者が社会部長時代にはこんなこともあったらしい。記者クラブの発表案件には、「叙勲・褒章」や「歌会始の入選者」のように事前に資料が配られるが、公表日まで紙面化やニュース化を控えるものがある。その解禁時刻の設定を、新聞は公表当日の朝刊から、テレビは前日の夕方から、とするか、それとも、新聞は当日朝刊から、テレビも当日朝からとするか――。半日の時間差をめぐって新旧両メディアが角突き合わせたというのである。

2020年の今からみると、この半日の争いは空しい。今は多くの人々がソーシャルメディアを手にしたから、記者クラブが報道の日時を仕切ることそのものが難しくなった。記者クラブに属さない人の発信がマスメディアを出し抜くこともできるのだ。

マスメディアが負けそうなのは、速報性だけではない。迫真性についても言える。つい最近、台風10号が九州付近を通り過ぎたときもそうだった。このとき、現地の人々が刻々ネットにあげる書き込みに目を通していると、テレビのニュースを見ているときとはまったく異なる臨場感があった。そこから感じとれるのは、暴風雨に窓を叩きつけられている人たちの悲鳴だ。静かなスタジオで台風の威力や進路を解説するのとは違う情報発信である。

ただ、ソーシャルメディアには落とし穴がある。聞きつけた話をすぐ拡散することには早とちりの危険が付きまとう。その場からの発信は局所の事実を伝えてくれるが、事態の全体像を俯瞰できない。これは私の見方だが、こうしたソーシャルメディアの欠点を見極めることが、マスメディアの活路を見いだすことにつながるように思える。大局的にものを見て信頼度の高い情報を選びだす――その手助けをするメディアは今も必要なのである。

この本の話に戻ろう。刊行年のころは、報道は正義の味方という通念が崩れだしたころだった。新聞記者は、かつて巨悪を暴く善玉のイメージだったが、それが一転、善良な市民を苛む悪玉として嫌われる場面がふえてきた。「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」などで「当事者や関係者が多大の苦痛を被る」と指弾されたのだ。著者は過熱取材の非を認めつつも、政府が「メディア規制を行う方向を打ち出した」ことには警戒感を示している。

2000年代初め、「メディア規制法案」と一括りされる個人情報保護法案と人権擁護法案が国会に提出され、議論になっていた。新聞界には両法案に対する批判が強かったが、前者は2003年、この本の刊行直前に成立する。そして今、個人情報は侵すべからざるものという意識が世の中に浸透した。先週の当欄にも書いたが、それが不正事件を暴く取材活動の足かせとなり、著者が希求する〈情報公開〉社会の実現を難しくしている。

では、メディア批判の強まりに記者はどう対処したらよいのか。その問いに対する答えも、この本にはある。「権力との闘いに萎縮してしまったら、新聞に未来はない」という言葉だ。ここで「新聞」は、間口を広げてジャーナリズムと言い換えてもよいだろう。

著者は、三つの例を挙げている。「自ら精神病患者を装って」精神科病院に入り、潜入ルポルタージュを連載記事にした記者。アバルトヘイト時代の南アフリカに「身分を隠して」入り、その実態を伝えた記者。「一労働者として自動車工場にもぐりこみ」、労働現場の実情をノンフィクション作品にまとめたフリーの書き手。これらの取材に対しては、高い評価がある一方、倫理面の批判がつきまとうが、著者は「目的は手段を浄化する」と言い切る。

今は、コンプライアンス(規範遵守)の世の中だ。「目的は手段を…」のひとことに抵抗感を覚える人は多い。2020年の今、現役の記者たちの大勢もそうだろう。だが、著者は違った。そこには戦後民主主義の子としての新聞記者の論理がある。

この点では、私も著者を支持する。個人情報のことなら、こう考えてはどうか。人はだれも、公人と私人の両面を併せもっている。私人の個人情報は厳しく守らなくてはならないが、公人の個人情報は開示すべき場面もある。どこまでが私で、どこからが公なのか。この見極めは、そのつど考えなくてはならない。万能のマニュアルなどないのだ――。「目的は手段を…」という突き放したもの言いは、そんな柔軟思考の一つの表現ではないのか。

