ゴジラ、反核の直感が生んだもの

今週の書物/
●「ゴジラ映画」(谷川建司執筆)
『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊)所収
●「G作品検討用台本」
『ゴジラ』(香山滋著、ちくま文庫、2004年刊)所収

卵生?

反核を思う8月。今夏は例年よりもいっそう、その思いが切実なものになっている。世界の一角で、この瞬間にも核兵器が使われるかもしれない軍事行動が進行中だからだ。

折から、核不拡散条約(NPT)再検討会議が1日からニューヨークの国連本部で開かれている。核兵器保有国に核軍縮交渉を義務づけ、非保有国に核兵器の製造や取得を禁じた条約だ。1970年に発効した。再検討会議は、その実態を点検するのがねらいだ。

会議の報道でもっとも印象深かったのは、ウクライナ副外相の演説だ。ロシアがウクライナの核関連施設を攻撃したことに触れ、「我々はみな、核保有国が後押しする『核テロリズム』が、どのように現実になったのかを目の当たりにした」と述べた(朝日新聞2022年8月3日付朝刊)。たしかに今回は、原発が軍隊によって占領され、それがあたかも人質のように扱われている。「平和利用」の核が「軍事利用」されたのである。

この指摘はNPTの弱みを見せつけたように私は思う。NPTは「核軍縮」「核不拡散」だけでなく、「原子力の平和利用」も3本柱の一つにしている。ところがウクライナの状況は、「平和利用」が「軍事利用」に転化されるリスクを浮かびあがらせた。原発は、今回のように占領の恐れがあるだけではない。ミサイル攻撃を受ければ放射性物質が飛散して、それ自体が兵器の役目を果たしてしまうのだ。「軍事」と「平和」の線引きは難しい。

それにしても「核軍縮」と「核不拡散」になぜ、「原子力の平和利用」がくっつくのか。これは、戦後世界史と深く結びついている。源流は1953年、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力」(“Atoms for Peace”)にあるようだ。核兵器保有国はふやしたくない、先回りして核物質を平和利用するための国際管理体制を整えよう――そんな思惑が感じられる。こうして国際原子力機関(IAEA)が設立された。

ここには、「軍事利用」は×、「平和利用」は〇という核の二分法がある。だが私たちはそろそろ、この思考の枠組みから脱け出るべきだろう。なぜなら、戦争には「平和利用」の核を「軍事利用」しようという誘惑がつきまとうからだ。さらに核は、「平和利用」であれ「軍事利用」であれ偶発事故を起こす可能性があり、その被害の大きさは計り知れないからだ。私たちは、核そのものの危うさにもっと敏感になるべきではないか。

で今週は、一つの論考と一つの台本を。論考は「ゴジラ映画」(谷川建司執筆、『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』=筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊=所収)。台本は「G作品検討用台本」(『ゴジラ』=香山滋著、ちくま文庫、2004年刊=所収)。前者は、ゴジラ映画史を1962年生まれの映画ジャーナリストが振り返った。後者は、映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督、東宝、1954年=一連のゴジラ映画の第1作)の「原作」とされている。

後者の著者香山(1904~1975)は、大蔵省の役人も経験した異色の作家。「秘境・魔境」や「幻想怪奇」など「現実の埒外にある題材」を好み、「読者に一時のロマンを与えてくれるのが特長であった」と、『ゴジラ』(ちくま文庫)の巻末解説(竹内博執筆)にはある。

今回の当欄では、戦争が終わってまもなくの日本社会が被爆や被曝をどうとらえていたかを谷川論考から探り、その具体例を香山台本から拾いあげていきたい、と思う。

谷川論考はまず、映画「ゴジラ」が日本人の被爆被曝体験と不可分であることを強調する。1954年3月、遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員が太平洋で米国の水爆実験の放射性降下物を浴び、放射線障害に苦しんでいるという事実が明らかになった。日本人は、広島、長崎に続いて、またもヒバクしたのだ。核兵器反対の市民運動に火がついた。街には「原子マグロ」を恐れる空気も広まった。その年の11月に「ゴジラ」は封切られたのだ。

香山台本には、日本近海にゴジラが出現したという話題でもちきりの酒場が出てくる。「女」が言う。「原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえこんどは、怪物ゴジラときたわ」。東京湾に現れたらどうなるか、と彼女が「客」に問うと「疎開先でも探すとするか」という答えが返ってくる。「疎開」が10年ほど前の記憶として残っていたこのころ、ゴジラの不気味さは広島、長崎の被爆や第五福竜丸の被曝を人々に想起させるものだったことがわかる。

谷川論考によれば、「ゴジラ」は東宝にとって社運をかけた一大プロジェクトだった。東宝は1950年代に入ると、戦後燃え盛った労働争議の傷痕が癒え、戦時中の戦争映画で追放されていた幹部も返り咲いて、起死回生を期していた。そこに降ってわいた第五福竜丸事件。幹部たちは太古の恐竜が水爆によって目覚めるという娯楽大作を秘密裏に企画、香山に筋書きを頼んだ。「G作品」はコードネーム。「G」はgiant(巨大)を意味したという。

