タクシーの推理、超ロング客の謎

今週の書物/
『一方通行――夜明日出夫の事件簿』
笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊

乗り場表示板

このところ、硬い本が続いた。ここらで、ちょっと息を抜こう。私の息抜きは、テレビの前に寝転がって、ひと昔前、ふた昔前の2時間ドラマをほろ酔い気分で観ることだ。今回は当欄も、同じような脱力状態で前世紀ミステリーの世界をさまよってみよう。

2時間ドラマの人気シリーズといえば、十津川警部、浅見光彦、霞夕子……と年齢性別さまざまな主人公がいる。夜明日出夫もその一人。「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系列)に、元警視庁捜査一課刑事のタクシー運転手として登場する。

「タクシードライバー…」は、定型化が際立つ2時間ドラマだ。たとえば、冒頭場面。渡瀬恒彦演じる夜明がハンドルを握っている。すると、後部座席で大島蓉子演じる中年女性客が、わがままを言ってひと騒動引き起こす――。いつの間にか定着した前振りの賑やかしだ。ただ、ドラマの本筋とは関係ない。ドタバタが一段落して、次に乗ってくる〈2番目の客〉が問題人物。どこか謎めいている。こうして視聴者は事件を予感する。

シリーズは回を重ねるごとに、こんな〈お約束〉が生まれ、視聴者が筋の流れを読めるようになった。夜明は〈2番目の客〉の信頼を勝ち得て、ご指名で迎車を頼まれるほどになる。無線で駆けつけた〈2番目の客〉の仕事場は、偶然にも夜明の娘あゆみが働くアルバイト先だった。親子は、そこでばったり対面する……。細部にまで定型ギャグが張りめぐらされている。規格化された部材で組み立てられたプレファブ建築のようだ。

実は、この定型化こそ2時間ドラマの魅力だ。「タクシードライバー…」は、始まって10分ほどで犯人の目星がつく。30分もすれば事件の構図が見通せる。あとはウトウトしていてもいい――。これは、2時間ドラマの商品価値の一つと言ってもよい。

「タクシードライバー…」シリーズについては実は6年前、当欄の前身ブログでもとりあげている()。あのときは「定型化」を別の視点から説明した。その一節はこうだ。

《このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある》

この推察は、さほど見当違いではなかろう。テレビドラマには、小説にない制約がある。登場人物の顔がすべて公開されていることだ。美しいが翳のある女優が画面に現れたら、フーダニットの答えは見えているも同然ではないか。だから、制作陣はフーダニットを最初からあきらめ、別の選択をした。事は予想通りに運ぶ。その結果、安心して観ていられる。この価値を極大化したのが「タクシードライバー…」シリーズだと言ってよい。

では、シリーズの原作はどうか。

今週は、『一方通行――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊)を読む。1992年、「小説現代」臨時増刊に発表された長編推理小説。同年、「講談社ノベルス」の1冊としても刊行されている。著者が1990年から手がけた夜明日出夫ものの第6作に当たる。調べてみると、この1編も1994年、シリーズ第4作としてドラマ化されている。〈2番目の客〉となるのがめずらしく男性で、その役を寺尾聰が演じたらしい。

原作の冒頭部はどうか。冬の午後、夜明は東京・江古田界隈を走っている。乗客は女子高校生らしい二人。「そこで、停めて!」といきなり叫ぶ。メーター料金をきっかり2で割り、それぞれ千円札と小銭を出しあう。マイペースだが、大島蓉子ほどの毒気はない。

この小説には、前振りがもう一つある。女子二人が降りた後、「ドロボー」という絶叫が聞こえてくる。バイク男が女性の通行人からハンドバッグを奪ったのだ。夜明はタクシーの向きを変えてバイクの行く手を阻み、ひったくり犯がバイクを乗り捨てて逃げようとするところを取り押さえた。パトカーが駆けつけたとき、最年長の警官が驚いたように言う。「ああ、夜明警部補じゃありませんか」。この一幕はテレビでも見た記憶がある。

〈2番目の客〉は、原作も男性だった。40代後半か。黒のスーツを三つ揃いで着こなしている。サングラスで目もとを隠しているが、「知的で繊細で、いわゆるインテリの顔」だ。とりあえずの行き先は、神奈川県の川崎港。18時発のフェリーに乗るのだという。

男は江古田に自宅があるが、訳あって5年間も東京を離れていた。最近帰京したが、ホテル住まい。家には妻がいるのに帰宅しない。今も門の前までは行ったが、呼び鈴ひとつ鳴らさず、引き返してきたという。謎だらけだ。〈2番目の客〉の必須要件を満たしている。