著者が現役のころ、記者は何をどこまでどう取材すべきかをその場その場で考えていたように思う。ところが今、記者もマニュアルに縛られている(「本読み by chance」2019年4月26日付「記者にマニュアルは似合わない」)。この本で改めてその現実を痛感する。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月18日公開、同日更新、通算540回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新聞記者というレガシー/その1

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

鉛筆

8月、柴田鉄治という先輩が逝った。1935年生まれ、85歳だった。朝日新聞の社会部記者として活躍、社会部長や論説委員を務め、退職後も言論活動を続けた。テレビを賑わす有名人ではない。だが、業界では「シバテツ」の愛称で慕われていた。私が社会部経験もないのに「先輩」と書くのは、シバテツが一時――それは私が科学部員になるより前だが――科学部長だったことがあるからだ。晩年は自らも科学ジャーナリストと名乗っていた。

柴田さんの人となりは、私も幾分かは知っている。記者の集まりなどで会食する機会があったからだ。そのほのかな交流の思い出も踏まえて言えば、シバテツは戦後民主主義を体現する社会部記者だったように思う。

その行動様式と思考パターンを一つずつ挙げておこう。行動様式は〈現場主義〉だ。これは自身の取材歴が立証している。1965~66年に南極の観測隊に同行した。69年には米国でアポロ11号の月探査を取材した。思考パターンでは、なにごとも〈情報公開〉に結びつける傾向があった。脳死臓器移植のように世論が二分される問題について論じるのを幾度か聞いたことがあるが、透明性が不可欠という結論に落ち着くことが多かったように思う。

2020年の今、シバテツがめざした新聞記者の〈現場主義〉も〈情報公開〉も厳しい局面に立たされている。〈現場主義〉を売りものにできなくなったのはIT全盛のせいだ。ネット空間にはソーシャルメディアが広まり、だれもが現場から発信できるようになった。〈情報公開〉にも強敵がいる。個人情報の保護が壁になっているのだ。最近は政官界の不祥事でも当事者が「個人情報にかかわる」と言って、だんまりを決め込むことがある。

シバテツは、新聞記者が戦後民主主義を大らかに謳歌していた時代を生きた人と言えよう。当欄は、彼の追求した記者像が今どこまで成り立つかを見極めることで、その価値観のどの部分が過去のものとなり、どの部分を受け継いでいくべきかを考えてみようと思う。で、今週は『新聞記者という仕事』(柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊)。米国の同時多発テロから2年、春にイラク戦争が勃発した年の夏に刊行された本だ。

冒頭の一文は「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」。それは「新聞の地位」が「多メディア時代」で低下したことではない、と著者はことわる。「産業としての新聞」ではなく「ジャーナリズムとしての新聞」が危ないというのだ。この「産業」と「ジャーナリズム」の切り分けは、2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる。そのことについては後で論じることにしよう。まずは、2003年の著者の声に耳を傾ける。

著者は、この年にあったイラク戦争の報道を1960~70年代のベトナム戦争のそれと比べる。後者では、日本の新聞社も戦地に記者を送り込んだ。ところが、前者では「全社がバグダッドを離脱してしまった」。これは「日本の新聞のジャーナリスト精神の衰退」を表しているという。危険地帯の取材について「死地に赴くような社命は出すべきではない」としながら、「最終的な判断は現地の記者に任せるべきなのだ」と主張する。

背景には、少年期の体験があるようだ。この本によれば、著者は戦時中、機銃掃射で「戦闘機が急降下しながらこちらに向かってくるときの恐怖」を実感した。1945年3月の大空襲では東京・麹町の自宅を失っている。焼け跡には「敷地を覆い尽くすばかりに焼夷弾の殻が落ちていた」。戦場にも、そこに住む人がいる。そのことを身をもって知っているから〈現場主義〉なのだろう。(当欄2020年8月14日付「コロナ禍の夏、空襲に思いを致す」)

戦後ほどなく姉を亡くしてもいる。栄養失調に陥り、病死したという。「つくづく戦争はいやだと子ども心に刻みつけられた」。その裏返しで日本国憲法に共鳴する。東京大学理学部に進み、地球物理を学ぶが、一方で東大新聞研究所(現在は東大大学院情報学環に統合)でも受講した。「就職するなら、平和と人権を守る仕事、すなわちジャーナリズムの仕事をしたい」。そんな思いから新聞記者になった。まさに、戦後民主主義が生んだ記者である。