それにしても、映画人は機を見るに敏だ。戦時に戦意高揚の作品をつくっていた人々が戦後、核への忌避感に乗じた作品を構想する。その撮影には、戦争映画で特撮を受けもった人材が投入されたという。この点で、映画「ゴジラ」は太平洋戦争と地続きにある。

谷川論考は、ゴジラを「“被爆者”」と位置づける。その体表に「ケロイド状の皮膚」との類似を見てとるのは「当時の観客にとっては言わずもがなのことだった」。ここで言及されるのが「アサヒグラフ」1952年8月6日号だ。占領が終わって、原爆被害の真相を包み隠さず伝える写真がようやく公開された。そこに、第五福竜丸の報道映像がさらなる追い討ちをかけた。日本人の多くは1954年ごろ、核の怖さを真に実感したのかもしれない。

香山台本には、古生物学者の山根恭平が娘の恵美子にゴジラの正体を語って聞かせる場面がある。ゴジラはジュラ紀の海棲爬虫類だが、現代まで海底の洞窟などでひっそり生き延びていたという自説を明かして、こう続ける。「水爆実験で、その環境を完全に破壊された」「追い出されたんだ」。それで日本近海にやって来たのだろう。こうしてゴジラは、人類が始めた核兵器開発競争のとばっちりを受けた者として描かれるのである。

恵美子は父の説に「信じられないわ」と半信半疑だが、父は「物的証拠が、ちゃんと揃っている」と譲らない。ゴジラの体からこぼれ落ちた三葉虫――絶滅したとされている古生物――を調べると、放射性核種のストロンチウム90が検出されたという。

山根恭平の説明は、記者発表の場でも繰り返される。そこでは、ゴジラ本来の推定生息年代が「侏羅紀(じゅらき)から、次の時代白亜紀にかけて」に広げられ、分類も「海棲爬虫類から、陸生獣類に進化しようとする過程にあった中間型の生物」とされている。

記者発表で見落とせないのは、ゴジラの体が水爆によって「後天的に放射性因子を帯びた」としていることだ。物質が放射線を受け、自身も放射線を出すようになることを放射化という。山根は、ゴジラが全身から放つ「奇怪な白熱光」をこれで説明しようとしている。

ゴジラは水爆実験で「安息の地と平穏な暮らしを奪われた」(谷川論考)のだから、核兵器の被害者だ。と同時に「人間の築いた文明を破壊しよう」(同)としている点で加害者でもある。そこでは、被曝するという被害と被曝させるという加害が同居している。香山台本で特筆すべきは、架空の生きものにこの二面性を付与したことだろう。ト書きには、ゴジラを水爆のシンボルにしようという作者の意図が書き込まれた箇所もある。

谷川論考によると、映画「ゴジラ」には「怪獣王ゴジラ」という改定版がある。米国の映画会社が東宝からフィルムを買い入れて再編集したものだ。2作品を比べると、後者では「ゴジラ自体が“被爆者”に他ならないという見立て」は消え去っているという。

ゴジラの二面性で思うのは、ウクライナの原発も同様ということだ。攻撃の標的になりかねないという意味では被害者の立場だ。だが、いったん攻撃されたならば、核汚染を引き起こしかねないのだから加害者の側面もある。これが核のリスクというものだ。

広島、長崎、第五福竜丸。三つのヒバクが直近の出来事だった1950年代半ばの日本社会は、核の本質を直感していた。ゴジラの出現は、そのことを物語っているように思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月12日公開、通算639回
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ソシュールで歴史の呪縛を脱する

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

共時的

今週も、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語観を追いかけながら、私の青春期に一世を風靡した構造主義に迫ることにしよう。

思いだされるのは、構造主義が語られるときに「共時的」と「通時的」という一対の用語が必ずと言ってよいほど出てきたことだ。「意味するもの」(シニフィアン、能記)と「意味されるもの」(シニフィエ、所記)と同様、日常生活には馴染みのない概念だった。

「共時的」も「通時的」も、字面をじっと見ていれば意味が伝わってくる。数学の授業を思い起こしてみよう。先生が黒板に線を1本引いて「これは時間軸です」と言う。t=0分後、t=1分後、t=2分後……軸上の各点は異なる時点を表しているから「通時的」だ。ここでt=1分後の点で別の軸が直交していて、その軸上にx=0m、x=1m、x=2m……という地点があるとすれば、これらはどれもt=1分後の位置だから「共時的」だ。

私たちの日常は共時的でもあり、通時的でもある。職場の人間関係に悩むという状況を考えてみよう。悩みごとは、自分が今どんな人々とどういう仕事をしているか……といった現在の事情によって起こるから共時的だ。その一方で、自分はこれまで仲間たちと仲良くやってきたか……など過去の事情も影響してくるだろうだから、通時的ともいえる。私たちはふつう共時と通時を切り分けて考えないが、構造主義は違うらしい。

