五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
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石さんが砂について書いた話

今週の書物/
『砂戦争――知られざる資源争奪戦』
石弘之著、角川新書、2020年刊

砂は砂でも星の砂

古巣のことを言うのはちょっと心苦しいが、私がいた新聞社の私がいた部署にもスター記者が何人かいた。石弘之さんもその一人だ。テレビに頻繁に出て、一世を風靡するというのとはちょっと違う。独自の取材領域を切り開いて名声を得たジャーナリストだ。

環境記者の先駆けである。1970年代から地球環境のことを考えていた。ということは、世の中よりも数歩先を行っていたことになる。環境ジャーナリズムの先駆者であるばかりでなく、環境問題にかかわる人々の先頭集団にいた、と言ってよい。

だから、いろいろなところから声がかかる。在社中に国連環境計画(UNEP)で上級顧問を務めた。退社後は複数の国立大学で教授職に就き、駐ザンビアの大使にもなった。著書は数えきれないほどある。なかでも『地球環境報告』(岩波新書)は有名だ。

私も、石さんが率いる取材班に入ったことがある。1984年、「新食糧革命」〈注〉という連載企画のチームに加わったのだ。私にとっては初めての海外取材の機会となった。石さんからは、日程の組み方から領収書の整理法まで外国出張のイロハを教えてもらった。そう言えばあのころから、石さんはエレベーターのボタンをグータッチで押していた。当時すでに手指による接触感染のリスクを知っていて、私たちにさりげなく注意を促したのだ。

「新食糧革命」は、遺伝子組み換えや細胞融合などのバイオ技術を農業にも生かそうという機運を科学記者が世界各地で取材して報告する企画だった。下手をすれば、科学技術礼讃になりかねない。だが、取材を進めていくうちに、農業バイオ技術が生産性だけを追い求めれば地球の遺伝子資源の多様性が損なわれることに気づかされた。記事では、この懸念も強調した。これは、石さんの薫陶を受けたからにほかならない。

で、今週の1冊は『砂戦争――知られざる資源争奪戦』(石弘之著、角川新書、2020年刊)。書店で背表紙に懐かしい名を見つけ、思わず手にとった。著者は1940年生まれ。現時点80代なのに現役感のある本だ。なによりも驚いたのは、書名の「砂戦争」である。

科学記者の間には――私の古巣だけの話かもしれないが――カタもの、ヤワラカものという業界用語がある。ザクッと言えば、前者は無機系で、物理学や天文学、情報科学などの領域を言う。後者は有機系で、医学や生物学などを指す。著者は自分の姓とは裏腹に、有機系の動植物が好きな人。環境問題の記事で原子力のようなカタモノ領域に踏み込むことはあっても、関心事はもっぱらヤワラカものと思っていた。それがなんと「砂」である。

本文に入ろう。冒頭でまず、UNEPの「砂資源は想像以上に希少化している」とする報告書が引かれている。2014年に公表されたものだ。それによると、世界の砂の採掘量は年間470億~590億トン。大半がコンクリートの骨材になるので、砂と混ぜ合わされるセメントの生産流通状況から推計された。この採掘総量は毎年、世界各地の川の流れが供給する土砂総量の約2倍。2060年には年間820億トンになると予想されている。

この本には、砂の500億トンは「体積にすれば東京ドーム2万杯」という表現がある。砂資源の商取引が世界全体で約700億ドルの市場をかたちづくっており、それは「産業ロボットの市場と同規模」との記述もある。この箇所で私は、石流の筆法は健在だな、と思った。国際機関の資料を漁って問題解読に役立つ数字を見つけてくる。その数字がどれほどのものか実感できるよう工夫する。統計に血を通わせることを忘れないのだ。

比喩や比較を多用するだけではない。体積を「東京ドーム」で数えるようなことは、気の利いた記者ならだれでも思いつく。著者は、そこにとどまらない。豊かな取材歴や読書歴で蓄積された知識を引っぱり出して、数字の背後に隠れた意味を読みとっていく。