1959年に朝日新聞社に入った後、支局や支社を経て社会部員となり、最初の大仕事が南極取材だった。65年出発の観測隊に同行したのである。そこで見たものは、61年発効の南極条約のもとで国境線が引かれず、「パスポートもいらなければ、税関もない」世界だった。ソ連の基地に近づいて無線通信で訪問を打診してみると、「どうぞ、どうぞ」。訪ねてみると「基地をくまなく案内してくれた」だけでなく「ウオツカの乾杯攻め」にも遭った。

米ソ冷戦の真っ盛りで、東西両陣営の間には見えない壁が立ちはだかる時代だったから、さぞかし強烈な印象を残したことだろう。これが、著者晩年の一念につながってくる。地球上から戦争をなくすにはどうするか、そのヒントは南極にある、という主張だ。

この本は、1969年のアポロ11号報道にも触れている。著者は、月面の生中継を米国ヒューストンにある航空宇宙局(NASA)の施設で見た。記者室は、宇宙飛行士たちが月面で動きまわる様子に沸いていたが、著者の脳裏に焼きついたのは「月から見た地球」の映像だったらしい。写っているのは「青く、小さい、ガラス玉のように輝く美しい星」であり、「この広い宇宙で人間が住めるところは地球しかなさそうだ」と思わせるものだった。

興味深いのは、この映像の衝撃が世相の変転と結びつけて語られていることだ。日本列島は1960年代までに公害や自然破壊に蝕まれていたが、それが社会の一大事になったのは70年代だったことに著者は注目する。「新聞報道によって社会が燃え上がる」には「燃料(具体的な事実)」「酸素(人々の関心)」「発火点以上の温度(新聞の報道)」の三つが揃わなくてはならない。60年代はまだ、その「人々の関心」が足りなかったのではないか――。

で、「月から見た地球」の出番だ。著者は、その「小さく頼りなげな」姿が環境問題に対する「人々の関心」を呼び起こしたとの仮説を示す。地球の遠望映像はアポロ8号も撮っていたので、11号で世情が一変したとは言い難い。ただ一連の月探査が、当時はやりだした「宇宙船地球号」という言葉とも呼応して、1970年代に環境保護の機運を高めたとは言えよう。(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)

余談だが、この柴田仮説は、情報の広がり方を燃焼という化学現象になぞらえている点で寺田寅彦の随筆「流言蜚語」を思いださせる(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)。二人は、地球物理つながりで響きあうところがあるのかもしれない。

さらにもう一つ、余談を。この本には出てこないのだが、私にはシバテツのアポロ取材でどうしても触れておきたい記事がある。見出しは「『月より地上の飢え』黒人が抗議のデモ」(朝日新聞1969年7月16日付夕刊)。フロリダ州ケネディ宇宙センター発の柴田特派員電だ。11号の打ち上げ直前、その足もとで開かれた集会を取材、公民権運動家の演説を記事にしたのだ。さすが社会部記者。月探査の報道でも地球の現実を忘れていない。

と、ここまで書いてきてわかるのは、著者の〈現場主義〉がいつも地球観と結びついているということだ。南極では戦時とは真逆の体験をして、地球に平和がありうることを確信した。アポロ取材では、月のことよりも地球を気づかって、エコロジー思想の台頭も予感した。そこには、鋭い洞察がある。ただ駆けつけるだけの〈現場主義〉とは違うのだ。来週は、そのシバテツ流の可能性と限界を〈情報公開〉にも話を広げて考察してみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月11日公開、通算539回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

虚子、客観写生の向こう側

今週の書物/
『虚子百句』
小西昭夫著、創風社出版、2010年刊

ものと蔭

秋めいてきた。その移ろいは蝉の鳴き方一つでわかる。自分が季節の兆しに敏感とはとても言えないが、それでも70年近く生きていると、なんとはなしに感じとれることがふえてくる。で、今週は、そんな季節感にもかかわる俳句本を開くことにしよう。