構造主義は世界を共時的にとらえる、と私は理解してきた。ただ、それは青春期の読書のおぼろげな記憶にもとづく。そこで今週も『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)を読み、これを再確認したい。

実際、本書を読み進むと「言語体系の観点からは、重要な事実は共時的事実である」という記述に出あう。ソシュールが「共時」を重視しているのは間違いないらしい。当欄は前回、ソシュール言語学が「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系を提出する」という本書の記述を引いたが、実は、その「要素」にも「共時的体系の」という限定がついていた。「共時的体系の要素」しか相手にしないということだ。

本書によると、この問題でソシュールはfoot(足)とその複数形feetの変遷を初期アングロ・サクソン語の時代からたどっている。その音を片仮名書きで表すと、単数形はずっと〈フォート〉が続くが、複数形は最初〈フォーティ〉だったのが〈フェーティ〉となり、さらに〈フェート〉に変わった。これが現在の単数形〈フット〉、複数形〈フィート〉に行き着いたということだろう(母音を伴わないt音は便宜的に「ト」と表記した)。

ソシュールは、〈フォーティ〉→〈フェーティ〉→〈フェート〉の変化を偶然の仕業とみる。それは「あらたに取り込んだ意義をしるすべく運命づけられたものではない」。たまたま出現した一対の言葉を「単数・複数の別を立てるために流用」しているだけだ。

この話は、ソシュール言語学ではおなじみの「ラング」と「パロール」にもかかわる。ラングには「言語体系」、パロールには「発話行為」の意味あいがある。ソシュールの視点に立てばラングは「本質的」だが、パロールは「偶然的」だ。ソシュール言語学は、ラングすなわち「言語体系」の「単位」と「結合法則」を見定めようとしている。footの複数形の推移は、パロールすなわち「発話行為」の領域に属するから重要視しない。

ソシュールは「共時的事実」を「通時的事実」から切り離した。あくまでも注目するのは「同時に存在する二つの形式のあいだの関係ないしは対立」だ。〈フォート〉対〈フォーティ〉、〈フォート〉対〈フェーティ〉、〈フォート〉対〈フェート〉がこれに当たる。

この「共時」の重視は、当時の言語学界を根底から揺るがすものだった。「恣意性」への着眼などでソシュールにも影響を与えた米国の言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーも、「言語学は歴史的科学でなければならない」との立場は捨てなかった。「通時」の研究にこだわったのだ。だが、ソシュールが目を向けたのは「歴史上の連続性」ではなく、「共時」の次元で「意味の差異」を生みだす機能、すなわち「示差的機能」だった。

ただソシュールも、発話行為で生じる「歴史的変化」が言語体系に「影響を及ぼす」ことまでは否定していない。ラングも、パロールの「偶然的」なゆらぎに無縁でないわけだ。このことをどう考えるべきか、私にはまだわからない。これからの読書の課題としよう。

ここで、近代思想が歴史的なものの見方と切っても切れないことを思い返したい。ヘーゲルの歴史哲学がそうだろう。マルクスの史的唯物論も同様だ。だが、歴史にとらわれることには落とし穴がある。私たちが参照できる歴史が一つしかないことだ。歴史はやり直すことができない。これに対しては反論もあろう。世界にいくつもの文化圏があり、それぞれ歴史が異なるからだ。だが現実には、これまで欧州史が偏重されてきたのではあるまいか。

そんな状況を知ってか知らずか、ソシュールは歴史をスパッと切り捨てた。「共時的体系」に焦点を当てた探究ならば、一つの文化圏に目を奪われることなく、それぞれの文化圏の言語を相対化できる。欧州という一地域の事情に惑わされることもなく、地球規模の言語学を築くこともできるだろう。こうしてみると、ソシュールが言語学で採用した構造主義の手法が文化人類学など別分野にも取り込まれていった展開が腑に落ちる。

本書によれば、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「言語学と人類学における構造分析」という論文で、ソシュールが「辞項間の関係」の研究で、話し手が意識していない「関係」の体系にも迫ろうとしたことに注意を喚起している。人類学者も「行為」や「事物」を「記号」として考察するとき、人々の意識にはない「関係」の体系にも目を向けるべきだという。「関係」重視の構造主義はこのようにして裾野を広げたのである。

構造主義は1960~1970年代、ポスト構造主義と呼ばれる新しい思潮の台頭で批判にさらされた。背景には、研究者風の客観的な姿勢に対する不満もあったらしい。これは私が若いころ、構造主義をマルクス主義や実存主義と同列に扱うことに違和感を覚えた経験に一脈通じている。俗な言い方をすれば、私たちの生き方にヒントを与えてくれないのだ。とはいえ、構造主義はポスト構造主義によって全否定されてはいない。

私が一つつけ加えれば、構造主義は科学の要素還元主義批判にも結びついている。今や物理世界を探るには、物質の最小単位クォークを見つければよいわけではない。生物世界を理解するにも、DNA塩基配列の遺伝情報を読みとるだけではダメだ。要素と要素の「関係」を調べるところから始めなくてはならない。一方、今日のネットワーク社会は文字通り、私たち自身を人と人との「関係」の海に誘い込んでいる。「構造」は今や旬なのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月15日公開、通算635回
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ソシュールで構造主義再び