この「砂資源」の「希少化」についても、そうした知的な肉づけがある。そのくだりは、米科学誌『サイエンス』が2017年に載せたA・トレスらの論文「迫り来る砂のコモンズの悲劇」の話から切りだされる。表題にある「コモンズの悲劇」は、米国の生態学者ギャレット・ハーディン(故人)が1968年に提起した概念だという。ここでコモンズとは、封建時代、領主のもとで村人が自分の家畜を自由に放牧できた共有地のことを指している。

その「悲劇」とは、こういうことだ。村人が、個々の利益を最大にしようとコモンズへの放牧をひたすら拡大していくと、家畜によって「草が食べ尽くされて」しまい、飼育が不可能となる。「コモンズの自由は破滅をもたらすので、管理が必要」というのが、ハーディンの結論だった。著者の石さんは1968年当時、「駆け出しの科学記者」だったが、人間活動の「性急」さに地球は耐えるかという問題意識に「共感を覚えた」という。

放牧地の問題は、人類が無限の経済成長を追い求めても資源は有限である、という地球の縮図だ。今では「大気」であれ、「水資源」であれ、「森林」であれ、ありとあらゆる環境問題が「コモンズの悲劇」の文脈で語られる。2017年のサイエンス論文は、それがついに「砂」にも及びつつあることを指摘するものだった。これを受けて、本書『砂戦争』は砂資源の現状を地球規模の大局観、歴史観のなかでとらえようとしているのである。

ひとこと付けくわえれば、この視点は、当欄が先々週と先週話題にした「外部化社会」批判にも通じていると言えるだろう。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」、当欄2021年5月14日付「エコと成長は並び立たないのか」)

実際、この本ではローカルな話題からグローバルな問題が見えてくる。中国のくだりでは「上海中心部に壁のように立ち塞がる高層ビル群を眺めていると、これら建造物が呑み込んだ砂は、いったいどこから運ばれてきたのだろうか、という疑問に囚われる」と切りだし、経済成長を支える砂供給に目を向ける。採掘先は、もともと長江だったが、その影響もあってか洪水が頻発した。2000年代になると、中流域江西省の鄱陽湖へ移ったという。

この話も定量研究で裏打ちされている。紹介されるのは、中国や米国の研究者が衛星画像を解析した結果だ。砂の搬出体積を、湖から出ていく運搬船の隻数から推し量ると2005~2006年には年間「東京ドーム約200杯分」だった。前述した2010年代半ばの世界の採掘量「東京ドーム2万杯」の1%に当たるが、2000年代には総量がそこまで多くなかったはずだ。たぶん、世界の砂採掘の1%以上が一つの湖に集中していたのだろう。

鄱陽湖は渡り鳥の越冬地だ。湿地の保護をめざすラムサール条約の登録地でもある。ところが地元の研究者によると、砂の採掘量が川から流れ込む量の30倍もあるので、湖の生態系は激変したという。とくに心配なのは、絶滅危惧種のソデグロヅルだ。浅瀬の草や魚を餌にするので、採掘で水深が変わることが致命的な打撃となる。砂という無機物のありようが乱されれば、草や魚や鳥から成る生態系も攪乱される――そのことを物語る事例である。

アラブ首長国連邦ドバイの話もすごい。人工島が300余もあり、そこに大量の砂が使われている。海底にまず石材を投じ、それを基礎にして砂を盛っていくのだという。その砂も海底から吸引して調達するというのだから、地産地消ならぬ海産海消か。地形の改変であることには違いない。もう一つ言えば、この大事業は石油採掘がもたらす富によって実現したものだ。人間がとことん地球の表面を引っかきまわしている現実が見えてくる。

