武蔵野夫人というハケの心理学

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

深い思い入れがある東京西郊、国分寺崖線の話を1回で終わりにする手はない。ということで、今回も引きつづき『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)をとりあげる。(当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」)

先週は、主人公道子の倫理的とも言える婚外恋愛――これも不倫と呼ぶのだろうか――の感情が崖線の自然のなかで自覚される様子を作品から切りとってみた。そこには、「はけ」の地形から湧き出る水の湿潤があった。斜面を覆う樹林が生み出す陰翳もあった。

前回、私が焦点を当てたのは、道子が父方の従弟、勉とともに崖線沿いを流れる野川の水源を探し求める探索行だ。少年少女の小さな冒険のような趣がある。だが、二人の内面をのぞくと、そうとばかりは言えない。崖線を歩いていても成人男女の心の綾がある。というのも、この物語は二組の夫婦と一人の青年の5人によって織りなされる群像劇であり、そこにドロドロした5元連立方程式が潜んでいるからだ。だが当欄は、その筋に踏み込まない。

今回は、筋立てからは完全に離れて、「はけ」の地形や生態系、そこに漂う空気感を浮かびあがらせようと思う。なぜなら、この作品では、著者がそれらの細部をさながら科学者のような目で描きだしているからだ。自然が登場人物の心理と響きあっているように見える。

まずは、地形学。道子が夫の忠雄と住む「はけ」の家はどんなところに位置しているのか。勉が戦地から帰還後、この家を再訪するときの描写が手がかりになる。中央線の駅――たぶん、国分寺か武蔵小金井だろう――を降りて、武蔵野の風景の只中を歩いていく。「茶木垣に沿い、栗林を抜けて、彼がようやくその畠中の道に倦きたころ、『はけ』の斜面を蔽う喬木の群が目に入るところまで来た」。高台の突端に豊かな緑があるのだ。

著者の記述によれば、「はけ」の家の敷地は、この斜面の上から下まですべてに及んでいるらしい。「上道」と「下道」の両方に接しているということだ。近隣の家々は、北側の上道に門を構えていたが、道子の家は違った。道子の父、故宮地信三郎が「ここはもともと南の多摩川の方から開けた土地」と主張して譲らなかったからだ。上道にも木戸だけはあったが、宮地老人は生前、そこからは客が入り込めないようにしていた。

勉は、それを知っているがゆえに、木戸の脇から手を突っ込み、掛け金をはずして中へ入った。小道は草が茂り、段状にうねりながら下っていく。下方に「はけ」の家が姿を現す。「見馴れぬ裏屋根の形は不思議な厳しさをもって、土地の傾斜を支えるように、下に立ちふさがっていた」。道なりに歩いていくと、ついには「『はけ』の泉を蔽う崖の上」に出る。家のヴェランダが見え、道子が母方の従兄の妻、富子とおしゃべりしている――。

この一節は、恋物語の導入部として絶妙だ。青年は駅前の喧騒を背に田園を抜け、崖線に至る。禁断の裏門から忍び込んで、草を分け入り、坂道を下りていくと、そこには密やかな泉の湧き口があり、これから青年の心を揺り動かす女たちがいる。

次は、物理学。勉には「物の働きに注意する癖」があった。だから、「はけ」の家に住み込むようになってからは湧き水の「観察」に余念がない。「水は底の小砂利を少しずつ転ばしていた」「一つの小砂利が、二つ三つ転がって止まり、少し身動きし、また大きく五、六寸転がり、そうしてだんだん下へ運ばれて行く」。関心は定量的となり、小砂利が10分でどれほど進むかを測ったりもする。無機物からも生気を感じているかのようだ。

生物学もある。道子と勉が7月の日差しを浴び、ヴェランダで腰掛けていたときのことだ。一羽の小鳥が「上の林から降りて来て、珊瑚樹の葉簇(はむら)を揺がせて去った」。ここで読み手は、鳥の動線にハッとさせられる。崖だからこそ、こんな急降下をするのだ。「はけ」の水が池に流れ、池の水がさらに下方へ流れ落ちるように、崖は自然界に垂直方向の動きを促す。生きものも例外ではない。3次元の世界を軽やかに行き来する。

このとき、二人の前には一対のアゲハ蝶が現れる。一羽の翅は黒っぽい。もう一羽は淡い褐色。二羽は雌雄のようで、一羽はもう一羽に近づいては離れ、また近づこうとしている。道子も勉も、その揺れ動きをじっと見つめ、そこに自分自身の心模様を重ねている。

