新聞記者というレガシー/その2

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

パソコン

この夏に死去した柴田鉄治という先輩記者の本を今週も。改めて著者の人物像をなぞっておくと、もともとは社会部記者であり、科学報道にも携わった人。記者として〈現場主義〉に徹し、〈情報公開〉の社会を追い求める戦後民主主義の子でもあった。

先週の拙稿で、私には書き残したことがある。本書冒頭の記述についてだ。著者は、新聞を「産業としての新聞」と「ジャーナリズムとしての新聞」に切り分け、いま日本では後者が「戦後最大の危機に直面している」と断じた。この切り分け方に私は「2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる」とかみつき、理由は「後で論じる」としていたのだ(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」)。今回は、この話から始めよう。

もとより、私のこの批判はフェアではない。著者が新聞の二つの側面を分けて考えたのは、あくまでも刊行年、すなわち2003年のことだからだ。あのころはまだ、新聞の宅配が電気、ガス、水道などと同列にみなされていた。だから私自身も、同様の切り分け方をしていた。曲がり角は2010年ごろではなかったか。以来、「産業としての新聞」が苦境に立たされ、「ジャーナリズムとしての新聞」を切り離して論じることが難しくなった。

著者も最晩年は「産業としての新聞」に危機感を抱いていたのかもしれない。ただ、息を引きとるその瞬間まで、1家庭に1紙は新聞をとるという固定観念から脱することはなかったように思う。その意味では、古き良き記者人生を生き抜いたのである。

もちろん、この本で繰り広げられる「ジャーナリズムとしての新聞」論も、新聞以外のメディアを強く意識している。ただ、競争相手として描かれるのは、もっぱらテレビ。著者の若手記者時代がテレビの台頭期に重なっていたからだろう。著者が、その強みとして一目置くのは「映像の威力とリアルタイム(即時性、同時性)」。1972年にあった浅間山荘事件の現場中継を境にテレビがマスメディアの「王座に座った」という見方も披歴している。

テレビとの確執をめぐる話では、記者クラブ問題が詳述されている。省庁には、メディア各社の記者が張りついていて記者クラブという緩い集団をかたちづくっている。クラブ員は内輪の取り決めを結んでおり、記者発表をどの時点から紙面や電波に載せてよい、というような「しばり」に従う。このとき、「解禁時刻がほとんど『テレビは夕方から、新聞は朝刊から』となっていることも新聞にとっては大問題」と、著者は嘆いている。

著者が社会部長時代にはこんなこともあったらしい。記者クラブの発表案件には、「叙勲・褒章」や「歌会始の入選者」のように事前に資料が配られるが、公表日まで紙面化やニュース化を控えるものがある。その解禁時刻の設定を、新聞は公表当日の朝刊から、テレビは前日の夕方から、とするか、それとも、新聞は当日朝刊から、テレビも当日朝からとするか――。半日の時間差をめぐって新旧両メディアが角突き合わせたというのである。

2020年の今からみると、この半日の争いは空しい。今は多くの人々がソーシャルメディアを手にしたから、記者クラブが報道の日時を仕切ることそのものが難しくなった。記者クラブに属さない人の発信がマスメディアを出し抜くこともできるのだ。

マスメディアが負けそうなのは、速報性だけではない。迫真性についても言える。つい最近、台風10号が九州付近を通り過ぎたときもそうだった。このとき、現地の人々が刻々ネットにあげる書き込みに目を通していると、テレビのニュースを見ているときとはまったく異なる臨場感があった。そこから感じとれるのは、暴風雨に窓を叩きつけられている人たちの悲鳴だ。静かなスタジオで台風の威力や進路を解説するのとは違う情報発信である。

ただ、ソーシャルメディアには落とし穴がある。聞きつけた話をすぐ拡散することには早とちりの危険が付きまとう。その場からの発信は局所の事実を伝えてくれるが、事態の全体像を俯瞰できない。これは私の見方だが、こうしたソーシャルメディアの欠点を見極めることが、マスメディアの活路を見いだすことにつながるように思える。大局的にものを見て信頼度の高い情報を選びだす――その手助けをするメディアは今も必要なのである。

この本の話に戻ろう。刊行年のころは、報道は正義の味方という通念が崩れだしたころだった。新聞記者は、かつて巨悪を暴く善玉のイメージだったが、それが一転、善良な市民を苛む悪玉として嫌われる場面がふえてきた。「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」などで「当事者や関係者が多大の苦痛を被る」と指弾されたのだ。著者は過熱取材の非を認めつつも、政府が「メディア規制を行う方向を打ち出した」ことには警戒感を示している。

