原子力”善悪”二分法の罠

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

法律

3・11からの復興を見ていて痛感するのは、日本社会の理想像が変わったということだ。復興後の着地点として思い描かれるイメージは、列島各地がかつて追いかけていた夢とはだいぶ異なる。高度成長期なら、大工場の誘致合戦が起こったかもしれない。バブル期なら、豪華リゾートの開発競争に火をつけたかもしれない。だが今、大資本も余力がなくなった。頼みの綱は草の根だ。そのゴールに見えるのは地産地消の町だったりする。

ところが、理想像が変わらない一角も今の日本社会にはある。原子力ムラだ。2011年の東京電力福島第一原発事故後、ムラの景色は一変した。福島第一では、汚染水の処分先が決まらず、廃炉の先行きも不透明だ。ほかの原発も稼働の条件は厳しくなり、廃炉が決まったものも少なくない。原子力に対する世間の目は冷ややかで、「原発ゼロ」派もふえた。だが、ムラビトは昔のまま、一つの信仰にしがみついているように見える。

で今週は、先々週の『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)をもう一度とりあげる(2021年3月5日付「原発事故は想定外だったのか」)。この本では「原子力のすべて」と題する終章に、ムラの信仰の根深さを知る手がかりがある。

著者は終章冒頭で核爆弾や原子力潜水艦を例に挙げ、原子力利用は「『軍事利用』つまりは『悪用』に端を発した」と切りだす。そして、米国や英国、フランスなどの当時の原子力事情を概観して、そこに「軍事利用の優先」を見てとる。こうしたなかで、日本のみが「軍事を完全に切りはなし、『平和利用』一本槍で進んで行く」路線をとっている、というのだ。これは、戦争か平和かを問う軸だけでみれば、称賛に値することだろう。

だが著者は、その見方に落とし穴があることに気づいていた。ここでもちだされるのが、「原子力は両刃の剣」という常套句だ。それを「戦争にも平和にも使える」と読みとって終わりにしてはいけないと戒め、「平和だけの目的で使う時にも原子力はやはり『両刃の剣』だ」と断じている。「平和利用」にも二面性があるとの指摘だ。理由は、この技術がエネルギーとともに「放射能という人類にとって最もこわいものを生ずるから」にほかならない。

日本の科学技術論議は戦後しばらく、戦時中の軍事研究への反省もあって、軍事は悪、民生は善という二分法にとらわれていた。当時の原子力ムラに欲得がらみ、利権がらみの思惑が渦巻いていたのは間違いないが、それだけではなかったのだろう。自分たちは「『平和利用』一本槍」という自負があったのだと思う。だが、科学技術の善悪は何のために使うかだけでは決まらない。”善用”イコール善と早とちりしてはいけないのだ。

このことにいち早く気づいた点でも、著者は新聞記者として一歩先を行っていた。技術は民生用でも害悪をもたらすことがある――その事実は1960年代、私たちがいやというほど見せつけられた。公害である。著者は60年代初頭、公害という言葉が広まるのに先だって、原子力に公害的なリスクを感じとった。裏を返せば、世間は原子力「軍事利用」の怖さに気をとられ、「平和利用」でも避けられない害悪を見逃していたとも言えよう。

この終章を読むと、「軍事利用」と「平和利用」――すなわち「悪用」と”善用”――の二分法が、日本の原子力政策の初期条件に組み込まれていたことがわかる。たとえば、著者がこの章で引用した原子力基本法第2条を見てみよう。1955年成立時の条文だ。これは原子力の研究、開発と利用に対して「民主」「自主」「公開」の3原則を求めたものとして有名だが、大前提として「平和の目的に限り」という条件が課されている。

この条文を見て、私は一瞬、あれっ、と思った。原子力の安全に触れていないが、それでよかったのか? 本を離れてネットを調べた結果、興味深い事実を発見する。総務省のe-Gov法令検索を試みると、現行の第2条では「平和の目的に限り」の後に「安全の確保を旨として」という第二の条件が付け加えられている。衆議院のウェブサイトから、その文言が1978年の法改定時に追加されたこともわかった。「安全」は後づけの条件だったわけだ。

1978年と言えば、反公害のうねりが列島の各地で起こり、反原発運動も高まったころだ。私自身も記者としての初任地福井県で、その動きを現認した。あのころからようやく、私たちは原子力について、平和か軍事かだけではなく、安全か危険かの座標軸でも考えるようになった。安全かどうかの座標は、エコロジー志向か否かの座標とも重なってくる。こうして原子力利用の是非は、環境問題の論点の一つになったのである。

