原発被害「閾値」行政の不条理

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv!

今回も『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)を引きつづき読む。先週は、東京電力福島第一原発事故の汚染被害地域で年間線量20mSv(ミリシーベルト)という数値が独り歩きしている現実を見た。

このことでは、科学担当の元新聞記者として書いておきたいことが一つある。「閾(しきい)値なし直線(LNT)仮説」と呼ばれる考え方をどうみるか、ということだ。この仮説は、被曝による健康リスクが或る線量から急に現れるものではないと考える。リスクの有無は不連続でないというのだ。リスクは、線量がふえるにつれてしだいに高まることになる。国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告も、この立場をとっている。

LNT仮説に対する評価は、専門家や科学記者の間でばらついているようだ。理由はよくわかる。被曝線量が低いときのリスク増は、あったとしても増え幅が小さくて見極めにくいからだ。だが、だからこそ、この仮説は尊重されるべきものだと私は思う。

なにごとであれ、不確定さを伴う問題に対処するときは最悪の筋書きを心にとめるべきだからだ。その筋書きに対する根拠が現時点では不十分でも、それを織り込んで対策をとっておくことが最悪の事態を回避できる。これは、予防原則の一つと言ってよいだろう。

そのことを踏まえて本書を読むと、現実はそうなっていない。福島第一原発事故で本来の生活を乱された人々は被災地支援の諸政策に囲まれているが、それらはLNT仮説と逆向きの思想で成り立っているように見える。著者は福島県内に住む人々や県外に避難した人々を取材して、それぞれが抱える問題を浮かびあがらせているが、そこにあるのは〈閾値〉の行政だ。〈閾値〉以下の世界では3・11は強制終了されようとしている。

もちろん、政府や自治体が被災地を支援するとき、支援先を無制限には広げられないので、どこかで線を引くことになる。線引きを公正にするには基準値が必要だからだ。行政に閾は欠かせない。問題は、閾の決め方や扱い方に道理があるかどうかではないか。

本書の冒頭部では、福島県富岡町の放射線量が詳述されている。富岡町は福島第一原発の南方約10kmにあり、事故後は全域に避難指示が出された。このうち2017年4月に指示が解除された区域の元住人がその年の秋に自宅の線量測定のため「一時帰宅」したとき、著者は同行取材している。この区域は2012年3月時点で年間積算線量20mSv超とみられていたが、それが年間20mSv以下に減ったとされ、避難指示の解除に至ったのである。

この取材時、元住人宅の1時間当たりの放射線量、即ち線量率は次の通りだった。μSvはマイクロシーベルト、1mSvの1000分の1である。(*)
ベランダ   毎時0.7μSv(事故前の約17倍)
庭の植え込み 毎時3μSv(事故前の約75倍)
玄関脇雨樋下 毎時10μSv以上(測定器の上限超え)

数値を見てまず知りたくなるのは、それが避難指示解除の要件の一つ、年間線量20mSv以下を満たしているかどうかだ。このことについては、私が独自に調べてみた。環境省公式サイトのQ&Aコーナー(2016年度版)には、公衆の被曝線量限度(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)年間1mSvを1時間当たりの線量率で表すと毎時0.23μSvになる、とされていた。そうならば、年間20mSvはその20倍なので毎時4.6μSvとなる。

先へ進む前に、年間1mSvから毎時0.23μSvを導きだした計算法を跡づけておこう。環境省の説明によれば、こうなる――。住人が屋外で過ごす時間が1日のうち8時間だとみなすと、残り16時間は屋外の空間線量の4割程度しか被曝しないことになる。ここで屋外の空間線量率が毎時xμSvとすると、年間線量限度には次の数式が成り立つ。
1mSv=1000μSv=(x×8+0.4x×16)×365μSv

この代数を中学生に戻った気分で解くと、答えはx=0.19μSvになる。ただ、これは実測値ではない。自然界にはもともと毎時約0.04μSvの放射線があるから、両方を足し合わせた毎時0.23μSvを測定すれば、公衆の線量限度年間1mSvの水準ということになる。

この計算の当否はわからない。屋内被曝を屋外の4割としたり、屋外滞在を1日8時間とみたりという仮定が入っているからだ。前者は、木造家屋かコンクリート建築かで違ってくるだろう。後者も、当人の年齢や職業によってまちまちだろう。ただ、避難指示を解く区域の線を引くには、ざっくりした仮定をもちこんで基準値をはじき出すしかない。このとき頭に叩き込んでおくべきは、その数値が大まかな目安に過ぎないということだ。

では、前述の元住人宅の測定結果をこの目安と比べよう。ベランダや庭先は毎時4.6μSv以下だが、玄関付近の雨樋付近はそれを超えている。場所によっては年間20mSv超もあるということだ。住宅1戸の敷地内に限っても、放射線量は大きくばらついている。

線量のばらつきを示す記述は本書のあちこちに出てくる。たとえば、「ホットスポットファインダー」という空間線量計を紹介するくだり。この機器は「一歩進むごとの放射線量を正確に数値化」できる。その測定で「放射性物質は風雨によって移動し、溜まりやすい場所にとどまる」ことがはっきりした。たとえば、路面の舗装がアスファルトなら線量は低いが、透水性のものだと放射性物質が染み込んで居すわり、高い値を示すことがあるという。