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

色の差異

「主義」が輝いていた時代があった。私が学生だったころがそうだ。自己紹介で「僕はナニ主義者」と名乗るべきか、そのナニを何にしようか、といつも考えていた。

1970年代初め、よその大学で開かれる自主ゼミに通ったことがある。それを「自主ゼミ」と呼ぶのが正しいかどうかは、定義にもよるだろう。主宰者の男性若手教員は工学系だったが、テーマは彼の専門領域に限定されなかった。灯ともしごろの研究室に週1回、学内外の若者が勝手に集まり、なんでもよいからしゃべりたいことをしゃべり合うという感じ。その議論でも、「主義」という言葉には隠然とした重みがあった。

ただ興味深いのは、このときすでに社会主義の輝きが薄れかけていたことだ。主宰者の教員は新左翼への共感を明言したものだが、だからといってマルクス主義を説くことはなかった。連合赤軍事件が発覚するより前のことだが、新左翼運動はすでに衰退していた。

そのゼミで私が忘れられないのは、ある晩、初参加の青年が持論を延々と展開したことだ。芸術系の学生だったと思う。言葉の端々から、古今東西の書物を読み漁っていることがわかった。そこで飛びだした用語が「構造主義」である。私には、青年がこう言っているように聞こえた。マルクス主義は古い、実存主義も古い、今は構造主義だ――。さらに「ポスト構造主義」にも言及していたかもしれないが、そこまでの記憶はない。

そのころ、私も「構造主義」という言葉は知っていた。新書版の解説書はすでに読んでいたと思う。ただ、ピンとこなかった。その意図がつかみ切れなかったのだ。ところが、くだんの青年は弁舌さわやかに、それを思想史の時間軸に位置づけている!

私が構造主義に惹き込まれなかった理由は明らかだ。それは、新鮮ではある。「意味するもの」「意味されるもの」といった耳慣れない用語を駆使して、物事の本質を読み解いてくれる。だが、そこにとどまっていないか? 少なくとも私には、そう思えた。構造主義は、世界のしくみを理解するための方法論に過ぎない。自分がどう生きてどう行動するかという問いには、なにも指針を与えてくれない――そんな不満を拭えなかった。

だから、マルクス主義や実存主義は古い、構造主義は新しいという仕分けには納得できない面があった。これらは同列の品目ではないので、新旧を比べるのは適当でないように思えたのだ。私は青年の話ぶりに気おされながらも、心の片隅に違和感を宿しつづけた。

で、今週は『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)。フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)はスイスの言語学者。その研究は構造主義の原点に位置づけられている。著者は1944年生まれ、米国出身の近代語、比較文学の研究者。本書の原著が刊行された1976年時点では、英国の大学で教職に就いていた。邦訳の単行本は1978年、岩波書店が出している。

当欄は先週、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する新言語「ニュースピーク」を素描した(*1)。痛感したのは、言語と思考が密接不可分なことだ。この機会に言語のしくみそのものも考察したい。そう思ったのも、本書を選んだ理由である。

本書によると、ソシュールは自身の研究の全体像について、ほとんどなにも書き残さなかった。このため、ジュネーブ大学での講義録『一般言語学講義』がよく読まれる。学生のノートなど複数の筆記記録をもとに関係者がまとめたものだ。著者は、これをノート原本と突きあわせると、ソシュール本人の真意を伝えていない面があることを指摘する。本書は随所で『講義』を参照しつつ、一方で著者なりのソシュール思想「再構築」をめざしている。

中身に入ろう。第Ⅱ章「ソシュールの言語理論」を開くと、さっそく「言語は記号の体系である」という一文に出あう。「音」はふつうにはただの音だが、それが「観念を表現ないし伝達するのに役立つ」場合にだけ、「言語」の価値を帯びる。では、どんなときに音は観念を伝えられるのか。音が「慣習の体系の一部」「記号の体系の一部」であるときだという。この「体系の一部」という表現に、私は構造主義の空気を感じとった。

ここで「記号」とは何だろうか。それは、「記号表示する形式」と「記号表示される観念」の「合一」だという。ソシュールの用語に従えば、前者はsignifiant(能記)、後者はsignifié(所記)。片仮名書きすると、シニフィアンとシニフィエになる。懐かしい響きだ。これらこそが〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉だった。音がなにものかを意味し、なにものかがそれによって意味されるとき、言語という記号が成立するのである。

次いで本書は「言語記号は恣意的である」と書く。「能記と所記との特殊な結合」は気まぐれというのだ。所記として哺乳類の一種(日本語圏で「犬」と呼ばれるもの)を思い浮かべよう。英語圏の人は、これに対する能記にdogをあてがうが、それはlodやtetであっても一向にかまわない。いくつもある能記候補のうちの一つが最適という「内在的理由」はないのだ。これが、ソシュール言語学が言語記号に見いだした基本原理だという。