その男が、車内の運転手表示を見て「夜明日出夫さんか」と独りごとのように言い、爆弾提案をする。「夜明さんにも、旅行に付き合ってもらうわけにはいきませんかね」。自身の名が「井狩真矢(しんや)」であること、今回は船で宮崎県日向に渡り、そこから陸路で九州を横断、長崎県の雲仙温泉で泊まるつもりであることを打ち明けた。「ブラッと出かける」旅だ。飛行機でひとっ飛びしないのも「旅の途中」を大事にしたいからだという。

井狩の考えでは、九州では陸上区間のすべてをタクシー1台にまかせる。ということは、全行程で運転手を束縛することになる。井狩はフェリー代や高速道路料金、宿泊費を負担したうえで、往復の走行の対価として45万円を支払うという。運転手の立場でいえば、願ってもない長距離(ロング)の客だ。夜明は、テレビでもこの手の上客にしばしば恵まれて「ロングの夜明」の異名をとるが、これほどの「超ロング」はめったにない。

井狩がもちかけた話は不自然だ。「旅の途中」を楽しみたいなら九州上陸後にタクシーを借り切ればよい。なぜ、フェリーの船旅にまで東京のタクシー運転手を車付きで同行させるのか。井狩は、日向でタクシーをつかまえて雲仙までと頼むのが「何となく面倒で億劫」と言うのだが、説得力はない。ただ、不自然さが漂うからこそ、なにか底意を感じてしまう。井狩の胸中にどんな企みがあるのか、読者もあれこれ思いをめぐらすことになる。

作中には、運転手側の事情も書かれている。1)突然ロングの発注を受けると営業所への帰庫時間を守れない2)タクシーは二人の運転手が1台を交代で使っているので、一人が何日間も乗るには相方の了解がいる3)昼夜ぶっ通しの仕事は二人一組で引き受けるのが原則――。法令から当局の指導、営業所の規則まで、運転手には諸々の縛りがある。その一方で、ロングが一定距離以上に及ぶなら客の求めを断ることも認められているらしい。

ただ、今回は幸運にも上記三つの難関を切り抜けられそうだった。このころ、業界は運転手不足が深刻で1台に二人を割り当てることが難しくなり、夜明は1台を独占していたからだ。これで1)と2)は突破できる。3)は労働時間の制限にかかわるので微妙だが、フェリー乗船中は「事実上、乗務しないで休んでいる」から営業所も容認するはず、と夜明は勝手に決め込んだ。これが、現実社会に通用する理屈かどうかはわからない。

九州旅行まるごとのロング走行は、乗客からみて常識を逸しているだけではなく、運転手の側からみても想定外だった。にもかかわらず、この作品は無理を通して夜明に超ロングを押しつけている。それができるのも、エンタメ小説の特権だろう。ちなみに本作のテレビ版では、井狩が雲仙温泉に行ってくれとは言わない。目的地は栃木県・川治温泉。ロングではあるが超ロングではない。テレビのほうが現実的ということだろうか。

この小説もドラマ同様、タクシーにロングの客が現れた時点で犯人探しのハラハラ感は薄れている。フーダニット路線は、原作でも半ば放棄されていたのだ。読者は読み進むうち、犯人にどんな動機があり、どのようなトリックを使って犯行に及んだのかというハウダニット(howdunit)に引き寄せられていく。井狩の言葉を借りて言えば、タクシーものミステリーの読みどころは犯人特定という目的地ではなく、「旅の途中」にある。
* 「本読み by chance」2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ
☆ 引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月2日公開、通算680回
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3・11大津波、幻の直前警告

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

第二幕

地震の予知に私は懐疑的だ。今後〇十年に大地震が起こる確率は〇〇%という予測(長期評価)はありうる。だが、〇〇日後の〇〇時ごろ、〇〇地方が大地震に見舞われると予言するのは難しい。地震は地中のさまざまな要因がかかわって引き起こされるので、複雑系科学の色彩が強い。ならば、カオス理論のバタフライ効果も当然現れるだろう。予測の方程式に打ち込む初期値の数字がちょっと違うだけで未来が大きく異なってしまうのだ。

ただ、この世にはめぐりあわせというものがある。たとえば、どこかのテレビ局が、偶然にも大震災の数日前、地震や津波に対する警戒心を高めるようなニュースを流していたとしよう。それが、結果として犠牲者の数を減らすことは大いにありうる。

2011年3月11日の東日本大震災でもそんなことが起こり得たが、そうはならなかった――という話を今週は書く。そこには、日本の官僚機構の病弊が絡んでいる。

今週読むのも、先週に引きつづいて『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は東京大学名誉教授の地震学者であり、東日本大震災の前後は、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)長期評価部会の部会長だった人だ。

先週は、地震本部が2002年に太平洋日本海溝沿いの津波地震について長期予測をまとめたときのひと悶着を本書に沿って紹介した。内閣府防災担当が長期評価案に難色を示したのだ。津波地震は「三陸沖~房総沖のどこでも」起こる可能性があるとした点が意に染まなかったようで、地震本部の事務局がある文部科学省に変更案を送りつけてきた。その結果、長期評価には予測に「限界がある」ことを強調する“なお書き”が書き添えられた。(

