アンドロイドは倫理の夢を見るか

今週の書物/
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1977年刊

脳?

「アンドロイド」という言葉を聞くと、スマートフォンのオペレーティングシステム(OS)を思い浮かべる人が多いだろう。もともとは人造人間のことだった。ロボット技術が進んで、それはヒト型ロボット(ヒューマノイドロボット)の別名になっている。

ヒト型ロボットで私たち高齢世代になじみ深いのは「鉄腕アトム」である。人間の体だけでなく心まで具えているところが最大の魅力。ただ、体のしくみについては動力源が原子力であるというようなもっともらしい説明があるのに、心のしくみはベールに包まれていた。それはそうだろう。アトムの登場は1950年代初めだった。人工の心とまでは言わないが、人工知能(AI)の研究が本格化するのは1950年代半ばのことである。

作者手塚治虫がすごいのは、パソコンやスマホに象徴される情報技術(IT)が影もかたちもなかった時代、人間の心をブラックボックスにしたままロボットの体内に埋め込んだことである。それはあのころ、ファンタジーだった。今は一転、リアルになっている。

だれが名づけ親かは知らないが、スマホOSに「アンドロイド」の名を与えた発想は見事だ。ヒト型ロボットを人間らしくしているのは、手や足や目鼻口そのものではない。手足が舞うように動くとき、目鼻口がほほ笑んだような位置関係になるとき、人間らしいな、と感じるのだ。求められるのは動きや表情を生みだす心であり、その実体は脳にほかならない。スマホにヒトの手足はないが、ヒトの脳には近づいているように思う。

ここで一つ、勝手な空想をしてみる。もし手塚が2022年の今、「鉄腕アトム」を再生させるとしたら、真っ先に手をつけるのは頭部にスマホを組み込むことだろう。もちろん、その機種はAI機能を高めた次世代型だ。これによってアトムの心は実体を伴うことになり、もっともらしさの度合いが強まるだろう。蛇足をいえば、動力源は再生可能エネルギーによる充電型電池に取って代わり、「鉄腕リニューアブル」と改名されるかもしれない……。

こうしてみると、ヒト型ロボット・アンドロイドのヒトらしさの本質は脳にある。それはAIのかたまりといってよいだろう。人間がAIに期待する役割は知的作業だ。だが、その知的作業が心の領域にまで拡張されたら、人間と区別がつかなくなるのではないか――。

で、今週は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF、1977年刊)。著者(1928~1982)は米国シカゴ生まれのSF作家。『偶然世界』という作品は、当欄の前身ブログでもとりあげた()。『アンドロイド…』の原著は1968年刊。翌年には邦訳が早川書房から出ている。学生時代、私はその単行本を買い込んだ気もするが、もはや定かではない。最後まで読まなかったのは確かだ。

なぜか。理由は、本を開いてページをぱらぱらめくったとき――買っていなかったとすれば書店の店先でのことだが――読む気が萎えたからだ。同様の感覚は今回、最初の1行に接したときにも再体験した。「ベッドわきの情調(ムード)オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました」。情調オルガン? サージ電流? 私は機械に弱い。この手の理系用語が大の苦手なのだ。

だが、半世紀を経て私も寛容になった。我慢をして読みつづけると、小説導入部の状況がおぼろげ見えてくる。主人公のリックは妻イーランとともに朝を迎えた。妻は、うとうとしていてなかなか起きようとしない。情調オルガンの調整でサージ電流を弱めに設定しすぎたためらしい。サージ電流とは、いわば電流の大波のことで、電気回路をパルス状に通過していく。リックやイーランの情調は電流のパルスで制御されているのである。

情調オルガンの話をもう少し続けよう。この装置の正式名称は「ペンフィールド情調オルガン」。ペンフィールドの名は、脳のどの部位がどんな働きをしているかを〈地図〉として示したカナダの脳外科医ワイルダー・ペンフィールド(1891~1976)に由来するらしい。

この作品世界では、人は情調オルガンのダイヤル操作で自分の心の状態を変えることができる。〇〇状態を××時間だけ保ち、その後は△△状態に自動的に切り替える、というように事前のプログラムもできる。心の状態のメニューは番号登録されている。たとえば、481番は「あたしの未来に開かれている多様な可能性の認識。そして新しい希望――」、888番は「どんな番組であっても、テレビを見たくなる欲求」という具合だ。

このあたりまで読み進むと、時代設定もわかってくる。リックとイーランがいるのは「最終世界大戦」後の1992年。著者は、執筆時点から四半世紀後を見通しているわけだ。最終大戦は核戦争だった。その放射性降下物は今も地球に降り注いでいる。それは大気を「灰色」にして、陽光を遮るほど。グロテスクなのは、男性用「鉛製股袋(コドピース)」のCMがテレビに流れていること。生殖器官の放射線防護が、日常のことになっている。

地球では被曝を免れないという事態は「宇宙植民」を加速させた。惑星に移り住むことだ。政府は人々に「移住か退化か! 選択はきみの手にある!」と呼びかけた。地球残留組は毎月、被曝の影響を検査される。「法律の定める範囲内で生殖を許可された人間」をふるい分けるのだ。これは、核戦争後に現れかねない新手の優生政策といえよう。そして、移住者にはアンドロイド1体を無料で貸し出すという優遇策が「国連法」で定められた。