ここで私たちは、不幸な符合に気づく。1970年代は、原発建設が全国津々浦々で進んだころに相当する。原子力をめぐって安全論争が始まるよりも前に、そしてエコロジーの文脈で議論が交わされるよりもずっと早く、原発列島は既成事実になっていた。

これも後日談だが、原子力基本法は3・11原発事故後の2012年にも改定された。第2条には第2項が新設され、くだんの「安全の確保」が何に「資する」ものかが明文化されたのだ。そこには「国民の生命、健康及び財産の保護」「環境の保全」と並んで「我が国の安全保障」という文言も添えられた。「安全保障」は、当時野党だった自民党の主導で盛り込まれた。原子力はどこまでいってもキナ臭さにつきまとわれている……。

ともあれ今や、原子力は「安全の確保」を二つの条件の一つとするようになった。これは、平和利用であっても「生命」「健康」「財産」「環境」を守れないとわかったなら断念すべきことを暗に言っている。“善用”イコール善の信仰にとらわれているときではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月19日公開、通算566回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

3・11の内省、10年後の紙面

今週の書物/
『朝日新聞』
2021
年3月11日発行朝刊(東京本社最終版)

午後2時46分

あれは、ひと昔も前のことだったのだ。きのうは終日、そんな思いに耽った。東日本大震災と、それが引きがねとなった東京電力福島第一原発事故。あの3・11から10年――。

節目と言ってしまえば、それまでだ。だが、この10周年はふつうの10周年とは違う。大震災からの復興と大事故の後始末の道程で、一つの里程標になるだけではない。その日を、あの大震災や大事故に匹敵するほどの疫病禍のなかで迎えたのである。

新型コロナウイルスの感染禍は10年前の災厄と重なる部分がある。

大津波が押し寄せたとき、人々はひたすら高台に逃げるしかなかった。今回のコロナ禍では、人々がウイルスとの接触を避けるため、距離を置き、マスクをつけ、手を洗うばかりだ。自然界の脅威をかわすのに人間はほとんど丸腰でいる、という一点で両者は共通する。

原発事故の放射能もコロナ禍の病原体も、目に見えない。放射線は微量でも長く浴びれば健康被害が心配されるが、それがどれほどかははっきりしない。コロナ禍は無症状の感染者も媒介役となるので、感染経路を見定めるのが難しい。ともにリスクが不透明だ。

こう見てくると、3・11の10周年は、私たちにとって内省の契機となる。人間と自然、あるいは人間と技術の関係を考え直す格好の機会である。で、今週は、きのう届いた新聞を熟読することにしよう。手にとったのは、朝日新聞2021年3月11日付朝刊である。

ことわっておくと、当欄は今回、先週の書物『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)を続けてとりあげるつもりだった。書きとめておきたいことがまだあるからだ。だが、公開日が3・11から10年の翌日になるというめぐりあわせに動かされて、急遽予定を変更した。3・11紙面となれば、現役記者たちはジャーナリスト精神を高ぶらせて取材執筆しているのだろう。それに敬意を表したいと思ったのだ。

まずは、新聞の顔とも言える第1面から。予想の通り、「東日本大震災10年」の大見出しを縦に置き、震災関連の記事で全面を埋め尽した。写真は、福島県内の被災地の男性が朝焼けの海に向かって両腕を広げている後ろ姿。記事本文は統計に重きを置き、避難生活を送る人が全国に今もなお4万余人いることや、被災地の人口が10年間で揺れ動いたことを強調している。意外なのは、原発事故に的を絞った記事がこのページになかったことだ。

実際、この日の朝日新聞はニュース面に限れば、津波被災に焦点を当てたつくりになっている。第2面は1面を受けて「縮む沿岸部 膨らむ仙台」という長文の記事を載せ、人口変動に伴う地域ごとの盛衰を虫の目で浮かびあがらせた。

記者が取材したのは、三陸沿岸の宮城県気仙沼、岩手県釜石と中核都市の仙台。たとえば、気仙沼の今はどうか。市の人口は震災前の約17%減。20~30代の女性が震災後の5年で4分の1減ったという数字もある。「縮む」現実だ。だが、新しい息吹もある。被災地支援の活動などを通じて地元に根づいた県外出身者だ。市の半島部にはシェアハウスがあり、そこには関西や北陸、中国地方からやって来た20代の女性たちが暮らしている。

それと対照的なのは、「膨らむ仙台」の現実だ。仙台駅周辺では再開発の計画が復興景気で加速され、「タワーマンションの建設ラッシュとなり、大型商業施設も次々オープンした」。そのタワマン群の谷間に災害公営住宅もある。日の当たらない3階には、石巻の自宅を津波で失った高齢女性が入居している。「安住の地と思ったんだが……」。被災からの「復興」が産み落としたミニ一極集中だ。皮肉なことにそれは、被災の当事者にあまりに冷たい。

