科学のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

斜面

若かったころの私的な思い出を一つ打ち明けると、大学の卒論研究はニュートンだった。私がいた学部学科に科学史の研究室はなかったが、それでも物理学の歴史に関心があった。定年間近の老教授が好きな卒論テーマを選んでよいというので、その言葉に甘えたのだ。

手にとったのは、アイザック・ニュートン著『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)の英語版。もともとラテン語で書かれた本だから、原著ではない。これを図書館で閲覧して――借りたような気もするが――要所を複写した。どこに的を絞ったかと言えば、ニュートンが万有引力を遠隔作用ととらえた点だ。力は媒質によって伝わる近接作用だとする従来の見方を塗りかえるものだった。そこに至る思考の足跡をたどろうとしたのである。

学部学生が古典の大著をかじっただけでまとめた考察だから高が知れている。ただ私自身にとっては、ニュートンが近接作用論に執拗な反駁を加えていることが大きな発見だった。当時は近接作用を前提とする宇宙観が広まっていたが、それにノーを突きつけたのだ。

遠隔作用論と近接作用論の確執はその後も続く。18~19世紀はニュートン力学が地歩を固め、前者優勢の様相があったが、20世紀に入ると相対性理論も量子力学も「場」という概念を取り込んで後者の立場をとるようになった。

科学とは、ものの見方を変えていく営みなのだ、とつくづく思う。で今週は、科学史のダイナミズムを見せつけてくれる1冊を紹介する。

『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)。著者は1954年、米国シカゴ生まれ。量子力学の理論を専門とする物理学者でありながら、テレビドラマの脚本家でもある人だ。略歴欄にはドラマの代表作として「新スタートレック」「冒険野郎マクガイバー」の名が挙がっている。本書は原著出版が2015年。邦訳の単行本は翌16年、河出書房新社から出ている。

この1冊を私が手にとったのは、この著者の本なら期待を裏切らない、という確信があったからだ。かつて新聞の読書面で、同じ著者の『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)という本を書評した(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そのときに印象に残ったのは、著者が現代科学で重みが増した「偶然」について物理学者として語りながら、それに自分自身の家族史を重ねあわせていたことだ。

著者のウェブサイトに入ると、その家族史がわかる。父も母も、ナチスによるユダヤ人迫害で収容所に送られながら、大虐殺は免れた。とくに父は、ユダヤ人地下活動の指導者の一人だったという。二人は、いくつもの偶然のおかげで生き延び、出会い、そして著者が生まれたのだ。私は『たまたま』の書評で「歴史の大波と偶発事の小波が重なって人々の生をもてあそんだ現実が、この本の偶然観に深みを与えている」と書いた。

今回の『…400万年史』にも、父の話がしばしば出てくる。いや、著者が心のなかで父と対話を重ねながらまとめたのがこの本だ、と言ってもよいだろう。「知りたいという欲求」と題された第1章も、父から聞いたという収容所のエピソードから書きだされる。

父は円周率πも知らないような人だったが、ある日、収容所仲間の一人から数学のパズルを出題される。何日も頭をしぼったが解けない。聞いても答えを教えてくれないので、とうとう別の仲間にパンを譲り分けて、正解を手に入れたというのだ。支給されるパンが命綱だったころの話だ。「知りたいという欲求」はそんなに強いのか。著者は、自身の「この世界を理解したいという情熱」も結局は「父と同じ衝動に突き動かされている」と思い至る。

著者が理系に進んでからのことだ。父は、科学の話題になると「その理論がどうしてできたのか」「なぜそれを美しいと感じるのか」「我々人間にとってどういう意味があるのか」と質問攻めにしてきたという。専門知識よりも「おおもとの意味」に興味津々だったらしい。

ここからわかるのは、著者の内面には父親譲りの知的探究心が息づいていることだ。だから、この本が描いているのは、ものの見方としての科学の歴史であり、実益本位のそれではない。原題は“The Upright Thinkers: The Human Journey from Living in Trees to Understanding the Cosmos”。ちょっと強引に訳せば「直立〈考〉人――樹上生活者が宇宙を理解するまでの人類の長い旅」ということになろうか。〈考〉が大事なのだ。

では、この本が人類のものの見方の移ろいをどう描いているのか、大筋を見ていこう。著者は近代科学の原点を、古代ギリシャのアリストテレスの世界観を吹っ切るところに見いだしている。アリストテレスは、宇宙を「生態系のようなもの」ととらえた。「目的」の重視だ。雨降りは植物が育つため、植物の生長は動物の食べものになるため……。動物の動きも「ウマは荷馬車を走らせるため」「ヤギは餌を探すため」という具合だった。

