オセローという欧州多様性の葛藤

今週の書物/
『新訳 オセロー』
ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊

オセロ

欧州は欧州だ。自己完結している。私たちは、そんな偏見から逃れられない。たとえば、欧州史といえば、古代のギリシャ・ローマ→中世のキリスト教→近世の絶対王政→近代の市民社会という図式が頭に浮かび、これは内発的な史的展開だと思いがちだ。

だが欧州も、折々に外から影響を受けている。11世紀から十字軍が中東に遠征して、イスラム世界と衝突した。13世紀には北東アジアからモンゴル帝国の西進があり、次いで小アジアからオスマン帝国が地中海一帯に進出してきた。15世紀に始まる大航海時代、今度は欧州人が支配域を広げ、世界中から多様な物品を取り込んだ。ティーを午後に楽しむのも、ポテトを主食並みの食材としているのも、この外部との接触があったからだ。

で、今週はさっそく本の話に入る。とりあげるのは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『新訳 オセロー』(河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊)。沙翁(1564~1616)作品では四大悲劇の一つとされている。訳者あとがきによれば、原著初版が世に出たのは1622年。作者没後のことである。ただ、同じ作品と思われる芝居が1604年に上演されたという記録がある。この事実から、作者が執筆したのは1603~04年だろうとみられている。

1604年の上演記録にある題名は『ヴェニスのムーア人』。出版時の表題も『ヴェニスのムーア人オセローの悲劇』だった。「ムーア人」は、欧州人がアフリカ北西部の人々を指して言う言葉だ。この作品は、欧州人にとって異世界の人物を主人公にしているのである。

もう一つ押さえておきたいのは、これがどこの話か、ということだ。1カ所は、原題にある通り都市国家ヴェニス(ヴェネチア)だが、そこだけではない。全5幕のうち、ヴェニスの部は第1幕だけで、残りは地中海のキプロス島を舞台にしている。ヴェニスは1570年代、東方貿易の窓口であるキプロスをめぐってオスマン帝国と争い、現地に派兵していた。そのころの出来事らしい。ここでも作品は、異世界に片足を突っ込んでいる。

主人公オセローはムーア人だが、ヴェニスで勇敢さが買われ、「将軍」の要職に就いていた。対オスマンのいくさでは最前線のキプロスに赴くことになる。ヴェニスは東方の異邦人と戦うとき、南方の異邦人を指揮官に押し立てたのである。もちろん、この筋書きはフィクションだ。ただ心にとめておきたいのは、欧州では近世であっても、異民族が交じり合う物語が成り立ったということだ。半面、そこに摩擦も起こるわけだが……。

異文化摩擦の話に先立って、登場人物を素描しておこう。オセローは少年時代、奴隷に売られたこともある苦労人で、7歳の頃から戦場に出ていたという生粋の軍人だ。デズデモーナは、その妻になる人。ヴェニスの元老院議員ブラバンショーの娘で、オセローと恋に落ちた。オセローの旗手を務める軍人がイアーゴー。副官の座を争う出世競争でキャシオーという優男に敗れ、不満が募っている。そこで、いろいろと悪知恵を働かせる。

その悪巧みに巻き込まれ、そうとは知らず、手を貸してしまう人もいる。一人はイアーゴーの妻エミーリア。デズデモーナに仕えて、身の回りの世話をしている。もう一人はイアーゴーの友人、ロダリーゴー。デズデモーナに思いを寄せていた青年だ。

ここでは第一幕だけを紹介しておこう。第一場の冒頭では、イアーゴーがロダリーゴーを相手に、キャシオー抜擢の副官人事を腐し、自分にはオセローを敬愛する理由がないことを言い募っている。ロダリーゴーが「じゃあ部下なんか辞めちゃえば?」とけしかけると、「まあ、落ち着け」とたしなめる。「勤めはきちんとやってみせるが、心は自分のことに向ける連中もいる」「俺もその一人ってわけだ」――面従腹背の構えである。

イアーゴーとロダリーゴーは連れだって、ブラバンショーの邸にやって来る。二人は、夜更けだというのに「おーい」「起きろ、おーい」と大声をあげる。ブラバンショーが二階の窓辺に姿を現すと、イアーゴーは衝撃のニュースを告げる。オセローとデズデモーナが今まさに結ばれようとしている、というのだ。ブラバンショーは当初真に受けなかったが、邸内を探してみると娘の姿がない。「本当だった。何ということだ」と打ちのめされる。

こうして第二場では、オセローとブラバンショーが対面する。第三場では、公爵が元老院議員を召集して開く「閣議」で、オセローが「トルコ軍征伐」に派遣されることが決まる。デズデモーナも本人の強い意思があって、夫に同行することになるのだが……。

この戯曲には、今の私たちから見れば不適切な表現が多出している。「肌の色の違いによる人種差別」があからさまで「『白』を表す語(fair)が『美しさ』や『公平性』を表した一方、『黒』という色には『腹黒さ』や『穢れ』などの否定的な意味が籠められることが多かった」と、「訳者あとがき」にもある。訳者は「こうした当時の強烈な差別意識を理解したうえでなければ」「この作品の本質に迫ることはできない」と言う。

気は進まないが、本稿もその一端に触れておこう。第一幕第一場で、イアーゴーがオセローとデズデモーナの恋についてブラバンショーに告げ口するときの表現は「たった今、まさに今、老いた黒羊が/あんたの白い雌羊にまたがってる」(/は改行、以下も)。別の箇所でも、イアーゴーはオセローを「アフリカ産の馬」と揶揄している。当時の欧州社会に、対岸アフリカの肌が暗色の人々に対する差別意識があったことは歴然だ。