『虚子百句』(小西昭夫著、創風社出版、2010年刊)。虚子は、もちろん高浜虚子(1874~1959)のこと。明治・大正・昭和を生き抜いた俳壇主流の俳人である。愛媛県松山に生まれ、同郷の正岡子規に師事、夏目漱石とも交流があった。著者については、この本に横顔紹介が見当たらない。愛媛新聞のウェブサイトによると、松山市在住の人で、俳句誌『子規新報』の編集長を務めており、同紙俳句欄の選者でもあるという。

私がこの1冊を選んだのは、どうしてか。一つは、まったくの偶然だ。コロナ禍で書店に出向くのもためらわれ、拙宅の本のストックを漁っていたら、この本がひょっこり現れた。「虚子」の名に一瞬敬遠の思いがかすめたのだが、ぱらぱらめくるとdog-ear(犬の耳)、すなわち、ページの隅を折った箇所がある。「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(上の句は「はつちょうく」と読む)。いい句だ。だが、自分がかつて付箋代わりに犬の耳を折った記憶はない。

そもそも、本を買ったことも思いだせないのだ。たぶん俳句を始めたころ、先達の一人から貰ったのだろう。くれた人は、うっかり犬の耳を元に戻すことを忘れていたのではなかったか。これが10年ほどして私の心をとらえる。そのいきさつそのものが俳句のようだ。

もう一つは、たまたま開いたページで「森田愛子」の名を見つけたこと。森田(1917~1947)は福井県の港町三国(現・坂井市)で豪商の娘として生まれ、東京に進学して結核療養中、句づくりを始める。私は新聞記者としての初任地が福井だったので、その名に愛着がある(「本読み by chance」2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)。そう言えば、彼女は虚子の孫弟子。この本には、森田ゆかりの次の句が載っていた。

不思議やな汝れが踊れば吾が泣く(汝れは「なれ」)
虚子は戦時中の1943年11月、三国に帰郷している愛子を見舞い、隣の石川県にある山中温泉に泊まる。本書によれば、この句の詞書には「山中、吉野屋に一泊。愛子の母われを慰めんと謡ひ踊り愛子も亦踊る」とある。季語は「踊り」で、秋。北陸の空模様が、冬めいた激しさを帯びはじめたころのように思う。そんな折、山深い温泉宿で母娘が旅人の心を癒すように舞い踊る。娘は、自身の病のことを忘れたかのように……。

この句に一瞬、私はたじろいだ。あなたが踊るのを見て私が泣くというのは、情緒的に過ぎはしないか? 虚子と言えば「花鳥諷詠」「客観写生」を唱えた人として知られる。その人が「不思議やな」と独りごち、最後は「泣く」ほどに感極まっている!

この本は、著者が『子規新報』に連載した記事をまとめたもので、精選された百余句を一つずつとりあげ、それぞれの解説に1ページを充てている。ところどころに挟まれた著者の「エッセイ」や「あとがき」にも独自の虚子論がある。そこから感じとれるのは、虚子に固定観念のレッテルを貼るな、という戒めである。たまたま目にとめた「不思議やな…」の句は、孫弟子への感情が横溢して、レッテルとはもっとも遠いところにあるように思えた。

で、今回はレッテルを忘れ、虚心坦懐になって虚子の秋の句を堪能してみよう。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
秋めいた今、私の心にもっともしっくり来る句はこれだった。窓から差し込む日差しが斜めの度合いを強めると、蔭が意識されるようになる。著者は「具体的なペンや湯呑みといった品物を詠まず『もの』とだけ表現したこと」に工夫の跡を見ている。

「もの」という言葉が力を発揮した句は、ほかにもある。
大いなるものが過ぎ行く野分かな
1934(昭和9)年、関西を中心に大きな爪痕を残した室戸台風を詠んだ一句らしい。ここでも、強風、豪雨、高潮といった個別事象にまったく触れていない。「大いなるもの」という言葉を選ぶことで「巨人が通りすぎていったような感じ」を表した、と著者はみる。

著者によれば、この作品はもともと中の句が「もの北にゆく」だったが、推敲されて「ものが過ぎ行く」に変わったという。ここにも、「北に」という方向性を捨象した強みが出ている。「写生」を唱える人も、具象を巧妙に捨てる技に長けていたのだ。

