科学記者のゆとりを味わう

今週の書物/
「科学者@Warの『言い分』」
武部俊一著(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収

科学のページ(朝日新聞より)

「科哲」という言葉を聞いてピンとくるのは業界人だけかもしれない。ここで「業界」とは、私自身もその一隅にいた科学報道の職域を指している。1983年、私が朝日新聞社の科学部員になったとき、部の幹部(東京、大阪両本社の部長と次長)6人のうち5人が「科哲」出身者だった。科哲とは、東京大学教養学部「科学史・科学哲学」コース(*)の略。これが科学報道の本流なのか――私学出身の私は圧倒されたものだ。

顧みるに、それは学閥というより学派に近かった。言い方を換えれば、「科哲」の人々には独特の匂いがあったのだ。私の現役時代、科学報道も競争が激しくなり、科学記者は事件記者や政治経済分野の記者と同様、他紙を出し抜くことに躍起となったものだが、「科哲」出身者はどこかおっとりしていた。競争しないというのではない。いやそれどころか、他紙の追随を許さない記者も多くいた。それなのに、ガツガツした感じがない。

これが、教養というものかな――私は部になじむにつれて、そう思うようになった。東大教養学部の学生は1~2年生の課程を終えても東京・駒場キャンパスに残り、4年生まで教養を深めている。その後半の2年が、心のゆとりをもたらしているのではないか。

朝日新聞社の科学部は「科哲」出身者を多く擁した1960~1970年代に存在感を高めた。米ソの宇宙開発競争を追いかけ、日本初の心臓移植(1968年)の暗部も突いた。だが、後に大きな批判を浴びたこともある。原子力利用の旗を率先して振ったことだ。1979年、米国スリーマイル島原発事故が起こったとき、私は原発立地県の支局記者だったので覚えているが、国策を後押しするような科学部の報道姿勢は同じ社内でもどこか浮いていた。

その報道姿勢を「科哲」に結びつけるのは短絡というものだろう。ただ科学をめぐる教養の深さは、科学に対する批判の鋭さに必ずしも比例しないのかもしれない。

ここまでの記述でわかるように、私には「科哲」に対してアンビバレンスの思いがあった。片方は、自分もあの人々のように心にゆとりをもって科学を吟味したいという志であり、もう一方は、自分は在野の立場にとどまって批判精神を忘れまいという決意だった。

で、今週は、武部俊一著「科学者@Warの『言い分』」(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)。著者は1938年生まれ。私が科学記者になったときの朝日新聞東京本社科学部長で、論説委員も長く務めた。心のゆとりを体現したような科学記者。原子力についてもバランス感覚のある記事を書いてきた。私は尊敬している。お住まいがたまたま近隣の町にあるので先日カフェで落ちあい、この会誌をいただいたのである。

「科哲」第24号は特集の一つが「戦争と科学技術」であり、「科哲」ゆかりの人々が論考を寄せている。その一つが、著者の「科学者@War…」。古今東西の自然哲学者や科学者が戦争に際し、あるいは軍事に対し、どんな態度をとってきたかを総覧している。

冒頭の一節は、第2次世界大戦直後の欧州を描いた英国映画「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年)の話。その一場面で、オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が発した言葉が引かれている。イタリアでは名門ボルジア家が権力を握っていたころ、戦争や流血沙汰が後を絶たなかったが、ルネサンスも花ひらいた。スイスでは民主主義と平和が長く続いてきたが、生みだしたのはハト時計くらい――こんな趣旨の台詞だ。

著者によれば、この台詞は「戦乱の世を勝ち抜く国家の威信が文化の原動力にもなってきた」現実を言い表している。国家の威信を支える軍事と文化の一翼を担う科学は表裏一体だ。だから、「軍事の要請に科学者たちはつきあった」。そのつきあい方はさまざま。悩むことがあった。躊躇なく応じることもあった。研究資金や生活費のためと割り切ることも。とりあえず、その「言い分」を聞いてみようではないかというのが本論考の趣意らしい。