著者によれば、「はけ」の一帯は鳥や蝶の「通い道」になっている。鳥は窪地の低い木々を好んだ。蝶は水辺の花で翅を休めた。こうした生物群が二人の眼前にふいに現れ、恋心を揺るがしていく。この作品は、生態系の妙までもすくいとろうとしているのだ。

そして、気象学。勉が夜更け、崖下の野川沿いを歩いているときのことだ。川面からは水蒸気が立ち昇り、それが靄となって遠方の明かりがかすんでいる。樹林からは、梟の声が聞こえてくる。ああ、道子はあの木立に隠れた家で、夫といっしょにいるに違いない――。「俺は一体こんなところでいつまで希望のない恋にかまけていていいのだろうか」。夜の「はけ」は闇の底で静かに息づいて、昼間にはない内省を青年の心に呼び起こす。

つまるところ、これは心理学の書物か。「はけ」だからこその人の動きがある、ものや生きものの動きがある。日差しもあれば、闇もある……。自然が魔力のように登場人物の心を震わせる様子が克明に描かれている。『武蔵野夫人』は、ただの恋愛小説ではない。
*引用では、本文にあるルビを原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月30日公開、通算572回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

武蔵野夫人、崖線という危うさ

今週の書物/
『武蔵野夫人』
大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊

自然に心地よさを感じるようになったのは、いつごろからか。たぶん、小学校にあがるより前だったと思う。母の実家に預けられた日、祖母に連れられてよく散歩に出た。住宅街の家並みは崖のところで果て、そこから坂道を下りると、斜面は樹林に覆われている。その繁みに入り込むと、湧き水らしきものが流れ出ていた。「イズミ」という言葉を、そのときに教わったように思う。これが私にとって自然の原風景だった。

もう一つ、忘れがたい記憶がある。中学生のときだ。どんな行き掛かりでそうなったかが思いだせないのだが、学校の英語教師と友人と私の3人で郊外へサイクリングに出た。行き着いた先は崖の下。そこにも湧き水があって、男性教師は上半身裸になって水を浴びた。大のおとなが子どものようにはしゃぐ。学校の日常からはかけ離れた光景だった。自然が秘める魔力のようなものを感じとった瞬間でもあった。

祖母の崖と教師の崖は、ひと続きのものだった。それは東京西郊を流れる多摩川左岸の河岸段丘がつくりだした段差であり、国分寺崖線と名づけられていることをやがて知る。そして、崖に湧き水の水源が隠されていて、その地形が「はけ」と呼ばれていることも。

青春期に入ると、この崖線は特別な意味を帯びてくる。学校には、列島各地から同世代の若者が集まって来た。彼ら彼女らには、それぞれの郷里があった。では、私自身の原風景は何か。そう自問したとき、真っ先に思い浮かんだのがあの崖だ。それは、私にとっては母なる大河、多摩川が生みだした起伏にほかならない。崖線への愛着はいっそう増した。(「本読み by chance」2019年8月23日付「夏休みだから絵本で川下りしてみた」)

学生時代、国分寺崖線の自然を守ろうという市民グループの見学会に参加したことがある。グループは現地の立ち入り許可を得ていたようで、私たちは崖道を分け入り、湧き水の源にたどり着いた。子どものころよりも宅地化は進んでいたが、それでも泉は健在だった。

20代半ば、就職して東京を離れた。このとき望郷の向かう先には、いつも崖線があった。関西方面を転々としたので、植生の違いが気になった。西日本は照葉樹林帯にあるせいか、林地に常緑樹が目立つ。一方、東京近郊の雑木林は二次林ではあるが、落葉樹が多い。透明感のある葉が秋には色づき、冬に落ちる。崖線の懐かしさは、その季節感とともにあった。(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の「動」、ロンドンの青春」参照)

私の崖線体験で思うのは、都会人にとって斜面がどれほど貴重なものか、ということだ。大都市の緑は、どんどん追いやられていく。唯一の例外が崖だ。宅地は傾斜地にも迫るが、急峻なら手が出せない。東京では、そこに異空間が残された。それが、情感のある物語の場となっている。(当欄2020年6月26日付「渋谷という摩訶不思議な街」、「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」)