近代科学はこうした目的論を否定する。この本によれば、兆しは中世の14世紀、英オックスフォード大学の数学者が見つけた「史上初の定量的な運動の法則」にある。カレッジ名から「マートン則」と呼ばれる。今風に言えば「自動車を速さゼロから時速一〇〇キロまで一定の割合で加速させると、ずっと時速五〇キロで走っていたのと同じ距離だけ進む」ということだ。この法則はすべての物質の運動に遍く適用できるので、目的論になじまない。

中世が過ぎると、反アリストテレスの流れは強まる。16世紀半ばに生を受けたガリレオ・ガリレイは、アリストテレスの理論が「観察」から導きだされていることが不満だった。裏返せば「実験」を重んじたのだ。そこには、受け身ではない探究の姿勢がある。

たとえば、落下運動。アリストテレスの見方では、物体はその重さに比例して決まる一定の速さで落ちていく。これは「石は葉っぱよりも速く落ちる」という観察結果にも合っている。一方で、私たちは直観で「物体は落下するにつれて速さが増す」と感じている。この相反する2説を吟味するのに、ガリレオは実験という手法を選んだ。その結果、落下の速さは重さによらず、どの物体も一定の加速度で落ちていくことがわかったのだ。

ガリレオの実験は、重さの異なる金属球を真下に落とすものではなかった。斜面に転がしたのだ。これなら「運動をゆっくりにして」測れる。摩擦という「基本法則の単純さを見えにくくするもの」も小さくできる。さらに見事なのは、斜面の実験を垂直方向の落下の検証につなげる論理だ。「傾斜をどんどん急にしていっても同じ性質が成り立つ」ことを見てとって、斜面を90度に直立させたときも同様だろうと見極めている。

ガリレオは、法則が見えやすい物理系を自ら設計した。それを調べることで、生態系のように複雑なアリストテレス的世界に潜む単純明快なしくみを突きとめたのだ。そのしくみを理論体系にまとめたのがアイザック・ニュートンだ。著者は、ガリレオとニュートンが「現実世界に存在する無数の複雑な要因を見抜いてそれらを削ぎ落とし、もっと基本的なレベルで作用する簡潔な法則を白日のもとにさらした」と称賛している。

以上の流れを追うと、近代科学はギリシャ哲学に反旗を翻したようにも見える。だが、そうではない。著者は、ギリシャの先哲のうちタレスやピタゴラスにも言及している。前者は「自然は秩序立った法則に従う」と述べ、後者は「自然は数学的法則に従う」(「数学的」に傍点)と断じた。これは、理系ギリシャ哲学のもう一つの柱と言えよう。マートン則の定量志向はガリレオやニュートンに受け継がれたが、その水源はここにあったとも言える。

欧州史は、古代ギリシャ・ローマ時代から中世を経て、ルネサンスによって古代の良さを再発見するという道筋で概観されることが多い。この見方は、絵画や彫刻、建築には通用するだろう。だが、科学史はもうちょっと複雑だ。近代科学はギリシャの叡智に導かれつつも、その呪縛を振りほどこうとして産声をあげたのである。今回は、この大著をひとかじりしただけで字数が尽きた。次回は同じ本を別の視点から読み込んでみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月20日公開、通算549回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

マケインの負け方のどこがいいか

今週の書物/
ジョン・マケイン氏の大統領選敗北演説
2008
年11月4日、米ニューヨーク・タイムズ紙ウェブサイトの翌日付記事より
演説本文はフェデラル・ニューズ・サービス(FNS)が配信

合衆国

気をもんだというのは、このことを言うのだろう。米国の大統領選挙である。接戦と言われてはいたが、ほんとに紙一重の争いになった。どちらを応援したかはあえて言うまい。だが、テレビで数千票単位の開票状況を見ながら一喜一憂したことは正直に告白しよう。

不思議だ。これは東京23区の区長選挙ではない。人口3億余の超大国トップを決める選挙である。その行方が、1州1地域の票の開き具合で決まってしまうとは……。怖いことではある。同じ米国の大統領選を振り返れば、同様に大接戦となった2000年の選挙結果は、21世紀初頭の世界情勢を左右したと言ってよい。有権者一人ひとりの心の揺らぎが、ときに歴史の流れを変える。民主主義とは、そういうものなのだろう。

それはともかく、いま11月13日現在、勝敗はほぼ定まった。人々の関心事となっているのは、敗者とされた人がいつ、どのようなかたちで負けを認めるかだ。その敗北宣言がなかなか出でこないので、世間はイライラしている。過去の敗者は違った、と。

なかでも見事だったと称賛されるのは、2008年の大統領選でバラク・オバマ上院議員(民主党)に敗れたジョン・マケイン上院議員(共和党)の敗北演説だ。その全文をニューヨーク・タイムズ紙のウェブサイトで読むことができたので、今回はそれをとりあげよう。

この演説は、投開票日の夜にマケイン氏の選挙区アリゾナ州フェニックスであった。

“Thank you for coming here on this beautiful Arizona evening.”
“My friends, we have―we have come to the end of a long journey.”
“American people have spoken, and they have spoken clearly.”
「アリゾナの美しい夕べに集まってくださって、ありがとう」「みなさん、長い旅は終わりを迎えました」「米国民は意思を表明した、はっきりと表明したのです」