第一幕第二場でブラバンショーがオセローに投げつける罵りも、この差別意識に根ざしている。デズデモーナは「魔法」でもかけられなければ「ヴェニスの裕福な巻毛の美男子たちとの/縁談を断り」「貴様のような男の真っ黒な胸に――/喜びでなく恐怖へと――飛び込むはずがない」。娘がオセローになびいたのは「悪魔の力」のせい、と断ずるのだ。オセローの肌の色を異質なものとして嫌うだけでなく、悪魔に結びつけて排除しようとする。

この戯曲の凄いのは、その差別社会にオセローが毅然と対峙することだ。閣議の席で公爵から弁明を促されて、こう言う――。自分がデズデモーナを父親のもとから「連れ去った」のは事実であり、すでに「結婚」もしている。「私の罪はそれがすべてであり、それ以上では/ありません」と言い切る。そして、「私の情熱の罪」を「白状しましょう」と切りだして、自分がどのようにしてデズデモーナの心をつかんだのかを打ち明けるのだ。

その弁明によれば、オセローはデズデモーナに自身の身の上話を聞かせた。戦場で命拾いしたこと、奴隷となったが救いだされたこと、あちこち旅して洞窟や砂漠や山岳を回ったこと。「若かりし日の苦労を話しては、/しばしばその目から涙を絞りました」。それでデズデモーナは心を動かされ「私がくぐってきた危険ゆえに私を愛してくれる」。これが「魔法のすべて」というのだ。巧妙にも「魔法」という言葉を逆手にとっている。

まもなく、デズデモーナもこの場にやって来る。オセローが呼ぶように頼んだのだ。彼女は言う。「私がムーア様を愛し、共に暮らしたいと/思っておりますことは、後先顧みぬ私の/奔放な振る舞いで世間に知れました」。自身の意思で「ムーア様」、即ちオセローと結ばれたことを公言したのである。さらに「夫の名誉ある武勲」に「わが魂と運命を捧げております」と言って、自分もオセローとともに戦地へ行きたいと申し出る――。

閣議のくだりでは、ぜひとも引用したい台詞がある。公爵がオセローに弁明を求めたとき、それに同調する元老院議員が発した問いだ。「君は、この若い娘御の愛情を/密かに捻じ曲げ、毒で抑えつけたのか?/それとも、心を通わす会話をして/愛してもらうようになったのか」。これは、オセローの告白を先回りしている。異文化の間にも心の通いあいがあり、恋愛は成立する――そう考える人も16世紀の欧州にいたということだろう。

この戯曲を読んで思うのは、欧州の二重性だ。そこにはかつて、肌の色の異なる人を異種の動物であるかのようにみなす苛烈な差別社会があった。だが一方では、そういう異邦人を――キリスト教に改宗していたということもあるのだろうが――高位の職に登用する度量があった。それだけではない。異邦人が自らの心模様を語るとき、それに耳を傾ける人もいた。近代の価値観が確立する前の時代であっても、異文化共存の芽はあったのだ。

この戯曲は、後段で悲劇に転じる。きっかけは、オセローがイアーゴーの奸計によって、自分はヴェニス社会では「他者」に過ぎないと思わされたこと、と訳者は分析している。私自身はそうは感じなかったのだが、この悲劇はやはり異文化摩擦の帰結だったのか?
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月1日公開、通算594回
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アルバムにしたい本を見つけた

今週の書物/
『東京懐かし写真帖』
秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊

カメラ

水害が頻発している。最近は、その怖さがすぐニュース映像になる。たとえば、濁流が家々を押し流す場面。住人はすでに現場から避難していると聞いても気がかりはある。一瞬、頭をよぎるのは、家を出るときにアルバムを持ちだせただろうか、ということだ。

アルバムに対する思いは、高齢の人ほど強い。写真が画像データとは呼ばれなかった時代、それをUSBメモリーやSDカードに保存したり、ネットの雲(クラウド)に載っけたりはできなかった。だから、紙焼き写真の値打ちは今よりずっと高かったのだ。

2011年の東日本大震災では、津波にさらわれた写真を復元するボランティア活動が広がった。被災者は、さぞうれしかっただろう。失いかけた写真は、家庭が営まれた記録であり、家族が生きた証でもあった。とくに、その家族が帰らぬ人となっていたならば……。

アルバムは特別な存在なのだ。かつて「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、TBS系列、1977年)というテレビドラマが人々の心をとらえたのも、家族の結びつきの危うさを、家屋が流されれば消えてしまうアルバムのはかなさに重ねあわせたからだろう。

と、ここまで書いてきて、自身のことを顧みるとゾッとする。私の家は幸いにも震災にも火災にも水害にも遭っていないが、幼少期のアルバムをどこに仕舞っているかがわからない。ただ、ずぼらなのだ。探そうとは思うが、もう散逸しているかもしれない。

色あせた写真には二つの意義がある。一つは、自分自身の記録という側面だ。家族でこんなところへ旅した、親戚にはこんなおじさんやおばさんがいた……というようなことだ。もう一つは、時代の記憶。あのころはこんな服が流行っていた、町にはこんな乗りものが走っていた……といったことである。「私」と「公」の過去を「こんな」だったね、と実感させてくれるわけだ。アルバムには、そんないくつもの「こんな」が詰め込まれている。