今回の話は、その続編である。地震本部の長期評価はいったん出たら、それで終わりではなく、新しい知見を取り入れて版が改められる。本書によると、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動」の長期評価も、長期評価部会が2010年から「第二版」の検討を始めた。焦点となったのが、平安時代に記録が残る貞観地震(869年)の扱いだ。初版2002年の時点では貞観地震のデータが少なく、評価にあたって考慮の対象から外されていた。

ところがその後、津波堆積物などの研究が進んだ。貞観地震の津波が陸地の奥深くまで襲っていたこと。同様の津波は貞観以前にもあったこと。貞観以後では1500年ごろにもあったらしいこと……。宮城県中南部から福島県中部沿岸では巨大津波の間隔が450~800年程度であることがわかったとして、現在は「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」とする「第二版」案が長期評価部会に出された。2011年1月26日のことである。

ところが、この原案は2月23日の部会までに修正されたという。地震本部事務局が表現を微妙に改めたのだ。「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」が「巨大地震を伴う地震が発生する可能性があることに留意する必要がある」となっている。

3月になると、「第二版」案はさらに慎重な言い回しとなった。地震学では同規模の地震が同地域で繰り返されるとき、それを「固有地震」と呼ぶが、貞観地震が固有地震かどうかは「さらなる調査研究が必要」とされた。貞観地震については津波堆積物などから断層運動の様子が推測されていたが、これも「改良されることが期待される」と言い添えられた――科学者が「いつ発生しても」と言い切った警告が事務局によって弱められたのだ。

なぜ、こんな改変がなされたのか。そこには、衝撃の事実があった。政府の「東電福島原発事故調査・検証委員会」(政府事故調)が、2011年暮れの中間報告でその経緯を明らかにしたのだ。それによると、地震本部事務局は同年3月3日、東京電力の「要望」を秘密裏に聴いていた。東電は「第二版」案の表現に工夫を求めた。貞観地震が繰り返すと言っているようにとられるのはよくないというのだ。事務局はこれに応じたことになる。

「正規の会議を差し置いて、秘密会合で物事が決まる」という不条理の典型。しかも驚かされるのは、その秘密会合の開催を長期評価部会の部会長である著者が知らされていなかったらしいことだ。本書によると、著者は政府事故調の中間報告で「秘密会合」の開催が明るみに出たとき、ただちに地震本部事務局に連絡をとり、「長期評価部会などの委員全員に、(裏で)何が起きていたのか書面で説明すること」を要求したという。

地震本部事務局は翌2012年2月、その「何が起きていたのか」を記録した資料を長期評価部会に提出した。ただ、資料は「非公開」とされていた。著者が問い詰めると、情報交換の会合は「開催事実」も「内容」も非公表、と事務局は答えたという。

著者の憤りがビンビンと伝わってくるくだりだ。そこからは、日本の官僚機構が科学者をどう扱ってきたかが見てとれる。なにか案件があるとき、科学者の見解を聴くかたちをとりながら、結論は自分たちで用意している。結論が科学者の見解とずれるときは、作文技術を駆使して見解を微調整し、自分たちの結論に近づけようとする――日本社会はこんな官僚機構の習わしで統治されてきた。科学者は、もっと怒ってもいい。

地震本部事務局の「秘密会合」は電力業界とだけではなかった。政府内の他部局などとも開いていた。本書で圧倒されるのは、2011年1~3月の「秘密会合」一覧だ。ジャーナリストが入手した資料なども参考にしたという。主なものを拾いだそう(右側は会合相手)。

1/21  内閣府防災担当
1/25  東京電力、中部電力、清水建設
2/22  経済産業省原子力安全・保安院
3/1    同
3/3    東京電力、東北電力、日本原電

相手の顔ぶれを見てはっきりわかるのは、地震本部――正式名称「地震調査研究推進本部」――という大地震のリスク評価を担う機関の事務局が、評価の文言に影響される役所や業界に異様なほど気をつかっている現実だ。防災政策をつかさどる内閣府に相談し、原子力安全行政を担当する経産省原子力安全・保安院(当時)と擦り合わせ、原子力事業に携わる民間企業とも直接接触する――官僚ならではの周到な根回しと言えよう。

地震本部の主役は、あくまでも科学者だ。勤め先は大学だったり、研究所だったり、役所だったりするだろうが、科学者精神をもって自身の知見を自律的に表明する人々だ。逆に言えば、事務局は本来、裏方ということになる。ところが実際には、その裏方が大役を演じているのだ。文書が発表後に反発を受けないよう、案文を片言隻句まで調整していく――その手さばきの上手下手によって官僚としての評価が定まる。そんな世界なのだろう。