ただ、この恣意性は一筋縄ではいかない。本書がまず指摘するのは、言語によって所記が異なるということだ。フランス語にaimerという動詞がある。これを英訳するときは、like(好き)かlove(愛する)のどちらかを選ぶことになる。フランス語では「好き」と「愛する」が一つの概念をかたちづくり、一つの所記となっている。ところが、英語では別々の概念であり、所記なのだ。世界の「分節」の仕方が言語次第で多様なことがわかる。

所記が「可変的・偶発的な概念」であることも具体的に語られている。例示される言葉は形容詞のsillyだ。もとは「幸いな」「恵まれた」「信仰深い」だったが、「無垢な」「力のない」などに変わり、今では「愚か」を意味するに至った。「能記sillyに付着された概念が継続的に境界を移し変え」「世界を一時代から次の時代へと異った仕方で分節した」わけだ。この間に能記も変化して、片仮名で表記すればセリーがシリーになったという。

著者によれば、ソシュールが恣意的とみてとったのは能記と所記の関係にとどまらない。所記が恣意的であり、能記も恣意的なのだ。「能記も所記もともに、純粋に関係的ないしは差異的な存在体である」――これがどうやら、ソシュール言語学の核心であるらしい。

本書では、いくつかの具体例が挙がっている。色名語、すなわち色の名前がその一つだ。brown(褐色)がどんな色であるかを学ぶときのことを考えよう。生徒は、brownという色がred(赤)やtan(黄褐色)、grey(灰色)、yellow(黄)、black(黒)と「区別」されることを教わるまでは「brownの意味を知るに至らない」。brownを「独立の概念」とみてはいけない。それは「色名語の体系中の一辞項」ととらえるべきなのだ。

「重要なのは区別」であることを実感する例には列車の呼び方もある。8時25分ジュネーブ発パリ行き急行とは何か? この列車は連日運行されるが、日によって車両も乗務員も入れ代わる。発車時刻がダイヤの乱れで8時25分より遅れる日もある。だが私たちは、それを同じ8時25分ジュネーブ発パリ行き急行と呼ぶのだ。理由は、この列車が10時25分ジュネーブ発パリ行き急行などとは別の列車であるからにほかならない。

本書には「言語学における説明は構造的」という記述がある。ソシュールが切りひらいた近代言語学は「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系」を提示して、そこにある「諸形式」と「結合法則」を説明づけようとしているという。難しい! これを私なりに意訳すれば、言語学は能記や所記の差異に目を向け、その関係図を描きだすことで言語の形式と法則を突きとめる試みである、ということか。

構造主義がようやく目に見えてきた。ソシュールはAやBを語るとき、A、BそのものよりもAとBの差異や関係から成る「構造」に注目したのだ。これは私たちの生き方に直接はかかわらないが、世界の見方に影響を与える。来週もソシュール思想を追いかける。
*1 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月8日公開、通算634回
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坪内祐三、都市辺縁のまち語り

今週の書物/
『玉電松原物語』
坪内祐三著、新潮社、2020年刊

世田谷線松原

〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……。
なんのことか、と思われるだろう。これらはみな、私の散歩圏内にある。〇〇や◇◇や△△は、いずれも60年ほど前、小学生時代をともに過ごした級友たちの名前だ。

私は今、あのころ暮らしていた場所の近くに住んでいる。住まいを転々とした後、昔の町内に戻ってきたのだ。だが級友の多くはどこかへ引っ越したままで、ここにはいない。

10年近く前、退職したころのことだ。町内をぶらついたり、自転車を走らせたりする機会がふえて、この坂には〇〇くんの家があったな、この通りには◇◇さんが住んでいたな……と思いだすようになった。それで、散歩道のあちこちを級友の名で呼ぶことにしたのだ。折しもそのころ、クラス会が約50年ぶりに開かれた。〇〇くんも、◇◇さんも、△△くんも、この町に帰ってきた――。散歩道の風景に生気が吹き込まれたように私は感じた。

この私的体験はたぶん、だれもが共有するものではない。農漁村には地縁血縁があるから、いったん地元を離れても、里帰りすれば昔と同じ景色を眺めて昔と同じ人々に再会できる。都会はどうか。歴史のある市街地には、その町を象徴する名所旧跡や伝統行事が残っているから、転居しても「わが町」のイメージを抱き続けることが可能だ。わざわざ個人的な街路名までつくって町の記憶を今の風景に紐づけなくとも、それは逃げていかない。

ところが、都市辺縁部はそうはいかないのだ。私の町を例に挙げよう。ここは東京西郊にあり、かつては農村地帯だった。1927(昭和2)年に私鉄電車が開通すると、関東大震災に遭った商家が都心から移ってきて、駅周辺に商店街が生まれた。やがて、勤め人の家々が建ち並ぶ。住宅街の誕生だった。戦後は社宅など、集合住宅もふえた。住人の出入りは激しい。その入れ替わりに急かされるように、町の風景も次々に塗りかえられてしまった。

