宗匠のかくも過激な歌自伝

今週の書物/
歌集『202X
藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊

時の流れ

趣味で俳句をつくっていると、短歌がぜいたくに思えてくる。7+7=14音分だけ言いたいことが言える、季語も気にしないでよい――素人には、この自由度がうらやましい。だが、句づくりを重ねていると、これらの制約が俳句の醍醐味らしいとわかってくる。

翻って、短歌の魅力は何か。俳句と比べてみよう。俳句は原則5+7+5=17音なので、言葉をどう削り込むかに作者は腐心する。削られやすいのは、詠み手の内面描写。物体をどんと置く、風景を一望する、出来事にめぐり遭う……それをどう受けとめるかは受け手の側に委ねましょう、といった感がある。ところが短歌は違う。作者の心模様を包み隠さずに表現できる。ときに物体や風景や出来事が内面と絡みあう様子まで露わになるのだ。

ただ、いにしえの和歌では内面と絡みあうものが自然界の事物であることが多かった。詠み手はまず花鳥風月を愛で、それに重ねるように心情を紡いでいたように思う。ところが、現代短歌は違う。作者は人の世のすべてを視野にとり込んでいる。

つまりは、任意性が大きくなったのだ。家庭内の些事が詠まれる。職場の日常が題材になる。街の景色が素描されることもある。そうかと思えば、いきなり国際情勢のニュースが出てきたりする。あるいは、社会の矛盾が切りだされることも……。ただ、日々の暮らしを描いてもエッセイではない。時事問題に触れても新聞のコラムとは異なる。なぜなら、散文ではなく韻文だからだ。短歌はあくまで詩であって、ふつうの文章ではない。

で、今週は、当欄として初めて歌集を話題にする。『202X』(藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊)。著者は、前衛短歌の系譜に連なる著名な歌人。短歌作品の合間に織り込まれた自己紹介文をもとに、ウィキペディアも参照しながら略歴を紹介しよう。1952年、福岡生まれ。幼少期から少年期にかけて東京・下町に暮らし、大学を卒業後、ニッポン放送に就職。1990年に「ラジオ・デイズ」30首で短歌研究新人賞を受けている。

実は著者は、私にとっては俳句の先生だ。去年暮れの当欄に書いたように、私はある句会に参加しており、その会に宗匠としておいでいただいている(2021年12月17日付「友の句集、鳥が運ぶ回想の種子」)。すなわち、著者は俳人でもあるのだ。拙稿「友の句集…」に対して感想メールをくださり、併せてご褒美のように、ご自身の歌集を送っていただいた。畏れ多いことだが、そこで今週はその歌集をご紹介することにした。

まずは、宗匠(以下、「作者」と記述)が育った時代の空気から――。
散髪屋にて読む「少年サンデー」の「海の王子」を「スリル博士」を
ラジオから聞こえる歌に声合わせ「黒いはなびら、静かに散った」
『少年サンデー』の創刊も「黒い花びら」の大ヒットも、1959年だった。その春、作者も私も小学2年生。理髪店での楽しみは、長椅子で順番を待つ間の漫画本ではなかったか。店のラジオからは歌謡番組が流れていた。たぶん、水原弘のドスのきいたあの声も。

ミラクルボイス練習したる少年ぞ日光写真の少年ジェット
同じ年、テレビドラマ「少年ジェット」の放映が始まった。私たちはジェットをまねて「ウーヤーター」の奇声を発したものだ。そういえば、雑誌の付録に「日光写真」というものがあった。ブラウン管であれ感光紙であれ、像が浮かびあがればそれだけで嬉しかった。

次に、作者が父を詠んだ歌を2首。
後楽園球場巨人国鉄戦見つつホットドッグを父と食みしよ
野球馬鹿とぞ思いおりしに父親の遺品の中の『共産党宣言』
私たちの父親はだれも、戦中戦後をくぐり抜けている。だが、父の姿が記憶に鮮明なのは、巨人でONが打ち、国鉄で金田が投げていたころからだ。高度成長を担った父も青年期には左翼本をかじっていたのか?  焼け跡の青空は、私たちの世代の手に届かない。