ページを繰って最終ページのひとつ手前、第一社会面を見てみよう。これも、この日は通常のニュースを外して震災一色になっている。大半を占めるのが、岩手県の北上に住む母(43)と娘(13)の話だ。あの日、津波は母の実家がある県沿岸部の陸前高田も襲った。実家に電話をかけるが、つながらない。母は、3歳の娘とその弟を連れて車で駆けつけようとするが、ガソリンが足りない。「信号は消え、ガソリンスタンドも閉まっていた」

親子は結局、引き返した。陸前高田では、母の母親(当時59)――娘の祖母――が生命を落とし、母の祖父(93)――娘の曽祖父――の行方もわからなくなっていた。悲しい体験だ。この記事には車中での親子の会話が載っていて、それが胸を打つ。
母「高田のばあちゃんたち心配なんだよね」
娘「おばあちゃんを助けにいこう」

母は今も、娘の言った「助けにいこう」のひとことが忘れられない。「あの日行くことは出来なかったが、気持ちが重なり娘が味方になってくれたと思うと、心が和らいだ」――。この記事は、ふつうならば新聞に登場しないような市井の家族を描いている。ただ、思い返せばあの日、私たち日本列島に住む人々の多くが肉親の安否に気を揉んだのだ。「心配なんだよね」「助けにいこう」のやりとりは、その記憶を否応なく蘇らせる。

原発については、ニュース面ではなく、新聞の内側に収められたページに紡ぐべき言葉を見いだした。オピニオン面では、東北学で有名な民俗学者の赤坂憲雄さんが大型インタビューに答えている。私が同感するのは「福島第一原発が爆発する光景は、戦後の東北が東京に電気やエネルギー、安い労働力を供出してきたことをむき出しにしました」という受けとめ方だ。それは、東北が背負う「植民地」的な歴史の戦後版だという。

赤坂さんが、福島を自然エネルギー(再生可能エネルギー)の「特区」にしようと主張する理由も、この見方に立脚する。「原発に象徴される中央集権型システムが震災で壁にぶつかったのだから、地域分権的な社会を目指すべきだ」「自然から贈与されたエネルギーが地域の自治・自立に役立つ。それが再エネに魅(ひ)かれた理由でした」。ただ今は、再エネ計画も「メガの発想にとらわれ」、集権システムに取り込まれている現実があるという。

赤坂インタビューには、私が3・11から10年の紙面でもっとも読みたかった見解がちりばめられていた。同様のことは科学面の大型インタビューについても言える。こちらは、地震学者石橋克彦さんの話をたっぷり聞いている。石橋さんは、地震が原発事故を呼び起こし、複合災害となる「原発震災」の怖さを1990年代から警告してきた人だ。ただ今回は話題を原発にとどめず、コロナ禍やリニア中央新幹線にまで広げている。そこがいい。

コロナ禍では、食料自給率が低さや成長戦略の観光頼みなどの「危うさ」が露呈したとして「県単位くらいで食料やエネルギーを基本的に自給できるような、分散型の社会」への移行を訴える。リニア中央新幹線は、南海トラフ巨大地震と無縁でないとして「トンネルの内部が損壊したり、出口で斜面崩壊が生じて列車が埋没したりするおそれ」を指摘する。リニア計画と原子力を並べて「両方とも国策民営で、きちんと批判する専門家が少ない」とも。

赤坂さんも石橋さんも自らの識見をもとに、世の中を分権型社会へ、分散型社会へ変えていこうという方向性を提言している。私がちょっと残念に思うのは、そういう大きな絵が朝日新聞自身の報道からはあまり見えなかったことだ。中核都市と沿岸部の間に見いだされたミニ一極集中の歪みは、いまだ原発によるエネルギー大量生産のシステムから脱けだせないでいる日本社会の縮図ではないのか――そんな問いかけがあってもよかった。

個人的な思いを披瀝すれば、私は10年前、現役記者として朝日新聞の原発ゼロ社説をまとめる作業にかかわった。朝日新聞は戦後長く、原子力利用推進の旗を振っていた。旧ソ連チェルノブイリ原発事故のころから原発抑制論を打ちだすようになってはいたが、それでは不十分で全面廃止しなくてはならない、と明言したのだ。社説は、過去の社論の反省を含むものとなった。あの決意を再確認する記事を、今回紙面のどこかで読みたかった(*)。