そして、つい今しがた、オバマ氏に電話をかけて、彼の当選に祝意を伝えたことを打ち明け、その「能力と不屈の努力」を称賛する。礼節を弁えた演説と言えよう。

次いでマケイン氏は、この選挙を客観的に位置づける。

“This is an historic election, and I recognize the special significance it has for African-Americans and for the special pride that must be theirs tonight.”
「これは、歴史的な選挙です。それは、アフリカ系米国人にとって格別の意義がある、そして今夜、その人たちが胸中に抱いているに違いない誇らしい思いにとっても特別な意味合いがある、そう私は認識しています」

マケイン演説は、そこにとどまらない。もう一歩踏み込んで、対立候補と自分の見解の共通項を紡ぎだしていく。それは、差別問題をめぐる歴史観と現状認識だ。米国がすべての人々に機会を与える国であることをオバマ氏も自分も確信していると述べた後、こう言う。

“But we both recognize that though we have come a long way from the old injustices  that once stained our nation’s reputation and denied some Americans the full blessings  of American citizenship, the memory of them still had the power to wound.”
「しかし、私たちには次のような共通認識もあります。私たちは、かつて不公正な状態にあったことに比べれば――それは国の名誉を汚し、一部の米国人に対して市民権の制限を強いるものでしたが――ずっと良いところまで来ているものの、その記憶にはなお人々の心を傷つける力があった、ということです」

ここでマケイン氏は、セオドア・ルーズベルト大統領が、高名な教育者ブッカー・T・ワシントンをホワイトハウスに招いたとき、全国各地で怒りの声が噴出した、という話をもちだす。ワシントン氏の母は奴隷だった。この故事に続けて、こう力説する。

“America today is a world away from the cruel and prideful bigotry of that time. There is no better evidence of this than the election of an African American to the presidency of the United States.”
「今日の米国は、残酷で傲慢な偏見があった当時とは天と地ほどの差があります。その最良の証拠は、アフリカ系米国人を合衆国大統領に選出することにほかなりません」

自らが敗者となりながらも、相手候補が勝利したことの意義を公平に汲みとり、それを的確に言い表している。名演説として語り継がれるのもうなずけるではないか。

この演説でマケイン氏は、オバマ氏との間に政見の違いがあったことに触れている。その違いは今も残されたままだとしたうえで、自分はオバマ氏が指導者として多くの難題に立ち向かうのを手助けするつもりだと明言する。そして、米国民にこう呼びかけるのだ。

“I urge all Americans who supported me to join me in not just congratulating him, but offering our next president our good will and earnest effort to find ways to come together, to find the necessary compromises, to bridge our differences, and help restore our prosperity, defend our security in a dangerous world, and leave our children and grandchildren a stronger, better country than we inherited.”
「私を支持してくれたすべての米国民に求めたいことがあります。私とともに、次期大統領に祝意を表してほしいというだけではありません。善意をもって本気で彼に協力してほしいのです。みんなで集い、必要なら歩み寄って、意見の違いに橋を架ける努力をしようではありませんか。繁栄を取り戻すことに力を尽くし、私たちの安全を危険な国際情勢から守り、この国を今よりも強く、今よりも良くして子や孫の世代に引き継ごうというのです」

「必要なら歩み寄って、意見の違いに橋を架ける」――これは、民主主義にとって不可欠の手順だが、実行するのは難しい。この演説は、前段で対立候補との間に共通認識があることを強調しているので、それが決して絵空事ではないという気持ちにさせてくれる。

マケイン氏はこの演説で、オバマ氏側の副大統領候補だったジョー・バイデン氏に言及するとき、“my old friend Senator Joe Biden”という言い方をしている。党派は別だが、ともに長く議会人を務めてきた仲間だ。「わが古き友」という言葉に実感がこもる。

2020年の今、今度は次期大統領になろうとしているバイデン氏は、旧友マケイン氏の成り代わりのようにも思えてくる。彼には、良くも悪しくも「必要なら歩み寄って」の政治手法をとりそうな気配がある。それをもの足りないと感じる向きはあるだろうが……。

マケイン氏は2018年8月、脳腫瘍のために81歳で死去した。翌月の告別式に同じ共和党のドナルド・トランプ大統領は招かれなかったが、オバマ氏は参列して弔辞を捧げた。「勇ましく力強いふりをする政治は、実際は恐怖を生んでいる。ジョンはそれよりも大きなものとなるよう、我々に求めた」と述べている(朝日新聞2018年9月3日付朝刊)。今回の大統領選は、没後のマケイン氏にとっても気が気でなかったに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月13日公開、通算548回
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フランクリンにみる米国の原点

『フランクリン自伝』
ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊

アメリカの味

今年は、米国の年だった。いや、米国に幻滅した年だったと言うべきか。米国の出来事に思いをめぐらせる機会は、いつになく多かった。だが、たいていはあきれ、げんなりさせられて、もの悲しくなることもあったのだ。極めつけは、大統領選挙。現職大統領が相手候補を口をきわめて罵る姿は、私たちが憧れ、ときにうらやましく感じていた米国人の美学とは、まったく相反するものだった。あのアメリカらしさはどこへ行ったのか?