最初に登場するのは、古代ギリシャの植民国家シラクサの人で数理の達人として知られるアルキメデス。シラクサがローマ艦隊を相手に戦ったとき、「クレーン」や「投石」や「反射鏡」による反撃で功があったとされる。興味深いのは、兵器の設計図などを残していないこと。数学や力学の業績が記録されているのとは対照的だ。本人が軍事技術を低く見て、本業とみなさなかったためらしい。「余技」が国防に生かされたのか。それはそれで怖い。

ルネサンス期の人物では、レオナルド・ダ・ヴィンチが特記に値する。30歳のころ、ミラノ公への求職活動で自薦状をしたため、「頑丈で攻撃不可能な屋根付き戦車をつくります」などと提案。平時の貢献についても書き添え、彫刻もする、絵も描く、なんでもする、と売り込んではいるが、「就活」最大のセールスポイントは芸術ではなく、軍事だったわけだ。ただ、軍事技術の提案のほとんどは現実性に乏しく、受け入れられなかったという。

16~17世紀のガリレオ・ガリレイも軍事と無縁ではなかった。パドヴァ大学教授時代は研究資金を得るため、軍人の「家庭教師」をして要塞の建造法などを教えていた。望遠鏡を自作したときは、敵艦の発見にも使えると言ってヴェネチアの総督から「報奨金」をもらっている。自分は望遠鏡で木星の衛星を四つ見つけ、それらを「メディチ星」と呼んだ。「権力者の機嫌をとってすり寄らなければ、研究生活が成り立たない時代だった」のである。

近代に入ると、著名な発明家や科学者が次々登場する。アルフレッド・ノーベル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、仁科芳雄らが名を連ねる。世間にもよく知られたエピソードに交ざって、ああそうだったのかという話も出てくる。

ここでは、二人に焦点を当てることにしよう。一人目は、空気中の窒素からアンモニアを生みだす技術に道を開き、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868~1934)。この人にはもう一つ、「毒ガスの父」という恐ろしい異名がある。第1次世界大戦に際して化学兵器の開発を指導したからだ。その人は、こんな言葉を残している。「科学者は平和の時は人類に属するが、戦争の時は祖国に属する」

あぜんとするほどの割り切り方。ただ、見落としていることがある。私たちは、人類や祖国に「属する」以前に一個人であることだ。毒ガスをつくる自己も、毒ガスを浴びる他者も一個人だ。ここでは、その個人の生命も健康も権利も度外視されている。

もう一人は、米国で核兵器開発のマンハッタン計画を率いた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)。第2次世界大戦末期の核実験を「荘厳のかぎりだった。世界は前と同じでないことを私たちは悟った」と振り返っている。「技術的に甘美な(Technically sweet)ものを見た時には、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する」という「判断」が自分にはあった、とも語っている。

オッペンハイマーは、原爆の開発や、それが広島、長崎に投下されたことの「非人間性」「悪魔性」に対して戦後は自責の念も感じていたようだ。主語を「物理学者は…」と一般化しているものの「内心ただならない責任を感じた」「罪を知った」と吐露している。

ここから見えてくるものは、科学技術には「荘厳」で「甘美」な一面があり、その魔力が科学者を「まずやってみて」という罠に陥れることだ。科学者の探究心が暴走するとは、こういうことを言うのだろう。科学者は核兵器でそのことを痛感したのである。

この論考では、著者の取材体験が一つだけ披露される。半世紀前、欧州出張の折、ドイツ・ミュンヘン大学の教授だったハイゼンベルク(1901~1976)に取材を申し込んだ。「快諾」の返事があり、約束の日時に大学を訪れたが、「体調」を理由にすっぽかされたという。ハイゼンベルクは戦時中、核をめぐるナチスの軍事研究に関与の噂があった人だ。被爆国の科学記者からそこをつつかれるのが疎ましかったのではないか、と著者は推察する。