インドネシアでは、ジャカルタなどの開発で、沖合の島々が砂の供給源となり、水没の危機に直面した。シンガポールは、「国土拡張」の埋め立て工事で砂を周辺国から大量輸入して国際摩擦を引き起こした。砂を吸い込むブラックホールは枚挙にいとまがない。

ここで著者は、富裕国が貧困国から砂を買いまくって国土を広げたり、高層ビルを建てたりするのは社会正義にもとる、というカナダ・オタワ大学の研究者ローラ・シェーンバーガーの指摘を引く。彼女は「砂は人間のタイムスケール内では再生可能な資源ではないから」と理由づけているという。砂資源は、太陽光のようにずっと降り注いではくれない。いったん収奪されれば、人間社会が想定する近未来には復元されないのである。

最後に、私がこの本でもっとも心動かされた著者自身の言葉を引用しよう。「最近、私はこう考えることがよくある。地球をスイカにたとえるならば、甘い赤い身を食い尽くして、今や周辺の白い部分をかじりはじめたのではないだろうか」。水産品で言えば、深海魚まで食べるようになった。化石資源で言えば、オイルシェールにまで手を出すようになった。獲り尽くす、採り尽くすという行動様式は、足もとの砂にも及んでいる。怖い話だ。
〈注〉『新食糧革命――バイオ技術と植物資源』(朝日新聞科学部、朝日新聞社刊)
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月21日公開、通算575回
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原子力”善悪”二分法の罠

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

法律

3・11からの復興を見ていて痛感するのは、日本社会の理想像が変わったということだ。復興後の着地点として思い描かれるイメージは、列島各地がかつて追いかけていた夢とはだいぶ異なる。高度成長期なら、大工場の誘致合戦が起こったかもしれない。バブル期なら、豪華リゾートの開発競争に火をつけたかもしれない。だが今、大資本も余力がなくなった。頼みの綱は草の根だ。そのゴールに見えるのは地産地消の町だったりする。

ところが、理想像が変わらない一角も今の日本社会にはある。原子力ムラだ。2011年の東京電力福島第一原発事故後、ムラの景色は一変した。福島第一では、汚染水の処分先が決まらず、廃炉の先行きも不透明だ。ほかの原発も稼働の条件は厳しくなり、廃炉が決まったものも少なくない。原子力に対する世間の目は冷ややかで、「原発ゼロ」派もふえた。だが、ムラビトは昔のまま、一つの信仰にしがみついているように見える。

で今週は、先々週の『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)をもう一度とりあげる(2021年3月5日付「原発事故は想定外だったのか」)。この本では「原子力のすべて」と題する終章に、ムラの信仰の根深さを知る手がかりがある。

著者は終章冒頭で核爆弾や原子力潜水艦を例に挙げ、原子力利用は「『軍事利用』つまりは『悪用』に端を発した」と切りだす。そして、米国や英国、フランスなどの当時の原子力事情を概観して、そこに「軍事利用の優先」を見てとる。こうしたなかで、日本のみが「軍事を完全に切りはなし、『平和利用』一本槍で進んで行く」路線をとっている、というのだ。これは、戦争か平和かを問う軸だけでみれば、称賛に値することだろう。

だが著者は、その見方に落とし穴があることに気づいていた。ここでもちだされるのが、「原子力は両刃の剣」という常套句だ。それを「戦争にも平和にも使える」と読みとって終わりにしてはいけないと戒め、「平和だけの目的で使う時にも原子力はやはり『両刃の剣』だ」と断じている。「平和利用」にも二面性があるとの指摘だ。理由は、この技術がエネルギーとともに「放射能という人類にとって最もこわいものを生ずるから」にほかならない。

日本の科学技術論議は戦後しばらく、戦時中の軍事研究への反省もあって、軍事は悪、民生は善という二分法にとらわれていた。当時の原子力ムラに欲得がらみ、利権がらみの思惑が渦巻いていたのは間違いないが、それだけではなかったのだろう。自分たちは「『平和利用』一本槍」という自負があったのだと思う。だが、科学技術の善悪は何のために使うかだけでは決まらない。”善用”イコール善と早とちりしてはいけないのだ。

