植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
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植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
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AIで変わる俳句の未来?

今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊

@付き

対談本は、読書ブログの相手としては難物だ。起承転結が望めない。Aさんの話にBさんが乗ってきても、Aさんが言いたかったこととBさんが聞きたかったことにズレがあったりする。読み手の見通しは裏切られるばかりだ。だが、そこにおもしろさがある。

AさんとBさんの専門領域が異なるとき、しかも二人の領域が一部で重なりあうとき、その部分集合でおもしろさは全開になる。『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)は、そんな対談本の典型だ。

著者川村さんは人工知能(AI)の研究者、大塚凱さんは新進気鋭の俳人。二人は、AI俳句と人工知能「AI一茶くん」の縁でつながっている。当欄は先週、本書を読んでAI俳句の正体を探ったが、今週はもう少し幅広い視点から読みどころをすくいとろうと思う。

必読なのは、二人が俳句を情報工学的に論じあうくだりだ。ここでのキーワードは、「エンコード」(符号化)と「デコード」(復元)。情報技術(IT)では、発信元が音源や画像を「符号化」して送ることになるが、それが送信先では「復元」され、受け手は原本とほぼ同じものを手にできる。俳句では作者が作句というエンコードを担うが、デコードは「他者に委ねる」ので「予測がつかない」(川村)。そこに醍醐味があるらしい。

このことに関連して、ドイツの理論生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提案した「環世界」も話題になる。世界は生物種ごとに別のものとして存在するとの視点に立って、ダニにはダニの、ヤドカリにはヤドカリの「環世界」があるとみる考え方だ。

ヒトの個々人にもそれぞれ「主観的な世界」がある。ところが俳句では、作者と読者が句を「架け橋」にして「お互いの『世界』を行き来できる」(川村)。これが、ダニやヤドカリの「環世界」と違うところだ。川村さんによれば、俳句では「ことばの定義」や「背景となっている知識」などが「共有」されることで「混じり合わないはずの主観的な世界が混じり合う」という。先週話題にした季語や固有名詞は、この局面で一役買うのだろう。

ここで大塚さんは、俳人ならではの情報観を披瀝する。俳人にとって「エンコードされる前の元の情報と、デコード後に得られる情報がどれだけ一致しているか」は一大事ではない。デコード処理がアナログ的なので、作者が句に入れ込もうとする情報は「デコードされるたびに、つまり、読まれるたびに、劣化、というより、変化する」――。そこに見てとれるのは、不正確な復元を「劣化」と見ず、前向きに「変化」ととらえる姿勢である。

これを受けて、川村さんは話を再び「環世界」に引き戻す。作者が世界をどうエンコードするか、読者が他者の句をどうデコードするか、という工程に目をとめれば、俳句には「それぞれの環世界を垣間見る」という醍醐味があることを指摘している。

対談の妙味ということで言えば、話が突然、「トロッコ問題」に飛ぶところも私の印象に残った。暴走車両が走る線路で分岐点の先の片方に5人、もう一方に1人がいたとき、分岐点のポイントをどう操作するか、という倫理の思考実験だ。この問いでは「『多くの人を助けるためなら、一人を犠牲にしてもよいのか』という正解のない選択肢」(川村)が提示される。AIによる自動走行車の開発などでは切実な問題になっている。

これに対するAI研究者川村さんの見解は明快だ。「正解のない問いには、AIも答えることができません」。人間が答えられないからAIに任せよう、というのは虫がよすぎる、というわけだ。AIにできるのは、そんな「究極の選択」を伴う「極限状態」を避けることであり、合理的な思考で「あきらかにまちがい」とわかることを排して「選択肢を絞っていくこと」――AIは人間の「補佐」役こそがふさわしいという見方を示す。

川村さんは、このAI観を俳句に結びつける。AIに作句させて自力で最良句を選ばせるという目標は「研究者の野望」として否定しないが、現実には「俳句をつくった人の手助けをして、よい句に近づけていく」くらいで満足すべきではないか、というのだ。