2000年代初め、「メディア規制法案」と一括りされる個人情報保護法案と人権擁護法案が国会に提出され、議論になっていた。新聞界には両法案に対する批判が強かったが、前者は2003年、この本の刊行直前に成立する。そして今、個人情報は侵すべからざるものという意識が世の中に浸透した。先週の当欄にも書いたが、それが不正事件を暴く取材活動の足かせとなり、著者が希求する〈情報公開〉社会の実現を難しくしている。

では、メディア批判の強まりに記者はどう対処したらよいのか。その問いに対する答えも、この本にはある。「権力との闘いに萎縮してしまったら、新聞に未来はない」という言葉だ。ここで「新聞」は、間口を広げてジャーナリズムと言い換えてもよいだろう。

著者は、三つの例を挙げている。「自ら精神病患者を装って」精神科病院に入り、潜入ルポルタージュを連載記事にした記者。アバルトヘイト時代の南アフリカに「身分を隠して」入り、その実態を伝えた記者。「一労働者として自動車工場にもぐりこみ」、労働現場の実情をノンフィクション作品にまとめたフリーの書き手。これらの取材に対しては、高い評価がある一方、倫理面の批判がつきまとうが、著者は「目的は手段を浄化する」と言い切る。

今は、コンプライアンス(規範遵守)の世の中だ。「目的は手段を…」のひとことに抵抗感を覚える人は多い。2020年の今、現役の記者たちの大勢もそうだろう。だが、著者は違った。そこには戦後民主主義の子としての新聞記者の論理がある。

この点では、私も著者を支持する。個人情報のことなら、こう考えてはどうか。人はだれも、公人と私人の両面を併せもっている。私人の個人情報は厳しく守らなくてはならないが、公人の個人情報は開示すべき場面もある。どこまでが私で、どこからが公なのか。この見極めは、そのつど考えなくてはならない。万能のマニュアルなどないのだ――。「目的は手段を…」という突き放したもの言いは、そんな柔軟思考の一つの表現ではないのか。

著者が現役のころ、記者は何をどこまでどう取材すべきかをその場その場で考えていたように思う。ところが今、記者もマニュアルに縛られている(「本読み by chance」2019年4月26日付「記者にマニュアルは似合わない」)。この本で改めてその現実を痛感する。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月18日公開、同日更新、通算540回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新聞記者というレガシー/その1

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

鉛筆

8月、柴田鉄治という先輩が逝った。1935年生まれ、85歳だった。朝日新聞の社会部記者として活躍、社会部長や論説委員を務め、退職後も言論活動を続けた。テレビを賑わす有名人ではない。だが、業界では「シバテツ」の愛称で慕われていた。私が社会部経験もないのに「先輩」と書くのは、シバテツが一時――それは私が科学部員になるより前だが――科学部長だったことがあるからだ。晩年は自らも科学ジャーナリストと名乗っていた。

柴田さんの人となりは、私も幾分かは知っている。記者の集まりなどで会食する機会があったからだ。そのほのかな交流の思い出も踏まえて言えば、シバテツは戦後民主主義を体現する社会部記者だったように思う。

その行動様式と思考パターンを一つずつ挙げておこう。行動様式は〈現場主義〉だ。これは自身の取材歴が立証している。1965~66年に南極の観測隊に同行した。69年には米国でアポロ11号の月探査を取材した。思考パターンでは、なにごとも〈情報公開〉に結びつける傾向があった。脳死臓器移植のように世論が二分される問題について論じるのを幾度か聞いたことがあるが、透明性が不可欠という結論に落ち着くことが多かったように思う。

2020年の今、シバテツがめざした新聞記者の〈現場主義〉も〈情報公開〉も厳しい局面に立たされている。〈現場主義〉を売りものにできなくなったのはIT全盛のせいだ。ネット空間にはソーシャルメディアが広まり、だれもが現場から発信できるようになった。〈情報公開〉にも強敵がいる。個人情報の保護が壁になっているのだ。最近は政官界の不祥事でも当事者が「個人情報にかかわる」と言って、だんまりを決め込むことがある。

シバテツは、新聞記者が戦後民主主義を大らかに謳歌していた時代を生きた人と言えよう。当欄は、彼の追求した記者像が今どこまで成り立つかを見極めることで、その価値観のどの部分が過去のものとなり、どの部分を受け継いでいくべきかを考えてみようと思う。で、今週は『新聞記者という仕事』(柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊)。米国の同時多発テロから2年、春にイラク戦争が勃発した年の夏に刊行された本だ。

