社説にみる改憲機運の落とし穴

今週の書物/
社説「憲法75年の年明けに/データの大海で人権を守る」
朝日新聞2022年1月1日朝刊

憲法(三省堂刊『小六法』)

当欄の新年初回はきょう1月7日付になった。あすは松の内も明ける。去年は元日付だったので、私の古巣、朝日新聞の年頭社説について書いたが、今年はそうはいくまいと思っていた。だが、紙面を見て気が変わった。6日遅れでも元旦社説をとりあげる。

今年の朝日新聞1月1日付社説は、まず「憲法75年の年明けに」のカット見出しを掲げ、続く主見出しで「データの大海で人権を守る」とうたっている。改憲の流れが強まる今、朝日新聞社の立場を鮮明にしておこうという趣旨か、と一瞬思った。だが読んでみると、憲法の話はなかなか出てこない。巨大IT企業が個々人の情報をネット経由でかき集め、人々の意思決定にも影響を与える現状を重くみて、それに警告を発したという色彩が強い。

私は、このチグハグ感に朝日新聞の苦悩を見る。社説の執筆を担う論説委員室には、リベラル派のメディアとして巨大IT企業の情報支配を護憲の立場から論じるべきだとする委員が一定数いるのだろう。だが一方で、この問題は現行憲法の枠組みを超えているとみる委員もいるのではないか。さらに言えば、委員めいめいの内面に両論の葛藤があったようにも思う。そう推察して、共感とも同情ともつかない気持ちになったのである。

朝日新聞の論説委員室は護憲派の巣窟のように思われがちだが、それはちょっと違う。私自身が在籍した十余年前を振り返ってみよう。たしかに、改憲を公然と口にする同僚はいなかった。大勢は現行憲法に好感を抱いていたとも思う。だが、護憲を声高に叫ぶ人も見かけなかった。あえて言えば、右寄りの政治勢力が憲法をタカ派的なものに変えようとする動きに神経をとがらせていた。護憲派というよりも改憲警戒派という言葉がぴったりくる。

改憲警戒派は、現行憲法を平和憲法ととらえて議論の焦点を第9条に絞り込めた時代にはわかりやすい存在だった。さまざまな案件が政治的左右の座標軸に還元された時代には、改憲=保守派、護憲=リベラル派という単純な色分けができたのだ。逆に言えば、リベラル派はごく自然に改憲勢力を警戒することになり、護憲勢力を支持することに違和感を覚えなかった――朝日新聞は今も、その構図から脱け出していない感じがする。

現実には、今やいくつもの難題が政治的左右とは別次元で噴き出している。気候変動しかり、新型感染症しかり、そして、この社説のテーマ、巨大IT企業の情報支配も同様だ。これらの問題は、政治的な左右だけでは論じきれない。実際、今の政界ではリベラル系の野党にも改憲論議に前向きな人々がふえた。憲法も時代に合わせて改めるべきではないか、という立場だ。改憲警戒派は守旧派のレッテルを貼られそうな気配がある。

今回の社説は、そんな空気感のなかで書かれた。見出しに憲法の2文字を含めながら憲法論で押し切れない。そこに私は、今の朝日新聞が直面する現実を見てしまう。

中身を見てみよう。冒頭に登場するのは、米国の巨大IT企業4社。それらが、ネット空間に「検索や商品の売買、SNSなどの場」を提供する「プラットフォーマー」として、主権国家に比肩する「新たな統治者」ともみられていることから説きおこす。

具体例として出てくるのは、巨大IT企業の一つ、メタ(旧フェイスブック)社がいま大展開しようとしている「メタバース」事業だ。人々がネットの仮想空間に「自分の分身である『アバター』」を送り込み、「会話をしたり、買い物したりする」という。これは、私のようにSNS活動度の低い者にはピンとこない。遊び心の世界だろうから、目くじらを立てるまでもないのではないか――一瞬そう感じたのだが、思い直した。

