いまなぜ、資本主義にノーなのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

成長

のっぺりした街になってしまったなあ、と思う。私が住んでいる辺りのどの通りがどうというわけではないのだが、なべて商店街はのっぺりしてしまった。

のっぺりとは、平らなさまを言う。ただ私はここで、荷風やタモリ、あるいは『武蔵野夫人』の大岡昇平のように地形の起伏にこだわっているわけではない(「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」、当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」、当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学」)。そうではなくて、沿道が単調になったことを嘆いているのだ。

数十年も続いた老舗の和菓子屋、ひと癖ありそうな店主のいる古書店などが次々と消えていく。代わって現れるのは、たいていがフランチャイズか、それに似た店々。いつのまにか、コンビニ→ファストフード→スマホショップのような並びができあがっている。

コンビニ→ファストフード……のような配列が目立つのは、一つや二つの街に限った話ではない。いまや、どこの街にもある定番の風景になっている。だから、のっぺりは一つの商店街を形容する言葉にとどまらない。日本社会そのものがのっぺりしてきたのだ。

科学用語では、こうした変化をエントロピーが増大するという。熱い湯1瓶と冷たい水1瓶を混ぜると2瓶分のぬるま湯ができる、というような法則だ。熱湯と冷水が1瓶ずつという状態には、瓶1本ずつの個性がある。ところがぬるま湯2瓶分となれば個性がない。のっぺりしているわけだ。Aという町の酒屋もBという町の乾物屋もCという流通大資本のコンビニ店になる。無個性の増大、これはエントロピーの増大にほかならない。

ここで思いだすのが、子どものころに社会科で教わった社会主義国の政治経済体制だ。福祉の水準は高いが、都市も農村も国営企業や集団農場でひと色に染まっているという。私たちの世代は社会主義に憧れつつも、その単色の世界にはついていけないと思ったものだ。大きなエントロピーに対する嫌悪である。資本主義はイヤだが、それが保証する自由は失いたくない――そう思う若者が多かった。かく言う私も、その一人だった。

ところがどうだろう。今は、資本主義こそが世界をひと色に染めているではないか。大きな資本が小さな資本を吸い込み、国境を越えて人々を同じ市場に囲い込む。これではまるで、エントロピー増大の牽引車だ。これまで私たちは、資本主義は人々の個性を重んじる、と信じてきた。新自由主義が民間活力に期待を寄せたのも、この通念があったからだ。だがそれは、どうも嘘っぽい。もう一度、資本主義を問い直したほうがよい。

で、今週は『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年9月刊)。「新書大賞2021」に選ばれるなど、話題の本である。著者は1987年生まれ、ベルリンのフンボルト大学などで哲学を学び、今は大阪市立大学大学院で准教授を務めている。専門は経済思想、社会思想。前著『大洪水の前に』(邦題、堀之内出版、2019年刊)はカール・マルクス(1818~1883)の「エコ社会主義」を論じた本で、数カ国で出版されている。

書名にある「人新世」は、近年よく耳にする新語だ。地質学の用語に倣って「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(本書「はじめに」から)を指している。このことからもわかるように、著者は、気候変動という今日的な切り口で資本主義の矛盾をあばき、マルクスの文献を精読して、そこに解決の糸口を見いだしている。さらに言えば、本書の刊行直前に勃発したコロナ禍も、この文脈のなかで論じている。

著者は本書で、マルクス自身の思想を3段階に分けている。①「生産力至上主義」(1840~1850年代)→②「エコ社会主義」(1860年代)→③「脱成長コミュニズム」(1870~1880年代)という進化があったとみているのだ。持続可能性の重視は①にないが、②③にはある。経済成長の追求は①②にあるが、③にはない。代表的な著作をこの区分に当てはめると、『共産党宣言』は①期に、『資本論第1巻』は②期にそれぞれ刊行されている。

著者によれば、マルクスは②期の『資本論』第1巻で、人は「自然に働きかけ、さまざまなものを摂取し、排出するという絶えざる循環の過程」を生きている、という人間観を提示した。そこには「人間と自然の物質代謝」がある。この代謝は、資本主義によって価値の増殖を最大化するように変えられてしまう。「資本主義は物質代謝に『修復不可能な亀裂』を生み出すことになる」――『資本論』は、そんな警鐘を鳴らしているのだという。