最後にもう一度第1面に戻り、コラム「天声人語」を。そこには「いまこの地震列島で命をつないでいるのは、おそらく何かの偶然」と書かれている。確率論の世界を生きる覚悟だろうか。奇しくも現在、私たちはコロナ禍のさなかで似たような心理状態にある。
*朝日新聞は翌3月12日付で「原発ゼロ社会」に向け、文字通り「決意を再確認」する社説を載せた。12日付紙面はニュース面でも原発事故をとりあげ、第1~2面で福島県の現状を伝えている(東京本社最終版)。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月12日公開、翌13日更新、通算565回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

原発事故は想定外だったのか

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

電源喪失

3・11から、もう10年になる。あの災厄が衝撃的だったのは、それが大地震と大津波で終わらなかったことだ。自然災害を引きがねに原子力発電所という巨大な人工物が崩壊して、放射能という見えない脅威を広くまき散らした。科学技術の奢りが露呈したのである。

当時、よく耳にしたのが「想定外だった」という言いわけだ。たしかに、地震→津波→電源喪失→炉心溶融という流れ図が頭の片隅にでもあった人は、そう多くない。だが関係者の間では、津波の危険が震災前から議論されていたようだ。たとえ、3・11の津波が予想の範囲を超える高さだったとしても、その想定外を想定する慎重さは求められていたと言えないか。どうみても「想定外」は弁解として弱すぎる。私には、そう思われる。

それは、原子力技術に人類未体験の側面があるからだ。火事ならば、放水によって消せる。火は、炭素や水素などが酸素と化合する反応であり、それは水をかければ鎮まる。では、原子炉内の原子核反応はどうか。世の中では「原子の火」「太陽の火」「第三の火」などと言われている――メディアがこういう表現に飛びついたことに問題があったと私は自省している――が、その本質は火事場の火とはまったく異なるものだ。

原子核は、湯川秀樹の中間子論によって理論づけられた核力が支配的な世界だ。陽子や中性子がバラバラにならないのは、この力が強いからにほかならない。重力と電磁力しか知らないでいた人類には不慣れな相手なのだ。想像力の及ばないことがあって当然だろう。

で、今週選んだのは、『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)。60年前の本だが、私は近所の古書店で手に入れることができた。略歴欄によると、著者は1926年生まれ、毎日新聞科学部で原子力取材をしてきた人だという。私にとっては科学記者の大先輩ということになるが、不勉強にしてお名前を存じあげなかった。あとがきには「この本は、私の七年間の原子力報道のノートをもとにまとめたもの」とある。

著者は、1950年代半ばに始まる日本の原子力開発史を記者の視点から書き綴っている。1954年に初の原子力予算がついたこと、1956年に原子力委員会が設けられたこと、そのころ、原子炉の選定をめぐって内には政界や業界に主導権争いがあり、外には米国や英国の企業の商戦もあったこと……こうした話が次々に出てくる。ただ今回は、それらを論じない。原子力開発の黎明期に事故の想定があったのかどうかを見てみることにする。

第三章「忘れられた立地条件」冒頭に1960年ごろ、科学技術庁が官庁街で引っ越しをしたときの様子が描かれている。科技庁は1956年、原子力委発足の年に生まれたが、当初は首相官邸近くの木造2階建て庁舎にあった。それが、文部省のビルに移ったのだ。大量の書類が廃棄されるなか、しっかり梱包、運搬されたものの一つに「大型原子力発電所の事故の理論的可能性と公衆損害の試算」があった。ガリ版刷りだが、マル秘文書だったという。

これは、原発事故の被害規模が初めて公式にはじき出されたものだ。科技庁原子力局は、この作業を産業界がつくる日本原子力産業会議に委託した。1959年のことらしい。当時の政府は、原発の「安全」をうたいあげる一方、「事故の理論的可能性」にも目を向けて「損害」の大きさを見積もっていたのだ。最悪の事態を想定外と言って無視しなかったのは間違っていない。ただ腑に落ちないのは、その試算がマル秘とされたことである。

この本によると、原産会議はこの試算について、自らが発行する新聞で「委託調査完了」「原子力局へ正式提出」と広報した。そんなこともあってか、国会では野党の社会党議員が「再三にわたって調査結果の提出を要求した」。だが、政府は「影響が微妙……」などの理由で公表しなかったという。せっかく手にした情報の「影響」力をそいでしまう。「税金を使った調査の結果を発表しないとは、まことにおかしな話である」と著者はあきれる。

著者は、調査にかかわった専門家に直接取材したようだ。その人は匿名で、被害規模の試算値が場合によっては3兆数千億円にものぼる、などと打ち明けた。「原子力局も弱ったんでしょうねェ」と言い添えて……。当時、この額は国の一般会計予算の2倍ほどだった。