線量のばらつきは行政の判断に影響を与え、人々の生活設計を左右することもある。南相馬市の住人の一人は、その不条理を露骨なかたちで体験した。この人が住んでいる地域では2011年、政府の政策に従って年間積算線量20mSv超とされる家々が「特定避難勧奨地点」の指定を受けた。この人の場合、「両隣」(原文は傍点)は勧奨地点になったが、自分の家は外された。その判定結果は「賠償額の決定的な違い」にも直結しているという。

この話で痛感するのは、政府の施策が一見科学的でありながら実は非科学的なことだ。毎時の線量率を隣家と比べたとき、違いがμSvで小数点以下ならば「測定の誤差の範囲」であり、そのことは政府もわかっているはず、と著者は主張する。私もそう思う。

本書は、放射能除染の不条理も突いている。衝撃的なのは、福島県内では「県面積の約八〇パーセントが除染されない」という現実があるらしいことだ。除染は特措法のもとで政府や自治体が進めているが、田畑や山林では「ほぼ行われないに等しい」と著者は言う。

田畑は、農作業で放射性物質が土壌に交ざり込んでいる場合、表土を剥ぐだけでは除染にならないということで対象外になった。山林は、腐葉土を除くと土量が嵩む、土壌除去が防災に悪影響を与えかねない、といった理由で住宅の周辺以外は手つかずになっている。

著者は、除染で出た土の行方にも関心を向けている。本書によると、郡山市内では汚染土が児童公園の地中に埋められたことがあった。ブルーシートで覆われただけですべり台のそばに放置されたこともあった。埋設場所が住人に知らされなかったという事実も明らかになっている。福島第一原発の一部が立地する双葉町では、汚染土の行き場とされる中間貯蔵施設の用地確保がままならならず、汚染土の「仮置き場」が散在しているという。

ここでもう一度思い返したいのは、セシウム137は原子炉にとどまっても、汚染土の一部になっても、地中に埋められても、仮置き場に山積みされても、放射能の半減期が約30年で一定していることだ。私たちは原子核物理の時間尺度に縛られているのである。

私たちは被曝のリスクに向きあうとき、線量に閾値があると思わないほうがよいし、測定値には誤差があると考えたほうがよい。一方、放射性物質を扱うときは、半減期という数値に厳格に支配されていることを忘れてはならない。数字とのつきあい方は難しい。
*前回述べたように、本書では福島県内の空間線量率を「事故前」は毎時0.04μSvとしている。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月17日公開、同日更新、通算670回
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

3・11原発事故という進行形

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv?

3・11がまた巡ってくる。今年は特別な思いでその日を迎える。12年ひと回りが過ぎたことが感慨深いだけではない。先週の当欄にも書いたように、人の世の忘却の速さに驚かされているのだ。現政権が原発回帰策に舵を切っても世間は静かなままだ。(*)

12年前に時計の針を戻してみよう。東京電力福島第一原発の電源喪失を耳にしたのは、3月11日夕方のことだ。津波が東北地方太平洋岸を襲う様子をテレビ映像でリアルタイムで見て、途方に暮れていたときだった。追い討ちをかけるような原発の危機。発電所が電力を失うなんて悪い冗談ではないか、と一瞬思った。私は新聞社内で、同じ職場にいるベテラン原発記者から「大変なことになるよ」と聞いて事態の深刻さを知った。

その後の推移は同僚の予言通りだった。翌12日には1号機で水素爆発があった。14日には3号機でも同様の爆発が起こる。このころから、事故の本質が世間の人々にも見えてくる。原子炉は冷却水の循環が絶たれると、原子核の崩壊によって出る熱で水素が発生し、爆発に至ること、爆発で放射性物質が飛散すると福島県内のみならず、県境を越えて広域の大気や水を汚してしまうこと――そう知って不安感は恐怖感に変わった。

実際、私の周りにも首都圏を一時離れた人たちがいる。その時点で放射性物質は首都圏にも届いており、放射線のレベルがどれほど高くなるか見通しが立たなかった。メディアは事故炉へ注水を続ける現場の作業を報じ、私たちはその悪戦苦闘に気を揉んだ。

私は先週、「原子の火」と「ふつうの火」の混同に論及した(*)。福島第一原発の事故後、私たち科学記者が別部門の記者から「炉内はいつ鎮火するのか」と聞かれ、核崩壊は火事とは異なり、水をかけても止まらないことを説明した、という話である。原子核は物理法則に忠実であり、その理論が予測する時間幅で壊れていくのだ。たとえば、セシウム137では放射性物質の量が半分になる半減期が約30年――。これは水で速められない。

ここで私が思うのは、物理学の視点でみれば福島第一原発事故は終わっていないということだ。事故炉に放射性物質が残り、核崩壊を繰り返しているだけではない。外部に撒き散らされた放射性物質も崩壊を続けている(除染しても除染土のなかで続行する)。私たちは、事故で人間の時間尺度を超える原子核現象を抱え込んでしまった。しかも、その現象の一部は原発の管理された区域内ではなく、公共の空間でも進行中なのだ。