これに応えて、俳人大塚さんは「添削」と「推敲」の違いをもちだす。俳句の添削は語順や言葉の効率性などの改良にとどまるが、推敲ではもっと高い次元から句を練り直す。添削の一部はAIに任せられるが、「『推敲』は人間と人間の関係からでしかなし得ない」。大塚さんが「人間と人間の関係」の例に挙げるのは師弟の交流だ。師の句評や作品群の背後にある俳句への向きあい方、即ち「非言語的なプリンシプル」も推敲の力になるという。

はっとさせられるのは、川村さんが推敲を「正解・不正解のどちらとも決められない領域」に位置づけていることだ。そうか。俳句を詠むというのは、トロッコ問題を議論するのと同様、正解の見いだせない問いと対峙する「高次」の知的作業なのか。

本書には、「AI俳句は俳句を終わらせる可能性がある」(大塚)という衝撃的な予言もある。AIは「膨大な句を吐き出す」から、すべての句を人間より先に生成してしまうかもしれないという。川村さんも、米国の弁護士兼プログラマー兼音楽家がアルゴリズムを駆使して680億曲以上をつくったという話を引きあいに出して予言を支持した。ちなみに、この大量作曲は「みんなが自由に使っていい」公有のメロディをふやすためだったらしい。

俳句は五七五の短詩型文学なので、ただでさえ「有限」感がある。AIが参入すれば、なおさらだ。そこで、対談の向かう先は俳句の未来像になる。川村さんは、「どんなコンテクスト、どんな背景をもって、その句をそこでは詠むのか」に重心が移るとみる。コンテクスト(文脈)への依存である。大塚さんも、句に付随する共有知識の部分が膨らんで「コンテクストへの愛好が表面化する時代が来る、すでに来つつある」と同調する。

二人の合意点を私なりに読み解くと、こうなる。俳句の芸術性を句そのものの新しさに見いだす時代はまもなく終わる。これからの俳句は、作者と読者の共有空間に置いて、どんな感興が呼びおこされるかを楽しむものになる――。大塚さんは、それを平安時代の宮廷歌人が即興で和歌を詠む慣習になぞらえる。川村さんは、現代の「オタク同士の会話」にたとえる。句は句を詠む場とともにあるわけだ。当欄はそれを、@付きの句と呼ぶことにしよう。

これを読んで、私は二つのことを予感する。悪いほうを先に言えば、俳句がネットの炎上現象に似て一方向を向いてしまわないか、という危惧だ。だが、良いこともある。

もともと人間は、人類すべてを相手に交信していなかった。近年、SNSの登場で個々人が大集団と心を通わせたような気分になりがちだが、それは幻想に過ぎない。そんなとき、俳句は小集団の共感を大事にするという。それはそれで一つの見識ではないか。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月26日公開、通算641回
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AIは俳句上手の言葉知らず

今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊

スイカ、甘い?

古ポスター日焼けの美波里日にヤケて(寛太無)
先日の句会はオンライン形式で、お題――俳句では兼題という――が夏の季語「日焼」だった。上記は、このときの拙句だ。うれしいことに7人の方が選んでくださった。

自句自解――自分の句を自分で解説すること――は無闇にすべきではないが、今回は許していただこう。私の脳内では、この句に行き着くまでにいくつかの工程があった。思いつきがある。連想がある。思惑もある。それらを一つずつたどってみよう。

今、日焼けは負のイメージが強い。「UV(紫外線)カット」という言葉があるように悪者扱いされたりする。だが、昔は違った。真夏の街には、小麦色の肌があふれていた。夏も終わりに近づけば、どれだけ背中を焼いたかを競いあう若者たちもいた。