だが、この主張は従来のマルクス主義解釈では脇役だった。それは、自然環境の破壊が旧社会主義国で顕著だったことを見ればわかる。たとえば、旧ソ連は5カ年計画を掲げて経済成長をめざした。成長の原動力を市場ではなく、計画経済に求めようとしたところだけが資本主義国と異なる。だから、その生産活動の一部は資本主義国と同様に公害をまき散らしたのである。ただそれでも、②期のエコロジーは知る人ぞ知る話ではあった。

本書が光を当てるのは、これまで知られていなかった③期の思想だ。著者によると、いま世界のマルクス学究の間では『マルクス・エンゲルス全集』の新版刊行を企てるMEGA計画(MEGAは「マルクス」「エンゲルス」「全集」を独語表記したときの頭文字)が進行中で、著者もそれに参加している。新版に収められる草稿、ノート類に「今まで埋もれていた晩期マルクスのエコロジカルな資本主義批判」があった、という。

MEGA研究によって明らかになったマルクス晩年のエコロジー探究には目を見張る。なによりも驚かされるのは、自然科学が視野のど真ん中にあることだ。「地質学、植物学、化学、鉱物学などについての膨大な研究ノートが残っている」という。「過剰な森林伐採」による気候変化や、石炭などの埋蔵資源を乏しくする「化石燃料の乱費」、開発行為が生物を脅かす「種の絶滅」などについて書物を読み漁り、理解を深めていたらしい。

マルクスは、そこから「脱成長コミュニズム」と呼べる思想を構築していくのだが、その中身に入る前に、いま2020年代の世界がどんな状況にあるかをみておこう。本書も、現代の資本主義が地球の生態系(エコシステム)をどのように乱しているかを詳述している。

最初のキーワードは「グローバル・サウス」だ。その意味は南北問題の南、即ち途上国とほぼ重なるが、もう少し幅広くとらえて「グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民」のことをいう。逆を言えば、私たちはグローバル・ノースに属する。著者は「グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会」が「グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに…(中略)…不可能」であることを指摘する。

具体例が挙げられている。たとえば、ファストファッションの衣料品だ。原料の綿花栽培を担うのは「インドの貧しい農民」だ。「四〇℃の酷暑のなかで作業を行う」だけでなく、1年ごとに「遺伝子組み換え品種の種子と化学肥料、除草剤」を買わされるという負担もある。工程の川下には「劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者たち」もいる。2013年には、複数の縫製工場が同居するビルが崩壊して千を超える人命が奪われる事故があった。

グローバル・サウスが収奪される自然資源には「環境」も含まれる。この本には、加工食品やファストフードに多用されるパーム油の話が出てくる。アブラヤシの実から採れる油である。産地のインドネシアやマレーシアでは、アブラヤシの農園づくりのために熱帯雨林が伐採された結果、生態系が壊され、土壌が削られ、川も農薬などに汚染されて魚が減っているという。地産地消の暮らしが壊滅状態に陥ってしまったのだ。

このくだりには、もう一つ「外部化」というキーワードもある。グローバル・ノースが「豊かさ」の「代償」をグローバル・サウスに「転嫁」してしまうことだ。「外部化」には怖い一面がある。ノースの人々は「代償」をサウスへ追いやることで、その現実を見ないで済む。「代償」の「不可視化」である。こうしたノースのありようを、ドイツの社会学者シュテファン・レーセニッヒは「外部化社会」と名づけ、批判的に論じているという。

人新世とは、その転嫁が極まって「外部が消尽した時代」というのが、この本の見方だ。「資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限」である。だから、「外部を使いつくすと」「危機が始まる」。それがもっとも極端に表れたのが気候変動だ、というのだ。