作者の原風景は、東京・深川である。
縦横に運河ははしり右左東西南北橋は架かるを
同級生チノ・タケシ君イカダから運河に落ちて溺死せし夏
子どもは水が好き。私は東京西郊で育ったので、身近な水辺は宅地の下水を集める農業用水だった。ヘドロまみれで遊んだこともある。運河の町では、その水がときに牙をむく。歌集にはチノ君の母の号泣を詠んだ歌も。心に刻まれた友の名は永遠に消えない。

橋渡り北へ向かえば旧洲崎遊郭にしてそのパラダイス
この歌集には運河周辺の夕景を描いた一文も織り込まれている。昭和32(1957)年、作者は5歳。「『洲パラダイス崎』という順番に字が並んでいる洲崎パラダイスのネオンが点る」と「逃げるように洲崎弁天の境内を抜けて」帰宅した。1957年は売春防止法の施行年。猶予期間を経て翌年、「遊郭」は消滅した。今思えば、これは日本社会にとって、終戦に比するほどの転換点ではなかったか。作者は物心もつかぬまま、それを目撃したのだ。

青春期にも、私と共有する記憶がある。
銀幕に孤独孤絶のヒロインの凛々しき黒衣まばゆき裸身
国家こそ暴力装置この闇にさそりの毒のみなぎる棘を
「女囚さそり」と題する章に収められた2首。章の末尾で作者は、1972~73年に封切られた映画「女囚さそり」三部作(伊藤俊也監督、東映)への共感を綴っている。「梶芽衣子扮する女囚松島ナミが国家権力を象徴する刑務官や警察官僚たちから凄絶なリンチを受けながら、捨て身の反撃で復讐をなしとげる」――その構図は、当時の若者の心情をくすぐった。私自身もオールナイト上映を、どこかの町の場末の映画館で観た記憶がある。

それでは、今の日本社会はどうか。
或る朝の目覚めの後の悲傷とて歌人十人処刑のニュース
昨今、朝方のテレビ画面に流れるニュース速報に死刑執行の発表がある。報道から、凶悪犯罪を許さないとの決意は伝わってくるが、国家が人間の生命を絶つことへの躊躇は感じとれない。作者は、197X年と202X年の落差にたじろいでいるように見える。

オーウェルの『一九八四年』が日常と混濁し溶解し我も溶けるを
この歌集の通奏低音はジョージ・オーウェル『一九八四年』(1949年刊)だ。このディストピア小説を作者が読んだのは1968年。高校生だった。その時点で「近い未来にこんな統制された社会が実現するとは思えなかった」と「あとがき」にはある。

『一九八四年』の管理社会を支配するのは、「ビッグ・ブラザー」という独裁者だ。実在しているのかどうかさえ曖昧な存在だが、頭に思い描けるイメージはある。202X年の管理社会はもっと不気味だ。ロボットや端末機器がペットのような顔をしてなついてくる。
それからはネコにルンバに監視されイヌにスマホに密告されよ

“Good Afternoon TOKYO”と題する章には、飼いならされた私たちの自画像がある。喫茶店は、おひとりさま席が並ぶコーヒーショップに取って代わり、男も女も「画面」と対話している。「死を忘れるな」と言われるまでもなく生気を欠き、沈滞のなかにいる。
まずは「タリーズにて」――
カフェオレを飲む間にスマホ画面にはピエール瀧の動画がよぎる
次いで「エクセルシオールカフェにて」――
一心にパソコン画面凝視する男女女男男女男メメント・モリぞ

最後に、切りとられた情景が私の心をとらえて離さない1首。
店頭の均一本は雨に濡れ『ローザ・ルクセンブルクの手紙』
革命家ルクセンブルクの書簡集は、岩波文庫にも収められている。もし古書店の100円均一コーナーで見つけたら、私もきっと手にとることだろう。木箱にぎっしり詰め込まれ、吹きつける風雨にさらされた背表紙が、彼女の抵抗精神とダブって見えるからだ。