事故から12年しかたっていないのに、私たちの多くはあのときの危機感を忘れかけている。だが、忘れることのできない人々が大勢いるのも間違いない。その理由の一つも、事故原発周辺の生活圏に原子核物理の時間尺度が刻印されていることにあるのだろう。

で、今週は『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)帯の惹句に「オリンピックの忘れもの」とある。福島第一原発事故を過去の出来事にしようとする動きを戒める書だ。著者は出版社出身のフリーライターで、この事故で被害に遭った人々に取材を重ね、ノンフィクション作品を発表してきた。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店、2020年刊)は講談社本田靖春ノンフィクション賞を受けている。

本書を開いて著者のセンスの良さを感じたのは、「はじめに」に次の注書きを見つけたときだ。「空間放射線量を記した際は、原発事故前の何倍にあたる数値かを添えてある」――。事故前の空間線量率とされたのは、毎時0.04μSv(マイクロシーベルト)。福島県内で1990~1998年に実測された値の平均だ。或る地点がいま毎時0.7μSvであると記したくだりでは、それが事故前の約17倍に相当することをカッコ書きで明記している。

事故前に基準を置くという著者の視点に私は共鳴する。放射線被曝によって受ける健康面のリスクをめぐっては、住人が浴びる線量をどこまで抑えるべきかが論点となり、現時点の値がどのくらいかに関心が集まる。だが、それだけで十分だろうか。線量が事故前に比べてどれほど増えたかにも目を向けたほうがよいのではないか。集団の被曝線量が一気に底上げされるという現象は、リスク要因を分析するときに無視できないように思える。

政府は、福島第一原発周辺の汚染被害地域で避難指示解除の要件の一つに、放射線の年間積算線量が20mSv(ミリシーベルト)以下であることを挙げている。端的に言えば、住人に年間20mSvまでは我慢してほしいと求めたのである。そう言われてもピンとこないだろうが、本書で線量のカッコ書きを見ると愕然とするに違いない。年間線量が20mSv以下であっても、事故前と比べればはるかに高くなった場所がいっぱいあるからだ。

本書から離れるが、事故前に福島県内の年間積算線量がどうだったかを私自身で計算してみよう。毎時の線量率が本書の数値だとすれば、単純計算でこうなる。
毎時0.04μSv×24時間×365日=年間350μSv=年間0.35mSv
ここでは毎時の線量を屋内外で一律に見ているので、これはあくまでもザクっとした値だ。それでも、20mSvが事故前の水準に比べると桁違いに大きいことがわかる。

本書も、そのことをズバリ突いている。「公衆の被ばく線量限度」(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)はこれまで年間1mSvだったが、それが福島の事故対応では年間20mSvに「引き上げられ」、その限度内なら「安全」ということになった、というのだ。

私は40年余り前、原発が集中する福井県で記者になった。そのころ、原子力推進側がいつももちだす公衆の線量限度は年間100mrem(ミリレム)だった。今の単位では1mSvだ。当時もし、原発周辺で年間1mSv超が記録されれば大ニュースになっていただろう。

本書で印象に残るのは、福島第一原発事故で不安や苦難を強いられる人々がリスクコミュニケーションの風圧を受けている現実だ。リスクコミュニケーションとは、安全や健康を脅かす危険因子について当事者と関係機関が情報を共有することをいう。ところが、政府はこの言葉を「政府の考える『正解』をあの手この手で授け、納得させる」という意味で使っている、と著者は指摘する。政府主導の「不安の解消」策にほかならない、というのだ。

この施策の背後には、地元を苦しめる「風評被害」がある。福島産の農産物や水産品が不当に扱われることのないようにしたい、という動機は正しい。だが実際には、政府や学者の一部が「安全だ」と連呼したことで、「放射能汚染の事実」までが「『風評被害』と言われるようになった」と著者は批判する。「事実関係を丁寧に議論すべきこと」も「風評」扱いされるわけだから「これほど実害を隠す便利な言葉はない」と嘆いている。

著者は、この問題に「『被ばく防護』vs『風評対策』」「『健康・命』vs『経済・金』」の対立構図をみる。「健康」と「経済」は本来、前者を第一に考えながら後者も追い求めるべきものだが、それが「vs」の関係にされたところに福島の不幸があるように私は思う。

本書には、政府版「リスクコミュニケーション」の例がいくつか出てくる。一例は、政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」が2011年暮れに出した報告書。年間20mSvでがんになるリスクについて、喫煙や肥満、野菜不足などよりも低いとしている。著者は、年間10mSv未満の被曝でがんが増えるという論文も多いことから「この報告書が科学的に正しいと結論づけることはできない」と反駁する。

報告書の説明には別の問題もあるように、私には思える。それは、がんのリスクについて年間20mSvの被曝と喫煙とを比べていることだ。たばこががんの原因になることは明白であり、この報告書の記述が正しいとしても、年間20mSvでがんになる人の割合が喫煙のそれよりも小さいことを言っているに過ぎない。知りたいのは、年間20mSvの発がんリスクが事故前のそれ――自然界の放射線の発がんリスク――よりも高まったかどうかなのだ。