というのも、同じ朝日新聞紙面に前日の大みそか、「仮想キャラに中傷『現実の自分傷ついた』」(2021年12月31日朝刊社会面)という裁判記事が載っていたからだ。それによると、動画のネット投稿を繰り返していた人が「自分の分身」である仮想のキャラクターを投稿サイトに登場させていたら、キャラに対する中傷のメッセージが殺到、その口火を切った人物の個人情報開示をプラットフォーマーに求める訴訟を起こした、という話である。

この記事から見えてくるのは、デジタル世代にとっては「仮想空間」が実空間と同様に生活の場となり、「アバター」や「仮想キャラ」が実在の自分並みに自己同一性を具えはじめたらしい、ということだ。この二重性が健全かどうかはわからない。ただ、自分のほかに分身も保有する生き方が珍しくない世界が到来しようとしているのは事実だ。その分身部分が巨大IT企業という「統治者」によって仕切られている、ということなのだろう。

この社説は「メタバース」について、憲法学が専門の山本龍彦・慶応義塾大学教授から話を聞いている。「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る」。私たちは「民主的手続きを経ていない『法』」に支配されるという。

では、「民間」企業がどうしてここまで大きな「権力」を手にしたのか。社説は「力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報」と断じている。情報にものを言わせるからくりとして挙げるのは、個人の好みに合わせた「ターゲティング広告」や個々人に対する「『信用力』による格付け」だ。これらが市場経済を動かして世界そのものも変えていく。その威力は、各国政府などの公権力をしのぐほどなのだ。

この「権力」の制御手段として社説が手本にするのが、欧州連合(EU)の「一般データ保護規則」(2018年施行)だ。自分の個人情報の何が企業の手にあるかを知る権利や、企業保有の個人情報の扱いに本人が関与できる諸権利を定めている。情報をもとに「自動処理で人物像を予測する」こと、即ち「プロファイリング」に異議を申し立てる権利や、情報をネットから削除するよう求める権利などだ。後者は「忘れられる権利」と呼ばれている。

人権を重んじると言うなら、こうした法制は欠かせない。ところが日本国内では、それが整えられていない。この不備をなんとかしようというのが、この社説のメッセージだ。

ただ、その法整備をどう実現するのか、ということになると社説の歯切れは悪くなる。一方では、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は現行憲法第13条の「個人の尊重」から導けるとして、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明記するという案を例示する。だが他方では、衆議院憲法審査会の議論で「データに関する基本原則を憲法にうたうべし」という意見もあったことを、論評を控えたまま紹介している。

実は、この二者のうちどちらを選ぶかが肝心なのだ。2022年、メディアはそこに踏み込むべきだ。私自身の考えを言えば、ここまで改憲論が強まってきても、安易に「憲法にうたうべし」論に乗っかってはいけないように思う。そこには、落とし穴があるからだ。

それは、社説最後の数段落に書き込まれたことに関係する。一つには、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は人々の「知る権利」とバランスをとりながら尊重しなくてはならないということだ。そうでなければ、私たちは社会の真相から遠ざけられてしまう。もう一つは、巨大IT企業の情報支配にとらわれて国家の情報支配を許してはならないということだ。憲法を変えるならば、これら要件を十分に満たさなくてはならない。

2022年は、改憲論議が具体論の域に入りそうだ。このときに戒めるべきは、9条の改定ばかりに目を奪われることだ。「憲法にうたうべし」の声が出てきそうな新しい懸案、即ち気候変動や新型感染症、個人情報保護などの問題でも論点を見逃してはならない。大切なのは、憲法は人々の諸権利を国家の権力から守るためにある、という基本思想だ。この視点から憲法を組み立て直そうという強い決意がないなら、その改憲論に同調すべきではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月7日公開、通算608回
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宇宙の最期か自分の最期か

今週の書物/
『宇宙の終わりに何が起こるのか』
ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊

暦果つ

今秋、友人から1冊の本を贈られた。今どきのことだから、ネット通販大手から直接、拙宅に届けられた。ありがたいことだ。厚意に応えて、この本のことを語りたい。そう思って感想を書いていた。暮れも押し詰まった今年最後の日、その拙稿を公開しよう。