目にて書く大いなる文字秋の空
天高し雲行く方に我も行く
2句に共通するのは、自然界に対して作者自身と思われる主体がかかわり、その身体感覚が詠まれていることだ。空を見あげ、視線の先を動かして字を書いた気分になる、あるいは雲の流れにつられて思わず歩く。そこには動詞付きの主観がある。

動詞付きで描かれるのは、自分だけではない。
月の友三人を追ふ一人かな
柿を食ひながら来る人柿の村
前者では、月があり、月見を先に始める3人がいて遅刻する1人もいる。その5者の関係性がおもしろい。後者は、柿の朱色の季節感が齧りとられていくことの妙。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
これは、夏目漱石の飼い猫の死を、漱石門下の松根東洋城の電報で知ったときの返電。虚子は、漱石に『吾輩は猫である』の執筆を促した張本人なので、他人事ではなかった。片仮名書きは電報だから当然だが、それが「いい味を出している」(著者)。これは「挨拶句」と呼ばれるもので、ふつうの作品とは同列に論じられないが、虚子の機知が感じられる。

最後に、私の胸に今、もっとも染み入る句を一つ。
彼一語我一語秋深みかも
「彼がぽつりと一語を発する。それに答えて我も一語を発する」(著者)。そこにあるのは、極小の対話だ。居酒屋で会話を途切れさせないことに汲々とする若者には真似ができまい。(「本読み by chance」2016年3月25日付「綿矢「蹴りたい」の自律的な孤独」)

この句は1950(昭和25)年の作。虚子はすでに70代後半だった。著者は、その「秋深みかも」に「人生の秋の時間」もみてとる。たしかにそうだろう。私たち高齢者の足が友との会食から遠のく昨今、一語ずつのやりとりでもできたなら、と切に思う。
*句にはすべてルビが振られていましたが、当欄の引用では一部を除いて省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月4日公開、同月5日更新、通算538回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

戦時の科学者、国家の過剰

今週の書物/
『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』
小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊

戦中戦後

今年の終戦記念日、NHKが「太陽の子」というドラマを放映した。先の戦時、日本でも陸軍と海軍がそれぞれ原爆開発を画策したことは知られているが、このドラマでは京都帝国大学の物理学徒たちが海軍の委託を受けて原爆研究にかかわったことが主題となった。

で今週は、その渦中にいた科学者たちの現実を近刊の書物を通じて垣間見てみよう。『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』(小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊)。著者は1931年生まれ、素粒子論が専門の物理学者。東京大学出身だが京都大学にも勤務、理論物理で日本初のノーベル賞を受けた湯川秀樹の活動を支えた。現在は慶應義塾大学、東京都市大学の名誉教授、世界平和アピール七人委員会のメンバーでもある。

個人的な話をすれば、著者は私にとって最大の恩人の一人だ。新聞社で科学部員になって3年目の1985年、湯川のノーベル賞研究「中間子論」の論文発表50年を記念する国際会議(開催地・京都)でお世話になったのが始まりだった。2007年に湯川の個人日記を記事にしたときは、湯川家との話しあいから記述内容の読み解きまで、全面的なお力添えをいただいた(朝日新聞2007年1月23日付朝刊「中間子着想 湯川博士の4日間」)。

この個人日記は、湯川家が保存していたもので、主に1930年代、日米開戦前の日々のあれこれを記していた。ヤマ場は、中間子論を完成させた1934年の記述分。これについては、著者が編者となって『湯川秀樹日記――昭和九年:中間子論への道』(小沼通二編、朝日選書)という本が出ている。一方で湯川は京都大学にも、本来は研究室日誌と呼ぶべき日記を大量に残していた(京大湯川記念館資料室所蔵)。ここには開戦後のことも綴られている。

今週の書物『…戦争と平和』は、湯川の生い立ちまで遡ってその人となりが描かれ、1981年に亡くなるまでの平和運動家としての足どりも跡づけられている。とはいえ、最大の読みどころは「第二章 戦火の時代に」だろう。この章では京大所蔵の日記をもとに、湯川が戦時中にどんな学究生活を送ったかを浮かびあがらせている。気になるのは、軍事色の強い活動だ。それらのどこまでが自発的で、どこからが強制されたものだったのか――。