このことにいち早く気づいた点でも、著者は新聞記者として一歩先を行っていた。技術は民生用でも害悪をもたらすことがある――その事実は1960年代、私たちがいやというほど見せつけられた。公害である。著者は60年代初頭、公害という言葉が広まるのに先だって、原子力に公害的なリスクを感じとった。裏を返せば、世間は原子力「軍事利用」の怖さに気をとられ、「平和利用」でも避けられない害悪を見逃していたとも言えよう。

この終章を読むと、「軍事利用」と「平和利用」――すなわち「悪用」と”善用”――の二分法が、日本の原子力政策の初期条件に組み込まれていたことがわかる。たとえば、著者がこの章で引用した原子力基本法第2条を見てみよう。1955年成立時の条文だ。これは原子力の研究、開発と利用に対して「民主」「自主」「公開」の3原則を求めたものとして有名だが、大前提として「平和の目的に限り」という条件が課されている。

この条文を見て、私は一瞬、あれっ、と思った。原子力の安全に触れていないが、それでよかったのか? 本を離れてネットを調べた結果、興味深い事実を発見する。総務省のe-Gov法令検索を試みると、現行の第2条では「平和の目的に限り」の後に「安全の確保を旨として」という第二の条件が付け加えられている。衆議院のウェブサイトから、その文言が1978年の法改定時に追加されたこともわかった。「安全」は後づけの条件だったわけだ。

1978年と言えば、反公害のうねりが列島の各地で起こり、反原発運動も高まったころだ。私自身も記者としての初任地福井県で、その動きを現認した。あのころからようやく、私たちは原子力について、平和か軍事かだけではなく、安全か危険かの座標軸でも考えるようになった。安全かどうかの座標は、エコロジー志向か否かの座標とも重なってくる。こうして原子力利用の是非は、環境問題の論点の一つになったのである。

ここで私たちは、不幸な符合に気づく。1970年代は、原発建設が全国津々浦々で進んだころに相当する。原子力をめぐって安全論争が始まるよりも前に、そしてエコロジーの文脈で議論が交わされるよりもずっと早く、原発列島は既成事実になっていた。

これも後日談だが、原子力基本法は3・11原発事故後の2012年にも改定された。第2条には第2項が新設され、くだんの「安全の確保」が何に「資する」ものかが明文化されたのだ。そこには「国民の生命、健康及び財産の保護」「環境の保全」と並んで「我が国の安全保障」という文言も添えられた。「安全保障」は、当時野党だった自民党の主導で盛り込まれた。原子力はどこまでいってもキナ臭さにつきまとわれている……。

ともあれ今や、原子力は「安全の確保」を二つの条件の一つとするようになった。これは、平和利用であっても「生命」「健康」「財産」「環境」を守れないとわかったなら断念すべきことを暗に言っている。“善用”イコール善の信仰にとらわれているときではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月19日公開、通算566回
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3・11の内省、10年後の紙面

今週の書物/
『朝日新聞』
2021
年3月11日発行朝刊(東京本社最終版)

午後2時46分

あれは、ひと昔も前のことだったのだ。きのうは終日、そんな思いに耽った。東日本大震災と、それが引きがねとなった東京電力福島第一原発事故。あの3・11から10年――。

節目と言ってしまえば、それまでだ。だが、この10周年はふつうの10周年とは違う。大震災からの復興と大事故の後始末の道程で、一つの里程標になるだけではない。その日を、あの大震災や大事故に匹敵するほどの疫病禍のなかで迎えたのである。

