そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

漱石の時代、新聞社はサロンだった

今週の書物/
「長谷川君と余」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

題字

「新聞社の人だな、きっと」。半世紀も昔のことだ。夕方、下り電車に乗っていたとき、近くに立っている男性の二人連れを見て、そう思った。当時、私は学生の身。新聞記者になる以前のことだ。だから、この「新聞社の人だな」は直感に過ぎない。

年の頃は40~50代だろうか。紳士然としている。勤め先の見当をつける手がかりは、外見の緩さだった。記憶はおぼろだが、髪は長め、ジャケットに色違いのズボンを穿いていたように思う。あのころ商社・金融・メーカー系のサラリーマンは、七三分けに上下揃いの背広姿がふつうだったから、そうでないというだけでマスコミ系の記号となりえた。服装の色調が地味なので、テレビ系や広告系が外され、新聞系か出版系に絞られた。

「新聞社の人だな」の決め手は、二人の会話だった。年長の一人がつり革につかまり、上半身を揺らして、とめどなく話している。楽しげで、得意そうでもある。もう一人は聞き役に徹している感じだ。話の流れはつかめなかったが、話題はもっぱら海外のこと。中南米だったように思う。政治情勢を論じていたのか、世情のあれこれを語っていたのかは覚えていない。ただ私にも感じとれたのは、それが現地の見聞にもとづく話だったことだ。

この人は特派員だったのだ、と確信した。在外経験が豊かで、今は日本に帰任して、本社の部署にいるのだろう。世の中には、こういう部類の人もいるのだ。つり革にぶらさがりながら、遠い国の出来事を隣町のことのように話して聞かせる人が――。

数年後、私が新聞社に就職したとき、そうか、自分も通勤電車で世界を語るような業界に入るのだな、と覚悟した。そうなりたいとは思わなかった。だからと言って、そうなった人を嫌ったこともない。私が入社したころ、そういう記者はたしかに存在した。ただ年々減って、今では絶滅危惧種になっている。私自身も特派員経験者だが、電車で友人と交わす会話は、沿線のレストランはどこが旨いかというような世間話ばかりだ。

新聞社にはかつて、あのつり革の紳士に象徴される文化があった。たとえて言えば、雲に乗って世界を飛び回っているような思考様式だ。それが今、消えつつある。なぜか? ひと昔前、外国は別世界だった。行商人が得意客に峠の向こうの話を聞かせるように、メディアは海外事情を伝えた。だが、ネット時代の今は違う。外国もリアルタイムでつながっている。同じ世界になったのだ。でもなぜか、つり革の紳士の文化が懐かしい。

で、今週は「長谷川君と余」。先週の『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)に収められた「他七篇」の一つである(当欄2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」)。同じ本を2週続きでとりあげることになるが、この一篇は漱石が朝日新聞社に入ってから同僚とどんな交遊をしていたかを知る手がかりになるので、話題にしない手はない。そこからは、往時の新聞社の空気を感じとることもできるだろう。

題名にある「長谷川君」とは、二葉亭四迷のこと。日本で近代小説の分野を切りひらいたとされる作家だ。本名を長谷川辰之助という。この一篇で、冒頭の一文は「長谷川君と余は互いに名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった」(ルビは原則省く、以下も)。その二人がたまたま居合わせることになったのが、朝日新聞社だった。四迷が先に在社していて、そこに著者が加わったということのようだが、「つい怠けて」挨拶にも行かずにいた。

ここでわかるのは、漱石が入社した1907(明治40)年ころの新聞社の長閑さだ。もちろん、著者や四迷は別格の社員で、ふつうの記者とは違ったのだろう。この一篇には「用が出来て社へ行った」という記述があるから、通勤などという習慣はなかったようだ。新聞社では今でも外回りの記者が社内に滞在する時間は短いが、それは取材に走りまわっているからだ。著者の目に映った新聞人像からは、そんなせわしさは見えてこない。

入社後しばらくして、著者は四迷と顔を合わす機会を得る。東京朝日新聞主筆の池辺三山が、大阪朝日新聞主筆の鳥居素川がやって来たとき、社の幹部ら10人余を「有楽町の倶楽部」へ招いて接待した。そのなかに著者も四迷もいたのである。四迷の第一印象は「かねて想像していた所を、あまりに隔たっていた」。背丈があり、肩幅も広く、「どこからどこまで四角」だ。「到底細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもない」と感じたのだ。

