今週の書物/
『2時間ドラマ40年の軌跡』
大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊
緊急事態の巣ごもりで、テレビをつければ、こちらの局も五輪、あちらの局も五輪……。これがテレビの宿命か。そう思いつつも、ここで大上段に構えてテレビを論ずるつもりはない。暑気払いということで、肩の凝らないテレビ史話に浸ることにしよう。
2Hという言葉がある。テレビ界の友人によれば、2時間ドラマ、即ち2-hour dramaの略だ。私はその2Hのファンなので、当欄の前身「本読み by chance」では「2時間ミステリー(2H)」というジャンルを設けていた。「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」(2014年10月31日付)、「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」(2015年9月11日付)、「2時間ドラマまったり感の崖っぷち」(2017年7月14日付)など7本を収めている。
熱烈なファンであっても、私の2H鑑賞法は手抜きのそしりを免れない。夕食後、寝っころがって、ボーッと視聴する。たいていはほろ酔い状態なので、ドラマの中盤、事件の輪郭が見えてくるあたりでうとうとしてしまう。はっと目が覚めるのは最終盤。崖の突端やら湖の畔やらに関係者一同が顔をそろえている。この大団円で刑事や検事、素人探偵が謎を解き、事件の一部始終を説明してくれる。中抜けでもちゃんとゴールできるのがいい。
この鑑賞法は、テレビドラマを芸術作品とみなすなら不真面目の極みだろう。だが、2Hは趣が違う。「どうぞみなさん、お好きなようにご覧ください」――耳元で、作品そのものがそんなふうにささやいているように思える。脱力を促している気配だ。
ただ、脱力していても得られるものはある。私にとって2Hは近過去の史料だ。これは、テレビ各局が2H新作の時間枠を次々に取り払ってしまったことに起因する。このため最近は、BSやCSで蔵出しの再放映を見たり、再放映を録画して後日再生したりすることが多くなった。作品の空気にどっぷり浸かっていると、制作年代の記憶が蘇る。電話などの通信事情や鉄道などの交通事情から、それがいつごろの作品か言い当てる楽しみもある。
たとえば、DNA型鑑定が事件捜査の現場に広まった時期は、日本テレビ系列「火曜サスペンス劇場」で見当がつく。この技術は「女監察医室生亜季子」シリーズでは「もう一つの血痕」(1992年)に、「女検事霞夕子」シリーズでは「青い指」(1993年)に初出する。1990年代前半にドラマの題材になるほど浸透したわけだ。余談だが後年、シリーズ名から「女」が抜け、それぞれ「監察医…」「検事…」になった。この改名にも史料的意味がある。
こんなふうに私は2Hを分析してもいるのだ。ただ、ボーッと画面を眺めているだけではない。だから、いずれは2H評論家を標榜できるのではないか、と心の片隅で思ったこともある。だが、それは奢りだった。そのことを思い知らされる本に最近、出会った。
『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。著者は1965年生まれ、電通出身の阪南大学教授。専門分野は「メディア・広告・キャラクター」という。「おわりに」によると、この本は『TVガイド』誌発行元である東京ニュース通信社の「地下倉庫の資料整理」によって生まれた。倉庫は、2H史料の宝庫だったわけだ。著者は往時の関係者にも取材して、臨場感のある史話に仕立てあげた。
さすが『TVガイド』の発行元だな、と思わせるのが、巻末の「とっておきデータ集」。それによると、1977年にテレビ朝日系列で老舗「土曜ワイド劇場」(土ワイ)が始まり、対抗馬「火曜サスペンス劇場」(火サス)が1981年から追いかけた。私が知らなかったのは、このあとに2時間ドラマ乱立期がつづくことだ。キー局によっては時間枠を二つ三つ設けるところも出てきて、1990年前後には4局8枠が競い合ったこともある。
草創期の事情を本文に沿って跡づけてみよう。興味深いのは、2時間ドラマの原点が米国にあることだ。米国のテレビ界には、劇場用映画の時間枠にテレビ用「映画」を流す試みがあった。テレビ局がオリジナル作品の制作を映画会社に発注したのだ。これなら、時間の長短も画面の横幅もテレビ仕様にできる。ヤマ場をCMのタイミングに合わせて設定したり、「新聞のテレビ欄で思わず見たくなる」ようにタイトルを工夫したり、も自在だ。