そのあたりの見極めは難しい。湯川の日記は身辺の出来事の記録が中心で、心情の吐露が少ないからだ。戦時の心模様を推し量るには、戦後の日々に焦点を当てた「第三章 思索の人から行動の人へ」が助けになる。この章では、湯川が反核平和運動に奔走した姿が描きだされている。戦後の平和に対する熱情が戦中に戦争がもたらした深淵の底深さを逆に照らしだす。戦中戦後を貫いて湯川の「戦争と平和」に迫ったこの本の意義は、そこにある。

では、第二章に立ち戻って、日記の要点を拾いあげていこう。1941年12月8日の日米開戦から1943年末まで、湯川自身は軍事研究に近づいていないようだ。目立って見えてくるのは、一人の国民――臣民と言うべきか――としての心情だけ。開戦の日の夜、帰宅して夕刊を開くと「ハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース」が載っていた。「久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と書いている。

この本では1943年、湯川が地元の京都新聞に寄せた年頭所感も引用されている。「既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用すること」を「今日の科学者の最も大いなる責務」としつつ、「科学の真の根基をわが国土に培養する」必要を説き、それなしには「科学、技術の源泉は久しからずして枯渇する」と警告している。すぐには応用できない基礎研究のことも忘れるな、という科学者の危機感がそう言わせたのだろう。

この年4月、湯川は文化勲章を受けた。そのことで国家主義的な団体とのかかわりが出てくる。6月には東京で大日本言論報告会総会に出席、受章を祝う記念品を贈られる。機関誌『言論報告』創刊号には、湯川の午餐会での「卓上演説」が収録されている。「言論界で日本的世界観の樹立が力強く言われている、自然科学の方面からそういう思想に何らかの基礎づけができればしたい」と述べたという。こじつけの感は否めない。

日記によれば、湯川の軍事接近は1944年初めから。前年、文部省が科学者の「動員」策を打ちだした影響があるのだろう。1月27日、神奈川県横須賀で海軍の航空機研究施設などを見学した。2月13日には財界人の大倉喜七郎男爵邸(東京・四谷)で、当時は海軍軍人だった高松宮や物理学者の仁科芳雄を交えた会合に出ている。大倉財閥は海軍の電波兵器開発に敷地を提供しており、会合は「海軍の研究に関係があると思う」と著者はみる。

この本の強みは、湯川と軍事とのかかわりを日記の記述から定量的に浮かびあがらせた点にある。余談だが、これができる人は著者を措いてほかにいない。日記は、湯川流の癖字だらけでふつうの人には太刀打ちできないが、著者には読める。さらに周辺事情も知っているから、メモ書き一つでも意味を汲みとれる。その解読の結果は、こうだ。湯川の「軍事研究関連の会合や訪問や視察」は1944年が27回29日、45年が12回16日――。

この数字の見方は、さまざまだろう。私自身は、湯川の学究生活のかなりの部分が「軍事」に割かれていた、あるいは攪乱されていたように感じる。活動件数は1944年1月~45年8月の20カ月に計39回なのだから月2回のペースだ。新幹線がない時代、京都から横須賀へ、東京へ出張もしている。湯川は戦争末期に及んで、基礎科学を「国土に培養する」などと言っているだけでは済まされず、自身もキナ臭い世界に引きずり込まれたのだ。

その最たるものが、「太陽の子」でドラマ化された「F研究」だろう。海軍が荒勝文策京大教授に委託した研究。ウランの原子核分裂(nuclear fission)を軍事利用する道を探ろうとした。日記には1944年9月22日、「荒勝氏と核分裂の件相談」とある。10月4日には大阪で海軍との相談会にも出た。出席者が残した記録によれば、湯川も「連鎖反応の可能性」を解説したらしい。核分裂の「連鎖反応」は、原爆のエネルギーを得る要件である。

日記をさらにたどろう。1945年5月には、F研究が正式の「戦時研究」となり、6月23日には「第一回打合せ会」が学内で開かれる。7月21日には滋賀県大津の琵琶湖ホテルへ。著者によれば、海軍との会合があり、湯川は「世界の原子力」について語ったらしい。