これが、作中にアンドロイドが登場する文脈だ。主人公夫婦が口論になり、イーランがリックを「警察に雇われた人殺し」となじる場面がある。「おれはひとりの人間も殺したおぼえはないぞ」「かわいそうなアンドロイドを殺しただけよね」。どういうことか。

その事情を書きすぎてしまってはネタばらしになるので、文庫版のカバーに10行ほどでまとめられた作品紹介の範囲を超えずに要約しよう。放射性降下物で汚染された地球では「生きている動物を所有することが地位の象徴となっていた」。だが、リックが飼っているのは「人工の電気羊」だ。「本物の動物」がほしい。そこで懸賞金目当てに、火星から逃げてきた「〈奴隷〉アンドロイド」8体を処理しようと「決死の狩りをはじめた!」――。

リックの任務に欠かせないのは、目の前にいる人物がアンドロイドなのか人間なのかを見極めることだ。ロボット技術の進歩で、見た目では区別できなくなっている。作中には「フォークト=カンプフ検査」という検査法が出てくる。手順はこんなふうだ。

リックは被検者に「きみは誕生日の贈り物に子牛革の札入れをもらった」と語りかける。被検者からは「ぜったいに受けとらないわ」といった答えが返ってくるが、回答そのものは判定に直結しない。被検者の心身がどう反応するか、が問題なのだ。検査では目に光をあてたり、頬に探知器を取りつけたりする。眼筋や毛細血管の変化を測定しているらしい。反応の様子を示すのは計器の針だ。ウソ発見器のような仕掛けと思えばよい。

被検者への質問に盛り込まれたエピソードをいくつか書きだそう。自分の子どもが「蝶のコレクションと殺虫瓶を見せた」、テレビを見ていたら「とつぜん、手首をスズメバチが這っているのに気がついた」、雑誌に載ったヌード写真の女性が「熊皮の敷物に寝そべっている」、小説を読んでいたら作中のコックが「大釜の熱湯の中にエビをほうりこんだ」……。動物が災難に遭ったり、遭いそうになったりする状況ばかりが被検者に示される。

どうやらこの検査では、哺乳類であれ、甲殻類であれ、昆虫であれ、ありとあらゆる生きものに対する心的反応がアンドロイドと人間を見分ける決め手になるらしい。見落とせないのは、この作品が1960年代後半に書かれたことだ。それはエコロジー思想の台頭期に当たり、動物の権利保護運動が強まる前夜だった。アンドロイドは無機的だ。脳をどれほど人間に似せても、生態系の共感に根ざした倫理まではまねられない、と著者は見たのか。

著者は、人間らしさの本質を生態系の一員であることに見いだそうとしている。題名の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に込められた思いがようやくわかった気がした。

この作品で衝撃的なのは、リックが被検者に黒革のカバンを見せて「正真正銘の人間の赤ん坊の生皮」とささやきかける場面だ。計器の針が「くるったように振れた」が、それは「一瞬の間」を置いてからだった。この遅れで被検者はアンドロイドと見抜かれる。

AIが人間の感情を再現しようとしても、真の人間ほどには素早く反応できない。情報処理の速さが情動に追いつかなかったということか。だが21世紀のAIとなると話は別だ。フォークト=カンプフ検査をくぐり抜け、人間の座を占めてしまうかもしれない。
*「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月2日公開、通算642回
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森の暗がりで哲学に触れる

今週の書物/
『樹木たちの知られざる生活――森林管理官が聴いた森の声』
ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川圭訳、ハヤカワ文庫NF、2018年刊

新緑

「森」という言葉で思いだすのは、東京西郊の某学園構内にあった小樹林だ。正門を入ってグラウンドに下りる斜面に高木が生い茂っていた。私が幼かったころは万事鷹揚な時代で、学園は近所の住人が構内を散歩するのを黙認していた。その学園町に住んでいた母方の祖母も、孫をそこに連れていったものだ。「さあ、モリへ行きましょう」――。あの樹林は今もあるだろうか。昔のようには立ち入れないだろうから、すぐには確かめられない。

この思い出話からもわかるように、日本で都会の住人が思い描く森林像はつましい。ちっぽけな緑陰を見ても森と思ってしまう。東京の住宅街に限っていえば、それは斜面の自然であることが多い。当欄が昨春とりあげた大岡昇平『武蔵野夫人』でいえば、多摩川の河岸段丘がつくりだした国分寺崖線の緑ということになる(*1、*2)。では私たちは、森というものの本質を取り違えているのだろうか。必ずしも、そうとは言えない。

たとえば、あの学園の「森」は十分に暗かった。部活の選手たちがグラウンドで発する声を聞きながら、下り坂にさしかかると、いつのまにか陽射しが翳り、辺りはひんやりして湿った空気に包まれた。このこと一つをとっても、森らしい森といえる。森イコール木々の葉叢(はむら)に覆われた空間ととらえれば、あの「森」も間違いなく森だった。ただ、都会の森は小さい。一瞬のうちに通り抜けられるので、多くのことを見逃してしまう。

話は、幼時から青春期に飛ぶ。そのころになると私も頭でっかちになり、森林のことを理屈っぽく考えた。ちょうど、生態学(エコロジー)という学問領域が生態系(エコシステム)という用語とともに脚光を浴び、それが環境保護思想(エコロジー)に結びついた時期と重なる。その生態系を体現するものが森だった。森は樹木だけのものではない。鳥がいる、虫がいる、獣もいる、草がある、キノコも――それが「系」だと頭で理解した。