だから、意識して記憶を蘇らせたい。〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……というように。

私が強調したいのは、都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある、ということだ。農村の地縁血縁はなく、旧市街の伝統文化もない、人々が中途半端に入れ替わっていく郊外ならではの小世界がそこには存在する。郊外といえば、米国文学に郊外(サバービア)生活を小説化する流れがあることを思いだす。だが、あのサバービアとは異なる郊外を私は実体験してきたのだ。今回は、その体験と響きあう読みものを紹介しようと思う。

で、今週の1冊は『玉電松原物語』(坪内祐三著、新潮社、2020年刊)。著者は1958年、東京生まれ。雑誌「東京人」の編集部員を経た後、評論家、エッセイストとして活動した。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』などの著書がある。2020年1月、心不全で急逝。この『玉電…』は、「小説新潮」誌に2019年5月号から2020年2月号まで連載したエッセイを本にしたものだ。さらに続くはずだったので、未完の「遺作」ということになる。

書名を解説しておこう。「玉電松原」は東急世田谷線松原駅の旧名だ。この駅は世田谷区北部の、小田急線より北、京王線より南という中間領域にある。世田谷線は、かつて東急玉川線(通称「玉電」)の支線だった。玉電本線は路面電車だったので、世田谷線にはチンチン電車の雰囲気が漂う。松原駅もどこか停留所っぽい。著者は3歳のときに渋谷区から世田谷区赤堤に引っ越してきた。それで最寄り駅となったのが、この玉電松原だった。

著者は本文冒頭の一文で、自分は東京生まれ東京育ちでありながら「『東京っ子』とは言い切れぬ思いがある」と打ち明けている。読み進むと「私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ」という宣言にも出あう。このくだりでは、往時の「赤堤界隈」は「田舎」だったので「世間の人が思っている世田谷っ子ではない」ともことわっている。これこそ、前述した〈都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある〉ということの別表現だろう。

実は私も、その赤堤に近い町に生まれ育った。小中学校の校区は隣接する。だから、そこが「田舎」だという印象はかなりの部分、共有する。その象徴が、この本に出てくる「四谷軒牧場」だ。100頭超の乳牛を飼っていたことがあり、私が若かったころは「東京23区で最後の牧場」ともいわれていたが、1980年代半ばに閉鎖された。今回、「たしか名糖牛乳におろしていたと思う」という記述を見つけて、そうだ、そうだったな、と思った。

著者の四谷軒牧場をめぐる回想は事細かだ。通学していた赤堤小学校の隣接地が牧場の牛糞処理場だったこと、それがやがてトウモロコシ畑に変わったこと、作物の成長を目にするたびに「前身が前身だけに土地がよく肥えている」と納得したこと……1970年ごろには、牛が1頭脱走して牧場前の赤堤通りに「デンと座っている」のを教室から目撃したという。そのころは車の行き来が激しくなっていたから、大騒動だったらしい。

私は著者より7歳年長だ。赤堤がもっと「田舎」だったころも知っている。思い違いがあるかもしれないが、幼少期の記憶を一つ披瀝しよう。当時は赤堤通り――その街路名がまだなかったかもしれないが――が牧場の近くで北沢用水という小川をまたいでいたが、その橋が土管だったのだ。川幅いっぱいに土管を並べ、水流を土管に通し、土管の上に板を載せたような簡易な橋だった。ちなみに今、この川は暗渠化されて緑道になっている。

この本の主題の一つは、あのころの小さな商店街だ。フランチャイズの店の出店攻勢が始まる前で、個人商店が存在感を示していた。印象深いのは、玉電松原駅近くの書店。著者は小学生のころから常連で、漫画誌「ガロ」を買ったりしていた。その書店も、今はコンビニになった。東京では昭和30~50年代、「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」。そのことを証言しておくのが、エッセイ執筆の最大の「動機」だったという。

実際、本の巻頭には「松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」が見開きで載っている。手描き風。このマップでもっとも入念に描き込まれているのが、玉電松原駅を挟んで東西に延びる商店街だ。鮮魚店がある、青果店がある、薬局もある、家具店もある……。

店々からは、いくつかの特徴が見てとれる。その一つは、〈よろづや〉性であるように私は思った。くだんの書店は、店舗の3分の2が本屋で残りは文房具屋、たばこ売り場の一角もあった。もう一つ、この本に出てくるのは、玩具店の役目も果たしていた菓子店。子どもに人気の「プラモデルやメンコ」「怪獣のブロマイド」「2B弾やカンシャク玉」……などが置かれていた。〈よろづや〉性には、どこか田舎町の雰囲気がある。

店が商売以外で地元と結びついていたことにも、私は心を動かされた。それは、著者が子ども時代に弟や友だちと「三角野球」に興じた話に見てとれる。三角野球は、二塁抜きの野球ごっこ。両チーム合わせて6人ほどは必要だが、4人しか集まらないこともあった。そんなときは蕎麦店に電話して安い麺類を断続的に注文、出前に来る店員を一人二人とメンバーに引き込んだという。店主は、事情を知りながら助っ人を送りだしていたらしい。