「私」についていえば、アルバムの代替品を見つけるのは難しい。だが、「公」は違う。世相をとらえることに長けた写真家が一人いれば、その作品群を通じて「あのころ」の「こんな」を蘇らせることができる。で、私は最近、そんな作品集に出あった。

書名は『東京懐かし写真帖』(秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊)。著者は1937年生まれの写真家。東京・浅草橋で家業の洋食店を営みながら、仕事の合間に東京都内、とりわけ下町の風景やそこに生きる人々の姿を撮ってきた。まえがきによると、「カメラを始めたのは15歳」で「撮り溜めたネガは数万枚」に及ぶ。「写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらい」なのだ。

編者名からもわかるように、この本は読売新聞の連載をもとにしている。都内版の一つ、「都民版」に週1回のペースで載ったものから、2011~2018年の72本を選んだという。読売新聞記者のあとがきによれば、担当記者は毎週、秋山さんの洋食店に足を運ぶ。写真1枚1枚について、じっくり話を聞くためだ。そして「『一本指打法』でしかキーボードをたたけない秋山さんに代わり記事を書く」。だから本文からは、語りの口調が感じとれる。

その文章には、秋山さんの被写体に対する思いがあふれている。ただ、この本の主役は、あくまでも写真だ。1編に2枚ほど載せているから全部で百数十枚。ただ、写真は文章のように、これはという言葉を引用できない。当欄では何をどう書こうか。さあ、困った。

ふと思いついたのは、ここにある写真を私本位の視点で味わってみる、ということだ。秋山さんが写真を始めたのが1952年だとすれば、それは私が生まれた翌年だ。実際、作品の撮影年は、多くが私の幼年期から少年期、青年期に重なっている。「公」の記憶ということなら、この本は「アルバム」の役目を果たしてくれるのだ。だから当欄では、作品群を自分の写真のように眺め、あのころは「こんな」だった、と懐旧に耽ることにしよう。

最初にニヤッとしたのは、「羽根をさがす子供」(1957年)だ。男の子たちが路地裏でバドミントンをしていたら、羽根が板塀を越え、道沿いの家の庭に飛び込んだ。一人は、身をかがめた友だちの背中に乗り、背伸びして塀の向こうを見下ろしている。ほかの子たちも、しゃがみ込んで板の隙間から庭を覗いている。そういえばあのころ、ゴムまりの野球で塀越えのファウルを飛ばし、「ボール、とらせてください」と大声を出すことがよくあった。

子どもたちが遊ぶ写真には、ローラースケート(1957年)、ベーゴマ(1966年)、馬跳び(1974年)、相撲(1980年)、縁台将棋(1983年)などがある。どれも路上の光景だ。道の真ん中で、女の子が馬をぴょんと跳び越えている。路面に、ひしゃげた土俵が白線で描かれている。あのころ、私たちは「道路で遊ぶな」と注意されても言うことを聞かなかった。今は車が通らない路地裏でも、子どもたちの遊び声がほとんど聞かれない。

男の子が独り、ハーモニカを吹いている写真もある(1957年)。格子縞のジャンパーの胸元から、猫の顔がのぞいている。愛猫をすっぽりくるんで暖めているのか、それとも、愛猫の体温で自分が暖まりたいのか。寒い季節であることだけは確かだ。それなのに、その子は戸外にいる。気になるのは、背後に見える波板らしき物体だ。あのころは、ありあわせの材木やトタン板で即製した建物があちこちにあった。これも、そんな物置小屋ではないか。

夕暮れどき、子どもたちが連れだって家路の途上にある写真も2枚載っている。どちらも橋の上。片方の写真(1965年)では、向こう岸に工場の煙突が並び、煙がもくもくと上がっている。もう一方(1959年)は、男の子と女の子が総勢7人。はだしの子は靴を手にぶら下げている。「工事現場の水たまりで、泥だらけになって遊んでいたんだ」と秋山さん。あのころ「水たまり」は、それだけで子どもたちの遊びを成立させた。

道路を生活の場にしていたのは、子どもだけではない。大人も、それをただの通り道とは考えていなかった。「嫁入りの日」(1964年)では、花嫁が仲人に導かれ、商店街をしずしずと歩いている。婚礼となれば、新婦が白無垢角隠しの晴れ姿をご近所に見せて回ったのだ。一行を見守っているのは、割烹着姿の女性や子どもたち。通りの華やいだ声を聞きつけて、家から飛び出してきたのだろう。道路が一世一代の大舞台になっている。

「ご近所さん」(1987年)は、近くの住人十数人が路地の道幅いっぱいに並んでいる文字通りの記念写真。食事会の折に撮ったものだという。「こうして勢ぞろいした姿を見ると、お互いの家族を見守りながら暮らしていたんだなと、しみじみ思うよ」。路地は、向こう三軒両隣の私生活をそれとなくつなげる空間だった。それを窮屈と感じるのが今の私たちだが、「見守りながら暮らしていた」と思うゆとりがあのころにはあった。

道路は商いの場にもなった。「部品売り」(1957年)という写真では、露天商が橋のたもとに中古自転車の部品を並べている。よく見ると、値札がついているのはタイヤが多い。「壊れた自転車を安く仕入れて、使える部品だけ抜き取ったんだろうね」。おもしろいのは「橋の上では、硬くなった大福を温め直して売っている人もいたよ」という話。戦後の空気が残っていたあのころ、大人たちはなんでも売りものにして、どこでも店を開いたのだ。