冒頭の一文は「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」。それは「新聞の地位」が「多メディア時代」で低下したことではない、と著者はことわる。「産業としての新聞」ではなく「ジャーナリズムとしての新聞」が危ないというのだ。この「産業」と「ジャーナリズム」の切り分けは、2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる。そのことについては後で論じることにしよう。まずは、2003年の著者の声に耳を傾ける。

著者は、この年にあったイラク戦争の報道を1960~70年代のベトナム戦争のそれと比べる。後者では、日本の新聞社も戦地に記者を送り込んだ。ところが、前者では「全社がバグダッドを離脱してしまった」。これは「日本の新聞のジャーナリスト精神の衰退」を表しているという。危険地帯の取材について「死地に赴くような社命は出すべきではない」としながら、「最終的な判断は現地の記者に任せるべきなのだ」と主張する。

背景には、少年期の体験があるようだ。この本によれば、著者は戦時中、機銃掃射で「戦闘機が急降下しながらこちらに向かってくるときの恐怖」を実感した。1945年3月の大空襲では東京・麹町の自宅を失っている。焼け跡には「敷地を覆い尽くすばかりに焼夷弾の殻が落ちていた」。戦場にも、そこに住む人がいる。そのことを身をもって知っているから〈現場主義〉なのだろう。(当欄2020年8月14日付「コロナ禍の夏、空襲に思いを致す」)

戦後ほどなく姉を亡くしてもいる。栄養失調に陥り、病死したという。「つくづく戦争はいやだと子ども心に刻みつけられた」。その裏返しで日本国憲法に共鳴する。東京大学理学部に進み、地球物理を学ぶが、一方で東大新聞研究所(現在は東大大学院情報学環に統合)でも受講した。「就職するなら、平和と人権を守る仕事、すなわちジャーナリズムの仕事をしたい」。そんな思いから新聞記者になった。まさに、戦後民主主義が生んだ記者である。

1959年に朝日新聞社に入った後、支局や支社を経て社会部員となり、最初の大仕事が南極取材だった。65年出発の観測隊に同行したのである。そこで見たものは、61年発効の南極条約のもとで国境線が引かれず、「パスポートもいらなければ、税関もない」世界だった。ソ連の基地に近づいて無線通信で訪問を打診してみると、「どうぞ、どうぞ」。訪ねてみると「基地をくまなく案内してくれた」だけでなく「ウオツカの乾杯攻め」にも遭った。

米ソ冷戦の真っ盛りで、東西両陣営の間には見えない壁が立ちはだかる時代だったから、さぞかし強烈な印象を残したことだろう。これが、著者晩年の一念につながってくる。地球上から戦争をなくすにはどうするか、そのヒントは南極にある、という主張だ。

この本は、1969年のアポロ11号報道にも触れている。著者は、月面の生中継を米国ヒューストンにある航空宇宙局(NASA)の施設で見た。記者室は、宇宙飛行士たちが月面で動きまわる様子に沸いていたが、著者の脳裏に焼きついたのは「月から見た地球」の映像だったらしい。写っているのは「青く、小さい、ガラス玉のように輝く美しい星」であり、「この広い宇宙で人間が住めるところは地球しかなさそうだ」と思わせるものだった。

興味深いのは、この映像の衝撃が世相の変転と結びつけて語られていることだ。日本列島は1960年代までに公害や自然破壊に蝕まれていたが、それが社会の一大事になったのは70年代だったことに著者は注目する。「新聞報道によって社会が燃え上がる」には「燃料(具体的な事実)」「酸素(人々の関心)」「発火点以上の温度(新聞の報道)」の三つが揃わなくてはならない。60年代はまだ、その「人々の関心」が足りなかったのではないか――。

で、「月から見た地球」の出番だ。著者は、その「小さく頼りなげな」姿が環境問題に対する「人々の関心」を呼び起こしたとの仮説を示す。地球の遠望映像はアポロ8号も撮っていたので、11号で世情が一変したとは言い難い。ただ一連の月探査が、当時はやりだした「宇宙船地球号」という言葉とも呼応して、1970年代に環境保護の機運を高めたとは言えよう。(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)

余談だが、この柴田仮説は、情報の広がり方を燃焼という化学現象になぞらえている点で寺田寅彦の随筆「流言蜚語」を思いださせる(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)。二人は、地球物理つながりで響きあうところがあるのかもしれない。

さらにもう一つ、余談を。この本には出てこないのだが、私にはシバテツのアポロ取材でどうしても触れておきたい記事がある。見出しは「『月より地上の飢え』黒人が抗議のデモ」(朝日新聞1969年7月16日付夕刊)。フロリダ州ケネディ宇宙センター発の柴田特派員電だ。11号の打ち上げ直前、その足もとで開かれた集会を取材、公民権運動家の演説を記事にしたのだ。さすが社会部記者。月探査の報道でも地球の現実を忘れていない。