これには、補足が必要だろう。二酸化炭素(CO₂)の温室効果による地球温暖化では、グローバル・ノースが化石燃料を燃やしてCO₂を吐きだすことが即、グローバル・サウスからの収奪とは言えない。なぜなら、温暖化は地球全域に及ぶからだ。ただ私なりに考察すれば、こうは言える。ノースの人々は化石燃料の燃焼によって恩恵も受けている。これに対して、サウスの人々は温暖化の負荷ばかりを押しつけられる。だから、転嫁なのだ。

ところが最近は、グローバル・ノースの人々にも気候変動の被害が「可視化」されてきた。著者が言うようにスーパー台風などが気候変動の表れだとすれば、ノースにも「代償」が見えてきたのだ。「外部化」という現代資本主義の仕掛けが行き詰まったと言ってよい。

このくだりは、この本の最大の読みどころだ。今風の資本主義批判の核心と言ってよい。理系の目で見れば「地球は有限」は自明のことだ。ところが資本主義は、そこに「運用ごとに生まれる貨幣は多くなり……」(ベンジャミン・フランクリン、当欄2021年4月9日付「ヴェーバー資本主義の精神はどこへ」)という無限増殖を期待した。私たちは「外部化」の破綻で起こる災厄の予感のなかで、有限に無限を求めることの愚にようやく気づいたのだ。

「脱成長コミュニズム」に立ち入る前に紙幅が尽きた。来週も引きつづき、本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月7日公開、同月11日更新、通算573回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コロナ時代の嘘をあばく本の質感

今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊

付箋

驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。

封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。

前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。

 文字には色が必要だったのだ
 僕に君が必要なように

書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。

ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)

で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。

いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。

著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。

49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。

著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。

ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」

108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。

213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。

249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。

このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。

ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。

著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。

最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ヴェーバー資本主義の精神はどこへ

今週の書物/
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳刊

時は金なり

資本主義という言葉ほど、この半世紀でイメージが反転したものはないのではないか。年寄りの思い出話をさせてもらえば、日本社会では高度成長真っ盛りの1960年代、資本主義はフル回転で私たちを豊かにしてくれたわりに良い印象がなかった。

なぜだろうか。すぐに思いあたるのは、あのころはまだ資本主義と対立する社会主義が健在だったことだ。今も、この一対は対義語として成立する。ただ、片方がすっかりかすんでしまった。社会主義と言ってもピンと来ない人がふえてしまったのである。

1960年代は違った。人々の何割かは確実に社会主義の思潮に共感を覚えていた。旧ソ連に代表される社会主義体制を望む人が多かったとは言えないが、勤め人の声が政治経済に反映されて、賃金水準が高まり、福祉制度が整うことには期待感があったのだ。その視点に立つと、資本家は悪役となり、資本主義には負のイメージがつきまとった。この空気感は、社会主義政党の党員シンパのみならず、世の中に広く浸透していたと言ってよいだろう。

例を挙げよう。当時の政界でも保守政治家が多数派だったが、その人たちも自分が守ろうとしているものが資本主義だと宣明することはめったになかった。自らの立場に話が及んだときには、自由主義の擁護者という言葉を好んで使っていたように思う。

思い返せば、私が新聞社に入った理由の一つもそこにあった。1970年代後半の社会には、資本主義を嫌う空気がまだ残っていた。私は、学生運動をしていたわけでもなく、社会主義者だったこともない。それでも、資本主義の手先になりたくないとは思った。新聞社も株式会社なので手先に違いない――実際、「商業新聞」「ブルジョワ新聞」「ブル新」という呼ばれ方もあった――が、相対的に資本主義色が薄いように思われたのだ。

ところが近年は、この空気が一掃された。資本主義と社会主義を見比べると、後者のほうに負のイメージがとりついている。ただそれにしては、資本主義という言葉をあまり見かけない。最近の議論は、なんであれ資本主義を既定のものとして受け入れている感があるので、その前提を言う必要がなくなったようにも見える。むしろ、同じ資本主義の範囲内で、市場万能の新自由主義をとるか、そうでない側に立つかが問われる局面がふえている。

で、今週は資本主義について考える。手にとったのは、必読の書とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳刊)。必読と言いながら自分は読んでいなかったことを正直に告白する。