たとえば、拙宅玄関わきの落葉広葉樹。植木職人に聞くとムクノキだという。私たち家族が引っ越してきてから実生で育った。春先に新芽が出て葉が繁りだすころ、数種類の鳥たちがやってきて、ときに愛らしく、ときに騒々しく、鳴き声をあげる。これも生態系だ。

だが、それは思いあがりかもしれない。庭木の生態系は所詮、人工の産物だ。森の生態系を再現してはいない。森は、ただ多種の生物が共存するという意味での生態系ではない。その暗がりは、人間の尺度を超えた自然の営みを秘めているらしい――。

で、今週の1冊は『樹木たちの知られざる生活――森林管理官が聴いた森の声』(ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川圭訳、ハヤカワ文庫NF、2018年刊)。著者は、ドイツで森林管理に携わる人だ。1964年、ボン生まれ。大学で林学を学び、営林署勤めを20年余続けた後、独立した。ドイツには「フリーランス」の森林管理家がいるということか。原著は2015年刊。邦訳は、単行本が2017年に早川書房から出て、翌年に文庫化された。

本書は、エッセイ風の短文37編から成る。著者が日々、森を見回っていて気づいたことを思いのままに綴り、その合間に生物学の文献などを引いて、最新の研究結果を織り込んでいる。多種多彩な樹木やキノコ、鳥、虫が次から次に登場するので、読むほうは途中でついていくのがしんどくなる。ということで当欄は、森の生態系について系統立てて論ずることはあきらめた。印象に強く残った話をいくつか拾いあげてみることにする。

「友情」と題する一編では、森の木々の間にある友愛が語られている――。著者は、ブナの群生林で「苔に覆われた岩」らしいものを見かけた。近づいてみると「岩」は見間違いで、それは古木の切り株だった。驚いたことに、樹皮をナイフで剥いでみると「緑色の層」が顔を出した。植物にとって生の証しともいえる「葉緑素」である。その木は400~500年ほど前に伐採されたと推察されるが、それでもまだ生きつづけていたのだ。

「私が見つけた切り株は孤立していなかった」と著者は書く。その解説によれば、切り株が「死なずにすんだ」のは、周囲の木々が根を通じて「糖液を譲っていた」からにほかならない。容易には信じがたいが、樹木の間では「根と根が直接つながったり」「根の先が菌糸に包まれ、その菌糸が栄養の交換を手伝ったり」ということが起こる。ご近所で「栄養の交換」をしているのだ。昭和期の町内で隣家同士が醤油の貸し借りをしていたように。

興味深いのは、樹木が栄養を譲る先は同種の仲間に限らない、とあることだ。競合する樹種に分け与えることもあるのだという。なぜか。理由は「木が一本しかなければ森はできない」ということに尽きる。樹木が風雨や寒暖から身を守るにも、十分な水分とほどよい湿度を手に入れるにも、1本ではダメで森が必要だ。ただ、相手を「どの程度までサポートするか」はまちまちで「愛情の強さ」が関係している、と著者は考える。

「木の言葉」という一編には、根のネットワークが栄養だけでなく、情報のやりとりにも使われることが書かれている。1本の木が害虫に襲われたとしよう。木は虫の撃退物質をつくって自衛する一方、周りの仲間に向けて警報を発する。その通信経路の一つが根っこ。警報は化学物質や電気信号のかたちをとって伝わる、と本書にはある。このときも一役買うのが菌糸で、根っこ同士が接していなければそれらを仲立ちするという。

菌糸とは菌類から伸びた糸だ。菌類はキノコなどのことである。本書によれば、森の土くれスプーン1杯には菌糸が長さ数km分も畳み込まれているらしい。菌糸のネットワークには、“www”になぞらえて「ウッドワイドウェブ」の愛称もあるという。

著者によれば、木の根には脳の役割があるという説も有力らしい。根の先にある電気信号の伝達組織で、樹木に「行動の変化」を促す信号を検知した研究もあるという。「行動の変化」の一例は、成長組織に伸びる方向を変えさせることだ。根が、地中で岩石や水分、あるいは有害物質を感じとったとしよう。これをもとに樹木を取り巻く「状況を判断」、成長組織に「指示」を出して「危険な場所に進まないように」仕向けるわけだ。

興味深いのは、植物学者の多くが木の根の「判断」や「指示」を「知性」とはみなさないことに著者が異論を唱えている点だ。違いは、樹木では情報の感知が「行動」に結びつくまでに「時間がかかる」こと。「生き物として価値が低いということにはならない」と書く。

木がものを考えるということでは、こんな話もある――。著者は、ナラの木々が一カ所に並んでいても秋に葉が色づくタイミングがまちまちなことに気づく。落葉樹は日照時間が縮まり、温度が下がると、光合成をやめて冬眠態勢に入ろうとするが、一方で、翌春に備えて「できるだけたくさんの糖質をつくっておこう」という指向もある。「判断」は「木によって違っている」と、著者はみる。二つの思惑の間で悩むことが木にもあるのか。

著者は本書で、森の樹木を人間に見立てて描いている。樹木に対して「愛」とか「知性」とかいう言葉を使うことには、科学の見地から眉をしかめる向きもあるだろう。ただ、森には人間社会とは次元の異なる「愛」や「知性」があるのだと思えば、納得できる。