で、今週の1冊は『武蔵野夫人』(大岡昇平著、新潮文庫、1953年刊)。著者(1909~1988)は東京生まれで、京都帝国大学に進み、フランス文学を学んだ作家。卒業後は会社勤めのかたわら、スタンダールの翻訳なども手がけた。戦時には召集を受けて戦地へ。フィリピンで米軍の捕虜となり、収容所生活を体験した。復員後の1949年、『俘虜記』で横光利一賞を受賞。『武蔵野…』は翌50年に発表された恋愛小説である。

私は若いころにも、この作品を読みかじったことがある。崖線の「はけ」が出てくるから飛びついたのだ。だが、読み切ってはいない。途中で投げ出した。「はけ」の描き方に不満があったわけではない。物語そのものについていけなくなったのだ。登場人物の心理が細やかに記述されているのだが、その綾をたどることが面倒になった。たぶん、私が若すぎたからだろう。今読み直してみると、大人たちの心模様はそれなりに納得がいく。

この物語は、「はけ」の一つを舞台にしている。それは、中央線国分寺・武蔵小金井間の中ほど、線路の南数百メートルの崖線にある。崖は「古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡」であり、崖下を流れる野川という小川は古代多摩川の「名残川」だという。

その核心部に湧水がある。「水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖となって尽きるところから湧いている」。そのあたりでは武蔵野台地表層の赤土、すなわち関東ローム層のすぐ下にある砂礫層が露わになり、地中から濁りのない水が湧きだしている。

物語の主人公は、秋山道子29歳。彼女が夫の大学教師忠雄(41)と住む家は、はけの一帯に建っている。敷地は、道子の亡父宮地信三郎が30年前に地主農家からただ同然で買い入れたもので、約1000坪もある。宮地は当時、鉄道省の官僚であり、武蔵小金井駅が開業するのを事前に知っていて購入したのだが、それは金銭欲のためだけではなかった。ここから南西を望めば、丹沢方面に富士が見える。その眺めが気に入ったのだ。

物語には、もう一組の夫婦とその娘、そして青年が一人登場する。夫婦は、道子にとって母方の従兄である石鹸製造業の大野英治(40)と妻富子(30)。娘は九歳で雪子という。青年は、道子の父方の従弟にあたる勉(24)。学徒召集でビルマの戦地へ送られ、帰還したばかりだ。勉は雪子の家庭教師を引き受け、道子の家に寄寓する……こうして終戦3年目の初夏、夫婦二組と青年一人の間に恋愛力学が生まれる。軸は、道子と勉の相思相愛だ。

例によって、筋書きは書かない。ただ一つ言っておきたいのは、道子と勉は一線を越えそうで越えないことだ。それは、道子の強い意志によるものだった。旧体制が崩壊して旧道徳が否定されたころではある。仏文が専門の忠雄もスタンダールにかぶれ、姦通に憧れて、左翼の文献を都合よく解釈した挙句、一夫一婦制を批判したりしている。だが道子は、そんな時代の空気や夫の言動も知らぬげに、自分が信じる倫理にこだわった。

道子が課したそんな条件が、勉のふつうとは異なる恋愛感情に火をつけたと言ってもよい。その導火線となるのが国分寺崖線だ。この一点に、この作品の独自性がある。

たとえば、勉の心理を描いたくだりには「彼は自分の『はけ』の自然に対する愛を道子と頒ちたいと思った」という一文がある。勉は、それを実現すべく道子を散歩に連れまわしては、武蔵野の地理や歴史を語ってみせる。知識は大抵、信三郎が書庫に遺した蔵書から仕入れたものだったが、本の受け売りだけでは終わらせなかった。忠雄の帰宅が遅いとわかっている日、二人は崖線沿いに野川の「水源の探索」に出かけるのだ――。

崖線は、欅や樫の木々が斜面を覆っていた。その下の道を歩いていくと、時折、静寂を破る音がする。「斜面の不明の源泉から来る水は激しい音を立てて落ちかかり、道をくぐって、野川の方へ流れ去った」。豊かな湧き水は二人の思いの通奏低音だったのかもしれない。この探索行でも勉は語りつづけ、道子はそれを「音楽でも聞くように聞いていた」。話の中身はどうでもよかった。「彼の心に関係があることは何でも聞くのが快かった」のだ。

そして二人はついに、水源らしい地点に行き着く。それは、線路の土手沿いにある池だった。近くには水田があり、農作業をしている人がいる。「ここはなんてところですか」と勉が尋ねると、「恋ヶ窪さ」という答えが返ってきた。そのひとことに、道子は衝撃を受ける。「『恋』こそ今まで彼女の避けていた言葉であった」。ところが二人がめざしてきた場所は……。道子は胸の内の「感情」が「恋」にほかならないことを強く自覚する。