今回、食指が動いたのは、昨秋の当欄で『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)をとりあげたことによる。米国を独立に導いた政治家であり、実業家であり、理系知識人でもあった人物の立志伝を読んで、ドイツの社会科学者マックス・ヴェーバー(1864~1920)が言う「資本主義の精神」らしきものを嗅ぎとったのである。(2020年11月6日付「フランクリンにみる米国の原点」)

この嗅覚は、的外れではなかった。本を開くと、第一章の「資本主義の『精神』」と題する節で3ページほども費やして、フランクリンの言葉を延々と引用しているのだ。そこには「〈時間は貨幣だ〉ということを忘れてはいけない」「〈信用は貨幣だ〉ということを忘れてはいけない」「貨幣は〈繁殖し子を生むもの〉だということを忘れてはいけない」(〈 〉内は傍点箇所、以下も)……。こんな警句が箇条書きのように並ぶ。

3番目の「貨幣は〈繁殖し子を生むもの〉」に注目しよう。フランクリンは、警句をたとえ話で説明する。5シリングの元手で資金運用を始めると、いずれは100ポンドを手にすることもできる、というのだ。「貨幣の額が多ければ多いほど、運用ごとに生まれる貨幣は多くなり、利益の増大はますます速くなっていく」――資金を複利でふやせば、富は指数関数で膨らむ。なるほど、これは資本主義の醍醐味そのものではないか。

ここでは刺激的に、親豚を殺すことは「子豚を一〇〇〇代までも殺しつくすこと」とも書かれている。少額の貨幣でもそれを生かさなくては、得られるはずの多額の貨幣を「殺し(!)つくす」ことになると説くのだ。運用しないことを怠惰とみなす立場である。

そのフランクリンの思想を、著者即ちヴェーバーはどうみているのか。フランクリンが推奨する「ひたむきに貨幣を獲得しようとする努力」には幸福や快楽を追い求める気配が薄く、そこでなされる営利の活動が「物質的生活の要求を充たすための手段」ではなく「人生の目的」であることを強調する。富をふやす勤勉さそのものに価値を見いだす倫理観と言えよう。これが、やがて資本主義経済を回す原動力となっていく。

著者によれば、フランクリンは、近代社会で貨幣の源は職業人としての「有能さ」にあると考えていた。ここで職業とはドイツ語で言えばBerufであり、そこには「神から与えられた使命」即ち「天職」の意もあるという。こうして、この本の論題も宗教へ移っていく。

この本は中盤で、プロテスタント各派の思想の違いを詳しく述べているのだが、その理解の前提となる知識が乏しいので、この部分についてどうこう言うことは控える。当欄で私が読み込もうと思うのは、第二章第二節「禁欲と資本主義精神」だ。著者は「〈天職理念〉のもっとも首尾一貫した基礎づけを示しているのは、カルヴァン派から発生したイギリスのピュウリタニズム」とみて、これを資本主義に結びつけていく。

英国の清教徒ピューリタンは「富とその獲得」について、どう考えていたのか。一見すると、富の獲得を否定しているようだが、そうではないと著者は分析する。その教えが「真に」不道徳とみなすのは、富の所有にあぐらをかいて「〈休息する〉こと」であり、「富の〈享楽〉」に耽って「怠惰や肉の欲」の虜となることだ、という。休むな、遊ぶな、もっと稼げということか。フランクリンの「時間は貨幣だ」即ち「時は金なり」に通じている。

著者は、ピューリタニズムを代表する神学者リチャード・バクスター(1615~1691)らの文献を漁り、その勤勉志向を見ていく。「時間の損失」として「無益なおしゃべり」や「贅沢」に×印がつくのはわかる。だが、「睡眠」まで指弾される。驚くのは、宗教者なら奨励してもよいはずの「黙想」ですら、批判の対象となっていることだ。「天職における神の意志の積極的な実行に比べて、神によろこばれることが〈少ない〉」との理由である。

ボーッとしていてはダメということか。働くために働くという思想である。著者は、それを「労働」が「神の定めたまうた生活の〈自己〉目的」になっていると表現する。だからこそと言うべきか、バクスターは厳格に「富裕であるとしても、この無条件的な誡命から免れることはできない」との立場をとる。中世スコラ哲学も労働を促したが、「財産によって生活できる者」は適用外だったという。ピューリタニズムは、そこが違う。