圧倒されるのは、木の時間の長さだ。著者が管理する森ではブナの若木が樹齢80歳超だが、約200歳の母親から「根を通じて」糖分を受けている。まだ、赤ちゃんなのだ。様相が変わるのは、いずれの日か母親の命が尽きるときだろう。母親が倒れれば若木の一部も倒れるが、残りは「親がいなくなってできた隙間」の恩恵を受ける。「好きなだけ光合成をするチャンス」をようやく手にするのだ。こうして若木同士の競争が起こり、勝者が跡目を継ぐ。

木の空間も長い。それは、森は動くという話からわかる。欧州の中部や北部には300万年前、すでにブナ林があったが、一部の種類は氷河期にアルプスを越え、南欧で生き延びた。間氷期の今は北上を続け、北欧の南端にまでたどり着いたという。ブナの種子は、鳥や風の力では遠くに移動しにくい。それでも生息地を、最適の場所へ少しずつずらしていくのだ。移動速度は年速400mほど。地球の生態系が動的であることに感嘆する。

森にはやはり、時間的にも空間的にも人間の尺度を超えた何かがある。私が幼い日に感じた暗がりの正体は、ものの見方を広げてくれる哲学の影だったのかもしれない。
・引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ
*2 当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月3日公開、通算629回
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ノーベル賞、「予想外」の醍醐味

今週の書物/
ノーベル賞2021年報道資料
https://www.nobelprize.org/

報道資料

ノーベル賞の発表が進行中だ。今週は、その話題をとりあげる。今年は、世間の予想を覆す選考結果が目立った。その背景も探ってみることにしよう(文中敬称略)。

なんと言っても、最大の予想外は物理学賞だ。この時代、日本生まれの在米科学者が受賞するのは意外ではない。私にとって最大の驚きは、物理学賞が複雑系科学を真正面からとりあげ、称賛したことだった。ノーベル賞が、物理学と考えるものの枠を広げたのだ。その結果、地球科学も視野に入り、気候変動に対する危機感を世界に向けて訴えることができた。意地悪な見方をすれば、そのメッセージのために枠を拡張したと言えないこともない。

複雑系科学は、20世紀後半に強まった自然探究の流れだ。自然界を最小単位にさかのぼって理解しようという還元主義の科学に翳りが差し、それに取って代わるものとして台頭した。物理学賞ももちろん、この潮流に対応してきた。たとえば、1977年には早くも、フィリップ・アンダーソン(米)やネビル・モット(英)を受賞者に選んでいる。二人は、原子の並びが無秩序な固体系のしくみを探ったことが高く評価されたのである。

ただアンダーソンもモットも、バリバリの固体物理学者だった。旧来の物理学の領域内で複雑系の謎に向きあったということだ。領域の外縁部で大成果を挙げた人には賞を出していない。それで思い浮かぶのは、気象学者のエドワード・ローレンツ(米)。天気にカオス(混沌)を見いだした。気象は、初期値の小さなズレ――たとえば蝶の羽ばたき――がやがて大きな違いを生みだすので予測困難、というバタフライ効果に気づいた人である。

カオスの概念はその後、物理学の各分野に大きな影響を与えた。ローレンツは複雑系探究の先駆者として物理学賞を受けてもよかったと思われるのだが、実現しないまま2008年に逝った。この歴史を踏まえると、今回の選考結果は思いもよらぬものだった。

では、プレスリリースに入ろう。選考母体(物理学賞はスウェーデン王立科学アカデミー)の苦心の跡が見てとれるのは、授賞理由の二重構造だ。まず、受賞者3人に共通する理由として「複雑な物理系の理解への画期的な貢献」を挙げる。そのうえで、真鍋淑郎とクラウス・ハッセルマン(独)には気候モデルの構築に対して、ジョルジョ・パリーシ(伊)には物理系の無秩序とゆらぎの研究に対して、それぞれ賞を贈るとしている。

三人の業績も要約されている。真鍋については「1960年代、地球の気候の物理モデルを考案して、放射の均衡と気団の垂直移動の相互作用を探った最初の人」とある。「最初の人」のひとことは重い。気候変動研究の草分けであることを明言しているのである。

ハッセルマンは、短期的な「天気」と長期的な「気候」を結びつける気候モデルを作成した、という。これは「なぜ、天気が変わりやすくカオスのようであっても、気候モデルは信頼できるか、という問いに答えを出す」ものだった。もう一つの功績は、気候変動に人間活動が影響を与えている痕跡を見分ける手法を見つけたことだ。このおかげで、地球温暖化が人間活動による二酸化炭素排出に起因することが裏づけられたのである。

残る一人、パリーシについての記述は難しい。1980年ごろの仕事として「無秩序で複雑な物質には隠れた『パターン』があることを発見した」とある。「?」だ。報道資料の一つである「一般向け解説」(Popular Science Background)を開くと、この「無秩序で複雑な物質」は「スピングラス」(スピンのガラス状態)だとわかる。これは、合金に微量の磁性原子が混ざっていて、それらの向き(スピン)に規則性がない状態を指す。

磁性原子は、近くにいる仲間の磁性原子のスピンの影響を受けて向きを変える。このとき個々の磁性原子の視点に立つと、自分がどっちを向いたらよいか迷う状況も現れる。「隠れた『バターン』」の「発見」は、この問題の解決につながっているらしい。

パリーシの地道な基礎研究は、一見すれば真鍋・ハッセルマン組が成し遂げた人類的な業績から遠く離れている。それがなぜ、同時受賞なのか。答えはプレスリリースにある。パリーシの発見は物理学のみならず、数学や生物学、神経科学、機械学習などの諸分野で「不規則な物事」を理解したり記述したりするのに役立っている、というのだ。この分野横断性にこそ、複雑系の強みがある。これが、二階建ての授賞理由を成り立たせたのである。