新型コロナウイルスの感染禍は10年前の災厄と重なる部分がある。

大津波が押し寄せたとき、人々はひたすら高台に逃げるしかなかった。今回のコロナ禍では、人々がウイルスとの接触を避けるため、距離を置き、マスクをつけ、手を洗うばかりだ。自然界の脅威をかわすのに人間はほとんど丸腰でいる、という一点で両者は共通する。

原発事故の放射能もコロナ禍の病原体も、目に見えない。放射線は微量でも長く浴びれば健康被害が心配されるが、それがどれほどかははっきりしない。コロナ禍は無症状の感染者も媒介役となるので、感染経路を見定めるのが難しい。ともにリスクが不透明だ。

こう見てくると、3・11の10周年は、私たちにとって内省の契機となる。人間と自然、あるいは人間と技術の関係を考え直す格好の機会である。で、今週は、きのう届いた新聞を熟読することにしよう。手にとったのは、朝日新聞2021年3月11日付朝刊である。

ことわっておくと、当欄は今回、先週の書物『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)を続けてとりあげるつもりだった。書きとめておきたいことがまだあるからだ。だが、公開日が3・11から10年の翌日になるというめぐりあわせに動かされて、急遽予定を変更した。3・11紙面となれば、現役記者たちはジャーナリスト精神を高ぶらせて取材執筆しているのだろう。それに敬意を表したいと思ったのだ。

まずは、新聞の顔とも言える第1面から。予想の通り、「東日本大震災10年」の大見出しを縦に置き、震災関連の記事で全面を埋め尽した。写真は、福島県内の被災地の男性が朝焼けの海に向かって両腕を広げている後ろ姿。記事本文は統計に重きを置き、避難生活を送る人が全国に今もなお4万余人いることや、被災地の人口が10年間で揺れ動いたことを強調している。意外なのは、原発事故に的を絞った記事がこのページになかったことだ。

実際、この日の朝日新聞はニュース面に限れば、津波被災に焦点を当てたつくりになっている。第2面は1面を受けて「縮む沿岸部 膨らむ仙台」という長文の記事を載せ、人口変動に伴う地域ごとの盛衰を虫の目で浮かびあがらせた。

記者が取材したのは、三陸沿岸の宮城県気仙沼、岩手県釜石と中核都市の仙台。たとえば、気仙沼の今はどうか。市の人口は震災前の約17%減。20~30代の女性が震災後の5年で4分の1減ったという数字もある。「縮む」現実だ。だが、新しい息吹もある。被災地支援の活動などを通じて地元に根づいた県外出身者だ。市の半島部にはシェアハウスがあり、そこには関西や北陸、中国地方からやって来た20代の女性たちが暮らしている。

それと対照的なのは、「膨らむ仙台」の現実だ。仙台駅周辺では再開発の計画が復興景気で加速され、「タワーマンションの建設ラッシュとなり、大型商業施設も次々オープンした」。そのタワマン群の谷間に災害公営住宅もある。日の当たらない3階には、石巻の自宅を津波で失った高齢女性が入居している。「安住の地と思ったんだが……」。被災からの「復興」が産み落としたミニ一極集中だ。皮肉なことにそれは、被災の当事者にあまりに冷たい。

ページを繰って最終ページのひとつ手前、第一社会面を見てみよう。これも、この日は通常のニュースを外して震災一色になっている。大半を占めるのが、岩手県の北上に住む母(43)と娘(13)の話だ。あの日、津波は母の実家がある県沿岸部の陸前高田も襲った。実家に電話をかけるが、つながらない。母は、3歳の娘とその弟を連れて車で駆けつけようとするが、ガソリンが足りない。「信号は消え、ガソリンスタンドも閉まっていた」

親子は結局、引き返した。陸前高田では、母の母親(当時59)――娘の祖母――が生命を落とし、母の祖父(93)――娘の曽祖父――の行方もわからなくなっていた。悲しい体験だ。この記事には車中での親子の会話が載っていて、それが胸を打つ。
母「高田のばあちゃんたち心配なんだよね」
娘「おばあちゃんを助けにいこう」