貞観地震の新知見を盛り込んだ長期評価「第二版」案は、こうして警告の色彩を薄めるべく修正されていった。それだけではない。当初は事務局も「順調に行けば、三月九日の調査委員会で承認され、公表となる」と見込んでいたが、それが遅れ遅れになったのだ。ここで「調査委員会」は、地震本部内で長期評価部会の上位にある地震調査委員会のことを言っている。3月9日の委員会では、「第二版」案が議題にあがらなかった。

なぜ、公表は先延ばしされたのか。検証が必要な話だが、著者は、背後に東電など原子力ムラの画策があったとみる。本書によれば、東電は当時、貞観地震について独自の見解をまとめつつあり、これを盾に「第二版」案に注文をつけていたらしい。

いずれにしても、3月9日に発表されていたかもしれない直前の警告は幻と消えたのだ。
* 当欄2023年5月19日付「311大津波、科学者の憤怒
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月26日公開、通算679回
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3・11大津波、科学者の憤怒

第一幕

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

コロナ禍は終わったのか。世間は終わったかのような空気になっているが、どうもすっきりしない。科学者が理詰めで見極めているとは思えないからだ。政治家や官僚やメディアが、それぞれの都合でコロナの収束を触れまわっているだけではないのか。

コロナ禍勃発後の3年は、科学と政治がかつてなく密接にかかわった時代として記憶されるだろう。日本では、政府に有識者グループが置かれ、そのトップに医師が就いた。ただ、科学と政府の関係が蜜月だったわけではない。政治家には経済を回す使命があり、経済界を支持基盤にしているという内情もある。だから、医師や医学者の助言を煙たがることもあった。それが、いま目の当たりにしている政治主導の脱コロナにつながったように思う。

いずれにしても、コロナ期の科学・政治関係は入念に検証されなくてはならない。そのためにはまず、会議議事録の類をすべて保存すべきだ。昨今は当事者同士がメールで連絡をとりあうのがふつうだから、交信記録も公的な性格が強いものは可能な限り収集したほうがよい。検証は、責任の所在を明らかにするだけではない。これからの時代、科学と政治がどうかかわりあうべきか、それを探るときにヒントを与えてくれるに違いない。

そんなことを考えていたら、尊敬する先輩から1通のメールをもらった。泊次郎さん――新聞記者として地震や原子力問題を担当、退社後に博士号を取得した人だ。著書『プレートテクトニクスの拒絶と受容――戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会、2008年刊)は、戦後日本の地震研究に対する政治運動の影響をあぶり出した。科学への批判的視点を忘れない科学ジャーナリストである。その人がメールでこの本を薦めている――。

『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は、東京大学名誉教授の地震学者。東京電力福島第一原発の事故後、新設された原子力規制委員会の委員長代理として筋を通そうとしたことで有名だが、かつてお目にかかったときに受けた印象では穏やかな方だ。気骨があるが温厚な科学者。その人が、過激な書名を掲げて憤っている。よほどのことがあったらしい。これは読まないわけにはいかない。

本書が焦点を当てるのは、2002年夏に政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が発表した「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」だ。「長期評価」では、大地震の起こりやすさを長い目で「予測」する。このときは、今後30年間に日本海溝沿いで大津波を伴う津波地震が起こる確率を20%とはじき出した。本書によれば、これに対して政府部内から反発が起こり、政治的圧力で発表文が歪められたという。

なお、ここで「津波地震」という用語は、津波を起こす地震のすべてを意味してはいない。揺れが小さいのに大きな津波を起こす地震を指して、こう呼ぶらしい。

そのころ著者は、地震本部地震調査委員会長期評価部会の部会長だった。だから、この圧力をもろに受けた人ということになる。そのいきさつを追ってみよう。

この「長期評価」が発表されたのは、2002年7月31日。その5日前、1通のメールが著者に届く。文部科学省の地震本部事務局からだった。内閣府防災担当が「長期評価」前書き部分の変更案を送ってきたので「発表内容を変える」というのだ。変更案では、“なお書き”が追加されていた。今回の予測は「過去地震に関する資料が十分にないこと等による限界がある」ので、「利用」に際しては「この点に十分留意する必要がある」としていた。

今、地震本部の公式サイトにはこの「長期評価」が収録されており、その“なお書き”も読むことができる。地震本部は結局、内閣府の変更案を受け入れたということだ。

変更案が送られたメールにはもう一つ、重要な文書を添付されていた。内閣府防災担当が、「長期評価」をどう見ているかを箇条書きにまとめたものだ。そこでは、今回の予測が「実際に地震が発生していない領域でも地震が発生するものとして評価している」と述べ、「この領域については同様の発生があるか否かを保証できるものではない」とことわっている。内閣府が「長期評価」に横やりを入れたと言っても言い過ぎではあるまい。