それは奇しくも、宇宙の最期を考える科学本だった。物理学には宇宙論という分野があり、宇宙の起源はだいぶわかっている。20世紀半ばは、宇宙は無限の昔からずっと在りつづけているという定常宇宙論と、宇宙は天地創造の大爆発で始まったとするビッグバン宇宙論が対立していたが、1960年代半ばに大爆発(ビッグバン)の名残が見つかり、後者が定説となった。宇宙には始まりの一瞬があるという見方が定着したのである。

1980年代初めには、さらに進展があった。天地創造のとき、大爆発に先だって宇宙が指数関数的に急膨張したという説が出てきたのだ。インフレーション宇宙論と呼ばれる。これについても、その直接証拠を見つけ出そうという研究が今まさに進んでいる。

宇宙は、始まりについてはかなりくわしくわかってきた。そこで気になるのは、ではどう終わるのか、ということだ。好奇心の自然な流れと言えよう。ただここで、私の心には悪魔のささやきが聞こえてくる――。宇宙の終わりなど、自分にどれほど意味があるのか。宇宙が終わるより早く私自身が終わっている。その確率は限りなく100%に近い。ならば、こう言ったほうがしっくりくる。私が終わるとき、私の宇宙も終わるのだ、と。

で、友人から本を貰った話に立ち返る。友人が新刊書籍をわざわざ買い求め、それを私に届けさせたことには隠された意味があるのだろう。友人も私も、すでに高齢者の域にある。それなのに科学本を、これまでのように知的好奇心を満たすためだけに読んでいてよいわけはない。宇宙をめぐる最新の知見を自身の現在と突きあわせて考察してみてはどうか――そう促されたような気がしたのだ。これもまた、悪魔のささやきに違いない。

その本とは『宇宙の終わりに何が起こるのか』(ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊)。著者は、ブラックホールなどの理論研究を専門とする米国の物理学者。2009年に米国で博士号を取得、英国、オーストラリアでも研究生活を送った。刊行時の肩書は、ノースカロライナ州立大学助教とある。科学の語り部としての活動に熱心で、『サイエンティフィック・アメリカン』誌などに寄稿している。

この本は序盤、宇宙物理のおさらいを済ませた後、第3章から本題に入る。宇宙の「終末シナリオ」を五つ選んで、一つずつ詳しく紹介している。それらを章題通りに並べれば、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」「真空崩壊」「ビッグバウンス」である。

「ビッグクランチ」のクランチ(crunch)には破砕の意がある。潰れるということだ。この筋書きでは、宇宙が現在進行中の膨張をいつかやめ、収縮に転じた後、崩壊する。二つめ「熱的死」では、宇宙が膨張しながら「徐々に空っぽになり、暗くなっていく」。その結果、最後は「時間の矢」が事実上消滅するという。三つめ「ビッグリップ」のリップ(rip)は、引き裂くこと。これだと、宇宙は膨張の末に「自らズタズタに千切れていく」。

以上三つの筋書きでは、宇宙の膨張がこの先も続くのかどうか、が密接にかかわっている。カギを握るのは、宇宙を外方向へ膨ませるしくみだ。それらしきものとして、私たちが最近よく耳にする用語は三つ。「宇宙定数」「真空のエネルギー」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」である。これらは同じものを指しているように見えて、実はそうではない。それぞれ由来が違うのだ。この本の記述に沿って、話を整理しておこう。

宇宙定数は1917年、アルバート・アインシュタインが発案した。アインシュタインは前年、一般相対論の方程式で宇宙の重力場を表現したが、それだけでは重力による収縮で宇宙が潰れてしまう。当時優勢の定常宇宙論を満たすためには、収縮作用を打ち消す仕掛けが必要だった。それで方程式に「空間を引き伸ばす」項をつけ加えたのだ。その項の係数が宇宙定数だ。これで「空間のすべての小片が反発エネルギーをもっている」ことになった。

宇宙定数はその後、いったんお役御免になる。膨張宇宙論が定常宇宙論にとって代わったからだ。宇宙膨張が最初の一撃の惰性で続いているなら、反発エネルギーの供給は不要になる。ところが1998年、膨張の「加速」が観測され、この定数は息を吹き返したのである。