医学生理学賞は「温度と接触の受容体発見」を授賞理由に、米国のデービッド・ジュリアスと、レバノン生まれ米国在住のアーデム・パタプティアンに贈られる。こちらは、人体の感覚のしくみに迫った地味な研究だ。そのことが逆にメディアに衝撃を与えた。

というのも、下馬評では、コロナ禍で一躍脚光を浴びたメッセンジャーRNAワクチンの開発者が最有望視されていたからだ。ところが蓋を開けてみれば……肩透かしとは、こういうことを言うのだろう。選考母体のスウェーデン・カロリンスカ医科大学が開いた記者会見(ネットでも生中継)でも、メディアの期待外れ感は歴然だった。授賞理由の説明が終わり、質疑応答の段になっても、例年のように矢継ぎ早の質問が出ることはなかった。

ただ、こんなときにも黙っていないのが欧米メディアだ。AP通信の記者は、最大の関心事が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」にあることを隠そうとはしなかった。選考ではワクチンの研究についても調査したか? 将来、その授賞はありうるか?――そんな趣旨の質問を浴びせた。選考側は、「ノミネーション」のあった研究は徹底的に調べているとしたうえで「個別の案件についてはそれ以上言えない」と答えた。

どこかの国の国会答弁を思わせる返答に、私は苦笑いした。ただ、このやりとりから推察できることもある。ノーベル賞選考で「ノミネーション」とは、選考母体が世界中から募る受賞候補の「推薦」を指す。その締め切りは1月末だ。今年の1月を振り返ると、新型コロナウイルス感染症のワクチン、とくにファイザー製やモデルナ製のメッセンジャーRNA型は接種がまだそれほど広まっていなかった。推薦が間に合わなかったのかもしれない。

では、今回のプレスリリースを見てみよう。冒頭「私たちが寒暖や接触を感じとる能力は生存にとって欠かせない」と切りだし、温度や圧力が知覚されるときに「神経の活動電位がどう引き起こされるのか」という疑問に答えたのが今年の受賞者だという。

それは、こういうことだ。神経細胞の膜に電気を帯びた粒子(イオン)を通す部位があり、温度や圧力の刺激によって、その通り道が開いたり閉じたりして神経細胞内の電位が変わる。これが温度や接触の「受容体」であり、温度センサーや触覚センサーの役目を果たしている。前者を見つけたのがジュリアス、後者の発見者がパタプティアン。いずれも遺伝子レベルにまでさかのぼって、これら受容体の正体を見極めている。

プレスリリースは、二人の研究について実験の細部に立ち入って詳述しているが、それをなぞることは控える。むしろコロナの年になぜ……という違和感に抗するように、ノーベル賞がその妥当性を主張しているように見える箇所を押さえておこう。

たとえば、「人類が直面する大きな謎の一つは、私たちが環境をどのように感じとっているかということだ」で始まる段落。「夏の暑い日、裸足で芝生の上を歩いていると想像してみよう」と呼びかけ、日差しの熱さや風の愛撫、足裏を切るような芝の痛さを詩文のように列挙する。そして、これらは人間が「常に変わりつづける周りの状況に適応するために必要不可欠」であるとして、感覚の生理学を全人的な人間探究の一つに位置づける。

ダメ押しは、フランス17世紀の哲学者ルネ・デカルトの登場だ。デカルトは人間の感覚をめぐる考察で、皮膚の各部は「糸」で脳につながっていると予想した。足先が焚火の炎に触れたとすれば、アツッという信号が「糸」を通じて脳に伝わる、というわけだ。プレスリリースは、この話がデカルトの著書『人間論』に出ていることを紹介する。受賞研究の源流を引っぱりだして、現代科学に史的な厚みを加えようという演出が見てとれる。

毎年思うことだが、ノーベル賞には欧州人からの伝言が込められている。今年の物理学賞には地球環境への危機意識が感じとれる。医学生理学賞からは自然科学を哲学の座標に置こうという姿勢が見てとれる。だから私たちは、この賞を一冊の本を読むように味わうのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月8日公開、通算595回
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イルカ知を「動物の権利」で考える

今週の書物/
『イルカの島』
アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊

動物福祉“animal welfare”

私のように1950~60年代、東京西郊に育った世代にとって、海と言えば江の島だった。正しく言い直せば、江の島の対岸にある藤沢市の片瀬海岸だ。当時の小田急電車は相模大野から江ノ島線に入ると、林地や田畑の只中を突っ切った。やがて、終点の片瀬江ノ島駅に着く。駅舎は、竜宮城を模した造り。子どもにとっては、これだけで遠足気分になったものだ。そこからちょっと歩けば砂浜に出る。眼前には白波の押し寄せる海が広がっていた。

小学校にあがる前だったか、あるいは、あがってまもなくだったか、真夏の一日、祖父母に連れられて、この海岸に来た。祖父母は当時の感覚からすればもう年寄りの域に達していたから、浜辺で水着になることはなかった。足を向けたのは、海沿いにある「江の島水族館」(現・新江ノ島水族館)。お目当ては、館の付属施設「江の島マリンランド」である。プールで水しぶきをあげて繰り広げられるイルカショーが人気の的だった。