母は今も、娘の言った「助けにいこう」のひとことが忘れられない。「あの日行くことは出来なかったが、気持ちが重なり娘が味方になってくれたと思うと、心が和らいだ」――。この記事は、ふつうならば新聞に登場しないような市井の家族を描いている。ただ、思い返せばあの日、私たち日本列島に住む人々の多くが肉親の安否に気を揉んだのだ。「心配なんだよね」「助けにいこう」のやりとりは、その記憶を否応なく蘇らせる。

原発については、ニュース面ではなく、新聞の内側に収められたページに紡ぐべき言葉を見いだした。オピニオン面では、東北学で有名な民俗学者の赤坂憲雄さんが大型インタビューに答えている。私が同感するのは「福島第一原発が爆発する光景は、戦後の東北が東京に電気やエネルギー、安い労働力を供出してきたことをむき出しにしました」という受けとめ方だ。それは、東北が背負う「植民地」的な歴史の戦後版だという。

赤坂さんが、福島を自然エネルギー(再生可能エネルギー)の「特区」にしようと主張する理由も、この見方に立脚する。「原発に象徴される中央集権型システムが震災で壁にぶつかったのだから、地域分権的な社会を目指すべきだ」「自然から贈与されたエネルギーが地域の自治・自立に役立つ。それが再エネに魅(ひ)かれた理由でした」。ただ今は、再エネ計画も「メガの発想にとらわれ」、集権システムに取り込まれている現実があるという。

赤坂インタビューには、私が3・11から10年の紙面でもっとも読みたかった見解がちりばめられていた。同様のことは科学面の大型インタビューについても言える。こちらは、地震学者石橋克彦さんの話をたっぷり聞いている。石橋さんは、地震が原発事故を呼び起こし、複合災害となる「原発震災」の怖さを1990年代から警告してきた人だ。ただ今回は話題を原発にとどめず、コロナ禍やリニア中央新幹線にまで広げている。そこがいい。

コロナ禍では、食料自給率が低さや成長戦略の観光頼みなどの「危うさ」が露呈したとして「県単位くらいで食料やエネルギーを基本的に自給できるような、分散型の社会」への移行を訴える。リニア中央新幹線は、南海トラフ巨大地震と無縁でないとして「トンネルの内部が損壊したり、出口で斜面崩壊が生じて列車が埋没したりするおそれ」を指摘する。リニア計画と原子力を並べて「両方とも国策民営で、きちんと批判する専門家が少ない」とも。

赤坂さんも石橋さんも自らの識見をもとに、世の中を分権型社会へ、分散型社会へ変えていこうという方向性を提言している。私がちょっと残念に思うのは、そういう大きな絵が朝日新聞自身の報道からはあまり見えなかったことだ。中核都市と沿岸部の間に見いだされたミニ一極集中の歪みは、いまだ原発によるエネルギー大量生産のシステムから脱けだせないでいる日本社会の縮図ではないのか――そんな問いかけがあってもよかった。

個人的な思いを披瀝すれば、私は10年前、現役記者として朝日新聞の原発ゼロ社説をまとめる作業にかかわった。朝日新聞は戦後長く、原子力利用推進の旗を振っていた。旧ソ連チェルノブイリ原発事故のころから原発抑制論を打ちだすようになってはいたが、それでは不十分で全面廃止しなくてはならない、と明言したのだ。社説は、過去の社論の反省を含むものとなった。あの決意を再確認する記事を、今回紙面のどこかで読みたかった(*)。

最後にもう一度第1面に戻り、コラム「天声人語」を。そこには「いまこの地震列島で命をつないでいるのは、おそらく何かの偶然」と書かれている。確率論の世界を生きる覚悟だろうか。奇しくも現在、私たちはコロナ禍のさなかで似たような心理状態にある。
*朝日新聞は翌3月12日付で「原発ゼロ社会」に向け、文字通り「決意を再確認」する社説を載せた。12日付紙面はニュース面でも原発事故をとりあげ、第1~2面で福島県の現状を伝えている(東京本社最終版)。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月12日公開、翌13日更新、通算565回
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原発事故は想定外だったのか