ここから先は本の中身から離れるが、この一件には後日談がある。驚くべきことに、試算の文書が1999年になって公開されたのだ。実に、作成から40年の歳月が流れていた。外交交渉などの公文書が期間を置いて開示されることは珍しくない。だが、原子力という新技術を国のエネルギー政策の柱にするかしないかという局面で、有権者の判断に欠かせない判断材料を隠してしまうとは――。なんのための試算だったのか、私もあきれる。

その公開文書は、今では国会図書館に保管されている。表題は「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」(国会図書館のウェブサイト)。河合本、すなわち『不思議な国…』にある文書名とは微妙に違うが、同一のものとみてよいだろう。

この試算結果は今、ネットから知ることもできる。京都大学の研究者だった今中哲二さんが文書を要約して『軍縮問題資料』誌(1999年5月号)に載せたものが、京大複合原子力科学研究所(旧原子炉実験所)のウェブサイトでも読めるからだ。

さきほど、河合本では原発事故の被害規模として3兆数千億円という数字が書かれていることを紹介した。これを指すとみられる損害試算は、実際の文書にも明記されている。今中要約によれば、放射性物質の粒子の大小などの放出条件や、雨降りかどうかなどの気象条件を15通りに分けて、人的損害と物的損害の合計額をはじいたところ、最大となったのが3兆7300億円だったのだ。河合記者の取材は、的を外してはいなかった。

ただ、注釈を加えると、河合本と実際の文書には食い違いもある。今中要約によれば、3兆7300億円の試算は事故原発から放出される放射能量が「1000万キュリー」(1キュリーは370億ベクレル)の場合だ。これは日本原子力発電東海発電所(1966年営業運転開始)に導入予定の原子炉を念頭に、炉内放射能の2%が飛び散ると仮定している。ところが河合本では、専門家が3兆数千億円は放射能の1%が出たときの話だと言っている――。

私は今、この数字のずれをあげつらうつもりはない。強調したいのは、政府が試算を手に入れながらそれを公にしなかったことの罪深さだ。その結果、新聞記者が嗅ぎとった文書の片鱗がこぼれ出るだけで、さまざまな筋書きを想定した事故全体の定量化は、なんの役にも立たなかった。この試算は原発推進の産業界主導で進められたものであり、批判的な検証が欠かせないが、それもできなかった。これこそは、情報操作の最たるものではないか。

今中要約の記述によると、この文書の「概要」は1973年ごろから世間に漏れだした。その後、今中さん自身も「表紙に『持出厳禁』と書かれた原産報告のコピー」を手にしたという。ウィキペディアにもこの試算の項目があり、文書開示のいきさつが詳述されている。文書について一部で報道されることはあっても、政府は1999年まで公式には認めなかったという(2019年11月24日最終更新)。あきれる、を超えて、あきれかえる話だ。

「大型原子炉の事故」が社会にどれほどの大打撃を与えるか。その重大さが世の中に示されていたら、日本列島にこれほど多くの原発は建設されなかっただろう。福島の3・11事故も起こらなかったかもしれない。事故被害を想定内に入れながら、その想定をなかったことにする愚。試算の全容を掘り起こさなかった私たちメディアにも大きな責任がある。ただ、河合記者はいち早く情報操作のうさん臭さに気づいた。その先見性に敬意を表したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月5日公開、通算564回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

外骨という骨ばった遊び心

今週の書物/
『学術小説 外骨という人がいた!』
赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊

濃霧

風刺の難しい時代である。目の前には、風刺したい世の中がある。世界のトップリーダーには、風刺したくなる人物が幾人もいる。そしてネット時代の今、私たちのだれもが風刺の発信に使える道具を手にした。それなのになぜ、難しいのか。

ひとことで言えば、風刺はやっぱり人の心を傷つけるのだ。相手が米国の大統領なら、あるいは日本国の首相なら、辛辣に笑い飛ばしてもよいだろう。なにしろ先方は、途方もない権力の持ち主なのだから――そんな了解事項が世の中には一応ある。いや、あったと言うべきか。だが、その通念が今は通りにくくなった。権力者の座にある人物を皮肉ることは、その人と同じ思考をする人々を皮肉ることになりかねないからだ。

ドナルド・トランプ氏の反知性主義を風刺することは、知的エリートに反発して彼に投票した多くの人々を風刺することになってしまう。それが本意でないなら、批判は真正面からするしかない。発言をファクトチェックして事実誤認を指摘する、というように。

かつて新聞の紙面では、政治漫画というアイテムが売りものだった。たいていはひとコマで、政治面の真ん中にドカンと置かれていた。当代一級の漫画家が政界の要人を似顔絵風に描いて、ニュースの裏事情を茶化す。活字によってはできない憂さ晴らしを絵に託している感があった。ところが、これも最近は地味にしか扱われない。記事の分量を減らしたくないからではあろうが、風刺に対する逆風を反映しているようにも見える。