この試みの妙味に気づいた人がNET(現・テレビ朝日)にいた。1960年代末、映画番組用に洋画を買い入れる仕事をしていた外画部員だ。米国のテレビ専用作品を「テレフィーチャー」という和製英語で呼び、導入の可能性を探っていた。その人が1975年、編成開発部に移って手がけたのが「国産テレフィーチャーの実現」だ。上司も、この構想を応援してくれた。こうして土ワイが、最初は90分ドラマとして産声をあげたのである。
土ワイは当初、ミステリーと決まってはいなかった。最初の数カ月は「ミステリーを中心としながら、文芸もの、青春もの、メロドラマと模索が続いた」。やっぱりミステリー、という方向性が見えたのは、1978年に「江戸川乱歩の美女シリーズ」第2作の「浴室の美女」が高視聴率を獲得してから。天知茂主演。ヒロイン女優が脱いだ。コメディアンが笑いをとって猟奇性を和らげた。こうして「娯楽ミステリー路線」が定着したのである。
土ワイの初代チーフプロデューサーが1977年に社内向けに宣言した制作方針が、この本では公開されている。「メインターゲットは20~35歳の女性」「娯楽性・話題性を最優先」「風俗、流行も反映」「裸(健康的なお色気、美しい映像)はOK」「茶の間の涙と感動も無視できません」――といった内容だ。今では通用しない価値観もみてとれるが、あの時代に戻って解釈すれば、小難しくなく楽しめる作品を、ということだったのだろう。
土ワイを論じるときに忘れてならないのは、在阪局ABC朝日放送の参入だ。1979年、土ワイが90分枠から2時間枠に拡げられると同時に制作に加わっている。放映4回のうち1回はABCが受けもつことになった。その結果として誕生した人気シリーズの双璧が、藤田まこと主演「京都殺人案内」と、古谷一行、木の実ナナ主演「混浴露天風呂連続殺人」。2Hの切り札ともいえる「京都」と「温泉」のカードをいち早く切ったのである。
そのころはゴタゴタもあったようだ。たとえば、「京都殺人案内」第1作の原作者は山村美紗だが、第2~32作は和久峻三に代わっている。土ワイがもう1枚の切り札「鉄道」を前面に押しだした「西村京太郎トラベルミステリー」シリーズも不可解だ。ABCが1979年に始めたが、まもなくテレビ朝日の手に移った。これらの異変の背景には、原作者とテレビ局の間の確執があったらしいことを著者は匂わせる。2Hにふさわしい話ではある。
初期の土ワイにかかわったテレビ朝日とABCのOB対談からは、制作現場の空気感が伝わってくる。当時は映画が斜陽産業だったので、テレビドラマは「映画界の失業者を救済する事業」でもあったという。テレビ人には、映画人の心理が屈折しているようにみえたのだろう。「映画はテレビをバカにしてましたからね」「娯楽の王座が映画からテレビに移ったっていうのを彼らも完全に知ってて、でもやっぱり虚勢を張りたかったんじゃないかな」
さて1981年、いよいよ火サスの出番である。この本で、ああそうだったのかと納得したのが、土ワイとの比較論だ。私は一視聴者として両者の芸風の違いを感じながらも、それをうまく言い表せなかった。著者によれば、火サスは「犯人さがしやアリバイ崩し」ではなく「人間ドラマ」を優先して「登場人物が背負っているもの」や「愛が憎しみに変わる瞬間」などを描いた。「謎解き」より「緊張や不安」――だから「サスペンス」だったのだ。
そして1980年代、TBS系列にもフジテレビ系列にも同種の番組が現れ、2Hの視聴率競争は過熱する。その時代の象徴は、新聞のテレビ欄を舞台とする場外乱闘だ。欄の枠内に「松本清張の事故 国道20号線殺人トリック 怖い!あの女が今日も私を見張ってる…」(土ワイ、1982年)というような長い文言が載るようになった。2時間分のスペースから主要出演者の列記分などを差し引いて、残る余白を刺激的な言葉で埋め尽くしたのである。
この本は、2Hをつくる側の裏話にあふれている。だから私は、業界事情がわかって興味深かった。だが、見る側に立って作品をどんなふうに楽しむかという話はあまりない。2H評論家としての活路はまだまだあるぞ。そう思って、今夜もまた1本、きっと見る。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月30日公開、同年8月1日更新、通算585回
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