と、ここまで書いてきてわかるのは、著者の〈現場主義〉がいつも地球観と結びついているということだ。南極では戦時とは真逆の体験をして、地球に平和がありうることを確信した。アポロ取材では、月のことよりも地球を気づかって、エコロジー思想の台頭も予感した。そこには、鋭い洞察がある。ただ駆けつけるだけの〈現場主義〉とは違うのだ。来週は、そのシバテツ流の可能性と限界を〈情報公開〉にも話を広げて考察してみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月11日公開、通算539回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コロナ禍の夏、空襲に思いを致す

今週の書物/
『東京大空襲――未公開写真は語る』
NHK
スペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊

頭巾

市中に無症状の感染者が数多くいる、という現実は怖い。無症状者が怖いわけではない。自分だってその一人かもしれないからだ。怖いのは、被感染→感染という一大事がいつとも知らず身にふりかかってくるという状況だ。運命を確率に委ねるしかない。

夏になって今年もメディアが戦争の話題をとりあげ始めたとき、私には一つ、思いついたことがある。もしかしたら、私たちの先行世代は同じような確率任せを過去に体験していたのではないか――。太平洋戦争末期、日本列島では米軍の本土空襲が始まり、B29爆撃機が焼夷弾投下を繰り返した。都市住民は、わが町がいつ火の海になってもおかしくない状況に置かれたのだ。それは、コロナ禍の今とどこか似ているのではないか?

空襲の恐怖は、そんなものじゃないよ――先行世代からは、そう叱られそうだ。だから、誤解のないように念を押しておくと、私は空襲という惨事そのものではなく、〈いつ火の海になってもおかしくない状況〉に類似点があると推察しているのだ。

たとえば今、テレビでは「こんなときだからこそ、気持ちだけは明るくしていたいですね」といった言葉が飛び交っている。これは、「欲しがりません勝つまでは」などの戦時標語を連想させる。米軍機が列島住人の忍耐によって上空から追い払えなかったのと同じように、快活な心だけでコロナ禍は封じられない。それなのに「元気」の大量配布でなんとかしのごうとしているようにも聞こえて、かえって無力感を覚える。

もっとも類似を感じとれるのは、政治のありようだ。戦時中、戦況が悪くなってからでも日本政府には停戦に向かわせる外交手段がいくつもあったはずだ。それなのに本土空襲という事態になっても舵を切ることができなかった。隣組の団結心や竹やりの訓練で戦況を好転できると、本当に思っていたのか。これは感染拡大が猛烈な勢いでぶり返しても、人々の3密回避や手洗い励行を頼みの綱にしている今の政治風景と重なりあう。

で、今週は空襲に目を向けよう。空襲が人々の心模様にどんな影を落としていたかもうかがえる写真集をとりあげる。『東京大空襲――未公開写真は語る』(NHKスペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊)。掲載写真は、旧陸軍の宣伝機関「東方社」に呼び集められた写真家たちが撮影したものだ。これらは、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された。山辺氏はそのセンターの研究者として解説を執筆している。

では、さっそく本を開こう。ページを繰るごとにモノクロ画像が、これでもかこれでもかと空襲の実態を見せつけてくる。そこに軍部の意向がどう入り込んでいるかは判別し難い。空襲の威力は強調したくない、その一方でそれが人道にもとることは訴えたい――そんな相反感情があっただろうからだ。これは、写真家にとっては好都合だったのかもしれない。結果として、自らの心に忠実に写真家魂を反映できたようにも思えるからだ。

見開き2ページの全面を費やした写真を見てみよう。二階建て家屋の屋根に隣家から火が燃え移ろうとしている。一人が階下の軒先に梯子を掛けて昇り、ホースの筒先らしきものを上方に向けて放水している。煙のせいか、逆光のせいか、あるいは暗くて露光時間を長くとったためか、画調は薄ぼんやりとしている。キャプションには「夜間空襲(撮影地不詳)」「昭和20年(1945)5月26日 撮影:光墨弘」とだけある。

光墨は報道分野で活躍した人。ということは、空襲と知って押っ取り刀で現場に駆けつけ、パチリと収めた1枚のように思える。私はこれを見て、戦場カメラマンのロバート・キャパが第2次大戦中に撮ったノルマンディー上陸作戦の写真を思いだした。ぼやけている。だが、それがかえって迫真。もっとも、あれは暗室作業の手抜かりに原因があったらしいが……。(「本読み by chance」2017年5月12日付「キャパのパチリ、報道の核心」)