昔の価値観、即ち日焼けの正のイメージということで真っ先に思い浮かんだのは、あの資生堂ポスターだ。女優の前田美波里さんが水着姿で砂浜に寝そべり、上半身をもたげて顔をこちらに向けている。肌は美しい褐色。1966年に公開されたものだった。

そこでとりあえず心に決めたのは、中の句、即ち五七五の七に「日焼けの美波里」を置こうということだった。「日焼け」と「美波里」をつなげるだけで、あのポスターと1960年代の世相を読者は想起するだろう。半世紀余も前のことなので、世間一般には通じないかもしれない。だが、句会メンバーには同世代人が多いので、幾人かがビビッと反応してくれるに違いない。私の脳内には、そんな思惑が駆けめぐったのである。

これで、ポスターの記憶と1960年代の空気は読者(の一部)と分かちあえるだろう。次に画策したのは、日焼けをめぐる今昔の価値観を対照させること。そこで、ポスターの経年変化がひらめいた。古書のヤケに見られる紙の加齢現象はポスターにもある。美波里さんは正の日焼けをしているが、彼女が刷り込まれた紙は負の日ヤケをしている。紙のヤケそのものは劣化現象であっても、ヤケをもたらす時の経過はたまらなく愛おしい――。

そういえば、あのポスターは商店の壁などに長いこと貼られていた。現実にはありえないだろうが、今もはがされず壁に残っていたら……そんな空想をめぐらせて、下の句「日にヤケて」が決まった。以上が、日焼けの拙句を組み立てた脳内工程のあらましだ。

で、今週の1冊は『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)。川村さんは1973年生まれ、人工知能(AI)の研究者で「AI一茶くん」開発チームを率いる北海道大学教授。大塚さんは1995年生まれ、2015年に石田波郷新人賞を受けた新進の俳人で俳句同人誌「ねじまわし」を発行している。本書は、AI一茶くんをよく知る二人が俳句とは何かという難問と向きあい、語りあっている。

ではなぜ、私が本書を手にとったのか? ここに前述の句会がかかわってくる。先達メンバーの脚本家、津川泉(俳号・水天)さんが「日焼けの美波里」を選句してくださったうえで、固有名詞を取り込んだ作句をどうみるかを講評欄の話題にしたのだ。

そこで引用されたのが本書だ。AIの俳句には固有名詞が多いこと、固有名詞の句は人間もつくりやすいことを踏まえて、著者の一人、大塚さんが「安易さと戦うのが書き手の責務と捉えれば、固有名詞の句には慎重であるべき」と戒めているという。

これは、ぜひとも読まねばなるまい。AIはどんな手順で俳句をつくるのか、それは私の脳内の工程とどこが同じで、どこが異なるのか。これらの疑問に対する答えがおぼろげにでも見えてくれば、AIがなぜ固有名詞句を得意とするかがわかるかもしれない――。

ということで本書に踏み入ると、驚くべき解説に出あった。AIは語意を知らずに作句するというのだ。たとえば、「林檎」の句をどう詠むか。AIは「林檎が赤いことも、食べられることも知りません」(川村)。過去の作品群を「教師データ」にして「『林檎』の次にどんなことばが来る可能性が高いのか」(同)を学習する。具体的には助詞「の」や動詞「咲く」などがありうるが、それぞれの頻度を調べて後続の語を決めていくらしい。

夢に見るただの西瓜と違ひなく(AI一茶くん)
本書に出てくる果物のAI俳句だ。「夢に見ている西瓜もまた西瓜である」(大塚)と読めるが、一茶くんはそんな至言を吐きながらスイカの甘さも量感も知らないらしい。当欄で先日学んだソシュール言語学でいえば、「シニフィエ(意味されるもの)が欠落した状態」(大塚)ということになる(当欄2022年7月8日付「ソシュールで構造主義再び」)。

