寺山修司、反1960年代の美学

今週の書物/
『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』
寺山修司著、中公文庫、2020年刊

書を捨てよ

この夏、私は新聞に載った1枚の写真に目を惹きつけられた。鉄道の操車場だろうか、引き込み線のレールがうねるように延びている。線路はポイント箇所で分岐したり、合流したりしていて、貨物車輛が停まっているところもある。手前には、青年らしさが残る男性。線路の砕石や枕木を踏んでこちらに歩いてくる。背広にネクタイ、革靴といういでたち。コートの裾を風になびかせている。詩人寺山修司(1935~1983)30代の姿だ。

写真は、朝日新聞読書面(2023年8月12日付)のトップ記事に添えられていた。ただ、一見して報道写真とは異質だ。キャプションには「寺山修司=1967年、青森港の引き込み線」とあるだけ。誰がなんのために撮影したのか、どんな理由でこの背景が選ばれたのかは、よくわからない。ネット検索を試みると、大手レコード店のポスターに同一とみられる画像が使われているから、広く出回っているものなのかもしれない。

ともあれ、私は懐かしさを覚えた。なによりも今なら、被写体が線路を歩くという場面の撮影は、映画のロケでもなければ許されないだろう。だが1960年代は、当該施設の現場責任者に頼めば融通を利かせてもらえたのではないか。その意味で、この1枚はあのころの緩さを証明している。それは、昨今のコンプライアンス(規範遵守)一辺倒の世相になじまない。あのころと今の空気感の落差が、この画面からは見てとれる。

もう一つ、印象的なのは寺山の服装。コートの着こなしで不良っぽさを醸しだしてはいるものの、詩作や演劇などで前衛文化の先端にいた人にしてはスクエア(真面目)だ。寺山修司とはどんな人物だったのか。この写真から、私はそれを知りたくなった。

記事も私の好奇心をそそる。比較文学者の堀江秀史さんが「この人を読む」という企画で寺山を論じているのだが、そのなかに「寺山は、いつも自信に満ちている」「自己の悲惨な現実を詠むことを嫌った」という記述がある。これは、ちょっと意外だった。

寺山で私がまず思いだすのは、あの東北訛りだ。饒舌で、言葉が次々に湧き出してくるのだが、どこか沈潜した感じがつきまとう。そこを巧妙に切りとったのが、タモリのものまねだ。その印象から、この人の内面では郷里青森の風土が東京の都市文化と軋轢を起こして、引け目のような心理を生みだしているのではないかと私は思っていたが、「自信に満ちている」という。これはもう一度、本人自身の話に耳を傾けなくてはならない。

で、今週は『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』(寺山修司著、中公文庫、2020年刊)。エッセイや演説の再録などを30編ほど集めた本で、読売新聞社が1969年に刊行したものの文庫化。書名に「ぼくが戦争に…」とあるが、いわゆる戦争の話ではない。

本文に入ろう。最初の一編は「風に吹かれて――反戦青年委員会」。冒頭の一文に土曜深夜、場末の映画館で東映のヤクザ映画を観るのが楽しみ、という話がある。中学生のころ、「暴力はいいが、権力はいけないよ」と説く人がいたこと。その後、G・ソレルの本で「力が上から下へ働く時に権力となり、下から上に働く時には暴力となるのだ」という一文に出あったこと。著者のそんな思い出話を読むと、あのころの暴力観が想起される。

こんな話から切りだされるのも、1960年代後半に新左翼運動が台頭していたからだろう。反戦青年委員会は、もともと社会党や総評の傘下で生まれたが、1967~1968年には、「個人としての主体性」も尊重する組織となり、羽田や成田などの闘争拠点や新宿騒乱事件で機動隊と対立した。既成左翼から離れて新左翼の一翼を担ったと言ってよい。ところが、そのこともあって中高年の労働者との間に溝ができる。それがなぜかを著者は考察する。

著者が問題視するのは、労働者の多くが「自らの労働に疑問を持っていない」現実だ。働くことが「楽しいか」と問うのを怠り、「生き甲斐を思想化すること」を放棄しているという。たしかにあのころ労働運動の主流は、労働者が働くのは「生活のため」と割り切って賃上げ闘争に没頭し、新左翼は「革命に臨め」と呼びかけることに夢中だった。これに対して著者は、「労働そのものを通して、生き甲斐の思想化を急げ」と主張している。

「希望という病気――東京大学」という一編は、1960年代末、学園紛争が極点に達した東京大学の構内に立ち入り、落書きされた壁などを見て回りながら、大学論を展開する。おもしろいのは、理想の大学像のたとえに東京見物の「はとバス」を挙げていることだ。

著者によれば、「はとバス」は東京に出てきてから経験した「最大の学問的感激」だった。なぜなら、「自分たちが啓蒙されつつある現実のなかを走り抜けてゆく、という快感があった」からだという。言い換えれば「肉眼で確かめた世界」を「説明されつつある世界」に重ね合わせることで、そのズレを発見できたわけだ。『書を捨てよ、町へ出よう』の著者らしい見解だ。高等教育が提供すべきものが何かをずばり言い当てている。

あの寺山調のしゃべりを堪能できるのは「一九六八年、関西学院大学でのラリー」。著者は当時、各地の大学を訪れて集会で話しており、そのうちの一つがこの一編だ。質疑応答で、大学生の想像力が乏しいのは大学生自身のせいか、それとも国民全体の問題かと問われ、こう答える。「あなたならあなたの問題としてですね、あなたが最近、毎日が楽しいかどうかとかね、そういうことじゃないかと思いますね」。ここにもまた「楽しい」が出てくる。