私はこの一編を読んで、道子と勉が並んで歩くのがのっぺりした平地だったなら、恋心はこんなにも切実にならなかっただろう、と思う。斜面には樹木の葉陰がある。湧水の水音がある。それが私たちの心に陰翳と湿潤を与えてくれる。恋に崖は欠かせない。
*引用では、本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月23日公開、同月27日更新、通算571回
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原子力”善悪”二分法の罠

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

法律

3・11からの復興を見ていて痛感するのは、日本社会の理想像が変わったということだ。復興後の着地点として思い描かれるイメージは、列島各地がかつて追いかけていた夢とはだいぶ異なる。高度成長期なら、大工場の誘致合戦が起こったかもしれない。バブル期なら、豪華リゾートの開発競争に火をつけたかもしれない。だが今、大資本も余力がなくなった。頼みの綱は草の根だ。そのゴールに見えるのは地産地消の町だったりする。

ところが、理想像が変わらない一角も今の日本社会にはある。原子力ムラだ。2011年の東京電力福島第一原発事故後、ムラの景色は一変した。福島第一では、汚染水の処分先が決まらず、廃炉の先行きも不透明だ。ほかの原発も稼働の条件は厳しくなり、廃炉が決まったものも少なくない。原子力に対する世間の目は冷ややかで、「原発ゼロ」派もふえた。だが、ムラビトは昔のまま、一つの信仰にしがみついているように見える。

で今週は、先々週の『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)をもう一度とりあげる(2021年3月5日付「原発事故は想定外だったのか」)。この本では「原子力のすべて」と題する終章に、ムラの信仰の根深さを知る手がかりがある。

著者は終章冒頭で核爆弾や原子力潜水艦を例に挙げ、原子力利用は「『軍事利用』つまりは『悪用』に端を発した」と切りだす。そして、米国や英国、フランスなどの当時の原子力事情を概観して、そこに「軍事利用の優先」を見てとる。こうしたなかで、日本のみが「軍事を完全に切りはなし、『平和利用』一本槍で進んで行く」路線をとっている、というのだ。これは、戦争か平和かを問う軸だけでみれば、称賛に値することだろう。

だが著者は、その見方に落とし穴があることに気づいていた。ここでもちだされるのが、「原子力は両刃の剣」という常套句だ。それを「戦争にも平和にも使える」と読みとって終わりにしてはいけないと戒め、「平和だけの目的で使う時にも原子力はやはり『両刃の剣』だ」と断じている。「平和利用」にも二面性があるとの指摘だ。理由は、この技術がエネルギーとともに「放射能という人類にとって最もこわいものを生ずるから」にほかならない。

日本の科学技術論議は戦後しばらく、戦時中の軍事研究への反省もあって、軍事は悪、民生は善という二分法にとらわれていた。当時の原子力ムラに欲得がらみ、利権がらみの思惑が渦巻いていたのは間違いないが、それだけではなかったのだろう。自分たちは「『平和利用』一本槍」という自負があったのだと思う。だが、科学技術の善悪は何のために使うかだけでは決まらない。”善用”イコール善と早とちりしてはいけないのだ。

このことにいち早く気づいた点でも、著者は新聞記者として一歩先を行っていた。技術は民生用でも害悪をもたらすことがある――その事実は1960年代、私たちがいやというほど見せつけられた。公害である。著者は60年代初頭、公害という言葉が広まるのに先だって、原子力に公害的なリスクを感じとった。裏を返せば、世間は原子力「軍事利用」の怖さに気をとられ、「平和利用」でも避けられない害悪を見逃していたとも言えよう。

この終章を読むと、「軍事利用」と「平和利用」――すなわち「悪用」と”善用”――の二分法が、日本の原子力政策の初期条件に組み込まれていたことがわかる。たとえば、著者がこの章で引用した原子力基本法第2条を見てみよう。1955年成立時の条文だ。これは原子力の研究、開発と利用に対して「民主」「自主」「公開」の3原則を求めたものとして有名だが、大前提として「平和の目的に限り」という条件が課されている。

この条文を見て、私は一瞬、あれっ、と思った。原子力の安全に触れていないが、それでよかったのか? 本を離れてネットを調べた結果、興味深い事実を発見する。総務省のe-Gov法令検索を試みると、現行の第2条では「平和の目的に限り」の後に「安全の確保を旨として」という第二の条件が付け加えられている。衆議院のウェブサイトから、その文言が1978年の法改定時に追加されたこともわかった。「安全」は後づけの条件だったわけだ。