福島第一原発事故で地元の人々が背負い込んだ重荷の多くは、あのときを境に生活圏に飛び交う放射線が桁違いにふえたことに起因するのではないか。しかも、その線量は半減期に縛られてなおも減らない。原発事故は終わっていないのだ。次回も、本書を読む。
*当欄2023年3月3日付原子の火』1950年代の原子力観
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月10日公開、通算669回
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アメニティの本質を独歩に聴く

今週の書物/
「武蔵野」
国木田独歩著、新潮文庫『武蔵野』所収、1949年刊

落葉樹

半年ほど前、当欄はアメニティを話題にした(*1)。あるべきものがあるべき場所にある、という景観の心地よさだ。読んだ本は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)だった。ただ、あのときに突きつめて考えなかったことがある。あるべき場所にあってほしい〈あるべきもの〉とは何か、という問題だ。そもそも、どんなものを指してあるべきだ、と言えるのか。今回は、この難題と向きあいたい。

その前に先日、図書館で貴重な収穫があったことを報告する。朝日新聞縮刷版で木原啓吉さんが新聞記者時代に書いた記事(*2)を再読したとき、そこに〈あるべきもの〉の例示があったのだ。英国の都市計画家コーリン・ブキャナン氏が、アメニティを「英国人にとっては、はだでわかる価値の尺度」と説明して、その価値の代表例を「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と列挙している。

ここから浮かびあがるアメニティの本質とは何か。「一本の樹」「麦畑」「川」から、植物や水の流れなど自然の風景が必須要素であることがわかる。「村に伝わる」からは、過去と切り離せないことも感じとれる。「麦畑」「教会の塔」とあるから、人間社会の生活や文化にもかかわるようだ。いや、それどころではない。「きれいにデザインされた川のセキ」も例に挙がる。アメニティは、土木工学的な自然改変すら含むということだ。

アメニティを定義づけることは難しい。それは、一つの物差しで測れない。自然度だけを見れば原生林がもっとも望ましいことになるが、代表例の「一本の樹」や「麦畑」はそれとは趣が異なる。人工美に目を向ければ超高層ビル群や巨大ダムもアメニティの源になりうるが、それを〈あるべきもの〉の勘定に入れるかどうかでは賛否が分かれるだろう。「川のセキ」に添えられた形容句「きれいにデザインされた」には、ほどほどの人工感がある。

くだんの記事では、ブキャナン氏もアメニティが「数量化しにくい要素」であることを指摘している。それは「貨幣価値には換算しにくい」ので、大型公共工事の環境影響評価があったときなど、費用便益分析の項目としてほとんど考慮されない、というのだ。

私の脳裏には学生時代の1975年、この記事を紙面掲載時に読んだ日の感想が蘇る。あのころは、アメニティはやがては金銭に代えがたい価値として認められ、社会に組み込まれるだろうと思っていた。だが、50年近くが過ぎた今、予想は半分当たり、半分は外れた。私たちの身のまわりのアメニティは豊かになったが、それは商業施設だったりリゾートだったりして貨幣価値に結びつけられている。新自由主義の時代らしい展開である。

で、今週は国木田独歩の「武蔵野」を読む。短編小説集『武蔵野』(国木田独歩著、新潮文庫、1949年刊)の冒頭に収められた表題作だ。この一編は1898(明治31)年、「国民之友」誌で発表された。初出時の題名は「今の武蔵野」。著者(1871~1908)は千葉県銚子生まれで、教師や新聞記者などの職を転々としたが、やがて詩人、小説家の道を歩むようになった。この作品も「小説」とされているが、私にはその分類に違和感がある。

恥ずかしい話だが、私はこの一編を今回初めて読んだ。未読の言い訳をすれば、それが小説とされていたからだ。自然の風景を題材にした小説ということなので花鳥風月を愛でることに終始しているのではないか、と思ったのだ。ところが、一読して私が感じたのは、これは都市論として読めるということだった。「論」といっても学者のそれではない。記者経験者らしく、見たもの、聞いたものを取り込んだエッセイ風の仕立てになっている。

この作品は、江戸時代文政年間(1818~1830)の古地図には武蔵野のおもかげはわずかに入間郡(いるまごおり)に残るだけと書かれていた、という話から始まる。ここで入間郡は、埼玉県南部一帯を指している。「昔の武蔵野」は、江戸後期ですらかなり姿を消していた、明治時代の今ならなおさらだろう、と言っているわけだ。だが著者は、「昔の武蔵野」の消失を惜しんではない。「武蔵野の美今も昔に劣らず」と言い切っている。

この話の切りだし方からもわかるように、著者の関心はひとえに「今の武蔵野」にある。だからこそ、作品の原題も「今の武蔵野」だったのだ。この冒頭部では、「今見る武蔵野」が自分の心を動かすのはそこに「詩趣」があるからだ、と述べている。

では、「昔の武蔵野」と「今の武蔵野」はどこが違うのか。読み進むと、その答えが明記されている。前者は「萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居た」。ひとことで言えば、原っぱだったのだ。一方、後者の主役は「楢の類」から成る「林」。雑木林である。江戸時代、江戸の近郊では新田開発が進められ、それに伴って樹木が植えられた。落ち葉は堆肥に、伐採木は薪炭の材料になる。こうして人々の生活と分かち難い林が広がった。