新聞の政治漫画は、日本だけのものではない。少なくとも30年ほど前、私がロンドンに駐在していたときは現地紙に載っていた。そのころすでに欧州では女性の政治家が多かったから、彼女たちも風刺の標的になった。漫画に登場する彼女たちはたいていスカートを履いていて、そのスカート丈が茶化しのネタになることもあった。今なら、完全にアウトだろう。その女性政治家の背後にいる世界中の女性たちがどう感じるか、が問題なのだ。

では、風刺の時代は終わったのか。即答はできないが、終わったとは思いたくない。明らかな不合理がのしかかってくるのなら理屈で対抗すればよい。だが、世の中には、もやもやした不条理もある。それを吹き飛ばすには笑いのタネにするしかないではないか。

で、今週は『学術小説 外骨という人がいた!』(赤瀬川原平著、ちくま文庫、1991年刊)。風刺家の先人といえる明治大正昭和期のジャーナリスト宮武外骨の軌跡を自由気ままな筆致で描いた本。著者は、1937年生まれの画家であり作家。路上観察学会の活動でも知られる。尾辻克彦の名で書いた小説『父が消えた』で芥川賞も受けている。私が今回手にしたのは、1985年に白水社が刊行した単行本を文庫化したものだ。

ふつうこうした評伝風の本には、当該人物の略歴や横顔がどこかに要約されているものだが、この本は違う。本文はもとより、「はじめに」にも「あとがき」にも、それは出てこない。だから、複数の辞典類に目を通して、大づかみに頭に入れておこう。

外骨は幕末の1867年、讃岐(現・香川県)の富裕な農家に生まれた。1887年に東京で「頓智協会雑誌」を、1901年には大阪で「滑稽新聞」を創刊するなど、青年期から社会風刺を手がけた。この間、不敬罪で禁固刑を受けたこともある。一方、昭和期に入って1927年には、東京帝国大学で「明治新聞雑誌文庫」の管理を任されるなど、学術面の貢献も。意外だったのは、没年が1955年であること。私が4歳になるまでご存命だったのだ。

まずは、著者と外骨の出会いから。著者は1967年、東京・阿佐ヶ谷の古書店で買い込んだ外骨の雑誌に衝撃を受ける。「HEART 教育画報 ハート」(漢字は新字体に改める、以下も)の第2号。発行所として「滑稽新聞社」の名があり、刊行年は明治末期の1907年。まもなく、こんどは友人が荻窪の古書店で別の雑誌「スコブル」を掘りだしてくる。その第1号は大正期の1916年10月発行で、「宮武外骨主筆」の名が掲げられていた。

この本には、それぞれの雑誌の表紙が大きく載っている。「HEART」第2号は上半分に大きなハートマーク。下半分は「西洋新玩具」と銘打って、民俗学者が収集しそうな「不思議な形の人形類」を並べている。どこか、怪しげだ。一方、「スコブル」第1号は、題字下に人魚が腹ばいで横たわる、という絵柄。人魚の上半身は露わ、右ひじをついて顎を支え、その指先には筆記具が……。モダンを超えてポストモダンまで先取りした感がある。

著者によれば、そのころ、即ち1970年前後、知識人の間には外骨を「要するに奇人……だな」のひとことで片づける傾向があった。そこに見てとれるのは単行本文化だ。外骨流の「雑誌表現のやりくちに於いて目の覚める革命的手法」には目が届いていなかった、という。

外骨流の極意を「滑稽新聞」を素材に概説した箇所では、「面白さの要素」に「攻撃力」「エログロ表現」「絵遊び」「文字遊び」「毎号の表紙」の五つを挙げている。雑誌は、読むだけのものではない。見るもの、遊ぶものでもある、ということだろう。

この本は、表題に「学術小説」と角書きされているように、フィクション仕立てになっている。著者が先生となり、美学校の教室や武道館、後楽園球場、あるいは渋谷のガード下で、「滑稽新聞」について講義するのだ。これはと言う紙面をスライド画像にして「カシャン」「カシャン」と映していく、という趣向。それらの画像はこの本にそっくり載っているから、私たちも外骨の〈見て読む〉メディアの恩恵に浴することができる。

おもしろいのは、「文字のツラで意味の世界をぶっ叩く」という章だ。ここではまず、外骨流の小技が紹介される。「滑稽新聞」を出していたころ、世の中には言論活動をゆすり行為に悪用する新聞がはびこり、外骨はその「騙したり脅したり」の手口に同業者として腹を立てていた。そこでユスリ批判の一大キャンペーンを展開。このとき、「ユスリ」の3文字を「特別に太(ぶっと)い活字」にした。わざわざ印刷所に特注したのだという。