1978年と言えば、反公害のうねりが列島の各地で起こり、反原発運動も高まったころだ。私自身も記者としての初任地福井県で、その動きを現認した。あのころからようやく、私たちは原子力について、平和か軍事かだけではなく、安全か危険かの座標軸でも考えるようになった。安全かどうかの座標は、エコロジー志向か否かの座標とも重なってくる。こうして原子力利用の是非は、環境問題の論点の一つになったのである。

ここで私たちは、不幸な符合に気づく。1970年代は、原発建設が全国津々浦々で進んだころに相当する。原子力をめぐって安全論争が始まるよりも前に、そしてエコロジーの文脈で議論が交わされるよりもずっと早く、原発列島は既成事実になっていた。

これも後日談だが、原子力基本法は3・11原発事故後の2012年にも改定された。第2条には第2項が新設され、くだんの「安全の確保」が何に「資する」ものかが明文化されたのだ。そこには「国民の生命、健康及び財産の保護」「環境の保全」と並んで「我が国の安全保障」という文言も添えられた。「安全保障」は、当時野党だった自民党の主導で盛り込まれた。原子力はどこまでいってもキナ臭さにつきまとわれている……。

ともあれ今や、原子力は「安全の確保」を二つの条件の一つとするようになった。これは、平和利用であっても「生命」「健康」「財産」「環境」を守れないとわかったなら断念すべきことを暗に言っている。“善用”イコール善の信仰にとらわれているときではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月19日公開、通算566回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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3・11の内省、10年後の紙面

今週の書物/
『朝日新聞』
2021
年3月11日発行朝刊(東京本社最終版)

午後2時46分

あれは、ひと昔も前のことだったのだ。きのうは終日、そんな思いに耽った。東日本大震災と、それが引きがねとなった東京電力福島第一原発事故。あの3・11から10年――。

節目と言ってしまえば、それまでだ。だが、この10周年はふつうの10周年とは違う。大震災からの復興と大事故の後始末の道程で、一つの里程標になるだけではない。その日を、あの大震災や大事故に匹敵するほどの疫病禍のなかで迎えたのである。

新型コロナウイルスの感染禍は10年前の災厄と重なる部分がある。

大津波が押し寄せたとき、人々はひたすら高台に逃げるしかなかった。今回のコロナ禍では、人々がウイルスとの接触を避けるため、距離を置き、マスクをつけ、手を洗うばかりだ。自然界の脅威をかわすのに人間はほとんど丸腰でいる、という一点で両者は共通する。

原発事故の放射能もコロナ禍の病原体も、目に見えない。放射線は微量でも長く浴びれば健康被害が心配されるが、それがどれほどかははっきりしない。コロナ禍は無症状の感染者も媒介役となるので、感染経路を見定めるのが難しい。ともにリスクが不透明だ。

こう見てくると、3・11の10周年は、私たちにとって内省の契機となる。人間と自然、あるいは人間と技術の関係を考え直す格好の機会である。で、今週は、きのう届いた新聞を熟読することにしよう。手にとったのは、朝日新聞2021年3月11日付朝刊である。

ことわっておくと、当欄は今回、先週の書物『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)を続けてとりあげるつもりだった。書きとめておきたいことがまだあるからだ。だが、公開日が3・11から10年の翌日になるというめぐりあわせに動かされて、急遽予定を変更した。3・11紙面となれば、現役記者たちはジャーナリスト精神を高ぶらせて取材執筆しているのだろう。それに敬意を表したいと思ったのだ。

まずは、新聞の顔とも言える第1面から。予想の通り、「東日本大震災10年」の大見出しを縦に置き、震災関連の記事で全面を埋め尽した。写真は、福島県内の被災地の男性が朝焼けの海に向かって両腕を広げている後ろ姿。記事本文は統計に重きを置き、避難生活を送る人が全国に今もなお4万余人いることや、被災地の人口が10年間で揺れ動いたことを強調している。意外なのは、原発事故に的を絞った記事がこのページになかったことだ。

実際、この日の朝日新聞はニュース面に限れば、津波被災に焦点を当てたつくりになっている。第2面は1面を受けて「縮む沿岸部 膨らむ仙台」という長文の記事を載せ、人口変動に伴う地域ごとの盛衰を虫の目で浮かびあがらせた。