道路の写真をもう1枚。「無理が通れば」(1965年)では、大型トラックが2台、狭い道をギリギリすれ違っている。「今なら立派な物損事故だね」とあるが、この写真ではそうとは断定できない。ただ、秋山さんの証言は含蓄に富む。「運転手がどうしたかって。お互いにそのまま目的地へと走り去っていったよ」――あのころ、運転手の最優先事項はものを運ぶことであり、武骨な車体にかすり傷がついたかどうかは二の次だったように思う。

写真は嘘をつかない。この本では、私が子どもだったころの社会の実相が露呈している。あのころの大人は、法律よりも融通を優先させていたのではないか。だから、道路という公空間で互いに折りあいをつけていた。子どもが道路にいても、近隣の緩いつながりのなかで見守っていた。それがすべて良かったとは言わない。法律や決まりごとは当然、尊重されるべきだ。ただ同時に、あのころにあって今は失われた美風も忘れたくはない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月3日公開、通算590回
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2時間ミステリー、蔵出しの愉悦

今週の書物/
『2時間ドラマ40年の軌跡』
大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊

テレビ欄(朝日新聞)

緊急事態の巣ごもりで、テレビをつければ、こちらの局も五輪、あちらの局も五輪……。これがテレビの宿命か。そう思いつつも、ここで大上段に構えてテレビを論ずるつもりはない。暑気払いということで、肩の凝らないテレビ史話に浸ることにしよう。

2Hという言葉がある。テレビ界の友人によれば、2時間ドラマ、即ち2-hour dramaの略だ。私はその2Hのファンなので、当欄の前身「本読み by chance」では「2時間ミステリー(2H」というジャンルを設けていた。「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」(2014年10月31日付)、「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」(2015年9月11日付)、「2時間ドラマまったり感の崖っぷち」(2017年7月14日付)など7本を収めている。

熱烈なファンであっても、私の2H鑑賞法は手抜きのそしりを免れない。夕食後、寝っころがって、ボーッと視聴する。たいていはほろ酔い状態なので、ドラマの中盤、事件の輪郭が見えてくるあたりでうとうとしてしまう。はっと目が覚めるのは最終盤。崖の突端やら湖の畔やらに関係者一同が顔をそろえている。この大団円で刑事や検事、素人探偵が謎を解き、事件の一部始終を説明してくれる。中抜けでもちゃんとゴールできるのがいい。

この鑑賞法は、テレビドラマを芸術作品とみなすなら不真面目の極みだろう。だが、2Hは趣が違う。「どうぞみなさん、お好きなようにご覧ください」――耳元で、作品そのものがそんなふうにささやいているように思える。脱力を促している気配だ。

ただ、脱力していても得られるものはある。私にとって2Hは近過去の史料だ。これは、テレビ各局が2H新作の時間枠を次々に取り払ってしまったことに起因する。このため最近は、BSやCSで蔵出しの再放映を見たり、再放映を録画して後日再生したりすることが多くなった。作品の空気にどっぷり浸かっていると、制作年代の記憶が蘇る。電話などの通信事情や鉄道などの交通事情から、それがいつごろの作品か言い当てる楽しみもある。

たとえば、DNA型鑑定が事件捜査の現場に広まった時期は、日本テレビ系列「火曜サスペンス劇場」で見当がつく。この技術は「女監察医室生亜季子」シリーズでは「もう一つの血痕」(1992年)に、「女検事霞夕子」シリーズでは「青い指」(1993年)に初出する。1990年代前半にドラマの題材になるほど浸透したわけだ。余談だが後年、シリーズ名から「女」が抜け、それぞれ「監察医…」「検事…」になった。この改名にも史料的意味がある。

こんなふうに私は2Hを分析してもいるのだ。ただ、ボーッと画面を眺めているだけではない。だから、いずれは2H評論家を標榜できるのではないか、と心の片隅で思ったこともある。だが、それは奢りだった。そのことを思い知らされる本に最近、出会った。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。著者は1965年生まれ、電通出身の阪南大学教授。専門分野は「メディア・広告・キャラクター」という。「おわりに」によると、この本は『TVガイド』誌発行元である東京ニュース通信社の「地下倉庫の資料整理」によって生まれた。倉庫は、2H史料の宝庫だったわけだ。著者は往時の関係者にも取材して、臨場感のある史話に仕立てあげた。

さすが『TVガイド』の発行元だな、と思わせるのが、巻末の「とっておきデータ集」。それによると、1977年にテレビ朝日系列で老舗「土曜ワイド劇場」(土ワイ)が始まり、対抗馬「火曜サスペンス劇場」(火サス)が1981年から追いかけた。私が知らなかったのは、このあとに2時間ドラマ乱立期がつづくことだ。キー局によっては時間枠を二つ三つ設けるところも出てきて、1990年前後には4局8枠が競い合ったこともある。

草創期の事情を本文に沿って跡づけてみよう。興味深いのは、2時間ドラマの原点が米国にあることだ。米国のテレビ界には、劇場用映画の時間枠にテレビ用「映画」を流す試みがあった。テレビ局がオリジナル作品の制作を映画会社に発注したのだ。これなら、時間の長短も画面の横幅もテレビ仕様にできる。ヤマ場をCMのタイミングに合わせて設定したり、「新聞のテレビ欄で思わず見たくなる」ようにタイトルを工夫したり、も自在だ。