では、真空のエネルギーとは何か。こちらは「からっぽの空間がもつエネルギー」を意味する。量子論によれば、真空にも場の基底状態があり、エネルギーがゼロとは言えない。このエネルギーが「宇宙定数をもたらしている」と考えてよいなら「最も自然」な説明になる、と著者もみる。だが、そうは問屋が卸さない。宇宙では真空のエネルギーの理論値が、宇宙の加速膨張の観測から得られるエネルギー値より120桁も大きいのだ。

120桁の違いを説明する妙案は見つかっていない。宇宙定数イコール真空のエネルギーかどうかの答えは宙に浮いている。さらに宇宙定数が本当に定数で、いつでもどこでも一定かどうかも不確かだ。だから、この本ではこんな記述に出あう。「宇宙の膨張を加速させられる仮説上の現象は、すべてひっくるめて『ダークエネルギー』と総称する」(原文では太字箇所に傍点)。それは加速膨張の原因という役割に注目する概念で、実体は謎のままだ。

前述した筋書きをダークエネルギーに引き寄せてみよう。「ビッグクランチ」では、重力による収縮がダークエネルギーによる加速膨張に勝る。逆に「熱的死」と「ビッグリップ」では重力が負けるので、それらは「ダークエネルギーによってもたらされる終末」だ。

そうなると、宇宙に重力源の物質がどれほどあり、ダークエネルギーの量がどのくらいかが気になるが、それがはっきりしない。最近の科学記事には、ダークエネルギーが宇宙の全物質・エネルギーの7割ほどを占めるという知見がよく出てくるが、この本はそのことにも踏み込んでいない。ダークエネルギーは「時間の経過にともなって変化しうる」というから、現時点の成分比にこだわってもしようがないのかもしれない……。

要は、ダークエネルギーはわかっていないことばかりということだ。だから、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」については、どの筋書きが有力かを言うのは早すぎる。まずは、科学者にダークエネルギーが何かを見定めてもらおうではないか。

筋書き4番目の「真空崩壊」と5番目の「ビッグバウンス」は、理論先行で観測の手が届かないところにあるようなので、吟味はいっそう難しい。だから当欄は、この二つには立ち入らない。ただ「真空崩壊」が私の心をとらえたことだけは強調しておこう。

「真空崩壊」が凄いのは、それが遠い未来の話ではないことだ。この瞬間の出来事であっても不思議はないという。発端は「真の真空」の「泡」が出現すること。泡は膨らみ、広がり、可能な限りの宇宙を「取り消してしまう」。そこに私たちがいれば、のみ込まれてしまうだろう。これは、宇宙が量子論のトンネル効果によって「偽の真空」状態から「真の真空」状態へ移ることを意味する。確率論でそんなことも起こるという話だ。

著者は、こう脅かしておいて、それは「あなたが心配すべきことがらではない」と断ずる。崩壊が起こったら「止める手段がない」。起こる気配があっても、それを「知りえない」。もし、身に降りかかっても「痛くはなさそう」。消滅させられたときは「悲しむ人も、同時にいなくなる」。そして「少なくとも、今後、何兆年かのあいだは」「可能性はきわめて低い」と不安を和らげる――。この宇宙観は、人生観とも響きあう。

「私」自身の終末も、ある種の真空崩壊と言えよう。宇宙に比べ、その可能性は格段に大きく、安心していられる時間は桁違いに短い。もちろん、崩壊には心がけ次第で回避できるものもあるが、「止める手段がない」リスクや「知りえない」リスクが数多ある。「私」の未来は、いつも崩壊と隣り合わせだ。宇宙の不確かさが「私」の存在の不確かさと見事に重なりあうではないか。科学本を読むことはやはり、自身の現在に光を当ててくれる。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月31日公開、通算607回
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電車に乗れた話、乗れなかった話

今週の書物/
『スライディング・ドア』
ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊

ロンドン地下鉄~The Tube

恋愛沙汰は、まさに量子力学的だ。ひょんなことから、ひょんなことが起こる。ひょんなことで、それからの人生が左右されたりもする。当事者は偶然の妙に翻弄されている。

当欄は今年、折に触れて「量子」を話題にしてきた(*)。クリスマスイブのきょうは、恋物語を量子力学風にとらえてみよう。量子力学の世界では原子や電子の状態がいくつも重なり合うが、観測されたとたん、それが一つに決まる。恋物語もこれに似ている。初めはもやもやしているのだが、なにか事件が起こると霧が払われ、見えなかったものが見えるようになる。可能性の膨らみが一気にしぼんで、筋が定まるという感じだ。