記者が取材したのは、三陸沿岸の宮城県気仙沼、岩手県釜石と中核都市の仙台。たとえば、気仙沼の今はどうか。市の人口は震災前の約17%減。20~30代の女性が震災後の5年で4分の1減ったという数字もある。「縮む」現実だ。だが、新しい息吹もある。被災地支援の活動などを通じて地元に根づいた県外出身者だ。市の半島部にはシェアハウスがあり、そこには関西や北陸、中国地方からやって来た20代の女性たちが暮らしている。

それと対照的なのは、「膨らむ仙台」の現実だ。仙台駅周辺では再開発の計画が復興景気で加速され、「タワーマンションの建設ラッシュとなり、大型商業施設も次々オープンした」。そのタワマン群の谷間に災害公営住宅もある。日の当たらない3階には、石巻の自宅を津波で失った高齢女性が入居している。「安住の地と思ったんだが……」。被災からの「復興」が産み落としたミニ一極集中だ。皮肉なことにそれは、被災の当事者にあまりに冷たい。

ページを繰って最終ページのひとつ手前、第一社会面を見てみよう。これも、この日は通常のニュースを外して震災一色になっている。大半を占めるのが、岩手県の北上に住む母(43)と娘(13)の話だ。あの日、津波は母の実家がある県沿岸部の陸前高田も襲った。実家に電話をかけるが、つながらない。母は、3歳の娘とその弟を連れて車で駆けつけようとするが、ガソリンが足りない。「信号は消え、ガソリンスタンドも閉まっていた」

親子は結局、引き返した。陸前高田では、母の母親(当時59)――娘の祖母――が生命を落とし、母の祖父(93)――娘の曽祖父――の行方もわからなくなっていた。悲しい体験だ。この記事には車中での親子の会話が載っていて、それが胸を打つ。
母「高田のばあちゃんたち心配なんだよね」
娘「おばあちゃんを助けにいこう」

母は今も、娘の言った「助けにいこう」のひとことが忘れられない。「あの日行くことは出来なかったが、気持ちが重なり娘が味方になってくれたと思うと、心が和らいだ」――。この記事は、ふつうならば新聞に登場しないような市井の家族を描いている。ただ、思い返せばあの日、私たち日本列島に住む人々の多くが肉親の安否に気を揉んだのだ。「心配なんだよね」「助けにいこう」のやりとりは、その記憶を否応なく蘇らせる。

原発については、ニュース面ではなく、新聞の内側に収められたページに紡ぐべき言葉を見いだした。オピニオン面では、東北学で有名な民俗学者の赤坂憲雄さんが大型インタビューに答えている。私が同感するのは「福島第一原発が爆発する光景は、戦後の東北が東京に電気やエネルギー、安い労働力を供出してきたことをむき出しにしました」という受けとめ方だ。それは、東北が背負う「植民地」的な歴史の戦後版だという。

赤坂さんが、福島を自然エネルギー(再生可能エネルギー)の「特区」にしようと主張する理由も、この見方に立脚する。「原発に象徴される中央集権型システムが震災で壁にぶつかったのだから、地域分権的な社会を目指すべきだ」「自然から贈与されたエネルギーが地域の自治・自立に役立つ。それが再エネに魅(ひ)かれた理由でした」。ただ今は、再エネ計画も「メガの発想にとらわれ」、集権システムに取り込まれている現実があるという。

赤坂インタビューには、私が3・11から10年の紙面でもっとも読みたかった見解がちりばめられていた。同様のことは科学面の大型インタビューについても言える。こちらは、地震学者石橋克彦さんの話をたっぷり聞いている。石橋さんは、地震が原発事故を呼び起こし、複合災害となる「原発震災」の怖さを1990年代から警告してきた人だ。ただ今回は話題を原発にとどめず、コロナ禍やリニア中央新幹線にまで広げている。そこがいい。

コロナ禍では、食料自給率が低さや成長戦略の観光頼みなどの「危うさ」が露呈したとして「県単位くらいで食料やエネルギーを基本的に自給できるような、分散型の社会」への移行を訴える。リニア中央新幹線は、南海トラフ巨大地震と無縁でないとして「トンネルの内部が損壊したり、出口で斜面崩壊が生じて列車が埋没したりするおそれ」を指摘する。リニア計画と原子力を並べて「両方とも国策民営で、きちんと批判する専門家が少ない」とも。