この試みの妙味に気づいた人がNET(現・テレビ朝日)にいた。1960年代末、映画番組用に洋画を買い入れる仕事をしていた外画部員だ。米国のテレビ専用作品を「テレフィーチャー」という和製英語で呼び、導入の可能性を探っていた。その人が1975年、編成開発部に移って手がけたのが「国産テレフィーチャーの実現」だ。上司も、この構想を応援してくれた。こうして土ワイが、最初は90分ドラマとして産声をあげたのである。

土ワイは当初、ミステリーと決まってはいなかった。最初の数カ月は「ミステリーを中心としながら、文芸もの、青春もの、メロドラマと模索が続いた」。やっぱりミステリー、という方向性が見えたのは、1978年に「江戸川乱歩の美女シリーズ」第2作の「浴室の美女」が高視聴率を獲得してから。天知茂主演。ヒロイン女優が脱いだ。コメディアンが笑いをとって猟奇性を和らげた。こうして「娯楽ミステリー路線」が定着したのである。

土ワイの初代チーフプロデューサーが1977年に社内向けに宣言した制作方針が、この本では公開されている。「メインターゲットは20~35歳の女性」「娯楽性・話題性を最優先」「風俗、流行も反映」「裸(健康的なお色気、美しい映像)はOK」「茶の間の涙と感動も無視できません」――といった内容だ。今では通用しない価値観もみてとれるが、あの時代に戻って解釈すれば、小難しくなく楽しめる作品を、ということだったのだろう。

土ワイを論じるときに忘れてならないのは、在阪局ABC朝日放送の参入だ。1979年、土ワイが90分枠から2時間枠に拡げられると同時に制作に加わっている。放映4回のうち1回はABCが受けもつことになった。その結果として誕生した人気シリーズの双璧が、藤田まこと主演「京都殺人案内」と、古谷一行、木の実ナナ主演「混浴露天風呂連続殺人」。2Hの切り札ともいえる「京都」と「温泉」のカードをいち早く切ったのである。

そのころはゴタゴタもあったようだ。たとえば、「京都殺人案内」第1作の原作者は山村美紗だが、第2~32作は和久峻三に代わっている。土ワイがもう1枚の切り札「鉄道」を前面に押しだした「西村京太郎トラベルミステリー」シリーズも不可解だ。ABCが1979年に始めたが、まもなくテレビ朝日の手に移った。これらの異変の背景には、原作者とテレビ局の間の確執があったらしいことを著者は匂わせる。2Hにふさわしい話ではある。

初期の土ワイにかかわったテレビ朝日とABCのOB対談からは、制作現場の空気感が伝わってくる。当時は映画が斜陽産業だったので、テレビドラマは「映画界の失業者を救済する事業」でもあったという。テレビ人には、映画人の心理が屈折しているようにみえたのだろう。「映画はテレビをバカにしてましたからね」「娯楽の王座が映画からテレビに移ったっていうのを彼らも完全に知ってて、でもやっぱり虚勢を張りたかったんじゃないかな」

さて1981年、いよいよ火サスの出番である。この本で、ああそうだったのかと納得したのが、土ワイとの比較論だ。私は一視聴者として両者の芸風の違いを感じながらも、それをうまく言い表せなかった。著者によれば、火サスは「犯人さがしやアリバイ崩し」ではなく「人間ドラマ」を優先して「登場人物が背負っているもの」や「愛が憎しみに変わる瞬間」などを描いた。「謎解き」より「緊張や不安」――だから「サスペンス」だったのだ。

そして1980年代、TBS系列にもフジテレビ系列にも同種の番組が現れ、2Hの視聴率競争は過熱する。その時代の象徴は、新聞のテレビ欄を舞台とする場外乱闘だ。欄の枠内に「松本清張の事故 国道20号線殺人トリック 怖い!あの女が今日も私を見張ってる…」(土ワイ、1982年)というような長い文言が載るようになった。2時間分のスペースから主要出演者の列記分などを差し引いて、残る余白を刺激的な言葉で埋め尽くしたのである。

この本は、2Hをつくる側の裏話にあふれている。だから私は、業界事情がわかって興味深かった。だが、見る側に立って作品をどんなふうに楽しむかという話はあまりない。2H評論家としての活路はまだまだあるぞ。そう思って、今夜もまた1本、きっと見る。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月30日公開、同年8月1日更新、通算585回
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熊野という驚くべき超多様性

今週の書物/
『ごった煮のおもしろさ「熊野山略記」を読む』
桐村英一郎著、はる書房、2021年刊

天竺→唐→熊野

熊野とは、不思議な縁がある。

一度目は、火の玉を追いかけたときだ。1985年10月8日、謎の火の玉が列島の夜空を横切った。甲子園球場では観衆が総立ちになったから、覚えている方もおられるだろう。そのころ、私は朝日新聞大阪本社の科学記者だった。「どこに落ちたか、見てきてくれないか」。科学部の上司は、若手部員の私に無理難題を押しつけた。社が用意したタクシーに社会部の2人と乗り込んで、一路、火の玉が消えた方角へ針路をとった。

社を出発する時点でわかっていたのは、火の玉が南のほうへ流れたというくらいだ。落下場所など見当もつかなかった。携帯電話が広まっていない時代なので大きな携帯無線機を持たされた記憶があるが、本社は追加の指示をなにも言ってこない。大阪の南には紀伊半島が控えているだけだ。だったら、その突端をめざすよりほかないではないか。こうして私たちの車は南紀に入り、熊野の森の闇をさまようように走りまわったのである。

当然、これは無駄足だった。翌日に帰阪後、南紀で隕石の破片らしいものが見つかったというニュースが現地から届いたが、それが火の玉の残骸だとは断言できなかった。今では、あの火の玉は隕石でなく、人工天体の落下だったという説が有力のようだ。