著者は、このくだりで文化論にも立ち入っている。日本人は、和歌や絵画で「松林」ばかりを愛で、「楢の類の落葉林の美を余り知らなかった」とみる。「冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずる」という変化の妙を最近まで理解しなかったという。だが、洋風は違う。ここでは、ロシアの作家ツルゲーネフの小説「あいびき」(二葉亭四迷訳)が引用されている。作中では、樺の林の落ち葉が金色に輝く様子などが描かれていた。

林は著者の身近にあった。著者は1896(明治29)年秋、東京郊外の渋谷村(現・東京都渋谷区松濤付近)に引っ越した。この作品には、当時の日記が紹介されている。9月7日の欄には、南風が吹き、雲が流れ、雨が降ったりやんだりの日々が続いていることを記した後、「日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」(太字部分は原文では傍点)とある。そのころの渋谷では雨あがりの日、樹林が陽射しにキラキラ輝いて見えたのだろう。

著者は雑木林の魅力を視覚で感じているだけではない。聴覚でもとらえている。「鳥」の羽ばたきやさえずり、「風」のざわめき、「虫」の鳴き声、「荷車」の響き、「村の者」の話し声……雑多な音が林の奥から、あるいは林の向こうから聞こえるという。著者のお薦めは「時雨の音」。そこに「私語(ささや)くが如き趣」があるからだ。この一編は、そんな林の「物音」を体験できる場所として中野、渋谷、世田谷、小金井の地名を挙げている。

この作品がただの風景礼讃でないのは、そこに著者の分析があるからだ。たとえば、高台に林と畑がどのように分布しているかを論じたくだり。林が長さ1里(約4km)未満の規模感であり、畑が林に三方を囲まれていたり、農家があちこちに散らばっていたりすることに触れ、畑と林が「ただ乱雑に入組んで居て、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出る」と書く。「ここに自然あり、ここに生活あり」――北海道の「大原野大森林」とは違う。

著者が「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」と説いている点も見逃せない。武蔵野には「迂回の路」があるという。道が「林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ」といったことを繰り返すのだ。それで、次のような指南もある。道が三つに分かれたら、杖を倒して倒れたほうへ進め、林の奥で道が分岐したら、小さなほうを選べ。「妙な処」へ行けるかもしれない……。散歩の極意は偶然任せ、無駄を楽しめということか。

このくだりを読んで、私は当欄の前身ブログでとりあげた『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(植草甚一著、晶文社)を思いだした(*3)。散歩の達人植草甚一はこの本で、自分が住む町の迷路性とゴチャつきを得意げに語っているのだった。

この一編を私が都市論と呼びたいのは、武蔵野の景観に人間の関与を見ているからだ。著者は、ただの自然ではなく人の営みとともにある自然に「詩趣」を見いだす。その営みは、歴史とも無縁ではない。雑木林が広がった背景には、江戸時代の開墾がある。落葉樹に人々が魅せられる理由には、幕末の開国や明治時代の文明開化で洋風文化が浸透したこともあるだろう。アメニティは人々の生活や感性と結びつき、歴史ともつながっている。

そのことは、前述の「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と見事に重なる。独歩は19世紀末、すでにアメニティの本質をつかんでいた。鋭い観察眼で、その本質がどう立ち現れるかまで見てとっていたのだ。
*1 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*2 朝日新聞1975年11月26日付解説面連載「歴史的環境を訪ねて」第20回
*3 「本読み by chance」2015年5月22日付「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
☆引用箇所にあるルビは原則、省きます。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月16日公開、通算644回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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ゴジラ、反核の直感が生んだもの

今週の書物/
●「ゴジラ映画」(谷川建司執筆)
『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊)所収
●「G作品検討用台本」
『ゴジラ』(香山滋著、ちくま文庫、2004年刊)所収

卵生?

反核を思う8月。今夏は例年よりもいっそう、その思いが切実なものになっている。世界の一角で、この瞬間にも核兵器が使われるかもしれない軍事行動が進行中だからだ。

折から、核不拡散条約(NPT)再検討会議が1日からニューヨークの国連本部で開かれている。核兵器保有国に核軍縮交渉を義務づけ、非保有国に核兵器の製造や取得を禁じた条約だ。1970年に発効した。再検討会議は、その実態を点検するのがねらいだ。

会議の報道でもっとも印象深かったのは、ウクライナ副外相の演説だ。ロシアがウクライナの核関連施設を攻撃したことに触れ、「我々はみな、核保有国が後押しする『核テロリズム』が、どのように現実になったのかを目の当たりにした」と述べた(朝日新聞2022年8月3日付朝刊)。たしかに今回は、原発が軍隊によって占領され、それがあたかも人質のように扱われている。「平和利用」の核が「軍事利用」されたのである。