前述したように、作者はニッポン放送に勤めていた。その後、フジテレビに移り、扶桑社では執行役員も務めた。これはすなわち、政治的に右寄りといわれるフジサンケイグループの一員だったということだ。その人が青春期、「女囚さそり」に打ち震わせた心を2017年の退職までもちつづけた。葛藤は、歌集の端々からもうかがえる。敬意をもって推察すれば、作者はそぼ濡れたローザ本に自身の姿を重ねていたのではないだろうか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月21日公開、通算610回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
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村上春樹の私小説的反私小説

今週の書物/
『一人称単数』
村上春樹著、文藝春秋社、2020年刊

1968年、セ・リーグ

ものを書く仕事に就いた者の常として、私にも作家志望のころがあった。学生時代、文芸サークルの部室に出入りしたことがある。友人たちとガリ版刷りの同人誌を出したこともある。思い返してみれば、20歳前後のころに会社勤めするつもりなどさらさらなかった。

結果としては会社員になった。ただ、就職先が新聞社で、あのころはほかの業界よりも多少は自由の空気が漂っていたから、内心の作家志望は捨てなかった。とはいえ新聞記者という職種のせわしなさは半端ではないから、ふだんはそんな野心をすっかり忘れている。帰宅後の深夜、こっそり小説を書きためる余裕もない。時折、このまま記者を続けるのかなあという迷いが心に浮かぶとき、自分が作家志望であることを再確認していたのだ。

私が「作家」を思い浮かべるとき、それは、ほとんど「小説家」と同義だった。私と同世代の新聞記者が駆けだしのころ、メディア界にはノンフィクション旋風が吹いていたから、記者の延長線上にノンフィクション作家を位置づけ、それを最終ゴールと考える人もいた。だが、私は違った。心のどこかで、事実に即してものを書く自分は世を忍ぶ仮の姿、と思っていたのだ。真に書くべきことは虚構のなかにこそある、とでもいうように。

その意味では、もはや私は作家志望ではない。野心は、いつのまにか雲散霧消した。たぶん、年齢のせいだろう。残された時間は限られている。ゼロから虚構を築くことにかまけてはいられない。自身の記憶を紡いで、そこから想念を膨らませていく――自分から逃れられないのが人間の宿命ならば、そのほうが自然ではないか。そう思うようになった今、この心境に響きあう短編小説集に出あった。当代きっての人気作家のものだ。

『一人称単数』(村上春樹著、文藝春秋社、2020年刊)。2018~2020年に『文學界』誌に発表された7編に、表題作の書き下ろし1編を加えた作品集。著者が古希にさしかかり、そして70代に入ったころの作品群である。当欄は去年、『猫を棄てる――父親について語るとき』(文藝春秋社、2020年刊)という作品――小説ではなく「文章」――をとりあげたが、それと似た空気感もある(2020年10月2日付「村上春樹で思う父子という関係

この短編集所収の作品群を一つに分類するのは、なかなか難しい。すぐに思いつくのは、私小説だ。もう一つ思い浮かぶのは、自伝である。ただ、よく読んでみれば、そのどちらとも言えない。それはなぜか? 今回は、このあたりから話を切りだしてみよう。

まず、なぜ私小説と言えないのか。書名『一人称単数』は、私小説性を暗示しているように見える。一連の作品も「僕」や「ぼく」や「私」の視点で書かれている。ただ、それらに著者の実体験が投影されている度合いは、まちまちだ。いくつかの作品では、私小説を支えるリアリズムが完全に吹っ飛んでしまっている。その空想体験が著者自身にあるのだとすれば私小説と言えなくもないが、ふつうの私小説とはまったく趣が異なる。

私小説らしくないのは、それだけではない。私小説らしい私小説では、作家が一人称で青春期の挫折や中年期の惑いなどを赤裸々に語る。「生きざま」と呼ばれるものが現在進行形で提示されるのだ。だがこの本では、過去を遠目に眺めている作品が目立つ。