次に熊野の森に入ったのは、さほど昔ではない。熊野古道見たさで思い立った私的な旅行だった。那智の滝を眺め、熊野本宮大社に参り、中辺路(なかへち)を歩き、童子の像などを見て回った。あいにくの土砂降りで、全身ずぶ濡れになったことを覚えている。

深い闇と激しい雨。これが、私の皮膚感覚に刻まれた熊野だ。ただ考えようによっては、熊野は私に素顔を見せてくれたのだとも言える。ここは〈ふつうの日本〉ではない、そのことを肝に銘じよ、とでも戒めるように。それでいて、熊野は心地よくもある。〈ふつうの日本〉からふらりとやって来ても拒まれることはない。これは、私が新聞社にいたころ、南紀に幾度となく出張した折に町の人々の表情から感じとったことである。

で、今週の1冊は『ごった煮のおもしろさ「熊野山略記」を読む』(桐村英一郎著、はる書房、2021年刊)。著者は、1944年生まれの朝日新聞元記者。ロンドン駐在、大阪、東京両本社の経済部長、論説副主幹を務めた。経済畑、科学畑と専門分野は異なるが、私にとっては大先輩である。2004年に定年退職すると奈良県明日香村に住み、神戸大学で客員教授を務めた。現在は、三重県熊野市在住。古代史探究に打ち込み、著書も多い。

著書の一つに『熊野からケルトの島へ――アイルランド・スコットランド』(三弥井書店、2016年刊)がある。この本は、当欄の前身「本読み by chance」で紹介した(2018年5月4日付「熊野とケルト、島の果ての奥深い懐」)。ユーラシア大陸から見れば、東西の辺境のそのまた辺境といえる場所に光を当て、両者に通じあうものを浮かびあがらせた。その着想は、国際経済記者の職歴と定年後の知的関心が化学反応したもののように思える。

その著者の最新作が、この『…「熊野山略記」を読む』である。ご本人から送っていただいたので、ぱらぱらめくると漢字が多い。漢文がそのまま載っているページもある。高校時代の授業が思いだされる。これは困った、とても読み通せないな、と白旗を揚げた。

本書は、著者が「熊野山略記」(以下、「略記」)という古文書を読み込んで、熊野文化の起源を探ったものだ。「略記」は室町中期以前の作とみられ、「本宮・新宮・那智山から成る熊野三山の由来、聖地たる理由」などを三巻にまとめている。この『…「熊野山略記」を読む』は三部構成。第三部は「略記」原文、第二部はその漢文を日本文に読み下して解説したもの。著者は、第一部で「略記」を踏まえた自身の熊野観を披歴している。

そうか、と私は思った。第三部はもちろん、第二部も私には手に負えない。だったら、第一部だけを読もうではないか。第二部の読み下しと解説は著者が成し遂げた偉業だが、だからこそ準備不足の私にあれこれ言う資格はない――そんなふうに都合よく考えたのである。

第一部は「主人公の諸相」と題されている。ここで著者は、「略記」に登場する主な人物、神仏のあれこれを物語風に紹介する。一読してわかるのは、人物や神仏の国際性だ。飛行機もインターネットもない時代に、よく世界をこれだけ広くとらえられたものだと思う。

たとえば、熊野権現。熊野三山に祀られる神は、仏や菩薩の化身なので権現と呼ばれる。この神は「唐からはるばる飛来」したのだという。「飛来」だから、海路ではなく空路だ。唐の天台山(中国浙江省)→九州の英彦山(福岡大分県境)→四国の石鎚山→淡路島の諭鶴羽山とトランジットを繰り返し、南紀に到着。熊野に着いても、あちらの梢、こちらの峰と小飛行している。熊野人の想像力には、ほとんど今の航空便と同じ自由度があったのだ。

「略記」が「おおらか」なのは、別の箇所では異説を平気で載せていることだ。それによると、熊野権現の「飛来元」が、唐ではなく天竺(古代インド)の摩訶陁国(まがだこく)だという。東アジアにとどまらず、南アジアまで視野に入れているのである。

「略記」には、上記2説を折衷させた筋書きも出てくる。後に熊野権現となる慈悲大顕王が天竺の迦毘羅国を旅立ち、唐の天台山を経て、九州→四国→淡路島→紀伊国のルートをたどったというのだ。ちなみに、迦毘羅国は釈迦が生まれたとされる国である。

権現だけではない。那智山の青岸渡寺を開いた裸形上人も、もともとは海外の人らしい。「略記」によれば、「熊野川河口の地で長年修行を重ねた後に那智に移った」ことになっている。では、どこからその河口部にやって来たのか。著者は、この人がインド・ジャイナ教「裸行派」出身の行者だとする説や、「仁徳帝の時代、印度より一行六人と共に熊野浦に漂着」という青岸渡寺に伝わる説を紹介する。こちらは海路の来日だ。

熊野のある紀伊半島は、海を挟んで世界とひと続きだったと言ってよい。「略記」には、「南蛮」(エビス、「夷」「狄」「戎」「江賓主」とも書く)も登場する。「黒潮に乗って南方から来て、熊野灘沿岸に住み着いた『海の民』」だ。「南蛮」は敵役となり、征伐される側に回るのだが、その子孫たちが地元に根を張って「繁昌」して「氏人」になったという話も織り込まれている。著者はそこに、「熊野のおおらかさと懐の深さ」をみる。