もっとも、このようなこじつけが成り立つのは「コペンハーゲン解釈」に立脚したときのことだ。量子力学の教科書的な解釈である。この考え方を踏まえると、物理系の〈重ね合わせ→観測→状態の収縮〉は人間系の〈可能性→事件→筋書きの確定〉に対応する。

コペンハーゲン解釈では、物理系が観測の瞬間にどの状態に落ち着くかを確率論で考える。これを恋物語に当てはめてみよう。AがBに恋心を抱いたとして、その後の筋書きはAが思いを遂げられる確率が10%、振られる確率が90%というように数値化される。これをAの視点から見たときに言えるのは、バラ色の未来が10%、灰色の未来が90%というだけではない。自分の未来がバラ色か灰色のどちらか一方になるということも含意されている。

ただ、量子力学の解釈はコペンハーゲン解釈だけではない。たとえば、異端と言われながらも最近注目度が高まっている多世界解釈がある。この見方では、物理系の観測者は観測のたびに身を分かち、それぞれの分身が別々の世界へ入っていく。物理系を〈P〉と観測した分身は物理系〈P〉の世界へ、物理系を〈Q〉と見た分身は物理系〈Q〉の世界へ進むのだ。このとき、その観測者の未来は無数にあると言ってもよいだろう。

ここで、AとBの恋物語を多世界解釈流に考察してみよう。二人の関係が量子力学的に展開するとすれば、そこには、AがBの心をとらえる未来も、AがBに見捨てられる未来も、確実にある。Aから見てバラ色の物語も、灰色の物語も、ともに成立するのだ。もし恋愛小説家がどちらか一方の筋書きを描いて終わりにしたら、それは恋物語の一部だけを拾いあげたことになる。世のたいていの恋愛小説は、そこにとどまっているのだが……。

で、そうではない作品を紹介したくなった。英米合作の映画「スライディング・ドア」(ピーター・ホーウィット監督・脚本、1997年)だ。主人公は、ロンドンの広告会社に勤めるヘレン、29歳。グウィネス・パルトロウが演じた。彼女は会社をクビになった日、地下鉄に飛び乗ろうとした瞬間、二人に分かれる。ここに流れ図を示そう。これは、『量子の新時代』(佐藤文隆、井元信之、尾関章著、朝日新書、2009年刊)の掲載図をもとにしている。
この映画を最後に観てからもう何年もたつので、細部は忘れてしまった。そこで今回、私は小説版を手に入れた。『スライディング・ドア――SLIDING DOORS』(ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊)である。訳者のあとがきによると、著者はもともと俳優業の人で、これは監督第一作だった。ロンドン市街で道を渡ろうとしたとき、「あやうく車にはねられかけ、作品のアイデアがひらめいた」という。

一読して気づくのは、映画版と小説版で作品の印象が異なることだ。映画版では、登場人物の動きをカメラの目で追いかけている。人物描写が、客観的なわけだ。ところが、小説版は登場人物の意識の流れをたどることで、その人物の目に映る世界を主観的に描きだしている。この差異はふつう、小説を映画化したり映画をノベライズしたりするときにはそれほど気にならない。だが、物語が多世界含みとなると、注意が必要になる。

映画版では、物語が地下鉄ホームの場面で流れ図のa)b)に分かれ、それらが交互に展開される。a)の話がちょっと、b)の話がちょっと、再びa)をちょっと……という具合だ。小説版もa)b)交互は同じだが、ヘレンの視点の「プロローグ」があった後、第1章は彼女の同棲相手ジェリーの視点、第2章は地下鉄でたまたま隣の席にいたジェームズの視点、第3章はまたジェリーの視点……と第6章まで進み、「エピローグ」でヘレンに戻る。

したがって小説版1~6章で、a)の筋は一貫してジェリーの目で描かれる。逆にb)の筋をたどるのはジェームズの目だ。このようにa)b)は、ただ分岐した並行世界というだけではない。そこには、ジェリーとジェームズの主観も投影されている。