著者はこのとき、四迷と会話らしい会話を交わしていない。四迷がしゃべるときは、ただ聞く側に回った。そこで受けた第二印象は、けちのつけようのないものだ。いま話をしているのは「文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない」。では、どんな人か。「あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士」にほかならないと感じたというのである。人物評としては、最高級の賛辞と言ってよいだろう。

おもしろいのは、ここで著者が四迷の品位を分析していることだ。それは「貴族的のものではない」として、「性情」や「修養」に由来するとみる。そして、さらに「修養」の成分を探り、その一部は「学問の結果」だが、「俗にいう苦労」の跡もあるという。

著者のダンボ耳は、やがて「品位のある紳士」の海外談議を聞きとっていく。四迷が、主筆の池辺を相手にロシアの「政党談」を始めたのだ。「大変興味があると見えて、何時まで立っても已めない」「まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例の六(む)ずかしい何々スキーなどという名前がいくつも出た」。いつまでも続く話、きのう見てきたような話――このくだりにさしかかって、私はくだんのつり革の紳士を思いだしたのである。

この連想は見当外れではない。四迷は1908(明治41)年、朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに駐在するのだ。その人事が固まったころ、著者は四迷、鳥居と三人で昼食を囲んだ。場所は、神田のうなぎ屋。四迷は「現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様」や「露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望」を語ったという。政治から文学まで、分野を問わないロシア通だったのだ。

ただ赴任後、サンクトペテルブルクから届いたはがきでは「此方の寒さには敵(かな)わない」と弱音を吐いていた。著者は、それを見て「気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた」。ところが、四迷は現地で肺結核を患って1909(明治42)年、帰途の船上で帰らぬ人となる。「まさか死ぬほど寒いとは思わなかった」。だが、ほんとうに「死ぬほど寒かった」のである。著者の哀惜の念が痛いほど伝わってくる。

この一篇には、当時の新聞社の社内風景もちらりと出てくる。「汚ない階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四、五人話をしている」。これは東京朝日新聞の社屋が、まだ銀座並木通りにあったころのことだ。階段の描写から埃っぽさも感じとれるが、数人の会話には議論というより談笑の気配がある。蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局とは大違いだ。

著者と四迷が風呂場で湯に浸かる場面も。「ある日の午后」のことだ。洗い場で「ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である」――これは銭湯か? いや、社内のようだ。そう言えば私が若いころにも、新聞社には社員用の浴場があった。

漱石や四迷がいたころ、新聞社はサロンでもあったのだ。情報がリアルタイムで押し寄せ、それをリアルタイムで選びとり、伝えなくてはならない今日、その雰囲気は望むべくもない。だが、あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい。私には、そう思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月15日公開、同月20日最終更新、通算557回
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

元旦社説にちょっと注文をつける

今週の書物/
「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」
朝日新聞2021年1月1日朝刊

元旦の日差し

年が改まった。私には服喪という私的事情があるので、ここでも慶賀の言葉は控える。だが、そうでなくとも「おめでとう」とは言い難い。世界中、この列島にもこの都市にも、新型コロナウイルスの感染症でたおれた人々が数えきれないほどいる。今この瞬間、病床には息を喘がせている人たちも大勢いる。そして、そういう人々を助けようと、暦にかかわりなく治療と看護にあたるスタッフがいる。それが、2021年新春の風景である。

とはいえ、きょうは元日だ。お祝い気分はなくとも、心を新たにする節目であることに違いはない。とりわけ今年は元日がたまたま金曜日であり、拙稿ブログの公開日に重なった。心にひと区切りをつけるのにふさわしいものを読み、考えてみたいと思う。

で、選んだのは、今しがた届いた新聞だ。私自身の新聞記者としての体験から言うと、新聞人は昔から元日付の朝刊に異様なほどの力を注ぐ。第1面や社会面だけでなく各ジャンルのページも、これはという特ダネを掲げたり、全力投球の連載初回を大ぶりに扱ったりする。自分たちは時代の記録係であるとの自負がきっとあるのだろう。だから、紙面のどこをかじってみても新年のひと区切り感があるのだが、やはりここは社説をとりあげよう。

「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」(朝日新聞2021年1月1日付朝刊)。なぜ朝日新聞なのかと突っ込まれそうだが、今は1紙しか定期購読していないこともある。古巣の新聞が、どんな時代の切りとり方をしているかに注目したいと思う。