赤坂さんも石橋さんも自らの識見をもとに、世の中を分権型社会へ、分散型社会へ変えていこうという方向性を提言している。私がちょっと残念に思うのは、そういう大きな絵が朝日新聞自身の報道からはあまり見えなかったことだ。中核都市と沿岸部の間に見いだされたミニ一極集中の歪みは、いまだ原発によるエネルギー大量生産のシステムから脱けだせないでいる日本社会の縮図ではないのか――そんな問いかけがあってもよかった。

個人的な思いを披瀝すれば、私は10年前、現役記者として朝日新聞の原発ゼロ社説をまとめる作業にかかわった。朝日新聞は戦後長く、原子力利用推進の旗を振っていた。旧ソ連チェルノブイリ原発事故のころから原発抑制論を打ちだすようになってはいたが、それでは不十分で全面廃止しなくてはならない、と明言したのだ。社説は、過去の社論の反省を含むものとなった。あの決意を再確認する記事を、今回紙面のどこかで読みたかった(*)。

最後にもう一度第1面に戻り、コラム「天声人語」を。そこには「いまこの地震列島で命をつないでいるのは、おそらく何かの偶然」と書かれている。確率論の世界を生きる覚悟だろうか。奇しくも現在、私たちはコロナ禍のさなかで似たような心理状態にある。
*朝日新聞は翌3月12日付で「原発ゼロ社会」に向け、文字通り「決意を再確認」する社説を載せた。12日付紙面はニュース面でも原発事故をとりあげ、第1~2面で福島県の現状を伝えている(東京本社最終版)。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月12日公開、翌13日更新、通算565回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

原発事故は想定外だったのか

今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊

電源喪失

3・11から、もう10年になる。あの災厄が衝撃的だったのは、それが大地震と大津波で終わらなかったことだ。自然災害を引きがねに原子力発電所という巨大な人工物が崩壊して、放射能という見えない脅威を広くまき散らした。科学技術の奢りが露呈したのである。

当時、よく耳にしたのが「想定外だった」という言いわけだ。たしかに、地震→津波→電源喪失→炉心溶融という流れ図が頭の片隅にでもあった人は、そう多くない。だが関係者の間では、津波の危険が震災前から議論されていたようだ。たとえ、3・11の津波が予想の範囲を超える高さだったとしても、その想定外を想定する慎重さは求められていたと言えないか。どうみても「想定外」は弁解として弱すぎる。私には、そう思われる。

それは、原子力技術に人類未体験の側面があるからだ。火事ならば、放水によって消せる。火は、炭素や水素などが酸素と化合する反応であり、それは水をかければ鎮まる。では、原子炉内の原子核反応はどうか。世の中では「原子の火」「太陽の火」「第三の火」などと言われている――メディアがこういう表現に飛びついたことに問題があったと私は自省している――が、その本質は火事場の火とはまったく異なるものだ。

原子核は、湯川秀樹の中間子論によって理論づけられた核力が支配的な世界だ。陽子や中性子がバラバラにならないのは、この力が強いからにほかならない。重力と電磁力しか知らないでいた人類には不慣れな相手なのだ。想像力の及ばないことがあって当然だろう。

で、今週選んだのは、『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)。60年前の本だが、私は近所の古書店で手に入れることができた。略歴欄によると、著者は1926年生まれ、毎日新聞科学部で原子力取材をしてきた人だという。私にとっては科学記者の大先輩ということになるが、不勉強にしてお名前を存じあげなかった。あとがきには「この本は、私の七年間の原子力報道のノートをもとにまとめたもの」とある。

著者は、1950年代半ばに始まる日本の原子力開発史を記者の視点から書き綴っている。1954年に初の原子力予算がついたこと、1956年に原子力委員会が設けられたこと、そのころ、原子炉の選定をめぐって内には政界や業界に主導権争いがあり、外には米国や英国の企業の商戦もあったこと……こうした話が次々に出てくる。ただ今回は、それらを論じない。原子力開発の黎明期に事故の想定があったのかどうかを見てみることにする。

第三章「忘れられた立地条件」冒頭に1960年ごろ、科学技術庁が官庁街で引っ越しをしたときの様子が描かれている。科技庁は1956年、原子力委発足の年に生まれたが、当初は首相官邸近くの木造2階建て庁舎にあった。それが、文部省のビルに移ったのだ。大量の書類が廃棄されるなか、しっかり梱包、運搬されたものの一つに「大型原子力発電所の事故の理論的可能性と公衆損害の試算」があった。ガリ版刷りだが、マル秘文書だったという。