「天職」重視は定職の勧めでもある。著者は、バクスターの次の言葉を引く。「確定した職業でないばあいは、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い」。これが、17世紀の論述であることに注目したい。近代前夜、怠惰を嫌う宗教倫理が、資本主義社会の分業化への流れにかみ合ったのだ。いや、それだけではない。その先に、専門職を重んじる現代社会を見通していたようにも思える。

ヴェーバーがピューリタニズムから抽出した資本主義像は、私たちの先行世代が1960年代に経験したことに見てとれる。モーレツに働き、終身雇用制のもとで定職をまっとうする人が多かった。それが21世紀の今はどうか。ワークライフバランスの機運が高まり、転職は珍しくなくなり、「臨時」の働き手に過酷労働のしわ寄せがきている。資本主義が当たり前の時代になったが、それを支えていたはずの精神は現実から遠のくばかりだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月9日公開、通算569回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ゴールディングの烽火は何か

今週の書物/
『蠅の王』
ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化

レンズ

孤島の少年たちの物語を今週も。長編小説『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化)。英国少年の一群が飛行機の遭難で取り残された場所は、太平洋の無人島だった。そこに一つの社会が生まれて……という話だ。

先週は、ほら貝の話をした。その殻は、主人公ラーフが礁湖の底から拾いあげたものだ。ラーフは相棒のピギーにそそのかされて、それに息を吹き込む。深い響きに誘われて、島のあちこちに散っていた少年たちが集まってくる。「集会」が召集されたのだ。社会の原風景と言ってよいだろう。彼らは指導者を決めることから始めるが、ほら貝によってみんなを呼び寄せたラーフが選ばれる。ほら貝は何か? 民主主義の象徴らしいと書いた。

今週は、烽火の話をしよう。ラーフは、さすが指導者らしく、少年たちの未来を構想していた。島の山頂に火をおこして烽火をあげるのだ。沖合を通る船がそれを見つければ、遭難信号のSOSと受けとめて救助に来てくれるだろう。自分たちが置かれた状況を冷静に考え抜いた末の現実的な方針だ。私は先週、話のまくらで英国人には〈火事場の馬鹿力〉があると書いたが、ここには緊急時の〈馬鹿力〉ならぬ理性力が見てとれる。

ただ、烽火をあげるのも簡単ではない。最大の問題は着火だ。マッチはない。少年たちが目をつけたのがピギーの眼鏡だ。それで集光して火をつける。ここで気になるのは、近視用の凹レンズでは光が集まらないことだ。ピギーは遠視かなにかで凸レンズを使っていたのか。だが、そのことに言及はない。著者はオックスフォード大学で理系学生だったこともあるというのに……そんなところにこだわらないのは、この小説の寓話性ゆえだろう。

ともかくも火はついた。次にラーフは、「烽火の番」を決めることを提案する。火を絶やしたら、そのときに船が通り過ぎて救助の機会を逸するおそれがあるからだ。この任務を引き受けようと手を挙げたのが、合唱隊のリーダー格で今は狩猟隊を率いるジャックだ。自分の仲間を班分けして、今週は「アルト組」、来週は「ソプラノ組」(少年たちの合唱隊だから声域が「アルト」「ソプラノ」なのだ)というように輪番で火を見守る、と申し出る。

この時点で、ラーフの指導体制は安定していた。彼が「ほら貝のある所」を集会場とみなすという規則を提案すると、ジャックをはじめ少年たちもそれに賛成した。こうして法治のしくみが整っていく。「ほら貝」は、ここでも民主主義を示す一つの記号だった。

だが、ほら貝民主主義にもほころびが見えてくる。ある日、ラーフが水平線に煙を見つけたときのことだ。それは、船舶が通過中であることのしるしだ。ところがこのとき、山上に烽火が見えないではないか。山に登ると、やはり火も煙もなかった。見張り役もいない。千載一遇の好機を逃したのだ。ラーフは沖へ目をやり、遠ざかる船に向かって「引っ返すんだ!」と叫んだ。はらわたが煮えくり返る思いで「畜生!」と悪言も吐いた。