この指摘はNPTの弱みを見せつけたように私は思う。NPTは「核軍縮」「核不拡散」だけでなく、「原子力の平和利用」も3本柱の一つにしている。ところがウクライナの状況は、「平和利用」が「軍事利用」に転化されるリスクを浮かびあがらせた。原発は、今回のように占領の恐れがあるだけではない。ミサイル攻撃を受ければ放射性物質が飛散して、それ自体が兵器の役目を果たしてしまうのだ。「軍事」と「平和」の線引きは難しい。

それにしても「核軍縮」と「核不拡散」になぜ、「原子力の平和利用」がくっつくのか。これは、戦後世界史と深く結びついている。源流は1953年、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力」(“Atoms for Peace”)にあるようだ。核兵器保有国はふやしたくない、先回りして核物質を平和利用するための国際管理体制を整えよう――そんな思惑が感じられる。こうして国際原子力機関(IAEA)が設立された。

ここには、「軍事利用」は×、「平和利用」は〇という核の二分法がある。だが私たちはそろそろ、この思考の枠組みから脱け出るべきだろう。なぜなら、戦争には「平和利用」の核を「軍事利用」しようという誘惑がつきまとうからだ。さらに核は、「平和利用」であれ「軍事利用」であれ偶発事故を起こす可能性があり、その被害の大きさは計り知れないからだ。私たちは、核そのものの危うさにもっと敏感になるべきではないか。

で今週は、一つの論考と一つの台本を。論考は「ゴジラ映画」(谷川建司執筆、『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』=筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊=所収)。台本は「G作品検討用台本」(『ゴジラ』=香山滋著、ちくま文庫、2004年刊=所収)。前者は、ゴジラ映画史を1962年生まれの映画ジャーナリストが振り返った。後者は、映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督、東宝、1954年=一連のゴジラ映画の第1作)の「原作」とされている。

後者の著者香山(1904~1975)は、大蔵省の役人も経験した異色の作家。「秘境・魔境」や「幻想怪奇」など「現実の埒外にある題材」を好み、「読者に一時のロマンを与えてくれるのが特長であった」と、『ゴジラ』(ちくま文庫)の巻末解説(竹内博執筆)にはある。

今回の当欄では、戦争が終わってまもなくの日本社会が被爆や被曝をどうとらえていたかを谷川論考から探り、その具体例を香山台本から拾いあげていきたい、と思う。

谷川論考はまず、映画「ゴジラ」が日本人の被爆被曝体験と不可分であることを強調する。1954年3月、遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員が太平洋で米国の水爆実験の放射性降下物を浴び、放射線障害に苦しんでいるという事実が明らかになった。日本人は、広島、長崎に続いて、またもヒバクしたのだ。核兵器反対の市民運動に火がついた。街には「原子マグロ」を恐れる空気も広まった。その年の11月に「ゴジラ」は封切られたのだ。

香山台本には、日本近海にゴジラが出現したという話題でもちきりの酒場が出てくる。「女」が言う。「原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえこんどは、怪物ゴジラときたわ」。東京湾に現れたらどうなるか、と彼女が「客」に問うと「疎開先でも探すとするか」という答えが返ってくる。「疎開」が10年ほど前の記憶として残っていたこのころ、ゴジラの不気味さは広島、長崎の被爆や第五福竜丸の被曝を人々に想起させるものだったことがわかる。

谷川論考によれば、「ゴジラ」は東宝にとって社運をかけた一大プロジェクトだった。東宝は1950年代に入ると、戦後燃え盛った労働争議の傷痕が癒え、戦時中の戦争映画で追放されていた幹部も返り咲いて、起死回生を期していた。そこに降ってわいた第五福竜丸事件。幹部たちは太古の恐竜が水爆によって目覚めるという娯楽大作を秘密裏に企画、香山に筋書きを頼んだ。「G作品」はコードネーム。「G」はgiant(巨大)を意味したという。

それにしても、映画人は機を見るに敏だ。戦時に戦意高揚の作品をつくっていた人々が戦後、核への忌避感に乗じた作品を構想する。その撮影には、戦争映画で特撮を受けもった人材が投入されたという。この点で、映画「ゴジラ」は太平洋戦争と地続きにある。

谷川論考は、ゴジラを「“被爆者”」と位置づける。その体表に「ケロイド状の皮膚」との類似を見てとるのは「当時の観客にとっては言わずもがなのことだった」。ここで言及されるのが「アサヒグラフ」1952年8月6日号だ。占領が終わって、原爆被害の真相を包み隠さず伝える写真がようやく公開された。そこに、第五福竜丸の報道映像がさらなる追い討ちをかけた。日本人の多くは1954年ごろ、核の怖さを真に実感したのかもしれない。

香山台本には、古生物学者の山根恭平が娘の恵美子にゴジラの正体を語って聞かせる場面がある。ゴジラはジュラ紀の海棲爬虫類だが、現代まで海底の洞窟などでひっそり生き延びていたという自説を明かして、こう続ける。「水爆実験で、その環境を完全に破壊された」「追い出されたんだ」。それで日本近海にやって来たのだろう。こうしてゴジラは、人類が始めた核兵器開発競争のとばっちりを受けた者として描かれるのである。

恵美子は父の説に「信じられないわ」と半信半疑だが、父は「物的証拠が、ちゃんと揃っている」と譲らない。ゴジラの体からこぼれ落ちた三葉虫――絶滅したとされている古生物――を調べると、放射性核種のストロンチウム90が検出されたという。