コロナ禍が、それに追い打ちをかけた。感染の波を抑えられなかった、という結果をどうこう言うつもりはない。医療現場で医師や看護師、検査技師たちが果敢に任務をこなしていることもわかっている。私がアメリカらしくないと思うのは、あれほどの事態に陥りながら平然とマスクをしないでいられる人々が大勢いたことだ。マスクは鉄壁ではないが、感染の確率を確実に減らせる。その合理主義がどこかへ消えてしまった!

もちろん、米国にも反科学の精神風土があることはわかっている。ダーウィン進化論を宗教心から信じない人がかなりいる、とも言われている。だが、そうであっても実践の局面では理にかなった行動をとる――それが米国流だと思っていたのである。

で今回は、私がこれぞ米国流と思ってきた行動様式の水源を1冊の本から探っていこう。『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)。著者(1706~1790)は、米国の独立・建国運動を率いた政治家の一人。それだけではない。もともとは実業家であり、理系の探究心も豊かだった。雷の正体が電気だと見抜いたのだ。欧州からは離れたところで近代精神を体現した人と言えるだろう。

この自伝によれば、フランクリンは1706年、ボストンで生まれた。10歳で学校をやめ、父が営むろうそく・石鹸の製造業を手伝ったり、従兄のもとで刃物職の修業をしたり、兄が始めた印刷所で「年季奉公」したりした。17歳のとき、ニューヨーク経由でフィラデルフィアに移り、ここで印刷工の職を得る。さらに18歳で英国ロンドンへ渡り、そこでも同じ仕事に就いた。今はやりの言葉で言えば、たたき上げの苦労人ではあったのだ。

20歳で帰米、フィラデルフィアで元の勤め先に戻るが、まもなく同僚と組んで、活字や印刷機など備品一式を取り揃えて開業する。1728年のことだ。20代前半での独立は、今の感覚で言えば早いが、この時代では当たり前のことだったのだろう。

フランクリンがふつうの青年とは異なっていたのは、知的好奇心の強さだ。それはオタク的な興味にとどまっていない。1727年秋の思い出として、次のような記述がある。「私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントーと名づけて、金曜日の晩を集りの日にしていた」(「ジャントー」は「徒党」「秘密結社」の意との注が挿入されている)。20歳そこそこで、知的集団を主宰したのだ。

フランクリンはこの自伝で、ジャントー・クラブ会員の人となりも詳述している。当初の会員には、独学の数学者がいた。放浪中の英オックスフォード大生がいた。学徒ばかりではない。測量の専門家も、指物師も、商家の番頭もいた。集いでは会員が一人ずつ、倫理・政治や自然科学の話題を提供してみんなで議論する。3カ月に1本は論文を書くという決まりもあったという。この本気度はサロンの域をはるかに超えている。

ここから見えてくるのは、植民地時代の北米では、貴族でもなく、大富豪でもない人々が文化活動の主役でありえたことだ。総勢12人と決めて始めたので、会員数はふやさない方針だったが、会員たちがそれぞれ独自にクラブをつくることを認めたので、一つのネットワークができあがったようだ。フランクリンは、ジャントー・クラブが地元ペンシルヴェニアで「もっともすぐれた哲学・道徳・政治の学校」になったと誇っている。

実際、これはやがて大学(現・ペンシルヴェニア大)創設という大事業に結びつく。1749年、その準備に着手したとき、フランクリンが真っ先に思い立ったのは、ジャントー・クラブの会員を中心とする友人たちに協力を呼びかけることだったという。

印刷は、表現の手段ともなる。フランクリンは1729年、「ペンシルヴェニア・ガゼット」という新聞の発行に乗りだしている。紙面では論陣も張った。マサチューセッツ植民地で知事と議会が対立すると、そのニュースに飛びついて「威勢(いせい)のいい批評を書いて載せた」。これで、識者たちの「ガゼット」紙に対する関心が高まったという。こうしてメディアを通じて自らも政治言論にかかわり、論客にもなっていくのである。

この年、匿名で執筆した小冊子が『紙幣の性質と必要』。世の中の紙幣増発を求める声を受けて、富裕層の増発反対論に一撃を加えるものだった。それは、「巻パンをかじりながらフィラデルフィアの往来をそこここ初めて歩き廻った頃」の記憶にもとづいていた。当時の町はさびれていたが、紙幣が発行された後、商取引や住民数がふえた――そう実感したからこその増刷論だった。フランクリンは、皮膚感覚を大事にする人だったことがわかる。