今、新江ノ島水族館(「えのすい」)の公式ウェブサイトを開くと、沿革欄にその記述がある。マリンランドは1957年5月に開業。飼育は、カマイルカ3頭から始まった。「日本で初めてイルカの持つ能力をショーという形にアレンジして紹介することに成功」とある。

喝采があった。イルカたちが水面から跳びあがる。次から次へ弧を描いて空を切り、再び水中に消える。それが人間による調教の結果であり、イルカは芸をさせられているのだとしても、私たちはその芸達者ぶりに見とれたのだ。だが今、私たちは同じものを目のあたりにしても、あれほど素直に胸躍らせることはないだろう。現に私は近年も「えのすい」を訪れ、ショーを観ているが、心の片隅には一抹のわだかまりがあった。

それは、「動物の権利」(“animal rights”)が脳裏にちらついたからだ。この言葉を私は1990年代、欧州に駐在していたとき、しばしば目や耳にした。動物の権利保護は旧来の動物愛護とは別次元にある。家畜や実験動物の待遇、動物園のあり方などについて動物側の視点から問い直そうとする。私は、その主張がときに矛盾をはらむことに違和感を抱きつつ、人間がこれまであまりにも自己中心的だったことに気づかされたのである。

この機運の例を挙げよう。世界動物園水族館協会(WAZA)は2015年、イルカを入り江に追い込む捕獲法(追い込み漁)が「倫理・動物福祉規程」(画像)に反するとして、この方法で捕まえたイルカが日本で飼育されていることに警告を発した。これを受けて、日本動物園水族館協会(JAZA)は追い込み漁で獲ったイルカを買い入れることを加盟施設に禁じた。今ではイルカショーのあり方も、動物の権利や福祉の観点から見直されている。

で、今週は『イルカの島』(アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊)。原著は1963年に出た。著者(1917~2008)は、『2001年宇宙の旅』で知られるSF作家。英国生まれだが、後半生はスリランカ(旧名セイロン)で暮らした。宇宙開発やITに象徴される第2次大戦後の科学技術を前のめりにとらえた人だった。ただ、その前のめりは衛星通信時代の到来を予言していたように、ときに的を射ていた。

本書も書き出しは、表題『イルカ…』に似合わず、近未来SF風だ。21世紀、深夜の北米内陸部。「谷間沿いの古い高速道路を、空気のクッションにのって、そのホヴァーシップは疾走していた」。それは、水陸両用の高速交通手段だ。轟音を発しながら近づいてきたが、その音が急に止まる。「いったいなにがおこったのだろう?」。主人公のジョニー・クリントンはベッドから抜けだして、その高速浮揚船「サンタアナ号」を見にゆく。

ジョニーは、幼いころに両親を航空機事故で失っていた。叔母の家庭で育てられたが、疎外感を拭いきれなかった。そこに突然、世界中を駆けまわる乗りものが現れたのだ。「チャンスが手まねきしているのなら、それについていくまでだ」。こっそり、黙って乗り込む。サンタアナ号はまもなく動きだした。積み荷の表示からみると、行き先はオーストラリアらしい。太平洋に出て大海原を突っ走る……。そして予想外の沈没事故が起こる。

ここからが、作品の本題だ。ジョニーが海面の浮遊物をいかだにして漂流していると、イルカの群れが近づいてきて、いかだを押してくれるではないか。連れてこられたのは、オーストラリア北東沖に広がるサンゴ礁地帯グレート・バリア・リーフの小島。島民は、そこを「イルカ島」と呼んでいた。イルカとの意思疎通を試みる研究所があるのだ。ジョニーは島に居ついて、研究所の創設者カザン教授やキース博士、そしてイルカたちと交流する。

研究室には、電子機器がぎっしり置かれている。教授と博士はスピーカーから聞こえてくる音に夢中だ。どうやら、イルカの鳴き声らしい。細部まで聴きとろうと、録音テープの回転数を落として再生している。イルカの発声に発信の形跡を見てとるつもりなのだろう。

ジョニーは、教授がイルカ語をしゃべるのも聞いた。それは、「器用にくるくると調子の変わる口笛」だった。教授によれば「イルカ語を流暢にしゃべることは、人間にはまずむり」。だが、自分は「ふだんよく使ういいまわしだったら十くらいは、なんとかしゃべれる」と言う。イルカ界には仲間内で通じるイルカ語があり、それは人間でも片言ならば習得できる――教授には、そしてたぶん著者自身にも、そんな確信があるらしい。

私が興味を覚えるのは、この作品は筋書きが牧歌的なのに、小道具が妙にテクノっぽいことだ。執筆時点の1960年代は、「半導体素子を使った精密な電子部品」が出回り、エレクトロニクスの開花期にあったからだろう。教授がジョニーに「きみにやってもらいたい仕事がある」と言って差し出すのも、キーが並ぶ「電卓のような装置」。腕時計式に腕に巻いて使う。家電のリモコン、あるいはウェアラブル端末の原型がここにはある。

キーの表示は「止まれ」「いけ」「危険!」「助けて!」……。キーを押せば「キーに書いてある言葉が、イルカ語できこえる」と教授。ジョニーに水中でこの装置を使ってもらい、イルカがどんな反応を見せるかを探ろうというのだ。イルカたちは、たいていのキーに的確に対応したが、「危険!」を押しても動かなかった。この実験が、人間の企てた「ゲーム」と察知したらしい。「彼らのほうが頭の回転が早いことはたしかだ」と教授は驚嘆する。