掲載写真の1枚1枚を紹介したいのはヤマヤマだが、当欄の性格上、それはできない。ということで、本文やキャプションの助けを借りて印象に残ることをすくいあげていこう。

巻頭では、本書刊行前に放映されたNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」の取材班が序文を書いている。「兵隊でもないごく普通の日本人」にとって、空襲は「最も“ポピュラー”な戦争体験」だった。それなのに「祖父や祖母がその時どのような顔をしていたのか、私たちは知らない」というのだ。さらに一つ私が加えれば、B29がいつ飛来するかもしれないときに人々がどんな心持ちでいたのか、それもわからない。

本編ではまず、東京空襲が本格化した1944年11月24日のことが記述されている。東京に対する空襲は開戦4カ月後にもあったが、それは続かなかった。その後、太平洋海域が米軍の手に落ちてから、B29の大挙飛来が始まったのだ。この日の標的は現武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所だったが「その周辺のみならず、遠くはなれた荏原区(現・品川区)の民家や町工場も被災した」。人々が面的で無差別の攻撃に慄いた最初の瞬間だった。

3日後、こんどは原宿界隈が被災する。ここには、海軍軍人東郷平八郎を祀る東郷神社がある。本書によると、警視庁のこの日の記録には「爆弾四個、焼夷弾四個」が境内に落ちたが「異常なし」とされている。ところが小山進吾撮影の1枚をよく見ると、拝殿の屋根に穴が開いている。空襲後に神官の拝礼風景を写したもので、ぱっと見では拝殿が守られたことを伝える図柄になっている。ところが画面上部にはぽっかり……。写真は嘘がつけない。

この日、原宿駅周辺の現場写真では、防空頭巾をかぶってバケツをやり取りする人が写っている。本文にも、東方社の写真家が「バケツリレーによって懸命に消火に当たる人々の姿」をとらえたとの記述がある。人々は、空襲本格化の時点ですでに訓練されていたのだ。

実際、防空訓練は日米開戦よりも前からあった。1933年には関東地方で大演習が展開されている。このとき信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が訓練の虚しさを社説で論じ、軍部周辺の反発を招いて退社した。この本では、その社説の要点が引用されている。敵機襲来が現実になれば「如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても」「逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く」であり、あちこちから火が出て「阿鼻叫喚の一大修羅場」になるだろうというのだ。

バケツの写真を見る限り、市民たちは戦前からの訓練のおかげで「狼狽」や「阿鼻叫喚」を押し殺し、「冷静」「沈着」に行動できるようになっていた。ただ、そのバケツは文字通り、〈焼け石に水〉でしかなかったはずだ。桐生はこの社説で、空襲が一度で終わらず、なんども繰り返されるおそれを指摘している。敵機の東京襲来を「我軍の敗北そのもの」とも断じている。炯眼と言うべきだろう。その通りのことが十余年後に起こったのだ。

この写真集には、意外にも笑顔が散見される。九段から神田にかけての一帯は1945年3~5月の空襲で焼け野原になった。バラック住まいの少女は、洗濯物を干しながらカメラ目線で笑っている。丸刈りでパンツ一丁の少年も、はにかみ笑いを浮かべている。

被写体となった人々が「カメラを意識してポーズをとった」(同様の笑顔写真に添えられたキャプション)ことはあるだろう。山辺氏の解説にあるように、東方社の「対外宣伝」戦略が反映された一面も否定できない。「爆撃を受けても日本の国民は戦意をなくさないで明るくがんばっている」と見せるためにだ。ただ、どうもそれだけではない。洗濯物に手をやる少女の笑顔に嘘はなさそうだ。撮影は6月8日ごろ。まだ終戦前だというのに……。

この人たちは、失うべきものをすべて失ってしまった。もはや人に見せるものはなにもない。ただ笑うしかないのだ。そんなふうに私には感じられる。だから、この笑顔は額面通りには受けとれない。そこに至るまでの時間こそが彼女や彼の戦争だったのだ、と思う。

改めて言おう。戦争末期、日本列島の人々は自分たちがいつ火に包まれてもおかしくない状況をくぐり抜けてきた。うちつづく恐怖はいかばかりのものだったか――その想像を絶する心理に、戦争を知らない私たちはコロナ禍の今、初めて思いを致すのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月14日公開、同日更新、通算535回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

寅彦にもう1回、こだわってみる

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

野球

引きつづき、文人物理学者寺田寅彦(1878~1935)を話題にする。寅彦に対しては深い敬意を抱いているのだが、どうも好きになれない。それがなぜかはわからなかったのだが、随筆集『銀座アルプス』を読んでいて理由らしきものを発見した。寅彦はジャズが大嫌いだったのだ。よりにもよって、私がこよなく愛するジャズを――そんなことを前回は書いた。(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)

