今週の書物/
『東京の異界 渋谷円山町』
本橋信宏著、新潮文庫
幼いころ、私にとって繁華街は二つしかなかった。新宿と渋谷だ。私が住んでいた私鉄沿線域からみると、もっとも近いターミナル、即ち終点の街だったからだ。デパートへ買い物に行くにも、外食のランチに出向くにも、たいていはこの二つの街で済ませた。
二つの街は私にとってほぼ等価だったが、青春期に入って新宿派に傾いていく。新宿の空気は、折からの対抗文化と共振していた。若手ジャズ奏者の生演奏が聴ける店、前衛作品が次々にかかる映画館や地下劇場……。それらを守護するように街区のあちこちに小さなジャズ喫茶が散在して、若者たちがスピーカーからあふれ出るリズムに体を揺らしながら時間をつぶしていた。そのエネルギーが、ときに政治闘争となって爆発したのだ。
私は活動家ではなかったが、それでも「反抗」に共感した。あのころ、政治を変えようとは思わなかったが、自分を変える必要は痛感していたのだ。それまでの価値観をぶち破る生き方を見いださなければ――新宿のジャズは、そんな衝動を後押しした。
一方、渋谷はどうだったか。ここにもジャズの店はあった。街頭闘争が繰り広げられたこともある。だがふだんは、どことなく穏やかな雰囲気が漂っていた。反抗の時代でも私鉄終点としての役どころを忘れず、沿線族が散策する街であり続けていたように思う。
20代半ばになると、私は渋谷派に転向した。反抗の気運は、反抗する側の行き詰まりがあって自滅も同然だった。私自身について言えば、オレは私鉄電車の沿線族だ、中産階級で何が悪い、と開き直れるようになっていた。それでも自分の生き方を変えられるではないか――そんな思いもあった。このあたりの心模様の移ろいは、今月初めの当欄「別役実、プチブル『善良』の脆さ」(2020年6月5日付)に書いたとおりである。
渋谷のほうも、この潮目を感じとっていたらしい。公園通りの周辺には、これまでのデパートや映画館とは一風異なる商業・娯楽施設が生まれていた。この一角が発信したのは、新しい生活様式で暮らすニューファミリー世代の消費文化だった。
渋谷はなぜ、新宿と違ったのか。これが、きょうの本題だ。私の仮説を先に明かしてしまえば、一因は地形にあると思う。渋谷の中心部は、地名の通り「谷」の底にある。ということは、周りに高台が迫っているということだ。東側には青山の瀟洒な街、西側には南平台や松濤の邸宅街が控えている。山の手の高級感がある地域とひと続きであるということが、渋谷の穏やかさを醸しだしているように思える。
だが、おもしろいことに、渋谷にはそんな空気感に異議を申し立てる一角がある。今はラブホテルが林立している円山町界隈だ。1970年代、そこにはジャズ喫茶がいくつかあったので、私もときどき足を踏み入れた。ジャズの店そのものは、ほかの街のそれと大差がなかったけれど、店まで歩いているときに異次元の空間に迷い込んだような気分になった。私の記憶では、今ほどにはラブホは建ち並んでいなかったように思う。それなのになぜ?