さらに驚かされるのは、その南蛮制圧に寄与した「熊野三党」のルーツだ。「三党」は、榎本氏、宇井氏、鈴木氏を名乗る平安初期の豪族だ。「略記」では、それぞれの家系をさかのぼると天竺に行き着くという話が綴られている。天竺の慈悲大顕王、即ち、後の熊野権現は来日に先立って家臣を日本列島へ送り込んでいた。その子孫たちが熊野の豪族として根づいた、というのだ。著者があきれるように、「略記」で「一番突飛」な話ではある。

この話が本当なら、すごいことだ。1200年ほど昔、日本列島を舞台に海外にルーツをもつ二派が相争ったことになる。片や「南蛮」、こなた「天竺」。両者が交差した場が熊野というわけだ。その展開は、純血主義志向の歴史観からは大きく外れている。

もちろん、これは伝説半分の、眉に唾をつけて聞くべき物語だ。ただ、たとえ眉唾ではあっても、それが日本の政治中心からさほど遠くない一角に史話として生き延びてきたという事実は、心にとめるべきだろう。そのことは、私が熊野の闇で、あるいは熊野の森で、ここは〈ふつうの日本〉とは違うのだ、と囁かれたように感じた記憶と響きあう。と同時に、来訪者を拒まない気風が心地よかったという体験を思い起こさせる。

著者はあとがきで、「熊野の地が私を『ほっとさせる』のは、本音や混沌(坩堝のような入り混じり)をあえて隠したり、避けようとしたりしない、その有り様に惹かれるからだ」と打ち明けている。そんな空気を日々吸い込んでいる先輩を、私はうらやましく思う。
*本文にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月16日公開、通算583回
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星屑の宵、テレビに心躍った

今週の書物/
『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』
五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊

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テレビがつまらないというのは高齢世代ならではの嘆きのようだ。若い世代は、周りにテレビに代わるものがあふれている。もはや、テレビに求めるものはないということか。

私が特につまらないと思うのは、いわゆるバラエティーだ。ひな壇に出演者が10人ほどずらりと並ぶ。顔ぶれを見ると、芸人と呼ばれる人々がいる。グラビア系タレントもいれば、タレント化した医師や弁護士、元政治家もいる。だれかが喋れば、みんなが笑う。賑やかだ。それを、スタジオの色調が増幅する。ひな壇後方の衝立は、なぜかたいてい極彩色。見ている側の聴覚と視覚に騒々しさのかたまりが、どっと飛び込んでくる。

私は、テレビをつけてこの場面に出くわすと、すぐ撤退する。だが最近は、チャンネルを替えても似たり寄ったりのことが多い。そんなときは致し方なく〈バラエティー(多様性)〉をのぞくことになるが、その名とは裏腹に画一的であることこのうえない。

話題は、芸能界の恋話から政界のゴタゴタ、日常の些事までさまざまのようだが、流れが型にはまっているのだ。だれかがひとり、意表を突く発言をする。それに対するツッコミが別のだれかから飛んでくる。ここでどっと笑い声が起こって「そっちから来ますか」などの合いの手が入る。ツッコミとはいえ不適切発言は回避されており、最後は予定調和に落ち着く――視聴者は、どこかの職場の飲み会を居酒屋で聞かされているような気分になる。

「テレビがつまらない」という言葉は、今春話題にした『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)にも出てくる。バラエティーだけを語っているわけではなさそうだが、そのくだりを引用しよう。(2021年4月16日付「コロナ時代の嘘をあばく本の質感」)

「テレビがつまらない/どのチャンネルもつまらない/そんなわけで仕方なく/外国の番組にチャンネルを合わせたりする」。わかる、わかる。私も去年はCNNの大統領選報道をずいぶん見ました。九島さんは、テレビ業界人の「家にも ろくに帰れない」ほどの忙しさを慮ってこうも書く。「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そうで/そんな状態で作る番組が/おもしろいわけはない」(/は改行)

テレビ批判は、さらに続く。「スポンサーがお金を払いたくなる番組は/好感度が高く 視聴率が高いような/要するに見ても見なくてもいい/あたりさわりのない番組なのだ」。なるほど、九島さんの言う通りだ。まず、「好感度」と「視聴率」をものさしに出演者を選ぶ。その一群に「あたりさわりのない」テーマで語りあってもらい、「見ても見なくてもいい」予定調和を電波に載せる――これぞ、今のバラエティー番組ではないか。

で、今週の1冊は『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』(五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊)。「シャボン玉ホリデー」は1961~72年、日本テレビ系列で放映された人気バラエティー。「スターダスト」(星屑)は、そのエンディングで歌われたジャズの曲名だ。この番組のことは当欄の前身でも、ちょっと触れたことがある。(「本読み by chance」2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)

伝説の番組を郷愁たっぷりに振り返った裏話と言ってしまえば、それまでだ。だが、この本には史料としての価値がある。1990年代半ばに関係者の話を聴いているからだ。現時点、番組にかかわった人に物故者は少なくない。主役のザ・ピーナッツ2人とクレージーキャッツ7人(当時のメンバー)だけを見ても8人が世を去った。健在の人も今はもう1960年代の記憶がぼやけているはずだ。90年代は、本にするのにちょうどよい頃合いだった。

編著者は1943年生まれ。日本テレビ社員として、歌番組やバラエティーのディレクターやプロデューサーを務めた人だ。「シャボン玉…」には1967年の入社直後からアシスタントディレクターとしてかかわったというが、この番組の制作現場を放映期間のすべてにわたって間近に見ているわけではない。したがって、本書の大半は取材にもとづく。そのこともあってか、編著者自身も本文では三人称の証言者として登場する。