これは、いちゃもんだ、と自分でも思う。人は若かったころの流行に共感しても、年をとってから出てきたものには抵抗感を覚えがちだ。私がヒップホップを敬遠するように、寅彦はジャズを「じゃかじゃか」(「備忘録」1927年)と揶揄したのだろう。

一つ、思考実験をしてみる。寅彦が70年ほど遅れて生まれ、団塊の世代だったなら、どんな青春を過ごしたかということだ。1960年代に東大理学部の学生だったとすると、お茶の水界隈のジャズ喫茶で首を振りふり、大好きなコーヒーを啜っていたような気がする。「マイルスはバラードがいいね」「ピアノは、やっぱりエヴァンスかな」などと、友人に蘊蓄を傾けていたのではないか。学生運動にのめり込んだかまでは推察しかねるが……。

私がそう思う根拠は、この随筆集のなかにある。「断片Ⅱ」(1927年)の冒頭、連句について述べた一節だ。連句、すなわち複数の作者が句をつないでいく詩作の妙がこう表現されている。「前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握(つか)んで浮上ってくるとそこに自分自身の世界が開けている」。前句が月並みでも附句によって輝きを増し、「そこからまた次に来る世界の胚子(はいし)が生れる」――そんな連鎖があるというのだ。

これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。ジャズでは、奏者が次々に「次に来る世界の胚子」を産み落とし、新しい世界を切りひらいていく。寅彦は、それを知ることがなかった。代わって、よく似たものを日本の韻文芸術に見いだしていたのである。

連句談議は、「映画時代」(1930年)にもある。ここでは、劇映画の「プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さない」という制作姿勢が批判される。劇映画は舞台劇と違うのだから、「天然の偶然的なプロット」を取り込むべきだという。手本としてもちだされるのが連句。そこに見られる「天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移」は映画でこそ可視化できるのではないか。そんな提案をしているのだ。

寅彦のジャズ心は時間軸だけでなく、空間軸にも息づいている。表題作「銀座アルプス」(1933年)を見てみよう。ここで「アルプス」とは、銀座界隈に建ち並ぶ百貨店を指している。その山のてっぺん、すなわちデパートの屋上に立つと、眼下の街並みは建物の高さがばらばらだ。低層家屋のなかに中層のビルが交ざっているのだろう。「このちぐはぐな凹凸は『近代的感覚』があってパリの大通りのような単調な眠さがない」

「ちぐはぐな凹凸」に興趣を見いだしているのだ。これは寅彦が俳諧味を愛していたからだろうが、と同時に、ジャズ的なるものに対する感受性があるからのようにも私は思う。さらに驚かされるのは、そのちぐはぐさを「近代的」と形容していることだ。建築で近代主義(モダニズム)と言えば、箱形の建物が思い浮かぶ。だから、近代都市の景観はすっきりしている。ところが、寅彦は凹凸に近代を見ているのだ。ポストモダンに先回りしたのか。

こうした感性は、物理学者としての世界観とも響きあっている。それは当欄前回で言及した古典物理学――金米糖や線香花火――だけの話ではない。「野球時代」(1929年)という一編には、誕生したばかりの量子力学について述べたくだりがある。

「不確定」は、かつて「主観」の専売特許だったが、それを新しい物理学は「客観的実在の世界へ転籍させた」というのだ。ウェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理のことだろう。寅彦は、どんなに精密な測定をしても「過去と未来には末拡がりに朦朧(もうろう)たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる」と書く。だから、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」――即ち野球に人は魅せられるのだろうと考える。

こう見てくると、私は戸惑うばかりだ。寅彦が物理学者として志向するものも、文学者として好むものも私の心に響いてくる。それなのに、なぜ好きと素直に言えないのか。その答えのヒントになりそうなのが「雑記」の一節「ノーベル・プライズ」(1923年)だ。

この短文は、夜に電話が鳴り、新聞社が相次いでノーベル賞の発表について聞いてきた、という体験談から始まる。新聞記者は昔から同じようなことをしていたわけだ。前年1922年の物理学賞は前年分と併せて二人に贈られた。21年がアルバート・アインシュタイン、22年がニールス・ボーア、相対論と量子論の両巨頭が受賞者になった。もっとも前者への授賞は、相対論と関係なく、光電効果の理論研究に対してではあったのだが。

アインシュタインの知名度はすでに高かったので、記者たちが知りたがったのはもっぱらボーアだった。物理通ならだれでも知っている巨人が世間では知られていない。「それほどに科学者の世界は世間を離れている」とあきれた後、ボーアの私生活を描いていく。