やがて、狩猟隊の面々が下から登ってくる。「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。血ヲ絞レ」と歌っている。棒を担いで豚1頭を吊りさげている隊員たちの姿も見える。ジャックは山頂に登り切ると、ラーフに向かって「どうだい! 豚をしとめたんだぞ」と自慢する。ラーフから「きみたち、火を消してたじゃないか」となじられても、狩りの成功に酔いしれている。「血がどくどく流れちゃってさ」「あの血をきみに見せたかったよ!」と動じない。

「船が沖を通ったのだぞ」。ラーフは彼方の水平線を指差して言う。そのひとことは、ジャックをもひるませた。このとき山頂にはピギーも来ていて、ジャック批判に加勢する。「きみはなんだといえば、すぐ血のことばかりいうじゃないか」「ぼくたちは、イギリスに帰れたかもしれないんだぞ――」。救いの手につかまりそこなった現実は、狩猟隊の少年たちにも動揺を与える。ジャックは、最後には謝罪の言葉を口にすることになる。

この山上の一幕は、ほら貝民主主義の社会が二派に分裂したことを見せつける。一方は、「烽火」という唯一の通信手段に希望を託して一刻も早く母国の土を踏もうと考えるラーフ・ピギー派。他方は、「狩猟」という当座の悦楽に浸ろうとするジャック派。前者は、いわば理性派。自分たちは近代社会の一員であるという強い自覚が感じられる。後者は野性派か。「すぐ血のことばかりいう」性向は原始生活への回帰を思わせる。

そのあたりの寓意を、著者は巧妙に私たちに伝えてくれる。理性を象徴するものは、ピギーの眼鏡。山上のにらみ合いで、ジャックはピギーをひっぱたき、眼鏡が吹っ飛んで片方のレンズが割れてしまう。それによって、烽火の着火は「わずかに残った一枚のレンズ」が頼みの綱ということになった。一方、野性の象徴は、狩猟隊のいでたちだ。狩りを終えてから山上に現れた彼らは「ほとんどみな素っ裸」で、ジャックは顔一面に粘土を塗っていた。

この寓意から私たちが連想することは多い。たとえば「烽火」は、地球温暖化を抑えようという機運にたとえてもよいだろう。これに対しては、化石燃料の恩恵を手放したくないという人々がいて、その一群を「狩猟」の快楽に走る一派になぞらえることもできる。

「狩猟」の一派が戦果を見せびらかせて悦に入る様子は、世界から戦争がなくならない状況を暗示しているのかもしれない。「烽火」がレンズ1枚に頼ることになる筋書きは、賢明な問題解決策でさえ危うさがつきものであることを示唆しているようにも思える。

ゴールディンの島は、どこかの列島であっても決しておかしくない。私たちの社会にも理性と野性が併存する。私たちの心にもラーフやピギーやジャックが棲みついている。
*引用中のルビは原則として外しました。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月2日公開、通算568回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ゴールディングのほら貝は何か

今週の書物/
『蠅の王』
ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化

太平洋

〈火事場の馬鹿力〉という言葉がある。火の手があがったとき、火元近くに住む人が、ふだんなら到底もちあげられない家財道具一式を家から運びだす――そんなイメージか。人間には、火急のときにだけ湧きあがる潜在力があることを言い表している。

だれが、いつごろから言いだしたのか。日本家屋はたいていが木造なので、どの町でも大火が繰り返されてきた。だからたぶん、日本起源なのだろう(確信はないので、間違っていたらご教示を)。ただあるときから、これは外来のことわざであってもおかしくないと思うようになった。30年近く前のことだが、英国で暮らしていたとき、英国人こそ火事場で日本人の幾倍ものパワーを発揮してみせる人たちだ、と実感したのである。

たとえば、こんなことがあった。日本政界の要人が英国にやって来たときの話だ。お忍びの気配があり、訪英の理由がはっきりしない。私がいた新聞社では、駐ロンドンのヨーロッパ総局員が総がかりで要人の動静をうかがうことになった。これには科学記者の私も駆りだされ、終日、ある建物の前に張りついたことを覚えている。このときに〈馬鹿力〉を見せつけたのが、日ごろは私たちの仕事を陰で支えてくれている現地スタッフの青年だった。