ここで気づくのは、多世界の概念が客観を前提にしていることだ。一人の人物が分岐する様子は、遠目に眺めるようにしか思い描けない。天空の視点が必須と言ってよい。ところが、人間の主観は地上の視点にとどまっている。小説版の読者は、プロローグや各章、エピローグごとにヘレンやジェリー、ジェームズの主観に引きずられ、さらにその分身一人から見た世界しか意識できない。それが枝分かれの一つであることを忘れがちになる。

多世界を感じとるには、別々の主観に身を寄せて物語を吟味するのは得策でないということだろう。この小説版ならば、ヘレンの一人称で書かれたプロローグとエピローグに的を絞り、一人の人間にとって世界の枝分かれがどんな意味をもつのかを考えてみたい。

プロローグでは、ヘレンが同僚とのいさかいで「つまりわたしはクビね」と啖呵を切り、オフィスをとび出る。ビル内のエレベーターを待ちながら思いめぐらすのは、ジェリーとのこれからだ。彼は作家志望なので、無収入。働いてもらうか。いや、「ダメダメ。ジェリーには世紀の大傑作を書くという使命がある」。自分がスーパーマーケットに働きに出るか、それともウェイトレスになるか……そんな未来の構想が頭のなかで渦巻くのだ。

エレベーターがやって来る。ヘレンは乗り込む。このとき、イヤリングが耳から外れて下に落ちた。チリンという音。乗り合わせたビジネスマン風の男が気づき、拾いあげてくれた。これが筋書きb)の伏線。その男性がジェームズだったことは、後の章でわかる。

ヘレンは通りに出て、携帯電話をとりだす。ジェリーに電話をかけるが、ずっと話し中だ。この事情は、a)の第1章を読むとわかる。「役立たず!」と内心穏やかではないが、「ダメダメ。いまのわたしには彼しかいないんだから」と思い直して地下鉄駅へ向かうのだ。

駅は降車客であふれていた。幼い女の子が人形を手に、下り用の階段を昇ってくる。ふだんなら子どもの愛らしさに免じて気にもならないのだろうが、今のヘレンは「しつけがなってない」とイラつく。「待って」「わたしはその電車に乗ります」「お願い、どうしても乗りたいの」と心は急く。一瞬先に二つの未来があるのだ。「もしもその電車に乗れなかったら……」「もしもその電車に乗れたら……」。プロローグは、そんな2行で結ばれる。

こうみてくると、ヘレンの人生には「乗れなかったら」と「乗れたら」の枝分かれに先だって、分岐後の筋のタネが仕掛けられていることがわかる。未来の構想がある。未来の伏線もある。1~6章をみると、一つの世界a)では構想通りの生活が始まるが、それがハッピーエンドになるとは限らない。一方、もう一つの世界b)では構想がズタズタにされ、代わりに伏線が実を結ぼうとするが、それが成就すると決まったわけでもない……。

エピローグにも触れておこう。ネタばらしをしたくないので詳細は明かせないが、このときのヘレンは、流れ図でいえばa)の世界にいて、今は入院中の身だ。病室で思案するのは「あの日、もし地下鉄のあの電車に間に合って乗れていたら、わたしはどうなっていたかしら」ということだ。ただ、そんなふうに思うa)の「わたし」は、プロローグの伏線がb)の「わたし」にもたらした劇的な筋書きをまったく察知できないでいる。

「私」がもし多くの並行世界のどれか一つにいるのだとしても、別の世界の別の「私」とはこのくらいの距離感にあるということだ。どこかの世界に、自分と同じ過去を共有する「私」がいて想像もつかない人生を歩んでいる――それはそれでよいではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月24日公開、同月26日更新、通算606回
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友の句集、鳥が運ぶ回想の種子

今週の書物/
『句集 鳥の緯度』
土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊

椅子の脚

古くからの友人が句集を出した。友と私は小学校以来、すべて同じ学校を出た。職場は違ったが、どちらもメディア界だった。ふつう以上には濃厚な関係だ。俳句という、読みようでどのようにも読める作品群を私が読むことは、それなりに意味があるだろう。