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

電源喪失

3・11から、もう10年になる。あの災厄が衝撃的だったのは、それが大地震と大津波で終わらなかったことだ。自然災害を引きがねに原子力発電所という巨大な人工物が崩壊して、放射能という見えない脅威を広くまき散らした。科学技術の奢りが露呈したのである。

当時、よく耳にしたのが「想定外だった」という言いわけだ。たしかに、地震→津波→電源喪失→炉心溶融という流れ図が頭の片隅にでもあった人は、そう多くない。だが関係者の間では、津波の危険が震災前から議論されていたようだ。たとえ、3・11の津波が予想の範囲を超える高さだったとしても、その想定外を想定する慎重さは求められていたと言えないか。どうみても「想定外」は弁解として弱すぎる。私には、そう思われる。

それは、原子力技術に人類未体験の側面があるからだ。火事ならば、放水によって消せる。火は、炭素や水素などが酸素と化合する反応であり、それは水をかければ鎮まる。では、原子炉内の原子核反応はどうか。世の中では「原子の火」「太陽の火」「第三の火」などと言われている――メディアがこういう表現に飛びついたことに問題があったと私は自省している――が、その本質は火事場の火とはまったく異なるものだ。

原子核は、湯川秀樹の中間子論によって理論づけられた核力が支配的な世界だ。陽子や中性子がバラバラにならないのは、この力が強いからにほかならない。重力と電磁力しか知らないでいた人類には不慣れな相手なのだ。想像力の及ばないことがあって当然だろう。

で、今週選んだのは、『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)。60年前の本だが、私は近所の古書店で手に入れることができた。略歴欄によると、著者は1926年生まれ、毎日新聞科学部で原子力取材をしてきた人だという。私にとっては科学記者の大先輩ということになるが、不勉強にしてお名前を存じあげなかった。あとがきには「この本は、私の七年間の原子力報道のノートをもとにまとめたもの」とある。

著者は、1950年代半ばに始まる日本の原子力開発史を記者の視点から書き綴っている。1954年に初の原子力予算がついたこと、1956年に原子力委員会が設けられたこと、そのころ、原子炉の選定をめぐって内には政界や業界に主導権争いがあり、外には米国や英国の企業の商戦もあったこと……こうした話が次々に出てくる。ただ今回は、それらを論じない。原子力開発の黎明期に事故の想定があったのかどうかを見てみることにする。

第三章「忘れられた立地条件」冒頭に1960年ごろ、科学技術庁が官庁街で引っ越しをしたときの様子が描かれている。科技庁は1956年、原子力委発足の年に生まれたが、当初は首相官邸近くの木造2階建て庁舎にあった。それが、文部省のビルに移ったのだ。大量の書類が廃棄されるなか、しっかり梱包、運搬されたものの一つに「大型原子力発電所の事故の理論的可能性と公衆損害の試算」があった。ガリ版刷りだが、マル秘文書だったという。

これは、原発事故の被害規模が初めて公式にはじき出されたものだ。科技庁原子力局は、この作業を産業界がつくる日本原子力産業会議に委託した。1959年のことらしい。当時の政府は、原発の「安全」をうたいあげる一方、「事故の理論的可能性」にも目を向けて「損害」の大きさを見積もっていたのだ。最悪の事態を想定外と言って無視しなかったのは間違っていない。ただ腑に落ちないのは、その試算がマル秘とされたことである。