英国の名門大学出身で、ジャーナリスト志望。朗らかな性格だが、知識人としての矜持もある。私たちの仕事ぶりを冷静に見つめていて、夕暮れどきのパブ談議などでは辛辣な批評を口にすることもあった。だから、相手が要人とはいえパパラッチまがいの追跡取材には皮肉の一つも言うのではないか、と私は思った。ところが総力戦当日の朝、彼は自前のオートバイにまたがって現れ、終日、ロンドン市街を東へ西へと走り回ったのだ。

英国人は、ここぞというときに頑張る――。最近も私たちは、そのことを目の当たりにした。新型コロナウイルス感染症に対するワクチン開発だ。去年、オックスフォード大学と製薬大手アストラゼネカのグループが秋の実用化をめざしている、という報道が流れたとき、半信半疑の人は多かっただろう。実際、そこまでは速くなかった。とはいえ、今年初めには接種に漕ぎつけたのだ。ここにも〈火事場の馬鹿力〉があったと言ってよい。

で、今週は、そんな英国の精神風土を感じさせてくれる長編小説『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化)。著者(1911~1993)は英国の作家。1954年にこの作品で文学界に躍り出て、1983年にはノーベル文学賞を受けている。略歴欄によると、オックスフォード大学を出て演劇の道に入ったが、その後、海軍の軍人となり、ノルマンディー上陸作戦にも加わった。戦後は教師生活も経験したという。

私は、この文豪と奇縁がある。1993年6月、彼がイングランド南西部の自宅で死体となって見つかったというニュースを東京へ送稿しているのだ。この時点で心臓発作が原因らしいとわかっていたから、事件性はなかった。拙稿は死去の第1報を伝える短信だったので、それに東京の文芸記者が注解を添えてくれた。この作品にも言及していて「寓意(ぐうい)性に富む独特の作風で注目を集めた」とある(朝日新聞1993年6月21日朝刊)。

では、『蠅の…』は寓話なのか。これは、即答が難しい。辞書類によれば、寓話ではふつう、動物たちが人間のように振る舞ったり、ものを考えたりする。擬人化の一点で、すでにリアリズムを離脱している。ところが、この小説の主人公は正真正銘の人間だ。筋書きも、ほんとにあった出来事だと言われたら半信半疑になる程度には現実感がある。だが一方で、私たちの世界に対する遠回しの批判、すなわち風刺として読めるのだ。

冒頭の一文はこうだ。「金髪をしたその少年は、身をかがめるようにして、岩壁の一番下の数フィートの所を下りてゆき、それから礁湖の方角へとぼとぼ歩きかけていた」(ルビや注は省く、以下も)。「金髪」なのだから、少年は欧米系なのだろう。「礁湖」とあるから、彼がいるのは珊瑚礁に囲まれた南の島か?――読み進んでいくと、どうやら英国の少年たちが集団で太平洋の無人島に取り残されたのだとわかってくる。

少年たちの会話から、何が起こったかを推察してみよう。「これは島なんだ」「海の中にあるあれ、きっと珊瑚礁だぜ」→どうやら、海から上陸したのではないらしい。「ぼくたちを降下させてから、あの操縦士はどっかへ飛んでいったんだよ」→そうか、空からやってきたのか。「ぼくたちの飛行機が落ちかかったとき」機体の一部から「火が吹いていたよ」→搭乗機が遭難したのは間違いなさそうだ。だが、周りに胴体の残骸はない。

英国の少年が大挙して太平洋の空路を飛ぶ。戦時の避難行動ではあるらしいのだが、詳しい説明はない。しかも、その飛行機は火だるまになり、孤島で搭乗者を脱出させて姿を消す――そんなことが現実にあるだろうか。寓意の匂いは、ここらあたりからも漂う。いや、著者が意図して漂わせたのかもしれない。ありそうにないが、ありえなくもない状況をあえてつくり出して、そこに人間を置いたのだ。それも、自我が露わになりやすい少年たちを。