AIには「俳句を詠みたいという動機がない」(川村)というのも目から鱗だ。AIは「人間の俳句を教師データとして使って」「賢いサイコロのようにことばをつないで」(同)、語列を俳句らしく整えているだけ。自句の「解釈」もできない。一語一語に意味が伴っていないのだから、文学的衝動とは無縁と言えよう。川村さんは、AI作句には「詠む」という動詞がなじまないので、「AI『で』」「生成する=つくる」と言うようにしているという。

となれば、AIが選句を苦手とするのは当然だ。川村さんによれば、「AI対人間」の俳句コンテストがあってもAIは出品する句を自分で選べない。AIに今できるのは「日本語として意味の通じない句」をつくったとき、それを作品から除外することくらいという。

ここで、AIがなぜ固有名詞の句を得意とするか、その答えを本書から探しておこう。川村さんの説明はこうだ。固有名詞は「意味するところが狭い」、だから「意味が通りやすい」――。AIは「教師データ」をもとに言葉をもっともらしく並べ、俳句を生成していく。このとき、日本語になっていない語列ははじかれるが、固有名詞があると排除されにくいということなのか。そういうものかと思う半面、反論してみたい気持ちもある。

西行の爪の長さや花野ゆく(AI一茶くん)
シャガールの恋の始まる夏帽子(同)
これらも、本書に例示されたAI俳句だ。冒頭の語がただの「僧」や「画家」ではなく「西行」や「シャガール」だからこそ、読み手の心に放浪や幻想のイメージが膨らむのではないか。固有名詞には「意味」の幅を広げる一面もあるように思えるのだが……。

固有名詞の効果を考えるうえで参考になるのは、著者二人が季語について語りあうくだりだ。季語は「共有知識」ととらえられている。川村さんによれば、ここで「共有知識」というとき、それは「相手が自分と同じことを知っているだけでなく、『相手が知っている』ということを知っている」状態を想定している。俳句の季語では、「本来の語意」のみならず「付随する周辺的な情報や心情」までが「共有知識」になるのだという。

具体例は、秋の季語「鰯雲」だ。大塚さんは、この言葉には「秋の爽やかさ」や「物思いを誘うような風情」といった気配がつきまとい、さらに「鰯の大群の比喩」にもなっているという。「季語の一つ一つに蓄積があり、連想がある」と強調する。

私見を述べれば、固有名詞にも同様のことが言えるのではないか。拙句の「美波里」という人名やそこから連想される1960年代の風景も「共有知識」だった、と言ってよい。

それにしても不思議なのは、AIが固有名詞入りの句を多くつくることだ。「周辺的な情報や心情」どころか「本来の語意」すら理解していないらしいのに、なぜそれを「共有知識」にできるのか。なにも知らず、「教師データ」に素直に従っているだけなのか。

本書には、俳句とAIについて考えさせられる論題がもっとある。俳句を情報工学の目で眺めると、初めて見えてくるものがあるのだ。次回も引きつづきこの本を。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月19日公開、同日最終更新、通算640回
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「太陽」の好奇心が輝いた日

今週の書物/
「太陽の族長――谷川健一」
船曳由美著
「地名と風土」第15号(日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊)所収

太陽の贈りもの

ご近所からのいただきものが書物というのは、今どきめったにないことだ。この春、近くにお住まいのベテラン編集者で、著述家でもある船曳由美さん(*1、*2)が「地名と風土」という雑誌を一冊分けてくださった。出版人であり、日本地名研究所の設立にかかわり、なによりも在野の民俗学者として知られる谷川健一(1921~2013)の生誕100年を記念する号だという。特集に谷川健一にゆかりの26人が文章を寄せている。その一人が船曳さんだ。

谷川は大学卒業後、平凡社に入った。同社が1963年夏、日本初のグラフィックマガジンとして月刊「太陽」を創刊すると初代編集長に就く。その編集部で谷川の薫陶を受けたのが1962年入社の船曳さんだ。で今週は、「太陽の族長――谷川健一」(船曳由美著、「地名と風土」第15号〈日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊〉に寄稿)を読むことにする。そこに満載された逸話からは、往時の出版界の活気が伝わってくる。