教授には、いくつかの構想があった。その一つが「海の歴史」をイルカに聞くことだ。人類の文明史は、古代や中世の詩人の記憶を通じて「何世代にもわたって継承」されてきた。だがそれは、有史時代の出来事に限られる。イルカにも「すばらしい記憶力」があるので、詩人の役目を果たす語り部がいるはずだ。実際に教授は、そんな語り部が語ったという伝説の一部を知り合いのイルカから聞いていた。それは人類が及ばない時間幅の物語だった。

伝説のなかには「太陽が空からおりてきた」という文言があった。大爆発があり、海水は熱湯と化して周辺のイルカは息絶え、逃げ延びたイルカもしばらくして死んだという。ここで、博士は驚くべき解釈をする。「数千年前に、どこかに宇宙船が着水した」「核エンジンが爆発し、海が放射能で汚染された」。教授もこの見方を支持して、知的生命体の飛来があったという仮説を立てる。それで、イルカからもっと話を聞きだそうとするのだ。

この作品は、エレクトロニクスがたかだか電卓級の技術水準でしかなかったころ、その先に広がる情報技術(IT)の時代を見通している。描かれるのは、通信のネットワークに海洋哺乳類を引き入れようとする人々だ。人類の記憶を有史、地上の制約から解き放って、有史以前や海洋に拡張しようという発想は良い。人とイルカの交流も微笑ましい。だが、そこに見られるイルカへの友愛と期待は、動物愛護という地点にとどまっているように思える。

気になるのは、シャチに対する実験だ。シャチはクジラ目マイルカ科の海洋哺乳類だが、広義の仲間と言ってもよいイルカですら捕食してしまう。そこで教授は、生理学者のチームにシャチの「教育」を委ねる。脳内に電極を装着して脳の働きを調べたり、電流をアメとムチのように使って行動を制御したりする、というものだ。こうしてシャチは、イルカを襲わなくなった。イルカにとっては都合よいが、シャチの権利は完全に無視されている。

ジョニーは、生理学者がシャチの脳を電気仕掛けで操作する様子を見て、「自分もこんなふうに他人にコントロールされる可能性があるんだろうか?」と自問する。悪用されれば「核エネルギー」と同様、「危険な道具」になる――。この点では、著者も科学技術に対して前のめりではない。ただシャチの実験には、もう一つ別の問題があることを忘れてはならない。それは動物の権利を、エコロジーに適うかたちでどう重んじるか、という難問だ。

人間が異種の動物に知性を見いだすことは、動物の権利尊重につながる。人知が相対化され、知性の多様さに気づく契機にもなる。だが、知的で友好的だからと言って、その種ばかりに肩入れすれば生態系の平衡が失われる。可愛い異種だけを可愛がってはいけない。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月27日公開、同日更新、通算589回
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立花隆の宇宙は夢とロマンじゃない

今週の書物/
「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出)
=『文明の逆説――危機の時代の人間研究』(立花隆著、講談社文庫、1984年刊)所収

宇宙から見た地球(NASA画像)

もう、ふた昔も前に『サイアス』という雑誌があった。1996年秋に創刊された隔週刊の科学誌だ。朝日新聞社が出していた月刊『科学朝日』の改名後継誌。残念なことだが、やがて月刊に戻り、世紀末の2000年に「休刊」という名の店じまいとなった。

『サイアス』創刊号(1996年10月18日付)で表紙を飾ったのが、先日訃報が伝えられた希代のジャーナリスト、立花隆さんの顔の大写しである。その余白を埋めるように誌名『SCIaS』のロゴがあり、「連載/立花隆/100億年の旅」(/は改行)という大見出しもあった。見出しで大書されているのは連載名「100億年の旅」ではなく、筆者「立花隆」のほうだ。出版市場で、この人の集客力がどれほど強かったかがみてとれる。

創刊の半年前、私は新聞社内の異動で出版局へ移り、まもなく『サイアス』編集部の副編集長になった。副編の仕事は、編集長のもとで誌面を企画したり、寄稿者や記者の原稿を整えたりすることだ。副編は二人いたが、立花連載の担当は私になった。私は創刊の準備段階からかかわり、編集者となる部員とともに立花事務所をよく訪ねたものだ。それは「猫ビル」と愛称される建物で、階ごとに別分野の書物を詰め込んだ知の要塞だった。

「100億年の旅」は、立花さんが理系の研究室を訪れ、研究者に長時間のインタビューをして記事にまとめるというものだった。人工知能、ロボット、仮想現実感……当時はまだ目新しくもあった領域に分け入り、突っ込んだ質問をたたみかける。取材は、知的好奇心の赴くまま盛りあがったようだ。私が深夜、編集部で仕事をしていると、取材に付き添う部員から電話がかかり、「まだ続いています」とあきれ気味の報告を受けることもあった。

やがて、立花さんから原稿が届く。私はそれを副編として読むのだから、誤字脱字がないか、事実誤認がないか、中見出しをどうするか、など実務に気をとられた。いま思うと、立花流の科学筆法を第一読者としてもっと味わえばよかったな、という悔いがある。

立花流の特徴は、工学系の研究者を取材したときに際立つ。工学研究は、たいてい実社会に直結している。その成果は経済活動と密接不可分で、ベンチャービジネスを生みだしたり、知的財産権に実を結んだりする。だが、立花さんの主たる関心は、そこにはなかった。理学系の研究、たとえば素粒子物理に興味を抱くのと同じように、工学研究に魅せられていたように思えるのだ。ロボット工学ならば、ロボットを通じて人間を知るというように。