では、自伝の変種なのか。どうも、それとも違う。自伝なら記述が系統だっているはずだが、そうとは言えない。もちろん、当欄が推した『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、晶文社刊)のような例外はある(2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。あの本は、植草がメディアに載せた文章を寄せ集めたものだったが、その組み立て方が本人の気ままな生き方にぴったり合うものだからこそ、「自伝」と呼べたのだ。

……と、ここまで書いてきて思うのは、稀代のストーリーテラーであっても齢七十ともなると自分が生きてきた現実の重みが増してくるのだなあ、ということだ。私的リアリズムと作家としての想像力が釣りあったところに、これらの作品群があるとは言えないか。

所収作品のいくつかを覗いてみよう。最初にとりあげたいのは「『ヤクルト・スワローズ詩集』」という一編。「一九六八年、この年に村上春樹がサンケイ・アトムズのファンになった」(サンケイ・アトムズはヤクルト・スワローズの前身)とあるから、著者の個人史に即している。「僕」はそのころから神宮球場の外野席――座席がなく芝生の斜面だった――に腰を下ろし、試合を観ながら「暇つぶしに詩のようなものをノートに書き留めていた」。

1982年、「僕」はそれらを「半ば自費出版」で世に出した。「『羊をめぐる冒険』を書き上げる少し前」とあるから、これも個人史と矛盾しない。収められたのはどんな詩か。「八回の表/1対9(だかなんだか)でスワローズは負けていた」――この球団は下位低迷の時代が長かった。「阪神のラインバックのお尻は/均整が取れていて、自然な好感が持てる」(/は改行)――ラインバックがいたのもあの時代だ。現実のプロ野球史も踏襲している。

実は『ヤクルト・スワローズ詩集』は、著者が折にふれて話題にしてきた。その出版の真偽は、村上春樹ファンの間で永遠の謎であるようなのだ。そんな出版物の幻影がこの短編集にも顔をのぞかせた。時を重ねれば虚も実になる、とでも言うように……。

この作品の対極にあるのが「品川猿の告白」か。「僕」が「群馬県M*温泉」のさびれた宿で湯に浸かっていると、年老いた猿が浴室に入ってきて「背中をお流ししましょうか?」と声を掛けてくる。猿は言う。自分は東京・品川の御殿山近辺で大学教師の家に住んでいた。飼い主はクラシック音楽が好きで、自分もその影響を受けた。ブルックナーで言えば「七番」の「第三楽章」が好き――。これは、どうみても私小説とも自伝とも言い難い。

「僕」は深夜、品川猿を部屋に招き、ビールを飲みながら身の上話を聞く。その猿には、人間の女性に恋して「名前を盗む」欲求があった。免許証などをこっそり手に入れ、名前を見つめて念じる――そんな「プラトニックな行為」である。奇想天外な小話としてはおもしろい。ただ、この短編はそれで終わらない。「僕」は5年ほどして、その嘘っぽさが反転するような奇妙な体験談に出あう。もしかしたら、品川猿は実在するのかもしれない!

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という一編でも虚が紛れ込む。チャーリー・パーカー(1920~1955)はジャズ界では伝説のアルトサックス奏者で、バードの愛称で呼ばれる。「僕」は学生時代、バードが実は1960年代も生き延びていて、ボサノヴァ奏者と組んでLPを出したという「架空のレコード批評」を大学の文芸誌に寄稿した。編集長は、その「もっともらしいでっちあげ」をすっかり本気にしてしまったという。

15年が過ぎて「僕」は、その「若き日の無責任で気楽なジョーク」のしっぺ返しに遭う。舞台はニューヨーク。宿のホテルを出てイースト14丁目界隈をぶらつき、中古レコード店をのぞく……そこで何を見つけたかは、だいたい察しがつくだろう。