山根恭平の説明は、記者発表の場でも繰り返される。そこでは、ゴジラ本来の推定生息年代が「侏羅紀(じゅらき)から、次の時代白亜紀にかけて」に広げられ、分類も「海棲爬虫類から、陸生獣類に進化しようとする過程にあった中間型の生物」とされている。

記者発表で見落とせないのは、ゴジラの体が水爆によって「後天的に放射性因子を帯びた」としていることだ。物質が放射線を受け、自身も放射線を出すようになることを放射化という。山根は、ゴジラが全身から放つ「奇怪な白熱光」をこれで説明しようとしている。

ゴジラは水爆実験で「安息の地と平穏な暮らしを奪われた」(谷川論考)のだから、核兵器の被害者だ。と同時に「人間の築いた文明を破壊しよう」(同)としている点で加害者でもある。そこでは、被曝するという被害と被曝させるという加害が同居している。香山台本で特筆すべきは、架空の生きものにこの二面性を付与したことだろう。ト書きには、ゴジラを水爆のシンボルにしようという作者の意図が書き込まれた箇所もある。

谷川論考によると、映画「ゴジラ」には「怪獣王ゴジラ」という改定版がある。米国の映画会社が東宝からフィルムを買い入れて再編集したものだ。2作品を比べると、後者では「ゴジラ自体が“被爆者”に他ならないという見立て」は消え去っているという。

ゴジラの二面性で思うのは、ウクライナの原発も同様ということだ。攻撃の標的になりかねないという意味では被害者の立場だ。だが、いったん攻撃されたならば、核汚染を引き起こしかねないのだから加害者の側面もある。これが核のリスクというものだ。

広島、長崎、第五福竜丸。三つのヒバクが直近の出来事だった1950年代半ばの日本社会は、核の本質を直感していた。ゴジラの出現は、そのことを物語っているように思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月12日公開、通算639回
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あるべきものがあるアメニティ

今週の書物/
『歴史的環境――保存と再生』
木原啓吉著、岩波新書

町並み

この季節、古巣の新聞社から元社員にも届く「社内報」は、新入社員の顔であふれ返る。入社式での決意表明、横顔紹介……。紙媒体を背負いながら、デジタルメディアを切りひらく。そんな大仕事が、この人たちには待ち受けているのだ。大変な時代によくおいでいただいた――古巣を代弁して、正直そう思う。私が入社した45年前は新入社員、とりわけ編集部門の新米記者が業界の行く末を心配することなど、ほとんどなかった。

あのころ、新聞記者を志す者の多くには、記事を書くことで世の中を変えたいという野心があった。それは、私利私欲とは別ものだったと言えよう。記者の給与は悪くはなかったが、生活の安定をめざすなら別の業界があった。記事はほとんど無記名だったから、目立ちたがり屋の下心をくすぐることもない。金銭欲でもない。売名欲でもない。ただ自分の記事で社会に一石を投じたかったのだ。今思えば、傲慢なことではあるのだが……。

では、私は世の中をどう変えたかったのか。理系教育を受けたので、応募書類には科学部門を希望する旨を記したが――そして実際に科学記者になったわけだが――当時の関心事は科学ではなかった。若者には左翼志向が強い時代だったが、私にはそれもなかった。入社試験のグループ討議で「幸福とは何か」という課題が出され、「幸福」を社会主義思想に結びつけて論じる受験者が目立つなかで、私はその議論に乗らなかった。

では、私がグループ討論で「幸福」の代名詞として挙げたのは何だったか。それは「アメニティ」だ。この言葉は直訳すれば「快適さ」ということになるが、1970年代には都市景観を語るときのキーワードになりはじめていた。そのころ、私が暮らしていた東京郊外は雑木林や畑地の緑が宅地などの開発で一掃されつつあったが、その変遷を目の当たりにして都市の心地よさとは何だろうかという問題意識を抱いていたのである。

「アメニティ」は、都市問題の専門家によって“The right thing in the right place”と表現されることがある。日本語にすれば「あるべきものがあるべき場所にある」ということだ。私はグループ討議で、この発想に立って議論を展開した。駅前の広場に大きな樹木が1本、葉を繁らせている。その木陰では老人が一人、ベンチに腰かけている。周りでは幼子たちが遊んでいて、いつのまにか老人と友だちになる。そんな光景に幸福はある――と。

で、今週の1冊は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)。著者はこの本の刊行時、千葉大学教授。略歴欄には「環境政策・都市政策」専攻とある。ただ、本人が「あとがきに代えて」で打ち明けているように、1981年まで30年近く朝日新聞記者だった。1970年代には歴史的環境の保存再生問題を連載記事にしていた。私は学生時代、それを熟読した。「アメニティ」という言葉は、その記事で知ったのである。

記事が連載されたころ、著者は「環境問題」担当の編集委員だった。あの当時、「環境問題」と聞いて地球環境を思い浮かべる人は少数派。私たちの頭にまず浮かんだのは、高度経済成長の裏側で進行した公害だった。次いで開発がもたらす自然破壊が批判され、ついには町並みが壊されることにも目が向けられるようになった。ここに至って「歴史的環境」という概念が確立する。著者は、この流れをいち早くつかみとったジャーナリストだった。