ネタ元は、欧州でボーアに会ってきたばかりの友人。その帰朝報告によると、ボーアは郊外の別荘にしばしば出かけて、考えごとや書きものをしているという。「どうかすると芝生の上に寝転がって他所目(よそめ)にはぼんやり雲を眺めている」のだとか。

ここで寅彦は、科学者を応用志向型と純理探究型に分けてボーアを後者に分類する。世の人々がそういう学者を大事に思うなら「はたから構わない」ほうがよい、と主張する。芝生でそっとしておきましょう、というわけだ。寅彦自身は、防災に一家言あるので前者の一面があるが、金米糖や線香花火に惹かれるところは後者だ。「ボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた」とも打ち明けているから、後者の側面が強いのだろう。

実際、寅彦も「郊外の田舎」に「隠れ家を作った」(本書所収「路傍の草」1925年)。クラシック音楽を愛するように田園を求めたのだ。そこには、日本の知識人社会にあった世俗ばなれ志向が見てとれる。世間を高踏的に見渡している感じか。科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう。私はたぶん、そこに引っかかったのだ。それは、科学の解説書を〈啓蒙〉書と呼ぶことに対する違和感に通じている。

もう一つ、ちょっと残念なのは、「天然の偶然的なプロット」や「ちぐはぐな凹凸」を愛した人が自身の生活には破調を求めなかったことだ。植草甚一のように気まぐれな寺田寅彦がいてもよかったのだ(当欄2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月7日公開、同月9日最終更新、通算534回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

寅彦のどこが好き、どこが嫌い?

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

金米糖

寺田寅彦(1878~1935)と言えば文理両道の人だ。同じように文理を股にかけた先人に南方熊楠(1867~1941)がいる。両者は、いずれも明治、大正、昭和を生き抜いた同時代人。正直に内心を打ち明けると、私は後者に心惹かれ、前者を敬遠する傾向にある。

文理とは言っても、その文と理は二人の間でだいぶ違う。文では、寅彦が文学系、熊楠が民俗学系。理では、寅彦が物理学系、熊楠が生物学系。私は小説や俳句が好きで量子論にも興味があるのだから当然寅彦派かと自分でも思うのだが、それがどっこい熊楠派だ。

なぜだろう、と思う。すぐに気づくのは、寅彦があまりにもちゃんとした人であることだ。ちゃんとした大学を出て、ちゃんとした地位を得て、晩年までちゃんと学界にとどまった。一方、熊楠は学校を中退して外国を放浪、その後、紀州熊野に住みついて独りで探究を続けた(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の『動』、ロンドンの青春」)。この対照は見事なほどだ。私は、どうしても熊楠の在野精神に共感してしまう。

ただ、それだけの理由で寅彦を嫌うのは理不尽だ。いや、そもそも全人格を嫌っているわけではない。その証拠にかつて高知に所用で赴いたときには、わずかな自由時間に寅彦の旧宅(復元建築、「寺田寅彦記念館」)を訪ねている。心のどこかで寅彦に惹かれているのだ。広い意味では敬愛する偉人ということになろう。ただ、その作品を読んでいると違和感を覚えてしまう。違和感の正体を知りたくて、今週は寅彦本を開いた。

『銀座アルプス』(寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊)。明治末期から昭和期にかけて書かれた随筆30編を収めている。表紙カバーには「近代文学史に輝く科学随筆の名手による短文の傑作選」とあるから、寅彦流の文理両道を知る手がかりになるだろう。

では、さすが寅彦と思われる一編から。「流言蜚語」(1924年)。関東大震災の翌年に東京日日新聞に載ったもので、震災時に流言が虐殺事件を引き起こした近過去を科学者の目で振り返っている。引きあいに出されるのは燃焼実験。管状の容器に水素と酸素を入れて火花を飛ばすと「火花のところで始まった燃焼が、次から次へと伝播(でんぱ)していく」。このようになる条件は、水素と酸素が「適当な割合」で混ざっていることだという。

著者は、流言蜚語に類似点を見る。流言にも火花の役目を果たす発生源がある。だが、それだけでは流言にならない。「次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ『伝播』は起らない」のだ。では、伝播を担う媒質は何か? それは「市民自身」だという。

その論理はこうだ。「今夜の三時に大地震がある」という噂が広まりかけたとしよう。このとき「町内の親父株(おやじかぶ)」の「三割」であっても、今日の科学では地震の発生時刻まで予知できないとわかっていれば「そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう」というのだ。ここでは「親父株」の「三割」が要点だ。流言を防ぐ条件は、自らは媒質とならず、かえって伝播を抑えられる人が一定程度いることなのだろう。