社説がまくらに振った話題は、昨春、長崎原爆資料館が玄関に掲示した「長崎からのメッセージ」。資料館の関心事である「核兵器」を「環境問題」「新型コロナ」と並べ、それらの共通項を見抜いていた。いずれも「立ち向かう時に必要」なのは、「自分が当事者だと自覚すること」「人を思いやること」「結末を想像すること」「行動に移すこと」だというのである。なるほど、同感だ。社説筆者は格好のまくらを掘りだしてきたものだ、と思う。

ここで社説は焦眉の問題、コロナ禍の話に入る。人々は今「誰もがウイルスに襲われうること」「感染や、その拡大という『結末』を想像し、一人ひとりが行動を律する必要」を知るに至った、という。たしかに、この災厄は人類のすべてが「当事者」であり、それに対抗するには、めいめいが周りの「人」に気を配り、社会に与える影響の「結末」まで思い描いて自らの「行動」を規制しなくてはならない――まさに、メッセージの言う通りだ。

まったくその通りなのだが、元科学記者としてやや物足りないと感じることが、いくつかある。一つには、「当事者」の意味にもう一歩踏み込んでほしかった。感染症で、人はうつされる側になる一方、うつす側にもなりうる。今回のコロナ禍は、無症状の人の感染が少なくないので、自分が当事者だと実感しないまま、うつされてうつすという過程に関与してしまうことがある。感性だけでなく理性でも、当事者意識を強めなくてはならない。

もう一つは「行動」だ。社説筆者が書くとおり、私たちはコロナ禍で「一人ひとりが行動を律する必要」に迫られた。マスク着用しかり、ステイホームしかり、大人数の飲み会自粛しかり。日本社会では、それらがおもに心がけとして為されたのだから、まさに各自が行動を律したと言ってよい。この方法で行動変容をかなりの水準まで達成できたのは、同調圧力が強いという精神風土の特徴が、今回ばかりはプラスに働いたのかもしれない。

ただ、ここには私たちがこれから対峙しなくてはならない難題が立ちはだかっている。世界は、そして日本も1980年代末に冷戦の終結を見てから、人間の自由を至上の価値観として共有するようになった。経済政策の新自由主義だけではない。世の中のさまざまな局面で選択の自由が重んじられるようになっていたのだ。そんなときに「行動を律する必要」が出てきたのである。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」参照)

自由の制限は、権力者が支配を強めるためのものなら許しがたい。だが、それが弱者の生命を守るという公益のためなら受け入れなければならない。その方法をどうするか。社説は、この一点にも目を向けてほしかった。コロナ禍に限らず感染症の大流行は、対策も急を要する。自由の制約を伴う手段を講じるとき、事前に十分な議論を尽くせないことがありうる。それならば事後の徹底検証が欠かせない――そんな提案もありえただろう。

今回の社説は、コロナ禍が効率優先の社会の暗部を浮かびあがらせたことを指摘している。テレワークなどの恩恵を受けられない「看護、介護、物流」など「対面労働」の「エッセンシャルワーカー」が「格差」に苦しんでいないか、といった問題提起だ。私も、この点は同感だ。これも新自由主義にかかわる論題だからこそ、コロナ後の時代に私たちが自由という概念をどうとらえ直すべきかについて思考を展開してほしかった。

コロナ禍論に対する注文はこのくらいにしよう。この社説は「長崎からのメッセージ」を踏まえ、コロナ禍対応と同様、核兵器の廃絶をめざすのであれ、地球環境を守るのであれ、「当事者」と「行動」の2語がカギになることを強調している。環境保護については、すぐ腑に落ちる。温暖化が化石燃料の大量消費に起因するのなら、私たちの行動次第でそれを食いとめられる。だれもが原因を生みだす当事者でもあり、被害を受ける当事者でもある。

ところが反核となると、ピンとこない面がある。核兵器の開発や保有を企てるのは政治家だ。私たちとは遠いところにある話ではないか。ふつうは、そう思ってしまう。だが、その通念を振り払って自分事としてとらえ直そう。この社説は、そう訴えているように見える。

最後に、言葉尻にこだわった余談。この社説の見出しにある「波頭に立つ」は結語にも登場する。「若い世代」が「未来社会の当事者」として「このままで人類は持続可能なのかという問いの波頭に立っている」というのだ。気になるのは、「波頭」という言葉である。