中身に踏み込む前に、私の世代――1963年夏には小学6年生だった――の目には「太陽」がどう映っていたか、という話をしておこう。小6男子の手が伸びる雑誌は、なんといっても「少年サンデー」や「少年マガジン」だった。「平凡パンチ」が翌年創刊されたが、それは買って読むものではなく、どこかでこっそり開くものだった。だから「太陽」は、医院の待合室や銀行のロビーに置かれた行儀のよい雑誌という印象しか残っていない。

谷川民俗学が雑誌を通じて読者と分かち合おうとしたものの価値が、私にはまだわからなかったのだ。10代前半の少年には仕方のないことだ。ただ青春期に入っても、その真価に気づかなかったのは不覚というしかない。考えてみれば、あの1960~1970年代は工業化や都市化によって国内外の文化遺産がないがしろにされた時代にぴったりと重なる。谷川の「太陽」は、カメラとペンの力でその激流に抵抗したのである。

ここでは、船曳さん(以下、著者と呼ぶ)の寄稿の読みどころをみていこう。まずは誌名「太陽」について――。これは、著者が社内公募に応えて出した案が通ったのだという。谷川は、その名に琉球列島の「太陽=てだ」を託した。沖縄には「太陽は毎朝、東方の穴から出て中天をかけり、夜はまたその穴にかえっていく」という古来の信仰がある。著者が「谷川さんは太陽(てだ)の族長ですね」と言うと、谷川は「晴レガマシイな」と答えた。

平凡社は当時、東京・麹町にある旧邸宅の建物を社屋にしていた。かつては満鉄副総裁の公舎だったという。本館には舞踏会の会場にもなる大部屋があったが、その上層部に3階をつくるなど改築や増築を重ね、出版社の体裁を整えていった。「太陽」編集室は3階の大広間。「どの机にも資料が乱雑に山と積まれている。ピースの青缶にタバコの箱。机の引き出しにはウイスキーの小ビン」とある。IT端末が並ぶ昨今の出版職場とは大違いだ。

編集部員の行動様式にも隔世の感がある。先輩部員たちは午後3時になると「サア、汗を流してくるか」と近くの銭湯に出かけた。浴衣姿で戻ってくると、ビールを一杯ひっかけ、頭に鉢巻を巻いて仕事モードに入る。体内時計が夜行性に設定されていたのだろう。

新人の著者に割り当てられた仕事は、「女ひとりの旅」という連載の編集作業だった。この企画は「日本列島の、いま現在を生きている人びとの実像」を「女性の視点で見、かつ記録する」ことをめざした。その第1回の筆者に白羽の矢が立ったのが、当時、新進作家として多忙を極めていた有吉佐和子だ。著者は、谷川と有吉邸を訪ねた。二人が作家の旅心をくすぐる様子には出版文化ののどかさがあり、新聞人としてはうらやましい限りだ。

このとき編集部が旅の行き先として提案したのが、大分県臼杵の磨崖仏(まがいぶつ)だった。「ダメ、ダメ!」と有吉。クリスチャンであっても仏を見にいくのはかまわない。「でもネ、私はホンモノしか認めない」――まがいはまがいでも「紛い仏」と勘違いしたのだ。著者は「磨崖仏」の3文字を手持ちのノートに大書して誤解を解いた。石仏の数は60体を超え、高さ3mほどのものもある、と聞いて有吉は大いに乗り気になった、という。

編集者泣かせは、想定外の事態が生じることだ。この企画でも、それが起こった。ある日、四ツ谷駅近くで聖イグナチオ教会の塔を仰ぐと、青空に白い雲が浮かんでいた。その形は、天使の翼のようだ。著者は、予感にとりつかれたように電話ボックスに飛び込み、有吉に電話した。「先生、しつこいようですが」と切りだし、臼杵行きの念押しをする。著者が「大天使ガブリエルが来てもですよ」とたたみかけると、「“受胎告知”? バカね」。