理由は、この文書の次の段落を読むとはっきりする。防災対策の費用に言及し、「確固としていないもの」に対して「多大な投資をすべきか否か」には「慎重な議論が不可欠」と主張しているのだ。内閣府防災担当は、首相を会長とする中央防災会議の事務局であり、中央防災会議は気象災害から地震・火山災害まで防災の基本計画を決める。政策遂行の元締めとして、コストパフォーマンスを無視できないということだろうか。

だが、話はそう簡単ではない。それは、ここで問題視された「実際に地震が発生していない領域」――“なお書き”の表現を用いれば「過去地震に関する資料が十分にない」領域――がどこかにかかわってくる。過去400年間の資料をもとに津波地震が起こった場所を拾いあげていくと、発生記録がないのは福島県沖だという。ならば、防災対策で「多大な投資」に「慎重」であるべき場所は主に福島県沿岸と言っているようにも思える。

もしこのとき、内閣府が過去地震の資料不足を理由に「多大な投資」に対する慎重論を表明していなければ、福島第一原発の津波対策も増強されていたかもしれない。

話を整理しよう。地震本部の「長期評価」は、三陸沖から房総沖にかけて日本海溝沿いのどこでも津波地震が起こりうると主張したが、内閣府は「どこでも」に難色を示した。では「長期評価」が「どこでも」と言う根拠は何か。それは、私も気になることだ。

本書には、その説明がある。著者によると、大地震の予測方法には2種類ある。一つは、発生の「間隔」から予測する方法。ただ大昔は記録が乏しいので、間隔の長い地震には通用しない。もう一つは「同じような大地震が起きる地域を広い範囲で捉えて、そこを基準にして考える」方法。ここで「同じような大地震が起きる地域」は「地震地体構造が同じ地域」と言い換えてよい。2002年、地震本部は後者を選択、内閣府は前者にこだわった。

「地震地体構造が同じ地域」は、今はプレートテクトニクス理論で推定できる。プレート論では、地球を覆う岩板(プレート)の動きで地震活動を説明する。津波地震は「プレートが沈み込む場所の近くで」「どこでも」起こる。リスクのある領域は広いというのだ。

プレート論は1960年代末に広まった。だが、前述の泊さんの本にあるように、日本の学界では左派系の政治運動が影響して、導入が遅れた。その余波が内閣府に及ぶはずもないが、「長期評価」批判はプレート論研究の出遅れを引きずっているのかもしれない。

実際のところ、内閣府が地震の「間隔」にこだわり、「過去地震」がない領域のリスクを低く見たことにはネタ元があるらしい。土木学会の原子力土木委員会津波評価部会が2002年2月に出した『原子力発電所の津波評価技術』だ。福島県沖では津波地震の記録が過去400年間にない、としたのはこの文献だった。この評価は電力業界が土木学会に委託したものであり、津波評価部会は電力関係の人々が幹事を務めていた……。

本書は、書名に「対策を邪魔した男たち」とあるように、科学者の警告が政官界や産業界、メディア界、あるいは学界自身の事情でないがしろにされていく様子を、そこに介在した人々を実名で登場させて描きだしている。その一面だけを切りだせば過激な書である。

報道の常識で言えば、「邪魔した男」を実名付きで指弾するのなら、その人たちの反論も載せるべきだろう。ただ、「邪魔」をめぐる本書の記述は、会議の議事録や裁判資料、福島第一原発事故の各種事故調の報告書などですでに公開されているものが多い。著者は、これら既存の証拠物件を自身の実体験とつなげることで、「邪魔」の全体像を浮かびあがらせたのだ。そのリアリティを裏打ちするためには、実名が欠かせなかったのかもしれない。

さて、「邪魔」は2002年の「長期評価」に対してだけではなかった。2011年の震災直前にもあったのだ。もしそれがなかったなら、と思うと心が痛い。次回も本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月19日公開、同月24日更新、通算678回
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時間の流れを感じる物理学

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

シャッフル

先週は、物理学に時間は要らないという話をした。読んだ本は、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。理論物理学者が書いているのだから、トンデモの類と切り捨てるわけにはいかない。一応は納得した。(1

そのココロは、こういうことだった――。私たちは物事の様子が変わっていくとき、その変化を時間変数tの関数で記述する。“t”は時計の針のようなものだ。言葉を換えて言えば、私たちは日常の暮らしで物事の変化を時計の変化に関係づけている。

だが著者は、関係づける相手は時計でなくともよいと主張する。地球の自転や月の公転、地球の公転のように1日や1カ月や1年の目安となるものである必要もない。一つの変化を別の変化に関係づければ、それで物理学の方程式ができあがるという。