「波頭」は、辞書類によれば波の盛りあがりのてっぺん。「問い」のてっぺんに立つとはどういうことだろうか。読者の多くはたぶん、「最前線で問題と向きあう」といったイメージで理解したような気がする。あえて「波」に結びつけて言い換えれば、「問題を波面の先頭でとらえる」という感じか。今回の「波頭に立つ」を誤用とは言うまい。言葉の意味は、時代とともに変わる。「波頭」はやがて「波面の先頭」になるのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月1日公開、同月2日最終更新、通算555回
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■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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追放、パージというイヤな言葉

今週の書物/
「追放とレッド・パージ」
『日本の黒い霧(下)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

追い出す

日本学術会議の人事紛糾で思ったのは、こんな話が今でもあるのだなあ、ということだった。最高権力者がもし「総合的、俯瞰的」に任命の権限をふるいたいのなら、もう少し洗練されたやり方があったのではないか。そんな皮肉のひとことも言いたくなる。

一部の人々をあからさまに排除する。これで連想されるのは「追放」「パージ」という言葉だ。パージは“purge”で、ふつうに訳せばこちらも「追放」。第2次大戦後、占領下の日本ではまず公職追放があり、次いでレッド・パージがあった。前者は軍国主義に手を貸した人々の公的活動を封じるものであり、後者は左派活動家の解雇というかたちをとった。権力者が不都合な人々を追い出したという一点は、どちらも同じだ。

と、えらそうに書いてはみたが、私自身は占領が終わる前年の1951年に生まれたから、追放やパージのニュースをリアルタイムで聞いた記憶がない。幼いころ、大人たちが世間話で触れることはあったので、「それ、何?」と訊いたりもしたが、説明されてもピンとこなかった。長じて後、現代史の知識としては学んだが、それがどのように断行されたのか、その空気感は今に至るまでつかめないでいる。これは、マズイ。

ということで、ここでは松本清張の力を借りる。「追放とレッド・パージ」(『日本の黒い霧(下)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『日本の黒い霧』に収められたノンフィクション各編は1960年に『文藝春秋』誌に掲載された作品だ。

本題に入る前に、この一編の冒頭に添えられた写真(毎日新聞社提供)についてひとこと。東京都墨田区内の小学校で撮影されたもので、写真説明に「教員のレッド・パージ、別れを惜しむ生徒たち」とある。野球帽をかぶった男の子やおかっぱ頭の女の子たちが先生を囲み、最前列の女子は涙を拭っている。私たちのちょっと上の世代。だから、この校内風景には共有感がある。私自身もパージと地続きのところにいたのだ、とつくづく思う。

清張はこの一編で、主に公開済みの資料を重ねあわせ、追放やレッド・パージの背後に働いていた力学を浮かびあがらせていく。焦点があてられるのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の部内事情である。清張にとっては生涯の関心事だったと言ってよい。

まず、GHQについて予備知識を仕入れておこう。GHQは「連合国軍」の看板を掲げてはいるものの、事実上、米国が仕切っていた。内部には、軍国主義を排して戦後社会を民主化させようというベクトルと東西冷戦の入り口で共産主義の台頭を抑えようとするベクトルが併存していた。前者の旗振り役が民政局(GS)、後者を代表するのが参謀第二部(G2)。占領初期はGSの力が強かったが、しだいにG2が優位に立つようになった。

この一編は「日本の政治、経済界の『追放』は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった」という一文で書きだされる。1945年11月に米政府からGHQに届いた「指令」では「一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」と、幅広の適用を促している。追放政策の推進にはGSが前向き、G2は批判的だったという。

足並みが揃わなかっただけではない。GHQ中枢は「誰を追放していいかよく分らなかった」。だから、日本政府に対して「各界の超国家主義指導者の名簿作成」を求めたという。日本側にも対象者は自分たちで決めたいとの思惑があって、3000人の名簿を手渡したりもしたらしい。ところが、GSを率いるコートニー・ホイットニー准将は、ドイツよりも2桁少ないことを理由に「それっぽっちか」と激怒したといわれている。

公職追放は、1946年1月のGHQ覚書に始まる。当初は官公職に限られていたが、この年11月には「公的活動」全般に広がった。著者は『朝日年鑑』(1949年版)を引いて、1948年5月1日時点の総数は19万3000人余にのぼったとしている。