ところが、本当に大天使ガブリエルが舞い降りたのだ。「貴女って予言者?」。作家は身ごもった。創刊を数カ月後に控え、有吉佐和子臼杵の旅は大事をとって中止に。その子は無事に生まれた。作家、エッセイストとして知られる有𠮷玉青である。

著者はドタキャンに遭遇してもめげない。それならばこの人、と思いついたのが詩人の岸田衿子だ。旅先に選んだのは、「椰子の実」にまつわる柳田国男の逸話と島崎藤村の詩で有名な愛知県伊良湖岬だった。ここでも岸田邸を訪れる場面が詳述されている。

東京・谷中の岸田邸の描写。玄関の引き戸を開けると、「いらっしゃい」の声とともに「美しい詩人が、天蓋から下がる薄紅の花のれんの間から白い顔をのぞかせた」。貝殻草のドライフラワーが数えきれないほど垂れ下がっていたのだ。著者は貝殻草のチクチクを首筋に感じながら、伊良湖岬行きの話をもちかける。「渥美半島は、花々に埋もれています」と言い添えて。「花は嬉しいわ、いいわ」――この世ばなれした執筆依頼である。

このときもハプニングがある。家の奥から男が出てきたのだ。著名詩人の田村隆一ではないか。それはちょうど、詩人二人が共同生活を始めたころだった。伊良湖岬の話をすると「面白い」と言う。お願いしている相手は岸田さんだと釘を刺すと「分かっているよ、だからボクが付いていく」。結局は「新米」には「衿ちゃん」を「任せられない」という田村の意向に沿って、著者は伊良湖岬行きから外された。代わりに田村自身が同行したという。

これらの回顧に触れると、1960年代の出版文化は人と人との血の通った関係のうえに成り立っていたのだな、とつくづく思う。出版人が、書き手を選ぶ。選ばれたほうはそれをありがたがるでもなく我を通す。その構図は今も変わらないだろう。ただ今日では、ほとんどのことが電子メールのやりとりで決められるのではないか。本づくり、雑誌づくりから偶然の妙が消え、遊びもない、駆け引きもない、ただの事務手続きになってしまった。

この寄稿で著者は、初期「太陽」の誌面を振り返っている。「特集」を列挙すれば、創刊7月号が「エスキモー」、8月号が「タヒチ・マルケサス」、9月号が「沖縄」、10月号が「海の高砂族」……。表紙の写真をたどると、7月号が「西ニューギニア原住民の木偶の祖霊像」、8月号が「埴輪女子頭部」、9月号が「ナイジェリアの木彫騎馬戦士像」、10月号が「ペルーのチャンカイの人形壺」、11月号は「縄文時代後期の土偶」……。

「女ひとり旅」の行き先だけを挙げると、7月号「伊良湖岬」、8月号「萩」、9月号「大神島・池間島」、10月号「阿蘇山」、11月号「篠山」、12月号「男鹿半島」……。

一覧してわかるのは、「太陽」が向かうところ、国境もなければ、文明の境界線もないということだ。極寒の地もある、常夏の島もある、アフリカもある、南米もある、日本列島もある。日本列島については虫の目で細部に分け入っている感がある。

分け隔てがなく、飽くこともない知的好奇心。これこそが雑誌「太陽」の編集姿勢を、そして谷川民俗学を貫いた基本精神なのだろう。その様相は、専門領域を細かく分ける象牙の塔とは大きく異なる。まさに在野の知的活動を具現するものが「太陽」だった。
*1 「本読み by chance」2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、「地方」の豊饒
*2 「本読み by chance」2020年2月28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月27日公開、同月30日最終更新、通算628回
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