紙幣増発案はこの小冊子も一役買って、州議会で可決されたという。議会内からは、その「功績」に「報いる」との理由で紙幣はフランクリンに刷ってもらおうという動きが起こって、実際に受注したらしい。自伝では「とても割りのいい仕事で、おかげで私はたいへん助かった」と打ち明けている。この時代には競争入札制度が整っていなかったのだろう。彼の増発論に利権を得ようという魂胆はなかったと信じたいが、ちゃっかりはしている。

ここで、フランクリンの自然科学者としての足跡もたどっておこう。自伝では、自分が10代から理神論者であったことを明言している。神の存在は受け入れるが、自然界のものごとは自然法則に従うという立場だ。17~18世紀欧州の啓蒙思想の影響が見てとれる。

雷をめぐるあの危険な実験については意外な史実があった。自伝によると、フランクリンはたしかに「稲妻(いなずま)は電気と同一」との説を唱えたが、このときに提案した検証実験、即ち「雲の中から稲妻を導き出す」ことをやってのけたのはフランスのグループだというのだ。その先行の試みを認め、「まもなく私がフィラデルフィアで凧(たこ)を使って行った同様な実験に成功して限りなく嬉しかった」と記している。公正な態度である。

フランクリンは、オープン・ストーブも発明している。その方式では、暖房の効率を高める工夫が凝らされていた。自伝は、知事が一定期間の専売特許の付与をしようともちかけたが、それを辞退したことを明かしている。英国ロンドンの業者が類似品を考案し、特許を得てひと儲けしたとの話を伝え聞いても、彼は動じない。「われわれは他人の発明から多大の利益を受けている」「特許をとって自分が儲けようという考えはない」というのだ。

私が感動したのは、造船について論じたくだりだ。当時は帆船の時代だが、それでも設計時には速さが追求されたらしい。ところが、「快速船」が航海に出ても遅いことがある。フランクリンは、その一因として「船荷の積み方、艤装(ぎそう)の方法、操縦法(そうじゅうほう)に関する考えが海員によって異る」ことを挙げている。技術を、つくり手のつくり方だけでなく使い手の使い方まで含めて考えよう、というシステム思考の視点がある。

この自伝では、ところどころでアフリカ系の人々、あるいは北米に先住する人々に対する偏見が見てとれる。フランクリンがしたたかに宗主国英国の植民地支配に抵抗する話が出てくるが、今のものさしでとらえ直せば、彼もまた支配する側にいたことになろう。

ただ、米国建国の立役者たちが新しい文化の種を撒いたのはたしかだ。草の根の知的活動、実生活直結の探究心――ひとことで言えば、プラグマティズム(実用主義)だろうか。そこにこそアメリカのアメリカらしさがある。それが今は見えない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月6日公開、同月8日最終更新、通算547回
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アガサで知る英国田園の戦後

今週の書物/
『予告殺人』
アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊行

お茶の時間

戦後という言葉は今、若い世代の心にどう響くのだろうか。たぶん、「センゴ、what?」という感じではないか。先の大戦の痕跡がほとんど消えているのだから、当然かもしれない。ただ、一つ言っておきたいのは、戦後は戦中とは切り離された時代区分であることだ。

こんなふうに思うのも、私が昭和20年代(1945~1954年)生まれであり、若いころは戦争を知らない子どもたちと言われたからだろう。たしかに戦争は知らない。でも、戦後は知っている。それは、明るかったが闇がある、闇はあったが明るい――そんな印象か。

今の一文で、「明」と「闇」2文字のどちらに重きを置くかで、ちょっと迷った。あれほどの大戦の後なのだから「明」を強調するのは不謹慎ではないか。そうは思う。だが、私たちの世代には「明」のほうがピンと来る。

ふと思いだすのは昭和30年ごろ、私が親類宅の庭で遊んでいたときのことだ。上空を巨大な飛行機が通り過ぎていった。銀色の機体がまぶしかった。そのとき、傍らの伯母が「アメリカの輸送機だわ、きっと」とつぶやいた。あのころは米軍機が東京上空を頻繁に飛び交っていたのだ。伯母が「アメリカの…」と言うとき、彼女の心には戦中の記憶が去来していたのだろう。だが私にとって、それはガイジンが乗るピカピカの飛行機に過ぎなかった。

戦後はたしかに明るかった。そのことは『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)をみてもわかる(「本読み by chance」2020年3月6日付「サザエさんで終戦直後の平凡を知る」)。それは、「闇」をはらむ「明るかった」なのかもしれないが。

で、今週は、海外の戦後をミステリー作品から嗅ぎとることにする。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊)。描かれるのは、英国田園地帯の戦後。戦勝国なので、敗戦国の世相とは大きく異なる。だが戦争は、負けた側だけでなく、勝った側にも混乱を引き起こす。その結果、「明るかったが闇がある」が、ここにも顔を出すのだ。著者は、その空気をミステリーの作中に吹き込んだ。