前述のように、著者は労働者に対して「生き甲斐を思想化する」よう促すが、ここでは大学生に「幸福を思想的にとらえる主体性」を求めている。「思想化」あるいは「思想的にとらえる」とは、自分なりにイメージを練りあげることを指しているのだろう。

では、著者は「生き甲斐」や「幸福」にどんなイメージをもっているのか。それは、具体的に語られない。ただ、第5章「同世代の戦士たち」に並ぶ競輪選手や競馬の騎手、サッカー選手、ボクサーの人物評を読むとヒントは見えてくる。著者にとっての「生き甲斐」や「幸福」は、どうやらスポーツの美学とも関係しているらしい。ひとことでは言えないので、ここでは要約しない。ただ、第5章は本書の読みどころではある。

話を戻すと、「…関西学院大学でのラリー」には学生運動に対する苦言もあった。学生たちの言葉が「自分の肉体のなかで」「一つの存在にまで高まっていない」として、「資本主義の矛盾」「国家権力」「反動」といった政治用語は、その「手応え」を「自分の肉体のなかで、きちんと捉え直して使ったほうがいい」と助言する。ここで「肉体」を連発するのも、著者がスポーツの美学に心惹かれていることの表れのように思われる。

こうみてくると、著者寺山修司は、私が想像していたよりもずっとわかりやすい人のように思えてきた。なによりまず、労働であれ、学生生活であれ、人生に「生き甲斐」や「幸福」があることを確信している。問題は、それを個々人がその人なりに「思想化」しないでいることにあるというのだ。思想を前面に押し立てる政治運動は盛んだが、その思想は個々人の「生き甲斐」や「幸福」とは別のところにあったということだろうか。

本書には、著者が1968年、米国の公民権運動指導者マーチン・ルーサー・キング牧師がテネシー州で暗殺された日、首都ワシントンにいたことが書かれている(「私怨をもって政治を超えられるか」)。ホテルの支配人から夜の外出を控えるよう求められたという。渡米の目的は不明だが、こんな歴史的事件にたまたま居合わせたのは海外に出る頻度が高かったからだろう。著者の視野が世界的だったことをうかがわせるエピソードだ。

著者は、この「私怨をもって…」で、政治的な暗殺は「個人の情念」と無関係でないという主張を展開する。テロ行為は「手工業的」な部分抜きにあり得ず、それは「『暴力』そのものが人格化してゆかざるを得ないような孤独な生活」を伴うというのだ。

考えてみれば、1968年は政治の年だった。日本では大学紛争が相次いだ。米国ではベトナム反戦の機運が高まった。フランスではパリ五月革命が起こった。チェコスロバキアでは「プラハの春」の風が吹いた。一方で、これらと逆向きの事件も起こる。米国ではキング牧師だけではなく、ロバート・ケネディ上院議員も暗殺されている。そんななかで著者は、徹底して個々人にこだわる。本書副題「反時代的…」の意味はそこにあるのだろう。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月29日公開、通算697回
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3 Replies to “寺山修司、反1960年代の美学”

  1. 堀江秀史さんという人が「寺山は、いつも自信に満ちている」と書いていたとありますが、なんというか、違和感のようなものを感じます。美輪明宏の「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」という寺山評のほうが、私は好きです。

    寺山修司は、なんといっても「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」と歌った詩人なのですから、いつも自信に満ちていたり、スクエアだったりしたはずがないと私は思うのですが、まあいろいろな面を持っていたのでしょう。

    寺山修司の服装や髪型にしても、私はとても好きです。流行に乗った長髪にジーンズにサングラスではなく、青森の場末の歓楽街に現れてもしっくりくる恰好は、青山や六本木で安井かずみの周りにいたようなクールな人たちとは一線を画している。

    青森港の引き込み線の線路を歩く寺山修司の背広にネクタイにトレンチコートといういでたちは、私には格好良く見えます。決して似合ってはいないけれど、じゃあどんな格好をしたらいいのか。まだ30歳そこそこの寺山修司には、こんな格好が精一杯だったのではないでしょうか。

    1967年というのは私が高校に入った年です。入学してすぐに「天井桟敷」の旗揚げ公演『青森県のせむし男』があって、その後『大山デブコの犯罪』とか『毛皮のマリー』とかの公演があり、1967年は寺山修司にとってターニング・ポイントで、『書を捨てよ、町へ出よう』が出版されたのも1967年。高校1年生の私には結構の刺激でした。

    並木橋の「天井桟敷館」ができたのが1969年。カルメン・マキの『時には母のない子のように』も1969年。「状況劇場」との乱闘事件も1969年。笠井紀美子が The summer was 1969 と歌い、イージー・ライダーが上演された。

    1968年を挟んだ数年は、キラキラしています。それなのに私は、のほほんと高校生をやっていて、サッカーボールを追いかけるのと夜の繁華街で働く他には何もなく、キラキラした時代とは関係なく生きていました。

    47年と短い寺山修司の人生が輝いて見えるのはなぜでしょうか?

    1. 38さん
      《いつも自信に満ちていたり、スクエアだったりしたはずがないと私は思う》
      寺山修司と同時代を生きた世代(38さんや私)と、寺山修司の世界を作品経由でしか知らない世代(朝日読書面当該記事の筆者は「1981年生まれ」)とでは、見方がまったく違うのでしょうね。
      ただ、純粋に「作品経由」だと逆によく見えてくることもある。
      私が今回、この本を同時代人のバイアスを封印して読んでみると、寺山修司は“優等生”であり、物事を真面目に真正面から考える人だったように思えてきました。
      それは地方都市の空気感につながっていて、その空気感が38さんの言う《青森の場末の歓楽街に現れてもしっくりくる恰好》に具現化されていたのではないでしょうか。

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