最後の章――本当の遺稿ということだ――では、著者が子ども心に感じた商店街の謎を二つ挙げている。まずは「人が入っていく姿が見えなかった」というスナック。子どもが寝入った時間帯に賑わっていたのだろうか。もう一つは、住宅地なのに結婚式場があったこと。「そもそも商売は成り立っていたのだろうか」「一度で良いから足を踏み入れておけばよかった」と綴っている。著者は世を去る直前まで、あの町に思いをめぐらせていたのだ。

著者は1989年まで赤堤にいて転居した。この本に書かれていることの大半は、著者の少年期、1960年代半ばから1970年代半ばまでの話だ。これは奇しくも、私が近隣の町で過ごした青春期に重なる。あの一帯は、心が挫けた夜にひとりで歩きまわった場所ではないか。今回、この本を読んで赤堤小学校周辺や世田谷線松原駅界隈を再訪してみた。町並みからは個性が薄れ、むかし私を癒してくれた「田舎」の空気は感じられなかった。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月17日公開、通算631回
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ロシアに「ソ連」を見る話

今週の書物/
『歴史・祝祭・神話』
山口昌男著、中公文庫、1978年刊

ロシア

ロシアのウクライナ侵攻は、政治権力というものの怖さを私たちに見せつける。権力者がいったん軍事行動の指示を出せば、兵士たちは隣国に踏み込んで人間を殺傷することを強いられる。隣国の兵士たちも、それに対抗しようと殺傷能力のある武器を手にとる――そんな悪循環が日々繰り返されている。しかも、この軍事行動は軍事とは無縁の人々をも巻き込み、生命を奪い、家族を引き裂き、生活の場をずたずたにしているのだ。

今回の侵攻についていえば、軍事行動のカードを最初に切った政治権力はロシアのプーチン政権であり、もっと端的にいえば大統領のウラジーミル・プーチン氏その人である。怖いのは、国内外の批判にまったく耳を傾けようとしないことだ。国際社会の圧力に馬耳東風なだけではない。ロシア国内では言論を統制し、デモ活動を取り締まって、戦争反対の動きを封じようとしている。独裁と言われても仕方ない体制が、そこに出現している。

不思議に思うのは、ロシアという国がしくみのうえでは民意にもとづく民主主義国家であることだ。大統領は任期6年で、直接選挙によって選ばれる。議会には上下両院があり、下院の選挙は5年ごとにある。それなのになぜ、こんな政治権力が出現したのか。

ただ、不思議に思いつつも、その思いはすぐに消えてしまう。私と同世代、あるいは私よりも年長の世代に限ったことだろうが、妙に納得してしまうのだ。かつてユーラシア大陸には、ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連という大国があった。ソ連は東西冷戦の終焉からまもない1991年に解体され、その継承国となったのがロシア連邦だ。だから私たちは、ロシアのニュースに触れると、そこにどうしてもソ連の影を見てしまう。

ただ私は、ソ連らしいソ連をリアルタイムでは知らない。先行世代が語る言葉から、それを感じとっていたのだ。たとえば「粛清」。もともとは批判勢力の追放を意味するが、ソ連では物理的な抹殺をも含意した。1917年のロシア革命が駆動力となって生まれたソ連の共産党一党独裁体制では、党指導部が1920年代から1930年代にかけてこの弾圧で批判勢力を封じた。その中心にいたのが、ヨシフ・スターリン(1879~1953)である。

今回のウクライナ侵攻でプーチン政権の独裁ぶりをみると、スターリン体制の残滓が亡霊のように現れた気がする。民主主義のしくみがあっても同じ病を発症したのだ。スターリン的なるものは一党独裁の社会主義体制を必要条件とはしていなかったのか――。

で、今週の1冊は『歴史・祝祭・神話』(山口昌男著、中公文庫、1978年刊)。著者(1931~2013)は北海道生まれの文化人類学者。東京大学を卒業後、ナイジェリアやインドネシアに赴いて現地調査による研究を重ねた。『アフリカの神話的世界』『道化の民俗学』などの著書がある。本書は、中央公論社の月刊誌『歴史と人物』1973年4月号に載った同名の論考をもとにしている。単行本が1974年に同社から出た後、文庫化された。

ちなみにこの論考は、今では岩波現代文庫の1冊にもなっているから、そちらで読んだ方も多いだろう。私は先日、書店の古書コーナーでたまたま本書に出あった。その目次に「スターリンの病理的宇宙」といった章があるのを見て、思わず手が伸びたのだ。

私が思うに、本書の最大の強みは著者が文化人類学者であることだ。一党独裁の社会主義体制の指導部に巣くった歪んだ心理を政治思想とは別の次元で見つめ直して、その病理に迫っている。この視点に立てば、ソ連の社会主義を捨てたロシアが今なお、スターリン的なるものを引きずっていることも不思議ではない。ソ連時代の思考様式、行動様式からマルクス・レーニン主義がすっぽり抜け、様式のみが残っているということではないか。