心にズシンと響くのは、最後に収められた表題作。「私」がバーでミステリーを読みながらカクテルを飲んでいると、一人の女性客が話しかけてくる。「そんなことをしていて、なにか愉しい?」。言葉づかいが挑発めいている。だが、誘っているのではない。「悪意」もしくは「敵対する意識」が感じられる。「あなたのことを存じ上げていましたっけ?」と聞きただすと「私はあなたのお友だちの、お友だちなの」という答えが返ってくる。

女性客は「私」を責めたてる。彼女の友だちは、そして彼女自身も「不愉快に思っている」「思い当たることはあるはずよ」「三年前に、どこかの水辺であったことを」……。「私」には「身に覚えのない不当な糾弾」だ。だが、「実際の私ではない私」が3年前に水辺で起こした悪事を暴かれ、「私の中にある私自身のあずかり知らない何か」が可視化されそうだという恐怖感が、「私」にはある。ここでは、「私」の自己同一性が揺らいでいる。

この短編集では、作家村上春樹が生きてきた実在の時間軸にいくつもの架空の小話が絡みついている。人間に恋する猿に出会ったという妄想も、バードがボサノヴァを吹いたというでっちあげも、3年前の出来事をなじる不意打ちも……どれもこれも、事実と虚構の境目がぼやけている。しかも、その境目は時の流れとともに微妙にずれ動いているようにも見える。もしかして70歳になるとは、そんな虚実の経年変化を実感することなのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月5日公開、通算599回
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平和賞で記者が褒められたワケ

今週の書物/
ノーベル平和賞2021年報道資料
https://www.nobelprize.org/

発表文

当欄は今年、ノーベル平和賞の報道資料はパスしようと思っていた。だが、そうもいかなくなった。異例なことに、ジャーナリストが受賞者に選ばれたからだ。最近、ジャーナリストはめったに褒められない。テレビドラマでは「元新聞記者のフリージャーナリスト」(私と同じ境遇ではないか!)が一つの定番キャラクターになっていて、ゆすりめいた悪行に手を染めたりする。そんな時代、ジャーナリストにどんな褒め方があるのか?

中身に入るまえに、私がなぜ、平和賞の話題に及び腰だったかを打ち明けておこう。当欄の前身は2019年、平和賞発表の報道資料をとりあげている。このときの受賞者は、エチオピアの現役首相アビー・アハメド・アリ氏。隣国との紛争を和平合意に導いたことが称えられた。ところが今、その評価はガタ落ちだ。国内で少数民族抑圧の政策をとっているらしい。平和賞は真に受けないほうがよい。これが、私には小さなトラウマとなった。

その拙稿をもう一度開いた(「本読み by chance」2019年10月18日付「平和賞があえて政治家を選んだわけ」)。私はそこで、ノルウェー・ノーベル委員会の発表文(announcement)から興味深い記述を引いている。委員会は「今年の授賞は早すぎると考える人々もいることだろう」と拙速感が否めないことを堂々と認め、そのうえで、アビー氏の選考時点での努力は「激励を必要としている」と強調していたのである。

まことに平和賞の選考は難しい。政治家は権力を手にしているので、世界を大きく動かせる。動かす方向が平和を指しているなら、平和賞の受賞者になりやすい。ところが、受賞後に権力を逆方向に使ったとたん、人々の間には落胆が広がり、ノーベル賞そのものに対しても不信感が生まれる。そういう事例はこれまでにもあった。それがもう一つ、2019年に加わったのだ。ノーベル委員会はきっと、政治家への授賞に慎重になっているのだろう。

で、今年はジャーナリストである。皮肉な言い方をすれば、これならノーベル委員会にとっても比較的安全だ。記者や言論人一人ひとりの手中には、世界を大きく動かす権力などない。自分の力だけでは平和を実現できない半面、戦争に導く心配もない。