この本によると、原産会議はこの試算について、自らが発行する新聞で「委託調査完了」「原子力局へ正式提出」と広報した。そんなこともあってか、国会では野党の社会党議員が「再三にわたって調査結果の提出を要求した」。だが、政府は「影響が微妙……」などの理由で公表しなかったという。せっかく手にした情報の「影響」力をそいでしまう。「税金を使った調査の結果を発表しないとは、まことにおかしな話である」と著者はあきれる。

著者は、調査にかかわった専門家に直接取材したようだ。その人は匿名で、被害規模の試算値が場合によっては3兆数千億円にものぼる、などと打ち明けた。「原子力局も弱ったんでしょうねェ」と言い添えて……。当時、この額は国の一般会計予算の2倍ほどだった。

ここから先は本の中身から離れるが、この一件には後日談がある。驚くべきことに、試算の文書が1999年になって公開されたのだ。実に、作成から40年の歳月が流れていた。外交交渉などの公文書が期間を置いて開示されることは珍しくない。だが、原子力という新技術を国のエネルギー政策の柱にするかしないかという局面で、有権者の判断に欠かせない判断材料を隠してしまうとは――。なんのための試算だったのか、私もあきれる。

その公開文書は、今では国会図書館に保管されている。表題は「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」(国会図書館のウェブサイト)。河合本、すなわち『不思議な国…』にある文書名とは微妙に違うが、同一のものとみてよいだろう。

この試算結果は今、ネットから知ることもできる。京都大学の研究者だった今中哲二さんが文書を要約して『軍縮問題資料』誌(1999年5月号)に載せたものが、京大複合原子力科学研究所(旧原子炉実験所)のウェブサイトでも読めるからだ。

さきほど、河合本では原発事故の被害規模として3兆数千億円という数字が書かれていることを紹介した。これを指すとみられる損害試算は、実際の文書にも明記されている。今中要約によれば、放射性物質の粒子の大小などの放出条件や、雨降りかどうかなどの気象条件を15通りに分けて、人的損害と物的損害の合計額をはじいたところ、最大となったのが3兆7300億円だったのだ。河合記者の取材は、的を外してはいなかった。

ただ、注釈を加えると、河合本と実際の文書には食い違いもある。今中要約によれば、3兆7300億円の試算は事故原発から放出される放射能量が「1000万キュリー」(1キュリーは370億ベクレル)の場合だ。これは日本原子力発電東海発電所(1966年営業運転開始)に導入予定の原子炉を念頭に、炉内放射能の2%が飛び散ると仮定している。ところが河合本では、専門家が3兆数千億円は放射能の1%が出たときの話だと言っている――。

私は今、この数字のずれをあげつらうつもりはない。強調したいのは、政府が試算を手に入れながらそれを公にしなかったことの罪深さだ。その結果、新聞記者が嗅ぎとった文書の片鱗がこぼれ出るだけで、さまざまな筋書きを想定した事故全体の定量化は、なんの役にも立たなかった。この試算は原発推進の産業界主導で進められたものであり、批判的な検証が欠かせないが、それもできなかった。これこそは、情報操作の最たるものではないか。

今中要約の記述によると、この文書の「概要」は1973年ごろから世間に漏れだした。その後、今中さん自身も「表紙に『持出厳禁』と書かれた原産報告のコピー」を手にしたという。ウィキペディアにもこの試算の項目があり、文書開示のいきさつが詳述されている。文書について一部で報道されることはあっても、政府は1999年まで公式には認めなかったという(2019年11月24日最終更新)。あきれる、を超えて、あきれかえる話だ。

「大型原子炉の事故」が社会にどれほどの大打撃を与えるか。その重大さが世の中に示されていたら、日本列島にこれほど多くの原発は建設されなかっただろう。福島の3・11事故も起こらなかったかもしれない。事故被害を想定内に入れながら、その想定をなかったことにする愚。試算の全容を掘り起こさなかった私たちメディアにも大きな責任がある。ただ、河合記者はいち早く情報操作のうさん臭さに気づいた。その先見性に敬意を表したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月5日公開、通算564回
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