では、歴史的環境はアメニティにどう結びつくのか。著者はこの本で、英国の著名な都市計画家ウィリアム・ホルフォードの考え方を紹介している。それによれば、アメニティとは“The right thing in the right place”の心地よさをつくる「複数の総合的な価値のカタログ」であり、そこには「歴史が生み出した快い親しみのある風景」も含まれる。アメニティを重んじる思想は、英国では「住民共通の血肉化した価値観」になっているという。

そのことは、英国の「ナショナル・トラスト運動」をとりあげたくだりを読むとよくわかる。ナショナル・トラストはロンドンに本拠を置く民間団体で1895年に設立された。「国民自身の手で」「自然や歴史的建造物」を「保護管理する」ことをめざしている。そのために、当該不動産を譲り受けたり買い取ったりする。1982年時点の会員は約104万人、会費は年10ポンド(当時の円換算で5000円弱)であると著者は記している。

その「資産目録」には、「森林」「草原」「荒地」「湖沼」に交ざって「遺跡」「古城」「教会」「修道院」「領主館」もある。「農地」「牧場」「公園」「庭園」もあれば「水車小屋」「納屋」まである。自然の産物か人工物かを問わず、風景に価値を見いだしているのだ。

この本は、文化遺産の守り方が第2次大戦後の経済成長期に一変したことを強調している。単体の建物を「点としての文化財」ととらえるのではなく、建物の集まりを「面としての歴史的環境」とみて重んじるようになった。この変化は洋の東西に共通するという。

国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の設立につながる1964年の「ベネチア憲章」は、歴史的記念物は「単一の建築作品」だけではない、と明言した。「特定の文明」や「事件の証跡」などを具えた「都市や田園の環境」も含むというのだ。著者によれば、これは「草の根の庶民の生活する生活環境こそが歴史的環境」とみる思想をはらんでいる。水車小屋や納屋のある風景を歴史的環境とみなす考え方とも、軌を一にしているといえよう。

点ではなく面を、という発想は私にもしっくりくる。そのことを痛感したのは、東京・国立競技場の建てかえ問題だ。最初に選ばれた案は「単一の建築作品」としては斬新で、魅力もあった。だが、それが彼の地にふさわしいかどうかは別の話だ。そこには1943年の学徒出陣壮行会という刻印がある。1964年東京五輪の記憶もある。戦争と高度成長の残影のなかに新競技場を置いてみる、という発想はあまり感じられなかったように思う。(*)

この本で見逃してならないことは、もう一つある。歴史的環境の保存再生では「再生」の比重が大きいということだ。たとえば、ドイツ(この本では「西ドイツ」)南部の小都市ローテンブルクは「中世以来の町並みを、ほぼ完全な形で復元した」。第2次大戦末期の空襲で市内の建物は半分近く失われたが、それを元に戻したのだ。背景には「中世以来、たびたび戦火を受けて」「復元をくりかえしてきた」市民たちの伝統がある、と著者は言う。

これを読んでわかるのは、「面としての歴史的環境」の尊重が1960年代に叫ばれた理由だ。古来、町や村は戦火や大火で幾度となく破壊の憂き目に遭ってきた。ただ、そのたびに元と変わらない風景が再現されたのは、建築土木の技術革新が緩やかだったからだろう。ところが20世紀、壊れた建造物は、放っておけば鉄とコンクリートと新建材のかたまりに置き換えられる宿命にあった。意志をもって「復元」する必要が出てきたのだ。

この本では、長野県にある中山道の宿場町、妻籠宿の「復元」も詳述されている。妻籠は町並み「保存」の成功例と言われることが多いが、実は「復元」の側面があった。1967年、建築史学者太田博太郎氏のグループが町並みの現状を調べ、聞き取り調査もして、古文書や古図を漁った。改造された家が多かったので、沿道の1軒ごとに住人と相談を重ねて図面を引き直し、「正面から奥行き一間をできる限り復元するようにした」という。

「復元」にからんで複雑な思いにかられるのは、この本に東京・丸の内の「三菱旧一号館」が出てくることだ。英国の建築家ジョサイア・コンドルの設計で、「飛鳥時代の法隆寺にも比すべき明治時代の代表的建築」(太田氏)とまで言われていた。ところが三菱地所は1968年、再開発のため、保存を求める声を押し切って解体した。著者はこの本で「建物のイメージを保存するような何らかの工夫」があるべきではなかったか、と批判している。

ところが2009年、驚くべきことが起こる。三菱地所が同じ場所に、旧一号館そっくりの「三菱一号館美術館」を建てたのだ。これも「復元」ではある。ただ、自分で壊して自分で元に戻すという自作自演からは、アメニティの思想よりも資本の論理を感じてしまう。

さて、新聞記者になってアメニティの記事を書きたい、という私の初心は実らなかった。だから今、一個人として叫ぼう。あるべきものはあるべき場所にあれ、と。
*当欄2021年7月23日付「1964572021の東京五輪考参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月13日公開、同月16日更新、通算626回
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