ジャーナリストにできることは、平和とは逆方向の動きに抵抗することだ。今年の平和賞も、そんな言論活動を拾いあげた。ノーベル委員会が受賞者に選んだのは、フィリピンのネットメディア「ラップラー」代表マリア・レッサさんと、ロシアの独立系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」編集長ドミトリー・ムラトフさんの二人だ。「民主主義と恒久平和の前提条件である表現の自由を守り抜こうとする奮闘」を授賞理由に挙げている。

それぞれの奮闘ぶりを、今回の発表文から要約してみよう。まずはレッサさんから。「『ラップラー』は、物議を醸すほど残忍なドゥテルテ政権の麻薬撲滅作戦に批判の目を向けた」とある。取り締まりによる死者数があまりにも多いので、その作戦は政権が「自国民に対して仕掛けた戦争のような様相を呈した」という。この着眼に私は目を見張った。ジャーナリストは、こういう報道に対してこそ称えられるべきではないか。

それは、こういうことだ。一般論で言えば、麻薬規制には正当性がある。麻薬は常習者の心身を蝕む一方、密売などによって犯罪をはびこらせるからだ。だから政権の取り締まりは、善が悪を退治する構図としてとらえられる。世の中には受け入れられやすいのだ。

これを、今のメディア状況に結びつけてみよう。ソーシャルメディアでは物事の善悪をスパッと割り切る話が拡散しやすい。善は善、悪は悪、善が悪をやっつけているときにうるさいことを言うな――そんな政権の言い分がまかり通ることになる。だが、取り締まりの名のもとに人命が紙くず同然に打ち捨てられてよいわけはない。レッサさんは毅然として、その圧政に抗したのである。これぞ、ジャーナリズムを職業とする記者の役目ではないか。

記者は、ソーシャルメディアとも対峙しているのだ。発表文は、レッサさんと「ラップラー」のもう一つの功績も忘れていない。「ソーシャルメディアがフェイクニュースの拡散や対抗勢力に対する嫌がらせ、世論操作にどう使われているかについても報道してきた」

一方、ムラトフさんの業績はこう書かれている。「『ノーバヤ・ガゼータ』は1993年の創刊以来、批判的な記事を出しつづけてきた。そのテーマは政治腐敗、警察暴力、不法逮捕、選挙不正、“フェイクニュース発信”から、ロシア軍の国内外での武力行使にまで及ぶ」

発表文によれば、「ノーバヤ・ガゼータ」紙は嫌がらせや脅し、暴力にさらされ、これまでに6人の記者が殺害されている。にもかかわらず、ムラトフさんは新聞の独立性を放棄しなかった。死守してきたのは、ジャーナリストに与えられた「書きたいことなら、なにについても、どんなことでも書くことができる」という権利だ。もちろんそれは、「ジャーナリズムの職業的、倫理的な基準に従う限り」という条件付きではあるのだが。

裏を返せば、こうも言えるだろう。ジャーナリストは厳しい自己規制の基準に縛られるのと引き換えに、法律であっても批判できる立場にあるということだ。コンプライスの時代に、ただ「法令遵守」を唱えていればよいわけではない。

今年の平和賞は、世論がわかりやすい話に流れがちな世界の現況を鋭く見抜いた。一応は民主的に選ばれた政権がソーシャルメディアの拡散力に乗ってわかりやすい構図をつくり、強権を振るっている。それに対するジャーナリズムの抵抗が十分に成功しているとまでは言えない。だが、この発表文で、ジャーナリズムの存在理由が高まっているという気はしてきた。職業人としての自信を喪失気味の元新聞記者は今、幾分心を癒されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月15日公開、同日更新、通算596回
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アルバムにしたい本を見つけた

今週の書物/
『東京懐かし写真帖』
秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊

カメラ

水害が頻発している。最近は、その怖さがすぐニュース映像になる。たとえば、濁流が家々を押し流す場面。住人はすでに現場から避難していると聞いても気がかりはある。一瞬、頭をよぎるのは、家を出るときにアルバムを持ちだせただろうか、ということだ。