小説の舞台は、チッピング・クレグホーンという名前の小村。作品のなかで地元警察署長が口にする言葉を借りれば「広々とした絵のように美しい村」だ。「かなりの数の建物がヴィクトリア朝時代に建てられたもの」(署長)で、高級感が漂う。かつて農場の働き手の住まいだった家も改築され、年配の人々が住んでいたりする。当時の労働党政権の政策「ゆりかごから墓場まで」に支えられた高齢世代のゆとりがここにはある。

余談だが、作中には「セントラルヒーティング」という言葉がしばしば出てくる。英国の家々で暖房方式が変わり、暖炉が飾りものになったのはこのころだったのだろう。

小説の冒頭は、新聞配達の話。村の商店街には、新聞の取り次ぎもしている書店があって、配達人が月曜から土曜まで毎朝、自転車で新聞を配っている。日本のように宅配制度が行き渡っていないので、各紙ごとの専売店はない。家ごとに異なる注文の新聞を届ける。

金曜日は大忙しだ。全国紙に加えて、ほぼ全戸に地域週刊紙「ノース・ベナム・ニューズ・アンド・チッピング・クレグホーン・ガゼット」を配達するからだ。たいていの住人が全国紙に載る国連総会や炭鉱休業の記事はほったらかしにして、「《ガゼット》をそそくさと広げると、地元のニュースをむさぼるように読んだ」。今や高級住宅地と化した小村にも地域社会が根を張っていることが、このミニコミ紙の人気からもうかがわれる。

最初に登場するのは、スウェットナム親子。一人息子はもの書きのようだが、売れっ子ではないらしい。それでも家政婦を雇っているから、資産があるのだろう。この家でも、金曜朝は母親がガゼットに目を通す。目当ては個人広告欄。「スメドリー家は自動車を売りにだすようね」「ふうん、セリーナ・ローレンスがまたコックを探してるわ」……。紙面に固有名詞を見つけては、その人の面立ちやその建物の佇まいを思い浮かべている気配がある。

と突然、母親が驚きの声をあげる。広告欄に「殺人をお知らせします」という文言を見つけたのだ。その日午後6時半にリトル・パドックスで、とある。リトル・パドックスは、村内にある邸宅の一つ。あるじは、レティシア・ブラックロックと名乗る60代の女性だ。広告文は「お知り合いの方々にご出席いただきたく、右ご通知まで」と締めくくられていた。母は戸惑うが、息子は「一種のパーティー」「殺人ゲームみたいなもの」と本気にしない。

当然のことながら、この広告はあちこちの家庭で話のタネになる。元インド駐在の軍人とその妻、改造田舎家で共同生活している年配女性の二人組、そして、牧師館に住む牧師とその妻。予告をまともに受けとめた人は村にいないようだ。たとえば、年配女性同士のやりとりはこんなだった。「一杯やりましょうってことでしょ、どっちみち」「招待状のようなものかしら?」「向こうに行ってみれば、どういう意味なのかわかるわよ」

リトル・パドックス邸内でも広告は話題になった。この家の住人には、あるじのほかに彼女の古い友人がいる。遠い親戚という若い兄妹もいる。さらに、子育て中のシングルの女性が下宿しており、大陸から難を逃れてきたメイドもいる。あるじは広告を遠戚の兄か妹の悪ふざけと疑ったが、それは即座に否定された。だが、さほど動じる様子もなく、近隣の人々はきっと興味津々で来訪するだろうと見込んで、パーティーを準備するのだ。

夕刻になると、ほんとにみんながやって来る。客たちが関心事の「殺人」をなかなか口にしないのは英国流の作法か。訪問の理由も「たまたま、こっちのほうに来たものですから」「アヒルが卵を産んでいるかどうかお訊きしたかったので」……。例外は、牧師の妻だけだ。夫が所用で来られないことを「それはもう残念がってました」と言って、「主人は殺人が大好きなんです」。牧師をミステリー好きにしてしまうのは、クリスティー流の諧謔だろう。

予告の午後6時半、明かりが消えて「部屋が真っ暗」になる。悲鳴が起こったが、どこか「満足げ」で「楽しげ」。みんなまだ、パーティー感覚だったのだ。ところが、ドアが開いて懐中電灯の光があちこちを照らしたかと思うと、男の声が響きわたる。「手をあげろ!」。そして、拳銃の発射音が3回。まもなく明かりが戻ってわかったのは、衝撃の事実。血を流して倒れているのは騒ぎの張本人、さっき声をあげた男だったのだ――。

ミステリーなので、当欄はこの事件の筋書きを追わない。おなじみのジェーン・マープルが登場して刑事たちに知恵を貸すのだけれど、その謎解きについても触れない。この穏やかな地域社会にも、戦争の影響が見え隠れしていることだけを強調しておこう。