湯川の終戦までの1年をどうみるか。占領軍は、湯川は原発開発計画に「全く関与していなかったか、わずかしか関与していなかった」と判定した。「湯川自身が非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」事実が、関与のなさ、もしくは小ささと「符合している」とされたのだ。(占領軍に協力した米国の物理学者P・モリソン執筆の「秘密報告」=本書が引用した政池明著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』〈京都大学学術出版会〉による)

私は、この判定に敵国の科学者にもあった湯川への敬意を感じつつ、違和感も覚える。引っかかるのは「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」とある点だ。湯川は、買って出たことではないかもしれないが、軍人を相手に原子核物理の先生役を務めている。心の片隅には、開戦の日に真珠湾の戦果を称えた素朴な心情があり、自分は「非常に抽象的な物理学」を「国土に培養する」のだという自負が芽生えていたのではないか。

そう考える理由は、湯川自身が終戦後まもなく発した言葉にある。第三章の冒頭では『週刊朝日』(1945年11月4日付)への寄稿「静かに思ふ」が引かれている。そのなかで湯川は、「かゝる結果」を招いた原因に「個人・家族・社会・国家・世界といふやうな系列の中から、国家だけを取り出し、これに唯一絶対の権威を認めたこと」を挙げたという。科学者として戦中、国家ばかりにとらわれた浅慮を悔いているように思える。

湯川は戦後、世界政府の樹立をめざす運動にかかわった。その構想は冷戦時、夢想の産物に見えた。自国第一主義台頭の今は、なおさらだ。それは実現しても遠い先のことだろう。ただ、一人の科学者の内面を思い、国家意識の過剰を戒めることなら今でもできる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月28日公開、同年9月2日更新、通算537回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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特別な8月、コロナと核の接点

今週の書物/
広島、長崎の平和宣言
松井一實・広島市長、田上富久・長崎市長(2020年8月)

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今年の夏を「特別な夏」と呼んだのは、小池百合子東京都知事だ。コロナ禍は夏の風景を一変させた。人気の花火大会がとりやめになった、甲子園の応援合戦が消えた……そんな話ばかりではない。私たちは、いつもの年とは違う思いで鎮魂の日を迎えた。

8月と言えば、すぐに頭に浮かぶのは6日、9日、15日だ。俳句では、それを詠み込んだ類似句がたくさんできている(「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方」)。二つの被爆と一つの敗戦は今年、満75年の節目だったのだが、いずれも感染を避けるため、規模を小さくして挙行された。人々がまばらに並ぶ光景は、私たちがいま置かれている異様な事態を強く印象づけるものだった。

私は毎年、これらの式典で要人が語る言葉――宣言や挨拶や式辞――に注目している。いずれも平和の尊さを訴えていることに変わりはない。きれいごとの羅列という印象も拭えない。だが結構、読みどころがあるのだ。そのときならではの問題意識が織り込まれていることがある。行間ににじませた思いが伝わってくることもある。だからなるべく、テレビの生中継やニュースで聞くだけではなく、テキスト全文を熟読するようにしている。

2013年には松井一實・広島市長と田上富久・長崎市長の平和宣言を拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)で引いたこともある。このときに私が注目したのは、両市長ともその夏の宣言で東京電力福島第一原発事故に触れ、核エネルギーの危うさが原爆と原発に共通することを強く匂わせた点だ。日本社会は戦後長く、核の軍事利用と原子力の平和利用を別件として論じてきたが、それに疑問符を投げかけたのである。

今年は両市長がコロナ禍に言及するだろうと予想していたら、案の定そうだった。ということで今回は、松井・広島市長と田上・長崎市長の2020年版「平和宣言」(それぞれ8月6日と9日に発表)をとりあげる。全文は、広島市と長崎市の公式サイトで読んだ。

ではまず、広島市の平和宣言から。松井市長は第2段落でさっそく、新型コロナウイルス禍に言及している。その脅威は「悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか」という。その反面教師とは、約100年前のスペイン風邪だ。

それは第1次世界大戦中の1918年にはやり始め、翌19年にかけて流行の波が3度も押し寄せた。世界保健機関(WHO)は、全人類の25~30%ほどが感染したと推計している(国立感染症研究所感染症情報センターの公式ウェブサイトによる)。宣言はこのいきさつを踏まえて、こう強調する。「敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました」