友人は俳句の素人ではない。プロというわけではないが、有名な句会に出たり、結社に加わったりして修業を積んできた。いくつかの賞も受けている。だから、句集の掲載句はすべて水準以上だ。当欄でその一部を紹介する意味は小さくないように思われる。

で、今週は『句集 鳥の緯度』(土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊)。著者、即ちわが友は1951年生まれ、山河俳句会の同人であり、現代俳句協会会員でもある。

本の帯に「北から南から鳥は日本に渡ってくる/赤い実を食べた鳥が私の荒地に種を落とした/…(中略)…/俳句の交わりから、詩のミューズから/到来した種が育って荒地は草原になった」とある。「あとがき」によれば、著者は散歩していて空き地にムラサキシキブを見つけ、鳥の落とし種が実を結んだのだろう、と推察した。「鳥の作った庭、私の句もそれに似ている」と思ったという。さっそく、その庭をのぞいてみよう――。

まず、私が世代的共感を抱いた句から。
舐めて貼る八十二円レノンの忌
封書が82円だったのは、2014年~2019年。一方、ジョン・レノンがニューヨークで暴漢に射殺されたのは1980年12月8日。切手貼りなどの些細な動作で、ふと昔の出来事が思い浮かぶことはよくある。私たちの年齢では、その時間幅が数十年に及ぶ。

「レノン撃たる」の一報を、私は初任地北陸の小都市で聞いた。場所は、県庁の記者クラブ。通信社の記者が東京本社から聞きつけたのだ。一瞬、茫然とした。あの日、窓の外は雪模様の曇天で……。作者にもきっと、同じような体験があるのだろう。この句には、郵便料金82円が時間軸の基点になるという妙がある。それにしてもコロナ禍の今、切手ペロリはたしなめられそうだ。古い手紙の82円切手は「舐めて貼る」時代の証言者か。

冬木立どの木も過去に遇ったひと
落葉樹の魅力は、初夏の新緑や晩秋の色づきだけではない。裸木(はだかぎ)と呼ばれる冬木立の姿もいい。枝分かれの細部が露わになり、木々の個性が見えてくる。「あの枝ぶりは毅然としていて、どこかあの人に似ている」「あの枝のあの曲がり方は、あいつの心の屈折そっくりだ」――並木道を歩きながら、樹木1本ずつを「過去に遇ったひと」に見立て、甘口辛口の思いを巡らせる。リタイア世代、冬の散歩道ならではの愉悦か。

風景句で気に入った2句。
菜畑の奥に廃業ラブホテル
菜畑という言葉で目に浮かんだのは、ドイツの風景だ。その春、私はミュンヘン郊外の量子光学研究所を訪れていた。荷電粒子を宙に浮かせ、光を当てる実験について取材しながら、窓外に広がる菜畑に目を奪われた。物理は無機の極みだが、菜の花はムッとするほど有機的。その対比が際立った。この句にもそれがある。ラブホは有機的なはずだが、ここでは看板の文字が欠け、窓の鎧戸も破れて無機の気配が漂う。「廃業」の一語が絶妙。

赤とんぼ物流倉庫という荒野
春の句「菜畑…ラブホ」の秋版。こちらの句では「赤とんぼ」が有機的、一方、「物流倉庫」はただでさえ無機的だが、その印象が「荒野」のひとことでいっそう強まった。川べりの敷地にはコンテナが野積みされている。庫内はロボットがいるだけか。

次に、静物句をいくつか。
じゃが芋が鈍器のように置かれあり
私の記者経験では、警察は窃盗事件の発生を発表するとき、「ドアをバール様のものでこじ開け」という表現を多用した。バールは鉄梃(かなてこ)。窃盗犯は、鉄梃かどうかわからないが、鉄梃状のモノを使ったということだ。モノから道具としての属性を差し引く「様のもの」。この句の「鈍器のよう」にも同様の作用がある。じゃが芋から、ポテサラやおでんの材料という性格が引きはがされている。芋を実存にしてしまった句。