ただ、ハイゼンベルクは礼儀正しい人だった。後日、著者に丁重な詫び状が届いたからだ。手紙には本人の署名があり、この論考には、その部分の接写画像が載っている。新聞記者には、あと一歩で特ダネを射止めていたのに……という残念譚が一つ二つある人が多いが、これもその一例だろう。それにしても、ハイゼンベルクがもし約束を守ってインタビューに応じていたら広島、長崎について何を語ったか。読んでみたかった気がする。

この論考のもう一つの魅力は、各項目のすべてにその科学者の記念切手が添えられていることだ。著者は、長年続けている切手収集の成果を「戦争と科学技術」という重い論題にも結びつけた。ここにも「科哲」のゆとりが見てとれる。学派の伝統は生きている。
* コースの正式名称は時代とともに変わっているようだが、当欄は会誌にある呼び名を採用した。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月7日公開、同年8月12日更新、通算685回
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「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
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3・11大津波、幻の直前警告

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

第二幕

地震の予知に私は懐疑的だ。今後〇十年に大地震が起こる確率は〇〇%という予測(長期評価)はありうる。だが、〇〇日後の〇〇時ごろ、〇〇地方が大地震に見舞われると予言するのは難しい。地震は地中のさまざまな要因がかかわって引き起こされるので、複雑系科学の色彩が強い。ならば、カオス理論のバタフライ効果も当然現れるだろう。予測の方程式に打ち込む初期値の数字がちょっと違うだけで未来が大きく異なってしまうのだ。

ただ、この世にはめぐりあわせというものがある。たとえば、どこかのテレビ局が、偶然にも大震災の数日前、地震や津波に対する警戒心を高めるようなニュースを流していたとしよう。それが、結果として犠牲者の数を減らすことは大いにありうる。

2011年3月11日の東日本大震災でもそんなことが起こり得たが、そうはならなかった――という話を今週は書く。そこには、日本の官僚機構の病弊が絡んでいる。

今週読むのも、先週に引きつづいて『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は東京大学名誉教授の地震学者であり、東日本大震災の前後は、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)長期評価部会の部会長だった人だ。

先週は、地震本部が2002年に太平洋日本海溝沿いの津波地震について長期予測をまとめたときのひと悶着を本書に沿って紹介した。内閣府防災担当が長期評価案に難色を示したのだ。津波地震は「三陸沖~房総沖のどこでも」起こる可能性があるとした点が意に染まなかったようで、地震本部の事務局がある文部科学省に変更案を送りつけてきた。その結果、長期評価には予測に「限界がある」ことを強調する“なお書き”が書き添えられた。(

今回の話は、その続編である。地震本部の長期評価はいったん出たら、それで終わりではなく、新しい知見を取り入れて版が改められる。本書によると、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動」の長期評価も、長期評価部会が2010年から「第二版」の検討を始めた。焦点となったのが、平安時代に記録が残る貞観地震(869年)の扱いだ。初版2002年の時点では貞観地震のデータが少なく、評価にあたって考慮の対象から外されていた。

ところがその後、津波堆積物などの研究が進んだ。貞観地震の津波が陸地の奥深くまで襲っていたこと。同様の津波は貞観以前にもあったこと。貞観以後では1500年ごろにもあったらしいこと……。宮城県中南部から福島県中部沿岸では巨大津波の間隔が450~800年程度であることがわかったとして、現在は「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」とする「第二版」案が長期評価部会に出された。2011年1月26日のことである。

ところが、この原案は2月23日の部会までに修正されたという。地震本部事務局が表現を微妙に改めたのだ。「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」が「巨大地震を伴う地震が発生する可能性があることに留意する必要がある」となっている。

3月になると、「第二版」案はさらに慎重な言い回しとなった。地震学では同規模の地震が同地域で繰り返されるとき、それを「固有地震」と呼ぶが、貞観地震が固有地震かどうかは「さらなる調査研究が必要」とされた。貞観地震については津波堆積物などから断層運動の様子が推測されていたが、これも「改良されることが期待される」と言い添えられた――科学者が「いつ発生しても」と言い切った警告が事務局によって弱められたのだ。