アルバムに対する思いは、高齢の人ほど強い。写真が画像データとは呼ばれなかった時代、それをUSBメモリーやSDカードに保存したり、ネットの雲(クラウド)に載っけたりはできなかった。だから、紙焼き写真の値打ちは今よりずっと高かったのだ。

2011年の東日本大震災では、津波にさらわれた写真を復元するボランティア活動が広がった。被災者は、さぞうれしかっただろう。失いかけた写真は、家庭が営まれた記録であり、家族が生きた証でもあった。とくに、その家族が帰らぬ人となっていたならば……。

アルバムは特別な存在なのだ。かつて「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、TBS系列、1977年)というテレビドラマが人々の心をとらえたのも、家族の結びつきの危うさを、家屋が流されれば消えてしまうアルバムのはかなさに重ねあわせたからだろう。

と、ここまで書いてきて、自身のことを顧みるとゾッとする。私の家は幸いにも震災にも火災にも水害にも遭っていないが、幼少期のアルバムをどこに仕舞っているかがわからない。ただ、ずぼらなのだ。探そうとは思うが、もう散逸しているかもしれない。

色あせた写真には二つの意義がある。一つは、自分自身の記録という側面だ。家族でこんなところへ旅した、親戚にはこんなおじさんやおばさんがいた……というようなことだ。もう一つは、時代の記憶。あのころはこんな服が流行っていた、町にはこんな乗りものが走っていた……といったことである。「私」と「公」の過去を「こんな」だったね、と実感させてくれるわけだ。アルバムには、そんないくつもの「こんな」が詰め込まれている。

「私」についていえば、アルバムの代替品を見つけるのは難しい。だが、「公」は違う。世相をとらえることに長けた写真家が一人いれば、その作品群を通じて「あのころ」の「こんな」を蘇らせることができる。で、私は最近、そんな作品集に出あった。

書名は『東京懐かし写真帖』(秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊)。著者は1937年生まれの写真家。東京・浅草橋で家業の洋食店を営みながら、仕事の合間に東京都内、とりわけ下町の風景やそこに生きる人々の姿を撮ってきた。まえがきによると、「カメラを始めたのは15歳」で「撮り溜めたネガは数万枚」に及ぶ。「写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらい」なのだ。

編者名からもわかるように、この本は読売新聞の連載をもとにしている。都内版の一つ、「都民版」に週1回のペースで載ったものから、2011~2018年の72本を選んだという。読売新聞記者のあとがきによれば、担当記者は毎週、秋山さんの洋食店に足を運ぶ。写真1枚1枚について、じっくり話を聞くためだ。そして「『一本指打法』でしかキーボードをたたけない秋山さんに代わり記事を書く」。だから本文からは、語りの口調が感じとれる。

その文章には、秋山さんの被写体に対する思いがあふれている。ただ、この本の主役は、あくまでも写真だ。1編に2枚ほど載せているから全部で百数十枚。ただ、写真は文章のように、これはという言葉を引用できない。当欄では何をどう書こうか。さあ、困った。

ふと思いついたのは、ここにある写真を私本位の視点で味わってみる、ということだ。秋山さんが写真を始めたのが1952年だとすれば、それは私が生まれた翌年だ。実際、作品の撮影年は、多くが私の幼年期から少年期、青年期に重なっている。「公」の記憶ということなら、この本は「アルバム」の役目を果たしてくれるのだ。だから当欄では、作品群を自分の写真のように眺め、あのころは「こんな」だった、と懐旧に耽ることにしよう。

最初にニヤッとしたのは、「羽根をさがす子供」(1957年)だ。男の子たちが路地裏でバドミントンをしていたら、羽根が板塀を越え、道沿いの家の庭に飛び込んだ。一人は、身をかがめた友だちの背中に乗り、背伸びして塀の向こうを見下ろしている。ほかの子たちも、しゃがみ込んで板の隙間から庭を覗いている。そういえばあのころ、ゴムまりの野球で塀越えのファウルを飛ばし、「ボール、とらせてください」と大声を出すことがよくあった。