もっとも暗い影を引きずっているのは、リトル・パドックスのメイド。広告が出た日、あるじに暇を願い出る。「死にたくないんです!」「家族はみんな死んだんです――殺されたんですよ」「またやつらがあたしを殺しに来る」と脅えている。「誰が?」と問われると、まず「ナチス」の名を挙げ、次いで「今度はボルシェビキかもしれない」と言う。戦後の英国には、戦前戦中に大陸を席巻した全体主義の恐怖が消えない人々が大勢いたのだろう。

事件後、刑事が事情を聴こうとすると、「あたしをいじめに来たんでしょ」「爪をはがしたり、マッチの炎で皮膚を焼いたり」「だけど、あたしはしゃべらない」と頑なだ。自分は学歴があるのにこの地では相応の扱いを受けていない、という恨みもほのめかす。

たしかに、村には難民を疎外する空気があった。庭師の一人は刑事の聞き込みに、村内にくすぶる憶測のあれこれを証言する。この事件を「よそ者がうろつきまわっているせい」にして、リトル・パドックスの厨房にいる「ひどい癇癪(かんしゃく)持ちの娘」に疑いの目を向ける人物もいる――。戦時、欧州大陸の人々を苛んだ出来事は戦後、英国の長閑な田園にも歪みをもたらしていた。クリスティーの一編からも戦争の「闇」は見えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月30日公開、同年11月1日更新、通算546回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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東独、ひとつの国が消えたとき

今週の書物/
『ドイツ統一』
アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊

ドイツビール

去年の今ごろ、私たちの世代はベルリンの壁崩壊から30年の感慨に耽った(当欄の前身「本読み by chance」2019年11月15日付「あの日、壁崩壊に僕らが見たもの」)。1年後の今、壁崩壊30周年のあとにもう一つ、大きな通過点があることに気づいた。

ドイツ統一から30年の歳月が流れたのだ。1990年10月3日、東西ドイツ――と言ってもピンと来ない世代がふえたが――が合体して、一つのドイツが再登場した。これによって、第2次大戦後、欧州中央に居座っていた大きな変則状態が消滅したと言ってよい。

壁崩壊は、ひとことで言えば解放だった。閉じ込められた人々が壁を壊し、外へ出て、自由の空気を思いきり吸った。それは、祝祭にほかならない。だが、祭りのあとには大きな宿題が残った。東ベルリンを首都とする東ドイツ(東独)、即ちドイツ民主共和国の今後をどうするか、という問題だ。ドイツ人は結局、東西統一という道を選んだ。東ドイツが、それまでの西ドイツ(西独)、即ちドイツ連邦共和国の一部になる、という方式だった。

考えてみれば、これは大変なことではなかったか。一つの国が、戦争もなく平和裏に消滅したのだ。ドイツ民主共和国は1949年の建国以来、ソ連型の社会主義体制をとってきた。西側とはまったく違う政治がある。経済の様相も異なる。それが、なにはともあれ民意を反映させるかたちで解消された。こんな大事業が成し遂げられたのは、なぜなのだろう。国際政治の力学がそうさせたのか、ドイツ市民が理性的だったからか。

ともあれ30年後の今、あのドイツ統一はないほうがよかった、と思う人はそう多くないように見える。もちろん、歪みはさまざまなかたちで噴出している。それを差し引いても、あのタイミングであの体制転換を果たしたことは賢明だったのではないか。

で、今週は『ドイツ統一』(アンドレアス・レダー著、板橋拓己訳、岩波新書、2020年刊)。著者は1967年生まれのドイツの現代史家。略歴欄に現職はマインツ大学教授とあるが、訳者解説によると「中道保守のキリスト教民主同盟(CDU)の熱心な党員」であり、政治活動にも積極的だという。ドイツ統一の西側の牽引車はCDUを中心とするヘルムート・コール政権だったので、この本は、そのことを念頭に置いて読んだほうがよいだろう。

この本で、ああ、そんなことがあったなあ、と思いだされるのが、東独の人々が列をなして国境を越えようとしている映像だ。壁崩壊よりも前のこと、いきなり西独に入るのではない。同じ東欧圏の国を通って西側へ脱け出る人の流れが起こったのである。先駆けとなったのは、ハンガリールート。この国は1989年9月、中立国オーストリアとの国境を開放した。月末時点で、東独から来た3万人がオーストリア経由で西独に移り住んだという。

旧チェコスロヴァキアのプラハにも、ポーランドのワルシャワにも東独の人々が「難民」として押し寄せた。東独指導部は「難民のイメージ」が建国40年の式典に水を差すことを嫌って、プラハで「難民庇護」を求めていた自国民向けに東独経由西独行きの特別列車まで仕立てた。これには「出国者たちの身元を確認する機会を確保しよう」との思惑もあったが、「列車の通過は、指導部の降伏を国民の前にはっきりと示すことになった」。