圧倒されるのは、新年号の附録。それは、本物の古新聞に墨書風の「滑稽新聞 新年附録」「紙屑買の大馬鹿者」の文字がでかでかと刷り込まれていた。こういうことだ――。「無差別にかき集めた古新聞」の切れ端を印刷機にかけた。「八万部ほどの附録が一点一点全部違うわけで、こんな豪華なことはありません」と、著者もあきれる。もはや古紙に過ぎないものに人を食った新しいメッセージ。紙1枚のモノ性と情報性を際立たせた妙技だ。

さらに度胆を抜かれるのは、「明治源内小野村夫之写真」。ここで、明治源内小野村夫は外骨の別名である。その顔らしき画像が、ほぼ1ページ大に印刷されている。と言っても、ほとんど黒一色。目や唇は白い。下段の記事には「無器械写真法」「肉体直接の実印」との説明も。「斯様な写真をとりたい人は自分の顔に墨を塗ッて」(ルビは省略、以下も)とあるが、外骨が本当に数万回、墨だらけの顔を紙に押しつけたとは思えない。

日露戦争下の「滑稽新聞」社説は、伏せ字の「○」だらけだ。実際、文字より○のほうが多い。著者は「お見事」とほめ、「しかしこの美しさは何でしょうか」と感嘆する。たしかに一種のアートに見えなくもない。だがどっこい、堂々社論も展開しているのだ。○でない部分の文字を飛び石を跳ぶように読んでいこう。「今の軍事当局者はつまらぬ事までも秘密秘密と云ふて新聞に書かさぬ事にして居る」と、言論統制を皮肉っている。

その戦争報道にも諧謔がある。ロシア艦隊が濃霧に包まれて見えにくい状況を、外骨は3種の文字で伝えた。「霧」の漢字が縦横にぎっしりと埋め尽くされるなか、「露艦」の2文字がところどころに紛れ込んでいる。「霧」と「露」が似ていることに着眼した視覚表現だ。

宮武外骨というと、反骨の人と思う。だが、ただ権力に盾ついていたわけではなさそうだ。世界をまるごと相手にして、その批評に遊び心を注ぎこんでいたのだ。風刺が成立するには、そんな心の余裕が欠かせない。それが今、失われつつあることを憂うる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年2月12日公開、通算561回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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漱石の時代、新聞社はサロンだった

今週の書物/
「長谷川君と余」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

題字

「新聞社の人だな、きっと」。半世紀も昔のことだ。夕方、下り電車に乗っていたとき、近くに立っている男性の二人連れを見て、そう思った。当時、私は学生の身。新聞記者になる以前のことだ。だから、この「新聞社の人だな」は直感に過ぎない。

年の頃は40~50代だろうか。紳士然としている。勤め先の見当をつける手がかりは、外見の緩さだった。記憶はおぼろだが、髪は長め、ジャケットに色違いのズボンを穿いていたように思う。あのころ商社・金融・メーカー系のサラリーマンは、七三分けに上下揃いの背広姿がふつうだったから、そうでないというだけでマスコミ系の記号となりえた。服装の色調が地味なので、テレビ系や広告系が外され、新聞系か出版系に絞られた。

「新聞社の人だな」の決め手は、二人の会話だった。年長の一人がつり革につかまり、上半身を揺らして、とめどなく話している。楽しげで、得意そうでもある。もう一人は聞き役に徹している感じだ。話の流れはつかめなかったが、話題はもっぱら海外のこと。中南米だったように思う。政治情勢を論じていたのか、世情のあれこれを語っていたのかは覚えていない。ただ私にも感じとれたのは、それが現地の見聞にもとづく話だったことだ。

この人は特派員だったのだ、と確信した。在外経験が豊かで、今は日本に帰任して、本社の部署にいるのだろう。世の中には、こういう部類の人もいるのだ。つり革にぶらさがりながら、遠い国の出来事を隣町のことのように話して聞かせる人が――。

数年後、私が新聞社に就職したとき、そうか、自分も通勤電車で世界を語るような業界に入るのだな、と覚悟した。そうなりたいとは思わなかった。だからと言って、そうなった人を嫌ったこともない。私が入社したころ、そういう記者はたしかに存在した。ただ年々減って、今では絶滅危惧種になっている。私自身も特派員経験者だが、電車で友人と交わす会話は、沿線のレストランはどこが旨いかというような世間話ばかりだ。

新聞社にはかつて、あのつり革の紳士に象徴される文化があった。たとえて言えば、雲に乗って世界を飛び回っているような思考様式だ。それが今、消えつつある。なぜか? ひと昔前、外国は別世界だった。行商人が得意客に峠の向こうの話を聞かせるように、メディアは海外事情を伝えた。だが、ネット時代の今は違う。外国もリアルタイムでつながっている。同じ世界になったのだ。でもなぜか、つり革の紳士の文化が懐かしい。