なるほど。そうならば「時間は存在しない」と言ってよいのかもしれない。だが、ここにはトリックがある。それは「変化」の一語に潜む。私たちは物事が変わると言うとき、時間を思い浮かべている。“t”を追い払っても、時間を排除したことにはならない。

先日の当欄でとりあげた哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を思い起こしてみよう(*2 *3)。こちらも「時間の非実在性」を言っていた。ただ、それを論証する過程で、時間に“t”で表しきれない一面があることも教えてくれていた。

マクタガートによれば、時間はA、B、Cの3系列に分けて考えることができる。重要なのはA、B両系列で、A系列は「過去・現在・未来の区別」、B系列は「より前・より後の区別」に注目する。この二つの着眼点は、いずれも“t”の枠に収まり切れない。

A系列について言えば、この世界では未来の出来事が現在の出来事に変わり、やがて過去の出来事になるという変化が起こっている。この変化は、“t”を表す時間軸だけでは説明できない。一方、B系列のほうは微妙だ。「より前・より後」は、時間軸のイメージになじみやすい。ただ、マイナス方向を「より前」ととらえ、プラス方向を「より後」とみるのはどうしてか。時間には“t”の多寡では測りきれないなにかがある。

以上のことから言えるのは、世界は時間変数“t”なしで成り立つが、それなのに私たちは世界に時間があると認識していることだ。それは本書『時間は存在しない』のもう一つのテーマとして、後段に詳述されている。今週は、そちらに焦点を絞ろう。

ここでのキーワードは「ぼやけ」だ。「時間の存在は、ぼやけと深く結びついている」「ぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ」と、著者は断じる。時間は人間が無知であることの表れにほかならない、というのだ。

この話を聞くと、私のように学生時代に物理学を齧った者は、ああ、エントロピーのことを言っているのだな、とわかったような気分になる。エントロピーは熱力学、統計力学に出てくる数値。講義では、「失われた情報の総量」と説明されたように記憶している。

コップの水を例にとろう。私たちが見ているのは、水という液体が透明な容器に入っているという「マクロな状態」だ。水中には数えきれないほどの水分子があり、その一つひとつがさまざまな位置にあるが、それは見分けられない。このぼやけが、エントロピーである。著者は、オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンの理論をもとにエントロピーの値は「わたしたちには区別できない配置の数で決まる」と解説している。

さて物理学には、エントロピーはふえる一方、という「エントロピー増大の法則」(熱力学の第二法則)がある。机の上に整然と積まれた書類がいつのまにか乱雑な紙の山に化けるようなことをいう。そこでは「秩序ある配置」が「無秩序な配置」へ変わっていく。これは、机上の書類だけの話ではない。著者は、宇宙のありようも「シャッフルによって一組のトランプの秩序が崩れていくような、緩やかな無秩序化の過程」とみる。

興味深いのは、本書がエントロピーで過去と未来の違いを説明しようとしていることだ。著者によれば、過去は「現在のなかに痕跡を残す」。月面のクレーターも、古生物の化石も、脳内の記憶も、そういう「痕跡」にほかならない。では、過去をとどめる痕跡があっても未来の痕跡がないのはなぜか? 著者によれば、それは「過去のエントロピーが低かった」ことに起因する。「過去と未来の差を生み出すもの」はほかに見当たらないという。

ほんとかな、という話ではある。これには、エネルギーの保存則がかかわっているらしい。「痕跡」は、隕石が月にぶつかってクレーターをつくるように、なにかが動きを止めて運動エネルギーが熱エネルギーに変わるときに生じる、という。熱への変化は無秩序化だから時間に沿って進行する。こうして痕跡は、事後に見ることになる。未来の出来事も痕跡を残すだろうが、それを現在という事前の時点で確認することはできない。

著者によると、私たちが過去は「定まっている」と感じるのは痕跡がたくさんあるからだ。その結果、脳内には「過去の出来事の広範な地図」ができあがり、その過去に縛られる。これに対して未来は痕跡が見えないから、いくつもの選択肢があるのだという。

さて、ここまで来たところで先週の話をもう一度、復習しよう。本書によれば、世界は出来事のネットワークでできている、ということだった。だから、いくつもの変数同士の関係によって記述できる。実は今週の話も、この世界像と無縁ではない。

本書によれば、私たちは世界の「部分」に「属している」。どのように部分なのかといえば、私たちと影響を及ぼしあう変数が変数のすべてではないということだ。人間が関係するのは世界全体ではなく、その一部に限られると考える立場である。

これは、エントロピーに影響する。エントロピーは「ぼやけ」の度合いを反映しているが、そのぼやけ方は「自分たちがどの変数と相互作用するか」に左右されるという。「どの変数と相互作用するか」は部分ごとに異なるので、「ぼやけ」の度合いも自分が属する部分次第だ。では、私たち人間はどこにいるのか。「この世界が始まった頃のエントロピー」が「きわめて低かったように見える」部分に置かれている、と著者は説明する。