スペイン風邪を「連帯」欠如の悪しき前例と見ているのだ。このことは、上記サイトの記述に照らすと腑に落ちる。流行の第1波に襲われたのは、大戦真っ盛りの2018年春から夏にかけて。このときの対策が手ぬるかったことは容易に推察される。参戦国は防疫と経済の両立どころではない。戦争に国力を注がねばならなかったのだ。結局は感染を第1波で封じ込められず、終戦前後の晩秋、より強烈な第2波を招いた。(季節は北半球のもの)

コロナ禍で「国家間」の「連帯」というと、医療資源を融通しあう国際協力がまず思い浮かぶ。これについては、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクも、感染拡大の初期に執筆した「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号所収)で論じている。ジジェクは、そこにコミュニズム再生の可能性を見ているのだ。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)

宣言は、思想にまでは踏み込まない。感じとれるのは、連帯の第一歩は戦争しないことという素朴な訴えだ。幸いなことに今、世界規模の戦争はない。だが、政治権力者の顔ぶれを見渡すと、自国中心の発想が際立つ人があちこちにいる。紛争のタネは尽きず、その先には核戦争の危険がある。そこで市長は「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」と強調するのだ。

広島宣言の要点は、「脅威」という一語に新型コロナウイルスの感染拡大と核戦争の危険増大をダブらせたことだろう。それは裏返せば、コロナ禍対策でもし世界に連帯の機運が蘇れば、核兵器禁止の流れも再び強まるかもしれないという淡い期待を抱かせる。

次に長崎平和宣言に進もう。こちらは後段で、コロナ禍の話が出てくる。とりあげているのは、医療関係者が緊迫した状況下で検査や治療に追われていたとき、世の人々が拍手を送ったことだ。この最近の出来事を振り返りながら、田上市長は呼びかける。「被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者」にも「心からの敬意と感謝を込めて拍手を」と。

私がはっとさせられたのは、市長が被爆者を患者や感染者ではなく医療スタッフになぞらえたことだ。被爆者は核の被害者だが、同時に核の不条理を体現して核戦争を食いとめてきた人々でもある。だから、「敬意」と「感謝」を表明したのだ。私は子どものころのキューバ危機を思いだす(「本読み by chance」2015年11月13日「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。人類は被爆の怖さを教えられていたからこそ、破滅を回避できたのだろう。

長崎宣言には、コロナ禍ももちだしながら、若い世代に語りかけたくだりもある。「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」。含蓄に富む一文だ。

新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に対して、私たちが「当事者」というのはよくわかる。言葉を換えれば、被害者然としてはいられないということだ。前者で、人々は自分がうつされるリスクだけでなく、自分がうつすリスクも負わされている。後者では、その影響と思われる異常気象に右往左往しているのも自分、その元凶とされる温室効果ガス大量放出に手を貸しているのも自分という構図がある。

では、核兵器はどうか。これは政治家が扱う案件であり、私たちの大勢はもっぱら危険にさらされる側にいるというのが世間の常識だろう。ところが宣言は、それをコロナ禍や温暖化と並べたのである。そこから感じとれるのは、あなたの国の政治家が核戦略に執着したり、核不拡散に無関心だったりするならば、そんな人物を選んだあなたにも責任がありますよ、という理屈だ。市長がそこまで意図したかどうかはわからないが……。

2020年夏、広島と長崎の平和宣言は、核廃絶とコロナ禍克服をそれぞれの視点で結びつけた。広島は国際連帯の文脈で、長崎は市民の意識に引き寄せて。どちらも、来年の宣言ではコロナ禍がどう書かれることになるだろうか、と思わせるものではあった。

で、最後は楽屋話を。この拙稿は速報性ということでは先週公開したほうがよかったが、1週遅らせた。安倍晋三首相が15日の全国戦没者追悼式で読みあげる式辞もコロナ禍に言及するだろうから、その話を盛り込もうと思っていたのだ。たしかに、コロナは出てきた。ただ、「現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え……」とあるだけだった。首相の人間観や歴史観に格別の関心があるわけではないのだが、ちょっと拍子抜けだった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月21日公開、通算536回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。