子どもたちが遊ぶ写真には、ローラースケート(1957年)、ベーゴマ(1966年)、馬跳び(1974年)、相撲(1980年)、縁台将棋(1983年)などがある。どれも路上の光景だ。道の真ん中で、女の子が馬をぴょんと跳び越えている。路面に、ひしゃげた土俵が白線で描かれている。あのころ、私たちは「道路で遊ぶな」と注意されても言うことを聞かなかった。今は車が通らない路地裏でも、子どもたちの遊び声がほとんど聞かれない。

男の子が独り、ハーモニカを吹いている写真もある(1957年)。格子縞のジャンパーの胸元から、猫の顔がのぞいている。愛猫をすっぽりくるんで暖めているのか、それとも、愛猫の体温で自分が暖まりたいのか。寒い季節であることだけは確かだ。それなのに、その子は戸外にいる。気になるのは、背後に見える波板らしき物体だ。あのころは、ありあわせの材木やトタン板で即製した建物があちこちにあった。これも、そんな物置小屋ではないか。

夕暮れどき、子どもたちが連れだって家路の途上にある写真も2枚載っている。どちらも橋の上。片方の写真(1965年)では、向こう岸に工場の煙突が並び、煙がもくもくと上がっている。もう一方(1959年)は、男の子と女の子が総勢7人。はだしの子は靴を手にぶら下げている。「工事現場の水たまりで、泥だらけになって遊んでいたんだ」と秋山さん。あのころ「水たまり」は、それだけで子どもたちの遊びを成立させた。

道路を生活の場にしていたのは、子どもだけではない。大人も、それをただの通り道とは考えていなかった。「嫁入りの日」(1964年)では、花嫁が仲人に導かれ、商店街をしずしずと歩いている。婚礼となれば、新婦が白無垢角隠しの晴れ姿をご近所に見せて回ったのだ。一行を見守っているのは、割烹着姿の女性や子どもたち。通りの華やいだ声を聞きつけて、家から飛び出してきたのだろう。道路が一世一代の大舞台になっている。

「ご近所さん」(1987年)は、近くの住人十数人が路地の道幅いっぱいに並んでいる文字通りの記念写真。食事会の折に撮ったものだという。「こうして勢ぞろいした姿を見ると、お互いの家族を見守りながら暮らしていたんだなと、しみじみ思うよ」。路地は、向こう三軒両隣の私生活をそれとなくつなげる空間だった。それを窮屈と感じるのが今の私たちだが、「見守りながら暮らしていた」と思うゆとりがあのころにはあった。

道路は商いの場にもなった。「部品売り」(1957年)という写真では、露天商が橋のたもとに中古自転車の部品を並べている。よく見ると、値札がついているのはタイヤが多い。「壊れた自転車を安く仕入れて、使える部品だけ抜き取ったんだろうね」。おもしろいのは「橋の上では、硬くなった大福を温め直して売っている人もいたよ」という話。戦後の空気が残っていたあのころ、大人たちはなんでも売りものにして、どこでも店を開いたのだ。

道路の写真をもう1枚。「無理が通れば」(1965年)では、大型トラックが2台、狭い道をギリギリすれ違っている。「今なら立派な物損事故だね」とあるが、この写真ではそうとは断定できない。ただ、秋山さんの証言は含蓄に富む。「運転手がどうしたかって。お互いにそのまま目的地へと走り去っていったよ」――あのころ、運転手の最優先事項はものを運ぶことであり、武骨な車体にかすり傷がついたかどうかは二の次だったように思う。

写真は嘘をつかない。この本では、私が子どもだったころの社会の実相が露呈している。あのころの大人は、法律よりも融通を優先させていたのではないか。だから、道路という公空間で互いに折りあいをつけていた。子どもが道路にいても、近隣の緩いつながりのなかで見守っていた。それがすべて良かったとは言わない。法律や決まりごとは当然、尊重されるべきだ。ただ同時に、あのころにあって今は失われた美風も忘れたくはない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月3日公開、通算590回
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