で、今週は「長谷川君と余」。先週の『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)に収められた「他七篇」の一つである(当欄2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」)。同じ本を2週続きでとりあげることになるが、この一篇は漱石が朝日新聞社に入ってから同僚とどんな交遊をしていたかを知る手がかりになるので、話題にしない手はない。そこからは、往時の新聞社の空気を感じとることもできるだろう。

題名にある「長谷川君」とは、二葉亭四迷のこと。日本で近代小説の分野を切りひらいたとされる作家だ。本名を長谷川辰之助という。この一篇で、冒頭の一文は「長谷川君と余は互いに名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった」(ルビは原則省く、以下も)。その二人がたまたま居合わせることになったのが、朝日新聞社だった。四迷が先に在社していて、そこに著者が加わったということのようだが、「つい怠けて」挨拶にも行かずにいた。

ここでわかるのは、漱石が入社した1907(明治40)年ころの新聞社の長閑さだ。もちろん、著者や四迷は別格の社員で、ふつうの記者とは違ったのだろう。この一篇には「用が出来て社へ行った」という記述があるから、通勤などという習慣はなかったようだ。新聞社では今でも外回りの記者が社内に滞在する時間は短いが、それは取材に走りまわっているからだ。著者の目に映った新聞人像からは、そんなせわしさは見えてこない。

入社後しばらくして、著者は四迷と顔を合わす機会を得る。東京朝日新聞主筆の池辺三山が、大阪朝日新聞主筆の鳥居素川がやって来たとき、社の幹部ら10人余を「有楽町の倶楽部」へ招いて接待した。そのなかに著者も四迷もいたのである。四迷の第一印象は「かねて想像していた所を、あまりに隔たっていた」。背丈があり、肩幅も広く、「どこからどこまで四角」だ。「到底細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもない」と感じたのだ。

著者はこのとき、四迷と会話らしい会話を交わしていない。四迷がしゃべるときは、ただ聞く側に回った。そこで受けた第二印象は、けちのつけようのないものだ。いま話をしているのは「文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない」。では、どんな人か。「あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士」にほかならないと感じたというのである。人物評としては、最高級の賛辞と言ってよいだろう。

おもしろいのは、ここで著者が四迷の品位を分析していることだ。それは「貴族的のものではない」として、「性情」や「修養」に由来するとみる。そして、さらに「修養」の成分を探り、その一部は「学問の結果」だが、「俗にいう苦労」の跡もあるという。

著者のダンボ耳は、やがて「品位のある紳士」の海外談議を聞きとっていく。四迷が、主筆の池辺を相手にロシアの「政党談」を始めたのだ。「大変興味があると見えて、何時まで立っても已めない」「まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例の六(む)ずかしい何々スキーなどという名前がいくつも出た」。いつまでも続く話、きのう見てきたような話――このくだりにさしかかって、私はくだんのつり革の紳士を思いだしたのである。

この連想は見当外れではない。四迷は1908(明治41)年、朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに駐在するのだ。その人事が固まったころ、著者は四迷、鳥居と三人で昼食を囲んだ。場所は、神田のうなぎ屋。四迷は「現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様」や「露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望」を語ったという。政治から文学まで、分野を問わないロシア通だったのだ。

ただ赴任後、サンクトペテルブルクから届いたはがきでは「此方の寒さには敵(かな)わない」と弱音を吐いていた。著者は、それを見て「気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた」。ところが、四迷は現地で肺結核を患って1909(明治42)年、帰途の船上で帰らぬ人となる。「まさか死ぬほど寒いとは思わなかった」。だが、ほんとうに「死ぬほど寒かった」のである。著者の哀惜の念が痛いほど伝わってくる。

この一篇には、当時の新聞社の社内風景もちらりと出てくる。「汚ない階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四、五人話をしている」。これは東京朝日新聞の社屋が、まだ銀座並木通りにあったころのことだ。階段の描写から埃っぽさも感じとれるが、数人の会話には議論というより談笑の気配がある。蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局とは大違いだ。

著者と四迷が風呂場で湯に浸かる場面も。「ある日の午后」のことだ。洗い場で「ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である」――これは銭湯か? いや、社内のようだ。そう言えば私が若いころにも、新聞社には社員用の浴場があった。

漱石や四迷がいたころ、新聞社はサロンでもあったのだ。情報がリアルタイムで押し寄せ、それをリアルタイムで選びとり、伝えなくてはならない今日、その雰囲気は望むべくもない。だが、あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい。私には、そう思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月15日公開、同月20日最終更新、通算557回
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