なぜ、こんな改変がなされたのか。そこには、衝撃の事実があった。政府の「東電福島原発事故調査・検証委員会」(政府事故調)が、2011年暮れの中間報告でその経緯を明らかにしたのだ。それによると、地震本部事務局は同年3月3日、東京電力の「要望」を秘密裏に聴いていた。東電は「第二版」案の表現に工夫を求めた。貞観地震が繰り返すと言っているようにとられるのはよくないというのだ。事務局はこれに応じたことになる。

「正規の会議を差し置いて、秘密会合で物事が決まる」という不条理の典型。しかも驚かされるのは、その秘密会合の開催を長期評価部会の部会長である著者が知らされていなかったらしいことだ。本書によると、著者は政府事故調の中間報告で「秘密会合」の開催が明るみに出たとき、ただちに地震本部事務局に連絡をとり、「長期評価部会などの委員全員に、(裏で)何が起きていたのか書面で説明すること」を要求したという。

地震本部事務局は翌2012年2月、その「何が起きていたのか」を記録した資料を長期評価部会に提出した。ただ、資料は「非公開」とされていた。著者が問い詰めると、情報交換の会合は「開催事実」も「内容」も非公表、と事務局は答えたという。

著者の憤りがビンビンと伝わってくるくだりだ。そこからは、日本の官僚機構が科学者をどう扱ってきたかが見てとれる。なにか案件があるとき、科学者の見解を聴くかたちをとりながら、結論は自分たちで用意している。結論が科学者の見解とずれるときは、作文技術を駆使して見解を微調整し、自分たちの結論に近づけようとする――日本社会はこんな官僚機構の習わしで統治されてきた。科学者は、もっと怒ってもいい。

地震本部事務局の「秘密会合」は電力業界とだけではなかった。政府内の他部局などとも開いていた。本書で圧倒されるのは、2011年1~3月の「秘密会合」一覧だ。ジャーナリストが入手した資料なども参考にしたという。主なものを拾いだそう(右側は会合相手)。

1/21  内閣府防災担当
1/25  東京電力、中部電力、清水建設
2/22  経済産業省原子力安全・保安院
3/1    同
3/3    東京電力、東北電力、日本原電

相手の顔ぶれを見てはっきりわかるのは、地震本部――正式名称「地震調査研究推進本部」――という大地震のリスク評価を担う機関の事務局が、評価の文言に影響される役所や業界に異様なほど気をつかっている現実だ。防災政策をつかさどる内閣府に相談し、原子力安全行政を担当する経産省原子力安全・保安院(当時)と擦り合わせ、原子力事業に携わる民間企業とも直接接触する――官僚ならではの周到な根回しと言えよう。

地震本部の主役は、あくまでも科学者だ。勤め先は大学だったり、研究所だったり、役所だったりするだろうが、科学者精神をもって自身の知見を自律的に表明する人々だ。逆に言えば、事務局は本来、裏方ということになる。ところが実際には、その裏方が大役を演じているのだ。文書が発表後に反発を受けないよう、案文を片言隻句まで調整していく――その手さばきの上手下手によって官僚としての評価が定まる。そんな世界なのだろう。

貞観地震の新知見を盛り込んだ長期評価「第二版」案は、こうして警告の色彩を薄めるべく修正されていった。それだけではない。当初は事務局も「順調に行けば、三月九日の調査委員会で承認され、公表となる」と見込んでいたが、それが遅れ遅れになったのだ。ここで「調査委員会」は、地震本部内で長期評価部会の上位にある地震調査委員会のことを言っている。3月9日の委員会では、「第二版」案が議題にあがらなかった。

なぜ、公表は先延ばしされたのか。検証が必要な話だが、著者は、背後に東電など原子力ムラの画策があったとみる。本書によれば、東電は当時、貞観地震について独自の見解をまとめつつあり、これを盾に「第二版」案に注文をつけていたらしい。