宇宙初期のエントロピーが小さい状態を著者はこう理解する。「宇宙は特別な配置になってはいない」「わたしたちが特殊な物理系に属していて、その物理系に関する宇宙の状態が特殊なのだろう」――ここで「物理系」とあるのが部分のことだ。

この見解は、宇宙論の人間原理に一脈通じているように私は思う。人間原理では、宇宙がこうなっているのは、こうでなければ人間が存在できないからだ、という見方をする。著者の時間観はこれに似て、宇宙にこのような時間が流れているのは、そうでなければ人間は時間を感じとれないからだ、と言っているように思える。私たちはたまたま、宇宙のなかでこのような時間が流れる部分にいることができた、と言うこともできるだろう。

「部分」の話ではもう一つ、付言したいことがある。著者が、「宇宙の無数の変数のごく一部と相互に作用している」ことを「視点」の意義と結びつけていることだ。私たちは宇宙を「内側から」見ているので「視点」なしに世界を記述できない。そこで無視できないのが、「今」「ここ」「わたし」のようにその場に応じて指示するものが換わる言葉だ……こんな論旨に触れて、マクタガートの時間論を思いだした。(*2 *3

『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート著、永井均訳・注解と論評、講談社学術文庫)の訳者「付論」にある「端的な現在」「端的な私」が連想されたのだ。哲学者であれ、物理学者であれ、時間を語るには内側からの視点が欠かせないのか。

本書『時間は存在しない』を読んで、理系文系の時間像が近年、かなり近づいていることがわかった。ただ両者の間には、なお乗り越えるべき壁がある。たとえば、マクタガート時間論の「過去・現在・未来の区別」に「痕跡」はどうかかわるのか。あるいは、未来が現在となり、やがて過去へ行き着くという「変化」はエントロピーの増大とどう関係するのか。問うてみたいことは山ほどある。今後もゆっくり、時間について考えていきたい。
*1 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*2 当欄2023年4月21日付「『時間がない』と哲学者は言った
*3 当欄2023年4月28日付「時間を『我が身』に引き寄せる
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月12日公開、通算678回
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「時間がない」と物理学者は言った

『時間は存在しない』
カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊

時間は不要?

薔薇の花を見て、ああまた初夏が巡ってきた、と思う。年をとると時の流れは速い。生に限りがあることを自覚して、時の終わりが頭にちらつくこともある。時間は切実な関心事だ。で当欄は今春、哲学者ジョン・エリス・マクタガートの時間論を読んだ。(*1 *2

ただ、哲学談議だけでは時間の半面を見たに過ぎない。学問の世界には、まったく別の観点から時間を考えている一群の人々がいる。それは自然科学者、とりわけ物理学者だ。

自然界は、物体によって成り立っている。物体は空間軸と時間軸の座標で位置づけられ、その動き方は空間の位置変化を時間で割った速度や、その速度変化をさらに時間で割り込んだ加速度によって記述できる――物理世界の出来事をこのようにとらえることに私たちは慣れてきた。現代に入ってニュートン力学の限界が見え、相対性理論や量子力学などのややこしい話が出てきたものの、空間と時間の大枠は健在のように見える。

文系の時間像は前々回、前回に書いたように一筋縄ではいかないが、理系の時間像は見通しが良い。かつて「本読み by chance」でとりあげた『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎著、集英社新書、2006年刊)は、この文理の断絶を見抜いていた。(*3

橋元さんはこう指摘した。「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」「一方、科学者による時間論は、科学の枠から出ることがない。けっして人間的時間に立ち入ろうとしない」。私も同感だ。科学者だって、忙しがったりのんびりしたりしているのに不思議なことだ。だが最近は、物理系の人が「人間的時間」に踏み込むようになった。それは、橋元さんだけではない。

『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ著、冨永星訳、NHK出版、2019年刊)。この本のことは新刊当時、新聞で知った(朝日新聞2019年11月16日朝刊読書面「売れてる本」欄)。評者は批評家の福尾匠さん。「本書には文系/理系という安易な分割を越えた知性が、というより、理系にしか引き出せない文系の魅力が刻まれている」と結んでいた。私も一読してそう思った。本の帯に「革命的な時間論」とあるのも、うなずける。

著者は1956年、イタリア生まれの物理学者。パドヴァ大学大学院で博士号を得た後、イタリア、米国、フランスの大学で理論研究を重ねてきた。相対性理論と量子力学を一つにまとめる理論の構築に挑んでおり、「ループ量子重力理論」を主張する一人だ。その一方、一般向けの物理本も次々に執筆している。本書は、2017年にイタリアで出版された。著者紹介欄によると、30を超える国々で刊行が決まり、「世界的ベストセラー」になっている。