この考え方は、今の世の中にも当てはまる。新型コロナウイルス感染症禍で私たちに求められているのは、ウイルスの伝播に手を貸すな、ということだ。マスクをする、不用意にものに触らない、人との間に距離を置く――これは、感染から自分の身を守るためだけではない。もしかしたら自分が感染しているかもしれないと考えて、周りの人の感染リスクを減らすためだ。これは、自身が伝播の可能性を抑える人になることを意味する。

寅彦流科学のすばらしさは、探究を一つの事象の枠内にとどめないことだ。ある現象を支配しているしくみを別の現象にあてがってみると、通用することがある。上述の例で言えば、燃焼の伝播が噂やデマの読み解きにつながる。それは、感染症に脅かされている社会に示唆を与えることにもなる。分野横断的と言ってよい。個々の物質にこだわるよりも物事一般のしくみに目を向ける物理学者だからこそできる離れ業だろう。

寅彦流ということでは、本書所収の「備忘録」(1927年)に織り込まれた「金米糖」と題する話も見逃せない。そこで著者は、私たちが科学に対して抱く通念の落とし穴を見抜いて、教えてくれる。一見科学的な思考が、実は科学的でなかったりするのだ。

話題となるのは、金米糖(「金平糖」とも書く)がなぜ真ん丸でないのか、ということだ。私たちは、この砂糖の塊ができるときに「特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない」(「考えられない」に傍点)。物理空間は等方的と考えているわけだ。これは、まっとうな論理と言えよう。それなのになぜ、いくつかの方向にだけ「論理などには頓着(とんちゃく)なく、にょきにょきと角を出して生長する」のであろうか?

著者は、この論理は誤りではないと明言して、なぜこんなことが起こるかを説明する。それによれば、等方的とは「統計的平均についてはじめて云われ得る」ことなのだ。平均は平均であり、個別の事象はそれに一致しないというわけだ。さらに、自然界には「平均からの離背(りはん)が一度でき始めるとそれがますます助長される」(ルビは本書のママ)という傾向もあることが指摘されている。「角」は論理を破ってはいなかったのだ。

統計は、科学者だけのものではない。社会や経済を考えるときにも重宝している。だからこそ、この教訓は重い。私たちは全体の平均を過大視して部分にズレがあることを忘れていないか、あるいは部分だけを見て全体像を見失っていないか――。

「備忘録」には「線香花火」の話も載っている。著者は「灼熱した球の中から火花が飛び出し、それがまた二段三段に破裂する、あの現象」に興味を示す。枝分かれの妙があるからだろう。20世紀終盤に複雑系の科学が興り、分岐現象も関心事になる。それを先取りする好奇心だ。著者の科学心は、モノの根源よりもコトの摂理を追究する反還元主義の先駆けだった。(「本読み by chance」2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)

で、実は、このくだりを読んでいて私は大発見をしたのだ。自分が寅彦派になれない理由の一つがわかった。それは、音楽の趣味にかかわっているらしい。著者は、線香花火の火花の「時間的ならびに空間的の分布」を音楽にたとえる。「荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れに淋(さび)しいフィナーレに移っていく」。さすが、クラシック通だ。

著者は、線香花火には「序破急」や「起承転結」があるとほめる一方、新趣向の花火を「無作法」で「タクトもなければリズムもない」と腐す。そして、こう決めつけるのだ。「線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である」

ガーン――である。私は、金米糖や線香花火にむしろジャズを見ていた。どちらの物理現象もニュートン物理学の決定論に支配されているが、予測がなかなかつかない。次に何が来るか、期待通りになることもあるが、はずされることもある。これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。楽譜があっても、それに縛られない。アドリブに満ちている。奏者のソロ演奏が次々につながれていく様子は、著者が惹かれる物理世界の時間発展に似ている。

「リズムもない」花火を、リズムが真髄のジャズにたとえたのも見当外れだ。ただ、そのことをもって著者を批判したら不公平だろう。著者は明治期に欧州文化を吸収した人なのだから、クラシック音楽への思い入れはさもありなんと納得する。ジャズを知るには早く生まれ過ぎたのだ。一方、私はジャズがモダンジャズにまで進化してから、その虜になった。だから、私のジャズ好きをもって著者のジャズ嫌いを論ずるつもりはない。

それにしても、線香花火に「起承転結」をみるとは――。寅彦は物事が予想外に展開することに心ときめかせながらも、最後はやっぱり、ちゃんとしたかったのか。もしかしたら、内面に矛盾を抱えていたのかもしれない。次回にもう一度、この本をとりあげる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月31日公開、同年8月7日最終更新、通算533回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。