ことわっておくと、本書はソ連史ばかりを話題にしているのではない。とりあげているのは、スペインの詩人ガルシア・ロルカの作品世界であったり、欧州の中世史であったり、日本の南北朝時代史、戦国時代史であったり、あるいはナチス・ドイツの現代史であったりする。著者は、これらの題材について膨大な量の文献を読み込み、そこから人類の歴史を動かす普遍原理をすくいとっている。ソ連についての考察は、その延長線上にある。

文化人類学者らしい考察だなと思わせるのは、随所で「はたもの」という言葉をもちだしていることだ。その原意は機織りの道具だが、それを磔(はりつけ)の刑具として使う風習もあったことから、磔刑の受刑者を指すことがあるらしい。本書の記述を要約すると、こうなるだろうか。「はたもの」は権力者にとって「時間(歴史=秩序)の外」へ追いだすべき存在であり、「『秩序』を可視のものとするために必要」である――。

言葉を換えれば、「はたもの」は生贄にほかならない。ただ、「はたもの」の役はだれでも担えるものではないらしい。著者は東西古今の文献をもとに、こう結論する。「はたもの」は「平日」でなく「祝祭日」的だ。そこには「節度」ではなく「過度」、「秩序」ではなく「混沌」がある。その人は「『生感情(ヴァイタリティ)』の過度の所有者」であり、「はみ出し」と言ってもよい。「政治的世界の秩序を脅しながら、これに活力を与える」のだ。

では、初期ソ連を率いた共産党で誰が「はたもの」に仕立てあげられたのか。ここに登場するのが、レフ・トロツキー(1879~1940)。「トロツキスト」という左翼陣営内のレッテル貼りでよく知られた革命家だ。評価は党派によって分かれたが、本書はそのような路線論争には立ち入らない。著者はひたすらトロツキーの逸話を拾いあげ、その人物像を浮き彫りにしながら、なぜ彼が「はたもの」の役回りに追い込まれていったかを探っている。

本書は、1917年ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが1924年に病没する前後、党内がどのように揺れ動いたかを跡づける。芝居に見立てれば、主役がトロツキーであり、敵役がスターリンだ。ただ両者の間にあったのは、ふつうの意味でいう権力闘争ではない。敵役が権力志向なのは間違いないが、主役はそれほどでもなかったのだ。「スターリンは敵の長所も弱点も知り尽していたのに、トロツキーはなんの研究もしていなかった」

本書によれば、トロツキーは「ここ一番という時に、跳ぶことができなかった」。レーニンが後継者含みのポストを用意してもそれを受けなかった。スターリンから攻撃されても反撃しようとしなかった。ただ「謙虚」なのか、内部抗争を「嫌悪」していたのか、「楽天的性格」ゆえにいつかは勝てると思っていたのか、あるいは、もともと俗世間にまみれない「隠者的性格」を具えていたのか――著者が挙げる推測は尽きない。

興味をそそられるのは、著者がトロツキーの弱点を1923年の「文化的な言葉づかいのための闘い」という論文に見いだしていることだ。トロツキーは論文で、ロシア社会に「悪罵の言葉」があふれていると指摘して、国語学者や言語学者、民俗学者にこう問いかける。「ロシア語以外にこんなにしまりが無く、べたべたして、調子の低い悪態の言葉があるのかどうか」と。その「卑しむべき悪態のパターン」が革命後も引き継がれているという。

たかが言葉づかいのことではないか、と思われるかもしれない。ただ、著者は言い添える。「悪態の集中砲火」はやがて制度化されてトロツキー自身にも浴びせられ、さらにスターリン体制下の「粛清」で「肉体言語」のかたちをとって大展開されたことを。

著者は、トロツキーの思考に「西欧の優越性、ロシアの後進性という図式」がしみついていたことを見逃さない。「西欧派」は、レーニン時代は好印象を与えたがレーニン後は逆転した。「これこれの事象は西欧諸国にはない」という物言いは「党官僚」に対しては説得力がなかった。西欧派であることが「異邦人=侵略者というレッテルと結びついた」のだ。どことなく、ウクライナをなじるプーチン政権の言い分を連想させるではないか。

ウクライナはソ連から独立後、西欧志向を強めていた。そう考えると、プーチン氏のウクライナ観は、「党官僚」のトロツキー観に近いのかもしれない。この見立ては、トロツキーがウクライナ出身であり、しかもウクライナの現大統領ウォロディミル・ゼレンスキー氏と同様にユダヤ系だったことを思うと、いっそうもっともらしい。プーチン氏の内面には西欧嫌いがあるのか。だとしても、あの軍事行動は常軌を逸しているが……。

トロツキーは結局、「はたもの」になった。亡命の末、1940年にメキシコで暗殺者の手にかかったのだ。文化人類学者のトロツキー論を読んでつくづく思うのは、人間社会はイデオロギーのあるなしにかかわらずよく似た過ちを繰り返している、ということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月10日公開、通算630回
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