寒晴の肉感的な椅子の脚
過去のあるビロードの椅子青嵐
作者は、椅子という家具に強いこだわりがあるようだ。前者は、冬の陽光が差し込む部屋にいて、無人の椅子に目をとめた句だろう。太陽が低いから、日差しは斜め。脚部にも光が届くのだ。「肉感的」とあることで、この椅子はかつてそこに座った人の分身となる。作者は、その人との交流を追憶しているのかもしれない。後者は、椅子が呼び起こす回想性をより直截的に詠んだ句。「ビロード」の質感が体温の名残のように思えてくる。

ここで打ち明け話をすると、私は作者が発起人である句会に参加している。指導役の宗匠を歌壇俳壇から招いて開かれる。メンバーにも句歴豊かな人が多いが、私のような純然アマチュアもいる。定例の句会では、メンバーが匿名で投句した作品から秀句を互選する。この句集には、作者がその句会に出したものも含まれている。そのなかには、私が会では選ばなかったが今回選びたくなった作品もある。そんな句を二つ挙げよう。

木守柿通勤準急加速する
木守柿は、収穫後の木にあえて残した柿の実を言う。翌年の結実を願う風習らしい。この常識を知らなかったために私は選句しなかった。反省。梢に一つ二つ残る鮮烈な柿色。それが車窓に見えたなら絶対に目で追うだろう。動体視力を振り切る通勤準急が憎い。

叡山をむこうにまわし赤蛙
この句を選ばなかったのは、無知ゆえではない。京都に単身で住んだとき、鴨川沿いに寓居を借りた。対岸に五山送り火の大文字が見え、彼方には叡山も望めた。私は、赤蛙に自分の京都を奪われた気がしたのだ。選句には、ときにそんな嫉妬心が作用する。

次いで、社会派風ともとれる2句。
アロハ着てパチンコ打ちにいく自由
これも句会に出され、私は1票を投じた。「アロハ」を唐突に感じる向きもあろうが、句会の兼題(課題のようなもの)が「アロハシャツ」だったのだ。「アロハ」の軽装感と「パチンコ」の騒然感を「自由」という高邁な概念に結びつけた。散文風なのがいい。

電気ケトルの先に原子炉すべりひゆ
湯はガスで沸かすもの、というのは過去の話、うちはオール電化です、と悦に入っていたら、電気湯沸かしの大もとに原発という核分裂の湯沸かしがあることに気づいた――そんな感じか。私は一瞬、下の句「すべりひゆ」を古めかしい動詞かと思った。調べてみると、雑草の一種ではないか。ここでも、自らの無知に赤面。作者は植物に詳しいので、この草を夏の季語として下の句に置いたのだろう。だがなぜ、スベリヒユなのか?

電力と雑草という異世界のアイテムを出会わせる。俳句の極意はそこにあるのだから、理由を詮索するのは無粋だ。でも、どこかで異世界同士が通じあっていないか。そう思ってスベリヒユの画像をネット検索すると、茎が地を這うように枝分かれしていた。送電網(グリッド)の図面に見えなくもない。作者にはこのイメージがあって、そこに電力を重ねあわせたのか、それとも意図はないのに偶然、ぴったり重なりあったのか。

蛇足を言い添えれば、スベリヒユはトウモロコシなどと同様、光合成を高能率にこなす植物(C4植物)だという。光合成→二酸化炭素固定→脱炭素社会と、この一面もエネルギー・環境問題につながる。こうみてくると、スベリヒユは下の句に適任だったのか。

最後に、この句集でもっとも危うい句。
古本のような女をめくり遅日
「古本のような女」と読んで、ギクッとする。ふつうなら言ってはいけない言葉だ。「古本」と言えば、ネット通販の注意書きにある「一部にヤケ、表紙にスレ」を連想してしまう。だが裏を返せば、その本はたくさんの旅をして、多くの人に出会ってきたのかもしれない。動詞「めくり」もきわどいが、この句の主人公は本の頁を繰るように「女」の話を聴いているのだ、と解釈しよう。早春の午後遅く、傾く陽射しを受けながら……。

締めは、友人に敬意と謝意を込めて拙句を。
友の句を巡りたずねて暦果つ(寛太無)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月17日公開、通算605回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
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