いずれにしても、3月9日に発表されていたかもしれない直前の警告は幻と消えたのだ。
* 当欄2023年5月19日付「311大津波、科学者の憤怒
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月26日公開、通算679回
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3・11大津波、科学者の憤怒

第一幕

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

コロナ禍は終わったのか。世間は終わったかのような空気になっているが、どうもすっきりしない。科学者が理詰めで見極めているとは思えないからだ。政治家や官僚やメディアが、それぞれの都合でコロナの収束を触れまわっているだけではないのか。

コロナ禍勃発後の3年は、科学と政治がかつてなく密接にかかわった時代として記憶されるだろう。日本では、政府に有識者グループが置かれ、そのトップに医師が就いた。ただ、科学と政府の関係が蜜月だったわけではない。政治家には経済を回す使命があり、経済界を支持基盤にしているという内情もある。だから、医師や医学者の助言を煙たがることもあった。それが、いま目の当たりにしている政治主導の脱コロナにつながったように思う。

いずれにしても、コロナ期の科学・政治関係は入念に検証されなくてはならない。そのためにはまず、会議議事録の類をすべて保存すべきだ。昨今は当事者同士がメールで連絡をとりあうのがふつうだから、交信記録も公的な性格が強いものは可能な限り収集したほうがよい。検証は、責任の所在を明らかにするだけではない。これからの時代、科学と政治がどうかかわりあうべきか、それを探るときにヒントを与えてくれるに違いない。

そんなことを考えていたら、尊敬する先輩から1通のメールをもらった。泊次郎さん――新聞記者として地震や原子力問題を担当、退社後に博士号を取得した人だ。著書『プレートテクトニクスの拒絶と受容――戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会、2008年刊)は、戦後日本の地震研究に対する政治運動の影響をあぶり出した。科学への批判的視点を忘れない科学ジャーナリストである。その人がメールでこの本を薦めている――。

『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は、東京大学名誉教授の地震学者。東京電力福島第一原発の事故後、新設された原子力規制委員会の委員長代理として筋を通そうとしたことで有名だが、かつてお目にかかったときに受けた印象では穏やかな方だ。気骨があるが温厚な科学者。その人が、過激な書名を掲げて憤っている。よほどのことがあったらしい。これは読まないわけにはいかない。

本書が焦点を当てるのは、2002年夏に政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が発表した「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」だ。「長期評価」では、大地震の起こりやすさを長い目で「予測」する。このときは、今後30年間に日本海溝沿いで大津波を伴う津波地震が起こる確率を20%とはじき出した。本書によれば、これに対して政府部内から反発が起こり、政治的圧力で発表文が歪められたという。

なお、ここで「津波地震」という用語は、津波を起こす地震のすべてを意味してはいない。揺れが小さいのに大きな津波を起こす地震を指して、こう呼ぶらしい。

そのころ著者は、地震本部地震調査委員会長期評価部会の部会長だった。だから、この圧力をもろに受けた人ということになる。そのいきさつを追ってみよう。

この「長期評価」が発表されたのは、2002年7月31日。その5日前、1通のメールが著者に届く。文部科学省の地震本部事務局からだった。内閣府防災担当が「長期評価」前書き部分の変更案を送ってきたので「発表内容を変える」というのだ。変更案では、“なお書き”が追加されていた。今回の予測は「過去地震に関する資料が十分にないこと等による限界がある」ので、「利用」に際しては「この点に十分留意する必要がある」としていた。

今、地震本部の公式サイトにはこの「長期評価」が収録されており、その“なお書き”も読むことができる。地震本部は結局、内閣府の変更案を受け入れたということだ。

変更案が送られたメールにはもう一つ、重要な文書を添付されていた。内閣府防災担当が、「長期評価」をどう見ているかを箇条書きにまとめたものだ。そこでは、今回の予測が「実際に地震が発生していない領域でも地震が発生するものとして評価している」と述べ、「この領域については同様の発生があるか否かを保証できるものではない」とことわっている。内閣府が「長期評価」に横やりを入れたと言っても言い過ぎではあるまい。