寓意を成り立たせるためか、この小説は設定が簡素化されている。一つには、生存の最低条件がそろっていることだ。渇きには小川の淡水がある。飢えに対して南国の果実もある。だから、少年たちの間に生きるか死ぬかの生存競争はない。もう一つ、女子が一人もいないことも見落とせない。思春期の前であっても、男女が入り交じれば淡い恋心の一つや二つは芽生えるだろう。だが、そんな話が差し挟まる余地は完全に排除されている。

この作品から私たちが感知できるのは、社会はどのように生まれ、どのように壊れていくのかということだ。少年たちは俗世間に揉まれていないから、白紙の状態から社会を築きはじめる。それは、原始人が群れることに似ている。だが、群れにいざこざはつきものだ。団結は綻び、ときに分裂する。そのありさまが、限界状況に直面する少年たちの姿を通して遠慮会釈なく描かれるのだ。それは、読み手に一つの思考実験を提供してくれる。

小説なので、筋立てに深入りはしない。少年のうち、3人だけを紹介しておこう。主人公はラーフ、12歳。「ボクサーにでもなれそう」な体格だが、顔つきには「ある種の柔和さ」がある。父が海軍軍人ということもあって、泳ぎはうまい。相棒は「ピギー」(豚ちゃん)と呼ばれる聡明な少年。肥満気味で眼鏡をかけていて、喘息の持病がある。敵役はジャック。遭難機に団体で乗っていた少年合唱隊のヘッド・ボーイ(首席隊員)である。

少年たちが初めて集うくだりが印象的だ。ラーフが礁湖の底から巻き貝を拾いあげる。濃いクリーム色に淡い紅色が入り交じった色合い、螺旋のねじれがある。「これを吹いてみんな集めたら?」。ピギーにそそのかされて、ラーフは殻に息を吹き込む。最初はまともな音が出なかったが、やがて「深い、つんざくような響き」が一帯に広がる。その音に誘われて、あちこちから少年たちが集まってくる。こうして「集会」が召集されたのである。

その集会では、ジャックが「どうやったら救助されるか」を話しあおう、と呼びかける。ラーフは、そのまえに指導者となる隊長を決めよう、と提案する。すると、ジャックは合唱隊首席の自分が隊長になる、と名乗り出る。早くも主導権争いの兆候が見てとれる。

隊長は結局、選挙で決めることになる。ジャックは「指導者らしい指導者」になりそうだった。ピギーにも「聡明さ」という強みがあった。だが、「一般の大勢は、漠としてただ隊長を選びたいという希望から、ラーフという特定の個人を拍手喝采とともに選ぼうとする方向へ変っていった」。こうして合唱隊員以外の全員が挙手して、ラーフが選ばれる。群れはカリスマを求めるということだろう。ではなぜ、ラーフがカリスマになりえたのか?

ラーフは、少年たちにとって「ほら貝を吹いた存在」であり、ほら貝を抱えて「みんなのくるのを待っていた存在」だ。そのことで、ほかのだれと比べても「別格」だった。ここで著者は、ほら貝に特別な意味を与えている。ほら貝が暗示するものは、古代ならば祭祀の神器だろう。近代に入ってからは、社会主義などのイデオロギーがその役目を果たしたこともある。今ならば、ネット受けするポピュリスト的な振る舞いかもしれない。

著者がこの物語でほら貝に映し込もうとしたものは、神器ともイデオロギーともポピュリズムとも違うようだ。ラーフは少年たちに対して、集会の議事運営で一つのことを求める。発言権はほら貝をもっている子にある、という決まりだ。「ぼくの次に話をする子に、このほら貝をわたす」「話している間、その子はそれをもってりゃいい」――だれにも意見表明の権利がある。ほら貝は議会制民主主義の象徴であり、ラーフはその体現者なのか。

こうして島では、ほら貝民主主義と呼べる理性的な社会が始まったかに見える。だが、その前途には深淵が口を開けていた。今回は紙幅が尽きたので、次回もう一度、この本を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月26日公開、同月28日最終更新、通算567回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。