これは、原発事故の被害規模が初めて公式にはじき出されたものだ。科技庁原子力局は、この作業を産業界がつくる日本原子力産業会議に委託した。1959年のことらしい。当時の政府は、原発の「安全」をうたいあげる一方、「事故の理論的可能性」にも目を向けて「損害」の大きさを見積もっていたのだ。最悪の事態を想定外と言って無視しなかったのは間違っていない。ただ腑に落ちないのは、その試算がマル秘とされたことである。

この本によると、原産会議はこの試算について、自らが発行する新聞で「委託調査完了」「原子力局へ正式提出」と広報した。そんなこともあってか、国会では野党の社会党議員が「再三にわたって調査結果の提出を要求した」。だが、政府は「影響が微妙……」などの理由で公表しなかったという。せっかく手にした情報の「影響」力をそいでしまう。「税金を使った調査の結果を発表しないとは、まことにおかしな話である」と著者はあきれる。

著者は、調査にかかわった専門家に直接取材したようだ。その人は匿名で、被害規模の試算値が場合によっては3兆数千億円にものぼる、などと打ち明けた。「原子力局も弱ったんでしょうねェ」と言い添えて……。当時、この額は国の一般会計予算の2倍ほどだった。

ここから先は本の中身から離れるが、この一件には後日談がある。驚くべきことに、試算の文書が1999年になって公開されたのだ。実に、作成から40年の歳月が流れていた。外交交渉などの公文書が期間を置いて開示されることは珍しくない。だが、原子力という新技術を国のエネルギー政策の柱にするかしないかという局面で、有権者の判断に欠かせない判断材料を隠してしまうとは――。なんのための試算だったのか、私もあきれる。

その公開文書は、今では国会図書館に保管されている。表題は「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」(国会図書館のウェブサイト)。河合本、すなわち『不思議な国…』にある文書名とは微妙に違うが、同一のものとみてよいだろう。

この試算結果は今、ネットから知ることもできる。京都大学の研究者だった今中哲二さんが文書を要約して『軍縮問題資料』誌(1999年5月号)に載せたものが、京大複合原子力科学研究所(旧原子炉実験所)のウェブサイトでも読めるからだ。

さきほど、河合本では原発事故の被害規模として3兆数千億円という数字が書かれていることを紹介した。これを指すとみられる損害試算は、実際の文書にも明記されている。今中要約によれば、放射性物質の粒子の大小などの放出条件や、雨降りかどうかなどの気象条件を15通りに分けて、人的損害と物的損害の合計額をはじいたところ、最大となったのが3兆7300億円だったのだ。河合記者の取材は、的を外してはいなかった。

ただ、注釈を加えると、河合本と実際の文書には食い違いもある。今中要約によれば、3兆7300億円の試算は事故原発から放出される放射能量が「1000万キュリー」(1キュリーは370億ベクレル)の場合だ。これは日本原子力発電東海発電所(1966年営業運転開始)に導入予定の原子炉を念頭に、炉内放射能の2%が飛び散ると仮定している。ところが河合本では、専門家が3兆数千億円は放射能の1%が出たときの話だと言っている――。

私は今、この数字のずれをあげつらうつもりはない。強調したいのは、政府が試算を手に入れながらそれを公にしなかったことの罪深さだ。その結果、新聞記者が嗅ぎとった文書の片鱗がこぼれ出るだけで、さまざまな筋書きを想定した事故全体の定量化は、なんの役にも立たなかった。この試算は原発推進の産業界主導で進められたものであり、批判的な検証が欠かせないが、それもできなかった。これこそは、情報操作の最たるものではないか。

今中要約の記述によると、この文書の「概要」は1973年ごろから世間に漏れだした。その後、今中さん自身も「表紙に『持出厳禁』と書かれた原産報告のコピー」を手にしたという。ウィキペディアにもこの試算の項目があり、文書開示のいきさつが詳述されている。文書について一部で報道されることはあっても、政府は1999年まで公式には認めなかったという(2019年11月24日最終更新)。あきれる、を超えて、あきれかえる話だ。

「大型原子炉の事故」が社会にどれほどの大打撃を与えるか。その重大さが世の中に示されていたら、日本列島にこれほど多くの原発は建設されなかっただろう。福島の3・11事故も起こらなかったかもしれない。事故被害を想定内に入れながら、その想定をなかったことにする愚。試算の全容を掘り起こさなかった私たちメディアにも大きな責任がある。ただ、河合記者はいち早く情報操作のうさん臭さに気づいた。その先見性に敬意を表したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月5日公開、通算564回
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