この本の史料価値をさらに高めているのが、番組の場面を切りとったような写真の数々。巻頭にはカラーグラビアもある。巻末には各回のタイトルやゲスト出演者、視聴率などを記載した資料も載っている。本文や章扉には、台本を再現したらしい記述も出てくる。

それらを眺めているだけで、私のような世代には番組の空気感が蘇ってくる。まずは、オープニングのコント。どうということのないネタが多かった気がするが、最後に牛の鳴き声がモーッと聞こえてきて一同うろたえる。そして、画面にシャボン玉が飛び交い、ピーナッツの歌うテーマソングが流れる。前田武彦作詞の歌にあった「丸いすてきな 夢ね」というひとことが印象的だった。それが、この番組のすべてを言い表していたようにも思う。

ちなみに、なぜシャボン玉かと言えば、スポンサーが石鹸会社だったからだ。現社名で言えば、牛乳石鹸共進社(本社・大阪市)。モーッの理由もわかる。日曜日午後6時半~7時の時間枠を日用品メーカー1社が10年余も支えた。これだけでもすごいことだ。

この導入部が終わると、歌とコントが交互に繰り広げられる。歌い手はピーナッツだけではない。ゲストたちがいる。持ち歌も歌ったが、海外のヒット曲やジャズのスタンダードナンバーをカバーすることが多かったように思う。さらに、これは今回、掲載写真を見ていて思いだしたことだが、歌は歌だけではなかった。ピーナッツが男女のダンサーを従え、ミュージカル風の振り付けで踊りながら歌うのが定番のメニューだった。

1960年代前半、日曜夜の「一般家庭の典型的なテレビ鑑賞の流れ」が「てなもんや三度笠」→「シャボン玉ホリデー」→「隠密剣士」→「ポパイ」だったことが、この本の脚注にも記されている。わが家もまったくそうだった。当時、私のような思春期男子は、クレージーのギャグに笑い転げながら、ピーナッツのダンスに内心、胸をときめかしたものだ。巻末資料で視聴率の記録を見ても、20%台の数字を稼ぐ回が多かったことがわかる。

この本でわかるのは、「シャボン玉…」が手間をかけた番組であることだ。準レギュラーの中尾ミエは、こう証言する。「まず録音の日があって、振付の日があって……。で、水曜が本番だから、三日はリハーサルやってた」。週1回30分のための週3日である。収録日は、午後1時にピーナッツのダンスリハーサル、午後2時にその本番、午後6時にクレージーがスタジオに入り、翌日午前3~4時まで録画撮り――そんなこともあったという。

ピーナッツについて言えば、「シャボン玉…」への起用が決まった時点からハードな日課が始まっていたようだ。振付師が振り返る。「当時のピーナッツはダンスができなかった」「連日朝の六時ぐらいからレッスンしてネ」「ぜんぜん、へこたれませんでしたネ」

制作陣も同様だ。若手ディレクターと新進放送作家の共同作業を描いたくだりが、その熱気を伝えてくれる。深夜、放送作家にディレクターから電話がかかってくる。提出していた台本は「非常に面白い」が「少し直したい」という。メールはもちろん、ファクスもなかったころだ。代々木の「連れ込み旅館」に呼びだされる。男子二人が一室にこもり、「ヒザ突き合わせながら直した」。これが、作家の「シャボン玉…」デビュー作になった。

「シャボン玉…」は、高度成長期という1960~70年代の空気に支配されていたのだなあ、とつくづく思う。出演者やスタッフが24時間、ほぼすきまなく働いていたというのは、あのころのモーレツサラリーマン流だ。スタジオでは「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そう」だったのだろう。それなのに、あの番組を「つまらない」と感じたことはない。逆に、私たちの心をつかんで放さなかったのである。

理由は何だろうか。この本に一つ、ヒントがある。植木等の専属運転手から抜擢されてコメディアンになった小松政夫の言葉だ。「何が良かったって、ボクらは大人のグループにつけたってェのは大変なコトですよネ」――周りを見渡すと、付き人たちに「罵詈雑言」を浴びせるようなタレントが多かったが、クレージーに限って、そんなことはなかったという。師弟関係にはあったのだろうが、徒弟制度的でも体育会風でもなかったのである。

たとえば、小松の谷啓評。谷を相手に「面白い話」をすると、まずは「喜んで聞いてくれる」。それが「励みになるんですネ、ボクらにとって」。そして、谷自身がコントを考える段になると「あンときにお前と話したアレをやろう、なんて言ってくれたりしてネ」。

見事な水平目線だ。これは、クレージーキャッツがジャズ奏者の集まりだからではないか。メンバーの犬塚弘は、クレージーの強みをこう分析している。「決められたことをやらない、とにかく壊していく」「ソロになると自分の好きなことをやる」「アドリブ、即興でいろんなことをやる」「だから自分の個性とか、そういうのが出た」――ジャズに象徴される戦後精神がテレビのエンタメに初めて結実したのが「シャボン玉…」だったように私は思う。

で、もう一度、今なぜテレビがつまらないのか。業界は今も「シャボン玉…」のころと同様に忙しい。だが、決められたことを壊す突破力も、好きなことにこだわるわがままも、アドリブであっと言わせる機知も奪われてしまったのではないか。そう思われてならない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月11日公開、同月12日最終更新、通算578回
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