理由は、この文書の次の段落を読むとはっきりする。防災対策の費用に言及し、「確固としていないもの」に対して「多大な投資をすべきか否か」には「慎重な議論が不可欠」と主張しているのだ。内閣府防災担当は、首相を会長とする中央防災会議の事務局であり、中央防災会議は気象災害から地震・火山災害まで防災の基本計画を決める。政策遂行の元締めとして、コストパフォーマンスを無視できないということだろうか。

だが、話はそう簡単ではない。それは、ここで問題視された「実際に地震が発生していない領域」――“なお書き”の表現を用いれば「過去地震に関する資料が十分にない」領域――がどこかにかかわってくる。過去400年間の資料をもとに津波地震が起こった場所を拾いあげていくと、発生記録がないのは福島県沖だという。ならば、防災対策で「多大な投資」に「慎重」であるべき場所は主に福島県沿岸と言っているようにも思える。

もしこのとき、内閣府が過去地震の資料不足を理由に「多大な投資」に対する慎重論を表明していなければ、福島第一原発の津波対策も増強されていたかもしれない。

話を整理しよう。地震本部の「長期評価」は、三陸沖から房総沖にかけて日本海溝沿いのどこでも津波地震が起こりうると主張したが、内閣府は「どこでも」に難色を示した。では「長期評価」が「どこでも」と言う根拠は何か。それは、私も気になることだ。

本書には、その説明がある。著者によると、大地震の予測方法には2種類ある。一つは、発生の「間隔」から予測する方法。ただ大昔は記録が乏しいので、間隔の長い地震には通用しない。もう一つは「同じような大地震が起きる地域を広い範囲で捉えて、そこを基準にして考える」方法。ここで「同じような大地震が起きる地域」は「地震地体構造が同じ地域」と言い換えてよい。2002年、地震本部は後者を選択、内閣府は前者にこだわった。

「地震地体構造が同じ地域」は、今はプレートテクトニクス理論で推定できる。プレート論では、地球を覆う岩板(プレート)の動きで地震活動を説明する。津波地震は「プレートが沈み込む場所の近くで」「どこでも」起こる。リスクのある領域は広いというのだ。

プレート論は1960年代末に広まった。だが、前述の泊さんの本にあるように、日本の学界では左派系の政治運動が影響して、導入が遅れた。その余波が内閣府に及ぶはずもないが、「長期評価」批判はプレート論研究の出遅れを引きずっているのかもしれない。

実際のところ、内閣府が地震の「間隔」にこだわり、「過去地震」がない領域のリスクを低く見たことにはネタ元があるらしい。土木学会の原子力土木委員会津波評価部会が2002年2月に出した『原子力発電所の津波評価技術』だ。福島県沖では津波地震の記録が過去400年間にない、としたのはこの文献だった。この評価は電力業界が土木学会に委託したものであり、津波評価部会は電力関係の人々が幹事を務めていた……。

本書は、書名に「対策を邪魔した男たち」とあるように、科学者の警告が政官界や産業界、メディア界、あるいは学界自身の事情でないがしろにされていく様子を、そこに介在した人々を実名で登場させて描きだしている。その一面だけを切りだせば過激な書である。

報道の常識で言えば、「邪魔した男」を実名付きで指弾するのなら、その人たちの反論も載せるべきだろう。ただ、「邪魔」をめぐる本書の記述は、会議の議事録や裁判資料、福島第一原発事故の各種事故調の報告書などですでに公開されているものが多い。著者は、これら既存の証拠物件を自身の実体験とつなげることで、「邪魔」の全体像を浮かびあがらせたのだ。そのリアリティを裏打ちするためには、実名が欠かせなかったのかもしれない。

さて、「邪魔」は2002年の「長期評価」に対してだけではなかった。2011年の震災直前にもあったのだ。もしそれがなかったなら、と思うと心が痛い。次回も本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月19日公開、同月24日更新、通算678回
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