で、今週の書物は「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出、『文明の逆説――危機の時代の人間研究』=立花隆著、講談社文庫、1984年刊=所収)という論考だ。著者は1940年生まれだから、これは30代になりたてのころに書かれた。出世作「田中角栄研究」(1974年)が世に出るより3年前のことである。『文明の逆説』は、今回の一編を含む初期の論考を1冊にまとめたもので、単行本は1976年に講談社から出ている。

本題に入る前に、この本の冒頭に収められた「文明の逆説――序論と解題」に触れておこう。そこでは、自身がルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに惹かれて論理学や現代数学に誘われ、科学哲学や言語哲学にも関心をもつに至ったことを打ち明けている。ローマ帝国史など史学の蘊蓄も披露している。衒学的なのは若さ故か。ただ、著者が田中角栄を書くときも、先端研究を論ずるときも、脳裏にこんな知的背景があったことは心にとめておきたい。

論考「宇宙船『地球号』…」は、地球を宇宙船に見立てる論法が「思想的流行」として席巻中、という話から切りだされる。「流行」の理由には、執筆の前々年、米国のアポロ宇宙船が人類を月に送り込んだということがあった。だが、それだけではない、と私は思う。

たとえば、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)。邦題にある「宇宙船地球号」は“Spaceship Earth”の直訳であり、原著の刊行は1969年。この本を読むと、1970年前後は人類が資源乱費の愚に気づく転換点だったことがわかる(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)。当時「地球号」という言葉には、そんな危機感が凝縮されていた。

立花論考「宇宙船『地球号』…」も、同様の危機感に根ざしている。だから、著者が宇宙を好きだとしても、それは、メディアが宇宙の話題をとりあげる場面で用いる常套句「夢とロマン」とはもっとも遠いところにある。これは、強調しておきたいことだ。

この論考で、著者は「宇宙空間は死の空間である」という。私たちが、地球の外に「裸のまま」で放置されたとしよう。そこには、紫外線が降り注いでいる。太陽風など高エネルギー粒子が吹きつけ、隕石や宇宙塵も高速で飛んでくる。もちろん、息を吸いたくても空気がない。新陳代謝に欠かせない物質もない。細かなことを言えば、太陽の方角を向けば焦熱、振り返れば極寒という極端な温度差もある。とても生きてはいけないのだ。

では、私たちはなぜ、地球ならば生きていけるのだろうか? 紫外線を大量に浴びずにいられるのは、上空にオゾン層があるからだ。太陽風の直撃を受けずに済むのは、地磁気が防御壁になっているからだ……。このように著者は、地球が私たちに与えてくれる恩恵を一つずつ挙げていく。著者にとっての宇宙は、人間の生存条件を考えるときの思考実験の舞台になっている。「宇宙船」に対する関心も、この文脈のなかにあると言ってよい。

この論考には、なるほどそうだな、と思うたとえ話がある。航空機のしくみを知りたいなら、「模型飛行機を作ってみれば、空気より重いものが空を飛ぶのに必要なメカニズムがわかる」。物事の本質に迫るには「いちばん簡単なモデル」を考察するのが最善であり、有人宇宙船は地球の「簡単なモデル」になる。「宇宙船と現実の地球を比較してみることによって、我々は地球をより本質的に知ることができるだろう」と、著者は言うのだ。

読みどころの一つは、物資の自給自足だ。著者によれば、アポロ司令船は乗組員の排泄物を液体なら外へ捨て、固体なら殺菌密封して持ち帰った。だが、次世代の「火星宇宙船」では、長期飛行になるので循環型のシステムが提案されているという。宇宙船に緑藻類クロレラの培養装置を置く。排泄物はクロレラの肥料にする。二酸化炭素も光合成の原料として吸収させる。その光合成が船内に食料と酸素を供給する――そんな案が紹介されている。

著者は、これを地球と比べる。結論は「地球のほうがはるかによくできている」。地球規模で「エコシステム(生態系)」という「物質循環系」が働いて、水も食料も酸素も「すべての必要物資の自給自足体制が完全にととのっている」からだ。生物界の食物連鎖も、大気と海洋の間で起こる気象現象も、この系の一翼を担う。著者は、エコロジーという環境保護思想を、世間に先んじて1970年代初頭から強く意識していたことになる。

この論考は、文明の失敗も箇条書きにしている。著者が筆頭に挙げるのは、食料増産が「エコシステムを単純化し、不安定なものにしたこと」だ。畑とは「自然の植物群落」を排除して、限られた作物だけを育てる「極度に特異な場所」にほかならない。それが地表の一角――著者が引く統計では陸地の15%――を占めて、「自然のダイナミックな均衡と進化」を阻害しているという(当欄2021年5月21日付「石さんが砂について書いた話」参照)。

気候変動に論及したくだりもある。「宇宙船でいえば、エアコン装置を破壊するようなことを、現に我々はやりつつあるのだ」。ここでは、地球の温暖化と寒冷化の両方が語られており、温暖化については原因の一つが「炭酸ガス」(二酸化炭素)の「温室効果」であることに触れている。温暖化がメディアで大きく扱われるようになったのは1980年代後半からだ。この点でも、著者の知的関心は未来の論題を先取りしていたのである。

立花さんの宇宙は、夢の宇宙でないばかりか実在の宇宙でもなかったように私には思える。それは、人間が地球に生存することの幸運を実感できる脳内空間ではなかったか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月2日公開、同月9日最終更新、通算581回
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