で、今週は『東京の異界 渋谷円山町』(本橋信宏著、新潮文庫、2020年刊)。著者は、1956年生まれのノンフィクション作家。その著作『全裸監督村西とおる伝』『AV時代』『東京裏23区』の題名からもわかるように、日本社会のアンダーグラウンドを活写する書き手だ。この本は、2015年に単行本として宝島社から出されている。文庫版には、単行本刊行後5年の歳月がもたらした後日談も「あとがき」に収められている。
この本は、渋谷・円山町界隈が明治期以降、花街として栄え、それが戦後、風俗の街の趣を強めるようになったいきさつを、さまざまな業種職種の人々の体験談を通じて浮かびあがらせている。その一つひとつが読みものとして秀逸なのだが、危うい話が次から次に出てくるので、それらを要約するのは極力控える。当欄では、私の仮説の延長線上でブラタモリ風に地形にこだわりながら、この街の魅力を探っていきたい。
「その不思議な街は渋谷の小高い丘の上にある」。著者自身もプロローグ冒頭で、このように地形の話から入っている。第一章でも、円山町が「高級住宅地はたいてい高台」「歓楽街・風俗地帯は低地に」という「土地の法則」から逸脱していることに触れている。
「小高い丘」なので、そこには坂がある。なかでももっとも有名なのが道玄坂。渋谷駅から南西方向へ延びる坂道で、駅を背にその上り勾配をゆっくりと歩いていくと、右側に広がっているのが円山町だ。もちろん、高低差があるのは、そんな表通りだけではない。
この本にはうれしいことに、等高線付きの地形図からラブホテルや飲食店の場所を示したマップ類まで、地図が幾枚か載っている。マップ類のところどころにハシゴのような記号で描き込まれているのが石段だ。この階段こそが異次元世界を象徴しているように思う。
この本を地形の観点から読むときに見過ごせないのが、歌手三善英史が語る幼少期の思い出だ。若い世代のために注釈しておくと、三善は1972年にデビューした。見るからに繊細そうな青年で、しっとりした抒情歌謡を得意としていた。73年にNHK紅白歌合戦で歌ったのが「円山・花町・母の町」(神坂薫作詞、浜圭介作曲)。この本によると、母は「渋谷円山町の芸者」であり、自身も「円山町で生まれ育った」のだという。
三善は、遠い日々の記憶を紡ぎだして「粋で優雅な町でしたね」と言う。通りには石畳、黒塀には見越しの松、三味線には鼓の音。「僕が母と暮らしていた家は、道玄坂を上がって、登り切るちょっと手前を右に曲がって細い路地を入って、階段を降りて…(中略)…八百屋さんがある、そのちょっと先のところなんですね」(ルビは省く、以下の引用も)。回想は、戦後の匂いが残る1950年代のことだろう。実体験なので微に入り、細を穿っている。
「道玄坂を上がって、登り切るちょっと手前」――そう、街は斜面沿いにある。「細い路地を入って、階段を降りて」――そう、迷路のような裏通りには段差が控えめに組み込まれている。三善の描写からは、地形の細やかな起伏が街に情緒を与えていることがわかる。
三善の回想には、もう一つ貴重な証言がある。「僕が小さいころは玉電(路面電車・東急玉川線)が道玄坂に走っていた」「246がまだ土手でしたから。道路じゃなかったんですね」。そうか、あのころ東京西郊から渋谷に入る表玄関は道玄坂だったらしい。国道246号線に首都高の高架がかぶさるのは、ずっと後のことだ。それにしても、「土手」とはどんな景色だったのだろう。「道路じゃなかった」とは幹線道路ではなかったということか。
私にも当時の原風景がある。渋谷に出かけるとき、路線バスを使うことがあった。三軒茶屋、三宿、池尻……と玉電沿いに進む。と突然、視界が開かれ、バスは高台の突端からゆっくりと谷底へ降りていく。前方の空には、デパートのアドバルーン。遠くのビルの屋上で銀色の半球ドームがキラキラと輝いている。五島プラネタリウムだ。あれは、心浮きたつ眺めだった。あのときにバスが通った下り坂は道玄坂だったのだろう、きっと。
現時点、道玄坂の高みに立っても、あの眺めはない。大小のビルが林立してしまったからだ。この本には、地元の芸者小糸姐さんが1950年代に目にした風景も描かれている。「円山町に立つとね、もう渋谷駅のほうが丸見え。何もない。焼け野原でしたよ」
渋谷の魅力は大地の起伏にある。かつては道玄坂のような大きな起伏が広大な眺望で高揚感をもたらし、円山町の石段のような小さな起伏が陰翳をともなって情感を生みだしていた。大小の起伏の入れ子構造が、いま再開発で消えてしまいそうなのが気になる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月26日公開、同年8月7日最終更新、通算528回
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