この本の要点は二つある。一つめは、物理学は時間がなくても成り立つということ。もう一つは、それでも私たちには時間があるように感じられるということ。後者は、人間の本質にかかわる。二つめがあるから、「人間的時間」に踏み込んでいると言えるのだ。

時間が絶対的でないことは、すでに多くの科学ファンが知っている。20世紀に入ってアルバート・アインシュタインが相対性理論を築いたことで、アイザック・ニュートン流物理学の絶対時間が否定されたからだ。そのことは本書も念押ししている。

たとえば、第一章「所変われば時間も変わる」の冒頭部では「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」と書かれている。これは、一般相対論の効果だ。「物体は、周囲の時間を減速させる」と説明して、「山より平地のほうが減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〔の質量の中心〕に近いからだ」(〔〕内は訳注、太字表記は原文に従った)と言う。この話の切りだし方に私は戸惑い、そして納得した。巧い、この人は!

アインシュタインの相対論を扱う一般向け科学書は、特殊相対論から入るのが常道だ。特殊相対論は慣性座標系同士を扱う理論なので、列車と駅のホームのようなわかりやすいイメージで考察できる。実際、アインシュタイン自身もまず特殊相対論を仕上げ、そのあとに一般相対論へ進んだ。ところが著者は、いきなり一般相対論を読者に提示した。推察するに、それは時間が「物体」とかかわっていることを印象づけたかったからだろう。

一般相対論の解説では見事な論法がある。太陽と地球の間に重力が働く様子を、このように描く。「直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか」。いわゆる近接作用だ。そうならば「水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」――時空が重力の伝え手なら、それはコンクリート塊のような剛体ではありえない。

ここまでの話では、時間は存在する。ただそれは、物体によって影響を受ける。この限りでは、著者は、時間よりも物体を重視している。だが、よく読むと、その物体も絶対視してはいない。むしろ、逆なのだ。物体を幻のようなものとみている。

その話が出てくるのは、第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」だ。モノよりもコトを重んじる世界観を全展開している。物体の代表格「石」を例に挙げ、こう言い切る。それは「崩れて再び砂に戻るまでのごく短い間に限って形と平衡を保つことができる過程」である――と。古典物理学も現代物理学も「物の状態」ではなく「出来事の起き方」を語っており、「『物』はしばらく変化がない出来事」に過ぎないという。

この考え方に立てば、世界は「出来事の集まり」ということになる。しかも、それらは互いにつながりあって「出来事のネットワーク」をかたちづくっている。物理学者は長い間、素粒子研究などで「基本的な実体の正体」を探し求めてきたが、最近は「出来事同士の関係」を知るほうが世界をとらえやすいことがわかってきた、という。モノよりコトを重んじる世界観は、「実体」より「関係」を重んじる世界観と言い換えてもよいだろう。

著者は、人間についても「出来事のネットワーク」論で語る。人間は、自身が「食べ物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程」という出来事だが、それは「社会的な関係」や「化学反応」や「同類の間でやりとりされる感情」のネットワークの「結び目」となり、ほかの出来事とつながっている。ここで「食べ物」や「光」や「化学反応」が、「言葉」や「感情」や「社会的な関係」と並列されるところに本書のおもしろさがある。

見落とせないのは、著者が「出来事」の本質を「変化」とみていることだ。「出来事」は、「物」のように続くことはあっても、それはあくまで「しばらく」だ。ずっとではない。ということは、出来事から成る世界も「絶えず変化している」と見たほうがよい。

世界が「変化」とともにあるなら、そこに時間は欠かせないように思われる。ところが著者は、時間は要らないという。なぜ、そんなことがいえるのか。第八章「関係としての力学」に進むと、この疑問は氷解する。「変化」は時間変数“t”の関数によって表すものという常識が私たちにはあるが、著者はそれにこだわらない。或る量の変わり方は別の量の変わり方と関係づければ、どのようにも表現できる。別の量は“t”でなくともよいのだ。

人類は、物事の変化をまず、「日数」や「月の満ち欠け」「太陽の高さ」に関係づけた。これらが暦や時計を生み、「一つの変数を選んで『時間』という特別な名前をつける」ことになった。だが、それは不要だ、と著者は断言する。知りたいのは「もの同士が、互いに対してどのように変化するのか」だ。著者の専門である量子重力の基本方程式も「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」形式をとっているという。

ここまでの話で、本書の要点の一つめ、物理学に時間はなくてもよいということの論旨はおぼろげながら見えてきたように思う。だが、もう一つの難問が残っている。私たちはなぜ時の流れを感じるのか、だ。この問いの答えを求めて、次回も引きつづき本書を読む。
*1 当欄2023年4月21日付「時間がない』と哲学者は言った
*2  2023年4月28日付「時間を我が身に引き寄せる
*3 「本読み by chance」2015年2月27日付「だれもが時間の哲学者
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月5日公開、通算677回
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