ここで見逃せないのは、追放が当事者だけでなく、その周りにも及んだことである。一定の範囲の親族が「公職に就くこと」を禁じられた。著者が、こんなことは「極悪犯罪者にも適用されない」とあきれるように、凶悪犯の親族に対しても許されないはずだ。個人の自由を重んじ、基本的人権を尊重する国からやって来た人が、民主化の旗印の下で正当な理由なく職業選択の権利を侵害する――これは、大いなる矛盾であるとしか言いようがない。

追放は、このように網を広げたにもかかわらず抜け穴があった。それに手を貸したのがG2だった、と著者はみる。GHQが追放政策で最初に目をつけた標的は警察組織だったが、その結果、行き場を失った元特高警察官がG2系の仕事に就くこともあったというのだ。

この一編は、そのことを当時米国から日本に来ていたジャーナリストや学者の著作から裏づけていく。たとえば、東北地方で「日本人と米軍との連絡係」をしている「元の特高係長」を見かけた、という話。あるいは、地方駐在の米諜報部隊幹部が「最も『貴重』な部下」は「日本の秘密警察の元高級警察官」と打ち明けた話。これらの証言をもとに、著者は「特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織された」と見てとるのだ。

日本社会の側にもGSとG2の確執を利用しようという動きがあった。追放された政治家には「G2に気に入られること」で権益を守ろうとする人がいたという。米ソ対立が強まったのを見て「G2の線」こそ「本筋」と嗅ぎ分ける嗅覚があったらしい。追放政策は「追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅される」事態を招いたが、一方で「狡知にたけた大物を跳梁(ちょうりょう)させる結果になった」と、著者は断じている。

日本社会には、追放は「永久」に続くものとみる早とちりがあったらしい。それが、気に入らない人物をその境遇に陥れようとする「暗い闘争」も引き起こした、と著者は指摘する。だが現実には、当初の追放はすべて1952年の主権回復までに解除されたのである。

それと異なり長く禍根を残したのが、後発のレッド・パージだ。GHQ内部でGSに代わってG2の発言力が強まった後、民主化とは方向違いの政策の一つとして打ちだされた。いわゆる逆コースだ。企業が「占領軍の絶対命令」の下で、被雇用者のうち「指名リスト」に載った左派の活動家や労働組合員を解雇して職場から即時退去を求める、というものだった。新聞社や通信社、放送界では1950年、その嵐に見舞われている。

この「リスト」が曲者だった。著者によれば、その作成に使う資料の一つに日本政府の特別審査局(公安調査庁の前身)が用意した名簿があった。特審局は占領下に設けられ、「右の追放」を進める側にいたが、それが「左の追放」に寄与する役所に変身していたのだ。

レッド・パージの指名を受けると、その人は「有無を云わさず建物の外に追い出された」。裁判所や労働委員会の場で復職を求める動きも起こったが、その望みは絶たれることが多かったという。この人たちは、公職追放とは違って「永久」に追い出されたかたちだ。

では、どんな人が指名されたのか。著者が引用した読売新聞の「社長布告」を読むと、それがわかる。マッカーサーが1950年6~7月に発した指令や書簡は「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者」を「排除すること」が「自由にして民主主義的な新聞の義務」であると位置づけており、「わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇する」というのである。思想信条だけで職を奪ったような印象を受ける。

パージされた人の総数は、著者がこの一編に引いた労働省労政局の集計によると約1万1000人。メディア関係だけでなく、電気、石炭、化学、金属など多くの産業に及ぶ。

この一編は、その人たちのその後の人生にも言及している。悲惨なのは、再就職先にパージの履歴が知られてそこでも解雇され、自殺に追い込まれた人が、一人ならずいたことだ。NHKの技術者がラジオの修理人になったような例もあるが、手に職がなければ「翻訳、雑文書き、行商、焼きイモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた」と、著者は書く。私の少年時代、町で屋台を引いていた焼きイモ屋さんも、もしかしたらその一人だったのか。

個人の思想が統治者の意に沿わなければ、弁明の機会を与えることもなく排除する。当時は、日本国憲法があっても体制がそれを超越していたので、こんな無茶が通ったのだろう。だが、今の日本社会は違う。それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月4日公開、同月28日最終更新、通算551回
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偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
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