実際、そのころ、ドイツ社会主義統一党(SED)が率いる東独指導部はガタガタだった。その体制崩壊の要因を、著者は三つ挙げる。ソ連がゴルバチョフ体制になったこと、党指導部が硬直化していたこと、そして、1989年に顕著になった「反対派運動の台頭」だ。

事実上の一党支配が続く東独に、どんな「反対派」がありえたのか。この本によれば、1980年代には、教会を核にして「平和、環境、人権を掲げるグループ」が生まれていた。壁崩壊の89年11月に並び立っていたのは、「新フォーラム」「民主主義をいま」「民主主義の出発」などの運動体。リーダーには、画家、映画監督、分子生物学者、物理学者や弁護士らがいた。文化人や知識人が東独体制の抑圧に対して声をあげたという色彩が強かったようだ。

ここで押さえておくべきは、反対派イコール統一志向派ではなかったことだ。著者は、新フォーラムについて「彼らのプライオリティは、改革され、独立した東ドイツに置かれていた」と指摘する。めざしていたのは「政治的な自由《と》経済的な自由に塗り潰されている西側のシステム」(《 》は傍点箇所)ではなかった。東西いずれの体制とも異なる「第三の道」――「改革された民主的な社会主義」だった、という。

ところが壁崩壊後、東独内には統一を渇望する世論が起こる。デモでは「再統一」の横断幕が見られるようになった。集会で発言者が「四〇年を経て、もはや社会主義の新たな変種を試みる気などない」という思いを語って、拍手が鳴りやまなかったこともある、という。その発言者は、工具職人だった。市井の人々のすぐそばに、同胞たちの成功物語に彩られた自由主義経済があり、反対派の主張がもはや心に響かなくなっていたのである。

反対派はSED改革派とともに「円卓会議」に参加して東独再生をめざすが、世論の西独志向は強まるばかりだった。「ドイツ・マルクが来るなら、われわれはとどまる。来ないならば、われわれがそちらに行く!」。デモでは、そんなスローガンも現れたという。

この状況に攻めの姿勢をとったのが、西独コール政権だ。コール首相は1989年11月、「連邦国家的秩序」を目標に置く10項目の計画を発表、翌90年2月には両独の「通貨同盟」も提案する。首相はそれを急いだ理由を、農民が雷を警戒して「刈り入れた干し草をしまい込もうとする」心理で説明したという。念頭にあったのは、ソ連の不安定な情勢らしい。ゴルバチョフ体制が崩れれば鉄のカーテンが再び下ろされかねない、というわけか。

同じ2月、東西ドイツと米ソ、英国、フランスの戦勝国が「2+4」という対話の枠組みをつくることが発表される。それぞれの国の思惑が絡みあう力学もこの本の読みどころなのだが、要約は難しい。ただ、統一にとって大きな阻害要因はなかったと言えそうだ。

この本で見えてくるのは、統一が東独の人々にもたらした副作用の深刻さである。東独は、市場経済が一気に流れ込んだことで就業構造が一変した。農業、製造業の分野で労働人口が激減、サービス業ではふえたが、全体としては厳しい雇用状況に直面した。1993年になって壁崩壊当時の職場に居残っていた人はわずか29%という。この現実は「一般的に転職がきわめて稀であった東ドイツの伝統に鑑みると、由々しき問題」だった。

著者によれば、統一前の東独にあった社会主義体制下の企業は、労働者にとって単なる職場ではなく、「社会的共同体の場」だった。そこは「生活形成の場」でもあり、「子供の養育や休暇や文化のための組織」が付随していた。それをもぎ取られる人々が大勢いたというわけだ。私はこのくだりを読んで、かつて日本の終身雇用型企業に、運動会などの社内行事や保養所などの福利厚生施設が一式揃っていたことを思いだした。

こうした苦難は当然、体制の崩壊に起因する。人々は「補助金を多く投入する計画経済的な福祉独裁」の「停滞」から「市場経済的で多元主義的な経済・社会システム」の「混沌」に放り込まれた、と著者はみる。東独の産業は「重工業的段階」にあったが、そこにいきなり「自由とリスク」や「マイクロエレクトロニクス時代の変化のダイナミズム」や「グローバル化」の波が押し寄せ、「二重の近代化」をせっついたのだ。

二つの国が一つになるのは並大抵のことではなかった。たとえば、交換レート。この本によれば、東独マルクは西側のドイツ・マルクに比べて圧倒的に弱かったが、東独側は1対1での切り替えを求めた。最終的には、賃金給与は1対1だが、ほかの場合はさまざまな条件によって1対1のことも2対1のこともあるという複雑な方式で折りあった。その副作用にもこの本は触れているが、なにはともあれ「力業」で妥協点に漕ぎ着いたのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月23日公開、通算545回
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